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妹の代わり。それだけのはずだった

作者: 秋月アムリ

 アストラーレ伯爵邸の朝は、悲鳴と共に出現した絶望から始まった。


「ステラ様が……ステラ様がいません!」


 侍女のうわずった声が廊下に響き渡る。伯爵家の長女であるセレナ・アストラーレは、手にした古びた詩集を閉じると、嫌な予感を胸に妹の部屋へと向かった。そこには、純白のウェディングドレスが無造作に床に放り捨てられ、鏡台には一通の手紙がこれ見よがしに置かれていた。


 セレナは震える手でその紙を開く。そこに記されていたのは、双子の妹であるステラの、あまりにも身勝手な決別の言葉だった。


『お父様、お母様。私は真実の愛を見つけました。

 あんな退屈そうな男との結婚なんて、死んでもお断りです。

 顔だけは良いけれど、ちっとも私を褒めてくれないし、何よりあの侯爵邸! カーテンは重苦しい色で調度品も古臭い木製ばかり。

 シャンデリアすらない陰気な屋敷で、一生お茶を飲んで過ごすなんて耐えられません。

 私はもっとキラキラした場所で、私を一番に愛してくれる人の隣にいたいの。

 地味な屋敷には、地味なお姉様の方がお似合いよ。あとはよろしくね』


 最後の一文に、セレナは眩暈を覚えた。

 鏡の中に映る自分は、妹と同じ顔をしていながら、どこまでも影が薄い。

 華やかな社交界の華として君臨してきたステラとは正反対に、セレナは静かな書庫や庭の隅を愛する、目立たない存在だった。


「どういうことだ……。ノクティス侯爵家との縁談は、我が家の再興がかかっているというのに!」


 駆けつけた父親は、手紙を読み終えるなり顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。しかし、その怒りの矛先は逃げた妹ではなく、傍然と立ち尽くすセレナへと向けられる。


「……やむを得ん、か。セレナ、分かっているな。今さら縁談を断ることは許されない」


 背後から投げかけられた父の冷酷な声に、セレナは肩を震わせた。彼女の両親にとって、娘は家を繋ぐための駒に過ぎない。特に社交を好まず、図書室で静かに本を捲ることを至福とするセレナは、華やかなステラの控え(・・)として扱われてきた。


「お前が代わりに行け。幸い、お前たちは双子だ。ベールで顔を隠していれば、式の最中に気づかれることはない。一度婚姻が成立してしまえば、あとはどうとでもなる」


「お、お父様、何を仰るのですか? 相手はあのヴィクター・ノクティス侯爵様です。そんな欺瞞が許されるはずが……」


「黙れ! 我が家を破滅させる気か! お前のような陰気な女を、あの若き侯爵が貰ってくれるのだ。ありがたく思え」


 有無を言わせぬ父の言葉に、セレナの心は冷たく凍りついた。家族にとって、自分はステラの代わりでしかない。

 これまでもずっと、ステラの影として生きてきた。妹が欲しがるものは譲り、妹が嫌がる汚れ仕事を引き受けてきた。

 けれど、まさか結婚相手まで身代わりを命じられるとは。


 無理やり着せられたのは、ステラが脱ぎ捨てたはずのウェディングドレスだった。

 サイズは同じでも、鏡に映る姿は自分のものではないように感じる。

 厚いベールを被せられ、セレナはまるで処刑台へ向かう罪人のような足取りで、ノクティス侯爵家から迎えに来た馬車へと乗り込んだ。


 ノクティス侯爵、ヴィクター。

 噂に聞く彼は、若くして軍の要職に就き、冷徹無比と囁かれる人物だ。


(きっと、私のような女が入れ替わったと知れば、激怒して追い出されるに違いない……)


 セレナは馬車の揺れに身を任せながら、最悪の結末ばかりを思い描いていた。




 結婚式は、侯爵邸の私設礼拝堂で、ごく限られた身内のみで行われた。


 セレナはステラのために仕立てられた、あまりに豪華で身に余るウェディングドレスに身を包み、顔を深く覆う厚手のレースベールでその正体を隠した。ベールの下で、セレナは呼吸を止めるようにして俯いていた。隣に立つヴィクター・ノクティス侯爵からは、冷たい風のような、それでいて凛とした静謐な気配が漂っている。


 隙のない立ち居振る舞い、芸術品のように端正な横顔。しかしその瞳はどこか遠くを見ているようで、感情の機微を読み取ることは叶わない。


「……随分と静かだ。派手好きだと聞いていたが、思ったより落ち着いているのですね」


 ヴィクターが低く、心地よい声で囁いた。セレナの心臓が、喉から飛び出しそうなほど激しく打つ。


(この方は、私がステラだと信じ込んでいる。もし、このベールの下が偽物だとバレてしまったら、私は、我が家はどうなってしまうのだろう)


 セレナは恐怖で喉が引き攣り、かろうじて小さな会釈を返すのが精一杯だった。


「……そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」


 誓いの言葉を交わす直前、隣から囁かれた声は、冷徹という噂とは裏腹に、春の陽だまりのような柔らかさを孕んでいた。

 セレナは驚いて顔を上げそうになったが、かろうじて踏みとどまる。


「これからは、ここが君の家です」


 ヴィクターの言葉は簡潔だったが、そこには確かな誠実さが宿っていた。

 セレナは罪悪感で胸が締め付けられた。彼は、自分が騙されているとも知らずに、偽りの花嫁を迎え入れようとしている。




 式が終わり、夕闇が屋敷を包む頃、セレナは新居となる侯爵邸の寝室にいた。

 ステラが「古臭い」と罵った調度品は、どれも年月をかけて丁寧に手入れされた、気品ある美しいものばかりだった。

 派手な金細工こそないが、磨き上げられた木製の調度品や、深みのある色調のカーテンからは、持ち主の誠実で揺るぎない人柄が伝わってくるようだった。

 それらは、静かな生活を好むセレナにとって、理想的な空間に思えた。


(けれど、私はここにいてはいけない存在なの……)


