トウコの秘密
「せいっ!」
トウコの放った右からの水平切りで体長が俺の胸あたりまでしかないゴブリンの首が勢いよく吹き飛び、残された身体が糸を切られた操り人形のように力なくその場に崩れ落ちた。
洞窟に入ってから数十分、進み具合は…正直芳しくない。それはと言うのも出てくるモンスターはゴブリンのみなのだが、その数が半端じゃない。数歩行けば暗闇からゴブリンが飛び掛かってくるし、狙いは視界が悪のに致命傷になる首を的確に狙ってくるものだから回避に集中するあまり移動速度は自然と鈍くなる。それが単体ならまだしも時には片手では足りない数が一斉に飛び掛かるので逃げ場のない 洞窟内では後退を余儀なくされる。
少し進み足止めを食らって団体から逃げる。これでは埒が明かないと分かっているものの無理をしてゲームオーバーなんて洒落にもならないので今にも走り出しそうな足にストップ命令を出し続ける。
「ぬぐぐぐぐ……」
何だろう。ノイがさっきから待てを命令されているイヌのように唸っている。
「どうしたのノイ」
「だってだってだって!」
子どもかよ。
「多分だが、自分だけじっとしているのが歯痒いのではないか?」
「はぁ……そうなの?」
俺が再び尋ねると赤べこ顔負けの素早い動きで頭を上下に振る。見ようにはヘッドバンギングに見えなくもない、見た目のせいで雰囲気の欠片も感じられないとは心の内に秘めておく。
「だから最初の方に言ったでしょ、ノイはマジシャンで、マジシャンはMPがなくなると戦えないから危ない、危険性を回避するためにじっとしてなきゃいけない。分かるでしょ?」
懇切丁寧に説明をした。だが我が儘ノイさんにこちらの言葉が通用するわけがない。いや、これは少し違うな。分かってはいるんだけど自分だけ仲間外れってのが許せないのだろう。確かに俺だって目の前で友達が協力プレイをしている中1人で順番待ちなんて我慢出来るわけがない。いやさ、一緒にゲームする友達とかいないんだけどね。例えばの話だよ?
「でも~」
「でもじゃないの、大体アイテムにも限りがあーーノイ危ない!」
「へ?」
再びノイを説得している最中に俺の方を向いていたノイにゴブリンが背後から奇襲を掛けているのを捕えた。
ノイの腕を引っ張り、庇うように倒れ込みながら覆い被さる。背中にゴブリンの爪が深く肉を裂いて痛みが走るが、意識はそっちではなくノイが地面に接しないよう身体を捻ることに集中していて気にしている暇はなかった。
「くっ! このっ!」
自らを下にして背中から着地。やられっぱなしはゲーマーのプライドが許さないので振り向いた瞬間にボウガンから矢を放ってゴブリンの眉間から頭部を貫通させた。
「いててて……」
「ノイ! カナコ!」
「あぁ、だいじょぶだいじょぶ」
慌てて駆け付けるトウコに手を振りながらノイを座らせて軽くパニックになりかけている顔を覗き込む。
「あ、あの……カナコさーー」
「ノイ、怪我はない?」
「ふぇ? えと、はい」
「そ、なら良かった」
頭を何度か軽く叩いて立ち上がる。何も出来なかった自分が許せなかったのかトウコが整った顔に深い皺を寄せていたのでフォローしておいた。
「少しは自分の心配をしたらどうなんだ?」
フォローされたとは言え怒りは残っていて、やり場のない怒りの矛先は無情にも俺に向けられた。
「何と言うか、身体が勝手にね。まぁ大したことなかったんだからいいじゃない。これくらいならポーション使わなくても大丈夫だろーー」
「そういう問題じゃない!」
狭い洞窟内にトウコの大声がエコーして響く。俺ももちろんノイも初めて見るトウコの乱れた姿に目を丸くしている。だが一番驚いていたのは他の誰でもない声の主トウコだった。
嫌に静かになる洞窟内。こんな時に限ってゴブリンはその姿どころか気配すら出さずにいる。暗闇の、更には狭い空間で圧迫されているのに追い打ちのごとく重い粘着性すら感じる雰囲気が俺達3人を闇の中に引きずり込もうと魔の手を伸ばしている。
誰も声をあげようとしない、声を出してしまえば何かが崩れてしまう。確証も根拠もないのは分かっているのに喉には異物が捻じ込まれたように空気すら通りにくいほど狭まっている。
