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Returnee―黒猫が帰った日

作者: 錬徒利広

ややホラー的な要素が含まれています。苦手な方はご遠慮ください。

イザークが「汝は我が子エーサウなるか」と質しければ、

「然り」とヤコブは答えて云えり。


―創世記 第二十七章



獣の咆哮のような声で目が醒めた。最初は夢かと思っていたが、どうもそうではないらしい。はっきりとした布団の感触があったあと、傍らにおいてある電子時計が「二時三十分」と暗闇の中輝いていた。

ギャアアッ、ギャアアアッと言う声が断続的に自分の部屋に響いている。しかし、どこから聞こえてくるのかは分からない。それに、何者かの怒り狂うように叫ぶ声も聞き取れる。うわあああっ、ギャアアアッと、引っ切り無しに続く。

数分が経ち、何かを叫んでいる人物は漸く何を言っているのかが分かる日本語を放った。

「や……早くしないと……こいつら、逃げて……いやあいつが逃がして……」

 ギャアア、ギャアア。声は止まらなかった。

 そうだ、あたしの家は二階建てで、その二階にあたしが居る。一階は両親の区域だ。両親は気付かないのだろう、下からは何も物音が聞こえない。そうと分かると、すぐに声のする方に意識を向けるのを再開した。

 起きてから何分か経過している。だというのに、相変わらず狂気の滲む声は双方強勢だった。だが次第に、意味不明の叫びから、ある特定の単語を聞き取ることができた。

「お前ら、待て!」

それは、聞こえ始めてから幾度も繰り返された。声を何かに浴びせかけるように、執拗に繰り返されていた。

そして、それから少し経ってから、ギャアアという絶叫の中に一際大きい雄叫びが混じった。これまでは声から怒りしか感じ取れなかったが、雄叫びは怒りというよりも苦しみに近いものだった。

「うわああああっあああああっあああ――」

再び男の声が木霊する。今度は一変して、何かに対して恐れを抱いているような、そんな感じの呻きのような声だった。

そして、次第に声にデクレシェンドがかかり、また数分経って漸くこの場が静寂を取り戻した。


†††


その時のことはあまり頭に残っていないものの、翌日忌まわしい記憶が夢ではないことを裏付けられた。

あたしの家――加古家を少し下ったところには出塚さんの家があって、その隣には横山さんの家が位置している。それで、その隣には薄汚れた感じの公園があった。公園全体を囲っている鉄柵はあたしが物心ついたころには既にボロボロに錆びており、当時は三つあったブランコも朽ちていったのか、今では二つに減っている。

 その公園を通り過ぎようとしていたところだ―。

 道路に、黒いペンキのような物が飛び散っていた。その飛び散り方は、まるで昨晩の叫び声を視覚に対して再現しているかのようだった。


†††


「三年前くらいの話なんだけどね……ほんとに怖かったんだよ」

「へー。俺と夕菜が小六の頃か」

「そうだね」

 あたしは、小学校にいた頃から知り合いの芳原英章とオレンジ色のアスファルトを歩いていた。

「俺もここはよく通るけど、そんなことがあったんだー」

 英章とこの道を共に歩いているのはつい最近の事だ。それ以前はお互いの事についてあまり興味がなかったから、簡単なあいさつを交わすくらいだった。ところが最近になると、自分の女友達はみな男の“相手”を持つようになったのだ。決して付き合っている訳ではないが、帰り道を共にしたり、ただ日常生活で深めの関係を持つ。それが学校における交際のルールなのかもしれない。

 あたしの帰り道は比較的一緒に帰ることの出来る男が少なかったから、英章を選ぶ他なかった。学校には彼より良さそうな男がまだいたけれども、自分と一緒に帰れるという条件をつけると、上位の男たちは選択肢から消える。

 だがそれなりに楽しかった。人は外見ではなく、中身が大切だ、と口ではよく言われるものの、あたしの心の中にはやはり顔つきや風貌といったキーワードが渦巻いていた。ところがいざ付き合ってみると、相手の隠れていた部分が見えるようになってきた。彼は今あたしにとって、友達から相手に、そして恋人になりかけていた。

 英章と横に並ぶとどうしても自分をよく見せたいという欲望が生まれてしまうが、夕暮れ――否、見えない何かがそれを丁度いい具合に抑制してくれる。

 そんな不思議な感覚を持って歩いていると、いつの間にかあの公園の側まで来ていた。

「そうそう、この辺りに血糊があってさあ」

 あたしは半ば興奮した感じで話していた。地面に屈み、英章を見上げる。

「ああ、確かに。何か痕があるね。ちょっと色が違う」

 英章は膝に手をついてアスファルトを睨んでいた。確かに、夕焼けの中でも言われてみれば何となく違いが分かる。それがある部分は、アスファルトの上から何かを塗ったような、鈍い光を放つ艶があるからだ。

「まだ話したいことがあるの。今日はいい?」

「ああ、家帰っても暇だし」

 あたしたちはいつものように公園の中に入っていった。エントランスに咲いている赤いコスモスが、あたしたちを祝福してくれているかのようだった。

それはいつの間にか、日課になっていた。丁度二人のために用意されたかのような腐りかけたブランコが、今日も優しい目で夕日を見つめている。そんな気さえさせる、不思議な空間だった。

 ブランコに座ると、そのまま軽く体を前後に揺らす。板を吊っている錆びた鎖が軋む音が幼い日を思い出させる。上空には、変わる事の無い夕焼け空がどこまでもひろがっていた。

「夕菜、あれ、また増えてない?」

「え? あ……ほんとだ」

 砂場には、誰がつき立てたのか分からない卒塔婆のような物が数本佇んでいた。ただ少々作りが雑ではあったが。いずれの卒塔婆をとっても何も書かれていないので、誰かが死んだ訳ではないのだろう。

「何本あるんだ? これ」

「二、四、六、……十二本」

「何か嫌だね、ああいうのがこういう所にあると」

 淡々と話しているようにも見えるが、つき立てられた卒塔婆を心底嫌がっているということが伺える目つきだった。

「そうだね」

「ま、冗談だろうけどね」

 あたしは、彼に真実を話すことはなかった。あの卒塔婆は最初から何本もあったわけではない。

 アスファルトの血糊を最初に目撃した日の翌日、公園の砂場に最初の卒塔婆がつき立てられていたのだった。しかも、砂場には何度も掘り返したような痕跡まであった。その下を探ってみようかとも思ったものの、咄嗟にその考えを振り捨てた。冗談だ。名前も何も書かれていないし、冗談に違いない。だが、もし本当になにかあるのだったらどうしようか。卒塔婆は人間が死んだ時に使われるものだ、という知識があったから、少し日が経つまで、公園を通り過ぎるとき「人間が埋められているかもしれない」という違和感がまとわり付いてきた。

 事件はそれで終りではなかった。あたしが中学校に上がった頃、卒塔婆が一本増えていたのだ。まさか本当に人間が、とは思ったが、その頃からどうもおかしいと感じるようになってきた。

卒塔婆はどんどん増えていく。その真犯人は近所に住んでいる子どもたちだった。ある日、子どもたちが面白半分に卒塔婆を植えつけているシーンを目撃したのである。そのとき彼らはあたしを見て、怒られるとでも思ったのか、一目散に逃げ去った。

 最初に卒塔婆を立てたのは誰だか分からない。だが、すべていたずらであったことは確かだ。大体、卒塔婆なんて公園の砂場に突き刺すものではない。

 英章がはあ、と浅い溜息をついた。

「いつから子どもってこんな残酷になったんだろうね」

「あたしたちも子どもじゃん」

 場に、小さな笑いが生まれる。あたし達もまだ中学二年生だ。偉そうなことは口だけに留まる。

 その時だった。公園の入り口に向かって、二匹の子猫が遠くから這ってきた。一匹は黒と白の縞模様、そしてもう一匹はところどころに黒斑のある猫だった。二匹の存在には薄々気付いていたが、反応することは無かった。

「あ、見て見て、英章」

 あたしは微笑んで、子猫のいる方を指差す。

「猫? 可愛いね。何て喋っているんだろ?」

 みい、とあくびをしたような声を出しながら寄り添い、落ち着かない様子であちこちを探るように見回している二匹の子猫。もしかすると、自分たちと同じようなことを話しているのかもしれない。

「あたしたちも、猫みたいに気軽に生きられたらいいね」

「でも、猫ってこんな風に会話できるの?」

 珍しく、あたしの言葉を英章が打ち返してくる。

「それって、どういうこと?」

「あれ、昔習わなかったっけ。人間の脳ミソが一五〇〇ccなのに対し、猫は二五〇ccくらいだから、あまり賢くないんだって。だから、こんな風にできたかどうかは分からないよ」

