蟷螂
俺は蟷螂だ。名を、カギタと言う。覚えてもいいし、覚えなくてもいい。どうせ、俺は蟷螂だ。
俺たち蟷螂は、全員三文字の名前を持つ。二文字以下では他の者と稀に同じになることがあるし、四文字以上では、俺たちの、三角形の頭では、覚えることができない。三文字が、丁度良いのだ。
聞くところによると、天下の人間様は、名前が三文字などと言う者は、そうそういないそうだ。いや、かつての人間にはいたようだ。農村の人間には、タロウとか、キミエとか、いたそうだ。しかしその頃にも、それこそ町の中に住まうお方には、柳生どこどこの守の何某、のように長くて立派なお名前が与えられていたそうだ。これは俺の母から聞いた。母は、母の母から聞いたそうだ。
今は、どこに行っても、それなりに立派な名前をお持ちの方が至る所にいる。少なくとも苗字と名を合わせて三文字と言う者はいまい。誰もかれも、立派なお名前を自分の首からぶら下げ、どこへ行っても、誰に会っても、自分の名前を名乗る。これが自分だと言うように、名乗る。
最近では、姓名判断と言って、生まれた赤ん坊に名前をつけるときに、その子に将来どのようになってほしいかを、親たちが願いを込めて名前をつけるそうだ。いやはや、恐れ入る。何とまあ子想いなことだろうか。我が子の健康を、適職を、結婚を、家庭を、運命を、名前一つで決めてやろうと言うのだ。実に、子想いなことだ。
俺たち蟷螂の場合、そうはいかない。なにせ一度に、数十もの赤ん坊が生まれるのだ。一人一人に一生懸命願いを込めて名前をつけていたら、それこそ一生が終わってしまう。だから俺たちの場合は、本人に物心がついたころに自分で名前を決めさせる。そうすれば親が苦労することもなく、子どもは自分の納得のいく名前を付けることができる。
と言っても、どうせ蟷螂なので、たまに自分の名前を忘れることがある。その時はまた改めて、自分に名前をつけるのだ。かく言う俺も、初めて名前をつけて半年のころか、自分の名前を忘れたので、改めて名前をつけた。それが、カギタだ。まあ、また忘れるかもしれないが、その時はその時だ。俺たち蟷螂は、所詮蟷螂なので、人間様のように、自分の名前に執着したりしない。
さて、これまでのことから、このカギタとか言う蟷螂は、蟷螂のくせに嫌に物知りだ、と思う方が、出てくるかもしれない。
たしかに俺は他の蟷螂よりも少しばかり知識はある。特に人間様のことについては、蟷螂の中でも随一だと、言われても仕方のないほどである。それは、否定しない。正しいことを否定するのは、俺の流儀に反する。
俺がどうして人間様に詳しいのかと言うと、何のことはない、たまに町の中に出かけていって、人間様を、草むらの中からつぶさに観察しているだけのことである。これがまた、楽しいのだ。誰もかれも、小さな俺のことになど目を向けず、前か手元を見て、足を動かし続けているのだ。とても、忙しそうである。俺たちとは比べ物にならないほど、忙しそうだ。目が回りそうになる。この三角形の二つの頂点にある目が、回りそうだ。
人間様の生活は、俺たちの生活とは、真反対を向いている。俺たちは、起きたくなったら起きて、腹が減ったら食べて、眠くなったら、寝る。時間に追われるような生活を送れるほどに、俺たちは進歩していないのだ。人間様ときたら、自分たちで時間を管理して、時間に追われる生活を、幼少のころから送っているのだ。俺たちには、無理だ。大変、立派なものである。
さあ、人間様の話をするのは、これくらいにしておこうか。どうも俺が言うと、人間様がちっぽけなものに見えてきてしまう。そうではないのだ。人間様は偉大なのだ。俺のような三角形の頭では理解の及ばないほどに、立派で、偉大だ。
蟷螂の話をしよう。俺と同じ、蟷螂の話だ。所詮は俺と同じ蟷螂だ。俺が語ろうとも、誰からも文句は言われんよ。文句を言う者がいたら、まあ、頭を下げよう。争い事は好きではない。この三角の頭を、丁寧に下げてみせよう。然る後、お帰り頂こう。