トウコは視線を下に向け、ノイは俺とトウコの顔を行ったり来たり視線を飛ばしている。俺はと言うとトウコの姿を瞳が捕えて離さない。本当なら大丈夫なのかと声を掛けたい、しかしそうしてしまうとトウコが壊れてしまうように感じられた。脆く弱い、子どもの頃に作った砂のお城のように触れたその場所から表面が削れ、いずれ残るのは土台となっている下部の砂、トウコの肉塊だけになってしまう。そんなイメージが頭の中で勝手に構築されてしまう。
右往左往出来たらどれ程気が楽になるだろう。それすら許さない絶対的な“静”の見えないバリアが俺達を包んで逃がすまいと一分の隙間すら与えてはくれない。
「おっ、お前らも攻略か?」
不意に聞こえた自分達以外の外部からの声。それは決して大きな衝撃ではなかった。言うなればアイスピックのような。尖った先端が固い殻に徐々に徐々にひびを入れ、崩していくかのように、だが決して中までは貫通しない適度な力加減でもって自分達を包んでいた膜を破壊してくれた。
「おい、無視はよくないぞ?」
「リック」
狭い洞窟内ではその身体の大きさが俄然際立っている。俺達の不穏な空気を察したのかリックの表情までもが暗いものになってはいるがことの本末をしらないので俺達程ではない。
「えっと、何かあったか?」
何かあったと言えばもちろんあるが、今その話をぶり返してしまうとまた同じ空気になってしまう。それだけは避けたかった俺は努めて明るい声で答える。
「いやね。ノイが暗闇怖いって言って全然進めなくって、それで皆ピリピリしてたの。ねぇノイ」
無茶な話の振り方だと自分でも分かっている。だがこうでもしないと記者としていつもとは違う僅かな違和感を見抜く眼を持つリックを騙すにはこうするしかなかった。
「し、しかたないじゃないですか! 私はか弱い女の子なんです!」
一瞬だけノイの表情が崩れた。俺ですらギリギリ見分けられる程のものだったので多分リックには気付かれていないと思う。
ノイはファインプレーのお陰で何とか難は逃れたようで、リックが少し呆れ顔になってまぁまぁと演技しているノイを宥める。
「リック、悪いんだけどノイを外まで送ってくれないかしら。ここまで来たのだし、私達だけでも洞窟を攻略しておきたいの」
俺の要求にリックは渋々といった感じだったが地味に演技力の高いノイの怖がっている姿を見かねて承諾してくれた。
リックとノイの姿が見えなくなり、残されたのは俺とずっと黙りっぱなしのトウコのみ。これで心置きなく話せる状況になった。
「トウコ、そんなに仲間が傷付くのが嫌?」
電流が走ったかのようにトウコの身体が反応する。的を射ている俺の質問にトウコの口は更に固く閉ざされてしまう。だがここで手を抜くわけにはいかない、本当は俺だって人の心の問題にズカズカと足を踏み入れる行為なんてしたくはない。だけど今この瞬間を逃したら多分これからずっと心の中にわだかまりは蓄積されるのは目に見えていた。だからこそ心を鬼にして俺の口は容赦なく言葉を紡ぎ続ける。
「トウコさえよければ話してくれないかな。もちろん全部話せとも無理にとも言わない、でもね、言葉にしなきゃ伝わらないことは一杯あるよ?」
遠くでリックの雄叫びが聞こえてきた。ゴブリンとの戦闘中なのだろう。冷静な状態にある俺で微かに聞こえてくる程の音だ。今のトウコには聞こえるわけがない。
「…………」
トウコの唇は動く挙動すら見せない、ただただ一文字に結ばれたままだし、視線は俺の方を向いてはいるが俺を認識しているようには見えない。何か遠くの全く違う風景を思い出しているかのように焦点はぼやけている。
「悪いけど私はこれからもずっと皆を守るよ。自分が傷付くのは怖いけど、他の人が傷付くのを見てるだけなんて……そんな弱い自分なんて真っ平ごめんだから」
「ーーッ!」
今までで一番強い反応。弱い自分。これがトウコが取り乱した原因であり思い出したくない過去の記憶を引き起こすものなのだろう。
「わ、私……は」
久し振りに聞いたトウコの声はいつもの凛としたものとは程遠い、弱々しく何かの支えがないとすぐにでも崩壊してしまいそうなものだった。
「トウコ」
「あっ……」
俺の腕は優しくトウコの背中に回って震える彼女を抱き締めた。
「言ったでしょ、無理に話さなくてもいいって、大丈夫、私はどんなことがあってもトウコの味方だから」
「うん……うんっ」