 侯爵邸の寝室は広く、暖炉の火だけが静かに爆ぜている。

 侍女たちに手伝われ、白いシルクのナイトガウンに着替えさせられたセレナは、大きなベッドの端で一人、震えていた。


(妹のふりをして、彼を騙したまま、妻としての義務を果たさなければならない……)


 やがてドアが開き、ヴィクターが入ってきた。彼は上着を脱ぎ、線の細い優雅な佇まいでセレナの前に立った。


「疲れただろう。慣れない環境で、無理をさせたね」

「……あ、あの、ヴィクター様」

「ん? 何かな」

「私は……私は、貴方が思っているような、華やかな女性ではありません。ご期待を裏切ってしまうかもしれません」


 セレナは、変わり身がバレることへの恐怖と、彼を騙していることへの良心の呵責から、声が震えた。今にも涙が溢れそうだった。

 貴族の義務として、初夜の契りを交わさなければならない。けれど、偽りの姿で彼に抱かれることが、何よりも恐ろしかった。


 ヴィクターはしばらく黙ってセレナを見つめていたが、やがてふっと目を細めて微笑んだ。


「君がどういう人か、私はこれから知っていけばいいと思っている」

「あ、ありがとうございます……」


(身代わりだと知られたら、この優しさは怒りへと変わる。それでも、私は今日からこの人の妻として振る舞わなければならない)


 部屋の明かりは絞られており、彼の端正な顔立ちを柔らかな影が縁取っている。セレナは緊張のあまり、指先を強く握りしめた。


「……不慣れな環境で気疲れもあるだろう。それに、君はとても緊張しているようだ」


 ヴィクターはベッドの端に腰を下ろし、セレナを見つめた。その瞳には、彼女を威圧するような色は微塵もなかった。


「無理強いはしない。今日はゆっくり休むといい」

「……え?」


 セレナは驚きに目を見開いた。貴族の婚姻において、血を残すことは義務である。それを拒むことは、夫婦としての権利を放棄することと同義だ。


「君の心境を無視してまで、優先するものなどないよ」


 ヴィクターはそう言って、強張ったセレナの手を取った。その指先は意外なほど固く、騎士として剣を握ってきた者のそれであったが、触れ方は壊れ物を扱うように繊細だった。

 その温もりに触れた瞬間、セレナの中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。


「っ……、申し訳……ございません……」


 謝罪の言葉と共に、堪えていた涙が溢れ出した。妹の代わりとして彼を騙している罪悪感、いつ捨てられるか分からない恐怖、そして何より、彼が向けてくれる優しさが自分に向けられたものではないという悲しみ。


「おや、泣かせるつもりではなかったのだけれど」


 困ったように眉を下げたヴィクターは、セレナを優しく引き寄せ、その細い肩を抱きとめた。彼の胸板は厚く、心地よい香りが鼻腔をくすぐる。


(ごめんなさい、ごめんなさい。私はステラではないのです)


 心の中で何度も繰り返すが、言葉にはならない。ただ子供のように声を上げて泣くセレナを、ヴィクターは何も聞かずに、ただ静かにあやし続けた。

 背中を撫でる手のひらのリズムが心地よく、極限の緊張状態にあったセレナの意識は、疲労と安堵が混ざり合う中で次第に遠のいていった。




 翌朝、小鳥のさえずりで目を覚ましたとき、隣にヴィクターの姿はなかった。


(夢……だったのかしら)


 昨夜の出来事を反芻しながら、セレナはゆっくりと上体を起こした。

 ふと、枕元のサイドテーブルに目をやると、そこには昨夜まではなかったはずの一冊の本が置かれていた。


 それは、彼女が実家で誰にも知られずに愛読していた、古い詩集だった。


「……どうして? これ、私が大好きな……」


 なぜこの本が、ここにあるのか。

 妹のステラは、詩集など一文字も読まない。彼女が好むのは、流行の恋物語や宝石のカタログだけだ。


 ヴィクターは、なぜこの本を私の枕元に置いたのか。

 セレナの心に、言いようのない予感と戸惑いが広がっていく。


 窓から差し込む朝日は、静かな侯爵邸の寝室を明るく照らしていたが、セレナの心は、新たな謎と期待、そして深い不安に揺れ動いていた。


 セレナはその古びた表紙を指でなぞり、ひとつため息をつく。まさかヴィクターが、この本がセレナの愛読書であると気づいて置いたわけではないだろう。おそらく、書庫の整理をしている最中に偶然見つけ、妻への気まぐれな贈り物として置いたに違いない。

 そう自分に言い聞かせなければ、期待という名の毒が全身に回りそうで怖かったのだ。


(今は、余計なことを考えている場合ではないわ。私は侯爵夫人として、ここでの生活を全うしなければ)


 身支度を整え、部屋を出たセレナを待っていたのは、予想以上に混乱した侯爵家の内情だった。



 *



「……これは、どういうことかしら」


 食堂での朝食を一人で済ませた後、セレナは家令のセバスチャンに屋敷の帳簿と備蓄庫の管理表を持ってくるよう頼んだ。

 ヴィクターは早朝から騎士団の務めに出かけており、屋敷にはセレナと使用人たちだけが残されていた。


 目の前に積み上げられた書類を見て、セレナは眉をひそめた。

 侯爵家という大貴族の家とは思えないほど、数字の記載は杜撰だった。食材の仕入れ値は相場より高く、消耗品の在庫管理も穴だらけ。これでは、使用人たちが日々必要なものを手に入れるのにも苦労しているはずだ。