俺の知り合いに一人、いや、一匹か、まあ、そんなことを気にする者はおるまい。とにかく、一人、変わった蟷螂がいる。名を、タナカと言う。しかし彼も、最初の名前のままではない。彼は、俺よりも、ひどい。俺が聞いた限りだと彼は、五回ほど、名が変わっている。確か一つ前は、スギタ、だったかと思う。名前に拘りの無いという点において、彼の右に出る蟷螂はおるまい。常識を備えた者が多いと虫の間で評判の蟷螂の中で、そいつは、異端であった。彼はいつも、周りから、浮いていた。
そんな彼に、俺はある日声をかけた。いつも一人でいる彼に、俺は興味を持ったのだ。どのような思考をしているのか。どうして、周りに合わせないのだろうか。気になりだすと、収まりがつかなくなるのが、俺である。
「よう」
俺は鎌を軽く上げ、彼に声をかけた。
「おう」
彼もまた、鎌を軽く上げて、応えた。
「今日は暑いな」
「おう、あついぜ」
「もう夏だな」
「おう、なつだぜ」
彼の声は、低く、そして深みがあった。渋い声である。まさに、男らしい声であった。
「俺は、カギタと言う。君の名は?」
「おれはかまきり」
彼はまるでそれが、自分の名であるかのように答えた。
「君が蟷螂だと言うのは、見ればわかるさ。そうじゃない。君の名前だ」
「おれはかまきり」
彼はまた、そう言った。そしてそれきり、黙ってしまった。それから俺は何度も聞いたが、やはり彼は答えてくれなかった。俺は蟷螂なので、普段そこまで名前には拘らないのだが、彼の態度で、俺はきっと自棄になっていたのだろう。
結局彼は、俺が数十回聞いても、答えてくれなかった。
「……それじゃあ、お前の名は、俺がつける。呼び名が無いと面倒だ。お前は、タナカだ。タナカにしておけ」
「きまってるぜ」
「そうか。気に入ってくれたか」
彼は両の鎌を機嫌良さそうに振っていた。
彼の鎌は、形が良い。いつも何か鍛え上げるようなことをしているのだろうか、太いが引き締まっていて、良い鎌だ。それに、鎌だけではない。体格も立派である。俺と並ぶと、俺がまるで小枝のように見えてしまう。顔立ちも良い。きれいな三角形だ。彼は、男前だった。
「お前はどうしていつも一人なのだ? お前は体格も、顔も良い。たとえ男との付き合いが悪いのだとしても、女が放ってはおかないだろう」
「あまり、ちかよるな」
「何?」
「おれの、こころも、かまも、どきどきするほど、ひかってるぜ」
タナカはそう言って、自分の鎌を振り上げた。彼の話がバッタのように跳躍して、俺には彼の言っていることが理解できなかった。近寄るなと言うことは、彼はあまり、他人と関わり合いを持つことが好きではないのだろうか。それならば、一人でいることも納得は行く。だが、そこから、どうして彼の心と鎌の話が出てくるのだろうか。
しかし、太陽に照らされるその鎌は、たしかに彼の言う通り、光っていた。彼は自分の鎌を、うっとりと見つめている。どうやら自己陶酔に陥っているようだ。そこまで自分の鎌を好きでいられることが、俺は羨ましい。俺は自分の鎌が、あまり好きではない。形は不格好で、細い。
「つまり、お前は一人でいることが好きなのか?」
「おれは、げんきだぜ」
俺はもう、彼との会話を切り上げたいと思い始めていた。彼との会話は疲れる。彼がつぶやく一言一言の裏を、こちらが読まなくてはいけないのだ。とても、疲れる。きっと以前に、彼に話しかけた者は、俺の他にもいたのだろう。しかし、その者たちは、俺のように嫌になったのだろう。彼との会話に疲れて。嫌になったのだ。
そう思うと、俺の心の中に、妙な意地が湧いてきた。ここで彼との会話を切り上げたら、俺は彼に話しかけた偉大なる先人たちと同じ者になってしまう。それは俺のちっぽけな矜持が許さなかった。
改めて考えてみようと、俺は思う。彼は、元気だと言った。一人でいることが好きであるかどうかという問いに対して、彼は、元気だと、そう言ったのだ。それはいったい、どういう意図で言ったのだろうか。
