ショートストーリー もつれ
「おはよう。少し寝坊気味よ」
リビングのソファに腰掛けた母さんが笑った。その顔が瞬間的に血塗れになる。頭部から流れる赤い粘液は母さんの目を染め、鼻梁を伝い、にっこりと微笑んだ口に流れ込んで白い歯に赤い糸を纏わせている。
「朝食はキッチンにあるからね」
「…………」
瞬きの間に、母さんの顔は元の白さを取り戻す。僕は返事を返すこともなく、キッチンへ向かった。
一脚しかな無い椅子。テーブルの上には、きつね色に焼かれたトーストと目玉焼きが真っ白なプレートの上で行儀よく並び、コーヒーはマグカップから湯気を立てている。トーストにはバターと蜂蜜が塗られていて、半熟の目玉焼きは見るからに僕の好きな焼き加減だ。コーヒーも、挽きたての豆で淹れたのが香りで判る。
だが、どれにも手を付ける気にならない。食欲なんて湧くはずが無かった。
もうこれで、何日目だろう。
頭をかち割ってやった筈の母さんが目の前に現れるのは。
あの日。
母さんがあのカフェに怒鳴り込んだ日。
泣きながら別れを切り出した彼女から、無理矢理聞き出したんだ。僕の母を名乗る女がバイト中の彼女を名指しで暴言を吐き散らして、警察沙汰になりかけたってことを。
彼女はいい娘だもの、バイトを馘になったりはしなかった。母さんの事だって、本当は僕に言うつもりはなかったみたいだった。けどさ、あんな頭のおかしな女の息子と付き合ってるんだ、って職場の皆には思われただろう。瞼が重く腫れた彼女の眼は白目が真っ赤に充血し、いつもきらきらと輝いていた瞳は黒なポスターカラーで塗り潰されたみたいにどんよりしてた。
本当に申し訳なくて、情けなかった。別れたくないって縋りたかった。でも、僕に許されるのは、僕なんかよりよっぽど傷ついた彼女に、母さんを二度と近寄らせないって約束することだけだった。
なのに、家に帰ったら母さんがあんまりにも普通に夕飯の支度なんかしてて、驚いた。肉を切り分けていた手を止め、「お帰り」って振り向いた笑顔が、本当に気持ち悪かった。
僕が詰め寄ると、
「親に恋人を紹介しない方がおかしいでしょ?」
だからお相手の女を調べて文句を言っただけよ、ってにこにこしながら、僕だって知らない彼女の個人情報をべらべらと喋り出す姿に……ぞっとした。
「志望校はここにしなさい」
「あの子は複雑な家庭環境の子なんだから、あまり仲良くしないで」
「部活? 駄目よ、帰りが遅くなるでしょ」
「アルバイト? とんでもない! ちゃんとお小遣いあげてるでしょ?」
これまでも、僕の行動の全てに口を出してきた母さん。それが母さんの愛情表現なんだと思って耐えてたけど、もう無理だ。このままだと、僕の人生はこの人に乗っ取られてしまう、いや、もう既に乗っ取られてるのかもしれない。
気付いたら、キッチンの椅子を掴んで、母さんを殴り倒していた。
何度も。
何度も。
砕けた椅子の破片が目元を掠めて、ようやく我に返ると、母さんは包丁を握りしめたまま血の海の中に横たわっていた。ぐちゃぐちゃになった顔に、はっきりと笑いを浮かべたまま。
僕はキッチンの床下収納から穴を掘って、そこに母さんと壊れた椅子を埋めた。罪を隠したかった気持ちは勿論あるけど、これ以上母さんの笑い顔を見るに堪えなかった。
身体に飛び散っている血しぶきや肉片、土をシャワーで洗い流し、ふらふらと自室に戻った僕は、ベッドに倒れ込んだ。正直、この辺りの事はもうよく覚えていない。きっと僕はおかしくなってしまったんだろう。何もかも忘れたくて、震え続ける自分の身体を抱える様に丸まり、そのまま眠りに落ちた。
翌朝、目が覚めて、昨日の出来事を思い出す。学校になんて行けるわけがない。これからどうしよう……途方に暮れながらキッチンに向かうと、
「おはよう」
何事も無かったように、コーヒーを淹れている母さんが振り返った……椅子も、きちんと二脚ある。昨日の事は、悪い夢だったのかと思った。
母さんの白い顔が、朱に染まった瞬間までは。
息を呑む僕に、顎先から血を滴らせた母さんが、
「コーヒーはもう少し待ってね」
あの、大嫌いな笑顔で言う。
目の端で、一脚しか無い椅子がテーブルから所在なさげにはみ出している。いや、よく見ればちゃんと椅子は二脚ある。母さんの顔も、血の跡なんてどこにも無い。
「はい、コーヒー。ご飯食べちゃいなさい」
「…………」
あれから毎日、母さんは朝食を作り、テレビを観たり時には居眠りなんかをして、時折頭から血を流しながら、何事もなかったように暮らし続けている。そして、僕の腹には時折包丁が刺さっている。多分、その瞬間はキッチンから包丁が消えているのだろう。現れては消える椅子と同じ様に。
あの日から僕の中には二つの違う記憶が存在している。僕と母さんに起きた、それぞれの出来事が。
口元を歪める母さん――怒鳴り散らす僕。
「母さんは、あんたは、××××だ」
僕の投げつけた言葉に表情を無くし、手にしていた包丁を僕の腹に無造作に差し込む母さん――椅子で母さんを殴り倒す僕。
血溜りで動かない僕を尻目に、床下収納を開ける母さん――地面に降りたつ僕。
シャベルを土に突き立てる母さん――黙々と穴を掘る僕。
きっと同じ表情で、互いを埋めた僕達。
もしかしたら僕達は、違う世界を同時に過ごしているのかもしれない。まるで、縺れあった量子のように。なら、床を掘ってみれば。埋まっているのが母さんか僕かを確かめれてみれば。どちらかの世界に、結果が収束するのかもしれない。
けど、どっちがましだろう。「殺したい程誰かを憎んだ僕」と「殺される程軽い存在だった僕」ならば。
今日も僕は確かめられずにいるのだ。