すがるものを求めるようにトウコの腕は俺の背中に回って痛いくらいの力で俺を抱き返す。胸からトウコの嗚咽の声が静かな洞窟に響き渡る。そんな彼女の頭を撫でながらもう一方の手で決してお前を突き放したりしないと伝えるように強く、強く抱き締める。
人にはどんなに親しい人にも、それこそ親以上に何もかも打ち明けられる親友にすら言えない秘密があるだろう。それを無理に聞き出すのは絶対に相手を思っての行為ではない、それはただ単に自分が気を使ってやったという自己満足に過ぎない。
本当に相手の気持ちを考えて気遣えるのなら相手がどうしても我慢出来なくなった時に傍にいて話を聞いてやることこそ本当の優しさだと思う。だから俺は待つ、トウコが自分の口から俺の助けを求める時を待ってやる。だけど今はそのタイミングではない、そう思ったからこそ強引にだがトウコに抱き着いて言葉を遮ったのだ。
トウコの嗚咽が段々小さくなり、もう大丈夫の言葉で俺はトウコの身体を抱いていた腕を解いた。
「す、すまない。みっともない姿を晒してしまった」
やや赤い目尻が赤くまだ完全にとはいかないが元のトウコに戻りつつあるようだ。
「気にしないで、人間辛い時はそんなものだから。ね?」
微笑み掛けるとトウコも笑みを作ってくれた。凛としていていつものトウコの笑顔だ。
「さぁ、さっさと洞窟を抜けましょ。ノイが待ってるから」
「……あぁそうだな」
遅れを取り戻そう。そう言ってトウコは俺の一歩前を走り出す。守らなければならないノイがいない分ほぼノンストップでの攻略となった。もちろん危険な場面も数度だけどあったが、俺が危ない時はトウコが、トウコが危ない時は俺がお互いをサポートしながらだとゴブリンなんて脆弱なモンスターが何体いようとも些細な問題でしかない。
お互いがお互いを信頼している。まだまだ細いものだけど、俺とトウコには確かにさっきまでとは違う絆を感じていた。
ノイと一緒に行動していた時の半分の時間で洞窟を抜け出した俺とトウコは森から洞窟へと入り今度はだだっ広い草原に出た。洞窟での暗闇に目が慣れてしまったせいか沈みかかっている夕焼けがやけに眩しい。どうやら既に時間は夕方に差し掛かっていたようだ。
「さてと、それじゃあノイとリックのところに戻ろうか」
「それは構わないが……また洞窟に入るんじゃ来た意味がないんじゃないか?」
もっともな質問だが何も考えず洞窟に入るほど俺は間抜けではないし素人のように闇雲にダンジョンへ続く道に踏み出すバカでもない。
「心配ご無用。ちゃんとこれを洞窟の入口に設置してきたから」
ポーチから取り出したのは緑色の半透明な鉱石だ。不思議そうにそれを見るトウコに俺は少し自慢げに説明を始める。
「これはリンクストーンって言って、指定した場所へ瞬時に移動出来るの。まぁ指定出来るのは一ヶ所だけだし範囲も狭いからこんな場合しか使わないんだけどね」
フォリーナでアイテムを揃えた時にほぼ全財産をはたいて2セット買ったのだが正直洞窟に入るまで存在すら忘れていた。
「ほぉ、そんなアイテムがあるのか」
「鉱石は設置していない時は透明で移動可能範囲内だと緑、設置したポイントだと黄色、移動可能範囲外だと赤に変色するの。で、黄色の時にキャンセルって唱えると設置場所を解除出来てまた次使えるのよ」
長ったらしく説明してしまったが要するにこれを使えば洞窟を経由せずとも町まで戻れるのだ。
こちらにもリンクストーンを設置して黄色に変色している方をポーチの中に戻す。
「それじゃ戻りましょ」
「な、何だ。急に手を差し出して」
「こうしないと一緒に戻れないのよ。ほら早く」
リンクストーンは複数のプレイヤーを移動させる際には使用者と何かしらの接触がなければ同時移動出来ない。それを知らないトウコの手を半ば強引に握り、俺は高々と空にリンクストーンを掲げて効力発動の言葉を紡ぐ。
「リターン」
俺が唱えると同時にリンクストーンが緑色の光の球体となって放って俺とトウコを包む。完全に緑一色となった風景に思わず目を閉じる。そして再び目を開けるとそこは俺がポイントとして指定した洞窟の入口があった。
「これは……中々」
「便利なアイテムだね。私も気が向いたら買おうとしよう」
序盤にしては使えるアイテムであることが証明された。値が張るのが少々辛いところだが後々になっても使えそうな便利さは兼ね備えてある。
「うへぇ~」
「出口です~」