「……お前は、ひょっとして、寂しいのではないのか?」
「おう」
彼は、ぽつりと、声をこぼした。
彼は、一人が好きかどうかという問いに対し、元気だと言った。それは、強がりだったのだ。やせ我慢であったのだ。一人でも元気なのではない。一人だけれど、元気なのだ。俺は彼の元気だと言うその一言から、どうしてか、それを読み取ることができた。本当に、どうしてだろうか。
「ではどうしてお前は、近寄るな、などと言うのだ。それでは、いくら寂しがっていたとしても、誰も、寄ってこないではないか。お前は、何だ。素直になれないのか」
俺の問いに彼は何も言わず、ただただ、その大きな鎌で、己の整った三角形の顔を、隠した。
「何だ。お前は、もしかして、恥ずかしがりなのか?」
彼は顔を隠したまま、首を縦に振った。
「やはり、そうだったか」
彼の言動は、一つ一つが、大仰であると言おうか、鼻につくと言おうか、偉そうであると言おうか、とにかく、そのようであった。きっとそれは、彼の繊細な内面の裏返しであったのだろう。
「一人が嫌なのなら、少しがんばってみろ。お前なら、きっと大丈夫だ。お前の顔も、鎌も、素敵だ。お前に話しかけられて、嫌がる者は、いると思うが、そこをうんと堪えて付き合いを持ってくれる者も、いると思うぞ」
俺がそう言うと、彼は鎌を高く掲げ、三角形の二つの頂点に輝く目を、青く広がる大空に向けた。
「おれは、がんばるぜ」
「そうか。それはいいことだ」
彼は俺に向かって、自分の右の鎌を差し出してきた。俺も自分の右の鎌を、彼の方に出し、鎌同士を当てた。これは、蟷螂の、男同士の、最上級の挨拶である。最大の敬意を、お互いに向けあうと言う、言わば、約束のようなものである。
「じゃあ俺はこれで、失礼するよ。また、会おう」
「おう」
俺は彼に別れを告げ、その場を後にした。
彼と会ったのは、それが最初で、最後であった。
彼と初めて会ってから一月が経った頃である。彼が、結婚したということを、風の噂で聞いた。俺はそれを聞いて、嬉しく思った。彼はきっとあれから、言った通りに、がんばったのだろう。がんばって周囲に話しかけ、友人を作り、恋人を作り、そして、結婚にまで持ち込んだのだろう。
俺は、しかし、嬉しく思うのと同時に、願わくは、子どもを作るのは、まだ待ってほしいと思った。せめて俺に、祝福の言葉でもかけさせてほしい。それからならば、子どもでも何でも作ればいい。でも、せめて、一度会いたい。
俺の願いは、叶えられることはなかった。彼は、子どもを作り、死んだ。
俺たち雄の蟷螂は、子どもを作る時、雌の蟷螂に、食われるのだ。彼女たちは出産の際に失った体力の回復のために、雌は子どもたちを産みながら、夫を食うのである。
彼もまた、彼の奥さんに食われて死んだのだ。彼は子どもを作って、奥さんに食われて、死んだのだ。俺に会うことなく、死んだのだ。
俺たち蟷螂の雄は、自分の子どもの顔を見ることはできない。なぜなら、妻に食われるからである。
彼は果たして、幸せだったのだろうか。俺の口車に乗せられて人付き合いを始め、良い人を見つけて結婚し、そして、我が子の顔を見ることなく、妻に食われて死んだ。彼は、幸せだったのだろうか。答えはわからない。本人はもう、この世にはいないのだから。
俺は彼の結末を聞くまで、結婚は馬鹿馬鹿しいことだと思っていた。俺はもう、結婚適齢期と言ってもいい歳である。同い年の知り合いは、皆、結婚し、そして、死んだ。
俺は一生を独身で生きようと思っていた。人間様の世界には、結婚は人生の墓場である、という言葉があるらしい。蓋し、名言である。さすが人間様だ。言うことが違う。蟷螂の雄にとって結婚とは、文字通り、墓場なのである。
しかし、彼の結末を聞いて、俺の中の価値観が、少しばかり、揺らいだ。
幸せとは、何であろうか。
さて、彼の死から一年がたち、俺もすっかり元気になり、定期的に人間様の社会の見物に行き始めたころである。俺は、懐かしい顔に会った。
