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騎士団長「殿下と私は体だけの関係です」王女「誤解しか生まない言い方やめなさいっ!!」

作者: 秋月アムリ

 麗しの月と謳われるエリザベッタ王女は、その名の通り、清らかで優雅な美貌と、国民を慈しむ優しい心を持つ、まさに完璧な王女として知られていた。


 公の場では常に微笑みを絶やさず、その淑やかな立ち居振る舞いは、貴族令嬢たちの憧れの的。外交の席では、その聡明さで各国の王族をも魅了し、まさに王国の至宝と呼ぶにふさわしい存在であった。


 しかし、そんな完璧な王女エリザベッタには、誰にも、そう、絶対に誰にも言えない秘密があった。


「ぐへへ……この三角筋から上腕二頭筋にかけてのライン、最高……。ああ、この力強い僧帽筋もたまらないわ……」


 夜。月の光も届かぬ王宮の薄暗い屋根裏部屋。


 そこには、昼間の淑やかな王女の姿はどこにもなかった。


 髪を無造作にまとめ、貴族のドレスとは程遠い、汚れてもいい簡素なスモックを身にまとったエリザベッタは、手にした木炭を画用紙の上で滑らせながら、恍惚とした表情で呟いていた。


 その目は爛々と輝き、口元はだらしなく緩んでいる。


 彼女の目の前には、分厚い『騎士団所属騎士 肉体資料集 特級』なる、いかにも怪しげな書物が広げられていた。


 エリザベッタの秘密の趣味。それは、男性の、それも筋肉隆々とした肉体美をひたすらデッサンし、時には粘土をこねて彫像を制作すること。


 彼女にとって、鍛え上げられた筋肉の陰影、その力強い隆起、そして汗ばんだ肌の艶やかさこそが、至高の芸術だったのだ。


「ふふふ、今日は新作に取り掛かるのよ……等身大の、そう、我が国の誇るべき騎士たちの肉体美を結集させた、最高の芸術作品をね……!」


 エリザベッタがうっとりと目を細めて見つめる先には、まだ形を成していない巨大な粘土の塊が鎮座していた。


 今宵、この粘土塊は、彼女の情熱によって、新たな命を吹き込まれるのを待っているのだ。


 そんなエリザベッタが、王宮の騎士たちの中でも特に熱い視線を注いでいる人物がいた。


 若くして騎士団長の座に就いた、レオヴァルド・フォン・アストリッドその人である。


 レオヴァルド騎士団長は、輝く銀髪に空色の瞳を持ち、その整った顔立ちは多くの令嬢のため息を誘う。


 しかし、彼の魅力はそれだけではない。騎士としての実力は王国随一と謳われ、その高潔で真面目な人柄は、騎士たちの模範であり、国民からは英雄として絶大な人気を誇っていた。


 そして何より――エリザベッタにとってはここが最も重要なのだが――彼の騎士服の下に隠された肉体は、まさに神の創造物と呼ぶにふさわしい完璧なバランスと、鍛え上げられた美しい筋肉を誇っていた。


「レオヴァルド……あの引き締まった腹直筋、逞しい大胸筋……そして何より、あの背中の広背筋の広がり……ああ、一度でいいから、あの騎士服を脱がせて、じっくりと観察……いえ、デッサンさせていただきたい……ぐへへ……」


