第2話(9) 葉月
コンコン。
「はい、カギ開いとるよ」
402号室のドアを小さくノックすると、中から素っ気ない声がした。
「お邪魔します…」
亜希が遠慮がちにドアを開けると、葉月が机の椅子に座って、教科書やノートを片付けているところだった。髪は後ろで括られている。
……勉強中やったんかな。
亜希は机を向いたままの葉月に「どーぞ」と言われ、中へ入った。
「こっちに椅子あるから座って」
葉月の指した方を見ると、彼女の座る椅子の向こうに、亜希の部屋にあるのと同じタイプの丸い簡易椅子が置かれていた。
…ス。
その椅子を引き寄せようとして彼女に近付き、固まる。
――うわ。いー匂い。
葉月は既に風呂を済ませている様子で、ジャージに長袖のTシャツを合わせただけのラフな格好をしていた。髪を結われて露わになったうなじから、肩へと続くきれいな線が流れている。
「…ちょっと、あんま離れられると教えづらいんやけど」
「あは。そーやよね」
亜希は思わず彼女から椅子を離していた。
「もう。ふざけるんやったら帰りや」
「ご、ごめん」
亜希は怒り顔の葉月に咳払いしながら、膝のぶつかりそうな隣に座り直し、持ってきた教科書を開いた。
***
「…やからさ、…」
……何コイツ。すげー 頭いんやな…
葉月は亜希の手が止まるたび、どこに引っかかっているかを上手く聞き出して、ノートに図を描きながら教えてくれた。
亜希は目の前で形の揃った文字がすらすらと書き連ねられていく様子に見惚れながら、その文字に乗る彼女の少しだけ高いきれいな声を聞いて、胸が小さく鳴るのを感じた。
……もし 彼女の性格がかわいかったら……
彼女の手元を見ていたはずの亜希の目は、いつの間にか彼女の横顔に見惚れていた。
「…やから…やん? …亜希?」
と、葉月がこちらの様子に気づき、不審の目を向けた。
「ちょっと、聞いとるん?」
「えあっ?! き、聞いてなかったです、ごめんなさい」
「もーっこっちも忙しいんやけど?! やる気無いなら帰って!」
***
そんなこんなで結衣や葉月のサポートを受けつつ、
4月下旬の学校、亜希の教室――
「皆さんが簿記の勉強を始めて、もうすぐ1ヶ月になります」
教壇に立つ担任が、亜希たち生徒に静かに告げた。
「ここまで3級、2級と駆け足で勉強して来ましたが、受験できるのはどちらか1つだけです。このまま2級にチャレンジし続けるか、それとも3級を受験するか? 今週中に決めてください」
いつもはテンションの高い担任の見せるその真剣な面持ちに、生徒たちもじっと耳を傾ける。
「簿記に初めて触れてここまで突っ走ってきて、不安でいっぱいかもしれません。でもっ!」
俄に担任のテンションが上がり出して拳を握りしめ、担任は結局バン!と黒板を叩きつけた。その衝撃でクラスの一人がバタと倒れたが、亜希と他の者は手をつき支え、踏ん張った。
「皆には是非挑戦してみて欲しいっ! 皆がチャレンジするならっ! 僕たち教員は全力でサポートするっ!」
担任は力強くそう宣言すると、時計の横に掲げられた「努力」と「勝利」の額縁に向かって、高く拳を突き上げた。
……
***
《サポートするって、言ってもなー。てか、3級やったらサポートせんのかよ》
その日の夜、寮の食堂。
亜希が昼間の担任に突っ込みを入れながら、はむ、とエビフライをくわえていると、葉月がやって来て、空いていた亜希の前に夕食のプレートを下ろした。
「どしたん? 変な顔して」
「ん~…2級と3級どっち受けようかと思って」
「え? 2級やろ?」
亜希がエビフライをかじりながら返すと、亜希の置かれた状況を察したらしい様子の葉月は即答して、柔らかな笑みを浮かべた。
「せっかく親が大金出してくれとるんやから、取れるモン全部取っときーや。それに、頑張っとるんやろ?」
最後の言葉に、亜希の瞳が小さく揺れた。
学校や寮でのこの3週間の頑張りを、無かったことにしたくない。
亜希はまっすぐと葉月を見ると、頷いた。
「うん――」
「なー、亜希ってテレビ持っとるんやろ? 9時(21時)から観に行ってええ?」
「えー」
「いーやん、勉強見たるし」
「げー」
「なにーよ」
約束した時間になると葉月は亜希の部屋にやってきた。
彼女は亜希を机の椅子に座らせると、自分はベッドに腰掛け、テレビを観始めた。
亜希は勉強の途中、振り返って、彼女にそっと目をやった。
そしてテレビを観て小さく笑い声を上げる彼女を見て、自分もふ、と笑った。
亜希は机に向き直ると、担任からもらったプリントの「2級」の文字を丸で囲んだ。




