洗面台の向こう側
洗面台の向こう側
中村真一、32歳。
前職を辞め、転職して三週間が経った。
新しい職場は都心の高層オフィスビルの15階にある。
設備も新しく、給与も前職より良い。
特に気に入っているのは、各階にある清潔な洗面所だった。
この洗面所は特に綺麗で、毎朝の身だしなみチェック、昼食後の歯磨き、残業前の洗顔…。
私は一日に何度もこのお気に入りの洗面所を利用する。
最初に違和感を覚えたのは、転職から二週間が経った頃だった。
洗面台で顔を洗い、顔を上げて鏡を見た時、一瞬だけ鏡の中に知らない人物が映った気がしたのだ。
振り返って確認したが、洗面所にはもちろん私一人しかいない。
疲れているのだろう。最近残業が続いているからだ、と自分に言い聞かせた。
しかし、翌日も同じことが起こった。
私は意識的に鏡を観察することにした。
定刻前の誰もいない洗面台で手を洗い、ゆっくりと顔を上げる。
鏡に映る自分の姿を確認する。
何も変わったことがない、至って正常だった。
しかし、手を拭いて振り返ろうとした瞬間、鏡の隅に人影が映った。
私は焦って振り返る。やはり誰もいない。
鏡を見直すが、もうその人影は消えている。
私は不安になり、同僚に相談してみることにした。
「洗面所の鏡、何か変わったことありませんか?」
同期の田村は首をかしげた。
「鏡?特に変わったことはないですが、どうして?」
「時々、知らない人が映る気がして」
田村は笑った。
「疲れてるんじゃない?この職場、結構ハードだから」
確かにそうかもしれない。
しかし、この謎の現象は続いた。
私はより詳しく観察を始めた。
鏡に映る人物の特徴を記録する。
身長は私と同じくらい。体型も似ている。
しかし、着ている服がよく見ると違う。
私は黒いスーツを着ているのだが、その幻覚?の人物は黒ではなく紺色のスーツを着ている。
注意深くみると、髪型も微妙に違う。
私は左分けだが、その人物は右分けだった。
最も奇妙なのは、その人物の動作だった。
私が手を洗っている時、その人物も手を洗っている。
私が顔を上げる時、その人物も顔を上げる。
鏡なので当たり前なのだが、微妙にタイミングがずれているのだ。
まるで、別の時間軸で同じ行動をしている人物を見ているような感覚だった。
私は他の同僚にも聞いてみることにした。
経理部の山田さんは、興味深い話をしてくれた。
「そういえば、洗面所で人とすれ違った後、帰りの廊下で会わないことがあるんです」
「すれ違う?」
「洗面所に入る時に、誰かが出てくるんです。でも、その人が廊下にはいないんですよ」
私は驚いた。
「それはいつ頃からでしたか?」
「最近ですね。気付いたのはこの一ヶ月くらいでしょうか」
私が転職してきたのと同じ時期だった。
他の同僚にも話を聞いてみた。
「洗面所の鏡、最近調子が悪いみたい」と、営業の佐藤さん。
「あの洗面所、電気の反射が変なんです」と、総務の鈴木さん。
みな、洗面所に何らかの違和感を感じていた。
私は残業を利用して、夜間に洗面所を調査することにした。
夜9時過ぎ、オフィスにはほとんど人がいない。
私は洗面所に入った。
照明を点け、鏡の前に立つ。
最初は何も起こらなかった。
鏡に映るのはもちろん私だけだった。
しかし、10分ほど経った頃、変化が起こった。
鏡の中の私が、微妙に違う動作をし始めたのだ。
私が右手を上げると、鏡の中の私は左手を上げる。
私が一歩前に出ると、鏡の中の私は一歩後ろに下がる。
これは幻覚ではない。明らかに異常な現象だった。
私は記録を残すために携帯電話で動画撮影を開始した。
翌朝、私は改めて動画を確認した。
驚くべきことに、動画には異常な現象は記録されていなかった。
鏡に映る私の姿は、なにもおかしいところがなかった。
右手を上げれば鏡の中の私も右手を上げ、
一歩前に出れば鏡の中の私も一歩前に出ている。
しかし、私の記憶では確実に逆の動作をしていた。
私は混乱した。記憶が間違っているのか、
それとも動画に記録されないような現象なのか。