 表向きは、国民の模範たる騎士団長として敬意を払っているエリザベッタだが、その内心は、彼の肉体に対する芸術的探求心(という名の欲望)で燃え上がっていた。


 もちろん、そんな本音はおくびにも出さず、今日も今日とて、完璧な王女の仮面を被って公務に勤しんでいたのである。


 そして今宵もまた、エリザベッタの秘密の「夜の儀式」が始まった。


 愛用の木炭を握りしめ、画用紙に向かう。まずはウォーミングアップとばかりに、資料集に掲載された騎士たちの腕や脚の筋肉を、様々な角度からデッサンしていく。


 時折、漏れ出す「ふぅ……」「たまらん……」という吐息が、屋根裏の静寂に小さく響いた。集中力が高まり、彼女の周囲だけが特別な空間へと変貌していく。


 今夜は特に気合が入っていた。何といっても、等身大の彫像制作という大仕事が待っているのだ。


 そのモデルは、もちろん、エリザベッタの頭の中で完璧に構築された、理想の騎士の肉体。そしてその細部の多くは、レオヴァルド騎士団長の姿から着想を得ていた。


「さあ、始めましょうか……私の理想の騎士よ、今宵こそ、その完璧な姿をこの世に……!」


 エリザベッタは、デッサンで温まった指先で、そっと粘土の塊に触れた。ひんやりとした感触が、彼女の情熱をさらに燃え上がらせる。まさにその時だった。


 ギィ……


 静寂を破り、屋根裏の入り口へと続く古びた扉が、小さな音を立てた。


 エリザベッタは、その音に一瞬にして全身の血の気が引くのを感じた。


 心臓がドクリと大きく鳴り、粘土に触れていた指先が凍り付く。


 こんな夜更けに、まさか誰かが屋根裏に? いや、そんなはずはない。この部屋は、王宮の中でも忘れ去られた場所。めったに人が近づくことはないはずなのに。


 恐る恐る視線を扉に向けたエリザベッタの目に飛び込んできたのは、月明かりを背に立つ、漆黒の騎士服を纏った人影だった。


 逆光でその顔はよく見えないが、長身でがっしりとした体格、そして何よりもその威厳ある佇まい。


「レオヴァルド……騎士団長……?」


 エリザベッタの口から、蚊の鳴くような声が漏れた。なぜ、彼がここに? 巡回中だとしても、まさか屋根裏まで来るなど……。


 レオヴァルドは、警戒を解かずにゆっくりと足を踏み入れた。彼の視線が、部屋の中央に鎮座する巨大な粘土の塊……そして、その傍らに広げられた半裸の男性像のデッサンに注がれる。


 さらに、筆を握り、不安げな表情を浮かべたエリザベッタの姿が、彼の空色の瞳に映り込んだ。


 ぴしり、と。


 レオヴァルドの顔に、明確な衝撃と困惑の表情が浮かんだ。彼の完璧に統制された表情が、まるでヒビでも入ったかのように崩れていく。


「お、王女殿下……これは、いったい……?」


 その言葉は、まるで何かの間違いを見ているかのような、信じられないという響きを含んでいた。


 エリザベッタは、頭を抱えたくなった。


 いや、もう終わった。完璧な王女としての私の人生は、今、この瞬間に幕を閉じたのだ。


 この秘密を知られたら最後、私は変態王女として歴史に名を刻むことになるだろう。


 そして、王位継承権も剥奪され、辺境の修道院にでも送られるに違いない。いや、それどころか、奇妙な性癖を持つ狂人として、地下牢にでも閉じ込められる可能性すらある!


 必死に頭を回転させる。何か、何か言い訳をしなければ!


「こ、これは! そう! これは国民の健全な肉体美を研究する、高尚な美術なのです! わたくしは、国民の健康増進を願うあまり、その、より効果的な鍛錬法を視覚的に理解するため、このような……」


 しどろもどろになりながらも、エリザベッタは必死に言葉を紡いだ。苦しすぎる言い訳だとは自分でも分かっている。しかし、他に何を言えばいいというのか。


 レオヴァルドは、腕を組み、真剣な表情でエリザベッタの言葉に耳を傾けていた。彼の眉間に寄ったしわが、考え込んでいることを示している。


「なるほど……! 王女殿下は、まさかそこまで国民の健康までお考えとは……! 素晴らしい! さすがは王女殿下!」


 レオヴァルドの口から出た言葉は、エリザベッタの予想を遥かに超えるものだった。彼の瞳は、尊敬の念で輝いている。信じている……? この苦しい言い訳を、彼は真剣に受け止めているというのか?