「でも、あの二匹だって楽しそうじゃない」

 あたしは猫を見つめたまま、少し強めにブランコを漕ぎはじめた。

「猫でも飼おうかな」

「ちゃんと面倒見られるの?」即座に、英章が試すように聞いた。

「そ、そりゃもちろん」

 あたしは、少し強めに返事を返した。

「でも、ペットショップで買うんだったら結構お金かかるよ。それにエサ代とかも。あるの? 金」

 ――そうか、金銭面の問題があったか。

 英章が面倒を見切れるかどうか質問してきて答えられなかったのも、もしかするとそのせいかもしれない。十分な小遣いも無く、ただ「飼いたい」という気持ちが頭の中を漂流していただけなのだ。

「エサなら自分のものをあげれば済むよ。で、猫はどっかから譲ってもらう」

「まるっきり、計画性がないな」

 正面の猫が、話題を悟ったかのようにこちらにむけて甘い声で鳴いた。

「じゃあ、あの猫を飼うってことはできないのか? それともあれはもう誰かが飼ってるのかな」

 彼も漸くその気になってくれたらしい。少し強張った気持ちが、ふっと緩んだ。

「ああ、あれは横山さんの猫。あたしが中学校に入った頃に生まれたらしいよ。お母さんから聞いたんだけど」

「へえ、じゃあまだ二、三歳か。まあ、あんなに増えると一匹あたりのエサも減って少し小さめになるのかな、全体的に」

 英章はブランコから立ち上がると、猫に向かって地声で「にゃー」と呼びかけた。二匹の猫はその場で背筋をぴんと伸ばした後、すぐに散った。

「お母さんには、もうそのこと話したの?」

 うんざりしたように、あたしはかぶりを振った。

「今考えたばっかりのことだもん。それに、お母さんが認めてくれるかどうかも分からないし」

「そっかあ。でも、言ってみる価値はあると思うよ」

 あたしは足元を見つめた。あまり素直になれないのはどうしてだろうか。

「じゃあ、まず横山さんに相談してみるね」

「ま、それが先かもな」やや間あって、英章は呆れたような声を出した。

「そろそろ帰らないといかんな」

 ふと、また空を見上げた。夕焼け空が、くすみかけている。こうやって気長に話している間に、随分時間が経ってしまったらしい。

「また明日だね」

「ああ」

 あたしがブランコから立つと、少し間があって彼がブランコから立った。そしてのろのろとあたしの後をついてきた。英章とあたしの間には、やはり少なからず距離がある。そう思いながら足早に公園を出ようとした。

「おい?」

 藪から棒を突き出すような声で、英章があたしを呼び戻した。

「これ、はじめは何本あったっけ?」

「確か、十二本じゃなかった?」

 あたしはもう一度、卒塔婆の数を指を折って数え始める。二、四、六、八……

「十三本」

「なあ、俺たちの他に、今の間に公園にだれか入ってきたか?」

「え……?」

 そんな馬鹿なはずは無い。つまり、卒塔婆の数の増減は誰にも出来ないはずなのだ。なのに、今数えた卒塔婆の数は、元あった十二本よりも一本多い十三本。

「数え間違いってことは?」

 英章が問いただした。あたしはもう一度入念に数え始めた。ついさっき数えた時よりも辺りは確実に暗くなっている。時の経過は早い。

「どう数えても十三本しかないよ?」

 あたしたちの周りに、夜の訪れを告げるかのような黒い空気が流れていた。

「じゃあ、きっと十二本だったときの数え間違いだ。そうだろ?」

 そういっているものの、その喋り方はぎこちなかった。だがそれを言った後、英章はあたしの肩を叩いてくれた。心配ないよ、と言っているように。

「帰ろう。もう暗くなってきている」

 あたしは何も言わずに、英章にぴったりと寄り添うようにして歩き始めた。家に着くまでもう少しだが、それにも構わず寄り添って歩き始める。

 もう一度後ろを振り向いた。

 そこに存在しているだけであるはずの十三本の卒塔婆が、制服のスカートの裾を引っ張っているかのように見えた。


†††


「行ってきまーす」

 玄関から、キッチンにいる母に向かってそう言った。父はもうこの家にはいない。父の仕事は一日十時間勤務で朝が早い。その代わり、金曜日と土曜日、そして日曜日が休みである。だから平日は父と朝食を食べる機会が無いのだ。

「行ってらっしゃい」

 家の中からやや遅れて母の声がした。それを聞き取ると、すぐに玄関を出て眼を擦りながら歩き始める。

 行きは英章と一緒ではない。あたしは吹奏楽部、英章はバスケットボール部に所属しており、もうすぐ新人戦の時期である。毎朝朝のトレーニングに励んでおり、地区大会出場を目標にしているらしい。あたしの友達もバスケットボール部だが、男子と女子とでは練習の方法や時間少し異なるだという。だからあたしには英章がどのようなことを行なっているかを知ることは出来なかった。

 それにしても、今日はまた一段と暑い朝だ。

 学校にいる生徒ではもう冬服を着ている人もいるみたいだが、あたしを含む大多数の生徒はまだ夏服だった。まだ秋に入ったばかりだ。涼しい、というよりもまだ暑さが残っている。

 公園の近くにはゴミ置き場があって、そこに数人の主婦が雀のように集って立ち話をしていた。卒塔婆が突き立っているような公園でも、人間が話す場所としてはなかなかいいものなのだろう。母も今日はゴミを出す日だといって朝から少し忙しいようだった。母もあの輪の中に入っていくのだろうか。

そんなことをちらちらと考えてながらそこを横切ろうとした。少しでも油断したら輪の中に連れ込まれそうだから、自然な表情で主婦たちを避けて通る。

「おはよう、加古さんのとこの」

 主婦の中の一人があたしに声をかけた。隣の出塚さんだった。あたしは一瞬、しまったというような表情をしてしまったが、すぐに作り笑顔を見せた。あ、おはようございます、と小声で返す。だが予想に反し、出塚さんはまた会話に戻った。どこから来たかしらない安心感が、身体に巻きつけられた緊張感を解く。あまりこういう輪には加わりたくないものだ。

「ほら、あの砂場、見てよ。やーねえ」

 輪から完全に距離を置いたと思ったその時、出塚さんがそう発した。彼女たちも、きっとあの卒塔婆を嫌っているのだろう。彼女が話し始めたら、それが終わるまでは誰も横から話で割り込むことはしなかった。それほど、勢力があるのだろうか。確かに背は低いが貫禄がある。そのせいなのだろうか。

 彼女は卒塔婆について、自分の見てきたことを語り続ける。その声は少し怯えたようにも聞こえた。

「うちはね、今日数えたら昨日より一本増えてたの。十三本にね」

 そう聞こえたと思うと急に、あたしはその場にピタリと静止した。

 出塚さんの「一本増えていた」という言葉に足を止められたのだった。出塚さんも、卒塔婆の数に気付いたのだろうか?

やはり、あれは数え間違いではなかったのだろうか?

だが、仮設するならば、まだ二つの原因がある。一つ目は、出塚さんが昨日、日中に卒塔婆の数を数えて、それを夕方あたしが数え間違えた、という理由。二つ目は、出塚さんもあたしも卒塔婆の数を数え間違えた、という理由。

いずれにしても、可能性が低いということは確かだが。

「あんなの、早く捨ててしまいたいわね」

 それを聞いた主婦の一人が言う。

 あたしは、そうだ、と思いながらまた歩き始めた。


†††


 英章からでも不安を取り除いてあげたい、あたしはそう思い、作り話も交えて自分の推測を話すことにした。百パーセント嘘ということではないから、悪いことではないだろう。だが、その中に一パーセントでも虚偽が混ざると、やはり嘘になるのか。

「あの卒塔婆、やっぱりあたしの数え間違いだよ。お母さんもあの卒塔婆数えてて、今日見たらやっぱ一本増えてた、って」

「そっか、それならよかった」

 英章はあたしの話を聞き終わると、ふと公園の方角を見つめた。あまり気にかけてはいなかったらしい。

「今日も行くの?」

 あたしは、ううん、と言った。今日は行きたい気分では無いから真っ直ぐ帰ればいい。問うてきた英章は、口調からしてどっちでもいいのだろう。

「じゃあ、いいや」

 入り組んだ道を歩いている。影になっている部分は、もう空気が暗くてアスファルトの継ぎ目が見えない。

「ところでさ、昨日言ってた猫の件、親にはもう言ったの?」

「ああ、あれね」

 あたしは曖昧に返事をした。


 実は、そんなことをいうどころではなかった。家に帰ると母から「あんたは、家で猫飼ってるの?」と物凄い口調で言われた。どうやら立腹していたようだ。あたしは自分の考えに反して「飼ってないよ、そんなの。どうしたの?」と聞き返した。そうすると、母はこんな一言を発したのだった。