私は建物の管理会社に問い合わせをした。
「15階の洗面所について、何か変わったことはありませんか?」
管理会社の担当者は少し考えてから答えた。
「そういえば、一ヶ月前に鏡を交換しました」
「交換?」
「前の鏡にひびが入っていたので」
私は詳細を尋ねた。
「ひびの原因は分かりますか?」
「前の入居者の方が、鏡を殴って割ったようです」
「前の入居者?」
「このフロアには以前、別の会社が入っていました。
その会社の社員の方が、洗面所の鏡に向かって何か叫びながら殴っていたと聞いています」
私は背筋に寒いものを感じた。
「その社員の方は?」
「会社が移転する前に退職されたようです。
詳しいことは分かりませんが、精神的に参っておられたとか」
私はその前の会社について調べてみた。
インターネットで検索すると、一年前に倒産していることが分かった。
倒産の原因は業績不振だったが、記事の中に気になる記述があった。
「同社では昨年、複数の社員が精神的不調を訴えており、労働環境の問題が指摘されていた」
私は更に詳しく調べた。
当時の新聞記事に、興味深い内容を見つけた。
「同社の元社員によると、オフィス内で幻覚や幻聴を体験する社員が続出していた。
特に15階の洗面所では、鏡に『自分ではない人物』が映るという報告が複数あった」
私と全く同じ現象だった。
私は管理会社に再度連絡を取り、より詳しい情報を求めた。
「以前、このフロアに入っていた会社の社員の方について、もう少し詳しく教えていただけませんか」
担当者は困ったような声で答えた。
「実は、その方の名前が、中村さんという方で…」
私は電話を落としそうになった。
「な、何ですって?」
「中村真一さん、32歳の男性でした。同じお名前なんですよ…でも正真正銘の別人ですよね?
こんな偶然あるんですね。」
私は震えていた。
同姓同名、同じ年齢、同じオフィスで仕事をしていた…?
私は科学的根拠のない心霊現象などは信じない信念なのだが、
ここまでの偶然があると何か今までの現象にも関係性があると思わざるを得ない。
「失礼ですが、その方の写真などは...」
「申し訳ございませんが、個人情報になりますのでそこまでは…」
しかし、私は諦めなかった。
前の会社の関係者を探して、同姓同名の人物とどうにか連絡を取ろうと試みてみることにした。
私は前の会社の元社員の一人と連絡が取れた。
その会社の経理部にいた女性だった。
「中村さんのことですか...」
彼女の声は暗かった。
「とても真面目な方でした。でも、最後の方はなにか様子がおかしくて…」
「それはどのように?」
「洗面所から出てこなくなったんです。一日に何時間も鏡の前にいて。」
「何をしていたんでしょうか」
「『鏡の向こうの人と話している』と言っていました。最初は冗談だと思っていたんですが...」
彼女は続けた。
「ある日、中村さんが『やっと分かった。この建物には何かがいる』と言い出したんです」
「何かがいる?」
「建設前、ここは古い病院だったそうです。戦前からずっと。たくさんの人が亡くなった場所だと」
私は背筋に寒いものを感じた。
「中村さんは『鏡の向こうにいる人たちは、生前この病院で亡くなった患者たちだ』と言っていました」
「患者たち?」
「彼らは自分が死んだことを理解していない。だから、鏡を通じて現世の人間とつながろうとしているんだと…」
彼女の声が震えていた。
「最後に中村さんが言っていたのは『彼らが僕を呼んでいる。もう断れない』でした」
「その後は?」
「翌日、中村さんは行方不明になりました。会社もその時には倒産が決まっていたので、警察も深く捜査しませんでした。
その後についても会社自体が無くなったので私も詳しくは…」
私は震えながら質問した。
「中村さんの外見はどんな感じでしたか?」
「背格好は...あなたとよく似ていましたね。
髪型は右分けで、よく似たような形の紺色のスーツを着ていました」
その女性が話す人物の特徴は、偶然にも鏡に映っていた人物と完全に一致していた。
