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動物病院日誌   作者: じょんどぅ


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桜の木の下の、狂犬病予防、あるいは歴史を繋ぐ目に見えない盾

桜の木の下の、狂犬病予防、あるいは歴史を繋ぐ目に見えない盾


### 1. 満開の桜と、手元に届いた「ハガキ」


四月の上旬。京都の街は薄紅色の桜の花びらで埋め尽くされ、高瀬川の水面をゆったりと流れる花筏(はないかだ)が美しい季節を迎えました。

この日、診察室にやってきたのは、トイ・プードルの「モカ」ちゃん(1歳・女の子)と、手にある「青いハガキ」を不思議そうに見つめる飼い主の井上さんです。


「先生、こんにちは! モカが1歳になって、初めてお家にこの『狂犬病予防員からのお知らせ』のハガキが届いたんです。春になると、みんな公園とかの集団接種に並んでいますよね。でも、そもそも日本にはもう何十年も狂犬病なんてないって聞いたんですけど……。モカは毎日お家といつものお散歩コースしか歩かないのに、どうして毎年絶対に注射を打たなきゃいけない法律があるんですか?」


モカちゃんは、井上さんの足元で「なにか楽しいことが始まるの?」とばかりに、くりくりの瞳を輝かせて尻尾をちぎれんばかりに振っています。


「井上さん、とても素晴らしい疑問ですね。実は『日本に狂犬病がない』というその平和な日常こそが、まさにこの毎年みんなで打っている予防注射のおかげで作られている、目に見えない強固な『盾』のおかげなんですよ」


### 2. 発症すれば致死率 100%。世界で最も恐れられる感染症の真実


狂犬病は、単なる「犬の病気」ではありません。すべての哺乳類(人間も含めて)に感染する、世界で最も警戒されている人獣共通感染症です。


* **発症したら治療法はない:** 狂犬病ウイルスを持った動物に噛まれることで感染し、ひとたび脳にウイルスが達して症状(狂騒状態や恐水症、麻痺)が出ると、現代の最新医療をもってしても**致死率はほぼ 100%** です。有効な治療法は存在しません。

* **世界では今も毎年数万人が亡くなっている:** 日本に住んでいると過去の病気のように思えますが、世界に目を向けると、アジアやアフリカを中心に今も毎年約5万人以上の人々が狂犬病によって命を落としています。

* **世界にわずか数カ国しかない「清浄国」:** 四方を海に囲まれた日本は、1957年(昭和32年)を最後に国内での発生がありません。このように狂犬病が発生していない国や地域(清浄国)は、世界でも日本やオーストラリア、ニュージーランドなど、ほんの一握りしか存在しないのです。

* **「防波堤」としての狂犬病予防法:** 今の時代、海外から毎日たくさんの人や貨物、そして飛行機や船が日本にやってきます。万が一、密輸された動物などを介して狂犬病ウイルスが国内に侵入したとき、もし周りの犬たちが予防注射を打っていなければ、ウイルスは一気にあっという間に燃え広がり、犬だけでなく人間の命をも脅かす大パニックになります。私たちが毎年注射を打つのは、「ウイルスが国内に入ってきたときの最初の防波堤」を国全体で作るためなのです。


### 3. 愛犬の体調に合わせた「優しい春の予防ステップ」


「ただの決まり事じゃなくて、モカの命も、私たちの命も守るための大切な盾だったんですね……!」とハガキを愛おしそうに抱きしめる井上さんに、僕は病院で受けるからこその「優しい個別ケア」についてお話ししました。


1. **春の集団接種(公園など)と動物病院での接種の違い:** 地域の公園で行われる集団注射は、お祭りのようで活気がありますが、たくさんの犬が集まるため興奮しやすく、またじっくりと健康診断を行う時間がありません。もし愛犬が少し怖がりだったり、シニア期に入っている場合は、かかりつけの動物病院の診察室で、心音を聞き、熱を測り、「今日打っても本当に大丈夫か」をしっかり確認してから受けるのが最も安全でおすすめです。

2. **狂犬病と「他の予防」のスケジュール:** 春は、フィラリアの検査やノミ・マダニのお薬、混合ワクチンなど、ワンちゃんにとって予防イベントが目白押しです。一度にすべての注射を打つと体に負担がかかるため、「今日は狂犬病、2週間以上あけてから混合ワクチン、フィラリアはおやつで……」というように、その子の体調に合わせた無理のないスケジュールを獣医師と一緒に組み立てましょう。

3. **「猶予証明書」という選択肢:** もし愛犬が重い持病(心臓病やがんなど)を持っていたり、過去に注射でアレルギーを起こしたことがある場合は、法律に基づいて獣医師が「今年は体調の理由で注射を打てません」という**狂犬病予防注射猶予証明書**を発行することができます。無理をして打つ必要はありませんので、必ず事前にご相談ください。


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### 4. 小さな金属の「鑑札」が示す、愛の証明


モカちゃんの胸の音を聴診器でじっくりと聴き、熱やお腹の張りも完璧に健康であることを確認した上で、細い針でチクッと狂犬病の注射を済ませました。モカちゃんは痛がるそぶりも見せず、ケロッとした顔で僕の手に鼻を押し付けてきます。


注射が終わると、お住まいの自治体から交付された、今年度の新しい「注射済票(金属の小さなプレート)」をお渡ししました。


「井上さん、この小さなプレートはね、モカちゃんが社会の一員として、そして井上さんの大切な家族として、ちゃんと守られているよという『愛の証明書』なんです。首輪やハーネスにしっかりつけておいてあげてくださいね。万が一、地震などの災害ではぐれてしまったときも、この番号があれば一瞬でお家に帰ってくることができるんですよ」


「モカ、よかったね! これで今年も安心してお花見に行けるね」

井上さんは、モカちゃんの首輪にキラリと光る新しいプレートを嬉しそうに装着し、モカちゃんをぎゅっと抱きしめていました。


### 5. 静まり返った夜の診察室で


「先生、お疲れ様です。300話という記念すべき節目に、狂犬病のお話っていうのは、なんだかこの動物病院の原点に戻ったみたいで素敵ですね」

看護師の河野が、今日発行したたくさんの注射証明書の控えを、ファイルに丁寧にファイリングしながら微笑んだ。


「本当にそうだね。僕たち獣医師の仕事は、病気になった子を治すのはもちろんだけど、こうして『病気にならない世界』を飼い主さんと一緒に守り続けることでもあるんだ。1950年に狂犬病予防法ができてから、何世代にもわたって日本の飼い主さんたちが繋いできてくれたこのバトンがあるからこそ、今の僕たちは満開の桜の下を、愛犬と笑顔でお散歩できるんだよね」


診察室の窓を開けると、春の夜風に乗って、遠くの円山公園のしだれ桜のざわめきが聞こえてくるようでした。星空の下、街のあちこちで眠るワンちゃんたちの胸元で、小さな金属のプレートが優しく、静かに光を放っています。

当たり前にある、こののどかで平和な毎日に、目に見えない誇り高き盾を。

大好きな人の隣で、ずっと健康で、安心して尻尾を振り続けられるように。

僕たちの動物病院の明かりは、今夜もすべてのワンちゃんと飼い主さんの「安心な暮らし」を、歴史のぬくもりと共に守り続けます。


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