 エリザベッタは、拍子抜けしすぎて呆然としてしまった。彼が真面目すぎるがゆえに、この異常な状況を、彼女の崇高な行いとして捉えてしまっているのだ。


「ええ、もちろん! 国民の健康と繁栄は、わたくしの願いですから!」


 エリザベッタは、内心で冷や汗をかきながらも、この奇跡的な誤解に乗じることにした。


「しかし……なぜこのような場所で? 国民のための研究を秘匿する必要が……?」


「王族の名で行われるものですもの。『経過』ではなく、求められるのは『結果』、『成果』です。研究とは、斯様な積み重ねで行われているものなのですわ」


 エリザベッタの苦しすぎる言い分に、しかし雷に撃たれたように直立したレオヴァルドは、深々と頭を下げた。


「ははあ……! 王女殿下の高潔なご意思、深く感銘いたしました! そして……この国民のための研究。この秘密は、然るべき時が来るまで、私が命に代えても守り抜きます」


 レオヴァルドの言葉は、まるで鋼鉄のように固く、一点の曇りもなかった。


 彼の真摯な眼差しに、エリザベッタは言葉を失った。この男は、本当に私の秘密を守ってくれるつもりなのか。しかも、それを国民のための崇高な行いだと信じて。


 エリザベッタの心に、ある悪魔的な考えが芽生えた。


(大ピンチかと思ったが、彼の身体をモデルにできるチャンスかこれは……?)


 ちらりと、レオヴァルドの騎士服に包まれた逞しい胸板に視線を走らせる。彼の服の下に隠された、均整の取れた筋肉の隆起。いつか、あの完璧な肉体を、心ゆくまでデッサンできる日が来るかもしれない。


 エリザベッタの口元に、淑やかな王女らしからぬ、だらしない笑みが浮かびそうになったのを、寸前で堪えた。


「レオヴァルド騎士団長、ありがとうございます……! そのお言葉、心強い限りですわ」


 完璧な淑女の笑顔で、エリザベッタはレオヴァルドに感謝を述べた。彼の真面目さが、今、最高の武器になった。


 レオヴァルドは、まだデッサン中の半裸の男性像を一瞥し、真剣な顔で頷いた。


「では、王女殿下の研究が滞りなく進むよう、私が微力ながらお手伝いさせていただきます。何かお困りのことがあれば、いつでもお申し付けください」


 そう言って、レオヴァルドは来た時と同じように音もなく扉を閉め、屋根裏を後にした。


 エリザベッタは、彼の背中が見えなくなってから、ふぅ、と大きく息を吐いた。そして、再び目の前の粘土像に視線を戻す。


「ふふふ……まさか、こんな展開になるとは……。これは、新たな芸術の扉が開かれそうな予感がするわ……!」


 彼女の脳裏には、レオヴァルドの完璧な肉体が、様々なポーズでデッサンされている光景が鮮やかに浮かび上がっていた。



 *



 翌日から、レオヴァルドは本当に屋根裏に頻繁に顔を出すようになった。巡回の名目ではあるが、その実、エリザベッタの「|国民の健全な肉体美研究《バカみたいな言い訳》」を護衛するためらしい。


 エリザベッタにとっては、願ったり叶ったりだった。


 屋根裏での秘密のデッサンタイムに、国民的英雄である騎士団長が同席しているという、背徳的な喜びに加え、何よりも彼の逞しい姿を間近で観察できる機会が増えたのだ。


(ぐへへ……今日の騎士団長は、一段と肩回りの筋肉が発達している気がするわ……。まさか、私がデッサンしていることを知って、さらに鍛錬を重ねてくれているのかしら? だったら最高ね……!)


 そんなことを内心で呟きながら、エリザベッタは日々、等身大の粘土像制作に没頭していた。


 レオヴァルドの肉体美を参考にしつつ、彼女の理想を詰め込んだその彫像は、日を追うごとにその存在感を増していった。


 上腕二頭筋、大胸筋、腹直筋……どれをとっても、エリザベッタの審美眼を満足させる完璧な仕上がりだった。



 そして、ある満月の夜。


 エリザベッタは、いよいよ彫像の最終調整に取り掛かろうとしていた。粘土でできた等身大の騎士像は、今や部屋の半分を占めるほどの大きさになっていた。その完成度は高く、今にも動き出しそうなほどの迫力がある。


「ふふふ……もう少しで完成ね。あとは、この広背筋の厚みをもう少し強調して……」


 木製の足場に乗って、彫像の背中を仕上げようとしたその時だった。


 ギシッ!