「あら、カギタ、ここにいたの。久しぶりね。どう? 調子は」
そう俺に話しかけてきたのは、俺の小さい頃からの知り合いである、ヨシノだった。彼女の母と俺の母の仲が良く、母同士が話している間、俺たちは一緒くたにまとめられ、じっとしていることを命じられていたのだ。
「どうせまた、人間の世界を見に行って、周りの蟷螂や虫を見下しているのでしょうよ。あなたは昔からそう。偉そうで、傲慢だわ」
「よせ。俺は何も、周りを見下すために、人間様の生活を覗いているのではない。個人的な好奇心である」
彼女は他の雌の蟷螂の例に漏れず、体が大きい。両の鎌を合わせたら、俺の体と同じ大きさになるのではないかと言うほどである。彼女は、他の雌よりも、一際大きな体をしていた。そのため彼女と話す時俺は、どうしても彼女を下から見上げる形になってしまう。これが困る。首が痛くなるのだ。俺は彼女と話すことを、苦手としていた。
「人間様ですって。嫌だわ。わざわざ様なんて。どうせあなたは、人間のことさえも、見下しているのだわ」
「滅多なことを言うものじゃない。俺が人間様を見下すなんて、天が落ちてもないよ。それよりも、君の方はどうなのだ」
「どうって?」
「そろそろ結婚しないと、あのお母様がうるさいだろう」
「……別に、したくないわけじゃないの。でもね、良い人がいないのよ」
「君の条件が厳しいのだ」
彼女は結婚相手の条件として、自分より大きい蟷螂か、もしくは、自分よりも強い蟷螂であることを望んでいる。そんな者がこの世にいるわけがない。
彼女が大きいのは見ての通りなのだが、彼女は強いのだ。腕力も、精神力も、そんじゃそこらの蟷螂では敵わない。彼女は、とても強い。
以前、彼女の武勇伝を知り合いの蟷螂から聞いたことがある。彼女は、オオスズメバチに襲われていたミツバチを、助けたことがあるそうだ。彼女はオオスズメバチを、その大きな鎌で押さえつけ、強靭なあごで、食らったそうである。彼女の持つ優しさだからこその行動ではあるが、さしもの俺も、その話を聞いたときは、雨に打たれた子猫のようにぷるぷると震えあがった。怖い。とても、怖い。
彼女の捕食遍歴は今や、蟷螂の間では、伝説とさえなりつつある。
オオスズメバチ、オニヤンマ、オサムシと言った、俺たちが食われてもおかしくない者たち。さらに、トカゲにクモにネズミ、果てはヘビやカエルまで食ったとされる。恐ろしいことである。そう言えば、スズメを食ったという話も聞いたことがある。あまりに、無茶苦茶だ。
俺はそう言った彼女の話を聞くたびに、彼女の大きなあごを思い出してしまう。彼女と、もしも結婚して子どもを作る時、俺は彼女の強靭なあごに体を食い千切られるのだろう。とても、痛そうだ。俺は痛いのは、嫌だ。
「……カギタは? あなたはどうしてまだ独り身なの?」
「俺は、まだ結婚はしたくないのだ。今結婚しても、俺はきっと、納得が行かないままに死んでしまう。そいつはいけない。相手にも失礼だ」
「また小難しいことをその小さな頭で考えているのね。そこがあなたの良いところでもあり、悪いところでもあるわね。本当に、小さい時からあなたは、そうだったわ。偉そうで、傲慢で……でも、妙なところで、誠実であろうとする」
「内面を探るのはよせ。当たってしまう」
「小さい頃から一緒だったからね、わかるのよ。……あなたのことなら私、なんでもわかるかもしれないわ」
ヨシノはそう言って、ころころと笑った。その笑い声は、どこかの人間様の家で聞いた、風鈴のような、心地の良い音だった。
「……私ね、あなたとなら、結婚してもいいって思うわ。……いいえ、あなたと結婚したい。私はあなたが好きです」
彼女は笑いを収めると突然、そんなことを言いだした。俺は彼女の目に捉えられてしまい、体が石のように固くなり、口先しか動かなくなった。
「おいおい、そんな趣味の悪い冗談はよせ。言ってもいい冗談といけない冗談があるだろう」