「お恥ずかしい限りです、奥様」


 初老のセバスチャンが、申し訳なさそうに頭を下げる。


「旦那様は軍務がお忙しく、屋敷のことは先代の頃からの古株任せにしておりまして……その者が引退してからは、私が兼任しておりましたが、どうしても手が回りきらず」

「……それに、ここ最近は『新しい奥様』をお迎えする準備で、現場も混乱しておりましたので」


 横に控えていた侍女頭のマーサが、少し刺のある口調で付け加えた。

 彼女たちの視線には、警戒の色が混じっている。無理もない。ここに来るはずだったステラは、贅沢好きでわがままな女として社交界で名を馳せていたのだから。屋敷の者たちは、新しい女主人がいつ理不尽な命令を下すかと身構えているのだ。


(私がステラだと思われている以上、嫌われるのは仕方がない。でも……)


 セレナは手元の帳簿に視線を落とした。数字の羅列を見るだけで、どこが滞っているのか、どうすれば改善できるかがパズルのように組み上がっていく。

 実家のアストラーレ伯爵家でも、派手な生活を送る両親と妹の裏で、家計のやりくりをしていたのはセレナだった。図書室で経済や家政の本を読み漁り、知識を実践することだけが、彼女の密かな楽しみであり、自衛の手段だったのだ。


「セバスチャン、マーサ。少し、やり方を変えてもよろしいですか?」

「は……? 予算を増やす、ということでございますか?」

「いいえ、逆です。無駄を省き、必要な場所に正しく使います」


 セレナは羽根ペンを取り、サラサラと紙に書き込みを始めた。


「まず、厨房への納入業者を見直しましょう。この価格は適正ではありません。それから、リネン類の洗濯頻度と洗剤の量も、これでは無駄が多すぎます」


 的確な指示が次々と飛び出す。最初は戸惑っていた使用人たちも、セレナの指摘があまりに理にかなっていることに気づき、次第に目を見張り始めた。


「奥様……失礼ながら、そのような知識をどこで?」

「実家で、少し勉強をしただけですわ」


 セレナは曖昧に微笑んで誤魔化した。まさか、実家で冷遇されていたからこそ身についた処世術だとは言えない。


 その日から、セレナの改革が始まった。

 決して強引に押し付けることはせず、使用人たちの意見を聞きながら、一つずつ丁寧に問題を解決していく。

 荒れていた庭の手入れには自らも参加し、埃を被っていた客室の掃除も率先して行った。


「奥様、そこは私たちがやります!」

「いいえ、体を動かすのは好きなんです。それに、このお屋敷はとても素敵だから、綺麗になると嬉しいでしょう?」


 汗を拭いながら微笑むセレナに、使用人たちは顔を見合わせた。

 彼らが噂で聞いていた「高慢なアストラーレ家の令嬢」の姿は、そこにはどこにもなかった。




 数週間が過ぎる頃には、屋敷の空気は劇的に変わっていた。

 廊下は磨き上げられ、食事は温かく美味しくなり、何より使用人たちの表情が明るくなった。


「ヴィクター様、お帰りなさいませ」


 玄関ホールで出迎えるセレナの声も、最初のような震えは消え、自然な響きを帯びるようになっていた。


「……ただいま。今日も、屋敷が随分と明るいな」


 帰宅したヴィクターは、眩しいものを見るように目を細めた。

 最近の彼は、以前にも増して帰宅が早くなっていた。そして手には、決まって小さな包みを持っていた。


「これ、君に」

「まあ……これ、鈴蘭ですか? それに、この本は……」

「花屋の前を通ったら、君の雰囲気に似合うと思ってね。本は、君が以前読んでいた詩集の続きが出ていると聞いたから」


 差し出されたのは、決して高価な宝石やドレスではなく、セレナが何よりも好むものばかりだった。

 妹のステラなら「こんな貧乏くさいもの!」と投げ捨てていただろう。けれど、セレナにとっては宝物以上の価値があった。


「ありがとうございます、ヴィクター様。私、とても嬉しいです」


 花束を抱きしめて満面の笑みを浮かべると、ヴィクターは不意に手を伸ばし、セレナの頬を指先で優しく撫でた。


「君が喜んでくれるなら、私は何でもしよう」


 その瞳に宿る熱に、セレナの胸が早鐘を打つ。

 甘やかされればされるほど、幸せな時間が増えれば増えるほど、影のように罪悪感が濃くなっていく。


(貴方が見ているのは私じゃない。貴方の妻である『ステラ』に成り代わっている、偽物の私なのに)




 そんなある日の午後、平穏な日常にさざ波が立った。

 ヴィクターの騎士団時代の友人が、新婚祝いにと屋敷を訪ねてきたのだ。


「やあ、ヴィクター! 遅くなったが結婚おめでとう。噂の()を射止めたと聞いて、どんな美人が出てくるか期待しているぞ!」


 客間に通された友人の男は、お茶を運んできたセレナをまじまじと見つめ、首を傾げた。


「……あれ? こちらが奥方か? 随分とこう……いや、落ち着いた雰囲気なんだな」


 悪気のない言葉が、セレナの心臓を冷たく刺した。

 やはり、誰が見ても違和感があるのだ。派手で華やかなステラと、地味な自分とでは。


「もしかして、結婚して所帯じみたのか? それとも、噂が大袈裟だったのか?」

「……失礼なことを言うな」


 笑いながら茶化す友人を、ヴィクターが静かに、しかし鋭い声で制した。

 彼はセレナの隣に座り、彼女の震える手を自身の大きな手で包み込んだ。


「彼女は、私が望んだ通りの最高の妻だ。誰よりも美しく、賢く、慈愛に満ちている。外野の評判など、私には何の意味もない」

「お、おい……悪かったよ。そんなに睨むな」


 ヴィクターの真剣な眼差しに、友人はたじろいで謝罪した。

 友人はセレナにも謝罪をしたが、彼女は俯いたまま、動くことができなかった。


 彼は守ってくれている。こんな偽物を、本物だと信じて。

 その優しさが嬉しくて、そして何よりも苦しかった。


(いつかバレてしまう。その時、この優しい瞳は、軽蔑の冷たい瞳に変わるのだろうか)


