婚約者の処刑? させません。名前が強さのこの世界で、最強の竜が全てを蹂躙する。
竜種――それは王から貴族へ賜られる、家の証。
竜の年齢が家の歴史となり、その歴史が家格を決める。
賢く、気高く、美しい竜種こそが、貴族を貴族たらしめる所以だった。
「相変わらず難しそうな顔をしてるねぇ」
毒気を抜かれるような声。
……これが、我がヴァレット家の竜、スピカである。
「眉間にしわが寄ってるよ。ほぐさないと」
ぐりぐり、と私の眉間を白く長い指先で撫でる。
スピカの青白い髪が一房肩から落ちた。頭頂部から伸びた銀色に輝く角、それから尾から伸びる白銀の鱗を持つ尻尾は竜種の証。
人の形をしていながら、その顔立ちは人以上に整っている。
そして何より――その身長は優に二メートルを超える。
見上げなければ顔が見えないほどの大きさ。それもまた、竜種の証だった。
それなのに。その美しい顔でこの竜は言うのだ……。
「また拾い食いでもしたのかい? ルシアはなんでも口に入れてしまうからね……」
「私のことをまだ三歳の赤子か何かだと思っているようなので訂正しておきますが、もう十六です。二千年も生きているあなたからしたら一瞬のことでしょうけれど」
「ルシアが生まれた日のことは昨日のように覚えているよ」
スピカは大げさに胸を手に当てて見せた。
「まったく……都合が悪いとすぐに話をはぐらかすのですね」
「そんなことよりもうすぐ日が落ちる。アルトの竜継の儀の準備はいいのかい?」
婚約者であるアルトの竜継の儀――それが、私がこんなにも眉間にしわを寄せている元凶だった。
「ドレスは、やはりアルトに合わせて群青がいいでしょう」
クローゼットから取り出したドレスを鏡の前で当ててみる。
「いーや、純白だ。ルシアには白!」
スピカはそれを取っ払い、ソファの上に投げるとどこからか持ってきた純白のドレスを私に宛てがった。
「白では、本日の主役であるアルトより目立ってしまうのでは?」
「いいかい、ルシア」
すると、スピカは急に父親の顔になる。
両親を早くに失った私にとって、この竜は時に厳格な父のような存在だった。
私は居住まいを正し、その言葉を待つ。
「君には穢れ無き純白が似合う……いや群青も捨てがたいな……あぁ悩ましい! 君は何色を纏っても世界で一番かわいいからね……ッ!」
「着替えますので出ていってください」
私は感動して震える竜の背中を、無表情で部屋から押し出した。
◆ ◆ ◆
竜は貴族の証であり、その強さはそのまま権威となる。
竜継の儀――それは成人した貴族が、契約した竜の名をミドルネームとして刻む神聖な儀式だ。
本来なら、身内と私くらいしか参加しないはずの、つつましい儀式になる予定だった。
けれど今日、ホールは下級貴族から高位貴族まで、多くの参列者で埋め尽くされている。
理由は、昨日の決闘だ。
アグレスト家は代々決闘に参加することはなかった。故に無名であるアグレストの竜が、格上の相手に圧勝してしまったからだ。
「ヴァレット家の後ろ盾を持つ彼が、実力まで示したとなれば……」
「うむ。最強の夫婦が誕生する前に、顔を繋いでおかねばなるまい」
そう。彼らの目的は純粋な祝福ではない。
勢いに乗るアルトと、歴史ある『竜の名家』である私が結ばれれば、貴族社会で誰も逆らえない最強の権力が誕生してしまう。
その前に媚を売っておこうという、打算まみれの集合なのだ。
私が眉間にしわを寄せていた元凶は、この異常な注目度だった。
竜の歴史が力となるこの国で、王族よりも強い権力を貴族が持つことを、あの王家が許すはずがない。
これほど注目されれば、王家が黙っているはずがない。
……嫌な予感がする。私の背筋を冷たい汗が伝った。
静まり返ったホールにアルトの声が響く。
それは竜に名を刻み、運命を共にするための誓約。本来なら、参列者全員が息を呑んで見守るべき、一世一代の厳粛な瞬間。