「冗談じゃないわ。私、本気よ。実はね、私が今日あなたに会いに来たのは、このことを伝えるためだったの」
「君は自分よりも大きくて、強いものが好みじゃあなかったのか?」
「それはそうだけど、でもね、あなたなら、たとえ私より小さくてもいいの。弱くってもいいの」
「あまりにも突然すぎる。どうして、今なのだ?」
「……この間、私の友達が、カラスに食べられて死んだの。それを聞いて私、思ったの。命は儚い。次の瞬間には、無くなっていてもおかしくないものだって、気づいた。だからこそ、後悔の残る生き方はしたくないの。私にとって今一番の後悔は、大好きなあなたに想いを伝えないこと」
「どうして、俺なのだ?」
そう言った後俺は、あまりに男らしくない発言だと後悔したが、もう遅い。言ってしまった言葉は、戻らないのである。
「どうして、ね。どうしてかしらね。あなたの良いところを挙げていくときりがないのだけれど……やっぱりわからないわ。この想いを具体的な言葉にしてしまうと、なんだかつまらないものになりそう。だからね、私は、なんだかわからないけれど、あなたのことが好きなの。大好きなの」
彼女の真っ直ぐすぎる言葉に、とうとう俺の口先までも、石になってしまった。
「答えを聞かせてほしい。あなたは、あなたは私のことをどう思っているの? あなたは、私のことは嫌い?」
経験したことのないこの状況で、普段明晰な俺の頭は全く、これっぽっちも回らなくなり、普段饒舌な口は、先ほどから石になっている。
「ねえ、聞かせて?」
彼女が顔を近づけてきて、再び俺に問うた。
俺は彼女の顔を、これほどまでの近さで見たことなどなかった。彼女の顔は綺麗な二等辺三角形で、学術的な美しさであった。彼女の肌は、綺麗な薄緑色をしていて、俺は人間様の身につけている宝石を思い出した。確か、エメラルドとか言っただろうか。それである。彼女の大きな瞳は潤んでいて、危うい美しさをはらんでいた。触覚はとても長く、そして陽光に当たって煌めいていた。さらに、なにより、俺は彼女の大きなあごに目を奪われた。そのあごで、いったいどれだけの強者を食らってきたのだろうか。そのあごは、しかし、例えようのないほど美しかった。怖いほどに、魅力的だ。
そう言えば彼女は、いつも俺の傍にいた。俺が初めて人間様の世界に行ったときは、ひどく怒られた。帰ってきた俺の顔を、彼女はその大きな鎌で殴った。何かあったらどうするのかと。彼女は両の目に涙を溜めて俺を怒った。俺が冬に餌を食えずに困っていると、家の前にそっと食べ物が置かれていることがあった。彼女である。俺の母が亡くなった時、彼女は一晩中俺の横にいてくれた。彼女は俺の母と親しかったのだが、彼女は一滴の涙もこぼさず、俺の背を優しく撫でてくれた。
「ねえ、正直なあなたの想いを、聞かせてほしい」
彼女の顔が目前に迫ってきた。彼女の吐息が俺の口を優しく撫で、その温かさが、俺の口をゆっくりと融かしていった。
「俺は」
「うん」
「俺は、君のことが、好きだ。君が俺のことを好きだと言ってくれて、とても嬉しい」
「うん」
「俺は君と、結婚する」
俺は彼女の目を見てはっきりと言い、彼女の口に俺の口を付けた。
蟷螂の男同士の場合、右の鎌を当てるのが、最大の敬意を示す挨拶である。蟷螂の男女の場合は、お互いの口を吸い合うのが、最大の敬意と、最大の愛情を示す行為である。俺たちはしばらく、真上にあった太陽が地平に沈むまで、互いに口を付け合った。その間ずっと、俺たちの間に言葉は無かったが、互いの胸に宿る熱く煮え滾る想いは、伝わった。
そうして俺と彼女は、結婚した。
それから俺の生活は、想像を絶する幸せに包まれた。
新婚生活である。
朝目を覚ますと目の前に彼女がいる。それだけで俺は、胸の奥がはち切れそうな思いになった。
彼女と俺は小さい頃から、同じような環境で育てられたので、生活上の問題は起きなかった。もちろん多少の意見のぶつかり合いはあったが、それも、痴話げんかの一つとして片づけられる程度のものである。俺たちの結婚生活は、恐ろしく順調だった。