「今日ね、町の役場から電話があったのよ。お宅猫飼ってませんか、って。それで、猫飼ってるなら人に迷惑がかからないようにお願いします、苦情が出てるんですって言われて。で、あたしは猫なんか飼ってませんよ、って言ったんだけどね」

 あたしはそれを何食わぬ顔をして聞いていた。だが、心臓が冷やされていくような思いだった。

「何でそういうことになるかって言ったら、やっぱりあの横山さんよ。あのジジイさえ何とかしてくれれば、こういうことにならなくて済むんだけどね」

 母の独演会は、もう止まる事が無かった。

「大体、あんなに猫を増やすからいけないのよ。きっと、これからもどんどん増えていくわ。ああ恐ろしい。横山さんにもちゃんと言わなきゃいけないね。それと、あそこの猫にエサとかやるんじゃないよ、いいね」

 そして母はキッチンへと行った。その話を聞いてから、数秒そこに立ち尽くしていた。


「ふーん、そういうことがあったんだ」

 英明は昨日の出来事を聞いている途中、頷くしかしなかった。

「やっぱ、飼うなら言わないとマズいんじゃないの?」

「そうかな」

 あたしは笑い混じりに、英章の言葉を受け流した。英章も、あたしに合わせて微笑んでくれた。ふと、空を見上げる。もう、夕焼けの空ではなくなりつつあった。

 猫、飼えなくなるのかな。昨日あの猫達を見てから、無性に猫を飼いたい、という気持ちが自分の中に芽生えつつあったのだ。

 だが、それも無理なのか。

 あたしは大きな、そして重い溜息をついた。このまま、静かに今日が終わる。そう思っていたときだった。

「おい、あれ……あれを見てくれ! 夕菜!」

 英章が、闇を切り裂くような声で叫んだ。英章が凝視している方向をあたしも見る。そこには赤いコスモスが数本咲いていた。

「公園?」

 いつの間にか、公園まで歩いてきたようだ。英章が複雑な表情で砂場の方向を見ている。あたしも釣られてそちらの方を見た。暗がりの中に、数本の卒塔婆があった。だがよくよく見てみると、それらは直立していなかった。

 あたしと英章は顔を見合わせると、静かに頷きあった。そして、砂場の方へゆっくり歩き出した。外灯が僅かな灯りをこちらに当てている。それだけを頼りにして進んでいった。

 だが、暗闇の中では何も見えない。おそるおそる歩いていると、足が何かに躓いた。口から、わっと漏れる。

「おい? 大丈夫か、夕菜」

 あたしは答える前に、自分の足元を見た。何に躓いたのだろう、といぶかしむように。石か何かかと思ったら実はそうではなかった。そこにあったのは、あの砂場に刺さっているはずの卒塔婆だった。

「そ、卒塔婆?」

「あれ、見てみろよ」

「え?」

 促されて見てみると、バラバラに散った卒塔婆が目に入った。つい今朝まで立っていた卒塔婆が、無残に散らかされている。誰の仕業だろうか?

「恐らく、ここら周辺の人が片付けたんじゃないか?」

「そう、だろうね」

 英章は、脅かすなよといった感じでわざとらしく溜息をついた。だが、これであたしは不安を完全に拭い取れたわけではなかった。

 嫌な予感がしたのだ。

 何だか、これからもっと不幸な事が訪れるような、そんな感じだ。きっとこの卒塔婆に躓いたのはまだ不幸の序章に過ぎない。この先、崖から転落してしまうかもしれない、もしくは、それに似た事件が起こる――。そんな感じがした。


 昔からあたしは、危険を感知できる人間だと言われてきた。小学生の時から、あたしは友達の身に降りかかることを予告できたのだ。例えば、今日は帰ったら何らかの理由で家族に叱られる、と言ったらそれが本当に当たったり、帰り交通事故に会うかもしれないよ、と言ったら本当に車に当たったり。そして最後――あんたのおばあちゃん、今日死ぬかもよと身近な友達に言った。そうすると、見事に当たったのだった。

 お前はそういって、実は全部お前のせいじゃないのかと先生から言われたこともあった。その時には親も来て、二人で必死に対処した。

 あたしは起こる現象を予告しただけであって、自分が起こす現象を予告した訳ではない。だから、これはあたしのせいでは無い。大体、現在の科学ではそんなことが解明できるはずは無いのだ。

 しかしその能力を濫用することは、その後一切しなかった。それまでの予告が蓄積されて「未来人」だとか言われていじめられた時期もあった。今でもあたしに対してのいじめは完全に消えている訳ではない。周りからの視線が、毎日痛くて仕方なかった。

 あたしはよく人から顔つきが整っているだとか、綺麗な人だとか言われているのだが、“予告”のことを知っているひとは意識的にあたしを疎んでいる。だからあたしの周りからはどんどん人が消えていったのだった。あたしが“相手”として選べる男子が少ないのには、そういう背景もある。

そんな中、“予告”していた時期のあたしをよく知らない英章が、あたしの“相手”をしてくれたのだった。確かに、あたしよりモテる子がいて、それに劣等感を感じることも多々ある。だが、一人でも自分のことを大切に思ってくれる人がいるならば、それでいい。そう思って自分を宥めた。

 だが、それだけでは済まされない罪悪感があった。


 いや、今の自分がここにあるのだから、これでいいんだ。あたしは、英章の名を小さく呼んだ。

「何だ?」

 言葉が出てこなかった。

「あ、えーと、何でもないよ」

 結局、それしか言えなかった。英章に感謝するなんて安っぽい行為は、あたしには出来なかった。とにかく、弱い手綱でもいいから二人の間を結んでおきたかった。だからあたしは英章の心を探りにくいのかもしれない。普段から、そういった話は避けている。

「なんだよ、呼んだだけか」

「あ、足元暗いから気をつけてね」

 あたしは漸く、それだけ発した。

「ああ……」

 笑い混じりに、英章が漏らす。その会話中、あたしたちは目をあわせることは無かった。

 ふと、目の前の光景に立ち返る。卒塔婆が目茶目茶に荒らされており、中には折れているものまである。

「誰だろうな、こうしたの」

「さあ……」

「まあ、いいってことだ。このまま残ってたってしょうがなかったしさ」

「ま、まあね。今後また立たなくなるといいね」

 英章は一度大きな欠伸をすると、さて、帰ろうかとあたしに向かって告げた。はっきりと。

 あたしは無言で、彼の後をついていった。

 望みどおり、卒塔婆は今後一切そこに立つことは無くなった。


†††


 今日は早く帰ろう、そう思っていた。英章と別れて、真っ直ぐに家路を辿る。腹が鳴った。今日のおかずは何だろうか、考えはもうそっちの方に行ってしまった。

 だが、そのまま家に帰れることはなかった。

「じゃあ、あんたは柵でもなんでも張ればいいじゃないか!」

 そんな、鋭い声が聞こえた。三年前の夜を彷彿とさせるような声だ。口調からしてすぐに、横山さんの声だと分かった。家のすぐ近くだ。一体こんな時間に、何を話していると言うのだろう。

「困ってるんだよ、あんたのせいで。あんた、これから猫をどれだけ増やすつもりなんだ」

 そして次に聞こえてきたのは、手塚さんの声だった。そういえば、手塚さんは昔から横山さんを猫のことで嫌っていると聞いたことがある。道の中央で話しているため、横か通るのは気まずい。暫くその場に立ち止まり、二人の会話を聞くことにした。今この周辺で何が起こっているのか、ひとまず知る必要があった。

「確かに猫を飼うのはいいかもしれない。まあ、二、三匹ね。でも、あんたの場合は違うのよ。これ、見てみなさい」

 それを言い終えたかと思うと、直後、これまで聞いたことの無いような声を出塚さんが放った。こらああああっ、という叫びが聞こえてきたかと思うと、自分の家の方向に向かって走っていった。

「そこはうちの家だ! 入るな! 死ね! クソッ、クソオオオッ!」

 あたしはその声に背筋を凍らせた。普段は柔らかい口調で話す出塚さんが、今はそれを思わせない、恐ろしい金切り声で猫を追い払っていた。足音までがリアルに伝わってきた。

あたしは公園のほうへ逃げた。

 暫くヒステリックな絶叫が続いた後、また辺りは静寂を取り戻した。そして、猫が二人の方で鳴き始めた。「やめろ、やめろ」とでも言っているかのように、切なく。あたしはそれをもどかしく聞いていた。そして完全に空気が静寂を取り戻した時に、二人が目に映る場所まで移動して様子を伺い始めた。

