朝日に照らされ
「おらあぁぁ!」
頭上のカウントが0になると同時にアリス(狂)が突進してくる。スキルも何も使っていない突進のくせにやたら速い。流石はライトファイターと言うべきだ。
アリス(狂)の利き手は左、故に俺は追撃が出しにくい斜め左へアリス(狂)に視線を向けながら回避する。だけどそれくらいでボーンソルジャーをあっさり倒してしまったアリス(狂)を出し抜けやしない。
最後に踏み出した右脚を軸に上半身を強引に捻った追撃が俺を襲ってくる。それをバックステップでかわすのだが、回避に要した僅かな時間でアリス(狂)は左脚で勢いを完全にストップさせ、地面をえぐるほどの力で再び俺に向かって突進する。
アリス(狂)の連続した突進攻撃は敵ながら見事と言わざるを得ない。例え俺が同じライトファイターだとしてもこれほどの体技パフォーマンスを出来るかと聞かれたら多分無理だと言うだろう。それほどアリス(狂)の動きは素晴らしいものだ。
「フレア」
突進攻撃には真正面からの攻撃は有効的だ。ブラッディミノタウロスとの戦闘際に俺自身が体験したから間違いないだろう。
突進攻撃のメリットは受け手から見て攻め手が『点』と狙いにくい上に殺傷能力が高いせいで通常の攻撃の何倍もの威圧感を与えることだ。
しかしメリットがあればデメリットも存在する。
勢いがある分視界は狭くなるし咄嗟の動きにどうしても限界がある。更に万が一攻撃がかわされた場合、自分は相手に背中を見せるという戦闘中1番やってはいけない隙を与えてしまうのだ。
それを理解して上で俺はフレアを放った。少なくともそれでダメージを与えられると思っていた。
「甘いぃ!」
アリス(狂)はフレアをレイピアで弾くわけでもなく、また勢いを殺して回避するわけでもなく、スライディングでフレアの下に潜り込んで勢いを極力殺さないトリッキーな動きをして見せる。
「もらったあぁぁ!」
収縮された脚の筋肉を存分に使ってアリス(狂)はレイピアで俺の顔面を貫こうと飛ぶ。
「おっと!」
だが俺はそれを紙一重でかわす。よほど力強く地面を蹴ったのかアリス(狂)の身体は空高く舞い上がっている。すかさずフレアを連射するが全てレイピアでかき消されてしまった。
「なるほど、ね」
空中から地面にアリス(狂)が降りてくる間、俺は先ほどの動きからアリス(狂)の戦闘スタイルを分析する。
基本は装備のレイピアとライトファイターの特性を上手く使った真正面からの突進攻撃、しかもAGIはかなり上げられているのかカウンターは脅威的な速さで回避されてしまう。更にトリッキーな動きを多用することにより相手のペースを崩しつつ思いもよらない場所からの攻撃で確実に仕留める。こんな感じだ。
だがいかんせんバカ正直なのがその魅力を台無しにしている。今のだってわざわざ一撃を狙いにいかずとも腕だけのフェイントを入れれば俺は間違いなく後退していただろうし、そこであの脚力を活かせばダメージを与えていられただろう。
何にせよ相手の動きを普段以上に多く予想さえしていれば脅威となることはまずない。
アリス(狂)が着地するとお互い距離をとったまま動かな、いや、動けないでる。
俺から攻撃したい気持ちは山々なのだが正直アリス(狂)のスピードに自分がどこまでついていけるのか未知数なのだ。そんな曖昧な状態で自ら危険に飛び込む俺ではない。
アリス(狂)の心の中は完全には分からないが多分先ほどの攻撃をかわされたことで迂闊に攻めれないのだろう。
「どうした。まさかさっきのが全力の攻撃なのか?」
「はっ! てめぇこそビビッて攻撃出来ねぇんじゃねぇのか!?」
挑発してみたが残念なことに不発となる。