壇上のカグツチは、いつになく真剣な面持ちで、その言葉を受け止めていた。
……けれど。
「わぁ、カグツチくんがまともなこと言ってるよ。面白いねぇ」
私の隣で、スピカがさも愉快そうに耳打ちしてきた。
感動的な誓いの言葉を、「面白い」の一言で片付ける。
周囲の貴族たちが、驚愕と不敬を隠せずにこちらを振り返るのがわかった。
「……スピカ、儀式中ですよ。静かにしてください」
「だって、あのカグツチくんが『この命、すべて貴方に捧げます。どこまでも、お傍に』なんて。昨日は僕の尻尾を追いかけて遊んでたのにねぇ。背伸びしちゃって、可愛いなぁ」
スピカがアルトとカグツチを見守るその瞳は――私に父の目をするそれと同じ色をしていた。
拍手の渦が巻き起こる中、私とスピカだけが、その熱狂から切り離されていた。
「……さあ、アルトはこれから貴族たちに囲まれる。ここで貴族たちと会話一つ交わせないようじゃあ、ルシアは嫁がせられない。君はテラスで外の空気に触れておいで」
本来ならば貴族の竜が主から離れて自由行動など前代未聞だ。
けれどスピカに限っては、どんな貴族も文句は言わない。
過去にヴァレットに救われた家も多いし、スピカ自身に世話になった貴族も数知れない。
二千年という歴史は、ただの年月ではなく、積み重ねられた恩と信頼の証なのだ。
「私はアルトのことを信じています。アルトならきっと出来る、と……ところで、スピカはどちらに?」
「緊急事態だ」
スピカのいつも穏やかな表情に、珍しく陰りがちらついた。
「スピカ……いったい、なにが」
「エネルギー切れだ……今すぐそこのテーブルに置いてあるチョコフォンデュで糖分を補給しないと倒れてしまう」
「……そうでしたわね、竜種に糖分切れは深刻な問題です」
それでも――スピカがあえて自由に振る舞うのは、これほど奔放な二千年の竜さえも御してみせる、ヴァレット家の器を周囲に見せつけるためなのかもしれない。
……最近は、そう思うようにしている。
話を聞き終えるより先にスピカは「フォンデュフォーク、フォンデュフォーク」と口ずさみながら会場の喧騒に飲まれていってしまった。
私は貴族たちの間を縫って窓辺へ向かうと、テラスへのガラス貼りの扉をゆっくりと押した。
一歩窮屈な喧騒から踏み出せば、そこは深々と星の光の降り注ぐたった一人の舞台のようだった。
一歩、また一歩と進むたびにヒールの音がテラスに響いた。
あぁ――スピカが私をテラスに行くよう言った理由がわかった気がした。
今夜は、こんなにも星がきれいだ。
ふと――後ろからテラスと会場を繋ぐ扉の開く音がした。
振り返るとそこには――アルトの竜、赤い礼装に赤銀の髪を揺らしたカグツチが立っていた。
人の姿でありながら、その身長は二メートルを超える。
竜種とは、こうも圧倒的な存在なのだ。
「カグツチ……アルトのそばにいなくて良いのですか?」
「アルトがルシアを見てて、ってさ。スピカも忙しいみた――え、待ってなんであいつチョコフォンデュ食ってんの?」
カグツチの視線を追って振り返れば、ガラス扉の向こう――煌びやかな会場の中。
スピカがひとり優雅に、けれど猛烈な勢いでチョコフォンデュを口に運んでいるのが見えた。
「スピカは自由なので……」
「オレがやったら処されるやつだよね、絶対」
「えぇ。ヴァレットの二千年と言うのは歴史だけではないのです」
けれどカグツチは、どこか上の空だった。
あぁ、そうか――彼が気にしているのは、スピカのことではない。
「……昨日の決闘のこと、気にしているのですか?」
「アルト、あんまり喜んでなかったからさ。オレ、やりすぎちゃったかな」
「カグツチ、あなたは強かった。それは間違いありません」
私はカグツチの目を見据えた。
「でも――この貴族社会では、勝ってはいけない時があるのです」
「勝っちゃ、ダメ?」
