80 夢のセカンドライフ
朝、自宅で目覚めた未来視の魔法使いは、サボテンに霧吹きで水をやってから洗面所で歯磨きをした。以前忙し過ぎて世話を忘れ観葉植物を枯らしてしまってから、手のかからないサボテンしか置いていない。
歯磨きをしたらパジャマのまま眼鏡をかけ、タッパーに入れていた食事を耐熱皿に移し火魔法で温める。そして加熱している間、園芸書を黙々と読む。
未来視の魔法使いは、最近残念ながら老眼鏡が手放せなくなっていた。
グレムリン災害当時、三十代後半に差し掛かったばかりだった未来視の魔法使いは四十代になっている。
数え上げるのも億劫な大事件、難事件の数々に血反吐を吐きながら対処し駆けずり回り、無理に無理を重ねて過労死一直線の過剰労働を続けてきた結果、四十代の未来視の魔法使いは六十代にしか見えないほど老け込んでいた。
味覚は鈍り、腰は痛む。肩こりも激しい。最近は警備隊が装備と魔力の充実で力をつけてきてくれているのもあり、前線に出る機会はめっきり減った。
特に先月甲3類を討伐する際に腰をやってからは、秘書に涙ながらに説き伏せられ、余程の事がない限り戦わない事を誓わされてしまった。ここ一カ月は警備隊の魔法スクロールやマモノバサミに魔力を充填するだけで、戦いに出ていない。
トイレが近くなったのも悩みの一つで、嫌でも老いを実感させられる。
会社員時代の同期はまだまだ働き盛りで、息子や娘の進学や就職について悩んでいると聞く。しかし、未来視の魔法使いは過労と心労で老いが早い。もう高齢者に見られてもおかしくない有様だった。
朝食を終えた未来視の魔法使いはスーツに着替え、鞄と魔法杖を持ち出勤する。
職場である文京区役所は自宅から徒歩1分。通り道にある公園の木々の落葉に秋を感じる。公園を散歩する老人たちに拝むように頭を下げられ、未来視の魔法使いは軽く会釈を返した。
現金なもので、それだけで少し気分が良くなる。敬われるのは心地よい。
街の人々から「未来視様」「お大臣様」「救世主様」とヨイショされるとついつい気持ちよくなってしまい、激務をしていて良かった~、と思うのだ。
未来視の魔法使いは老若男女から大人気で、老人には拝まれるし、若い女性にはモテるし、小学生は「みえるみえる、未来がみえる! ぜんぶお見通しだぞ!」と未来視ゴッコをする。これにはブラック労働超越者もニッコリだ。身を粉にして働いているのだから、それぐらいの賞賛を浴びないとやっていられない。贔屓のうどん屋の気難しいオヤジさんも、未来視が注文すると黙って旬の美味しい天ぷらを二つもサービスしてくれる。役得だ。
未来視が文京区役所入口の衛兵に軽く頷いて中に入ると、職員たちは一斉に「おはようございます」と唱和して挨拶をしてくれる。鷹揚に応えて挨拶を返すと、早速秘書が書類を持ってきた。
鞄を預かる秘書の顔色を見て、ほんのり気分の良かった未来視の魔法使いは真顔になる。
問題の無い日の方が珍しいとはいえ、朝っぱらから問題があるとテンションは下がる。
「おはようございます、未来視様。裏に竜の魔女様がいらっしゃっています」
「ああ……そうだったな。あの女、国際問題起こしやがって……」
「御心痛、お察しします。私が話をつけましょうか?」
「いや、和泉くんではナメられる。俺が出よう」
秘書を連れて役所の裏手に行くと、そこには赤い鱗の巨大なドラゴンがいた。
そしてそのドラゴンの背中で、三歳ほどの虹色の髪の幼女が楽しそうにジャンプしている。極彩色の長い髪は日の光を受けて宝石のように輝き、服の胸元から見える大きなグレムリンはオパールのように複雑な煌めきを発していた。
いかにも竜の魔女が好みそうなキラキラピカピカの見た目である。
「Drago, zoooom! Vroom, vroom!!」
幼女は竜の背中でぴょんぴょん飛び、どうやら竜の魔女に遊覧飛行を催促しているようだった。
