05 オーバーテクノロジー
青の魔女は今日も静かな家で目を覚まし、顔を洗い、髪を梳かし、裏庭の墓を掃除する。毎朝変わらない、いつものルーチンワークだ。
まだ青の魔女ではなく「青山ヒヨリ」と呼ばれていた頃から、彼女は穏やかな朝を好んでいた。朝の目覚めは妹に優しく揺り起こされたい。布団に潜り込む妹を抱きしめて二度寝するのもいい。そうしてのんびり起きて、バターをたっぷり塗ったトーストとウインナー、ミルクを入れたコーヒーを楽しみながら、家族団らんの中でゆっくり一日を始めるのだ。
しかし、今となっては二度と叶わない。
味気ない缶詰で朝食を済ませた青の魔女は、万が一魔力が尽きた時のためのサブウェポン、警官の死体から剥いだ拳銃の動作確認をして太腿のホルスターに納めて隠し、支配エリアの哨戒のために魔石をとって外に出ようとしたところで、いつも魔石を置いている場所に魔石ではなく魔法杖が置いてある事に面食らった。
数日前に納品された魔法杖キュアノスだが、まだ見慣れない。
変態的な器用さを誇る対人恐怖症の魔法杖職人、大利賢師は久しぶりに出会う信用できる人間だった。
性格には問題があるが、悪意が無い。危機感も無い。アレでよく今まで生き延びられたなと感心する。
奥多摩の珍獣との魔法杖売買契約は、青の魔女にとっても好都合だった。
何しろぶっちぎり最強兵器の流通独占権を手に入れたに等しいのだから。
他の魔女や魔法使いとの小競り合いはこれから楽に片付くし、やろうと思えば魔法杖を餌にして人を動かし、各地のパワーバランスをコントロールする事すら可能だ。
青の魔女は東京都北西部、青梅市を拠点にしている。
かつて護るべき市民の命を全て取りこぼした青の魔女は、せめて伽藍洞の思い出の残骸だけでも護り抜こうと、市街地を壊す魔物を狩っている。
帰る人の無い家々を護ったところでいったい何になるというのだろう? その先には何もない。
それでも、青の魔女は子供のいなくなった巣で永久に見張りを続ける母狼のように、青梅に居座っている。
魔法杖があれば、青梅の護りはより強固になる。
大利には恩がある。全てが壊れ朽ちて失われていく日々の中で、壊れてしまった平和な頃の思い出が一つでも戻ってくる。それがどんなに嬉しかったか!
恩人の要望通り、青の魔女は魔法杖を売るために顧客の吟味を始めている。
友好的な勢力には売り、敵対的勢力には売らない。それだけで都合の良い勢力図を描ける。
青の魔女は転がり込んできたブローカーの立場を最大限に利用するつもりだった。政治活動は苦手だが、リターンが大きければ一考に値する。
魔法杖が勢力図を一変させる重要な武器として名を馳せれば大利は満足するし、勢力図が変わり青梅の護りがより強固になれば青の魔女も満足する。これぞWin-Winだ。
魔法杖キュアノスを握りしめ、青の魔女は今日も街の哨戒へ出かける。
他地区から入り込んできた魔物や、地区内で自然発生した魔物を狩るのだ。
警告看板を無視して青梅の物資を盗もうとする泥棒や、勝手に住み着こうとする不届き者を狩る事もある。大抵は半殺しで地区外に放り出すが、ふてぶてしく反省の色が見えなければ容赦はしない。
午前中の戦闘は小物相手が三回だった。
魔法杖キュアノスの魔法増幅効果を試す相手としてはどれも不足だった。
納品されてから最初の魔物戦で、軽乗用車サイズまで巨大化した食虫植物相手に最も威力の低い氷槍魔法を放った青の魔女は、異常に増幅される魔法をコントロールできず民家を五軒まとめて貫き倒壊させてしまっている。威力過剰だ。
魔法杖を売り込む時に製品の性能を売り手が知らなければ話にならない。
丁度良い試し撃ちの相手が欲しかったが、そういう時に限って強力な魔物は出没しなかった。
魔法杖を持って屋根から屋根に飛び移り、高所から数時間かけて街の隅々まで外敵がいない事を確認した青の魔女は、早めの昼食をとった。以前入間の魔法使いを始末するついでに彼の管轄地域から食料を根こそぎ略奪したおかげで、まだまだ備蓄には余裕がある。
食べ終わったらまた奥多摩に食料を届けにいこう。隣の中村さんの家の木に生っていた果物も何個か入れて……と考えていると、窓に何かがぶつかる鈍い音がした。
振り返って見ると、窓に浮遊する目玉が体当たりしている。
目玉の魔女の使い魔だ。
また他愛もない雑談をしに来たのか、と面倒に思いながら窓を開けてやると、目玉は家に入り、どこに口がついているのか、目玉の魔女の声を届け始めた。
「緊急事態よ」
挨拶も抜きに緊張した声で口火を切られ、青の魔女は片眉を上げた。
のんびり屋の目玉の魔女が相当切羽詰まっているらしい。
「何?」