 客が帰った後も、セレナの不安は消えなかった。

 ヴィクターは「気にするな」と言ってくれたが、セレナの心には、いつか必ず終わりが来るという恐怖が深く根を下ろしていた。



 *



 それから何日か過ぎた。

 ヴィクターが領地の視察で数日間留守にすることになった。


 彼がいない屋敷は少し広く感じられ、セレナは気を紛らわせるために庭の手入れをすることにした。

 初夏の日差しが降り注ぐ庭園で、薔薇の剪定をしているときだった。


 侯爵邸の重厚な鉄扉が悲鳴のような音を立てて開かれた瞬間、セレナの穏やかだった日常は、音を立てて砕け散った。


「ちょっと! 何見ているのよ、さっさと荷物を運びなさい! 気が利かないわね!」


 庭園の静寂を切り裂いたのは、この屋敷には決して響くはずのない、甲高くヒステリックな罵声だった。

 門番たちを突き飛ばし、土足で美しい芝生を踏み荒らしながら入ってきたのは、セレナと瓜二つの顔を持つ双子の妹、ステラだった。

 かつて「社交界の華」と謳われたその姿は、見る影もなく薄汚れていた。


 豪奢だったはずのドレスは泥と埃にまみれ、レースは破け、自慢の金色の巻き髪も油と汗でべたついている。

 まるで戦場から逃げ出してきた敗残兵のような有様だが、その瞳だけはギラギラと不気味な光を放っていた。


「ス、ステラ……どうして……」


 セレナは剪定ばさみを握りしめたまま、震える唇でその名を呼んだ。

 妹の視線が、ゆっくりとセレナを捉える。その瞬間、ステラの顔に浮かんだのは、再会を喜ぶ姉妹の情などではなく、獲物を見つけた猛獣のような嗜虐的な笑みだった。


「あら、お姉様。随分といいご身分ね」


 ステラは大股で歩み寄ると、セレナが手入れをしていた薔薇の花壇をわざとらしく踏みつけた。丹精込めて育てた花が、泥だらけのヒールに無残に潰される。


「あ……っ」

「私がいない間に、すっかり侯爵夫人気取り? まるで自分の家みたいに振る舞っちゃって。厚かましいにも程があるんじゃない?」


 鼻で笑い飛ばすステラの後ろで、屋敷の騒ぎを聞きつけたセバスチャンやマーサたちが駆けつけてきた。彼らはセレナとステラ、二人の顔を見比べ、息を呑んで立ち尽くす。


「お、奥様が……お二人……?」

「馬鹿な、どういうことだ……」


 動揺する使用人たちを一瞥し、ステラは腰に手を当てて高らかに宣言した。


「何ボサッとしているの! 私は本物のステラ・アストラーレよ! そっちにいるのはただの陰気な代用品! 本物が帰ってきたんだから、さっさと風呂と食事を用意しなさい! 最高級のワインも開けるのよ、分かったわね!」


