底なし沼で何してるの
初夏、部活帰り。
ウィーンと扉が閉まり、大きな音で列車が去っていく。
頰を撫でた風は緩く暑く、夏の匂いがした。
「……じゃ、さよなら。またね」
もう直ぐ初めての夏休み。先輩方も程なく引退する頃だ。
代替わりへの日数は日ごとに減り、1日1日がひどく名残惜しい。
「……あ」
そんな思いからか。
電車はとうに過ぎ去ったというのに、しばらく線路の先を眺めていた。
やがて勢いよく列車が通り過ぎ、ハッとしてホームから出る。
思えば高校も大分慣れてきたなと、少し寂しい気持ちになった。
「うわぁ……早く、帰らねば」
駅が明るく気がつかなかったが、日はもう大分暮れたようだ。
明かりに慣れた目に、外はぞっとするほど黒く見える。
今日は、新月。
月のない空の下に宵闇は重く、目が慣れても相変わらず暗い。
遠くに灯る街灯の光さえ、ノイズ混じりで錆び付いて、非常に心もとない。
耳を掻く風の音に、遠くから聞こえる車の走行音。
駅からちょっと歩けば、辺りはあっという間に寂れる。
人気のまるでない小道はもはや林に近く、漂う不気味さからかすれ違う人もいない。
しかしだからと言って他の道を歩けば、大分遠回りな上に、治安も悪くなる。
この国の夏は湿っている。林であるなら尚更だ。
先ほどまでの夏らしい爽やかさは反転して、辺りには生臭い不気味さが漂っていた。
「うーん……」
じっとりした熱気。虫の声。
しかし木々を抜ける風は嘘のように冷たく、水の匂いがする。
……ちょっと前、そう、5ほど年目までならここは夏のオアシスだった。
現に幼い頃はよくここに来て、涼みがてら遊んでいた。
しかし、今は素直に喜べない。
涼しさの元と思われるこのすぐ近くの沼に、あろうことか5年前溺死者が出たのだ。
確か、年下の女の子だった気がする。
幼い頃から遊び場としてきたとはいえ、その命の重みは恐ろしい。
ピタリと人気が引いた林は幼心に悲しく、それっきり寄り付かなくなってしまった。
再び林を通るようになったのは、結局高校生になってからである。
しかし今でも怖いもんは怖い。涼風も、そこから来ると思うとただの生臭い風だ。
しかしだからと言ってここを通らねば遠回りになるわけで。
5年も経った、大丈夫だろう……と軽く考えてこの道を使っている。
そんな日に、それは起こった。
「えぇ……?」
林の奥、例の沼の淵。
茂る草木のその上に、見える白く光る足。
スニーカーは無造作に履かれ、その横には小さな手が置かれている。座っているようだ。
うっすらと見える青いシャツ。小柄な体だった。
ここは人気のない林、あれは死者の出た沼。
そこに佇むのは幽霊だけかもしれない。
しかしその影はどこか幼く、年下に慣れた頭に浮かべたのはその選択肢ではなかった。
「……実羽ちゃん?」
田舎のため、近所のネットワークは都会よりやはり広い。
近所で遊んでいれば顔も覚え、その上母は比較的人付き合いが良い。
そのおかげかこの頭には子供データが培われ、辺りの子供とは大抵顔見知りである。
そんな中で、一番ここにいそうなのが山辺実羽という女の子だった。
確か、今の学年は六年生。母親に似て笑顔が可愛く、誰からも好かれていた。
しかしちょっと天然が入った子で、無鉄砲で突拍子も無いのが玉に瑕だった。遊んでいてよくハラハラしたのを覚えている。
「ね、実羽ちゃんだよね?」
きっと今日も、親と喧嘩でもしたかでここにきたのだろう。
みんなと喧嘩した時も素直に謝れず黙っている子だった。それで、いつも私が中立していた。
そう考えてみれば水面を見つめる背中も寂しそうに見えて、少し笑ってしまった。
「……あら、サワベお姉さん?」
小道から外れ近寄ってみれば、その子はくるりと振り返った。
小さな顔に、大きな瞳。サラサラのおかっぱは見間違えようもない。
案の定実羽ちゃんだった。
「やっぱり実羽ちゃんだー!どうしたの、こんなところで?」
「お姉さんこそ、どうしてここに?お久しぶりですね」
こてん、と不思議そうに首を傾げる実羽ちゃん。
しばらく会っていないが、可愛らしい喋り方は変わっていないようで、安心した。
「うん?お姉さんは学校帰り。ここは暗いでしょ、早く帰らないと」
「私も学校帰りですよ。そういえば、随分日が暮れましたね」
天然も相変わらずのようだ。ちょっとズレた受け答えに、思わず笑ってしまう。
しかし、学校帰りとは。よく見れば確かにランドセルが置いてある。
「部活とかないよね?もしかしてずっとここにいたの……?」
「えぇ……本でも、読もうかと」
「目が悪くなっちゃうよ!」
実羽ちゃんは、ここであった事故のこと知っているのだろうか。もしかしたら知らないのかもしれない。
不気味な沼から早く帰りたくて、帰ろうよ、と手を引いた。
でも。
「いやです。まだ、ここにいます」
思いの外強い力だった。石のように座って、動かない。でも……と食い下がっても、いやです!の一点張り。
まずい、この年代の子は食い下がると意固地になる。でも何もこんなところで意地はらなくても!