PvPのルールは時間制限なしの80%ダメージ制ーー先に相手のHPを80%削った方が勝ちとしているーーにしてある。このまま相手が痺れを切らすのを待つも悪くはないのだが、俺としては圧倒的な力差を見せつけて勝利を収めたい。その方が後々融通がききそうだからだ。
「まぁしかたないか」
本当は片手剣だけで勝ちたかったのだがこの際贅沢は言ってられない。もう一方のブレードを抜いてゆっくりアリス(狂)へ歩み寄る。
スピードで勝てないのなら攻撃の手数を増やして防御に徹させる。今の時点で思い付く最善の手だと判断した。
ゆっくりと近付いてくる俺に痺れを切らしたのか向こうから攻撃を仕掛けてくる。バカの一つ覚えのように突進してくるアリス(狂)のレイピアをブレードで弾き、もう片方で攻撃する。だがありあまるスピードでもって全て防がれ、俺の攻撃がアリス(狂)の身体を捉えることはない。
傍目から見たら通常再生と早送り再生の動画を合成したようにも見える攻防。やっている側は大変だが観客としてこの戦闘を見たら面白そうだと戦闘中にも関わらず思ってしまう。
「ちぃ」
接近戦を始めてから数分間は均衡を保っていたのだが突如としてそれは破られる。俺の攻撃がアリス(狂)の防御の隙間を抜けてダメージを与えたのだ。
すぐさまアリス(狂)の表情に焦りの色が滲む。それをわざわざ見逃す俺ではない、手数に加えてスピードを若干上げていく。
一気に勝負を終わらせるのも力の差を見せ付けるにはもってこいなのだが、こうやってジリジリと相手を追い詰めるというのも同じ効果を得ることが出来る。
自分は全力を出しているのに相手はそれを余裕の表情で上回ってくる。そうすると深層心理の部分で自分は遊ばれているのではないかと思ってしまうのが人間というものだ。相手の底が見えない、それがどれだけの恐怖を与えるのかは俺にだって分かる。それを利用してアリス(狂)をHP的にも精神的にも追い詰め始める。
流れを変えようと一時離脱を計るが、俺はすぐさま密着状態になってそれを阻止。真っ向から戦っても倒せない、逃げようにも逃げ切れない、どうすればいいのかと脳を使おうにもそんなことをしていたらあっという間に負けてしまう。八方塞りに陥ったアリス(狂)の動きは錆び付いたロボットのように固くぎこちない。
HPバーがイエローに差し掛かったところで俺は攻撃の手を止めて後ろへバックステップ、ここぞとばかりに攻めに転じようとアリス(狂)が突っ込むのだが全て俺の計算の内、掌で踊らされているのにアリス(狂)は気付いていない。
「そんなんだからお前は俺に勝てないんだよ」
「ーーッ!?」
俺が小さく言葉を発することで初めて自分が罠に誘われていることを自覚する。
「だけどもう遅い!」
空中姿勢のままブレードの刃先を後ろに向ける。スキルエフェクトで黄色く染まった刀身が太陽の光と合わさってより明るく輝いている。
「フラッシュカット!」
通常の動きより格段に速いスキルの一閃。それは深々とアリス(狂)の身体に食い込み、無駄にリアルに再現された肉を切る感触が掌越しに伝わる。
「ぐぅわあぁぁ!」
苦痛でアリス(狂)の表情が歪む。せめて少しでも早くこの苦痛から解放しなければと腕に力を込めてブレードを振り切った。
PvPのルールはこの場の絶対的なルールである。その為イエローゾーンから致命的ダメージを受けたとしてもHPバーが最後まで減ることはない。
《WINNER Kaname》
頭上に現れた勝利を知らせる文字。だが俺の心に勝利の喜びなんてものはこれっぽっちも湧き上ってこない。その理由はというとーー
「うぅ、くそぉ……」
あの戦闘狂のアリス(狂)が俺の目の前でうずくまって涙を流しているのだ。
