73 My dear, Witch of Blue
コンラッド・ウィリアムズはアメリカの貧しい家庭に生まれた。
ウィリアムズ家は生活こそ貧しかったが、心豊かな家庭だった。
母はささやかな家庭菜園で採れた野菜と果物を洒落たスムージーに変え、ご近所の奥様方に配った。
父は旅行へ行く隣家の夫婦のペットの世話を快く引き受け、夫婦が旅先から帰る頃には本物の飼い主より懐かれていた。
コンラッドは地元の札付きのワルに幼馴染を助けるため何度も果敢に挑み、理解を示し歩み寄って仲良くなり、麻薬の密売をやめさせボクシングの道へ転向させた。
コンラッドは両親に恥じない息子であろうと心がけたし、両親もコンラッドの自慢の親であろうと心がけていた。それは負担ではなく、一家の誇りだった。
成長したコンラッドはアメリカ陸軍に入隊した。幼馴染には自分の親の店で働くのはどうかと誘われたが、コンラッドは丁寧に固辞した。
コンラッドの祖父は戦争経験者で、従軍先で祖母に出会ったという。勲章をもらうほどの活躍をし、心優しい妻まで得た祖父の武勇伝を聞くのが、コンラッドは大好きだった。
陸軍に入隊してから約二年後、グレムリン災害が発生した。
コンラッドは変異者として覚醒し、若年ながら軍属であり、素行が極めて良い事が評価され、大統領の護衛に大抜擢される。
同じく護衛として配属された元CIA研修生グレン・グレイリングとはすぐに固い友情が結ばれた。
コンラッドはグレンと共に動乱の時代を懸命に駆けた。
新旧の大統領についてアメリカ全土を転戦し、華々しい戦果を数えきれないほど挙げたが、不思議と戦いの記憶はあまり印象に残っていない。
それよりも給水車から水をもらい家まで運ぶのに難儀していた老婆を助けた事や、小さな男の子が壊してしまったオモチャを修理し、泣き止んだ時に見せてくれた笑顔の方をよく覚えていた。
グレンが何年も前に喧嘩別れしたきりだった兄との仲を取り持ち、その縁でグレンの兄の結婚式に列席させてもらったのは、人生で指折りの素晴らしい思い出だ。
しかし新大統領によって力強く団結し、人の営みを紡ぎあげ強靭に織り上げ復興への道を進んでいたアメリカ合衆国にも暗い影が落ちる。
魔王の出現である。
魔王によってアメリカ軍は滅多打ちにされた。
地獄の魔女の来訪をきっかけに一時は盛り返し追い詰めたが、すんでのところで取り逃がし、軍勢を引き連れ戻った魔王によって完膚なきまでに敗北する。
しまいには国土を放棄せざるを得ないところまで追い込まれ、アメリカは難民を引き連れキューバへ亡命した。
もはやアメリカ一国だけでは魔王に太刀打ちできない。
そこで救援を求め旅立ったコンラッドを全権大使とする四隻の蒸気船は、アメリカの希望だった。世界の希望でもあった。
地獄の魔女によると、同盟国日本には素晴らしい変異者が何名もいる。素晴らしい技術がある。
前時代の国家間の同盟関係がどこまで有効か分からない。しかし、誠心誠意助けを求めれば悪いようにはされないはずだ……
その日、コンラッド・ウィリアムズは極東の島国で生まれて初めて女性に見惚れた。
「お会いできて光栄です。青の魔女です」
たどたどしい英語までもが堪らなく可愛らしく魅力的に聞こえ、握手を交わした手の柔らかな感触に魂が抜ける。
青の魔女は美しかった。
一流の詩人が言葉を尽くし美辞麗句を並べても陳腐になってしまうほどの、コンラッドの心を撃ち抜く清廉な美貌を持っていた。
一目惚れだった。
たった一目青の魔女を見たその瞬間から、コンラッドの心は彼女に囚われた。
青の魔女に突然殺されかけても、コンラッドは抵抗しようという気すら起きなかった。
例えどんな理由でも、彼女が自分を見て、自分に気を向けてくれている。それだけの事で喜びが溢れ出し、アメリカ合衆国全権大使としての体裁を保つのに苦労した。
まるで頭がおかしくなってしまったかのようで、事実、そうなのだろう。愛は人を狂わせる。自覚してもなお拒めないのが厄介で心地よい。
なんとか平静を取り繕い日本との交渉を終えた後、迎賓館の客室に通されたコンラッドを親友が訪ねてきた。
