86 瓦礫の魔女
復活から一カ月が経ち、更に次の新月を待つのは無駄と判断した入間の魔法使いは、霧深い奥多摩の暗い夜道を蜘蛛の魔女に騎乗して進んでいた。
奥多摩に張られている迷いの霧の魔法は、迷いの霧魔法の本来の使い手である蜘蛛の魔女には効かない。
背に入間の魔法使いを乗せ、できるだけ揺らさないよう静々と歩く蜘蛛の魔女は、キチキチと顎を鳴らし控え目に提言した。
「ねぇ入間、急がなくて大丈夫なの? 都心の陽動もそう長くはもたないでしょ……? 早くこっちの決着をつけた方が良いんじゃないかな……」
「大丈夫だよ。これでいい。急ぎたいけど、君が急ぐと足取りの早さでフヨウが不審に思う可能性がある」
「そっか。じゃあペースを維持して少し歩幅を広くするぐらいにしておくね……」
「君は本当に気が利くね、蜘蛛の魔女。助かるよ」
入間の魔法使いが甲殻を撫でてやると、蜘蛛の魔女は嬉しそうにキィと鳴いた。
一カ月間の水面下の策謀により、入間の魔法使いは集められる限りの情報を集めた。
ゾンビの魔女が密かに東京各地の地下に送り込んでいたゾンビは昨年の長雨の影響で起きた崩落や水没に巻き込まれ半数以上使い物にならなくなっていたが、それでも相当の情報収集が叶った。
ゾンビだけで集めきれなかった情報の穴抜けは入間の魔法使い本人が補った。生前とは別人の顔になっている事を利用し、継ぎ接ぎを化粧で隠し、魔力を隠し無害な子供のフリをした入間の魔法使いは素知らぬ顔で昼日中の東京を闊歩し、六年間の変化をその目で見て確かめた。
潜伏や擬態は入間の魔法使いの得意技だ。例え魔法を使っていなくとも、魔力コントロールと演技力だけで目玉の魔女の目すら欺ける。
情報を集めれば集めるほど、奥多摩の幻の魔法杖職人0933の重要性は色濃く浮彫になった。そして青の魔女との深く面倒な繋がりも分かった。
0933は、露骨に青の魔女が持つ竜炉彫七層型青魔杖キュアノスを依怙贔屓していた。
キュアノスは常に最新型にアップグレードされ、専用カスタマイズが施され、これでもかと性能が盛られている。それは他の魔女のために製造された魔石杖と比べても隔絶していた。
意図的なパワーバランスの調整が窺えた。0933と青の魔女のどちらの意向なのかは不明だが、繰り返される技術革新の中、一貫して例え東京の全てを敵に回しても青の魔女が状況をひっくり返し得る力関係が保たれている。
ゆえに、裏で蠢き東京を末端から切り崩し、時間をかけて侵食していく手段は非効率的だった。青の魔女と0933以外の全てを掌握しても、圧倒的暴力によってひっくり返されかねない。
実際に前回のクーデターでは、身内が死ぬたびメソメソしていた精神的に脆い青の魔女が、追い詰められ豹変し冷酷な殺戮機械に羽化した。そのせいで入間の魔法使いの計画は食い千切られている。
一方で、0933と青の魔女の無法な組み合わせは、どちらか片方を押さえられれば脅威度が激減する。
青の魔女の方は傀儡にできないし、篭絡もできない。
荒瀧組強襲では青の魔女が溺愛する大日向教授を人質にとる事で牽制できていたというが、入間の魔法使いは人質の効果を疑わしいと考えている。
青の魔女は己の大切な者を世界より重く見る感情的な女だ。
しかし、キレると仲間も人質も巻き込み全てを破壊する。その豹変ぶりと、入間の魔法使いをして恐ろしいと思わされた冷酷無比さは「死ぬほど」分かっている。
本当に追い詰められた青の魔女は、人質を盾にしたところで、人質ごと入間の魔法使いを殺す。