あの負けてもすぐにリベンジを挑んできそうなアリス(狂)が、泣いているのだ。
勝利して喜ぶとか安堵するとかの気持ちは遥か彼方へ吹き飛んで、その代わりに罪悪感が胸の中を支配している。
「お、おいどうしーー」
「触んじゃねぇ!」
手を差し伸べると思いっきり叩かれた。
相変わらず乱暴な口調だ。でもいくらそんな口調で強がったって頬を伝う涙が消えてくれるわけではない、俺を睨み付ける瞳に力強さなど微塵も感じられない。
「なん、で、俺は負けられ……ねぇの、に」
俺は負けられない。アリス(狂)が言ったその言葉が俺の頭の中でエコーのように何度も響く。
多重人格、戦闘狂、そして負けられない。一見何の関係性も持たなそうなワードが糸で結ばれるように1つになった時、俺は初めてアリス(狂)の言った言葉の真意を知ることとなる。
アリス(狂)の人格が生まれた理由はアリスが自分を守る為、と言うことはアリス(狂)がアリスの最終砦と言ってしまっても過言ではない。その砦は決して負けてはいけない、敗者になってしまったらアリス(狂)の存在意義がなくなってしまうのだ。
だからアリス(狂)は泣いている。自分の存在意義がなくなってしまうのを恐れているのだ。
存在意義を失う恐怖は俺には分からない、だけどこのまま放っておくのは、アリスを助けた時といい、俺はほとほと自分の性格が嫌になる。
「おい、顔上げろ」
もはや抗う気も湧き上らないのかアリス(狂)は涙で潤ませた瞳を俺に向ける。
「そんなに負けるのが悔しいか?」
「んなの当たり前だろ!」
「強くなりたいか?」
「当たり……前、だ」
「じゃあ俺が強くしてやる」
暫くの沈黙。どちらとも声を発しない。まぁ俺の場合は出していないのだが目の前のアリス(狂)は違っている。出していないのではなく出せないのだ。
クリクリと大きな目がより一層大きく見開かれて、その瞳に宿っている色は驚きと疑惑と意味が分からないの3色。口は半開きで放っておいたらよだれが垂れてきそうだ。
言葉自体は分かるのだが意味は理解が追いついていないのだろう。俺にも似たような経験が何度もあるのでよく分かる。だけど今は分かってもらわないと困る。だから俺は次の言葉を発さずにただ沈黙を続ける。
「な、にを」
たっぷりと数十秒ーーもしかしたら数分掛かっていたかもしれないーー使ってアリス(狂)がやっと口を開いた。
「何をもくそも、お前は知らないだろうが俺とアリスはフレンド登録をしているんだ。アリスがいざという時戦いたくないなんて言ったらお前が戦うしかないだろ。その時お前が役に立たなかったら迷惑、そうだろ?」
アリス(狂)の混乱して普段よりも落ちている頭の処理速度に合わせ、まるで小学校低学年の生徒に算数の授業を教える先生のごとく丁寧に言葉を連ねる。
「だからお前を鍛えてやるって言ってるんだ。それに、お前は俺をいずれは倒したいと思っている。俺としても相手が強い方が燃えるし楽しいのは至極当然だ。だからはっきり言って弱い今のお前にリベンジを求められてもヤル気が出ない、別にお前の為なんかじゃない、俺自身の為にお前を鍛えると言っているんだ。アンダースタンド?」
絶対に理解していない。今のアリス(狂)の表情を100人中100人全員がそう答えるだろう。それほどにアリス(狂)の表情はポカン…としている。
「く、くくっ」
表情を隠す為かアリス(狂)が俯く。だが聞えてくる声は笑いを堪えているかのように詰まっている。
「あははははっ!」
草原に響く笑い声。声の主は言うまでもなくアリス(狂)だ。しかしその声にいつものような狂気的なものは一切含まれていない。とても幼く、赤ちゃんが作る笑い声のように、純粋無垢な、まさにそれである。
「何言ってるんだよこいつぜってぇ頭イカれてるぜ!」