 突然、足場が大きく傾いた。老朽化した屋根裏の床板が、等身大の彫像の重みに耐えきれなかったのだ。


 バランスを崩したエリザベッタは、思わず「きゃっ!」と短い悲鳴を上げた。そして、彼女の体が倒れると同時に、足場に乗せていた重い粘土像も大きく揺れ、グラグラと傾き始めた。


(いけないっ!)


 エリザベッタの頭の中は、一瞬で真っ白になった。これだけの大きさの粘土像が倒れれば、間違いなく大破する。


 そうなれば、これまでの苦労が水の泡になるばかりか、その衝撃で屋根裏の床に穴が開き、下の階にまで秘密が露見してしまうかもしれない。


 その時、一陣の風のように、レオヴァルドが駆け寄ってきた。


 彼はいつもの巡回中で、偶然にも屋根裏の近くを通りかかったらしい。エリザベッタの悲鳴と、屋根裏から響く異音に気づいて駆けつけてくれたのだ。


「王女殿下っ!」


 レオヴァルドは、身を挺して倒れゆく巨大な粘土像の前に立ちはだかった。


 ゴッ、と鈍い音が響く。


 レオヴァルドは、鍛え上げられた自身の肉体を盾にするようにして、粘土像の巨体を受け止めた。


 その衝撃で、彼の足元が数センチ沈み込んだように見えた。だが、彼は歯を食いしばり、必死にその重みに耐えている。騎士服の袖がはち切れんばかりに膨れ上がり、その下で筋肉が躍動しているのがはっきりと見て取れた。


「くっ……!」


 レオヴァルドの額には、大粒の汗が浮かんでいた。しかし、彼は一歩も引かず、その逞しい腕で粘土像を支え続けている。


 エリザベッタは、その光景に息を呑んだ。


「レオヴァルド……!」


 目の前で繰り広げられる、レオヴァルドの必死の奮闘。彼の引き締まった大胸筋が、広背筋が、上腕二頭筋が……これでもかとばかりに主張している。


 普段は騎士服に隠されているその肉体が、今、これほどまでに官能的に、そして力強く輝いているとは。


(ぐへへ……これもう神話じゃん……! 神話の一シーンだわこれ!!)


 危機的状況だというのに、エリザベッタの頭の中では、芸術家としての本能が暴走し始めていた。


 彼の肉体は、まさに生きている芸術作品だ。この姿をデッサンしたい、この筋肉の躍動感を粘土で表現したい……!


 しかし、同時に、彼女の胸には申し訳なさもこみ上げてきた。自分の趣味のために、こんな危険な目に遭わせてしまっている。


「騎士団長! 大丈夫ですか!?」


 我に返ったエリザベッタは、慌てて足場から降り、レオヴァルドの元へと駆け寄った。


 レオヴァルドは、ぜえぜえと肩で息をしながらも、なんとか粘土像を元の位置に戻すことに成功した。額からは汗が滝のように流れ落ち、その頬は普段よりも赤く上気している。


「はぁ……はぁ……だ、大丈夫です、王女殿下……。何とか……」


 ぐったりとしたレオヴァルドの姿に、エリザベッタは深く頭を下げた。


「本当に、ありがとうございます……! あなたがいなければ、この子はきっと……!」


 エリザベッタは、彫像を抱きしめるようにして、レオヴァルドに感謝を述べた。


 レオヴァルドは、汗を拭いながら、真剣な表情でエリザベッタに言った。


「王女殿下。この屋根裏での研究は危険を伴うようです。もし、この彫像が倒れて下の階に被害が及べば、王室の威厳にも関わります」


 彼の言葉に、エリザベッタはドキリとした。確かにその通りだ。


「つきましては、今後、王女殿下の安全と秘密を守るため、私が毎日、護衛として屋根裏に参ります」


 レオヴァルドの言葉に、エリザベッタは目を丸くした。毎日? 毎日、この肉体美が拝めるというのか?