その夜、私は再び洗面所に向かった。
今度は、鏡に向かって話しかけてみることにした。
「中村真一さん、あなたですか?」
最初は何も起こらなかった。
しかし、しばらくすると、鏡の中に紺色のスーツを着た男性が現れた。
右分けの髪型で、私とよく似た顔をしている。
でも、彼の肌は青白く、目には生気がなかった。
彼は口を動かしていた。音は聞こえないが、なんとなく
私は震えながら答えた。
「あなたは本当に中村真一さんですか?」
「そうだ...でも、もう生きてはいない」
「死んでいるんですか?」
彼は悲しそうに頷いた。
「この場所に...引き込まれた」
鏡の中の風景が変わった。
洗面所ではなく、古い病院の一室が映っている。
汚れたタイルの壁、古い医療器具、そして並ぶ無数のベッド。
「ここは昔、このビルの前に建っていた病院だ。
僕たちはここで...永遠に患者として過ごしている」
鏡の中に、他の人影が現れ始めた。
病衣を着た老若男女、白衣の医師や看護師。
みな青白い顔をして、虚ろな目をしている。
「彼らは自分が死んだことを理解していない。だから、生きている人間を呼び寄せる」
「なぜですか?」
「仲間が欲しいんだ。永遠に続く治療のための...患者が」
私は恐怖で声が震えた。
「あなたも患者になったんですか?」
中村さんは自分の腕を見せた。点滴の針が刺さっている。
「毎日、意味のない治療を受けている。薬を飲まされ、検査を受けて...でも、決して治ることはない」
鏡の向こうで、白衣の人影が中村さんに近づいてきた。
「もう時間だ。君も...一緒に“こちら側”に来ないか?」
「嫌です!」
私は後ずさりしたが、鏡から冷たい手が伸びてきた。
まるで
私の手首が掴まれた瞬間、周囲の景色が変わった。
気がつくと、私は古い病院のベッドに寝ていた。
汚れたタイルの天井、薄汚れた壁、錆びた医療器具。
その風景はまるで戦前の病院そのものだった。
「目が覚めましたね、自分の名前はわかりますか?」
振り返ると、古い看護師服を着た女性がいた。
顔は青白く、笑顔が不自然だった。
「ここはどこですか?」
「病院ですよ。あなたはここの患者さんです」
私は起き上がろうとしたが、体が動かない。
よく見ると、手足がベッドに縛られていた。
「離してください!」
「だめです。治療が必要ですから」
看護師は注射器を取り出した。
中身は何かわからない、謎の黒い液体だった。
「これを注射すれば、きっと良くなりますよ」
「何の治療ですか?僕は病気じゃありません!早く元の場所に戻してください!」
「みなさん、そうおっしゃいますが少しの間の辛抱ですよ」
病室には他にもベッドがあった。
中村さんもその一つに横たわっている。
彼は虚ろな目で天井を見つめていた。
「中村さん!」
彼は私の方を向いたが、意識がなくなりかけているのか反応が鈍い。
まるで薬漬けにされているようだった。
「君も...これで仲間だ」
彼の声は弱々しかった。
「この病院では、みんな永遠に患者だ…。治ることも、退院することもない。」
私は必死に拘束を解こうともがいていたが、無駄だった。
看護師が注射器を私の腕に向けた。
「痛みはすぐに和らぎますよ」
針が刺さった瞬間、意識が朦朧としてきた。
どのくらい時間が経ったか分からない。
私は薄くぼんやりとした意識の中で過ごしていた。
毎日、看護師が薬を持ってくる。
医師が意味のない診察をする。
私は徐々に、自分がなぜここにいるのかも忘れ始めていた。
「今日の薬ですよ」
看護師が黒い錠剤を差し出した。
私はもう、何の疑問も持たずに出された黒い錠剤を飲んだ。
そんな生活が続いていたある日、病室に変化があった。
新しいベッドが運び込まれたのだ。
そして、夜中に若い男性が運ばれてきた。
彼は必死に抵抗していた。
「離せ!ここはどこだ!」
私は朦朧とした意識の中で、彼を見つめた。
彼の顔には、かつての私と同じ恐怖があった。
それは、生きている人間の恐怖だった。