失礼な。これでも学校では真面目キャラとして通っているんだぞ。
「ひ~ひ~駄目だ腹いてぇ~!」
「ったく、で、どうするんだよ。俺の話に乗るのか? 乗らないのか?」
俺が尋ねてもアリス(狂)は腹に腕を巻いて笑い続けている。そんな状態が数分続き、やっと落ち着いたのか俺の目をハッキリと睨み返した。
「いいぜ、乗ってやる。そんでもってすぐにお前を追い抜かしてやるからな」
「そ~言うのはだな」
起こしてやろうと手を差し伸べる。握られた際無駄に力が入っていたと感じたのは気のせいにしておこう。
「勝てる見込みが見えてから言うんだな」
「うっせぇ」
そっぽを向きながらアリス(狂)は呟く。これで多分暫く、俺がアリス(狂)に負けるまでーーそんなつもりは毛頭ないがーーはアリスに無駄な被害が及ぶことはないだろう。
「そんじゃ、まず初めにだが」
「おっ、早速特訓か!?」
初めて見たアリス(狂)のキラキラした瞳。いまだ戦闘狂のイメージしかない俺からしたら不気味以外の何ものでもない。
「残念だが特訓じゃない。お前には暫く眠ってもらう」
「は?」
キラキラした瞳が一瞬でどこかへ消えてしまった。
「眠ってもらうと言っても俺がどうこうするわけじゃない、まずは自分で自分の戦闘を想像するんだ。どこが悪かったのか、どこを改善したらいいのか、そういうイメージってのはお前が思っている以上に大切なことだからな」
これは俺自身にも言えることだ。俺はリアルで運動神経はある方だ。だけど戦闘なんてものはSurvivors Warに来るまでやったことはない、それどころか剣すら握ったことがない。でもそんな初心者同然の俺があれだけ動けるというのも全てアリス(狂)に言った想像を使っているからだ。
確かに俺はリアルで戦闘を体験したことはない、だが俺にはこれまで培ってきた二次元のキャラがしていた戦闘シーンの記憶がある。
ゲームしかりアニメしかり、どの状況でどんな動きをしたらいいのかを記憶を元に想像するのは誰にでも出来る。俺はその想像とゲームによる補正を最大限に利用して戦闘を行っているのだ。
アリス(狂)の場合その想像が不足している。本能に身を任せて最小限の動きで確実に相手の急所を狙っている。それが悪いとは言わないがアリス(狂)は単純に心臓を狙いすぎているのだ。まずそれを自分自身で理解してもらわないとこちらとしても指導のしようがないということだ。
「おい、そんなのが強くなるのとどう関係しーー」
「そ~言えば負けた方は奴隷になるんだったよな~もちろん奴隷に拒否権なんてものはないし、まさか言いだしっぺのお前がその約束を反故にするわけない、よな?」
「んぐぐ」
言いなりになりたくない気持ちと自分の言い出したことを無視出来なく葛藤する気持ちが手に取るように分かる。だけどアリス(狂)は絶対にそうだとは言わない。何故ならこいつは誰よりも自分が上で、自分のプライドを傷付ける行動は絶対にしない、こいつはそういう奴だ。
「ちっ、わぁったよ」
案の定アリス(狂)は折れた。満足気に笑みを作る俺にもう1つ舌打ちをしてみせる。
「よし、じゃあこの件はこれでOKとして、次に」
「ってまだあるのか!?」
「あぁ? 奴隷風情が誰に向かっーー」
「だぁ~分かった、分かったから!」
うん、素直で大変よろしい。
「こいつ、ぜってぇ泣かす」
「泣かしたかったらいつでもどうぞ。次にだが、お前に名前を付けようと思う。いつまでもお前だとかそんな呼び方は面倒だからな。何か要望があるのならお前の意見を尊重するぞ?」
「名前ねぇ、正直考えたこともねぇからな~」
「そんな深く考えるな。お前が呼ばれたいのでいいんだ」