実際にそうして殺された経験があるのだから間違いない。
ゆえにまずは0933を押さえる。
0933を押さえれば、キュアノスに匹敵するか凌駕する超高性能魔法杖を作らせる事ができる。そうすれば、青の魔女も殺せる。
青の魔女を殺せば、東京は入間の魔法使いのものだ。傀儡魔法が効かない青の魔女も、一度殺して脳死状態にしてやればゾンビ化魔法が効く。
六年の間に東京で育まれた多くの優れた人材、優れた技術、生産能力。そして0933と青の魔女のゾンビを揃えれば、他国の介入の前に日本が手に入る。
日本を手に入れれば、アメリカの勇者コンラッド・ウィリアムズと、グレン・グレイリング、聖女ルーシェとも戦える。
そうしてアメリカを下せば、日本とアメリカに次ぐ生存圏インドも落ちる。
あとは世界制覇まで一直線だ。
当然、全てが上手く行くはずもない。
先ばかり見ていると足元をすくわれる。
だからまずは0933の確保に入間の魔法使いは全力を投じた。
入間の魔法使いは、ゾンビの魔女に新月の夜に乗じた武装蜂起を指示した。
ゾンビの魔女は今回も勝った方につく日和見コウモリムーブをしたがったが、流石に二度はどの陣営にも許されない。第一、ゾンビの魔女は既に一度勝ち馬につく行動をとったせいで怪しまれている。旗幟を鮮明にする時が来たのだ。
現在、ゾンビの魔女は400万体のゾンビを東京全域に広げ、人間の要人の捕縛、ダイナマイト製造所の確保、魔道具の強奪、大学制圧などに動かしている。
夜闇に乗じた侵略であるが、400万体のゾンビは所詮知性の無い動く死体だ。膂力は普通で頭は鈍い。特別な力があるわけでもない。遠からず魔女たちと魔術師たちによって殲滅されるだろう。
しかし数が数である。ゾンビ騒動はどんなに短く見積もっても一晩は確実に続く。
陽動だと分かったところで無視できるような戦力でもない。対応が甘ければ、そのままゾンビの数の暴力で東京を制圧するまでの話だ。
今回の保険としては世田谷の魔女を起用した。
思春期特有の万能感をそのままに魔女になり、自らの努力ではなくただ運によって力を得たにも関わらず己を選ばれし者と信じて疑わない愚かな女は、唆しやすかった。
世田谷の魔女は愚かなだけありセカンドプランとしては相応に弱い。
世界征服の正当性と、入間の魔法使いにこそ従うべきだという思想を傀儡魔法ではなく言葉でもって信じ込ませる事には成功したが、世田谷の魔女はゾンビの魔女ほど我慢強くない。いささか軽率で、強きにおもねる性質もある。
入間の魔法使いが敗北した場合の保険として働いてくれるかは怪しいものだ。それでも保険をかけないよりはずっと良い。
奥多摩に張られた迷いの霧への対策として、入間の魔法使いはまず蜘蛛の魔女を操った。
入間の魔法使いの傀儡魔法にかけられた者は、人間には識別不能だが、魔力コントロールができる者にとっては心臓付近に絡みつく魔法の印によって何かしらの魔法の影響下にある事が一目瞭然である。傀儡魔法にかけた者を使って超越者を欺く事はできない。
0933確保のために、完全な不意打ちにより怪しまれず傀儡にする事ができる貴重な一人目の操り人形として蜘蛛の魔女を選んだ入間の魔法使いの判断は、想定以上の利益をもたらした。
蜘蛛の魔女は、0933の正体を知っている上に懇意にしていたのだ。
蜘蛛の魔女は頻繁に0933に会っているわけではないが、0933の本名や正体のみならず、奥多摩の防衛体制の詳細や、公式未発表の0933新技術「無詠唱機構」について知っていた。