アメリカから誘拐されてきた子供のはずだが、全く怯えた様子がなく、むしろワクワクが爆発しそうだ。なかなか図太い。
「あ、未来視来たの。こいつ、ジェミーって名前なの。昨日ウチの美髪担当官に任命したの。移住手続き任せたの」
「ふざけるな」
未来視の魔法使いは頭痛を覚え、額を指で揉んだ。
砲台鳳仙花の種をアメリカの鉱山に輸送していた竜の魔女は、帰るついでにアメリカの子供を誘拐してきた。
どうやら親が超越者らしく、グレムリン持ちの子供だ。舌足らずなせいで魔法は唱えられない。しかし、魔力が多いし、コントロールもできているようだ。
魔王素材をくすねようとして青の魔女にボコボコにされたばかりなので、当分は大人しいだろうと油断していた。まさか国境を超えた拉致問題を引き起こすとはやってくれる。
竜の魔女の副官の財前からの秘密裏の通報が無ければ、相当発覚が遅れていただろう。
「この馬鹿トカゲ。国際問題だぞ。返してこい!」
「嫌なの、私は助けてやっただけなの。こいつ親に虐待されてたの。これは善意の保護なの!」
「嘘つけ」
「Drago~!」
「はいはい、遊んでやるから黙ってるの。いま大人のお話してるの」
ジェミーは竜の魔女の尻尾で空中に放り投げられると大歓声を上げてはしゃぎ、30mは投げ上げられていそうな高い高いを何度もねだった。
それを見ていた未来視は竜の魔女を疑いつつも、少し考えた。
誘拐されてきたという話だし、それは間違いなさそうだが、攫われたはずの幼女に恐怖が無さ過ぎる。親から引き離されるだけで大泣きする年頃のはずだが。
一抹の疑問を覚えた未来視の魔法使いは、幼女ジェミーの未来を視た。
もし、万が一、本当に虐待されていた子供なのだとしたら、竜の魔女にこのまま返させるのは問題がある。無論虐待されたからといって誘拐するのにも問題があるのだが。
三回未来視魔法を唱えてジェミーの未来を確かめた未来視の魔法使いは判断に困り、口元に手を当て唸った。
ジェミーをこのまま親元に返した場合、父親の魔法使いによる厳しい教育が再開する。やっている事は勉強と運動なのだが、ジェミーはずっと半べそで、嫌がって逃げ出そうとしては連れ戻され、折檻を受けている。
三歳と言えば遊びたい盛りだ。詰め込み教育は逆効果というのが常識。
視た限りでは、虐待といえば虐待だし、厳格な英才教育といえばそうにも思える……という微妙なラインだった。躾は厳しいが、ちゃんと眠れるようだし、食べれてもいる。むしろ食事は大変良い物に視えた。
幼女が泣いていると、親が酷い事をしているように見えてしまう。しかし「物を盗ってはいけない」とか「友達を叩いてはいけない」といった必須教育のために厳しく叱っても、子供は泣く。子供が泣いているから親が悪いとは限らない。
「これは……うーむ……」
「未来視たの? じゃ、私の言う事正しいって分かったの。こいつは私の巣に住むのが大正解なの」
「Wooooooo! Yeahhhhhhhhhhhhhhh!」
「確かにお前と一緒の方が楽しそうではあるな。だがお前はジェミーちゃんの事を考えているわけではないだろう。その子が欲しいだけだ。
いいか? まずアメリカに返しにいけ。で、ジェミーちゃんが虐待に近いかなりハードな教育を強制させられているという話を然るべき部署に言え。ああそうだ、大統領でもいいな。お前大統領と知り合いだろう? 魔法使いの、つまり要人の娘の問題なんだから、大統領も耳を傾けるだろう。その子が可哀そうで見ていられなかったという建前を前面に押し出してだな……」
「ヤなの。お前も言ってやるの、ジェミー。お前は私のとこにいたいの。ドラゴンがラブなの」
「Yeah! Love Drago~!」
虹色の髪の幼女はドラゴンの首にしがみついて頬ずりをし、嬉しそうに言う。
未来視は「いいからまず返せ」「その子を助けるならちゃんと手続きを踏め」「俺に尻ぬぐいをさせるな」という数々の言葉をグッと飲み込んだ。大人の都合で幼い子供を翻弄するのは道義にもとる。