 嵐のような剣幕に、使用人たちはセレナに助けを求めるような視線を送る。しかし、セレナは血の気が引いた顔で俯くことしかできなかった。

 否定できない。自分が代用品であることは、紛れもない事実なのだから。



 *



 通された客間でも、ステラの暴君ぶりは止まらなかった。

 用意された紅茶を一口飲むなり、「ぬるい!」と叫んでカップをカーペットに投げつける。ガシャン、という陶器の割れる音が、セレナの心臓を縮み上がらせた。


「なによこれ、安っぽい味! 侯爵家ならもっとマシな茶葉があるでしょう!」

「……それは、ヴィクター様が好まれているお品よ、ステラ」

「はあ? ヴィクター様って誰よ? ああ、侯爵のこと? まあいいわ、ちょっと聞きなさいよ」


 ステラはソファにふんぞり返り、テーブルの上の菓子を手掴みで貪りながら、悪態をつき始めた。


「それにしても最悪だったわ。あの男、口先だけだったのよ!」


 ステラが語った「真実の愛」の顛末は、あまりにもお粗末で身勝手なものだった。

 結婚式の直前に駆け落ちした相手は、男爵家の三男だった。甘い言葉でステラを誘惑したが、実際には実家から勘当された身で、莫大な借金を抱えていたのだという。


「君の実家の金があれば幸せになれる」とおだてられ、ステラが持ち出した宝石類をすべて換金し、博打で擦った挙句に暴力を振るうようになったらしい。


「『君こそが女神だ』なんて言っていたくせに、金が尽きたら『役立たずのあばずれ』ですって! 信じられる!? だから寝ている間に有り金全部持ち逃げしてやったわ!」


 悪びれる様子もなく言い放つ妹に、セレナは言葉を失った。


「それで……戻ってきたの?」

「当たり前じゃない。行くところなんてないし、このまま実家に帰ったらお父様に殺されるかも。ここなら、あんたがいると思ってね」


 ステラは汚れた指先で、セレナの着ている仕立ての良いドレスを摘まみ上げた。


「ねえ、お姉様。感謝してほしいくらいよ。私が逃げたおかげで、あんたみたいな地味な女が、こんな暮らしをお試しで体験できたんだから」

「……お試しって」

「もう十分でしょ? あんたの出番は終わり。その席、私に返しなさい」


 当然の権利のように突きつけられた要求に、セレナの胸に冷たい杭が打ち込まれる。


 嫌だ、と言いたかった。

 ヴィクターと共に歩む日々を、使用人たちと築き上げた信頼を、手放したくないと叫びたかった。

 だが、喉元まで出かかった言葉は、あまりにも正論な妹の言葉によって封じ込められる。


「もともと、ヴィクター様と婚約したのは私よ。あんたはただの代用品。最初からわかっていたことでしょう?」


 セレナは唇を噛み締め、膝の上で拳を握りしめた。

 そうだ。自分はあくまで妹の身代わり。

 ヴィクターが向けてくれた優しさも、愛の言葉も、すべて「ステラ」に向けられたものだ。自分(セレナ)に向けられたものではない。


「……ヴィクター様は、今、領地の視察で不在よ」

「あら、好都合ね。帰ってくるまでにまた入れ替わればいいだけの話だわ」


 ステラはニタリと笑い、ソファに深く沈み込んだ。



 *



 ヴィクターが帰還するまでの三日間は、屋敷にとって地獄のような時間だった。

 ステラは「侯爵夫人」の座に居座り、やりたい放題に振る舞った。


「マーサ! このドレス、デザインが古臭いわ! 最新の流行のものを取り寄せなさい!」

「セバスチャン! 食事が口に合わないと言っているでしょう! 料理人を全員クビにして、王都から一流のシェフを呼びなさい!」


 屋敷の経費を湯水のように使い、気に入らないことがあればヒステリックに叫び散らす。

 セレナが少しずつ改善してきた屋敷の秩序は、瞬く間に崩壊していった。


 使用人たちは困惑し、そして憤っていた。彼らは知っているのだ。この数ヶ月、自分たちに寄り添い、屋敷を立て直してくれたのがセレナであることを。


「……あの、ご主人様。あの御方は、本当にステラ様なのでしょうか」


 廊下の隅で、マーサが涙目でセレナに問いかけた。


「お顔は同じでも、中身がまるで違います。私たちは、貴女様にお仕えしたいのです。どうか、旦那様がお戻りになったら真実を……」


「……いいえ、マーサ」


 セレナは力なく首を横に振った。


「彼女こそが、本物のステラ・アストラーレなのです。私は……ただの双子の姉ですから」


 もし真実を話せば、どうなるか。

 ヴィクターは騙されていたことに激怒し、アストラーレ家を断罪するかもしれない。実家が取り潰されれば、路頭に迷うのは家族だけではない。多くの人々を巻き込むことになる。

 何より、あの優しいヴィクターに、「君は偽物だったのか」と軽蔑の眼差しを向けられることが、死ぬよりも恐ろしかった。


(私が消えれば、すべて丸く収まる……)


 セレナの自己犠牲の精神は、長年の虐げられた生活によって骨の髄まで染み込んでいた。




 そんなある夜のことだった。

 ステラが、セレナの部屋に押し入ってきた。彼女は部屋中を物色し、クローゼットの服や宝石箱を漁っていたが、ふと、サイドテーブルに置かれた一冊の詩集と、花瓶に生けられた可憐な野花に目を留めた。


「……何これ。貧乏くさい」


 ステラは詩集をパラパラと捲り、鼻で笑った。


「ヴィクターって男は、こんな地味なものが趣味なの? ケチ臭い男ね」

「ヴィクター様の悪口を言わないで!」


 たまらず声を上げたセレナを、ステラは冷ややかな目で見下ろした。

 そして、何かに気づいたように目を細め、口元を三日月型に歪めた。


「ふうん……。あんた、あいつに惚れてるのね?」


 図星を突かれ、セレナは顔を赤くして俯く。


「ま、顔はいいものね。でも残念。あいつが愛しているのは『私』よ」


 ステラは部屋の中を歩き回り、ヴィクターがセレナのために用意した、落ち着いた色合いのドレスや、書きかけの帳簿を見つめる。


「……なるほどね。あの男は、派手な女よりも、こういう地味で従順な女が好みってわけか」


 ステラの脳内で、邪悪な計画が組み上がっていく。

 彼女にとって、ヴィクターの愛などどうでもよかった。重要なのは、侯爵夫人としての地位と、尽きることのない金だ。そのためなら、男の好みに合わせるくらい造作もない。


「ねえ、お姉様。いいことを思いついたわ」


 ステラはセレナの肩に腕を回し、耳元で悪魔のように囁いた。


「ヴィクター様が帰ってきたら、私がこの『地味で従順な妻』を演じてあげる。どうせ顔は同じなんだから、バレるわけないでしょう?」

「な……っ」

「そしてあんたは、以前の私を演じるのよ」


 セレナは愕然として妹を見つめた。


「どうして、私がそんなことを……」

「断る権利なんてあると思ってるの?」


 ステラの声が、急激に低くなる。


「もし協力しないなら、私はヴィクターにあることないこと吹き込んでやるわ。『姉に脅されて、無理やり入れ替わらされていた』ってね。そうすれば、あんたは犯罪者として牢屋行き。実家も破滅よ」

「そんな……!」

「嫌なら従いなさい。あんたがステラ()を演じてくれれば、ヴィクターは間違いなく「セレナ」()を選ぶ。そこで二人で上手いこと言い包めれば、あんたも罪に問われず、実家に帰れる。悪くない話でしょう?」