ノイに連絡をしようとウィンドウを開いたのと同時に洞窟から疲労感が半端なく混じった聞き慣れた声が軽いエコーを伴って響いてきた。
「どうやら」
「ナイスタイミングだったみたいね」
トウコと顔を見合わせながら笑みをこぼす。
「ふぇ~疲れ過ぎてカナコさんとトウコさんの幻覚が見えます~」
「勝手に幻覚なんかに、し・な・い・のっ」
「あたっ!」
疲労困憊のノイにでこピンをお見舞いする。幻覚が自分に物理的攻撃が出来るはずがないと疲れているのにも関わらず瞬時に頭で理解したノイはまるで幽霊を見るような瞳で目の前に立つ俺を凝視する。
「ふぇ、何で?」
一々リンクストーンの説明をするのも面倒なので言葉巧みにはぐらかして質問を有耶無耶にした。
「ノイ」
「あっトウコさん! もう大丈夫なんですか?」
「あぁ心配かけて済まない、だけどもう大丈夫だ」
「よ、良かったぁ~」
余程心配していたのかノイは力なくその場にお尻をついてしまう。
「えっ?」
出口へと向かったはずの俺とトウコとの遭遇、洞窟を怖がっていたはずのノイが何故かトウコを心配している。そんなあり得ない状況が交わり折り重なり心身共に疲れ切っているリックの脳にダメージを与えている。
「な、なんなんだよ。何で俺だけ蚊帳の外なんだ! 俺にも理解出来るように誰か説明してくれ~!」
リックの悲痛の叫びが洞窟内へエコーのように鳴り響いている。
「ほぉ~そんなことがあったのか」
「そうなのです。あっ、トウコさんそのシロップ取ってください」
「ん、どうぞ」
「どうもです」
「ちょっと待てノイ、それは私のパンケーキだ自分のを食べろ」
リックの悲痛の声から少し経った頃、一旦フォリーナへと戻り遅めのおやつタイムの為に適当に選んだ店に入った。中に入ると砂糖やバターが香ばしく焦げた匂いが鼻から強引に気管を押し開けて肺の中を甘ったるい香りで充満させる。
これに良い反応を見せたのがノイとトウコ、それに図体デカいくせしてと文句も言いたくなるほど意外だったリックだ。俺はまぁ可もなく不可もなくって感じだから分からないがどうやら皆のテンションは上がっているのだけは確かだ。
人は見かけによらないとはよく言うがまさかリックがスイーツ好きだとは思いもしなかった。いや、俺だって個人の好みをとやかく言うつもりはないんだ。たださ、たださ、俺より身長も肩幅も一回り大きい大男がさ、小さく切ったケーキを口に放り込んで「ん~幸せ」って頬に手を当てながら満悦至極してる姿を見せられてみろ。本気で殺意が湧くぞ。
「ん~」
さっきまでの笑顔が一転し、可愛らしい眉と眉の間に深い皺を刻んでノイはフォークを咥えながら自分のホットケーキを見つめている。
「どうしたノイ、お腹一杯なのか?」
もしそうであれば私が頂こうと魂胆がバレバレなトウコにノイは首を横に振って否定の意を表す。
「いえ、常時胃の中ではブラックホールさんが活動していてまだまだ食べられるんですが」
お前の胃袋には広大な宇宙でも広がってるのか?
「じゃあどうしたんだ?」
リックの瞳に心配の色は、見えませんね。虎視眈々と獲物を狙う肉食獣の瞳に酷似しています。
ノイの食べているのは自らの顔が見事に隠れるサイズのホットケーキが5枚も重ねられたスペシャルホットケーキセット(紅茶+シロップお代わり使い放題)2590cf。聞いただけで胸焼けしそうだ。
だがそれ以上の強者が俺の目の前にいる。先程説明したリックだ。
彼の皿は見るのすら躊躇うレベルだ。ここのケーキはホールのそれを8等分されてショーケースに置かれている。それをリックときたら「このチョコケーキを、16個くらいでいいか」だってさ、ホール2つ分だって、俺ブレードを抜刀しかけたよ。
閑話休題。
「流石に大好きなものでも連続して同じ味だとあきてきちゃうのです」
「あ~」
確かにそれは同意出来る。しかも食べてるのが甘ったるいシロップのかけられたホットケーキだとなおのことだ。
「どうする?」
「うぅ」
大変だねぇスイーツ食べてる君達は。
今更ながら俺はスイーツは食べていない。小腹が好いてしまったのでピザと食後にコーヒーを注文している。丁度ピザを食べ終えたのでそろそろテーブルにくる頃だろう。それにしてもスイーツを食べている3人は大変だろうに。ホットケーキの味を変えたいのならジャムでも注文すればいいの、に……そうかジャムか!