(最高か?!)


 エリザベッタの心の声が、満面の笑顔となって顔に現れそうになったのを、寸前で堪えた。完璧な王女の仮面を被り、彼女は淑やかに頷いた。


「ええ、レオヴァルド騎士団長。貴方のそのご配慮、心より感謝申し上げますわ。どうぞ、よろしくお願いいたします」


 こうして、エリザベッタの秘密の芸術活動は、図らずもレオヴァルドという名の「生きた資料」を得て、さらなる進化を遂げることになったのである。


 そして、レオヴァルドもまた、この一件でエリザベッタの趣味、もとい研究(・・)の危険性を認識し、彼女の安全を守るために、屋根裏に頻繁に出入りするようになるのだった。



 レオヴァルドが屋根裏に「護衛」として常駐するようになってからというもの、エリザベッタのデッサンは飛躍的に進化した。何しろ、目の前には最高のモデルがいるのだ。


 しかし、レオヴァルドはあくまで「護衛」という認識だ。彼をモデルにするには、それなりの口実が必要だった。


「レオヴァルド騎士団長は、よく鍛錬をなさいますか?」


 ある日、エリザベッタは唐突に尋ねた。レオヴァルドは、いつも通り屋根裏の隅で直立不動の姿勢で警護についていた。


「はい、王女殿下。日々の鍛錬は騎士の務めですから」


 真面目な答えに、エリザベッタは内心でほくそ笑む。


「なるほど。では、その鍛錬の様子を、わたくしに詳しくお聞かせいただけますか? 国民の健康増進の研究のためにも、大変興味がありますわ」


 レオヴァルドは、王女の言葉に目を輝かせた。


「もちろん、殿下。鍛錬は主に剣術と体術、それに城壁の周囲を走り込むなど……」


「ええ、ええ。具体的にどのような動きで、どのような筋肉が使われるのか、そのあたりを重点的に伺いたいですわね……」


「……と、仰りますと?」


 レオヴァルドの顔に、明確な困惑の色が浮かんだ。彼の真面目な脳内では、エリザベッタの言葉が全く繋がらないらしい。


 しかし、エリザベッタはにこやかに畳みかける。


「そう、例えば、剣を振るう際の腕の動き。その時の上腕二頭筋と三角筋の連動性ですとか……。汗を拭う際の、首筋から肩にかけてのラインの美しさ……。そういった、わたくしの研究に不可欠な細部を、ぜひ、レオヴァルド騎士団長のお体で再現していただけたらと……」


 エリザベッタは、まるで高尚な学術研究の講義でもするように、熱心に語った。


 レオヴァルドは、王女の情熱に押され、戸惑いながらも騎士服の上着を脱ぎ始めた。彼の鍛え上げられた肉体が、ゆっくりと露わになる。


(ぐっへっへ……ゔおお! きたわね……!)


 エリザベッタは、心の中で雄叫びを上げた。


 しかし、レオヴァルドは彼女の意図を全く理解していない。彼は、腕立て伏せをしたり、その場で剣を振るう素振りをしたりと、エリザベッタに指示されるままにポーズを真面目にこなしていく。


「もっと腕を上げて! そう、そこの筋肉の盛り上がりが最高です!」


「殿下、この角度でよろしいでしょうか? 上腕三頭筋がより明確に見えるかと思われますが」


「動かないでください! 動くと台無しに……!」


 エリザベッタの指示はどんどんエスカレートする。


 レオヴァルドもまた、真面目すぎるがゆえに、王女の奇抜な芸術的探求に必死に協力していた。



 *



 そんなある日、二人がいつものように屋根裏でデッサンに没頭していると、ギィ、と扉が開く音がした。


「あの、どなたかいらっしゃるので……」


 そこに立っていたのは、エリザベッタ専属の侍女、リリアだった。後から判明するのだが、彼女は掃除の途中で屋根裏から微かに物音がすることに気づき、恐る恐る確認に来たらしい。


