涙の跡と、洗いたての白衣
---
### 1. 五月の眩しさと新人
五月。新緑が目に鮮やかになり、動物病院の庭の芝生も青々と輝き始める。
四月から当院に加わった新人動物看護師、河野さんは、ようやくこの戦場のような現場のペースに慣れ始めていた。
彼女は真面目だった。朝は誰よりも早く来て掃除を済ませ、休み時間には分厚い臨床看護の参考書を開いている。その一生懸命な姿は、忙しさに毒されかけた僕や佐藤さんにとって、どこか眩しく、初心を思い出させる存在だった。
「先生、入院中のシロ君、朝の散歩で少し足取りが軽かったです!」
彼女が嬉しそうに報告してくる。シロは交通事故で骨折し、入院しているミックス犬だ。彼女の献身的なケアもあり、順調に回復していた。
だが、動物病院という場所は、希望だけが自生している庭ではない。
### 2. 暗転する診察室
その日の午後、静寂を破るように鳴り響いたのは、急患を告げる激しいノックの音だった。
「お願いします! 助けてください!」
運び込まれてきたのは、ぐったりとしたフレンチブルドッグの「大福」。六歳のオスだ。
飼い主の女性は泣き叫び、大福を抱えた腕を震わせている。
「河野さん、酸素室の準備! 佐藤さんは心電図を!」
僕の指示に、佐藤さんは即座に動く。しかし、河野さんは一瞬、大福の真っ青になった舌と、焦点の合わない目を見て硬直してしまった。
「……っ、はい!」
数秒の遅れ。だが、救急の現場において、その数秒は永遠にも等しい重みを持つ。
大福の容体は絶望的だった。重度の熱中症。五月とはいえ、近年の異常な気温上昇と、フレンチブルドッグという犬種の特性が重なり、多臓器不全を引き起こしていた。
「強心剤、投与。アンビューバッグで人工呼吸を」
僕は必死に心臓マッサージを繰り返す。河野さんは僕の隣で、必死にアンビューバッグを揉んでいた。彼女の顔は紙のように白く、手は小刻みに震えている。
モニターに映る心電図の波形は、残酷なまでに平坦な一本の線へと収束していった。
「……そこまで。死亡確認、午後三時四十二分」
僕が宣告すると、飼い主の女性はその場に崩れ落ち、大福の体に縋り付いて慟哭した。
### 3. 止まった時間
処置室に、重苦しい沈黙が流れる。
亡くなった大福を綺麗にし、毛並みを整え、箱に納める。それが僕たちの「最後の診察」だ。
佐藤さんが手際よく準備を進める中、河野さんは診察台の隅で、握りしめたアンビューバッグを持ったまま動けずにいた。
「河野さん、大福君を綺麗にしてあげて」
佐藤さんの静かな声に、河野さんは「……はい」と蚊の鳴くような声で答え、濡れたタオルを手に取った。
しかし、彼女の目からは大粒の涙が溢れ出し、大福の体に落ちた。
「ごめんなさい、私……もっと早く動けていれば。私が、あんなに手間取らなければ……」
彼女は声を押し殺して泣き続けた。
自分を責めるその姿は、かつての僕の姿でもあり、そして全ての獣医療従事者が一度は通る通過儀礼でもあった。
### 4. 洗い場で交わす言葉
夕方。診察が一段落し、病院の奥にある洗い場で、河野さんは一人で血や泥のついたタオルを洗っていた。
彼女の背中は、朝のあの輝きを失い、ひどく小さく見えた。
「河野さん」
僕は隣で自分の手を洗いながら、声をかけた。
「先生……すみませんでした。プロ失格です。診察室で泣くなんて」
「泣くのは構わないよ。それだけ、大福君の命を自分事として捉えていた証拠だからね。ただ、自分を責めるのは少し違う」
僕は手を止め、彼女を見た。
「あの子を殺したのは君の遅れじゃない。熱中症という病気だ。僕たちの仕事は、死神とチェスをしているようなものなんだ。勝てることもあるし、どんなに手を尽くしても負けることもある。君の数秒が結果を変えた可能性は、医学的には限りなく低い」
「でも、怖かったんです。命が消える瞬間を、あんなに近くで見たのは初めてで……」
「怖いと思う心があるなら、君はこの仕事に向いているよ。その恐怖を忘れて、命をただの『症例』としてしか見られなくなったら、その時こそ辞め時だ」
僕は、彼女が洗っていたタオルを一枚手に取った。
「今日流した涙は、無駄じゃない。次は、その涙が出る前に体が動くようになる。それが『経験』っていう重い言葉の意味だ」
### 5. 明日へ繋ぐ白衣
翌朝。
病院に来ると、そこには昨日と同じように、誰よりも早く来て掃除をする河野さんの姿があった。
彼女の目はまだ少し腫れていたが、その表情には昨日とは違う、静かな決意のようなものが宿っていた。
彼女の着ている白衣は、昨日流した涙も、飛び散った泥も綺麗に洗い流され、ピンとアイロンが当てられていた。
「おはようございます、先生!」
「おはよう。今日の体調はどう?」
「はい。バッチリです。シロ君、今朝は尻尾を振って迎えてくれました」
彼女の声に、少しだけ力が戻っていた。
診察室の扉が開く。五月の爽やかな風が、新しい命の匂いを連れて入ってくる。
「先生、九時の予約の柴犬さん、お見えです!」
山田さんの声が響く。
僕は白衣の袖を通し、聴診器を首にかけた。
救えなかった命の重みを背負いながら、それでも今日、目の前で生きている命のために全力を尽くす。
その繰り返しの先にしか、僕たちの目指す場所はない。
「よし、行こうか」
僕の後ろを、河野さんがしっかりとついてくる。
その足取りは、昨日よりも少しだけ、力強くなっていた。
---