「君も...新しい患者だ」
私は彼に向かって言った。
自分でも驚くほど平坦な声だった。
「ここは病院だ。僕たちは...患者だ」
新しい患者は私を見て震えた。
「あなたは...中村真一さんですか?」
私は考えた。
確かそうだったような気もするし、違うような気もする。
「分からない...でも、きっとそうだろう」
新しい患者は泣いていた。
「僕は田中です。新しくこの会社に転職してきたのに、ここはどこなんですか!」
「転職...」
その言葉に、かすかに記憶が蘇った。
確かに私もここに来る前は会社を辞め、転職をしたような気がする。
でも、それがいつのことなのか、どこから来たのか、もう何も、思い出せない。
「大丈夫だ」私は田中に言った。「すぐに慣れる」
「慣れるって...」
「薬を飲んでいれば、苦痛はない。ずっと、永遠に治療を受けられる」
田中は絶望的な表情を浮かべた。
そして、看護師が田中に最初の注射をした。
翌朝、田中の目は我々と同じように少し虚ろになっていた。
それから何日、何ヶ月、何年か、どのぐらいの時間が経ったか分からない。
病院には新しい患者が定期的に運び込まれる。
みな最初は抵抗するが、やがて諦めて薬を受け入れるようになる。
私は今では古い患者の一人だ。
新しく来た人にこの病院の説明をする役割を担っている。
「ここは病院です。私たちは患者です。治療を受け続けなければなりません」
新しい患者たちは恐怖する。
でも、やがてすぐここに慣れる。
そして、またしばらくすると新しい患者が来る。
現実世界では、オフィスビルの洗面所で今日も誰かが鏡を見ている。
鏡の向こうから、私たちが手招きしている。
「こちらにいらっしゃい」
「治療が必要ですよ」
「永遠に、この病院で患者としていましょう」
鏡を通じて、新しい仲間を呼び続けている。
この病院が満室になることは、きっとない。
なぜなら、世界には無数のオフィスがあり、無数の洗面所があり、無数の鏡があるからだ。
私たちは今日も待っている。
新しい患者を。
ずっとここで、永遠に。
【完】
洗面台の向こう側
中村真一、32歳。
前職を辞め、転職して三週間が経った。
新しい職場は都心の高層オフィスビルの15階にある。
設備も新しく、給与も前職より良い。
特に気に入っているのは、各階にある清潔な洗面所だった。
この洗面所は特に綺麗で、毎朝の身だしなみチェック、昼食後の歯磨き、残業前の洗顔…。
私は一日に何度もこのお気に入りの洗面所を利用する。
最初に違和感を覚えたのは、転職から二週間が経った頃だった。
洗面台で顔を洗い、顔を上げて鏡を見た時、一瞬だけ鏡の中に知らない人物が映った気がしたのだ。
振り返って確認したが、洗面所にはもちろん私一人しかいない。
疲れているのだろう。最近残業が続いているからだ、と自分に言い聞かせた。
しかし、翌日も同じことが起こった。
私は意識的に鏡を観察することにした。
定刻前の誰もいない洗面台で手を洗い、ゆっくりと顔を上げる。
鏡に映る自分の姿を確認する。
何も変わったことがない、至って正常だった。
しかし、手を拭いて振り返ろうとした瞬間、鏡の隅に人影が映った。
私は焦って振り返る。やはり誰もいない。
鏡を見直すが、もうその人影は消えている。
私は不安になり、同僚に相談してみることにした。
「洗面所の鏡、何か変わったことありませんか?」
同期の田村は首をかしげた。
「鏡?特に変わったことはないですが、どうして?」
「時々、知らない人が映る気がして」
田村は笑った。
「疲れてるんじゃない?この職場、結構ハードだから」
確かにそうかもしれない。
しかし、この謎の現象は続いた。
私はより詳しく観察を始めた。
鏡に映る人物の特徴を記録する。
身長は私と同じくらい。体型も似ている。
しかし、着ている服がよく見ると違う。
私は黒いスーツを着ているのだが、その幻覚?の人物は黒ではなく紺色のスーツを着ている。
注意深くみると、髪型も微妙に違う。
私は左分けだが、その人物は右分けだった。