「何匹いるの、あんたの方」

「ああ、今は……十五匹いる。いや、今から子どもが生まれたらまだ増えるだろうな」

 辺りには、二人の声以外何も響かない。

「だったら、どうにかしなさいよ。これから何匹増やすつもりなのよ」

「俺はもう、面倒が見切れない」

 段々と、横山さんの声が弱くなっていった。それに反比例するように、出塚さんの口調が強くなっていく。

「だが、嫌だったら柵でもつければいいんだ。何にもしないあんたにも、責任がある」

「違います。あたしは何にもしてない」

「環境の変化だ」

「違う違う。あなたの責任でしょう。どっちにせよ、自分の猫なら、自分で面倒見なさいよ」

「でも、俺はこいつらを保健所に連れてって殺したくないんだ」

「それだったら、横山さんが自分の家に柵をつけるとか」

 猫は二人の話している内容を知らないのだろう。ただ「やめろ、やめろ」と楽しそうに鳴いていた。ふと、昨日の英章との会話が脳内に再現される。猫の脳の容量は、二五〇ccだ。何も考えることができない。

「そうでもしないと、うちだけじゃないわ。他のところも困ってるのよ。第一ねえ、こいつら人の家に勝手に入りこんで糞するのよ。それに、不潔でしょ。どこ這ってきたか分からないような猫が、どんどん増えてって、それで人の家をメチャクチャにする。横山さんどう思ってるの、それは。何か解決策でも出しなさいよ。原因は、全部あんたでしょ」

 横山さんはそれをただ、口を噤んで聞いていた。そして、頷いたまま殆ど何も喋れなかった。いや、何か喋っているのかもしれなかったが、あたしには聞き取れなかった。

 その時だった。あたしの後ろから、みい、という鳴声がした。至近距離だったので心臓が跳ね上がりそうな思いをしたが、すぐに動悸は治まった。落ち着いて後ろを振り向くと、あたしの前に二匹の猫の姿があった。きっと、横山さんの猫だ。一匹は真っ黒な猫で、もう一匹はそれと対照的な純白の猫だった。もう一度、二匹がほぼ同時にみい、と鳴いた。今起きている状況を背景として二匹の姿を見てみると、「助けて」といっているようにも聞こえた。だが、あたしにはどうすることもできない。

 いや、一つだけできることがあった。確かにモラルには沿っているが、決して許されない行為だ。

 猫を飼う。そうでもしなければ、この猫たちは殺されてしまうかもしれない。あたしはこれまで自分の口から出た言葉によって、沢山の人々を不幸な目に合わせてきた。もうこれ以上、何かを不幸に陥れる訳にはいかない。人間は身勝手な生き物だ。それで他の動物が不幸な目に合っている。あたしにとって、今猫を飼うと言うことは、せめてもの罪滅ぼしだった。

 そして、こんな状況にあるからこそ、誰かにそれを言う訳にはいかなかった。もちろん家族にもそのことは言わないし、横山さんや出塚さんにも言わないつもりだった。少しでもこの子達を生かしておきたい。生きていればなにかいいことがある。その証明を行なうのだ。そう、あたしは進化する。生命を幸せに出来る人間に。心に、強くそう誓う。

 まず、あたしは猫たちに優しく手を伸ばした。するとそれを怪訝に思うように、二匹の猫がみい、と鳴いた。あたしは小声で、大丈夫だよ、と宥めながら、手を伸ばす。すると、黒猫が爪を剥き出しにしてそれを引っかこうとした。あたしは驚いて、少し手を引っ込めた。いや、そう見えただけかもしれない。実は、握手でもするような感覚で手を出したのかもしれない。

もう一度手を伸ばす。すると黒猫の方は毛を逆立てて逃げていった。白い方の猫も一瞬その姿を見たが、その場に留まっていた。あたしは、その猫に手を差し伸べた。すると、猫がその手に目をやった。そして、一瞬あたしの顔を見てから手に忍び寄る。指先を探るように嗅ぐ仕草を見せてから、中指を小さな下で舐めた。

――この子は、心を開いてくれるんだろうか?

あたしは反対側の手もゆっくりと差し伸べた。すると、両手の間をするりと通り抜け、あたしの堂に向かってのろりと歩いてきた。そしてもう一度、あたしの顔を見てあどけない声でみい、と鳴いた。

あたしは何も言わずに、猫を手で囲んだ。猫はスカートの上に手を伸ばし、胸に飛び込んできた。そしてそこにしがみ付くようにして留まった。あたしは猫を、両腕の中に納めた。そして、猫の持っている生命の温もりを感じた。自分がその子を抱いているのに、自分がそれに抱かれているような感じがした。まるで、母親に抱かれているような。

母親に最後に抱かれたのはいつだろう?中学校に入ってからは、両親と抱擁していない。なぜだろう。自分で、彼らに距離を置いている。友達がそうだったから、だろうか? いや、あたし自ら、抱かれることを拒絶していたのだ。そんな権利が無いと思ったのだろうか。あたしは人に怪我をさせ、人を殺した。そんなこと、許されるわけが無い。そう思っていたのかもしれない。

「出て行け、コラ! コラアアアッ! そこは私の家だ! 出て行け! 去れ! 死ね! お前らなんか死んでしまえばいいんだ! 死ね死ね死ね! オラアアアアッ! クソ猫! 失せろ失せろ失せろオオオッ!」

 出塚さんの罵声が聞こえた。横山さんの声は聞こえなかった。

あたしの抱いている猫ははしゃいでいるような息をついている。とても暖かかった。それに、こんなにも小さいのに、体重はとても重かった。

「許して、くれるの?」

 その子が全てを知っているような気がした。だが、その子がその質問に答える事は無かった。駄目だよね、許してくれないよね。

 また、みい、と猫が鳴く。あたしの目から、とめどなく涙が溢れてくる。許されないはずの罪科。だが「知らないよ、そんなこと。それより、元気出してよ」というように猫が吐息で首筋をくすぐった。あたしはごめんね、ごめんねと言いながら嗚咽を漏らした。

 そして決意した。この子を殺されてはいけない、と。

 そのまま数分そうしていたが、横山さんと出塚さんの喧嘩が終わると、あたしはその白猫を殆ど何も入っていない手提げの中に入れ、家へと向かった。部屋に、隠し持っておくつもりだった。


†††


 その日の夜から、あたしはその白猫を部屋に閉じ込めるようになった。そして、不定期的に食事を与えるようにもなった。今晩は、食べ残した鶏肉の唐揚げと普通の水道水を与えた。猫という動物がそれを食べるかどうかは分からなかったが、あたしが部屋に持っていくと残さず食べてくれた。そして満足したような顔つきで、自らの身体を舌や足を使って掃除し始めた。そして、あたしの身体を舐めるのである。手、腕、足。いろんな所を、味わうようにして舐め回す。

「おいしい?」

 可笑しさに頬を綻ばせてそう言った。

 奇妙なことに、この猫はあたしを舐めるのが好きらしい。暇さえあれば、いつもあたしを舐めていた。一日が辛くても、この猫が舐めてくれるから『辛』と言う文字に、一本の線が加わって『幸』せな気持ちになった。猫に対してあたしが何かをしないといけないのに、あたしが猫に慰められているような気がした。

 あたしはその猫に『救世主』と言う意味も込めて、サイアという名前を付けた。最初の内は名前を呼んでも反応しなかったが、少しすると名前を呼べば反応してくれるようになった。

 だが確かに猫を飼っていく上で大変なこともあった。一番大変なのは糞尿の処理だった。飼いはじめた日の翌日、最初部屋にぶちまけられた時はあたしもさすがに参ったが、それ以降はトイレ用のサンドを購入し、それを段ボール箱の中に入れて「これにしなさい」と教えた。

サイアを育てるのには、十分な小遣いがあった。しかも、家族はあたしの許可を得ずに部屋に入ってはならない、とあたしが言っているから家族があたしの部屋に勝手に入ってくることは無い。だから安心してサイアを飼うことができた。

 サイアは、いつでもあたしの身体を舐めるのが好きだった。部屋に帰ってくると、いつも身体を舐めまわす。それでサイアとの一日が始まるのだった。確かに大変なことも幾つかあるが、そんなことは問題ではなかった。それよりも、遥かにサイアとの楽しみの方が大きかった。