 逃げ場などなかった。

 セレナは絶望の中で、ただ頷くことしかできなかった。



 *



 そして、運命の日は訪れた。

 遠くから、馬車の車輪が石畳を叩く音が聞こえてくる。ヴィクターが帰ってきたのだ。


 玄関ホールには、二人の「妻」が並んでいた。


 一人は、清楚な淡いブルーのドレスに身を包み、髪を上品にまとめたステラ。彼女は鏡の前で何度も練習した、はにかむような可憐な笑みを浮かべている。

 もう一人は、毒々しいほど鮮やかな真紅のドレスを着せられ、濃い化粧を施されたセレナ。彼女は妹に命じられた通り、扇で口元を隠し、傲慢な態度を取るように強要されていた。


「いい? 余計なことを言ったら許さないからね」


 小声で脅すステラに、セレナは震えながら頷く。

 ドレスの背中の紐がきつく締め上げられ、息をするのも苦しい。だが、それ以上に心が張り裂けそうだった。


(これで終わりなんだわ……。私が彼に嫌われれば、彼はステラを選び、侯爵家は安泰。私の初恋は、ここで散るのね)


 重厚な扉が開かれる。

 初夏の日差しを背に受けて、長身のヴィクターが姿を現した。


「ただいま、ステラ。予定より早く帰れたよ」


 優しく微笑む彼を出迎えたのは、まったく同じ顔をした二人の女性だった。

 ヴィクターの足が止まる。その瞳が、驚きに見開かれた。


「……これは、いったい?」


 静寂がホールを支配する。

 先に動いたのは、セレナだった。心を殺し、悪役になりきるために、震える足を一歩踏み出す。


「驚いた? 私たちは双子なのよ! ちょっとした余興よ、ヴィクター様」


 妹に叩き込まれた台詞を、必死に紡ぐ。扇をバサリと広げ、高慢に見えるように顎を上げた。


「さあ、貴方の本当の妻を選んでごらんなさい! 私の美しさを見間違えるはずがありませんわよね?」


 心の中で「ごめんなさい」と泣き叫びながら、セレナは精一杯の虚勢を張った。

 その直後、ステラがおどおどと前に進み出る。まるで怯える小動物のように肩をすくめ、潤んだ瞳でヴィクターを見上げた。


「あ、あの……ヴィクター様……信じてください……」


 か細く、守ってあげたくなるような声。この数ヶ月、セレナが見せてきた姿を完璧に模倣した演技だった。


「私が本物です……。急にやってきた姉さんが、無理やり……」


 完璧だった。

 誰がどう見ても、清楚で慎ましいステラこそが、ヴィクターの愛した妻に見えるはずだった。

 ステラは心の中で勝利を確信し、セレナは絶望に目を閉じた。


 ヴィクターの視線が、二人を交互に見る。

 その瞳の奥にある感情は、誰にも読み取れなかった。

 ただ、張り詰めた沈黙だけが、残酷なほど長く続いた。



 玄関ホールに並ぶ二人の女性。一人は涙ながらに本物であることを訴える可憐な美女。もう一人は、扇で顔を隠し、高慢にそっぽを向く派手な美女。

 誰の目にも、前者が被害者(セレナ)で、後者が加害者(ステラ)であることは明らかだった。ステラの計算され尽くした演技は、完璧だった。


「ヴィクター様……怖かったです……。姉さんが、私を脅して……」


 ステラは震える手で目元を拭いながら、一歩、また一歩とヴィクターに近づいていく。その歩き方さえも、この数ヶ月間セレナが見せてきた控えめな所作を模倣したものだった。

 対するセレナは、妹の命令通りにその場に立ち尽くし、扇の陰で唇を噛み締めていた。


(これでいい。彼が愛しい妻のもとへ駆け寄れば、すべて終わる。私は悪役としてここを去り、二度と彼の前に現れない……)