0933――――大利賢師と、その守護者であり花の魔女の娘でもあるフヨウに好かれているのも大きい。突然訪ねても全く怪しまれないだけの関係値がある。
入間の魔法使いは堂々と蜘蛛の魔女の背に乗り、奥多摩の某所にある大利宅の前までやってきた。大利宅の灯りは落ち、寝静まっている。静かなものだ。
フヨウは奥多摩一帯に張り巡らせた根によって地面の振動を感知し、侵入者を見つけ殺す。殺せないなら、青の魔女に通報を行う。通報があれば帰還魔法で即座に青の魔女が駆けつける。合理的な防犯体制だ。
入間の魔法使いが必然として蜘蛛の魔女を傀儡にし、蜘蛛の魔女が偶然にも大利と懇意にしていなければ、迷いの霧とフヨウの警戒を怪しまれず突破するのは相当手こずらされただろう。
「フヨウから落とすのが良いと思う。青の魔女直通の目玉の使い魔を持ってるし……大利も持ってるけど、危機感無いから露骨に危ない事しない限り使わない……」
「うん。フヨウから行こうか。案内をお願いできるかい?」
「任せて。裏山に根を張ってる……」
自分で適切に考え動き、提言し、確認もとってくれる優秀な乗り物は八本足で急勾配を登って行った。
時刻は草木も眠る丑三つ時。フヨウも眠っていれば話は簡単だったのだが、残念ながら起きていた。
フヨウは自分を訪ねてきた蜘蛛の魔女を、蔦を振って機嫌よく迎えた。
「こんばんは、蜘蛛さん! ゾンビ蜂起の話は聞いてるよ。今のところ奥多摩にゾンビは……待って。背中に乗ってる男の子誰? それにお腹のところに何か……変な魔力の印みたいなのが?」
幼くも賢い子供だとは聞かされていたが、フヨウは親しい相手だろうとすぐさま不審に気付き疑う知性を持っていた。力が強いだけの馬鹿より遥かに面倒だ。
入間の魔法使いは疑惑を深められる前にすぐさま魔法を唱えた。
「慈悲深いだろう? 命尽きれば――――」
「!? 凍る投げ槍ッ!」
花の魔女から傀儡魔法の呪文を聞かされていたのだろう。
フヨウが驚いたのは一瞬で、太い根を入間の魔法使いに伸ばしつつ、素晴らしい判断速度で充分な練度の速射魔法を撃ってきた。
が、本家本元の青の魔女の凍槍魔法と比べると生温い。蜘蛛の魔女は伸ばされた根を脚で弾いた代わりに凍槍魔法をすり抜けさせてしまったが、入間の魔法使いは容易く回避し呪文を完成させた。
「――――解放されるのだから」
不可視の魔力が放たれ、フヨウの心臓に絡みつき締め付ける。
フヨウの魔力コントロールでは一瞬の抵抗すらできず、心臓に禍々しい魔法の印が浮かび上がった。
花の魔女の娘から、敵意と焦燥が綺麗さっぱり抜け落ちる。
臨戦態勢に入ろうとしていた蔦と根っこを引っ込めたフヨウは、おずおずと入間の魔法使いを気遣った。
「ごめんね。大丈夫? 苦しくない?」
「何がかな?」
「さっき魔法唱えながら人体に有害な毒を撒いたの。今はもう散布止めたけど、喉痛くない?」
「……なるほど。無味無臭の毒ガスで詠唱妨害か。僕が生きていたら効いただろうね」
入間の魔法使いは感心した。つくづく優秀な種族だった。魔法無しでの性能が非常に高い。自らの能力を上手く使うだけの知性もある。
何かしらの弱点もあってそれがまだ発覚していないだけなのか、花の魔女が上手く隠しているのか。
「母親の教育かな? それとも種族として知能が高いのかな。君たち花の一族には是非とも増殖して欲しいね」
「えへ♡」
「もし青の魔女が来たら、最初は会話で、会話が無理なら戦って、足止めをしなさい」
「分かった!」
「良い子だ。火蜥蜴はどこにいる?」