 もう、近所の猫問題も何もかも忘れて、サイアとの生活に夢中になり始めていた。


†††


 飼い始めてから一ヶ月が経とうとしていた日のことだ。朝起きると、あたしの布団の中からサイアがにゅっと出てきた。寝る時も、一緒だった。

「サイア、おはよう」

 あたしが胸にサイアを抱いてそう言うと、サイアはそれに答えるようにみい、と鳴いた。サイアはあまり鳴くことがなかったから、家族にもばれる心配が無かった。

 ただ、最近になって少し困ることがひとつあった。一ヶ月前は完全な白色の毛を持っていたと言うのに、今は少し黒っぽい毛になってしまった。病気ではないだろうか、とも疑ったのだが、どうもそれらしい異常はこれといって無かった。異常といえば、あたしを舐めるのが好きなことくらいだ。むしろ、それが成長の兆しなのかもしれない。サイアとの生活は至って順風満帆だった。

 あたしはごめんね、とサイアを部屋に残し、ダイニングルームへと静かに向かった。部屋に入り、あたしは小さく「おはよう」と食器を忙しく洗っている母に声をかけた。必要最低限のあいさつだった。

「そうそう、最近、近所の猫がおとなしいのよ。こっちも安心だわ」

「へえ……」

 そういえば、最近猫が暴れまわるのを見たことが無い。横山さんか誰かが、ちゃんとしつけをやっているのだろうか。腹を立てていた出塚さんも、最近あまりうるさくない。やっと、平和が戻ってきたのだろうか。

「ねえお母さん、この猫騒動っていつから続いてるの?」

 大体分かっていたが、それをわざと聞いた。

「この騒動ねえ、ああ、確かあんたが小学六年生の頃じゃなかったかしら。あの頃、横山さんの猫が子どもを産んだのよ。それであんなに増えちゃって、どうなるかと思った」

「どうなるか、って?」

「あたしの家に入られても別に問題じゃないから出塚さんみたいな考えは持ってないけど、避妊手術とか何とかしない限りはどんどん増えていくでしょ? それが心配なの。よくあるでしょ、収容施設でやせ細った動物。ああいう風になってしまって、こっちにも連帯責任が生じたときはどうしようもないわ」

 母は食器を洗う手を止めて真剣に話している。あたしはその一文字一文字がとても重いように感じた。

「ま、そういう問題はあるけども、あっちがちゃんとしてくれればこっちだって何も言わないから、いいや」

 また、母は無言で食器を洗い始めた。

 最近は何故か猫が大人しかったので、出塚さんもうるさくなくなった。そして母も、以前より猫に対しての嫌悪感を剥き出しにすることは少なくなった。だからあたしの中には、サイアを飼っているということに対しての安心感が滾々と沸きつつあったのだ。

「でも、まあそれも時間の問題かもね。このまま増えていったら大変だし。里親が見つかればそれが一番なんだけど」

 里親。あたしはその言葉にはっとなった。里親はあたしだよ、と言いそうにもなったが、それは決して言えない。言ってはならなかった。

 さて、とあたしは身を翻し、その部屋を出て洗面所へと向かった。部屋を出るたびに、そこにサイアがいないか心配していた。

 あたしは朝食を摂る前に、必ず顔を洗うようにしている。凍るような冷たい水を顔に数回かけ、強く顔を手で擦る。その瞬間、自分が何かから解き放たれたかのような錯覚を覚える。それほどに“顔洗い”という行為は自分の生活の中で重要な役割を果たしていた。

 顔を洗い終えると、洗面所に積んであるタオルで顔を拭き、櫛を手にとって、鏡の中にいる自分と向き合って髪を整え始める。髪も気にしながら、自分の顔も気にする。最近、周囲の視線が少し気にかかり始めた。周囲からどう思われているだろう? 可愛いと思わせるにはどうすればいいだろう、とあれこれ悩みながら髪を梳く。中一の頃まで顔のいたるところに浮き出ていた面皰は、この頃になって発生がストップしたのだから、それでも少しは幸運と思うべきかもしれなかった。

 だが、あたしは恐るべきことに気がついた。口元の皺と、目尻の皺が濃くなっている。

「ひっ」

 あたしの全身が、戦慄いた。

 一瞬我が目を疑ったが、よく見ると、以前よりも皺が増えている。確かにここにはもともと何も無かった――はずだった。が、それは紛れも無く皺だった。

 どうしたのだろう? 顔を鏡に近づけて、よく調べてみた。深い溝が、顔に幾つか走っている。あたしはそれを消そうと、皺のある部分を両手で引き伸ばす。だが、それが返っていけなかった。引っ張ると一瞬消えたが、皺自体は消えることが無かった。

 目の前の恐怖から逃げるように、考え当たる原因を頭の中で模索していく。睡眠不足か? それともストレスや過労か? いや栄養不足か? だが、そうとは思えなかった。じゃあ何に原因があるっていうの?

「……サイア?」

皺を引き伸ばしながらそう言った。もしかしたら、彼女に原因があるのではなかろうか?肌の細胞を壊していく感染症? もしそうだとしたら、冗談では済まない。ただ、仮にそうだとしても人にいうことは出来ない。そんなことを言ってしまったらサイアを飼っていることがばれるから、周囲から何をされるか分からない。

サイアだけは、殺してはいけない。自分のなかに、固い決意があった。罪滅ぼしにも及ばないような罪滅ぼしだが、サイアには強く生きて欲しかった。だからここでくたばる訳にはいかなかった。

あたしは強い足取りで、洗面所を出て食卓へと向かった。


人には自分の異変のことについて何も言わなかったが、あたし以外の人間は特にあたしの顔に起きている変化に気付かなかった。そしてあたし自身、そのことは全く口にしなかった。


†††


 英章にも、あたしが猫を飼っているということは絶対に言わないつもりだった。万が一誰かにばれると、あたしは隠しようが無くなる。

 もちろん、英章もあたしの顔の変化は分からないようだった。元々彼は人の顔を見て喋らない性格だから極めて必然的なのだろうか。

「最近、猫飼いたいって言わなくなったね。何かあったの?」

「まあ、諦めちゃった。親もイロイロうるさくなりそうだしね」

 ――嘘だ。

あたしは嘘をついていた。サイアのために。

「ふーん。ところで、横山さんの猫どうなったんだろうね」

「まだ処分はされてないよ。皆あの公園で元気にやってるよ」

「そりゃよかった」

 あの公園――か。そういえば、あそこにあった卒塔婆が二、三日前綺麗に消えていた。そして、そこが猫たちの遊び場となっていた。

 サイアもあそこで遊ばせてあげたかったが、部屋から出す訳にはいかなかった。

「最近、日の暮れるのが早くなったな」

「まあ、ね」

 あたしは、皺のついた目で空を見上げた。一日中、その皺が気になって仕方がなかった。空にはもう既に星がたくさん浮かんでいた。

 もうこれで完全に、英章に皺がばれることはない。

「最近さ、宿題多くないか?」

「宿題? まあ、確かに」

「夕菜も大変だよなー。吹奏楽って大変なんだろ? この前テレビで見たよ」

「ああ、でもうちの学校はそうでもないらしいよ。今の時期なんか『自由参加』だし、コンクールにも出てないし。そろそろやめようかな、部活」

「へー、そうなんだ」

 むしろ、英章がそんなあたしを励ましてくれているようだった。

「まー、とりあえず頑張れ」

 あたしは、はっと現実に振り返ったように頷いた。


†††


 異変は夜に入ってまた一段と酷いものになっていた。

 目尻の皺が、あたしが見てわかるほど深くなっており、ナイフでなぞられたような皺が口の辺りにも沢山できていたのだった。あたしはもう明日、学校に行くことは不可能だと思った。

 原因は分からなかった。思い当たることは全く無いのだ。一体、どうしてこんな物が? ただ、その疑問であたしの頭の中は満たされていた。

 不幸中の幸いと言うべきか、今日はだれもこの顔の異常に気付かなかったようだ。親ともあまり顔を合わせなかったので、どうとも言われなかった。この時間も、もう父と静かに寝ている。ただ、これからのことが気がかりだった。これから一体、どうすればいいのだろうか、と。

 あたしは嫌な不安を拭い捨てるように、部屋へと向かった。今日は顔の皺を隠し通すことに忙しく、一日中心臓の鼓動が止まらなかった。そして、それ以外必要最低限のこと以外は何もしなかった。例えば食事や、移動といったことだ。そうしていない時は、ずっと机に伏せたりして顔を隠していた。