「お、王女殿下!?」


 リリアの視線の先には、だらしない顔でデッサンに没頭するエリザベッタ王女と、その上裸のまま奇妙なポーズをとっているレオヴァルド騎士団長の姿があった。


「げええ!? リリア!?」


 悲鳴を上げるエリザベッタ。


 リリアの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。彼女の目が大きく見開かれ、口が半開きになったまま固まった。


「お、お二人はその、恋仲だったのですね……このことは誰にも、いえ、私は何も見ていません!」


 リリアは、顔を真っ赤にして叫ぶと、じわじわと後ずさった。


「えっ……? ち、ちがっ……!」


 エリザベッタは、慌てて取り繕おうとするが、言葉が出てこない。完全に狼狽している。


 しかし、レオヴァルドは違った。彼はリリアの言葉に、ゆっくりと首を傾げた。そして、真面目な顔で、リリアに向かって言い放った。


「誤解しないでもらおう。殿下と私は、肉体だけの関係だ」


 エリザベッタも、リリアも、なにも言えなかった。


 だが先に我に返ったのはリリアのほうだった。


「…………えっ?」


 リリアが小さく声を漏らす。


「ちょいちょいちょーい!!!!!」


 エリザベッタは、堪えきれずに叫んだ。


「略すな! 肉体美をデッサンするだけの関係を『肉体だけの関係』と略すな!! なにが『誤解しないでもらおう』か! 誤解しか生まんわ!」


 エリザベッタは、荒れ狂う剣幕でレオヴァルドに詰め寄った。しかし、レオヴァルドは相変わらず首を傾げている。


「しかし殿下、事実では?」


「事実じゃなーい! 語弊がある! 語弊しかない!!」


 エリザベッタの剣幕に怯えたのは、リリアの方だった。彼女は、王女の普段からは想像もできない形相に、ガタガタと震え上がった。


「わ、わたくしはこれで……! お邪魔をして、申し訳ございません!」


 リリアは、そそくさと屋根裏から逃げ出した。バタン、と扉が閉まる音が、その場の騒然とした空気をさらに際立たせた。


 頭を抱えるエリザベッタ王女と、相変わらず首を傾げているレオヴァルド騎士団長。


 絶対に誤解を解かなくては、とエリザベッタは深く決意した。



 その後も懲りずにデッサンを繰り返す二人だったが、この一件で、侍女たちの間では「王女殿下と騎士団長は秘密の恋仲で、夜な夜な屋根裏で密会している」という噂がまことしやかに囁かれるようになった。


 しかし、レオヴァルドは、王女殿下のデッサンから、彼女が単なる奇抜な趣味ではなく、真剣に肉体美を追求する芸術家であることを少しずつ理解し始めていた。彼の目に映るエリザベッタは、昼間の完璧な王女の顔とは全く異なる、情熱的で、時に子供のように無邪気な一面を見せる女性だった。


 エリザベッタもまた、レオヴァルドの真面目さゆえの天然な言動に、呆れつつも、どこか温かい気持ちを抱くようになっていた。彼の高潔な人柄と、どんな時も彼女の秘密を守ろうとする誠実さに、知らず知らずのうちに惹かれていく。