反射炉を根城にしている火蜥蜴のツバキは灰に潜り込んで眠っていた。
が、傀儡魔法をかけると覚えのある空振りの感触がして、無効化される。邪悪な魔法をかけられた事により飛び起きたツバキは侵入者へ文字通り火を吹いた。
「ミーッ! オーリ、オーリ! ミミミ!」
「ふむ。蜘蛛の魔女、拘束を」
「ん……」
火炎放射をしながら必死に助けを呼ぶ声は虚しく蜘蛛糸に封じられ、糸に巻かれ雁字搦めにされた火蜥蜴は芋虫のように地を転がる。
「面白い魔物だね。魔女の子かな? 三匹とも同じ性質なら、後で一、二匹解剖してみようか」
「ここで殺しておかなくていいの? 糸で巻いたけど、傀儡にできないならもし脱出されたら面倒かも……」
「どうやら幼体のようだからね。もう少し脅威度が高ければ殺したさ。でもこれぐらいの力なら持ち帰るメリットの方が大きい」
もしも青の魔女の子なのだとしたら、解剖して内部構造を分析する事で青の魔女に傀儡魔法をかけられるようになるかも知れない。貴重なサンプルだ。ただ殺すのはもったいない。
続いて仲間の声が聞こえたのかやってきたセキタンをフヨウに捕獲させ、工房のモクタンも蜘蛛の魔女が外の小窓から吐きつけた蜘蛛糸で拘束する。
護衛を全員無力化した入間の魔法使いは早足に大利宅へ足を踏み入れた。
ここまで非常に上手く行ったが、青の魔女が陽動に感づいて帰還魔法を唱えるだけで危険性が跳ね上がる。大利賢師に傀儡魔法をかけ、奥多摩からの撤収を完了するまで全く油断ならない。
暗い廊下を渡り寝室を覗くと、大利賢師は全く呑気に眠っていた。ベッド脇のサイドテーブルにはゾンビ物の漫画が置かれている。
どうやらゾンビ蜂起を聞いて一度起きたが、また眠ったようだ。
「慈悲深いだろう? 命尽きれば解放されるのだから」
入間の魔法使いが傀儡魔法を唱えると、世界指折りの要人はアッサリと魔法にかかった。肩を軽く揺すってやると、眠そうに起き上がる。
不思議そうに目を細めて暗闇を見通そうとする大利に、入間の魔法使いは暗視魔法をかけてやった。
「あ、なんか見えるように……ヒッ!」
「僕は入間の魔法使い。君の親友だ。安心していいよ」
「なんだ親友か。安心した」
傀儡魔法で好意が刷り込まれたはずなのに怯え震えた大利だったが、親友認定を指示すると大人しくなった。
「よし。大利、君は今から僕と一緒に奥多摩を離れ、セーフティーハウスに向かう。君は移動先で最高品質の魔法杖を作るんだけど、必要な物は?」
「え。そうだな、工具一式と、部品取り出し用に魔王グレムリンと。魔石コアにするならオクタメテオライトもかな? あと火蜥蜴連れて行きたい。それからヒヨリに出かけるって連絡して、」
「青の魔女は君の敵だよ」
「なんだ敵か。じゃあ連絡しない」
大利賢師は人類の進化先とでも呼ぶべき身体機能を持っているが、魔法的な特異体質は皆無だった。これほど操りやすく、使い道の多い人材は他にない。
彼の能力は遺伝による体質的なものらしいので、子供を量産させれば能力が遺伝した個体が複数得られるだろう。そこまでいけば大利賢師は唯一無二の人材では無くなるから、解剖して器用さの秘密の解析に回せる。
二十年ほど順調に進めば、大利賢師と同等の魔法杖職人の量産体制に入れるだろう。
無事大利賢師を確保した入間の魔法使いは、最速で事が進んだため偽装工作の猶予があると判断した。
痕跡を残さず大利が消えた場合、傀儡魔法による誘拐だと気付かれる可能性がある。