グレンは日本酒の瓶を投げて寄こしながら、訝し気に聞いてきた。
「今日はどうした、コンラッド。変だぞお前。青の魔女は確かにお前並に強いように見えたが、あんなのに会うのは初めてじゃないだろう? 魔王の方がずっと危険だった」
「グレン。君は運命の女性というものを信じるかい?」
「ああ? …………。おいおい、お前はとんでもない女に惚れたぞ。よりにもよってあんな、いつ暴発するか分からん核地雷みたいな女にか?」
グレンは心底呆れた様子だったが、怒りはしなかった。
「なるほどな。それで交渉が甘かったのか」
「自覚はあるよ。厳しく行ったつもりだったんだけどね」
「厳しく行ってアレなら重症だな。で、どんなところに惚れたんだ? 聞かせろよ色男!」
グレンは髭をぴくぴく動かしネズミっぽくチューチュー鳴いて笑う。
二人は異国の酒を飲みながら夜通し語り明かし、祖国が誇る勇者コンラッドの心を射止めた魔性の女をなんとしてでもアメリカに連れていこうと決めた。
それがアメリカのためであり、世界のためであり、コンラッドのためでもあった。
インドのムンバイで、手を取り合い結婚式場を飛び出した花嫁と下層階級民の男を追いかけようとした怒り狂う人々は、突如出現した氷の山脈に行く手を阻まれ唖然とした。
愛の無い、政略結婚だった。花嫁と花婿のバックについている権力者は、愛は無くとも利はあると言った。
事実その通りで、アメリカ全権大使として結婚を祝福し、インド全土のゆるやかな協力を得る手もあった。
だが、コンラッドはインドの半分に嫌われ、もう半分と強く固く手を結ぶ方を選んだ。式を御破算にして駆け落ちした花嫁の幸せをただただ願う国民が、インドには半分もいる。それはとても素晴らしい事であるとコンラッドは思う。
もちろん、花嫁を追いかけ連れ戻そうとする輩は何百人といる。最悪家屋を倒壊させ道を塞ごうと考えていたコンラッドは、自分より派手な手段をとった青の魔女に笑いかけた。
「やるじゃないか。興味無いって顔をしていたのに、君は誰よりも情熱的だ」
「黙れ、私は結婚式襲撃なんて反対だった。ただ……あの貧相な男が花嫁に捧げた指輪は手作りだった。金が無いなりに自分で想いを込めて作ったんだろうな」
「へえ? そういう目利きができるのか」
「詳しくはない。だが、自然と覚えた。親友の仕事だからな」
コンラッドはそこで初めて青の魔女の笑みを見た。
旅の間一度たりともニコリともしなかった青の魔女が、実の姉妹のように仲の良い大日向教授の前ですら表情を緩める程度だった青の魔女が、誰かを思い描き笑っていた。
薄々そうではないか、と思っていた。
しかしようやく確信に至った。
コンラッドの心を青の魔女が占拠しているように、青の魔女の心には既に誰かが居座っていた。
コンラッドの心は千々に乱れたが、同時に顔も知らない誰かに感謝もした。
他でもない青の魔女本人の口から、自身と同族である入間の魔法使いが彼女にどれほどの事をしたのか尋常ならざる憎悪を込め聞かされている。
彼女の心は崩壊した世界の残酷さに晒され凍り付いていた。
凍った心を溶かし、青の魔女がこの世の良い物に目を向けられるようにしてくれたのは、きっとその誰かに違いない。
顔も知らない誰かに感謝はするが、それはそれとして、コンラッドはライバル心を燃やした。今まで美しき魔女の傷ついた心を慰撫してきたのは、残念ながら自分ではなかった。
しかしこれからはその役目を喜んで自分が負いたい。青の魔女のためなら魔王に単身で挑んだって構わない。
コンラッドは青の魔女に愛される栄誉に浴する幸運な誰かの正体を探るべく、それとなく話を振った。
「君の親友か。良い人なんだろうね」
「いや、全然? 小さな子供に酷い言葉を平気で吐くし、偏屈で、能天気で、とんでもない奴だよ」
青の魔女の口からは親友に対するものとは思えない言葉が次々と飛び出してくる。
しかし、遠い東の空を見ながら喋るその横顔は見るからに恋しそうだった。
親友の名前も居場所も伏せて語られるその話は、聞けば聞くほど棘が無くなり惚気になっていく。