最も奇妙なのは、その人物の動作だった。
私が手を洗っている時、その人物も手を洗っている。
私が顔を上げる時、その人物も顔を上げる。
鏡なので当たり前なのだが、微妙にタイミングがずれているのだ。
まるで、別の時間軸で同じ行動をしている人物を見ているような感覚だった。
私は他の同僚にも聞いてみることにした。
経理部の山田さんは、興味深い話をしてくれた。
「そういえば、洗面所で人とすれ違った後、帰りの廊下で会わないことがあるんです」
「すれ違う?」
「洗面所に入る時に、誰かが出てくるんです。でも、その人が廊下にはいないんですよ」
私は驚いた。
「それはいつ頃からでしたか?」
「最近ですね。気付いたのはこの一ヶ月くらいでしょうか」
私が転職してきたのと同じ時期だった。
他の同僚にも話を聞いてみた。
「洗面所の鏡、最近調子が悪いみたい」と、営業の佐藤さん。
「あの洗面所、電気の反射が変なんです」と、総務の鈴木さん。
みな、洗面所に何らかの違和感を感じていた。
私は残業を利用して、夜間に洗面所を調査することにした。
夜9時過ぎ、オフィスにはほとんど人がいない。
私は洗面所に入った。
照明を点け、鏡の前に立つ。
最初は何も起こらなかった。
鏡に映るのはもちろん私だけだった。
しかし、10分ほど経った頃、変化が起こった。
鏡の中の私が、微妙に違う動作をし始めたのだ。
私が右手を上げると、鏡の中の私は左手を上げる。
私が一歩前に出ると、鏡の中の私は一歩後ろに下がる。
これは幻覚ではない。明らかに異常な現象だった。
私は記録を残すために携帯電話で動画撮影を開始した。
翌朝、私は改めて動画を確認した。
驚くべきことに、動画には異常な現象は記録されていなかった。
鏡に映る私の姿は、なにもおかしいところがなかった。
右手を上げれば鏡の中の私も右手を上げ、
一歩前に出れば鏡の中の私も一歩前に出ている。
しかし、私の記憶では確実に逆の動作をしていた。
私は混乱した。記憶が間違っているのか、
それとも動画に記録されないような現象なのか。
私は建物の管理会社に問い合わせをした。
「15階の洗面所について、何か変わったことはありませんか?」
管理会社の担当者は少し考えてから答えた。
「そういえば、一ヶ月前に鏡を交換しました」
「交換?」
「前の鏡にひびが入っていたので」
私は詳細を尋ねた。
「ひびの原因は分かりますか?」
「前の入居者の方が、鏡を殴って割ったようです」
「前の入居者?」
「このフロアには以前、別の会社が入っていました。
その会社の社員の方が、洗面所の鏡に向かって何か叫びながら殴っていたと聞いています」
私は背筋に寒いものを感じた。
「その社員の方は?」
「会社が移転する前に退職されたようです。
詳しいことは分かりませんが、精神的に参っておられたとか」
私はその前の会社について調べてみた。
インターネットで検索すると、一年前に倒産していることが分かった。
倒産の原因は業績不振だったが、記事の中に気になる記述があった。
「同社では昨年、複数の社員が精神的不調を訴えており、労働環境の問題が指摘されていた」
私は更に詳しく調べた。
当時の新聞記事に、興味深い内容を見つけた。
「同社の元社員によると、オフィス内で幻覚や幻聴を体験する社員が続出していた。
特に15階の洗面所では、鏡に『自分ではない人物』が映るという報告が複数あった」
私と全く同じ現象だった。
私は管理会社に再度連絡を取り、より詳しい情報を求めた。
「以前、このフロアに入っていた会社の社員の方について、もう少し詳しく教えていただけませんか」
担当者は困ったような声で答えた。
「実は、その方の名前が、中村さんという方で…」
私は電話を落としそうになった。
「な、何ですって?」
「中村真一さん、32歳の男性でした。同じお名前なんですよ…でも正真正銘の別人ですよね?
こんな偶然あるんですね。」
私は震えていた。
同姓同名、同じ年齢、同じオフィスで仕事をしていた…?
