「桜の下で」
四月のはじまり
四月の第一週。
「ひだまり動物クリニック」の前の通りは、まるで桜色のトンネルのようになっていた。
花びらが風に舞うたび、歩く人々は足を止めて見上げ、写真を撮っている。
「先生、今日の患者さん、みんな桜の話をしてますよ」
カルテを手にした美咲が笑った。
「まあ、この時期はそうなるな」
私もつられて笑いながら診察室の準備を整えた。
午前 リクと加藤さん
最初にやって来たのはリクと加藤さん。
リクの足取りは少しゆっくりだが、診察室に入ると落ち着いた目でこちらを見上げる。
健診を終えた後、加藤さんがふと話し出した。
「先生、この子を連れて近所の公園へ行ったんですよ。満開の桜の下で、リクがずっと風に鼻をひくひくさせてて……なんだか嬉しそうでね」
「いいですね。桜の下での散歩は特別ですから」
そう言うと、リクはしっぽをゆるやかに振った。
彼なりにその情景を思い出しているようだった。
午前後半 ベルと女の子
続いてやって来たのはベルと女の子。
「先生! ベルと一緒にお花見したんですよ!」
元気いっぱいにそう話しながら診察室に入ってくる。
女の子が見せてくれたのは、小さなスマホに収められた写真。
桜の下で、ベルが満面の笑みで走っている姿が映っていた。
「きれいでね、ベルもずっとはしゃいでたんです!」
女の子の言葉に、ベルも得意げに胸を張るように座った。
注射を終えた後、ご褒美をもらったベルは、待合室で花びらのように軽やかにしっぽを振っていた。
昼前 チャイとモカ
ご夫婦に連れられてチャイとモカも登場。
キャリーから出ると、すぐに診察台を探検しようとする。
「桜の花びらを追いかけて、二匹でベランダからずっと外を見てるんですよ」
ご夫婦が微笑ましく語る。
チャイは診察台から身を乗り出し、窓の外を見て「にゃっ」と短く鳴いた。
まるで桜を呼びかけるかのように。
「桜と猫……絵になりますね」
美咲が言うと、ご夫婦は嬉しそうにうなずいた。
午後 ユキと飼い主さん
午後の診察にはユキも姿を見せた。
真っ白な毛並みの彼女は、桜色と対照的でひときわ凛としている。
「この子はお花見の人混みは苦手だから、家の窓から桜を眺めてます」
飼い主さんが言った。
ユキは診察台の上でおとなしく座り、静かな瞳を向けている。
まるで、桜の花びらが散る音さえ聞こえているような落ち着きだった。
「窓辺の桜見物も素敵ですね」
そう言うと、飼い主さんは「この子にはそれが一番合っているみたいです」と微笑んだ。
夕方 待合室の花見談義
この日、診察を終えた飼い主さんたちが待合室で自然と会話を交わしていた。
「リクくんも桜を見に行ったんですね」
「ベルちゃんは元気いっぱいだなあ」
「うちのチャイとモカは花びらを追いかけてばかりで……」
そこには、小さな「花見談義」の輪が広がっていた。
動物たちもそれぞれの場所でくつろぎながら、春のひとときを共有している。
夜 花びらの余韻
一日の診察が終わり、窓を開けるとひらひらと桜の花びらが舞い込んできた。
「先生、病院の中にもお花見ですね」
美咲が笑う。
「そうだな。みんなの話を聞いていたら、桜を見に行った気分になったよ」
私も笑いながら花びらをそっと手に取った。
動物たちと飼い主さん、それぞれの春の物語が桜に彩られている。
病院もまた、その小さな物語の集まる場所でありたい――
そう思いながら、夜風に舞う花びらを見送った。