それから一時間。コンラッドはそれまでの一ヵ月で聞いた青の魔女の言葉を全部合わせたより多い、長々とした愚痴の皮を被った惚気話をたっぷり聞かされた。
魔王との決戦は、アメリカの総力を、世界の総力を結集したものだった。
人類史に残るたった一日の大戦争であり、前時代の遺産が最後の死の花を咲かせた凄惨なものでもあった。
あわや、という場面は何度もあった。
だが、人類は勝利した。
四人の勇者パーティーによって魔王は討たれた。
魔王の爪痕は深々とアメリカに残された。魔王の影響を受けた強大な魔物によって傷ついた国々は世界中にある。
しかし、これからはようやく平和へ向けた復興へ歩みだせる。
魔力欠乏で気絶した三人の仲間を背負い生還したコンラッドは、大歓声と共に迎えられ、そのまま祝勝会に雪崩れ込んだ。
失神していた仲間たちも途中で目覚め、最初からクライマックスだったように思われた宴会のボルテージは上限を突破しめちゃくちゃな乱痴気騒ぎに突入した。
宴会の中心でもみくちゃにされ笑っていたコンラッドは、人波の間をすり抜けこっそり抜け出す青の魔女の姿を視界の端に捉えた。
酒杯を掲げ背を叩き握手を求め話をせがむ人々をグレンに押し付けて任せ、親友の罵声を背に青の魔女を追う。
月夜の下、建物の影で大きく伸びをして体をほぐしていた青の魔女は、コンラッドに気づきバツが悪そうにした。
「コンラッドか。気付くならグレンかと思った」
「帰るのかい? もう?」
「ん。慧ちゃんに戦勝を伝えて、そのまま日本に戻るつもりだ」
「……そうか。寂しくなるな」
「そんな顔をするな。グレンがいるじゃないか。ルーシェもしばらくいるだろう?」
「でも、君はいなくなる」
束の間、二人の視線は絡み合った。
青の魔女はコンラッドの情熱的な視線を真っ向から受け止めた。
そしてほんの少し微笑んで、首を横に振った。
コンラッドは恋敗れ、しかしそれでも青の魔女が自分を友と思ってくれていると知った。
ならば止めまい。縋るまい。今はそれで充分だ。
コンラッドが手を差し出すと、青の魔女はその手を取り握手をした。
結ばれた手はすぐに離され、友としての絆だけが残る。
「じゃあ……また」
「ああ。また」
短い言葉を交わし、青の魔女は風のように走り去った。
今生の別れではない。いつかまた会えるだろう。特別な関係にはなれなかったけれど、再会を望めるだけの関係にはなれたから。
耳を澄ませ、遠ざかる足音を聞いていたコンラッドは、音も無く隣に現れた毛むくじゃらの友人に驚いて飛び上がった。
「グレン! よく抜け出してこれたね?」
「聖女様が聖歌を歌っていらっしゃるからな。アレに聞き惚れないのは耳が聞こえない奴か、人間様の音楽の良さが分からんネズミかだ……で、告白はしたんだろうな? どうだった? ん?」
脇腹を肘で小突かれコンラッドは苦笑する。
長耳男の反応を見たネズミ男は、大統領の核爆撃作戦を聞いた時よりも驚愕した。
「おいおい、コンラッド! お前は世界一の大英雄、あの魔王を討ちとった天下の勇者コンラッド・ウィリアムズ様だぜ? 告白されて断る女がいるかよ!」
「告白して青の魔女を困らせたくない。魔王には勝てたけど、彼女の心の中にいた誰かには勝てなかったよ」
「なんだよ。俺はてっきり『魔王を倒して世界は平和になりました。勇者は愛する女と結ばれました。めでたしめでたし』って話かと思ってたのに」
本気でそう信じていたらしい親友の口調に、コンラッドは笑った。
「いいんだ。僕と彼女の寿命はどうやらとても長いらしいから。
これから50年か、100年か。彼女と共に在る幸福は幸運な誰かに預けるよ。
僕は誰かの天寿が尽きたその後に、1000年を彼女と共に歩む事にした」
「……気の長い話だ。ま、青の魔女とお前の結婚式には呼んでくれよ。俺が生きていればな」
「その前にグレンの結婚式だろう? 地獄の魔女とかどうなんだい? 仲良さそうに見えたけど」
「おい、なんでも色恋に結び付けるな! 彼女は俗世を捨てた求道者だ、そういう目で見るのは許さんぞ」
憤慨する友の背を笑いながら叩き、勇者コンラッドは美しい讃美歌が染み渡る祝勝会に戻った。