「いやそ~じゃなくてよ。単純に思い付かないんだ。お前は単に自分の名前を使っただけだしな」
一瞬何を言っているのか分からなかったが、アリス(狂)の視線が俺の顔辺りを捉えていることからアバターのキャラネームのことだと察する。
「そうだな。俺は名前を使ったけど、ふと気になったんだが、アリスの名前は不思議の国のアリスから取ってるのか?」
「ん、あぁ、こいつは不思議の国のアリスが好きだからな。もう片方の鏡の国の、アリス、だったか。不思議と鏡、その両方の原本を持ってるくらいだから相当なもんだろうよ」
「へ~」
アリス関連の本は流石に持っていないがストーリーくらいは頭にある。アリスが物語のアリスから名前を取ったのならアリス(狂)もそれに合わせて問題ないだろう。
不思議の国と鏡の国、その両方からこいつが好みそうなキャラと言えばーー
「ジャバウォック」
「ジャバウォック?」
「あぁ、鏡の国のアリスで登場する極めて狂暴なドラゴンみたいなキャラだよ。ゲームとかでも基本強敵として度々現れるんだ」
「へ~強キャラか、じゃあそれでいい!」
「でも長いだろ」
「んじゃあ略してウォックでいいわ。てか面倒だからそれで決定!」
まぁ本人がいいのならいいんだけど、正直いい名前だとは言いにくい。
「そんじゃ俺はそろそろ戻ーー」
「待て待て待て、まだあるから」
「んだよ! 要件があるのなら最初に全部言いやがれってんだ!」
「これで最後だから。と言うかこれが1番大切なことだから」
アリス(狂)改め、ウォックの肩に手を置いてこちらを向かせる。真剣な表情の俺につられたのかウォックの表情も自然と引き締まったものに変わる。
「いいか、今からアリスと人格を変わる時、アリスが眠っている間に何があったのか、お前にウォックって名前が付いたこと、これをお前自身の口で説明しろ。いいな?」
「あ、あぁ分かった」
釈然としていない様子だが取り敢えずは了解したところで手を離す。そしてすぐに戻ってきてやるからなと言って、ウォックは身体のコントロールを手放した。
「おっと」
多分今アリスとウォックが居座っている身体の中ではお互いに話し合いが行われているのだろう。だらんと力の入っていないアリスの身体を俺は草の上にそっと寝転がらせる。
眠っている。と言うよりかは気絶しているの方が表現としては正しいのか、まぁそんなことはどうでもいい。アリスの表情はとても穏やかだ。もしかしたらウォックと笑顔で話しているのかもしれない、そう俺は勝手な想像を膨らませてアリスの頭を撫でた。
「ん」
時間にしては約数分と言ったところか、アリスが瞼を開き焦点の定まっていない状態で俺を見詰めている。
「よ、ウォックのやつ何か言ってたか?」
「ん~」
肯定なのか否定なのか、それとも寝ぼけているだけなのか、声だけでは判断出来ないので苦笑いを浮べながら俺はゆっくりとアリスの身体を起こして座らせる。
「お~い、アリスや~い」
ペチペチペチペチ。柔らかい頬を優しく叩く。その度に頬肉が波紋のように揺れるのは見ていてあきる気がしない。
「痛いよぉ~」
「嘘吐け。そこまで強く叩いてないだろ」
やんわり叩くのを制されたので残念な気持ちを押し殺して頬を叩くのを止める。
「カナメくん」
「はいよ。カナメくんですよ」
「カナメくんが、あの子に?」
「あの子、じゃないだろ?」
そう、もうアリスを苦しめていたあいつにはちゃんとした名前がある。アリスの作り出したもう1つの人格ではない、ウォックという全く別の人として生まれ変わったのだ。
「うん、うん」
強く頷くと同時にアリスの頬を涙が伝った。さっきまで俺が叩いていた頬を静かに伝っている。