カグツチが不思議そうに首を傾げる。
「三百年のアグレストが、千八百年の家に圧勝してしまった。それがどういうことか、分かりますか?」
「……目立っちゃった?」
「えぇ。相手の家格を読んで、花を持たせる――それがこの世界のルールです。スピカは決闘においては何も出来ません。ただ長く生きている、それだけが強さ。そしてその強さの前では、誰も逆らえない」
言葉を切って、私は会場の方へ視線を向けた。
「注目されすぎるのも、考えものなのですよ」
不意に――音もなく、会場の生ぬるい風と食事の香りがテラスに広がった。
カツ、と。
石畳を叩く硬い音が、夜の静寂を鋭く切り裂いた。
――瞬間、隣にいたカグツチの空気が変わった。
「……下がって、ルシア」
その声はいつもと変わらず穏やかに。
しかし低く、地這うような声。カグツチは私の前に一歩踏み出すと、扉の方を鋭く睨みつけた。
ゆっくりと扉を開けて現れたのは、夜の闇よりも深い白と金の礼装を纏った男。
この国の次代を担う琥珀の瞳の持ち主――王太子、ゼファレス・ファ・ヴォルシュタインだった。
白色の正装。その左袖だけが空虚に揺れていた。
――その謂れには様々な憶測が飛び交っていて、本当のところは分からない。しかしそれもまた、彼の野心を象徴していた。
「……酷い挨拶だな。王族の歩みに、家畜が牙を剥くとは」
ゼファレスはカグツチの視線など意にも介さず、優雅に、けれど圧倒的な威圧感を伴って歩を進めてくる。
彼の背後には、王家の象徴たる漆黒の枯れ枝のような竜種の影が、テラス全体を覆い尽くさんばかりに揺らめいていた。
「不敬ですよ、ゼファレス殿下。カグツチは、家畜などではありません。誇り高き、アグレストの――」
「誇り、か。言葉で飾れば実力が伴うとでも思っているのか、ルシア・ヴァレット」
ゼファレスは私の言葉を鼻で笑い、カグツチを見下すように目を細めた。
敢えて、ミドルネームからスピカを抜いた。
竜継の儀まで正式に名乗らないとは言え、貴族の礼儀として成人前の貴族に対してミドルネームを抜いて呼ぶことは、竜なしと蔑む意味を持つことを彼は知ってか知らずか。
「昨日、運良く格上に勝った程度の名もなき竜を、あのアグレストの無能が御しきれるはずもない。道具は、身の丈に合った者が持たねば、ただの凶器だ」
彼は私との距離を詰める。一歩、また一歩。
「君のような純血の歴史を、あんな泥臭い男に預けるのは、この国の損失だ。……君の価値は、もっと高い場所にあるべきだとは思わないか?」
ゼファレスの手が、私の頬に伸ばされる。
それは、親愛などではない。
希少な宝石の鑑定を終え、自分のコレクションに加えようとする蒐集家の、冷たくて残酷な手つきだった。
「君のような純血の歴史があれば――どんな野心も、正統な王道として語られる」
ここでその手を振り払ったとして。
相手は歴史が浅いとはいえ王族だ。
王族と言えどヴァレットに手を出せば他の貴族から反感を買う。そんな自滅をこの王太子が選ぶとは思えない。
恐らく――カグツチに、アグレストに罪を着せるだろう。
白い指が、ためらいもなく私の頬へ触れようとした――その瞬間、カン、と靴音。
カグツチが私の前に立っていた。
「彼女は主の許の人だ。――触れれば、剣を抜く」
ほんの一瞬の静寂。
その間が致命的になり得るほど、危うい空気が重く伸し掛かる。
沈黙が、刃のように張りつめた。
カグツチの言葉はおよそ王族に向ける言葉ではなかった。
本来なら竜種が、王位継承者に反論するなど、死罪に問われてもおかしくはない。
私は思わず息を呑む。
けれど、すぐに立ち直った。
私は――ヴァレット家の令嬢。
ヴァレットとアグレストはいずれ一つになる。
カグツチはいずれ家族になるのだ。
この場を制するのは――カグツチの羽を折りたたむのは、私がやらなければいけない役目だ。
ゼファレスの隣では、漆黒の竜種が沈黙を保ったまま、確実にカグツチを捉えている。