 デッサン中に、手が触れ合うことも増えた。そのたびに、二人の間に微かな電流が走るような感覚が芽生え始めていた。



 *



 エリザベッタとレオヴァルドの間に、奇妙で甘い日常が生まれていく中、ある知らせが王宮を駆け巡った。隣国の王族が、視察と挨拶のために王宮を訪れるというのだ。


 その報せに、エリザベッタは顔面蒼白になった。


「そ、そんな……! なぜ今……!」


 王宮の屋根裏は、来賓が通る予定の通路のすぐ上にある。不味いことに、万が一の暗殺などを警戒し、賊が潜めそうな場所は改めて調査が入るのだ。


 王宮のこんな深いところに賊に入りこまれるようではどのみちその国は不味いのだが、「あなた方の安全は確保済ですよ」というアピールの意味合いが強いだろう。


 そして、そして、だ。万が一、警備の者たちがこの秘密の場所に踏み込んできたとしたら……。


 想像するだに恐ろしい事態だった。デッサン中のムキムキマッチョな男性像、そして等身大の彫像。これらが白日の下に晒されれば、エリザベッタの完璧な王女としての地位は、確実に地に落ちるだろう。


「レオヴァルド騎士団長! 大変よ! 彼らが屋根裏近くを通るの!」


 エリザベッタは、いつもの淑やかさをかなぐり捨てて、レオヴァルドに詰め寄った。


 レオヴァルドもまた、事態の深刻さを瞬時に理解した。彼の真面目な顔が、いつになく険しくなる。


「なるほど……。これは一大事。王女殿下の研究は、決して外部に漏らしてはなりません!」


 二人は、急遽、デッサンや彫像を隠すための作戦会議を開始した。しかし、これだけの量の作品を隠すのは至難の業だ。


「この等身大の彫像は、分解するわけにはいきませんし……」


「では、布をかぶせて隠しましょう! 美術品保護用の布が確か……」


 エリザベッタが見繕った巨大な布を、レオヴァルドが持ち前の怪力で持ち上げ、彫像に被せていく。しかし、その布は彫像のあまりの大きさに、ところどころ隙間ができてしまった。


「あああ! そこ! そこから上腕二頭筋が見えてしまいますわ!」


「むむ……では、ここに書類を積み重ねて目隠しを……」


 とても一日では終わらない作業だ。何日かかけているうちに、来賓の訪問は目前に迫っていた。もういつ調査が入ってもおかしくない。


「デッサンも隠さなければ! こちらは丸めて隅のほうに……!」


 エリザベッタは、必死にデッサンを丸めて、散らばった木炭や粘土の道具を慌ただしく片付け始めた。


 レオヴァルドは、彼女の慌てぶりに内心で苦笑しつつも、迅速に片付けを手伝う。


 そしてついに。調査の者たちが屋根裏への梯子に足を掛けた、軋むような音が聞こえてきた。


「しまった! 筋肉が!」


 エリザベッタが指差した先には、布で隠したはずのムキムキマッチョな男の彫像が、一部コンニチワしていた。それも、血管が浮き出た太い上腕二頭筋だ。よりにもよって、一番彼女の性癖が露わになる部分が!


「王女殿下!」


 レオヴァルドは、咄嗟にその前に立ち塞がった。しかし、それではあまりにも不自然だ。その時だった。


「王女殿下……と、レオヴァルド騎士団長!?」


 黴臭い屋根裏部屋の入口に警備の騎士――近衛騎士団に所属する年若い騎士が、驚愕の表情を浮かべて立ち竦んでいた。


「おほほ、ごきげんよう……」


 冷や汗をダラダラ流しながらもにこやかに挨拶をするエリザベッタ。


「お二人はここで……何を……?」


「え? い、いえ、それは、その……」


 しどろもどろになりながら言い訳を考えるエリザベッタ。だが若い騎士の視線は、レオヴァルドの背後――布をかけられた彫像に向けられていた。


「ん? なにか見えているようですが……」


 そう、彼の視線は、布の隙間から覗いているムキムキマッチョな上腕二頭筋に向けられていたのだ。


 王女殿下の危機に、レオヴァルドは決死の覚悟で、腹の底から声を出した。


「これは! これは、殿下と私が研究している魔法陣の図面である!」


 エリザベッタは目を丸くした。魔法陣? あの血管が浮き出た腕が? だが流石の王女殿下。咄嗟の機転は凄かった。


「そう、そうなんですわ! レオヴァルド騎士団長は魔法剣士でして、わたくしと日頃から魔法について深く談義を交わしておりますの!」


 エリザベッタもまた、レオヴァルドの言葉に合わせるように、苦しい言い訳を重ねた。苦しすぎる。あまりにも苦しい。この血管が浮き出た腕が、どう見たら魔法陣に見えるだろうか。