戦闘が発生し無理やり誘拐されたのだと思わせるため、入間は魔法をいくつか使い大利宅の一部を破壊した。
マモノバサミは適当な場所に配置し、発動させ魔力を空にする。
治癒スクロールもツバキの腹を割いて血をつけた後使用し、あたかも大利を守ろうとしたツバキのために使用されたかのように偽装した。
あとは去り際に火蜥蜴を一匹潰して撒けばそれらしくなる。
フヨウも、引き抜いて持っていけないなら伐採する。もったいないが、激しい戦闘の説得力は増すだろう。
花の魔女の子は、後々母を確保すればいくらでも再生産できる。問題ない。
仮想誘拐犯がどのように奥多摩を襲撃し、大利賢師を誘拐してのけたかシミュレートし、シミュレートに基づいて現場を荒らした入間の魔法使いは、仕上げにばら撒くモクタンを受け取るために工房に顔を出した。
工具鞄に道具を詰め込み、グレムリン部品を入れた小箱を棚から出していた大利が振り返る。
そして。
蜘蛛の魔女によって拘束され転がされているはずのモクタンの姿を探し工房を見回した入間の魔法使いは、壁にかけられ祀られていたオクタメテオライトと目が合った。
突然、凄まじい感情の津波が入間の魔法使いを襲った。
これまでの人生で感じた事がないほどの、尽きせぬ敵意。
底無しの侮蔑。
腸が煮えくり返るが如き憎悪。
拭い去れぬ警戒。
無から湧き出したその感情は、脳を占拠するその感覚は、魔法使いに変異する時の脳に呪文が刻まれる不快感を思い出させた。
「が、あ……!」
入間の魔法使いは己のものではない激情を振り払おうと呻く。
感情が叫ぶ。
不倶戴天の敵を潰せと吠え猛る。
しかし入間の魔法使いは理性で感情を抑えつけようとした。
魔石は貴重な戦略資源だ。感情に流され破壊するなんてどうかしている。
これは興味深い現象だ。壊してはいけない。感情を制御し、未知の反応を見せたあの魔石を回収するのだ……
理性と感情のせめぎ合いで苦しむ入間の魔法使いを前にしたオクタメテオライトは、ひとりでに湧き上がらせた魔力を作業机に置かれていた魔王グレムリンへ伸ばした。
魔王グレムリンに芸術的なまでの精密さで複雑に魔力が注がれる。
内部回路が超高速で走る。
分解された欠失部から紫電を散らしながら、オクタメテオライトによる魔力入力を受けた魔王グレムリンは未知の魔法を入間の魔法使いに放った。
美しい黄金の光の波動が球状に膨らみ、入間の魔法使いの身体を通り抜ける。
入間の魔法使いの全身から力が抜け、痺れたように感覚が鈍る。
光の波が通り抜けた工房の杖の一部とスクロールから煙が上がり、全ての魔法文字がグズグズに溶け黒ずんだ。
大利の悲しげな悲鳴が上がったが、相手にしている余裕はない。
壊したくはないが、オクタメテオライトは入間の魔法使いに剥き出しの敵意を向けた。
脅威度判定を跳ね上げる。とても確保できるような代物ではない。
残念だが破壊するしかない。
「撃ち砕け!」
近づくと何が起きるか分からない。入間の魔法使いはオクタメテオライト破壊のために呪文を唱えたが、驚くべき事に魔力が動かなかった。
全身の脱力、魔法文字の崩壊、呪文の不発により、入間の魔法使いは己の詠唱魔法が封じられた事を悟る。
オクタメテオライトは再び魔力を魔王グレムリンに伸ばし、魔力を複雑に入力し何かをし始める。
入間の魔法使いは幻聴を聞いた。
それは魔法語で、意味は分からなかったが、憤怒と意図は理解できた。
誰かが「お前を決して許さない」と叫んでいる。
「入間? 何が起きてるの? 緊急事態? 壁壊すよ……!」