俺と彼女は、どこへ行くも一緒だった。
俺は彼女の狩りを間近で見たくて、ついて行った。彼女の狩りは、見事の一言に尽きる。彼女は獲物を捕らえると、その鎌で獲物の頭を、一瞬で切り落とす。それは、獲物に苦痛を与えずに済む方法であった。彼女は、食べる相手にすら、優しさを与える。
彼女も彼女で、俺の、人間様見物についてくるようになった。彼女は、人間様の世界の、ありとあらゆるものに目を輝かせた。そしてそのたび、俺に「あれは何?」と聞いてくるのだ。そうして、まるで子どものように、好奇心をあらわにする彼女の姿が、堪らなく愛おしかった。
彼女との生活は本当に、夢のようであった。
しかし俺は薄々気づいていた。恐らく、彼女も気づいていたことであろう。この生活は、永遠には続けられない。
夢は、覚めるものである。
ある日、俺は彼女と草むらの中を散歩していた。
すると遠くから、高く、元気な声がいくつも聞こえてきた。俺と彼女は、その声のする方に行ってみた。
そこには、雌の蟷螂が一人と、その足元には、数十の蟷螂の子どもたちがいた。声の主は、その子供たちであった。
「こんにちは」
俺は母親であろう女性に挨拶をした。
「こんにちは。ご夫婦でお散歩ですか?」
「まあ、そんなところです」
「みなさん、こんにちは」
彼女が子供たちに挨拶をすると、いくつもの「こんにちは」が返って来た。
「みんな、ちゃんと挨拶ができるのね。偉いわ」
彼女は優しい眼差しで、子どもたちを見ていた。
俺もそろそろ、決断する時が、来たようである。
その夜、俺は彼女を月のよく見える木に誘った。今日は、満月である。お月様もなかなか、粋な計らいをするものである。
「どうしたの? 突然こんなところに呼び出して」
「君は、子どもが欲しいのだろう?」
俺は単刀直入に、彼女に問うた。
「急に、何? どうしてそんなことを言うの? 私子どもは欲しくないわ」
「嘘を吐かないで欲しい。俺は、君の嘘など聞きたくない」
「嘘なんかじゃない。本当よ。私は子どもなんて」
「じゃあどうして、君は今日出会った子どもたちの前で、あんな目をしたのだ?」
「……どんな、目よ」
「母親に憧れる目だよ。君は俺のことを何でもわかると言ったね? 俺も同じさ。俺も君のことなら何でもわかる。夫婦だから」
「あなたは何もわかっていないわ」
「わかるよ。君がどうしてそこまで、子どもを作ることを嫌がるのかも、わかる」
「……わかるのなら、言わないでよ」
「俺は君の望みを叶えたい。君に、女性としての幸せを経験してもらいたいのだ」
彼女は大きくため息をつくと、観念したように言った。
「それは、私だって、子どもは欲しい。子どもはかわいいもの。でも、でも、私が子どもを作るということは」
「そうだ。君は、俺を食べることになる」
「私はあなたを食べたくない。愛する人を、食べたりなんか、したくない」
彼女の目からは、美しく輝く涙が流れ落ちていた。俺はそれを、しばらく目で追っていた。
「俺は、君に食べられても良いと思っている。いいや、俺は君に食べられたい」
「嫌、嫌よ。私は、あなたとずっと、ずっと一緒にいたいの。一緒に老いて、一緒に死にたいの。どうしてわからないの? 私のことは何でもわかるのでしょう?」
「わかるよ。君が俺のことを、どれほど大事に思い、愛してくれているのか、俺はわかっている」
「だったら」
「でもそれ以上に君は、子どもを持ちたいと思っているはずだ。なあ、俺の前で嘘を吐くのは、もうやめてくれ。俺は君の、正直な思いが聞きたい」
「私、私は」
彼女の声は、掠れていた。
「なあ、正直な君の想いを、聞かせてほしい」
「私は、子どもが欲しい……」
「すまない。ありがとう」
そして俺と彼女は、口を付け合った。これが最後だと、お互いの体温を覚えるように、心の温もりを覚えるように、口を吸い合った。彼女はその大きな鎌で、俺の体を強く、強く抱き締めた。俺も彼女の体に、この貧相な鎌を回し、力強く、抱き締めた。