「……えぇっと、なんでかな?」
置いていくわけにはいかないので渋々隣に座り、とりあえず訳を聞いて見た。
沼の匂いが一層濃くなり、近くなる。
ここで死んだのか、どんな気持ちだったんだろう……なんて己の首を絞めるようなことを考えて、慌てて打ち消す。怖い。
「落し物を、しちゃったんです」
「落し物?」
「はい……。とても、大事なものを」
実羽ちゃんは、深刻そうな顔をして打ち明けてくれた。
沼を見る。底なし沼とも呼ばれるそこに、浮かんでいるものは見えなかった。
「沈んじゃったか……」
「はい……慌てて拾おうとしたけど、間に合わなくて」
実羽ちゃんの足元に、濡れた木の棒が見えた。必死に掴もうとしたのだろう。
不意に、実羽ちゃんが石を手にとって投げた。
「たぶん、浮かんでこないんだろうなって、思うんです」
ぽちゃん、と音を立てて石が沈む。
あっという間に見えなくなり、やがて音沙汰もなくなった。静まる水面。
ほら、という顔でこっちを見る実羽ちゃん。なるほどなぁ。
「そうだね。残念だ……残念ついでに、断念しない?」
「はい?」
六年生に断念は早かったようだ。断念の意味を説明する。
ちょっと滑ったようで恥ずかしい空気に、思わず水面へ視線を逸らした。
「ほら、また明日お母さんたちに探してもらおうよ」
「そうなんですけど……でも、どうしても、言えないんです」
しょんぼりした様子の実羽ちゃんが、悲しそうに顔を伏せる。
見れば、目に涙が溜まっていた!
「ほら、大丈夫だから。すっごく大事なものだったんだね」
「私の、所為なんです」
「ん?」
「私、いらないって思ったんです」
ボロボロと溢れる涙。ぽんぽん頭を叩いてやると。ついにえぐえぐ泣き出した。
「えぇっと、それのことを?」
「はい……たった一回の、ことだったのに。一回嫌になったら、一気に嫌いになっちゃって、嫌だったことどんどん思い出しちゃって……」
「うんうん、あるよ、そういうこと」
撫でていた頭が急に持ち上がった。涙に濡れた大きな瞳がこっちを向く。
同じエピソードで心を慰めたいのだろうか。その視線には縋るような響きが潜んでいた。
「お姉さんも、ありますか?」
「うん、お気に入りだったストラップがね、水道のところに落ちちゃって……汚く思えて」
顔をじっと見られ、ひどいでしょ?と笑う。頭を撫でると、ギュッと抱きついてきた。
「……捨てちゃいましたか?」
「うん。捨てちゃった。結局」
「……私も、捨てちゃったんです」
「ありゃ」
捨てる気は無かった、と弁明する小さな罪人ちゃん。
ちょっとしたことでも、童心には大きなことなのだろう。なんだか可哀想だ。
でも、こういう罪の積み重ねが大人になるってことなのかな?
私もあったな、ちょっとしたことで大騒ぎした。先生まで呼んで、親に泣きついて……。
昔を思い出していたら、なんだか急に寂しくなった。ギュッと小さな体に抱きつき返す。
「沼のそばで……遊んでたらッ」
「……」
遊んでいたのか、ここで。
前の事件、教えてあげたほうがいいのかな。知っても可哀想だし、知らなくても可哀想だし。
うーん、どうしたものか……。
「でも楽しくないんです。好きだったのにぃ、楽しくないんです……」
「一度嫌いになると、そういうことあるよ?」
「それが嫌で、すごく嫌で。今までの全部が無駄に見えて」
震える声に、優しい声で相槌を打つ。
大丈夫かな、これに懲りて沼のそばで遊ばなくなるかな?