私は科学的根拠のない心霊現象などは信じない信念なのだが、
ここまでの偶然があると何か今までの現象にも関係性があると思わざるを得ない。
「失礼ですが、その方の写真などは...」
「申し訳ございませんが、個人情報になりますのでそこまでは…」
しかし、私は諦めなかった。
前の会社の関係者を探して、同姓同名の人物とどうにか連絡を取ろうと試みてみることにした。
私は前の会社の元社員の一人と連絡が取れた。
その会社の経理部にいた女性だった。
「中村さんのことですか...」
彼女の声は暗かった。
「とても真面目な方でした。でも、最後の方はなにか様子がおかしくて…」
「それはどのように?」
「洗面所から出てこなくなったんです。一日に何時間も鏡の前にいて。」
「何をしていたんでしょうか」
「『鏡の向こうの人と話している』と言っていました。最初は冗談だと思っていたんですが...」
彼女は続けた。
「ある日、中村さんが『やっと分かった。この建物には何かがいる』と言い出したんです」
「何かがいる?」
「建設前、ここは古い病院だったそうです。戦前からずっと。たくさんの人が亡くなった場所だと」
私は背筋に寒いものを感じた。
「中村さんは『鏡の向こうにいる人たちは、生前この病院で亡くなった患者たちだ』と言っていました」
「患者たち?」
「彼らは自分が死んだことを理解していない。だから、鏡を通じて現世の人間とつながろうとしているんだと…」
彼女の声が震えていた。
「最後に中村さんが言っていたのは『彼らが僕を呼んでいる。もう断れない』でした」
「その後は?」
「翌日、中村さんは行方不明になりました。会社もその時には倒産が決まっていたので、警察も深く捜査しませんでした。
その後についても会社自体が無くなったので私も詳しくは…」
私は震えながら質問した。
「中村さんの外見はどんな感じでしたか?」
「背格好は...あなたとよく似ていましたね。
髪型は右分けで、よく似たような形の紺色のスーツを着ていました」
その女性が話す人物の特徴は、偶然にも鏡に映っていた人物と完全に一致していた。
その夜、私は再び洗面所に向かった。
今度は、鏡に向かって話しかけてみることにした。
「中村真一さん、あなたですか?」
最初は何も起こらなかった。
しかし、しばらくすると、鏡の中に紺色のスーツを着た男性が現れた。
右分けの髪型で、私とよく似た顔をしている。
でも、彼の肌は青白く、目には生気がなかった。
彼は口を動かしていた。音は聞こえないが、なんとなく
私は震えながら答えた。
「あなたは本当に中村真一さんですか?」
「そうだ...でも、もう生きてはいない」
「死んでいるんですか?」
彼は悲しそうに頷いた。
「この場所に...引き込まれた」
鏡の中の風景が変わった。
洗面所ではなく、古い病院の一室が映っている。
汚れたタイルの壁、古い医療器具、そして並ぶ無数のベッド。
「ここは昔、このビルの前に建っていた病院だ。
僕たちはここで...永遠に患者として過ごしている」
鏡の中に、他の人影が現れ始めた。
病衣を着た老若男女、白衣の医師や看護師。
みな青白い顔をして、虚ろな目をしている。
「彼らは自分が死んだことを理解していない。だから、生きている人間を呼び寄せる」
「なぜですか?」
「仲間が欲しいんだ。永遠に続く治療のための...患者が」
私は恐怖で声が震えた。
「あなたも患者になったんですか?」
中村さんは自分の腕を見せた。点滴の針が刺さっている。
「毎日、意味のない治療を受けている。薬を飲まされ、検査を受けて...でも、決して治ることはない」
鏡の向こうで、白衣の人影が中村さんに近づいてきた。
「もう時間だ。君も...一緒に“こちら側”に来ないか?」
「嫌です!」
私は後ずさりしたが、鏡から冷たい手が伸びてきた。
まるで
私の手首が掴まれた瞬間、周囲の景色が変わった。
気がつくと、私は古い病院のベッドに寝ていた。
汚れたタイルの天井、薄汚れた壁、錆びた医療器具。
その風景はまるで戦前の病院そのものだった。
「目が覚めましたね、自分の名前はわかりますか?」