すがるように俺の背中に腕を回したアリスを優しく抱き返す。胸に当てられた頭がグリグリと押し当ている。もしかしたらと思って撫でてやるとピタリと動きが止まった。
「ウォックの奴何かアリスに対して言ってたか?」
「ううん、カナメくんをぶっ殺してやるって、だけ言って眠っちゃった」
なんつ~物騒な。
溜め息を吐く俺にでもねとアリスは言葉を続けた。
「あの子。ううん、ウォックから話し掛けてきてくれたのって、実は今回が初めてだったの。いつもは私から話し掛けても適当にあしらわれてたのに」
そう言って微笑んだアリスの顔は付き物が取れたかのように晴れ晴れとしている。
「多分カナメくんがそうするように言ったんだろうけど……」
ははは、バレてら。
「だけど、それでも嬉しかったの。カナメくんが言ったからにせよ、ウォックが誰かの言葉を聞いて行動してくれたのが本当に嬉いの」
「別に俺は何にもしてねぇよ」
平静を装いながらアリスから視線を外す。そうでもしないと恥ずかしくて今後まともに顔が見れなくなりそうだったからだ。
「あれ~もしかして照れてる?」
「バ、バカ言うな!」
「ホントかな~?」
ここぞとばかりに攻めてくるアリスに俺はたじろく他に出来なかった。
「あっ」
「おっ」
そんな俺を神様は見捨てなかった。メッセージの着信があり、アリスの攻撃を強制的にストップさせたのだ。
「ほ、ほらメッセがきたから離れろって」
「むぅ~せっかくカナメくんを苛めれるチャンスだったのに」
もう苛めるって本人の前で言っちゃってるよこの子。
兎にも角にも、最高のタイミングでメッセを送ってくれた相手を確認しようではないか。
軽快な指捌きでメッセを開く。差出人は珍しくリックからだった。
「誰からなの?」
「あぁ、いつも攻略の時集まってる奴からだよ。俺以外全員揃ってるから潜ってるなら攻略しようってさ」
「あぁ~そっか。そうだよね」
さっきまで喜びの笑みを浮かべていたアリスの表情が突然曇る。そして俺が声を掛ける前に立ち上がって背を向けた。
「それじゃあ私はもう行くね。色々ありがと、気が向いたらメッセしてね」
そう早口にまくしたててアリスは歩みを開始する。
「ちょ、待てよどこ行くんだよ」
「え、だってカナメくんは仲間のところに行くんだから私はもう行かなきーー」
「お前も行くんだよ」
「……ふぇ?」
何を言っているんだとびっくりしている俺とアリス、表情や文字としては全く同じなのに捉えている意味合いは陰と陽のようにま逆のものだ。
「何驚いてるんだよ。ここまできてアリスを放っておくわけないじゃねぇか」
「で、でも」
「あっ、もしかしてレッドプレイヤーってのを気にしてるのならそれは杞憂ってやつだぞ? そもそも原因はウォックにあるわけだし、それをちゃんと説明したらあいつらは納得して、快くアリスを受け入れてくれる。俺が保証してやるよ」
「だ、だけーー」
「だけどもへったくれもない、文句は受け付けません」
アリスの手を握ってノイ達が待つジムフットに向かう為フィールドを歩き始める。馬車を使った方が楽だし速いのは分かっているんだけど……
「もうっ、えへへ」
だらしなく笑みをこぼしているアリスともう少しだけ2人でいたい、そんな気持ちが俺に馬車を使うという選択肢をなくさせたのだ。
「合流したらまずは自己紹介だな。はてさて、何人がお前の年齢を当てられるか」
「むぅ、全員当ててくれるもん!」
「無理無理無理、絶対に無理だ命賭けてもいい」
「んもぉ~!!」
「うおっ、レイピア抜くんじゃねぇよ!」
ゆっくり歩いていくはずが、どうやらこのままマラソン大会が始まってしまいそうだ。
まぁ、それはそれで楽しそうだし、良しとしよう。
朝日に照らされる草原に俺とアリスの影は細長く伸びている。