 もう、今日は早く寝たい。あたしは疲れきった様子でドアノブを捻った。開けると、すぐに黒猫のサイアが部屋の中から出てきた。あたしは弱弱しい視線をサイアに向ける。サイアの哀しみは計り知れない。きっと、サイアはあたしより悲しい運命を辿ってきたのだ。あたしが顔の皺くらいで悩んでいては、きっといけないのだ。あたしはそう自分を元気付けた。

 ――今日も遅くなって、ごめんね。

 サイアの心の中は分からなかった。だが、サイアに悲しい思い出が沢山あるのは確かだ。あたしはサイアを抱いて、ベッドに転がる。もう、宿題も何もやる気が無かった。

「ねえ、サイア」

 そう言いかけて、はっと息を呑んだ。

 そこにいたのは、サイアだがサイアではないものだった。

 つい最近までサイアには少し灰色の毛が混じっているくらいだった。だが、今日だけですごいことになっていた。だが今のサイアは、灰色の毛が混じっているのではなく、全身が灰色だったのだ。一日だけでこんなに変化することなど、ありえるのだろうか。

 やはり何かの病気だ、そうとも思ったが、餌やトイレのサンドなどを買う金はあっても、医者にいくような金は無い。それどころか、行ってしまったら両親にばれてサイアのことがばれる。それ以前に、まずあたしの顔の異変に気付かれてしまう。

 あたしは結局、何も出来ないのだろうか。本当にそう思った。

 少し涙が頬を這った。

 寝た。


†††


ほんとうですほんとうにあなたのからだはしまいますほんとうですよあなたのかたわらにいるそのねこもですじきにぜんしんがはれあがっておしまいになりますおしまいにだからいまのうちにそれはころしておくべきだとわたしはおもうのですがいかがでしょうかかこゆうなさんいまのうちになんとかしてしまったほうがいいですげんいんはそのねこですはやくころしてしまいなさいそんなやついりませんはやくあのよへおくってあげたほうがみのためですよいそいでくださいいそいでくださいころしてくださいころしてくださいころしてください.


 声にならない何かが、心の深い所から湧き上がってきた。

 目を開く。歪んだ視界が、元に戻されていた。悪い、それも最悪な夢を見ていたようだ。サイアを殺せ、だと? あたしは殺さない、殺さない。

 あたしはまず腰に力を入れ、起き上がろうとした。だが、起き上がれなかった。腰に、力が入らなかった。手を頭の上に翳してみる。すると、手も皺だらけになっていた。刹那、体全体にじわりと痛みが走る。動くことを、体が拒否しようとしている。だが、それにも構わず昨日までの感覚を思い出し、身体をうねらせながら起き上がった。

 もう辺りは十分明るかった。今、何時だろうと疑問に思い、ベッドの傍らに置いてある液晶時計を見た。八時三十分。本来なら、もう学校についている時刻だ。そうならば、親はこの部屋に入ったのだろうか。まだ、両親の居場所からは何も音がしない。

あたしは一体何をする気なのだろうか。何かに対する、深い憤りが身体に押し寄せてきた。あたしは、この身体を隠し通すつもりなのだろうか。それとも、サイアを守っているつもりなのだろうか。だが、実質何も出来ていないじゃないか――。

あたしは全身を震わせながらベッドの下に降りた。床がいつもより冷たく、足が一瞬凍ったような気がした。まるで何年も寝ていたような感覚だ。ベッドには、サイアがぽつんと座っていた。灰色のサイアが。

灰色だからそう見えるのかどうかは分からないが、以前より目が大きく開くようになったのだろうか。目が大きく見える。そして、元気に「おはよう」と鳴いた。あたしもしゃがれた声で「おはよう」と返す。この頃になると、猫の話している言葉も少しずつ理解できるようになってきた。

この頃? それはあたしにとって最大の皮肉なのかもしれない。猫の言葉がわかっても、こうなってしまってはどうすることもできない。

あの時感じた嫌な感じは、もしかするとこれを暗示しているのかもしれない。

あたしは部屋のドアを開け、ダイニングルームへと向かい始めた。不思議なことに、家の中には鳥の囀りと、床を踏みしめる不気味な音しかなかった。やはり親はいないのだろうか?

果たして、親はどこにもいなかった。昨日の夕食のあとが綺麗に片付けられ、食卓は平然としていた。そこに朝日が差し込んで、まるでモデルルームのように綺麗に見えた。だが、あたしはその場にいても少しも嬉しくなかった。

あたしは椅子に座る。もう鏡は見たくなかった。何故なら、手や足がその代わりをしていてくれたからだ。皺、そしてシミだらけの手足。間違いなく、老人の持つものだった。あたしはどうしてしまったのだろうか? たった、二、三日でこんなになってしまったのだから、明らかに異常だ。だが、これからどうすることもできない。

あたしはいつのまにか、椅子に座っていた。もしかすると、こうしているのが一番いいのかもしれない。溜息を吐いてテーブルに凭れかかると、何もする気が起きなくなった。

ずっとテーブルの上に伏せたまま、時が過ぎるのを待った。時々少し頭を浮かして、影のついている場所を確認した。確実に時は過ぎていったのが分かった。だが、ずっとそうしていても退屈にはならなかった。空腹感も、尿意さえも感じない。ずっとこうしているのが一番なのかもしれない、とふと思った。これまで何とも無かった目頭が、急に熱を帯びてきた。

腕に力を入れ、上体を起こす。そして椅子から立ち上がり、おぼつかない足取りで玄関へと向かった。このままではいけない。あたしの本来の姿を取り戻さなければ、生活は不可能だ。

靴を履こうとしたが、足に合わず大きかったので、側にあったサンダルを履いて外に出た。久しぶりに、外の空気を吸うような気がする。だが、そこにある景色は昨日と何一つ変わっていなかった。

まず、横山さんの家へ向かうつもりだった。あの猫のことを聞くのだ。もしかすると、少しは手がかりが掴めるかも知れない。他の猫も、同じような病気にかかっているのではないだろうか?だが、かかっているとすればサイアだけだ。他の人にはあたしと同じような症状は出ていないようだから。

横山さんの家とあたしの家の距離はほんの僅かだったが、今の私にとってはそこを歩くのは大儀だった。一歩一歩、歯を食いしばりながら歩く。普段慣れている「歩く」という行為を意識しなければならなかった。二分くらいして、漸く横山さんの家の前まで辿りつくことができた。足がとてつもなく痛かった。

「ごめんなさい」

叫んだつもりだったが、誰かの耳元で囁くような声しか出なかった。だが、呼びかけに気付いたのだろうか、庭から枝切り鋏を持って玄関前まで来てくれた。

「わざわざごめんなさい、横山さん」

 彼の眉毛が一瞬動いたのがわかった。“あたし”を知らないようだ。

「あんたは誰だ? 此処では見かけん顔だが……」

「だ、誰でもいいじゃないですか」

 あたしの口調は早く、老人らしくなかった。だから彼はますますあたしを怪しんでいるような顔になった。

「ま、いいや。で、何だ?」

「あの、猫のことについて聞きたいんですが」

「猫? こいつらのことか」

 横を見ると、いつもの猫がみいみいとせわしく鳴いていた。

「はい。で、三年前のことを聞きたいんです。どの猫がこの子たちを産んだんですか?」

 彼ははっとなったように見えた。そして彼も一瞬猫たちの方を見ると、再びあたしの目を覗き込んだ。そして、唸り声を上げた。

「もしや、あんた、加古さんとこの?」

 あたしは密かに微笑んだ。

「はい。分かってくれましたか? 少し事情があってこうなってしまったんです」

 その部分は極めて自然に、暖かな口調で話す。

「どうなっちまったんだ、それ……。それだと学校にも行けないじゃないか」

「それは承知しています。ですから、何とか教えて頂きたい。実は、数日前からあなたの庭にいた白い猫を一匹飼っていたんです、ごめんなさい。サイアと名づけました。でも、サイアは日が経つにつれどんどん黒ずんでいきました。そしてあたしも今このような姿になってしまったのです。これは何かの病気だと確信してここに来ました。ですから、教えてください。この猫たちは、その親は、どのようにして飼い始められたのですか?」

 あたしは長い台詞を一息で言うことが出来た。信じられない、といった様子で横山さんがあたしを見ている。

「ちょっと待っててくれ」

 そう言って、横山さんは家の中に入っていってしまった。

 あたしはふと横にいる猫たちを見た。みいみいと無邪気に鳴いている子猫たちの姿がそこにあった。猫までもがあたしをいぶかしんでいるのだろうか? だが、つい最近見たままの子猫たちの姿が、これが現実であることの証拠だった。もしもこの子たちがいなければ、あたしがこんなになっているのは自然だったのだが。