実羽ちゃんには悪いけど、そういうことを期待してしまった。
「わざと……沼に近いところで、遊んだんです」
「危なくない……?」
実羽ちゃんが沼に落ちるところを想像して怖くなる。
体を確認するように撫でると、ヒック!と答えるように喉を鳴らす。
「なんか、沼に……落ちないかなって……思っでぇ……」
「落ちちゃった?」
「はぁ……はぁあ!」
泣きすぎて、喋れなくなったようだ。ヒック、ヒックと繰り返す嗚咽。
ひんやり湿る制服。ひんやりした風。
木々の掠れる音も徐々に強くなってきた。雨が降るかもしれない。
寒くなってきたな、と美雨ちゃんの体に抱きつく。
「わざとじゃないのに、手から滑ってぇ……!」
「うんうん」
「落ちちゃっ……ック……はぁッ、うっ、うぅ……」
「大丈夫、大丈夫だよ」
「でも……でもぉ」
ぐすぐすと、まだ納得しないようだった。
こんな小さなことに一喜一憂して、羨ましい。子供っていいな。
「聞いてくださいよぉ、ちゃんと聞いてよぉ……」
だんだん飽きてきたようだ。そんなことを考え始めていて、怒られる。
つらつらと並ぶ思考につられて、言葉さえもおざなりになってしまったらしい。
「はいはい、聞いてるよ」
それでも優しい声を出した。ゆっくりゆっくり頭を撫でる。
それでも納得できないようで、ぎゅううううっと服を握りしめてくる。
「……キャァーって、叫んで。バシャバシャって暴れてぇ……でも、手、掴めなくて」
「ん?」
「だんだん、沈んでいくんです。体が見えなくなって、次に腕、顔で」
「待って。……なにそれ?」
なにを言っているんだろうか、この子は。
嫌な冗談だ。六年生の癖に、高校生を騙そうとしているのだろうか。
ふっと背筋が寒くなった。沼の水が、見れない。
しばらく泣き声だけ響いていた。叫びたい気分だった。でも、体が動かない。
「……ここのことです……あれ、犯人誰だか知ってますか」
『しってるよ』
何かぐちゃっとした音が聞こえて、固まった。
ヒッと、実羽ちゃんの喉がなる。
ぞっとしたものが肌を這う。
なんだか体が縮んだ気がする。
『きらいになったんだよね』
ぎこちない動きで、ギリギリと実羽ちゃんの腕を掴んだ。
「……実羽ちゃん」
「……ぁう……」
ブルブルと震えて動かない、答えない実羽ちゃん。
とにかく怖かった。後ろを向いたら、何かがいる気がする。
『ゆるすよ、おとなだもん』
実羽ちゃんを、置いていこうかと思った。
でも、そんなわけにはいかない。それで死んだら……こっちにも、夢見がかかってる。
空耳かもしれない。
でも、うまく言えないけど、なんか。
『……みうは、こどものまんま』
「ぃこう!」
自分の言葉を合図に、走り出した。喉にくる草の匂い。
ガサガサと草をかき分け、半ば無理やり道に出る。
錆び付いた街灯、小さいノイズ。
『みんなないてる』
足がもつれる。舌が乾く。
何かがいる。考えたくないけど、何かが。
おかしいもん、おかしいもん。
「はっ……!」
『たべない。いかない。なんにもできない』
ヒステリックに風が吹き、森が騒ぐ。
『よろこんでくれない』
沼の方を見たくなかった。
林を過ぎれば、普通の一軒家が立っている。大丈夫だ、大丈夫。
◆◇
ランドセルを握りしめた実羽ちゃんと、制服をぐしゃぐしゃにして走った私。
知り合いの家に転がり込んだ時は、二人ともひどい姿だったらしい。
ぼんやりとオレンジ色の光に包まれて、身体中の力が抜けた。
よかった、安心できる場所にたどり着いた。ぎゅうっとカバンを抱きしめる。
中がゴリ、と小さく鳴った。
「……ん?」
みれば、石が入っていた。
「ヤダ、なにこれ……濡れてる」
逃げた時に入ったのだろうか。酷く不気味に思いながら、玄関の外に転がした。
ゴロゴロと暗闇へ転がっていく。
『ちょうどきょうだよ』
ピタリ、と音が止んだ。