未来視は再び三度未来を視て、戦争や国際関係悪化の引き金にならない事だけを確認してから、竜の魔女を帰らせた。
突風と共に飛び立ち、楽しそうな幼女の笑い声と共に遠ざかるドラゴンを見送ってから、未来視の魔法使いは秘書から目薬を受け取り目にさした。
以前は脳へのダメージばかりが気になっていた未来視魔法だが、老眼のケが出てきた頃から精度が微妙に落ちはじめ、目が疲れるようになってきた。
治癒魔法でいっとき疲労を癒したところで、今までに積もり積もってきた過労による体のガタまでは治らない。治癒魔法は若返りの魔法ではないのだ。
「ふーっ……和泉くん、午前の予定を変更する。港区の駐日アメリカ大使に会いに行く。直接会って、事情を話して、虐待されていた子供を保護したと説明しよう。理由はどうあれ結果だけ見れば間違ってもいない。その線で押せば……」
「未来視様、前時代の話になりますが、アメリカには児童虐待防止法があります。児童虐待が疑われる家に警察の部隊が突入し、親を取り押さえ、子供を保護した事例もあります。法や価値観が変わっていないのなら、拉致の罪を虐待児童保護の功である程度は相殺できるかと。アメリカの現行法は分かりませんが……」
「いや良い情報だ。そうだな、そういう前例があるなら……待てよ、青の魔女に頼んで駐日大使に説明をしてもらった方がいいか? 青からコンラッドに繋げて、コンラッドから大統領に話を通すのが一番印象がいい? いや青の魔女はそういう政治的駆け引きが嫌いだ。むしろ逆効果か?」
それから未来視の魔法使いは秘書と相談し、結局午前中いっぱいを使い駐日大使を訪ね、事情を説明し頭を下げた。
幸い、駐日大使はジェミーへの同情と日本側の判断への理解を示してくれ、事態を重く見て帰還魔法使いの外交官を本土へ飛ばしてくれた。要人の家族の無事と家庭問題について、すぐに大統領に知らされるだろう。
念のため一カ月先まで視たが、ジェミーの身柄についての問題は穏やかに対話が進むようだ。
後の仕事を港区の外交担当者に引き継ぎ、禿げ上がりそうな心労に晒された未来視の魔法使いは、へとへとになって区役所に戻った。
昼食を食べに出かける気力も無く、執務室の椅子にドッカリ身を預けぼんやり天井を見上げていると、秘書がお茶と温かい軽食を持ってきてくれる。
「ああ……ありがとう。和泉くんも休憩をとってくれ」
「はい。私もお昼をここでご一緒してよろしいですか?」
未来視の魔法使いが頷くと、秘書はにっこり笑い、可愛らしい弁当箱を広げ隣で食べ始めた。
未来視の魔法使いも、秘書の手作りらしい昼食に箸をつける。野菜に魚に米にと、バランスが取れ食べやすく味付けも好みな完璧なランチだ。
ぼんやりと二人で静かに食事をしていた未来視の魔法使いは、ふと箸を持つ手の皺に気付いた。今まで気にした事も無かったが、肌はすっかりハリを失い、老境に差し掛かった事を示す皺ができはじめていた。
自らの身体に積み重ねられた「老い」の事実が、前々から頭の片隅にあった考えをムクムクと肥大化させていく。
荒瀧組は片付いた。
魔王も片付いた。
都民の技術、文化、戦力レベルは毎月上がっている。この一カ月などは未来視の魔法使いが一度も前線に出ないまま治安が守られている。
外交官の育成も進んでいる。
未来視の魔法使いの夢は早期退職からの田舎スローライフだ。
しかしグレムリン災害で夢は砕け散り、がむしゃらに働いてきた。
働いた甲斐あり、日々の問題は起これど東京は概ね平和だ。未来に暗い影も視えない。少なくとも、今まであった大事件クラスのものは。
未来視の魔法使いは思った。
もう、いいのではないか?
自分は十分やったのではないか?
いつまでこんな過剰労働を続ける? 続けられる?
いい加減に自分の事を考えても許されるのではないか?