 横山さんが再び家の中から出てくると、手に黒いダイアリーを持っているのが分かった。そして、それを静かに捲り始めた。

「それ、日記帳ですか?」

「ああ」

 横山さんの口調は完全に冷静だった。日記帳を横から覗き込む。書かれている内容からすると、どうやら彼は一日に一回その日の出来事を纏めているらしい。

「これは三年前のものだ」

 三年前。丁度、猫たちが生まれたとされる年だった。

「ちょっと長くなるから、家の中で話そう。入りなさい」

 彼に案内され、あたしは家の中へと入っていった。

「猫が入るから、気をつけて入れよ」

 横山さんは猫たちを嫌うかのような口調でそう言った。


 横山さんの家の中は至って質素だった。広い家だが、ただ広いだけで他には何も無い。そういえば、何年か前に横山さんの奥さんは他界した、と聞いたことがある。そのせいか、家の中には本当に何も無かった。

 あたしと横山さんは、キッチンらしきところに入った。横山さんは「コーヒーは飲めるか」と聞いたので、一応はい、と言っておいた。きつい口調だが、話している内容の中に横山さんの優しさが垣間見えた。

「あれはな、そう、丁度三年前のあの日だ。凄い音をたてたもんだから、あんたなら分かるかも知れんな」

 横山さんはあたしを適当な椅子に座らせると、コーヒーを入れ始めた。


 丁度、俺の妻が死んだころのことだ。俺は友人から、猫を飼わないかと言われて、猫を飼い始めたんだ。あいつが居なくなってから、俺はずっと一人だったからな。で、それを飼ってから少ししないうちに、不意にあの日が訪れを告げた。

あの日の未明、静かなエンジンの音がしてな、何かと思って表に出てみると、猫が何匹も俺の家に放されてるんだ。俺は玄関にあった妻の形見の杖を持ってそいつを捕まえようとしたんだよ。そうしたら、すぐあいつは逃げていった。でもな、俺はあいつのナンバーを見ていた。だから、あいつを訴える事もできる。その時はそう思っていた。

 だけどとうとうそれは出来なかった。あいつは逃げる途中交通事故にあって死んだんだ。一人暮らしだったらしくてね、身元は確認できなかったからこの猫は俺の物になってしまった。サツに何ていっても聞いてくれないし、だからこれは「産まれた」ということになってしまったんだ。

 さてそれはそうと、一番困ったのは猫どもだ。これからのことを考えたら、冗談じゃない。その夜みーみーうるさかったから、俺はついついかっとなってな……その中の一匹を杖で……ここまで言ったらもう分かるだろ? 俺は思わず腰を抜かしそうになったよ。猫を殺してしまったんだ。どんな理由があったにせよ、殺してしまった。でも誰も助けてくれないんだ。悲しいだろ?

 だが驚くのはまだ早かった。そいつは真っ黒だったのに、魂が抜けたかのように真白になってしまったんだよ、死んでから少ししてね。本当に信じられなかったよ。本当に白になってしまったんだ。で、俺は、そいつを引きずって公園の砂場に埋めた。俺はそいつに心の中で懺悔したよ。そして、家の中にあった角材を立ててやったんだ。

 あいつらはしつけがなってないし、俺がどうする事もできないから、近所では迷惑にもなってるんだ。あの時あいつが逃げる途中で死んでいなければ、あの時猫を殺すことが無ければ。ずっとそれを思い続けてきたんだ。そのうち、元から飼っていた猫が死んでな……。

 でも、一番不憫なのはあの猫どもだ。産まれて、見放されて、それで俺からもその中の一匹が殺されたんだ。そして近所から迷惑と言われ、満足な飯も食えないんだから。俺のせいもあるけどな……。


「しかし奇遇だね。放された猫の中には、俺が殺した奴以外に白いのはいなかった」

 あたしは震える手でコーヒーカップを口に運んだ。

「じゃあ、その猫が蘇ったんですか?」

「ああ……そういうことになる、だろうな」

 俄かには信じがたかった。

「あの卒塔婆がちょっと前ボロボロになってただろ。あれ、もしかするとそのせいかもしれない。驚かないでくれ。でも、これは現実だ」

「どうすれば、あたしは元に戻れますか?」

 サイアが今のあたしにとっては一番大切、そう決めた筈だった。だが、それも気にかかった。抱えた罪を償還することが出来たとしても、その先が無ければ意味が無いのだ。他人、そして自分さえをも、自分の手で滅ぼすのだろうから。

「それは、病気じゃないのかも知れない。ほら、よく言うだろ? 猫は他の生物の魂を吸い取る、って。だから、それに似たような――」

 もしそんなことが起きているのだとすれば、現代の日本の科学が崩壊することになる。考えられない。魂を猫が吸い取る、など。

「なあ、もし良かったら、俺の頼みを聞いてくれないか」

「何です?」

 あたしは深刻な顔つきの横山さんを、じっと見つめた。

「あんたの飼ってる猫に会わせてくれないか」

 横山さんが、初めて人に向かって頭を下げているのを見た。


†††


 あたしが部屋に入ると、いつもと同じようにサイアが飛び出してきた。しかし、後ろから来た横山さんが部屋の中に入ると、サイアはベッドの上に逃げてしまった。無理も無い。昔一度、殺されたのだから。

「お、おい」

 横山さんがあたしの前で、サイアと向き合った。

「何て言うんだ? 名前は」

「サイア、です」

 横山さんは感慨深く、二度頷いた。

「サイア……か。サイア、あの時は本当に済まなかった。許してくれ。俺が済まなかったんだ。いや、許してくれなんて俺が言える立場じゃないが、本当に悪かった」

 何度も、何度もサイアに頭を下げた。サイアはただ、ベッドの上で怯えているばかりだった。また殺されると思っているのだろうか。

「本当に済まない。済まない。済まない……」

 横山さんは何度も頭を下げ、そして何分か立ってこちらに振り返った。その目には、うっすらと涙が光っていた。

「妻が死んでから、何もかもがおかしかった。変だったよ。でも、変なのは俺なんだ」

 そう言い終わると、また彼は済まない、済まないと再び謝り始めた。


†††


 横山さんが自殺したということを知ったのは次の日だった。その朝はいつもより表が騒がしかった。窓から見ると、横山さんの家の周りに警察らしき人だまりがあった。あたしは、サイアを残してパジャマ姿のまま玄関へと走った。といっても、以前のように早くは走れなかった。

 やっとの思いで横山さんの家の前まで来ると、沢山の警察の中の一人があたしに話しかけてきた。水色の目立つシャツを着用している。そして、腰には拳銃。

「あなたは、横山さんとお知り合いで?」

「ああ、はい、そうです」

 あたしはテープの中を覗いた。警察官は、黙ってあたしを暗い目で見つめている。

「数時間前に通報がありまして、横山さんが、暴れまわっていると」

 それを聞いて、一瞬あたしの中の何かが固まった。そして、恐る恐る警察官を見つめた。

「我々も必死に対応しました。ですが、到着した時にはもう……」

 あたしは、ただ呆然としておくしかなかった。

「それと、あなた、ユウナさんですか?」

「はい」

「これ、横山さんの遺書です」

 あたしは、恐る恐るそれを受け取り、もう一度警察官の顔つきを伺った。ただ、顔を暗くしていた。

「読んでいいのですね?」

 警察官は黙ったままだった。あたしは、ゆっくりとそれを広げる。所々に赤黒い染みが見られる質素な便箋に、筆で丁寧な字が綴られていた。


 夕菜さんへ

 何も出来なくて申し訳ない。でも、今の俺にはこうするしか思いつかなかった。殺してしまった猫が蘇ってしまった今、もう俺が生きておく訳にはならない。ずっと後悔していた。殺してしまった、と。だが、今それが消えてしまった。だから、また過ちを繰り返してしまうかもしれない。猫を放っておいたのも、もしかすると間違いなのかもしれない。いや、間違いだ。俺が何とかすればいいものを。

 もう、生きていても何も無い。それどころか、未来の加害者になることは間違いないのだ。この世に生まれてきてしまった俺を、どうか許してほしい。

 サイア、大事にしてください。そしてあいつにもこのことをよろしく伝えておいてください。もうここには戻ってきません。ありがとう。

横山のジジイ

「重要な書類ですか、これは」

 あたしは警察官に、落ち着いて聞いた。

「いいえ」

 警察官はどうぞ、と言ったが、あたしはその手紙を元通りに折りたたんで返した。あたしが持っていても意味がありませんから、と。

「死体が運ばれてきます。見ますか」

 迷わずに、いいえ、と答えた。

 あたしはがっくりと肩を落とした。ここから、這い上がることはできるのだろうか。穴を埋めることはできるのだろうか。罪を償うどころか、罪をまた一つ深くしたではないか。サイアを飼う事によって、横山さんが死んでしまった。殺してしまった。あたしが――。