外で待機していた蜘蛛の魔女が小窓から室内を覗き込み焦る。工房の壁を破壊し突入しようとする。
しかし、分厚い鉄板で補強された壁は簡単には壊れない。
続けて球状に膨らんだ幻想的な銀の光の波動が入間の魔法使いを巻き込み広がる。
重い物が倒れる音がして、壁を破壊しようとしていた蜘蛛の魔女は静かになった。
工房の床に転がっていた火蜥蜴が泡を吹いてひっくり返り、入間の魔法使いも激しい立ち眩みに襲われ倒れそうになる。
咄嗟に魔力コントロールで抵抗しなければ、入間の魔法使いも失神していただろう。
冷静に状況に対処しようとするが、手足が痙攣する。
今すぐにオクタメテオライトを破壊しなければならない。
三度目の無詠唱魔法は破滅的なものになるだろう。
脳が無いはずなのに、頭痛がする。
内臓が動いていないはずなのに、吐き気がする。
フラつく入間の魔法使いは、作業机に置かれていたハンマーを掴み、憎悪の叫びを上げながらオクタメテオライトを殴りつけた。
「消えろ、瓦礫の魔女!」
ハンマーに打たれたオクタメテオライトは、いとも簡単に砕け散った。
魔力を迸らせていたオクタメテオライトは全てが幻だったかのように鎮まり、沈黙する。
入間の魔法使いはまるで長年戦い続けてきた仇敵を始末したかのような、爽やかな充足感に満ち足りた。
その満足感も瞬く間に引き波のように過ぎ去り、入間の魔法使いの精神にはいつもの平静が戻る。
しかし、全てが戻ったわけではない。
詠唱しても魔法は発動しなかった。
脱力と痙攣も続いている。
目を丸くし腰を抜かしている大利に荷造りを続けるよう指示しながら、入間の魔法使いはずるずると壁に背をもたせかけ床に座り込み、呟いた。
「まずいな」
魔力コントロールはまだできる。しかし、詠唱魔法が使えない。危険な状況だった。
特に帰還魔法が封じられたのが致命的だ。最悪の事態が起きた場合の緊急脱出ができない。
入間の魔法使いが考えていた計画のアソビ、不測の事態に対処するための余裕を全て削り取る想定外だった。
不幸中の幸いなのは、オクタメテオライトがゾンビ化した入間の魔法使いにとっての絶対死攻撃になる魔法解除魔法を使わなかった事。
そして明らかに魔王グレムリンが欠失によって魔法を万全に発動できていなかった事だ。
魔王グレムリンが完全だったなら、二度目の魔法で入間の魔法使いは確実に意識を奪われていただろう。
詠唱封印は極めて重い。
しかし打ち込まれた楔の重さを上回る収穫もあった。
先進魔法文明の卓越した魔法のお手本を、二度も見る事ができた。
オクタメテオライトが魔王グレムリンを通して二度行使した無詠唱魔法は、混乱の最中にあってもなお入間の魔法使いに強く焼き付いている。
現行人類の魔法技術の遥か先を行く、極めて高度な魔法だ。
入間の魔法使いは笑った。
不測の事態によって酷く弱らされたが、同時にそのお陰で弱体化を補って余りある先進技能を見覚える事ができた。
大利の助けを借り、魔王グレムリンの使い方を逆算理解できれば、二種類の魔法による不調を解除し歩けるだけの力を取り戻し、最大を上回る最高の収穫をもって奥多摩を脱出できる。
問題は青の魔女が帰還するであろう明け方までに魔法の逆算が間に合うかどうか、だ。
入間の魔法使いは荷造りを終えた大利を呼びつけ、早速知恵と手を借り、魔王グレムリンと砕け散ったオクタメテオライトの解析に取り掛かった。
完全解析は不可能、しかし力を取り戻すために必要な一部だけなら、可能性は十分ある。
長い夜になりそうだった。





