「ひな祭りの待合室」
三月の始まり
三月に入ると、まだ冷たい風の中にもどこか春の香りが混じり始める。
「ひだまり動物クリニック」の待合室にも、ほんのり明るい雰囲気が漂っていた。
「先生、これ見てください」
美咲が飾ったのは、小さな折り紙のおひなさま。
待合室の一角に並べられたそれは、動物たちを待つ飼い主さんの目を和ませていた。
「三月はひな祭りですから。ちょっと華やかにしたくて」
彼女の笑顔に、私は「いいね」と頷いた。
ベルと女の子の来院
午前、元気いっぱいのベルと女の子がやって来た。
女の子は手に小さな紙袋を抱えている。
「先生、美咲さん、これひなあられです! ママと一緒に作ったんです」
袋を開けると、色とりどりの甘いあられが詰まっていた。
もちろん動物には食べられないけれど、その気持ちが嬉しい。
「ベルにも特別なおやつ用意したんだよ!」
女の子はポケットから犬用ビスケットを取り出し、ベルに差し出す。
ベルは「ワン!」と嬉しそうに食べ、しっぽを振って女の子にすり寄った。
待合室に集う常連たち
お昼前にはリクと加藤さんが登場。
「ひな祭りかあ。うちはもう孫が大きくなっちゃってねえ」
加藤さんは懐かしそうに笑いながら、待合室の折り紙のおひなさまを眺めていた。
リクは相変わらず落ち着いた様子で、待合室の隅に座ってベルを見守っている。
チャイとモカの兄弟猫も元気に来院。
キャリーから出るなり、おひなさまの折り紙に興味津々で手を伸ばしそうになる。
「こらこら! 触っちゃダメよ」
ご夫婦に止められ、二匹はしぶしぶ丸まったが、瞳はきらきら輝いていた。
午後にはユキも姿を見せた。
診察を終え、窓辺に座ったユキの青い瞳は、柔らかな春の日差しを映しこんでいた。
飼い主さんは「もうすぐ桜も咲きますね」と穏やかに微笑んでいた。
小さな“ひな祭り会”
夕方、待合室は偶然にもベル、リク、チャイ&モカ、ユキが一堂に会する時間があった。
女の子は持ってきたひなあられを紙皿に分け、美咲と飼い主さんたちに配り始めた。
「みんなでお祭りだよ!」
その声に、待合室は笑顔で満ちた。
もちろん動物たちは食べられないけれど、それぞれお気に入りのおやつをもらい、まるで人と一緒にお祝いしているように見えた。
ベルは嬉しそうに跳ね回り、リクは静かに目を細め、チャイとモカはじゃれ合い、ユキは誇らしげに窓辺で尾を揺らしていた。
夜 ひな祭りの余韻
一日の診察が終わり、静かになった待合室で、美咲がぽつりと言った。
「今日の待合室、なんだか本当にお祭りみたいでしたね」
「そうだな。小さなお祝いでも、みんなで分け合うと温かいものになる」
私は答えながら、机の上に残ったひなあられをひとつ口にした。
ほんのり甘く、春の訪れを告げる味がした。