このままでは、剣が抜かれる。
言葉ではなく、力の場に引きずり込まれる――。
王族と決闘で済めばそれでいい、しかし不敬罪を持ち出されてアグレストを叩かれれば、いくらヴァレットの名があろうと守りきれない。
その瞬間、私の背中を押すように風が吹いた。
背筋を伸ばし、裾を揺らしながら膝を――折ろうとした、瞬間。
「ルシア、顔を上げて」
会場からテラスへと続く扉が、音もなく開いていた。
耳元で響いたのは鈴の鳴るような――けれど夜の空気を支配するほど通る声。
驚いて目を見開いた私の視界に、星明かりが乱反射し青白銀に輝くスピカの髪が――後ろ姿が割り込む。
二メートルを超える巨躯が、私とゼファレスの間に立ち塞がる。
それは、どんな言葉よりも雄弁に――私を守るという意志を示していた。
「君には僕がいる。――そして」
スピカは、私を庇ってゼファレスの前に立ったカグツチの頭に、ぽんと手を置いた。
「カグツチ。よくやったね、偉いよ。……君がルシアを守るために牙を剥いたこと、僕が――そしてヴァレットの二千年の歴史が全部肯定してあげよう」
カグツチは驚きに、固まってしまった。
王族に楯突いた罪が、二千年の歴史を持つ星竜王の手によって、誇り高い騎士の務めへと書き換えられた瞬間だった。
スピカはそのまま、顔を青ざめさせているゼファレスへと、心底退屈そうな視線を向けた。
「さて、王太子の坊や。うちの若いのを家畜なんて安い言葉で呼んでくれたね。……僕を目の前にして、その言葉がどれほど不敬か、君の血に刻まれている『ファ』の記憶に聞いてごらん?」
「……な、何を。貴様、竜種の分際で……!」
「分際、か。面白いことを言うね。君の先祖が、僕の足元に跪いて守ってくれと泣きついてきたのは、僕にとっては昨日のことなんだけどな」
スピカが一歩、踏み出す。
ただそれだけで――ゼファレスの背後にいた漆黒の竜種が、小さく息を呑んだ。
その巨体が、わずかに震えている。
そして何も言わず、一度も振り返ることなく、扉の向こうへと姿を消した。
ゼファレスは漆黒の竜種の背中を睨みつけたが、竜は二度と戻ってこなかった。
「歴史を重んじるのがこの国のルールだろう? ならば二千年分の不敬を今ここで清算させてもらおうか」
「……おい、俺は次期国王だぞ?」
「王? ……ふふ、あははは! 面白いねぇ、ルシア。この三歳児は、自分が歴史を作っているつもりらしい」
スピカは冷たく笑い、ゼファレスの喉元に、白く細い指先を突きつけた。
「いいかい、坊や。君たちの命は瞬きだ。僕という歴史の前では、王冠も、血筋も、チョコフォンデュの一滴ほどの価値もない」
スピカの目がいつもの慈愛に満ちたものではなく、捕食者の目になった。
竜種という生き物は穏やかな性格なのでつい忘れそうになるが――竜種とは牙を隠しているだけで、本来は人間を圧倒する生き物なのだ。
「これ以上、僕のかわいいルシアを怖がらせるなら――」
私もカグツチも息を呑んだ。
「僕が貴族たちに泣きついて見せようか。二千年も生きた可哀想な竜が、若造にいじめられたって、涙ながらにね」
「えっ」「えっ」
私とカグツチの声が重なる。
スピカ、あなた、今なんて。
「全貴族の敬愛を集める僕が、ホールに飛び込んで『王太子に角を折られそうになった』なんて言えば……。坊や、君は王太子でいられるだろうか。やってあげようか?」
スピカの顔は、夕方のドレス選びで「ルシアは白!」と力説していた時と同じ、純粋な悪戯っ子のそれだった。
「き、貴様……プライドと言うものはないのか!? 仮にもヴァレットの名を背負っておきながら出てくる言葉とは思えないぞ!?」
「プライドで大切な人を守れるのなら、僕はいくらだって差し出そう。竜種は尽くす生き物――その執着を甘く見ると、取り返しがつかなくなるよ」