「東京湾から巨大な魔物が上陸。今、東京の沿岸部は火の海よ。助けが欲しいの」
「私に言うな。あのあたりのエリアの奴がどうにかするだろ」
青の魔女は東京の中でも内陸にある青梅を護っている。沿岸部は管轄外だし、興味もない。
冷たく突き放したが、目玉は黒目をギョロギョロさせ焦った様子で更に言った。
「巨大な魔物って言ったけどね、要するに怪獣よ、怪獣。軽く全長100mはあるわ」
「へえ? 随分デカいな。それなら吸血あたりが合同作戦の音頭を取ってるんじゃないか」
「吸血の魔法使いは戦死。世田谷の魔女は逃亡。今は継火の魔女と八王子の魔女が足止めしてるわ」
告げられた予想外の言葉に、他人事だと思って無関心だった青の魔女は思わず魔法杖を強く握りしめた。いくら強力な魔物が現れたといっても、にわかには信じ難い。
「待て、吸血が死んだ? 本当に?」
「本当よ。その代わりに怪獣の上陸地点だった港区の市民は全員無事に避難したわ」
「殺しても死なない奴だと思ってたのに……そう。そういう死に方をしたのか」
自分と違い、護るべき無辜の民を護り切って死んだのが少し羨ましかった。
いつも政治ごっこに夢中ないけ好かない男だったが、尊敬に値する。
青の魔女は短い黙祷を捧げ、頷いた。
「分かった。吸血への手向けだ、怪獣が青梅に近づいて来たら私が仕留める」
「貴女が青梅から離れたくないのは知ってるけどね、本当に不味いのよ。継火の魔女と八王子の魔女だけでどれだけ持ちこたえられるか。他の魔女は動いてくれないし……ねえ青ちゃん、こっちに来てくれない? お願いよ、一人でも戦力が欲しいの!」
青の魔女としても巨大な魔物を相手にキュアノスの試し撃ちができるのは好都合だ。
しかしそのために青梅を空け、遠征するつもりはなかった。
かつて青の魔女は親切心で神奈川に出現した音速で飛ぶ人食い怪鳥を倒しに行ったが、留守の隙をついて青梅を襲った入間の魔法使いによって住人を根こそぎ拉致された。忘れもしない、苦すぎる記憶だ。
隣接区への顔出し程度ならいざ知らず、すぐに帰還できないほど遠くへ足を延ばすつもりはない。
「私はここを動かない。青梅にそいつが近づいてきたら継火と八王子を退避させろ。私一人で狩る」
雑誌モデル時代から自分のファンだった、と言っていた二人の魔女の姿を思い浮かべながら、青の魔女は親切心で忠告した。
目玉は文字通り目を剥いて反論してくる。
「何言ってるの? 無理よ! 貴女は確かに強いけど、入間の魔法使いと同じぐらいでしょう? 連携してとまでは言わないから、援護射撃だけでも――――」
「私は一人でやると言った。巻き添えになりたいなら勝手に共闘しろ」
「……もうっ! 危なくなったら逃げなさいよ!」
浮遊する目玉越しに怪獣の咆哮が聞こえ、それに急かされるように目玉の魔女は早口に言い置き通信を切った。
使い魔は青の魔女に瞬きして挨拶すると、窓からふよふよ飛んで帰っていく。
それを見送り、家の屋上に上がった青の魔女が見たのは、遠くからビル群を薙ぎ倒しながら進撃してくる巨大怪獣の姿だった。
「は? デッッ……!」
聞きしに勝るその巨体に絶句する。
怪獣の姿は黒いティラノサウルスをより二足歩行に近づけたようで、遠近感が狂ってしまったとしか思えない体躯の怪物だ。
アレだけの巨体なら、散歩するだけで東京は壊滅するだろう。にもかかわらず怪獣は手に東京スカイツリーと思しき巨大建造物を握りしめ、癇癪を起した子供のように辺り一帯を滅茶苦茶に叩き薙ぎ払っている。
唖然として見ていると、地上から火柱が立ち上がった。紅蓮の炎は継火の魔女のものだろう。
高層ビルを丸ごと焼き焦がす規模と火力を兼ね備えた強力な魔法だったが、馬鹿げた巨体の膝を舐めるにとどまり、怪獣は足元の火をまるで意に介さず歩を進める。
今度は地上から幾条もの鎖が伸び、怪獣に絡みつく。この距離からでは細く頼りないように見えるが、ズバ抜けた頑丈さと拘束性能がウリの八王子の魔女の封印鎖だ。
が、怪獣は鬱陶しそうに身震いし、尻尾を振り回しその先端からビームを出し鎖を容易く溶かした。
眩暈がしてきた。
人智を越えた魔物はこれまで何体も見てきた。
死闘の末に狩ってもきた。
グレムリン災害が起きて間もない頃、終末論を唱える悲観論者は散々人類の滅びを叫んできたが、自分達魔女がいる限りそれはないと信じてきた。
犠牲は避けられないが、決して滅びはしないと。
しかし地響きを立て無人の野を行くが如く歩いている暴虐の化身を見ると、確信は揺らいだ。あの巨体で、武器を振り回す知能があり、魔法まで使うなんて。
目の前の光景が信じられない。あんな超生物、核爆弾の直撃でも倒せないのではないか?