 しかし、なぜかその苦しい言い訳は通った。若い騎士は怪訝な顔をしつつも、「なるほど?」と、意外そうに頷いている。


「まあ私には魔法のことはわかりませんが、王女殿下と騎士団長がご来賓を危険に晒すようなことはあり得ませんよね」


「も、もちろんですわ」


「そんなことはあり得ないだろう」


「はい、ありがとうございます。その確証さえ得られれば私の方では問題ございませんので……その、お邪魔いたしました」


 エリザベッタとレオヴァルドは、額に冷や汗をかきながら、なんとか騎士を見送った。彼が完全に遠ざかったのを確認すると、二人はその場にへたり込んだ。


「はぁ……はぁ……ギリギリでしたわね……」


「ええ、殿下。生きた心地がいたしませんでした……」


 レオヴァルドは、全身の力が抜けたように息を吐いた。


(別の誤解が生じたような気もしないでもないのですが……)


 しかし、この一連の騒動を通して、二人の間には言葉にできない強い絆が生まれていた。


「共犯者」としての達成感が、互いの心を満たしていく。この秘密を共有し、共に危機を乗り越えたことで、二人の関係はより一層深まったのだった。


 一連の騒動を通して、エリザベッタはレオヴァルドの真面目さ、誠実さ、そして何よりも彼女の秘密を命がけで守ってくれる姿勢に、純粋な愛情を抱くようになっていた。


 彼の朴訥とした優しさ、そしてどんな時も彼女を信じてくれるその真っ直ぐな心に、エリザベッタは初めて「完璧な王女」という仮面を外した自分を受け入れてくれる存在を見出した。


 レオヴァルドもまた、王女殿下の芸術への情熱、そして飾らない人間的な魅力に強く惹かれていた。最初は単なる護衛対象として見ていたはずが、屋根裏で共に過ごす時間の中で、彼女の繊細さ、大胆さ、そして何より、彼女の持つ豊かな感性に心を奪われていった。彼にとってエリザベッタは、もはや「王女殿下」という尊称の奥にいる、一人の魅力的な女性として、かけがえのない存在になっていた。


 ある満月の夜。


 二人はいつものように屋根裏でデッサンをしていた。巨大な彫像は、すでに完成し、布を被って静かにそこに佇んでいる。エリザベッタは、レオヴァルドが剣を振るう際の腕の筋肉の動きを、真剣な眼差しでデッサンしていた。レオヴァルドは、王女の求めるポーズを、言われるがままに真面目にとってやる。


 静かな屋根裏に響くのは、木炭が紙を擦る音と、二人の静かな息遣いだけだ。


 エリザベッタは、デッサンを終え、レオヴァルドの方を振り返った。


「レオヴァルド……」


「はい、殿下」


 月の光が差し込む中で、彼の銀髪がキラキラと輝いている。その空色の瞳は、エリザベッタの顔をまっすぐに見つめ返していた。


 エリザベッタは、鉛筆を置いた。そして、ゆっくりとレオヴァルドに手を伸ばす。彼の指先が、彼女の指先にそっと触れた。その瞬間、二人の間に、静かで確かな電流が走った。


 言葉は、もう必要なかった。


 互いの瞳の中に映るのは、相手への特別な感情。それは、秘密の共有から生まれた絆であり、互いの人間性を認め合った信頼であり、そして何よりも、深く穏やかな愛情だった。


 二人の唇が、まるで磁石に吸い寄せられるかのように、ゆっくりと、しかし確実に近づいていく。



 ――カサカサ、と。


 屋根裏の片隅で、一匹の鼠が物音を立てた。


 その時、屋根裏で何が起こったのかは、屋根裏の鼠だけが知っている。


 そして二人の間に芽生えたものの行方は、まだ誰も知らない。




おわり?

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