 その時だった。後ろから、若い男の声が聞こえた。その声には聞き覚えがあった。あたしはゆっくりと、背後を振り返る。そこには、一人の男の姿があった。英章だ。学校へ行くのだろうか。

 二、三日の間姿を見ていなかっただけだというのに、もう何年も会っていないように感じだ。英章はこちらを怪訝な表情で見つめていた。

 もう一度、戻りたいと思った。そして、英章と話したい、と思った。あたしは一歩ずつ、英章に歩み寄った。会いたかった。あたしの全てが、退行していった。髪が潤いを取り戻し、顔の皺が浅くなり、手の染みが消えていく。その瞬間、英章の表情が驚きの表情に変わった。

 もうあたしはあたしでは無くなった。涙が、とめどなく溢れた。あたしを一番よく理解してくれる人間に会えた。英章の顔に笑顔が浮かぶ。そしてそれに応じるように、あたしもにっこりと微笑んだ。そして、英章を抱きしめたかった。罪を償う、償わない、の問題ではないのかもしれなかった。そんなことはどうでもいいのだ。大事なのは、その罪の記憶を消し去ることなのかもしれない。

 もう少しで、英章に手が届く。あたしの、白い、白い手が。あたしは赦されたのだ――。

 そんな錯覚を見た。

「あの……おばあさん、どうかしました?」

 英章は作り笑顔であたしに微笑みかけていた。あたしは黒い染みだらけの手をだらん、と垂らした。そしてそのままにしておいたから、英章は行ってしまいそうになった。

「英章、待ってよ! お願い!」

 あたしは力の限りに叫んだ。

作り笑顔を崩さずに、英章はあたしの方を振り返った。

「おばあさん、僕の名前をご存知ですか?」

 あたしは何も言えなかった。そして、手を伸ばす。だが、彼はそれを意図的に避けていた。気持ち悪い、とでも言うかのように。

 そしてもう一度笑顔を投げかけると、英章は走って逃げていった。あたしは慌てて英章を追いかける。だが、勝てる訳が無かった。英章はバスケットボールをやっているのだし、あたしは元々足が遅い。それにあたしには老いというハンディもあった。ズキズキと疼く足を必死に動かし、手を振って何とか追いつこうとする。だが無駄だった。距離をどんどん引き伸ばされ、とうとうアスファルトに足を操られて地面に叩きつけられてしまった。

 両手をついていたので辛うじて重傷は免れたが、両手にかつて味わったことの無いような痛みが走った。内面と外面の痛みに耐え切れず、あたしは大声を上げて泣いた。

 ――ああ、神様!

 あたしは思わずそう叫びそうにもなった。

 英章はあたしに向かってこう言った。それは耳に焼き付いて離れなかった。

 おばあさん、と。


†††


 その日は一日中外に出ていた。そして、一日中泣いていた。警察が去ってからも、ずっと公園のベンチに座って変わることの無い夕日を見ながら泣いていた。

 不意に、猫の鳴声が聞こえた。その声で呼び戻されたように正面を向くと、誰からも見放された猫たちが砂場で戯れていたのが見えた。あたしは楽しく遊んでいる猫たちを見て、羨ましく思った。皮肉なことに、「飼いたい」から「羨ましい」という感性が生じたのだ。

 目を凝らして猫たちを見ると、そこにサイアも混じっているのが分かった。サイアはもう白猫ではなくて、完璧な黒猫だった。もともと、救世主はそういう色だったのだ。

 あたしは、黙って砂場のほうに歩き出した。できることならば、次の世界ではこの猫たちに混じって遊びたい、と思った。

 横山さんが死んだのは何がいけなかったのかを知ることは出来ない。横山さんが猫を殺してしまったのが悪かったのか、それとも猫を放した人間が悪かったのか。或いは、人に迷惑をかける猫たちの存在がいけなかったのか、それには誰も答える事は出来ない。考えられる理由は沢山ある。ただ横山さんが死んだのが悪かったのか。それとも、あたしが……。そんなことを考えているうちに、本当の答えは虚偽の理由の中に埋もれてしまったようだ。

 猫たちは何をしているのだろう。砂を掘っているものも居れば、寄り添ってみいみい鳴いているものもいる。サイアは――仰向けに寝そべり、身体を自らの舌で嘗め回していた。

 生命は罪を犯しながらも、誰かの思いを受け止めながら前向きに生きるものなのかもしれない。この猫たちを、そしてサイアを見ていてそう思った。

 だが、今更遅いのかもしれない。もうあたしは“おばあさん”になってしまったのだ。そうなってしまった今、どうすることもできないのだ。

 あたしはその場にしゃがんだ。この猫たちを、もっと間近に見たかった。

 すると、猫たちは一斉に動くのをやめた。そして、最初にサイアがあたしに近づいてきた。いつもの癖で、あたしの手を舐め始めたのだ。すると、それまであたしに見向きもしなかったほかの猫たちも、一斉にあたしを舐め始めた。この猫たちは、あたしに感謝しているのだろうか? だが、そんなことはないはずだ。

 ――猫の脳味噌は二五〇ccくらいだから、あまり賢くないんだって。

 そうだ。感謝なんて考えないはずだ。だが、猫の今とっている行動があたしは自分に対する感謝であると信じて疑わなかった。罪の深さはプラスマイナスゼロになってしまったのかもしれない。だが、今、猫たちに感謝されていること。それは確かだった。

 過去には何も無い。しかし“今”は確かにここにある。英章に“おばあさん”と言われた瞬間、もう何もかもが終りだと思った。だが、それで終りでは無かった。まだ、この猫たちがあたしの味方だった。大丈夫、ここにいるよ、と舐めてくれる猫たちがあたしにとっての何よりの友達なのかもしれなかった。

 あたしは猫たちを全て腕の中に抱きたかった。だが、そうしようと思った瞬間、猫たちはあたしから離れた。あたしは、待って、と猫たちに手を伸ばす。

サイアはあたしに向かってみい、と鳴く。まるで、ありがとう、と言うように。そして猫の集団を引き連れて、公園の外へと出て行った。あたしは慌てながら、猫たちを追った。

猫たちは後ろを振り返ることなく、整っていない列を作って歩き始めた。そしてあたしはどんどん後を追った。すると、追っている途中であたしはあることに気付いた。今猫たちが歩いている道は、山への道だ。

猫たちは山道を目指して歩いていたのだ。横山さんが、いや、飼い主がいなくなった今こそ、そうするしかないのだろう。いや、それが一番なのかもしれない。彼らは、もう一度振り出しに戻って生活するのだ。

あたしは足が棒のようになるほど急な坂道を歩き続けた。山道までは、ずっと急な坂が続いている。もう歩けない、というところで立ち止まって、猫たちが完全に見えなくなるまでじっとその姿を見続けていた。そして、静寂だけが残った。

――元気でね、サイア。

涙が出そうになるのを必死に堪えながら、坂道を下り続ける。もう夕日は完全に落ちていた。住居の、それぞれの明かりがよく目立っていた。最近一人で夜道を歩くことがなかったから、あまりそれに目を向けることは無かった。

あたしはこれからどうすればいいのだろう? 朝から着ているパジャマで、ずっと道を下っていく。両親は家にいるだろうか。どう言えば、あたしの存在を認めてもらえるのだろうか?

そんなことを考えているうちに、加古家に辿りついた。家の明かりが、点いていた。両親がいるのだろうか。父も、母もこの中にいるのだろうか? もし居たとしたら、あたしはそこに再び戻れるのだろうか。

手を見た。老いた手。中学生だったころの心だけが残っている。これで、本当に加古夕菜だと信じてくれるのだろうか。

だが、サイアがどこかで見ている。見ているから、死ぬなんてことは出来なかった。積まれた罪を片付ける気はもう無かった。いや、それからにげる事は出来ない。だが、またゼロからスタートすればそれでいい。完全なゼロからスタートすることはできないかもしれないが、それでも生きなければならない。

不安な面持ちで、玄関の前に立った。そして、深呼吸を一回する。

スタートラインを切る為、あたしは部屋のドアノブを皺と染みだらけの手で掴み、そして捻る。そして、明るい声でこう叫んだ。

……ただいま!


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