春の嵐と、小さな耳の欠け
### 1. 鳴り止まない電話
三月中旬。日差しが少しずつ力強さを増すと同時に、当院への電話の内容に「ある傾向」が現れ始める。
「……はい、承知いたしました。ですが、本日も手術の枠がいっぱいでして。ええ、三日後ならなんとか」
受付の山田さんの声が、いつもより少しだけ硬い。電話の主は、近隣で地域猫の世話をしているボランティアの女性だろう。この時期、発情期を迎えた猫たちの鳴き声が近隣トラブルを招き、慌てて「捕まえたから手術してほしい」という依頼が急増するのだ。
「先生、またTNRの相談です。今度は駅裏の公園で、新しく現れた流れ者が一匹。ボランティアさんは『今捕まえないと次はいつになるか分からない』って仰ってますけど……」
「……午後診の前に一枠入れよう。お昼休みを少し削ればいける」
僕は、顕微鏡で見ていた糞便検査のプレパラートから目を離さずに答えた。佐藤さんが「先生、ちゃんと休まないと倒れますよ」と呆れ顔でコーヒーを置く。分かっている。だが、ここで断れば、数ヶ月後には「行き場のない五、六匹の子猫」が診察室に運び込まれることになる。それを防ぐのが、今の僕にできる唯一の「予防医療」だった。
### 2. 捕獲器の中の野生
午後一時。予定通り、一匹の猫が運び込まれてきた。
金属製の捕獲器の中で、その猫は獣特有の唸り声を上げ、網目に激しく体を打ち付けていた。全身の毛を逆立て、瞳孔を限界まで見開いたその姿には、飼い猫のような可愛げなど微塵もない。そこにあるのは、剥き出しの生存本能だ。
「先生、こちらです。さっき公園の植え込みでようやく入ってくれて……」
持ち込んだのは、六十代くらいの女性、門田さんだ。彼女はこの界隈で長く活動しているボランティアで、指先にはいつも、猫に引っ掻かれた古傷が絶えない。
「三歳のオスですね。かなり喧嘩もしているようだ。門田さん、費用と術後のリターンについては、いつも通りでよろしいですね?」
「はい。地域からの寄付も少し集まりました。この子、これ以上喧嘩して怪我をしてほしくないんです。お願いします、先生」
僕は頷き、猫を処置室へ運んだ。
TNR——Trap(捕獲)、Neuter(不妊去勢)、Return(元の場所に戻す)。
言葉にすれば三語で済むが、その一文字ずつの間には、人間と動物が共存するための、ひどく泥臭い調整が横たわっている。
### 3. 無機質な執刀
鎮静剤を打ち、荒れ狂っていた猫が静かになったところで、ようやく詳細な診察に入る。
体中に刻まれた噛み傷の跡。耳には疥癬の形跡があり、毛並みはゴワゴワと硬い。体重は見た目より軽かった。厳しい冬を、彼は文字通り死に物狂いで生き抜いてきたのだ。
「……去勢を始めます」
手術自体は、飼い猫のそれと変わらない。しかし、僕の手元にはいつもと違う緊張感が漂う。
飼い猫の去勢手術は、家族としての「幸せな共同生活」のための儀式だ。だが、野良猫の不妊手術は、その一代限りの命を「地域という社会」に受け入れてもらうための、いわば通行許可証の発行に近い。
最後に、左の耳の先端をV字にカットする。
通称「さくら耳」。
麻酔で眠る彼の耳から、わずかな血が滲む。これこそが、彼が不妊手術済みであり、地域の管理下にあるという「言葉を持たない証明書」になる。
「先生、この子の耳……やっぱり、切らなきゃいけないんですよね」
新人の実習生が、少し悲しそうな顔で尋ねてきた。
「そうだ。遠くから見ても一目で分からなければ意味がない。そうでなければ、別のボランティアにまた捕まえられて、二度もお腹を開けられるリスクがあるからね」
僕はガーゼで血を抑えながら続けた。
「可哀想だと思うかもしれない。でも、この『印』があるからこそ、彼は毒餌を撒かれることも、保健所に通報されることもなく、あの公園で生きていくことを許されるんだ。これは、人間たちの勝手な妥協点だよ」
### 4. 理想と現実の狭間
手術を終えてしばらくした頃、病院の裏口に一人の男性が立っていた。近隣に住む、自治会の役員をしている人物だ。
「先生、またあのボランティアの猫を引き受けたのか?」
彼の声には、隠しきれない不快感が混じっていた。
「……ええ、不妊手術を行いました。これで鳴き声やスプレー行動も収まるはずです」
「そう言うがね、結局は猫を野に放しているのと同じじゃないか。糞尿の被害がなくなるわけじゃない。ボランティアの人たちは綺麗事を言うが、実際に庭を汚されるのはこっちなんだ」
僕は黙って話を聞く。彼の言い分もまた、一つの真実だからだ。
猫が好きな人もいれば、心底嫌いな人もいる。どちらもこの街の住民だ。
不妊手術をすれば全てが解決するわけではない。それは単なる「増殖の停止」であり、問題の先送りに過ぎないという意見も、獣医師として否定はできなかった。
「……おっしゃる通りです。ですが、放置すれば数は倍々に増えます。今ここで止めることが、今の僕らにできる唯一の譲歩なんです」
男性は「ふん」と鼻を鳴らし、立ち去っていった。
正解のない問いが、診察室の白い壁に反射して消えていく。
### 5. 春の夜に放つ
夕暮れ時、麻酔から完全に覚めた猫を、門田さんが迎えに来た。
キャリーバッグの中で、猫は再び鋭い眼光を取り戻していた。
「ありがとうございました、先生。さあ、みんなのところへ帰りましょうね」
門田さんは、申し訳なさそうに、しかし大切そうにバッグを抱えて帰っていった。
あの猫は、今夜からまた、冷たいアスファルトの上で眠る。温かい布団も、用意されたキャットタワーもない、過酷な「野生」へと戻っていく。
僕は診察室の窓を開け、換気を行った。
春の夜風が、消毒液の匂いをさらっていく。
公園の方角から、一度だけ、猫の鋭い鳴き声が聞こえたような気がした。
それは、明日を生きようとする命の咆哮か、あるいは自由を一部奪われたことへの抗議か。
「先生、次の方、お入りになります」
山田さんの声で、僕は思考を打ち切った。
次の患者は、高級なキャリーケースに入れられた、血統書付きのトイプードルだ。
毛並みは整えられ、リボンまでついている。
同じ空の下で、同じ「命」を扱いながら、その背景にあるあまりに巨大な格差。
僕はただ、無言で手を洗い、次のカルテを開いた。
獣医師にできるのは、目の前の命に、等しく誠実であることだけだ。
「……こんにちは。今日はどうされましたか?」
僕の声は、いつも通り、努めて平坦に、診察室に響いた。
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