「ノイ、美味しくホットケーキを食べきりたい?」
「ふぇ?」
無駄に自身あり気な俺に皆の視線は集中する。
「そ、そりゃ食べたいですけど」
「だよね。じゃあお皿貸して」
ノイの返事を待たずにお皿を拝借。あきたと言った割にはまだ1枚しか食べ……いや1枚も食べたのか。いかん、この3人を前にしていると甘いものに対する一般的な食する量が狂ってくる。
「な、何するつもりですか?」
「まぁ見てて」
指を上から下に振ってウィンドウを出現させ、アイテム欄から今日の朝買ったジャムを取り出す。スイーツトリオは興味津々にジャムの入った瓶を眺めている。
「これをかけて、はいどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
訝しげにノイは返されたホットケーキをみつめる。俺がかけたのは柚子から作った蜂蜜色のジャムだ。ノイはシロップを既にかけてしまっているのて酸味のある柚子ジャムで口の中がサッパリするだろうと思いかけてみた。
「ほら、心配しなくてもちゃんとお金払ったやつだし私も試食したやつだから大丈夫よ」
「そ、それじゃあ、いただきます」
恐る恐ると言った感じでノイはフォークで切り分けたホットケーキをゆっくりと口へと運ぶ。それを見守っているリックとトウコの表情は自分のことのように緊張している。あれなのかな、スイーツ好きには見えない絆でもあるのかしら?
「……あむっ!」
たかが数十㎝の距離だというのにタップリと時間を掛け、やっとノイの口にホットケーキが到達した。リスのように頬を膨らませながら目を閉じ咀嚼する姿は頭を撫でたくなる衝動にかられてしまったがなんとか堪える。
十分に咀嚼してから喉を鳴らしてノイは口の中のものを飲み込んだ。そして閉じていた目を開けると今まで見たことないほど緩みきった笑顔で俺の顔を覗き込んだ。
「カナコさん! このジャムの入手方法を教えてください!」
凄い食らい付き方だ。すぐ隣に座っていると言うのに俺の太腿に手を置き、それを支えにこれでもかと身体を乗り出して顔を接近させてくる。君は俺が男だっての知ってるよね、ちょっとは恥じらいってものを持ってくださらないだろうかーー
「な、何だそんなに旨いのか?」
「これは旨いてなんてレベルじゃありません! このジャムの味を知ってしまったら他のジャムなんて一生口に出来ません!」
いやそれは嘘だろ。俺試食したけどそこまで依存症状みたいなの起こってないぞ?
「カ、カナコ。私にもそのジャムをもらえないだろうか?」
1人が食らい付けば連鎖的に他の2人も反応しだす。
「あぁちょっと待ってね。こらノイ、後でちゃんと教えてあげるから今は静かに食べてなさい」
「ぶ~ぶ~」
口ではそう言いつつもしっかり右手にはフォークを握って器用にホットケーキを切り分けながら無言で食べ始める。素直な娘は大好きです。
トウコの頼んだのはノイと同じサイズのパンケーキだ。だけどその枚数は2枚とノイの半分もない、こちらもノイと同じように1枚食べきっている。
「あれ、トウコはシロップかけないの?」
「あぁ、嫌いではないのだがどうも口の中が甘ったるくなるのは好きじゃないんだ。どちらかと言えば自然な甘さが好みだ」
なるほどなるほど、となるとトウコにはこれの方がいいかも。
「これは、ノイのやつとは違うように見えるが?」
「うん、それはオレンジを使ったもの。酸味と甘味が見事にマッチしてるから好きだと思うの」
トウコは常識があるので瓶ごと渡しても大丈夫だろう。ノイに渡してしまうとある限り使い切ってしまいそうだから俺自らかけたのは秘密にしておこう。
「それでは遠慮なく」
嬉々の表情でジャムをかけながら目を輝かせているトウコはいつものギャップが大き過ぎて少し引いてしまうレベルだ。
「な、なぁカナコ」
「あっ、リックもいる?」
「く、くれるのか!?」
「私はそこまでスイーツにこだわりはないし持ってても余りそうだからね」
「ありがてぇ、ありがてぇ」
リックには木苺のそれを瓶ごとあげてしまったが喜んでくれたようだしまぁいいんだけどさ……
「あなた達とはもうスイーツは食べに行きたくない」
「ん、何か言ったか?」
「ううん、何でもない」
その後テーブルに運ばれたコーヒーを俺は何も入れずにブラックでいただいたんだけど、これが不思議なことに地味に甘く感じたのは気のせいだと信じたい。