振り返ると、古い看護師服を着た女性がいた。
顔は青白く、笑顔が不自然だった。
「ここはどこですか?」
「病院ですよ。あなたはここの患者さんです」
私は起き上がろうとしたが、体が動かない。
よく見ると、手足がベッドに縛られていた。
「離してください!」
「だめです。治療が必要ですから」
看護師は注射器を取り出した。
中身は何かわからない、謎の黒い液体だった。
「これを注射すれば、きっと良くなりますよ」
「何の治療ですか?僕は病気じゃありません!早く元の場所に戻してください!」
「みなさん、そうおっしゃいますが少しの間の辛抱ですよ」
病室には他にもベッドがあった。
中村さんもその一つに横たわっている。
彼は虚ろな目で天井を見つめていた。
「中村さん!」
彼は私の方を向いたが、意識がなくなりかけているのか反応が鈍い。
まるで薬漬けにされているようだった。
「君も...これで仲間だ」
彼の声は弱々しかった。
「この病院では、みんな永遠に患者だ…。治ることも、退院することもない。」
私は必死に拘束を解こうともがいていたが、無駄だった。
看護師が注射器を私の腕に向けた。
「痛みはすぐに和らぎますよ」
針が刺さった瞬間、意識が朦朧としてきた。
どのくらい時間が経ったか分からない。
私は薄くぼんやりとした意識の中で過ごしていた。
毎日、看護師が薬を持ってくる。
医師が意味のない診察をする。
私は徐々に、自分がなぜここにいるのかも忘れ始めていた。
「今日の薬ですよ」
看護師が黒い錠剤を差し出した。
私はもう、何の疑問も持たずに出された黒い錠剤を飲んだ。
そんな生活が続いていたある日、病室に変化があった。
新しいベッドが運び込まれたのだ。
そして、夜中に若い男性が運ばれてきた。
彼は必死に抵抗していた。
「離せ!ここはどこだ!」
私は朦朧とした意識の中で、彼を見つめた。
彼の顔には、かつての私と同じ恐怖があった。
それは、生きている人間の恐怖だった。
「君も...新しい患者だ」
私は彼に向かって言った。
自分でも驚くほど平坦な声だった。
「ここは病院だ。僕たちは...患者だ」
新しい患者は私を見て震えた。
「あなたは...中村真一さんですか?」
私は考えた。
確かそうだったような気もするし、違うような気もする。
「分からない...でも、きっとそうだろう」
新しい患者は泣いていた。
「僕は田中です。新しくこの会社に転職してきたのに、ここはどこなんですか!」
「転職...」
その言葉に、かすかに記憶が蘇った。
確かに私もここに来る前は会社を辞め、転職をしたような気がする。
でも、それがいつのことなのか、どこから来たのか、もう何も、思い出せない。
「大丈夫だ」私は田中に言った。「すぐに慣れる」
「慣れるって...」
「薬を飲んでいれば、苦痛はない。ずっと、永遠に治療を受けられる」
田中は絶望的な表情を浮かべた。
そして、看護師が田中に最初の注射をした。
翌朝、田中の目は我々と同じように少し虚ろになっていた。
それから何日、何ヶ月、何年か、どのぐらいの時間が経ったか分からない。
病院には新しい患者が定期的に運び込まれる。
みな最初は抵抗するが、やがて諦めて薬を受け入れるようになる。
私は今では古い患者の一人だ。
新しく来た人にこの病院の説明をする役割を担っている。
「ここは病院です。私たちは患者です。治療を受け続けなければなりません」
新しい患者たちは恐怖する。
でも、やがてすぐここに慣れる。
そして、またしばらくすると新しい患者が来る。
現実世界では、オフィスビルの洗面所で今日も誰かが鏡を見ている。
鏡の向こうから、私たちが手招きしている。
「こちらにいらっしゃい」
「治療が必要ですよ」
「永遠に、この病院で患者としていましょう」
鏡を通じて、新しい仲間を呼び続けている。
この病院が満室になることは、きっとない。
なぜなら、世界には無数のオフィスがあり、無数の洗面所があり、無数の鏡があるからだ。
私たちは今日も待っている。
新しい患者を。
ずっとここで、永遠に。
【完】