 それが、セレナにできる精一杯の愛の形だった。

 ヴィクターがゆっくりと動き出す。

 彼の足音は、ステラの方へと向かう――かと思われた。


 しかし。

 彼はステラの横を、一瞥もせずに通り過ぎた。


「え……?」


 ステラの涙声が、素っ頓狂な裏返った声に変わる。

 ヴィクターは迷うことのない足取りで、高慢に振る舞っていたセレナの目の前まで歩み寄ると、静かに足を止めた。


「ヴィクター様……?」


 セレナは動揺を隠せず、扇を持つ手に力がこもる。なぜこちらに来るのか。罵倒するためか。

 心臓が破裂しそうなほどの恐怖に身を縮こまらせたその時、ヴィクターの手が伸びてきた。

 その手は、セレナが握りしめていた扇を、優しく、けれど拒絶を許さない強さで包み込み、ゆっくりと下ろさせた。


 扇が取り払われ、セレナの顔が露わになる。

 厚化粧で隠していても、その瞳が涙で潤み、絶望と悲哀に染まっていることは隠せなかった。


 ヴィクターは、そんな彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、言った。


「……そのような振る舞い、君には馴染まないな」


 その声は、甘く、どこまでも優しかった。

 セレナの思考が停止する。


「ど、どうして……?」


 セレナの言葉に少し目を見開いたヴィクターは、困ったように眉を下げて微笑んだ。


「私が、妻を見間違えるわけがないだろう?」


 ヴィクターは当然のことのように言い、セレナの震える手を両手で包み込んで、愛おしげに口づけを落とした。

 その瞬間、背後で金切り声が上がった。


「な、なんでよッ!!!!」


 ステラだった。先ほどまでの演技はどこへやら、鬼のような形相で地団駄を踏んでいる。


「なんでそっちなのよ! どう見ても私の方がお淑やかな妻じゃない! そっちは派手で、高慢で、性格の悪い女なのよ!? 目が腐ってるんじゃないの!?」


 ステラはなりふり構わずヴィクターに掴みかかろうとしたが、控えていたセバスチャンが素早く前に出て、彼女の進路を阻んだ。


「どきなさいよ! 無礼者!」

「……控えなさい」


 ヴィクターの声が、ホール内の空気を一瞬で凍りつかせた。

 先ほどセレナに向けた甘い声音とは打って変わった、絶対零度の冷徹な響き。戦場で数多の敵を屠ってきた侯爵の覇気が、そこにはあった。

 ステラはひっ、と喉を引きつらせて立ち止まる。


 ヴィクターは冷ややかな瞳でステラを見下ろした。まるで汚物を見るかのような、感情のない視線だった。


「君は、私の妻を演じれば私を騙せると思ったのか? 浅はかにも程がある」

「だ、だって……! あんたが愛していたのはお淑やかな妻でしょう!? 私は完璧に演じていたわ! 見た目は双子なんだから同じだし、だったら性格が良い方を選ぶに決まってるじゃない!」


「同じ? 君の目は節穴か」


 ヴィクターは鼻で笑い、セレナの肩を抱き寄せた。


「私の妻は、毎朝、庭で薔薇の手入れをし、私のために花を選んでくれる。屋敷の帳簿を完璧に整理し、使用人一人一人の名前と家族構成まで把握し、彼らの体調を気遣うことができる。君にそれができるか?」


 ヴィクターの言葉に、周りに控えていた使用人たちが深く頷くのが見えた。マーサなど、感動で目を潤ませている。

 ステラは言葉に詰まり、顔を真っ赤にして反論を探した。


「で、でも! 私は本物のステラ・アストラーレよ! 家柄も、社交界での評判も……!」


「評判? ああ、聞いているよ。『社交界の華』とは名ばかりの、浪費家で身勝手な悪女だとな」


 ヴィクターは容赦なく切り捨てた。


「君が戻ってくるまでの数日間について、使用人たちから手紙で報告を受けている。君がどれほど理不尽に振る舞い、屋敷の金を浪費し、私の大切な妻を虐げたかをな」

「そ、それは……!」

「君のような女性を妻にするつもりは、毛頭ない。私が愛しているのは、私と共に歩み、この家を守ってくれた彼女だけだ。名前がどうあれ、過去がどうあれ、私の妻は彼女しかいない」


 その言葉は、セレナの心に深く染み渡り、絡みついていた呪縛を解いていくようだった。

 彼は知っていたのだ。セレナが「ステラ」ではないことを。勘付いていながら、その中身を見て、愛してくれていたのだ。


「う……うう……っ」


 セレナの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。それは悲しみの涙ではなく、溢れ出る安堵と喜びの涙だった。


 逃げ場を失ったステラは、錯乱したように叫んだ。


「ふざけないでよ! こんな地味な女のどこがいいのよ! 私はこんなにお金がかかってるのに! 綺麗なのに! どうしてあんたたちはお姉様ばっかり……!」


 最後は聞き苦しい喚き声になった。

 ヴィクターは無関心に指を鳴らす。

 すぐに武装した衛兵たちが駆け込んできた。


「不法侵入者だ。詐欺および脅迫の容疑で突き出せ。アストラーレ伯爵家には、私から正式に抗議文を送る」

「はっ!」


 衛兵たちに両腕を掴まれ、ステラが引きずられていく。


「離して! 私は侯爵夫人よ! ヴィクター、後悔するわよ! こんな女選んで、一生恥をかけばいいわ! いやぁぁぁぁ!」


 断末魔のような絶叫を残し、ステラは屋敷から排除された。

 嵐が去った後のホールに、静寂が戻ってくる。

 使用人たちは気を利かせて下がり、広い空間にはヴィクターとセレナ、二人だけが残された。


 セレナは足の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。それをヴィクターのたくましい腕が支える。


「ヴィクター様……ごめんなさい……私、ずっと嘘を……」

「謝らなくていい。言っただろう? 君が誰かなんて、私には関係ない」


 ヴィクターはセレナの顔を覗き込み、悪役を演じるために塗られた濃い口紅を、自身の親指で乱暴に、しかし愛おしげに拭い取った。


「ようやく、邪魔者がいなくなったな」

「……え?」

「ずっとこうしたかった。偽りの名前も、演技も必要ない。ただの君と私として」


 ヴィクターはセレナを抱き上げると、そのまま大股で階段を上がり始めた。


「ヴィクター様!?」

「積もる話もあるが、まずは君を落ち着かせないとな。……それに、私も限界だ」


 耳元で囁かれた声には、隠しきれない熱情が滲んでいた。

 セレナは彼の首に腕を回し、その胸に顔を埋める。

 ようやく、本当の夫婦になれる。その予感に、セレナの心は甘く震えた。


「……ようやく、二人きりになれたね、セレナ」


 初めて呼ばれた本当の名前に、セレナは涙で濡れた笑顔で頷いた。




 天蓋付きのベッドに深く沈み込みながら、セレナは夢心地の中にいた。

 嵐のような騒動が去り、屋敷は嘘のように静まり返っている。隣には、愛しい人がいる。ヴィクターはセレナを宝物のように抱き寄せ、その髪を優しく梳いていた。


「……落ち着いたかい?」

「はい……。あの、ヴィクター様」

「なんだい?」

「どうして、私の名前を……? 私は一度も名乗っていないはずです」


 セレナが恐る恐る問いかけると、ヴィクターはふっと笑みをこぼした。その笑顔は、少年のような無邪気さを帯びていた。


「君は、私が君を見初めたのが『結婚式の日』だと思っているのかい?」

「え……? 違うのですか?」

「違うよ。もっとずっと前のことだ」


 ヴィクターは遠くを見るような瞳で語り始めた。




 その日、ヴィクターは父の使いでアストラーレ伯爵邸を訪れていた。

 商談が長引き、庭園で時間を潰していたときのことだ。

 華やかなドレスを着て、甲高い声で騎士たちに媚びを売る令嬢がいた。それがステラだった。ヴィクターは騒々しい彼女を避け、庭の奥まった場所にあるガゼボの陰へと足を向けた。


