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動物病院日誌   作者: 匿名希望


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春の午後の日差しの中で



:春の午後の日差しの中で


### 1. 馴染みの足音


四月も半ばを過ぎると、病院の庭に植えたハナミズキが白い花を咲かせ始める。その淡い白が、午後の診察室に反射して柔らかな光を投げかけていた。


「先生、お約束の島田さんがお見えです」


佐藤さんの声は、いつもよりずっと静かだった。

僕はカルテを手に取る。名前は「コロ」。17歳のミックス犬。

僕がこの病院を継ぐ前から、先代である父の頃からずっと通い続けてくれている、いわばこの病院の歴史そのもののような常連さんだ。


かつては診察室に入るなり元気に吠えていたコロも、ここ一か月は、自力で立ち上がることすらできなくなっていた。末期の腎不全。もはや点滴も、体温を維持するためだけの処置になりつつあった。


### 2. 決意の表情


島田さんは、白髪の混じった髪をきっちりと整えた、誠実そうな老婦人だ。

彼女が抱きかかえてきたコロは、以前よりもずっと小さく、骨の浮き出た体で、荒い呼吸を繰り返していた。その目は濁り、すでに焦点は合っていない。


「先生、今日も点滴をお願いします」


そう言った島田さんの声が、微かに震えているのを僕は聞き逃さなかった。

僕はコロを診察台に乗せ、体温を測り、心音を聴く。

体温は35度を切っている。末期の尿毒症による低体温。心臓は、精一杯の力を振り絞って、か細いビートを刻んでいるが、そのリズムは今にも途切れそうだった。


「島田さん……」

僕は聴診器を外し、彼女の目をまっすぐに見つめた。

「コロ君の体は、もう、限界を越えています。点滴をして少しだけ時間を延ばすことはできます。でも、それは彼にとって、苦しみを引き延ばすことになってしまっていないでしょうか」


島田さんは視線を落とし、コロの痩せた頭を何度も撫でた。

「分かっています。分かっているんです、先生。昨夜も、あの子は一晩中、苦しそうに鳴いていました。あんな声、17年間で一度も聞いたことがなかった……。もう、あの子を楽にしてあげたい。でも、私が決めていいものなのか。それは、私が勝手にあの子の命を奪うことにならないかしら」


### 3. 「最後」の診断


安楽死という選択。

それは獣医療において認められた数少ない「救済」の一つだが、同時に飼い主の心に一生消えない傷を残す劇薬でもある。


「島田さん、一つだけ覚えておいてください。コロ君にとって、一番苦しいのは、大好きな島田さんの泣き顔を見ることです。彼は今まで、島田さんを笑顔にするために生きてきました。そして、今もなお、島田さんが離してくれないから、必死で苦しみに耐えているんです」


僕はコロの胸に触れる。

「安楽死は、命を奪うことではありません。最後の一番辛い坂道を、飼い主さんが代わりにおんぶしてあげて、安らかな眠りへと運んであげることです。それは、17年間の愛の形だと、僕は思います」


島田さんは、声を押し殺して泣いた。

診察室の外では、他の患者たちの賑やかな声が聞こえる。

命が芽吹く春の喧騒と、今まさに消えようとする命の静寂。その対比が、あまりに残酷だった。


「……お願いします、先生。この子を、眠らせてあげてください」


### 4. 静寂の瞬間


準備を整える間、佐藤さんはそっと、島田さんに温かいタオルを渡した。

僕は処置室で、薬剤を用意する。

一つは、深い眠りに誘う鎮静剤。もう一つは、心臓を止めるための高濃度の麻酔剤だ。


「島田さん、準備ができました。ずっと声をかけてあげてください」


僕は、コロの前肢の血管にゆっくりと針を通す。

島田さんは、コロの耳元で「いい子ね、コロ。ありがとうね。大好きよ」と、何度も何度も、魔法をかけるように囁き続けた。


まず、一つ目の薬剤を注入する。

コロの強張っていた体が、ふっと解けるように弛緩した。呼吸がゆっくりになり、ただ眠っているような穏やかな表情に変わる。


「……今、眠りにつきました。もう痛みも、苦しさもありません」


そして、二つ目の薬剤を。

聴診器を当て、心音が次第に間隔を広げ、そして……完全に止まるのを確認する。


「……午後二時十五分。コロ君、頑張りましたね」


その瞬間、島田さんはコロの体に顔を埋めて、子供のように泣きじゃくった。

佐藤さんも、山田さんも、涙を堪えるように俯いている。


僕は、聴診器を首にかけ直し、窓の外を眺めた。

庭のハナミズキが、風に揺れている。

この風が、コロの魂をどこか遠い、春の日差しが降り注ぐ野原へと運んでいってくれるような気がした。


### 5. 獣医師の祈り


島田さんが、丁寧に花で飾られたコロを抱いて帰宅した後、僕はカルテの最後のページを閉じた。

そこには「永眠」の二文字と、今日の日付。


「先生、お疲れ様でした。……島田さん、『最後が先生の病院でよかった』と仰っていましたよ」

佐藤さんが、僕に新しいお茶を淹れてくれた。


「……そうか」


僕は短く答えた。

感謝されることは、救いにはならない。

どれだけ言葉を尽くしても、僕は「命を止める」という行為の手伝いをしたことに変わりはない。その手の感触は、いつまでも消えずに残る。


しかし、もし僕がその「悪役」を引き受けなければ、コロは今夜もまた、独りで暗闇の中で苦しみに喘いでいたはずだ。

救える命を救うのは当然だが、救えない命をどう着地させるか。

それもまた、この「日誌」に刻まれるべき獣医師の務めなのだ。


ふと見ると、診察室の床には、島田さんがコロを撫でた時に抜け落ちた、一房の白い毛が落ちていた。

僕はそれを拾い上げ、窓の外へと放した。

毛は春風に乗って、高く、高く舞い上がり、青い空へと溶け込んでいった。


「……さよなら、コロ。またな」


僕は誰にも聞こえない声で呟き、次のカルテを手に取った。

待合室では、新しい命たちが、僕が来るのを待っている。


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