第3話(9) 震える唇
その日の夜、寮――。
202号室と書かれたドアの奥、怪しい声がしていた。
「やれやれ……またしても『当初の目的』を忘れるところやったやんか」
研修を終えて寮に帰宅した亜希は、自室で机に向かっていた。
目の前のノートパソコンをゆっくりと開き、例の掲示板にアクセスする――
「簿記も終わってせっかく時間できたのに、つい研修準備に夢中になってしもたわ。隙を与えん学校やでホンマ」
と額に汗を浮かべて愚痴りながら、目当てのスレッドにマウスのカーソルを滑らせていく。
そしてクリックしようとしたところで……亜希は手を止めた。
「…」
キッ!
亜希はおもむろに振り返り、ドアを睨みつけた。
《カギおっけー!》
キッ!
《念のため、カーテンも! いや誰も、覗かんけどっっ!》
亜希は顔を赤らめながら自分に突っ込みを入れると、胸の高鳴りを抑えきれずにきゅつ!とマウスを握り直した。
「……ヨシ!」
そしてマウスのボタンを押そうとした、その時――!
「亜希ー、冷蔵庫貸してー」
コンコン、ガチャ。
「アレ? カギが」
「え~アイス溶けるよ~」
「……」ばんっ。
葉月たちのドアを開けようとする声が聞こえて、亜希はノートパソコンを乱暴に閉じるのだった。
ドアを開けてやると、案の定、葉月と結衣が立っていた。
「お前らなぁ!」
「はい、これ亜希の分」
「…!」
文句を言いかけた亜希の目の前に、葉月がにこ、と笑ってカップアイスを差し出した。
「亜希の分も買ってきたで。この間食べれんかった分ね」にこ。
「…!!」
「…お前らも自分の部屋にテレビと冷蔵庫置けばええやん」
「え~? 亜希に会いに来たってるんやん?」
「…」(もうやめて、死ぬ)
結局二人を入れてやった亜希は、葉月のからかいに顔を赤くしながらアイスを食べるのだった。
***
「公開告白ぅ?!」
葉月から公開告白の騒動を聞くなり、結衣は声を弾ませた。
空になったアイスのカップは机に置かれ、いまは各々飲み物を飲んでいる。
葉月が口パクだった件などそれぞれの出し物についての話が出た後、話題は葉月の公開告白の件へと移っていた。
「えー見たかったぁ。ほんでどーしたん?」
「はは。その場で断ったよ」
「全部?」
「うん」
「そうなんや? デートくらい行ってみてもええのに」
「興味ない男とデートとか行きたないし。あーいうノリも嫌い」
もったいなさそうに聞く結衣を、葉月が笑いながら切り捨てる。
亜希は二人がベッドに腰掛けて話すのを、机の椅子の上で聞きながら、手に持った缶チューハイの穴から、底に残るつぶつぶを覗いた。
あの告白で出てきた男は全部で6人。
全員、可哀想なくらいに瞬殺されていた。
確かに彼らの半分は軽薄な奴らだったが、中には真剣な者もいたし、顔のいい男もいたのに。
「高田マサキとかリオナルド・ティガプリオとかやったら考えるけど?」
「あはは。私は尾栗ジュンがいいなー」
……やっぱコイツって、『自分がかわいい』って自覚あるんやろな。
顎の前で逆さに立てた缶を振る。
出てきたつぶを噛み潰すと、口の中で酸味が広がった。
「お酒いーな、1本もらっていい?」
「お前ら未成年やん」
「えー。自分だけずるー」
拗ねたように笑う葉月を見て、亜希はどっちが、と思った。
普段は散々人のことをからかっているのに、こういう時だけ甘えた態度を取ってくる。
亜希はベッドで笑う彼女のかわいい笑顔を横目で見ながら、もう一度缶を振って、ふと思った。
……そういえば、彼氏の話は聞いたことが無い…
しかしすぐに思い直して、静かにコン、と缶を机に置いた。
――まぁこっちから訊きもせんけど……
だって、『もし』……
「そういえば、亜希ってあんまこういう話せんよね」
「え。」
急に水を向けられ、亜希は遅れて声を出した。
結衣が無邪気な顔でこちらを見ていた。
「彼氏とかおるん?」
「お、おらんけど」
「作らんの?」
「べ、べつに要らんかな」
「好きな人とか気になる人とかは?」
「おらんよ」
「え~~?」
結衣の追及をはぐらかそうとする亜希に、葉月も身を乗り出す。
「ウソつきぃな、なんかあるやろ?」
「お酒足りてないんちゃう? もう1本開けよか」
笑いながら冷蔵庫を向く葉月。
「要らん要らん!」亜希は制したが、
「出すねー」結衣がベッドから立ち上がって、冷蔵庫を開けた。
「いや要らんって」
「はい。」
頑なに断り続ける中、結衣に顔の前に冷えた缶チューハイを突き出された時。
亜希の顔が――歪んだ。
…――ッ、…
身体がすっ、と冷え、ヒュッと縮んだ心臓が、小さく高鳴り出す。
缶チューハイを見つめる瞳が揺れて、亜希は怯えたような顔をしていた。
…――ドッ、ドッ…
『もし 自分のことを 訊かれたら』
『もし 自分のことを 打ち明けたら』――……
トンネルに入った時のように。
視界が闇に呑まれていく。
トンネルの中で反響する声と足音を聞きながら、静かに波打っていたうねり。
何度もふつふつと胸に湧いては、穏やかな日常を守るために、呑み込んで、きたのに――――!
「……要らんってもう、しつこいなぁ!」
ゴトッ! ……
チューハイの缶が重い音を立ててカーペットの上に落ちた。
亜希は結衣の手から缶を叩き落としていた。
沈黙の中を、缶がゴロゴロと転がっていく。
床に転がる缶に気付いて、亜希はハッとして彼女を見上げた。
驚いた葉月と目が合った亜希の、唇が、震える。
『もし 自分のことを 打ち明けてしまったら』――
だけど、もう隠しておくことはできなくて、亜希は自分の気持ちを吐き出した。
「男は好きじゃ、ないんじゃよ!」
『もし 自分のことを打ち明けたら 人生終わるかも、しれんのにね。』
第3話 『カミングアウト』 END