もう十分過ぎるほど働いたはずだ。
このまま老いが進んで、畑仕事もままならなくなり、釣りの仕方を忘れ、植え付けの時期が分からなくなった後に引退してスローライフを始めても遅いのだ。
まだ体が元気なうちに悠々自適のセカンドライフを始めたい。
昔は都会でバリバリ働いていた、今はのんびり晴耕雨読の暮らしをしている、田舎の元気なお爺ちゃんになりたい。
いったん考えが膨らむと、それは抗いがたい魅力をもって未来視の魔法使いの思考を一杯にした。
刹那的な欲求ではない。会社員時代からずーっと計画し、夢に見てきたものだ。
未来視の魔法使いは目を閉じ、もう一度よくよく考えた。
本当に大丈夫だろうか?
自分がいなくなって田舎に引っ込んでも、東京は大丈夫か?
……答えは「大丈夫ではない」だ。
恐らく、今までずっと自分が事前に処理してきた様々な問題が現れるだろう。未知の問題への対処も遅れるだろう。
だがしかし。東京は大きくなった。数々の苦難を乗り越え強くなった。
日本が大丈夫だった事など、建国以来ただの一度も無い。常に問題だらけだ。それでも「大丈夫ではない」を抱え込みながらずっと国体を保ってきた。
日本に限らずどこの国もそういうものだ。
自分が消えれば、東京に問題は増える。
しかし、絶対に無くならない問題に永遠に対処し続け、夢に手が届かないまま老いさらばえて死ぬ未来は御免被りたい。
人々の賞賛の声は心地いい。しかし死ぬまで民衆に奉仕を続けるのも違う。
大きな問題が片付き、平和が訪れた今こそがきっと潮時なのだ。
未来視の魔法使いは決意を固め、目を開け、秘書に言った。
「和泉くん」
「はい、未来視様」
「君は反対するかも知れないが……」
「?」
「……俺は仕事を引退しようと思う。つまり、田舎に引っ込もうと思う」
「未来視様、それは」
「いや! もちろん今すぐという話ではない。仕事の引継ぎはきっちり終わらせる。そうだな、年が明けて来年、新年度に合わせて四月にしようか。来年の四月に、俺は退職して田舎に引っ込む」
果たして信頼する秘書からどんな言葉が返ってくるか、と未来視の魔法使いが身構えていると、秘書は恐る恐る聞いてきた。
「……あの、未来視様」
「ああ」
「私も御一緒してよろしいでしょうか?」
「……んん?」
「未来視様が田舎に引っ越されるなら、私もお供させて頂きたいのです。どこまでも、いつまでも、未来視様をお支えしたいんです」
秘書は頬をほんのり赤く染めて言った。
未来視の魔法使いは頬を掻いた。
秘書は未来視の魔法使いの15歳も年下だ。田舎に引っ込んでセカンドライフを始めるには早すぎる。
しかし、そういう話ではない事ぐらい、分かっている。
秘書としてそばに置いたその日から、彼女の想いは常に明白だった。
今までは「一番大切にしてやれないから」と断ってきた。東京と一人の女性を天秤にかけた時、東京を取るべき責務があったからだ。
しかし、仕事を辞めるのなら話は変わる。彼女はきっと、歳の差を物ともしない。
未来視は微笑み、秘書の手を取り、その手の甲に口づけを落として言った。
「和泉くん。二人で住める田舎の家を見繕ってくれるか」
「!!! はいっ、未来視様! ずっとずっと、こんな日が来るのを待ち望んでいました!」
「ああ。一人より二人で暮らす方がずっと良い」
「実は引退先はもう考えてあるんです。前々から目をつけている場所があってですね、実は、青の魔女様が毎年の避暑地として奥多摩を確保しているんですよ。迷いの霧が張ってありますし、きっと都会の喧騒から離れてゆっくり暮らせます」
「奥多摩か。悪くないな」
「ですよねっ! まだ青の魔女様に話は持っていっていませんが、未来視様の隠居先ですから。きっと彼女も頷いてくれるはずです」
それから、二人は時間を忘れ、昼休みが終わっても、日がくれるまで二人の将来について語り合った。
田舎で二人で過ごす第二の人生は、きっと素晴らしいものになるに違いない。





