ある日
ある日。私が生まれました。
私には当然その時の記憶はありませんでしたが、父と母は私が生まれた事をとても喜んだそうです。
…………。
数年後のある日。ようやく物心というものがついた私に、母が告げました。
「****。もうすぐ、妹か弟ができるからね」
それを聞いて、自分が生まれた時の事を既に聞いていた私は、とても嬉しくなりました。その頃、母のお腹はとても大きくなっていました。臨月です。母が言った通り、まもなく私には妹か弟ができるのでしょう。
だけど父はあまり嬉しそうな顔をしていませんでした。その時の私には、その理由は解りませんでした。
…………。
数週間後のある日。お腹を押さえて苦しそうにしていた母は、父が電話で呼んだ救急車に乗せられて病院へと運ばれました。
「****、私たちもすぐに出なくてはいけないから、支度をしなさい」
私はその言葉に頷き、父とともに、母の運ばれた病院へと行きました。
その日、私たちには家族が一人増え、私には妹ができました。
喜んだ私と母は、母が退院した日、いつもよりも少しだけ豪華な食事を、新たな家族も含めた四人で食べました。
だけど喜んで笑顔の私や母とは裏腹に、父の笑顔はどこか嘘っぽい笑顔でした。ですがそれがどうしてか判らなかった私は、何も言いませんでした。
…………。
数年後のある日。中学生になった私が部活を終えて家に帰った時、父と母が喧嘩をしている声が居間から響いていました。
父と母は、最近はいつも互いに怒鳴り合っているのです。そして、その原因はいつも私の妹でした。
今年小学生になったばかりの妹は、まだ幼いといっていい年頃だからでしょうか、活発に動き回り、家の物にぶつかって壊してしまう事もしばしばでした。
家具が壊れていく度、新しい物を買い、さらには私たち姉妹の為にお金を使う事で、次第に家にはお金が無くなっていきました。
…………。
数ヶ月後のある日。私が家に帰ると、両親の喧嘩の声は聞こえませんでした。
私は、もう喧嘩をするのを止めたのかな、そう思いましたが、実際はただ母がその場に居なかっただけでした。
その日、母は家に帰ってきませんでした。
…………。
数ヶ月後のある日。私と妹の体には、表からは見えない部分に、無数の痣ができていました。
母が家に帰ってこなくなってから、父が私と妹に暴力を振るう様になった為です。
妹は、いつ父に殴られるかと、怯えてよく私の所に来ました。そうすれば、父が妹ではなく私のほうを殴ると知っていたからでした。
ですが私はそれを責める事も、責める気もありませんでした。だって、立派な姉は、幼い妹を守らなくてはいけないと信じていたからです。
そして、家の中には次第に、肉の腐る様な臭いが立ち込めてきました。
…………。
数週間後のある日。肉の腐る様な臭いは段々酷くなり、父の様子にも変化が現れました。
なんと言いましょうか、父は、常に何かに(或いは誰かに、と言ったほうが良いかもしれません)怯えるような様子で、体も段々と痩せ、目も血走ってきたのです。
私はそれを不気味に感じていましたが、努めて気にしない事にしました。気にして、もしもそれを口にしてしまうなら、何かが決定的に崩壊してしまう予感がしていたからです。
…………。
「なぁ、****、※※※※」
数日後、父が私たち姉妹を居間に呼び出した。居間は、腐臭が一番酷かった。
「父さんは、お前達に言わなくてはいけない事があるんだ」
痩せこけ、目が血走り変わり果てた父は、私たちの前でそう言った。
「あの…私も、お父さんに訊きたい事があるの……」
私はそんな父が怖くて声を出す事すらできなかったが、驚いた事に、妹は違うようだった。
「何だい、※※※※? 今日は怒ったりしないから、何でも聞いてごらん」
奇妙に冷静な声で、父は妹が質問する事を許した。
妹は父が怒らないと明言した為だろうか、うん、と元気よく頷いた後、私ですら耳を疑うような事を父に訊いた。
「あのね、どうしてお父さんはいつもお母さんを背負ってるの? 苦しくないの?」
その後の詳しい記憶は、私にはない。
ただ、妹の質問で半狂乱になった父が妹の首を絞め、それを止めようとした私が父に殴り飛ばされ、何かの家具に頭をぶつけて失神してしまったのは、覚えている。
…………。
『頭が…痛い……』
どれほどの時間、気を失っていたのだろうか。家の中は荒れ果て、先程までいつも通り、日常の風景としてそこに在った家具は、その大部分が壊されていた。
『そうだ、あの娘は……?』
父に首を絞められ、蛙の潰れるような声を出して苦しんでいた、あの娘。私のたった一人の妹はどこだろうと、私は辺りを見回した。
妹は、すぐに見つかった。
「あぁ…ようやく起きたのかい、****?」
ただし、その身体の腕や脚、首はあらぬ方向へと奇妙にねじ曲がっていたが。
「いや…どうして?」
「何が嫌なんだい? ****も、※※※※みたいに身体に直接教えなくちゃ駄目なのかい?」
父はそう言いながら、もはや死体となってしまった妹の首を片手で掴みながら、ゆっくりとこちらへと近づいてきた。
その姿は虚ろで、痩せこけ血走った目も相まってまるで西洋に存在する屍食鬼のようだった。
「父さん……どうして…こんな、事を? 私たちが貴方に何かをしたのですか? 貴方は――父さんは、私たち姉妹の事を殺したい程憎いと、そう考えていたのですか?」
私はようやくそれだけの言葉を搾り出し、後ろずさりながら、父を見た。
父をよく見ると、妹の首を掴んでいない方の手にはナイフが握られていた。きっとそれで私を殺そうというのだろう。
「違うんだよ、父さんは何もお前達が憎いわけじゃないんだ」
「なら…なんで……」
父は答えた。同時に、私の胸目掛けて手に持ったナイフが突き出される。
「この世界はね、愛だろうと何だろうと、それを人に与えるにはまず金がいるんだ。父さんは、その金をお前達に必要十分与える事ができなかった……」
私の胸にナイフが突き刺さり、そこから、私の身体を駆動させるのに必要な血液が抜けていく――。
父の声は泣きそうな、搾り出すような声だった。
「それでも最初は努力して、頑張って金を稼ごうとした。だが、足りなかった。
****、お前と※※※※の養育費だけなら良いんだ。だけど、今度はそこに※※※※の壊した家具の代金まで加わった。挙げ句の果てには、家に帰る度に母さんと喧嘩ばかりだ」
それを聞いた時、私は思った。
『あぁ―――この人も疲れていたんだなぁ……』
もう私の身体は血液を失いすぎたせいで冷え切って、辛うじて唇が動くだけだったけど、私は父さんにこれだけは言わなくてはと思い、必死に唇を動かし、声を発した。
「――父さん」
ごめんなさい、気づいてあげる事ができなくて……。