 そこに、彼女はいた。

 木漏れ日の中で、古い詩集を膝に置き、静かにページを捲る少女。

 着ているドレスは地味で、流行遅れのものだったが、その横顔は聖女のように美しく、ヴィクターの目を釘付けにした。

 風がページをめくる音、彼女が時折漏らす小さな吐息。その空間だけ、時間がゆっくりと流れているようだった。


『美しい……』


 荒んだ心を癒やすようなその光景に、ヴィクターは一目で恋に落ちた。


 だが、その後の調査で、彼女が伯爵家の長女セレナであり、冷遇されている存在だと知った。

 そして、アストラーレ伯爵がヴィクターとの縁談に推してきたのは、派手好きな次女ステラだった。


「絶望したよ。私が望んだのは君なのに、家同士の付き合いで、君の妹と結婚させられることになったんだから」


 ヴィクターは苦々しげに語る。

 断ればアストラーレ家の顔を潰し、君の立場も悪くなるかもしれない。そう考えて、彼は死んだような気持ちで結婚式の日を迎えたのだという。


「だが、奇跡が起きた」


 ヴィクターはセレナの手を取り、その指先に口づけを落とした。


「祭壇の前で、花嫁の手を取った瞬間だ。その手には、庭仕事でできた小さな豆があった。そして、微かにインクの匂いがした」

「あ……」

「ベールの隙間から見えた顎のライン、緊張で震える肩……。間違いなく、私が恋い焦がれた『彼女』だった。その瞬間、私がどれほど歓喜したか分かるかい? 神に感謝したよ」


 セレナは驚きに目を見開いた。


 あの初夜、彼が優しかった理由。

 翌朝、詩集が置かれていた理由。

 好みの花や本が次々と贈られてきた理由。


 すべては彼が、相手がセレナだと分かっていたからだったのだ。


「で、でも……どうして言ってくださらなかったのですか? 私がセレナだと指摘すれば……」

「言えるわけがないだろう」


 ヴィクターは真剣な眼差しでセレナを見つめた。


「君は真面目で責任感が強い。もし私が『君は姉のセレナだね』と指摘したら、君はどうした? きっと『申し訳ありません、すぐに妹を連れ戻します』と言って、私の前から消えてしまっただろう?」


 図星だった。当時のセレナなら、間違いなくそうしていただろう。


「だから、私は賭けに出た。君が『ステラ』として振る舞うなら、私もそれに乗ろう。そして、君が私を愛してくれるように、全力で口説こうと決めたんだ」


 それはあまりにも不器用で、一途すぎる執着だった。

 セレナの目から、再び涙が溢れ出した。


「私……ずっと、妹の代わりだと思っていました。貴方の優しさは、全部妹に向けられたものだと……」

「心外だなあ」


 微笑むヴィクターは愛おしそうに涙を拭う。


「代わりなんていない。私が愛しているのは、最初から君だけだ。セレナ」


 長年の劣等感が、氷解していく。

 誰の代わりでもない。自分自身を見つめ、愛してくれる人がここにいる。

 セレナはヴィクターの首に腕を回し、泣きじゃくりながら言った。


「私も……お慕いしております。ヴィクター様、ずっと……!」


 二人の唇が重なる。それは、契約でも演技でもない、真実の愛の口づけだった。



 *



 それからの顛末は、呆気ないものだった。


 不法侵入と詐欺未遂で突き出されたステラは、そのまま衛兵によって実家のアストラーレ伯爵邸へと送り返された。

 同時に、ヴィクターからの正式な抗議文と、これまでの「侯爵夫人」による浪費の請求書、そして慰謝料の請求が伯爵家に叩きつけられた。


 事態を重く見た王家が介入し、アストラーレ伯爵家は爵位剥奪こそ免れたものの、借金を背負い、領地の一部を没収されることとなった。


「社交界の華」と持て囃されたステラだったが、悪評は瞬く間に広まった。借金まみれの実家を助けるため、彼女は年の離れた好色な成金商人の後妻として嫁がされることになったという。

 そこには、彼女が夢見たキラキラした舞踏会も、甘い言葉を囁く若き貴公子もいない。あるのは、屋敷の飾りとして籠の中に閉じ込められる、退屈で窮屈な日々だけだ。かつて姉に押し付けた「地味で退屈な生活」よりも遥かに惨めな末路が、彼女を待っていた。



 一方、ノクティス侯爵家は、かつてないほど穏やかで温かい空気に包まれていた。


「セレナ、少し働きすぎではないか? 帳簿なんて後でいいから、庭でお茶にしよう」

「ふふ、もう少しで終わりますわ。ヴィクター様こそ、今日はずいぶんお早いお帰りですね?」

「君に会いたくて、馬を飛ばしてきたんだ」


 日当たりの良いサンルームで、二人は仲睦まじくティータイムを楽しんでいる。

 使用人たちも、敬愛する奥様と、奥様に骨抜きな旦那様を温かい目で見守っていた。

 テーブルの上には、あの思い出の詩集と、季節の花が飾られている。


「愛しているよ、セレナ」

「私もです、ヴィクター様」


 妹の代わりとして始まった結婚生活。

 けれど今、セレナは誰の代わりでもない最愛の妻として、この上ない幸せを噛み締めていた。

 重ねた手の温もりは、これからも永遠に続いていく。



 了

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侯爵様がみる目のある男で良かった
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