ゼファレスは喉元に突きつけられた白く細い指先を、死神の鎌でも見るような目で見つめていた。
先ほどまでの傲慢さは霧散し、ギリと鳴る奥歯の音だけがテラスに響く。
「……ッ、貴族め、竜ともども必ず滅ぼしてやる」
彼はそのまま、一度も振り返ることなく、逃げるように会場の喧騒へと消えていった。
その背中には、今は何もできない者の――けれど確実に機会を窺う者の、冷たい怨嗟が滲んでいた。
「……スピカ」
私がようやく呼ぶことができた声は、情けないほど震えていた。
スピカは、いつもと同じ穏やかな顔で振り返る。
その指先には、まだ微かにチョコの甘い香りが残っていた。
「あーあ、せっかくの世界で一番かわいいお姫様の表情が台無しじゃないか。あんな三歳児のせいで、ルシアの綺麗な目が曇ってしまった」
彼は私の眉間を、またあのぐりぐりでほぐし始める。
「スピカ、あなた……本当に、不敬どころの話ではありませんよ」
「いいんだよ。僕にとっての主は、いつだってヴァレットだけなんだから」
彼は悪戯っぽく笑い、それからまだ呆然としているカグツチの肩を叩いた。
「さあ、アルトを迎えてあげたらどうだい? 君は今日、ちゃんとお兄さんの顔をしていたよ」
最初は言い間違えたのかと思った。
カグツチは三百歳で、確かにアルトより年上だが――どちらかと言えば弟気質なところが目立つ。
いや、でも――ふと、さっき王太子の前で私を庇ったカグツチの横顔が脳裏をよぎる。
あの時のカグツチは、確かに――誰かを守る者の顔をしていた。
それを聞こうとするより先に扉が開いて、少し疲れた顔のアルトが顔を見せた。
「アルトー! お疲れ様! 社交、大変だった?」
カグツチが駆け寄り、二メートルを超える巨体をアルトに伸し掛からせる。
その声は、さっきまでの凛とした調子ではなく――まるで子供のように甘えた声色だった。
「ああ、少し疲れたけど、大丈夫だよ」
アルトが優しくカグツチの頭を撫でる。
――あ。
私は思わず息を呑んだ。
さっき王太子の前で私を庇った時のカグツチと、今アルトに甘えているカグツチ。
まるで、別の竜のようだった。
ひょっとしてカグツチはアルトの前ではわざとそうしているのではないか――スピカの言葉のおかげで、そんな疑問が湧いた。
とは言え、カグツチはいつもこうだ。
アルトと、それからその隣で笑っているカグツチ――この風景は、私の幸せの象徴でもあった。
◆ ◆ ◆
竜継の儀の翌朝――私は女学院へ戻るために、屋敷の前の噴水で馬車を待っていた。
「ルシア、女学院ではいじめられたりしていないかい?」
「ふふっ、スピカったら……女学院でいじめなんて鳥が空を飛ぶより当たり前の日常ですよ」
語気が自然と強くなるのは仕方がない。あの場所はそういう場所だ。
「ルシアのことだから負けることはないと思うけど……辛かったらいつでも帰ってきていいんだからね?」
「女学院の陰湿ないじめ一つ熨しつけて返さず逃げ帰るなんて、ヴァレットの恥ですわ。女学院で社交の刃を研磨すれば、本番も怖いものなしです。きっと」
「うん、もれなくみんな致命傷だ。それでこそ、僕が二千年見守り続けたヴァレットだ」
まるで父がそうするように、スピカは私の頭を撫でた。
やがて――上空から「おーい!!」と叫び声が聞こえて私とスピカは同時に顔を上げた。
紅の鱗を煌めかせ、地面に向かって急降下する竜体のカグツチと、その背にしがみついているアルトの姿がそこにはあった。
カグツチは噴水のすぐそばに着地すると、アルトを背中から降ろす。
竜体は瞬く間に炎に包まれ、やがて赤銀の髪を揺らしたいつものカグツチの姿に戻った。
「アルト……カグツチに乗ってくるなんて聞いていませんよ。さてはまたカグツチが寝坊したのですね?」
「実はカグツチじゃなくて俺が寝坊したんだ」
「アルトが寝坊、ですか?」
それは珍しい。