彼女の涙が頬を伝い、俺の顔に落ちてきた。とても、温かな涙である。
「どうして、どうして私たち蟷螂は、添い遂げることができないのかしら」
「仕方のないことだ。蟷螂に生まれた者の、運命と、言わざるを得ない」
「私、今度生まれるときは、蟷螂に生まれたくない」
「君は、蟷螂に生まれて、不幸せかい?」
「あなたと出会えたことは幸せ。でも、それ以外は不幸せよ」
「俺は、最初から最後まで、幸せだよ。生まれ変わっても俺は、蟷螂が良い。雄の蟷螂に、もう一度生まれたいよ」
「あなたはいつもそう。ひねくれているのだわ」
「正直な思いさ」
「そうね。あなたは、嘘は言わない人だったわ」
「そうだったか」
「ええ。そうだったわ」
「そうか」
「そうよ」
俺と彼女を月明かりが優しく照らしている。上を見上げれば満天の星空である。温かい風が柔らかく俺たちを包む。今日は、良い日だ。
「じゃあ、始めようか」
「はい。……よろしくお願いします」
そして俺たちは、交尾を始めた。
甘美な感覚が全身を包み込んだ。しかし、その感覚ももう少しで、感じられなくなるのだろう。
俺は、彼女が俺の体を食うのを、待った。
「……どうした? どうして食べない?」
「やっぱり、食べたくない」
彼女は震える声で訴えた。
「聞いたことがあるの。雄を食べずに交尾を終えた蟷螂がいるって。だから、私も」
「何を言っているのだ。君、顔色が悪い。真っ青じゃないか。体力がもうないのだろう。早く食べろ」
しかし彼女は、体を震わせ、涙を流しながらも、俺を食べようとはしなかった。
「嫌、嫌なの。私はあなたと一緒に子育てをするの。だから、食べないの」
彼女の声にはもはや活力などなく、まるで病人のごとき声色をしていた。
「早く、早く食べろ。食え、食うのだ」
「嫌だ。私は愛する人のためなら、命だって懸ける!」
「その命に、子どもの命まで巻き込むのか?」
彼女は、はっと息を呑んだ。
「今この瞬間に、君の中に、俺と君との子どもが生を受けている。その子たちを、君は犠牲にするのか?」
「そんな、つもりじゃ」
「だったら食え。俺を食え」
「でも」
「食え!」
俺が一喝すると、彼女は、世界中に届くくらいの、悲しい叫び声を上げ、俺を食らった。
彼女が、俺の体を食べていく。彼女のあごは、少し痛いが、でも、気持ちが良かった。彼女の顔には精気が戻り、肌はまた、元の通り、綺麗な薄緑色に戻った。
「そうだ。それで良いのだ」
俺は、滂沱と涙を流しながら俺を食らう彼女に、声をかけた。
「俺は少し前から、幸せとは何だろうと思っていた。考えていた。今ようやくわかったよ。雄の蟷螂にとっての幸せとは、愛する者に食われることだったのだ。愛する者の血肉となれる。愛する君の出産の、栄養となれる。延いてはそれは、俺と君との、愛の結晶である子どもたちのために、なれるということだ。俺は今、とても幸せだ。幸せだよ」
俺はまだ食われず残っている鎌で、彼女の頭を撫でてやった。
「他の生物では、絶対に味わえない幸せだ。たとえ人間様でも、味わえないよ。人間様のご遺体はね、土に埋められるか、炎で焼かれるかするのだ。それに比べたら、俺は幸せだ。死してなお、俺の体は、愛する者たちの役に立てるのだから」
彼女の大きなあごは、とうとう、俺の頭に到達した。もう食えるところは、頭しか残っていない。下腹部はまだ交尾を続けている。そこを食われるのはきっと、一番後だ。
「あなた……」
彼女は俺の頭をその大きな鎌で持ち上げ、目線を合わせてくれた。
「私はあなたに会えて、幸せでした。ありがとう、ございました」
「俺も、君と会えて良かった。君に食われて幸せだ。ありがとう」
「それじゃあ、おやすみなさい」
「ああ、子どもたちのことをよろしく頼むよ。君も、息災で」
そして彼女のあごが、俺の頭を飲み込んだ。
全てを、呑み込んだ。