前にアグレストの屋敷を朝早く訪ねた時、アルトはもうだいぶ前から起きていて、カグツチはまだ布団の中だった。
アルトは昔から、まるで時間を惜しむように――いつも早く起き、誰よりも早く動き始める人だった。
けれど、今朝は寝坊した。
それを聞いて、私はどこか安心していた。
そんなことを考えていると、スピカが声をかけた。
「カグツチ、こっちへおいで。少し二人で話をしよう」
「え、何? スピカ、お説教なら後にしてよ。まだ儀式の余韻も冷めてないのにさ」
カグツチはいつものように唇を尖らせ、不満げにスピカの隣へと歩み寄る。
スピカはそれを「いいから」といなして、アルトと私を噴水の縁へと促した。
「さあ。アルト。馬車が出るまで、ルシアと二人で話しておいで」
アルトは少し驚いたように瞬きをしたが、やがて優しく微笑み、私の隣に座った。
「アルトが寝坊なんて珍しいですね」
「ごめん。来ないかもって心配させた?」
「いえ、それはないです。アルトは何があっても約束を守る人ですから」
そう言って、私は胸の銀の葡萄のブローチ――母の形見――をそっと撫でた。
◆ ◆ ◆
二匹の竜は、少し離れたところからベンチに座るふたりを見守っていた。
不意に、スピカが横のカグツチへ、試すような視線を向けた。
「さて。竜継の儀も終わったことだし、これで君は正式にアルトの竜になったわけだ。なら、その幼さは卒業しないとね」
スピカの声はどこまでも平坦で、だからこそ真実を射抜いていた。
「もういらないだろう、それ」
カグツチの肩が、わずかに揺れる。
彼はいつものように無邪気に首を傾げようとして――けれど、スピカの金色の瞳に見透かされ、ふっと苦笑いを浮かべた。
その瞬間、纏っていた幼さが剥がれ落ち、一羽の猛禽のような鋭い知性が顔を出す。
「あー……気付いてた?」
「僕を誰だと思ってるんだい」
スピカは鼻を鳴らす。
カグツチは、遠くで笑うアルトの横顔を、慈しむように見つめた。
「アルトはずっと、何かを恐れてた。一人で冷たい場所にいるみたいな顔をしてたんだ。……だからアルトを笑わせるのが、オレの役目だって思ってた」
自分が弱く、幼くあれば、アルトは自分の世話を焼くためにこちらを向いてくれる。
死の予感に呑み込まれそうな主を、現世に繋ぎ止めるための、彼なりの細い糸。
「でも、今のアルトは笑ってる。昨晩は珍しくぐっすり寝てた。……オレも、ちゃんとしたアグレストの竜にならないとね」
「……そうだね」
スピカは満足げに頷き、一歩前へ歩き出す。
「僕がいる限り、もう君の主が一人で震える夜は来ない。……これからはアルトを慰めるんじゃなく、お互い主とともにあろう。いいね?」
「……了解」
カグツチの声は、もう子猫のそれではない。
低く、力強く。主の未来を共に歩む、一機の竜の響きだった。
「じゃあ、戻ろうか」
「うん」
二匹の竜が噴水へ戻ると、ルシアとアルトが顔を上げた。
「お話は終わりましたか?」
スピカがカグツチの頭をくしゃりと撫でる。
カグツチは少し照れくさそうに笑った。
やがて、遠くから馬車の音が聞こえてくる。
「さあ、ルシア。そろそろ時間だ」
「はい」
立ち上がるルシアに、アルトが手を差し出した。
「次は会えるのは――雪が解けた頃かな」
「ええ。その時はのんびりと散歩でもしたいですね」
二人が見つめ合い、二匹の竜がそれを見守る。
朝の光の中、白薔薇が優しく揺れていた。
――この幸せな朝は、守られた。
そして、明日へと続いていく。
「僕がいる限り、もう君の主が一人で震える夜は来ない」
しかし、本編では、この約束は守られませんでした。
星は落ち、スピカはもういません。
守られなかった世界で、ルシアとカグツチはどう生きるのか。
『復讐令嬢は怒りを持たない最強火竜の業火となり、魔王へ至る ~造花の魔王~』
※本編は最終的にハッピーエンドですが、序盤は心が削れる展開が続きますのでご注意ください。