及び腰になる青の魔女は、自分が握る魔法杖の感触を思い出し我に返った。
そうだ。
逃げるわけにはいかない。
怪物の進路上には青梅がある。
相手がどんな化け物であろうとも、青の魔女は穏やかだった頃の思い出が残る街並みを護り抜く。それすらできなかったら心が壊れてしまう。
希望はある。
以前の自分では決して敵わないが、今は魔法杖キュアノスがある。
最大威力の魔法にありったけの魔力を注ぎ込んで、キュアノスで増幅させれば、きっとダメージを与えられる。嫌がって進路を変える程度は期待できる。
魔物は元々普通の動物だ。アレも元の動物が何かは分からないが、例外ではないはず。
奴らは破壊が目的で生きているわけではない。
野生動物がそうであるように、魔物も負傷したり脅威を感じたりすれば逃げていく。
倒す事はできないだろう。
しかしダメージを与え追い返す程度なら。
青梅さえ死守できれば、進路を変えた怪獣が他の場所で暴れようが知った事ではない。
青の魔女は深呼吸して、キュアノスを構えた。
遠くにいるように見えた怪獣だが、歩幅が大きいせいで思ったよりも接近が早い。
怪獣が魔法の射程圏に入ったあたりで、地上から吹きあがる火柱と絡みつく鎖が無くなった。連絡通り退避に入ったらしい。
全力で魔法を使うと、コントロールが難しい。
魔法杖で増幅されれば制御不能になるだろう。
それでも前方に撃ちさえすれば、的の大きな巨体ゆえ怪獣に当たるのは間違いない。
青の魔女は体から魔力を集め、杖に注ぎはじめる。
体外に放出された青の魔女の魔力は、冷気となって周囲に漏れ出す。
足元に霜が降り、急激な大気の冷却と気圧の変化で発生したダイヤモンドダストが渦を巻く風に舞い踊る。
「う、ぐ……ああっ……!」
青の魔女は逆流しようとする魔力に呻く。
まだ半分も魔力を込めていないのに、既に魔法のコントロールを失っていた。
魔法発動前の前兆だけで我が家が凍り付き、そこかしこから氷柱が生えどんどん太く伸びていく。
重く冷たく沈んだ空気が肺を犯し、寒さに強いはずの青の魔女の身体を内側から突き刺す。
被害範囲を限定するのは到底不可能だった。
杖を前に向け、怪獣の方向に放つだけで精一杯。
だがそれで充分。
魔力の充填を終えた青の魔女は、霜が降り凍り付きかけた指で杖の柄を握りしめ、白い息を吐いて笑う。
これでダメならあの怪物は誰にも倒せない。だから全力で、ありったけを。
試させてもらおうか?
世界でただ一人の魔法杖職人、その腕前を!
そして青の魔女は呪文を唱え、かつて入間の魔法使いを一撃で滅ぼした最強の魔法を放った。
「君よ、氷河に沈め。永久凍土に眠れ!」
魔法杖キュアノスの魔石から、蒼褪めた波動が放出される。
波動は見えないが、その軌跡にある空気が一瞬にして凍り付き液化し、それすら通り越し白い固体になっていく。そのせいでまるで冷徹な白い光線が獲物に襲い掛かるように見えた。
怪獣もさるもの。巨体に見合わない反射神経で手に持つスカイツリーを盾に魔法を防ごうとする。
が、白い波はスカイツリーごと怪獣を貫き、一瞬ののち、怪獣は丸ごと凍り付いた。
それだけではない。
制御不全の魔法は怪獣にぶつかり爆散したように周囲に広がり、怪獣の足元にあった街まで分厚い氷の下に閉ざしてしまう。
トドメに空まで届いた魔法が雲を飲み込み、季節外れの雪を降らせ始めた。
怪獣に蹂躙され、火と破壊に呑まれようとしていた東京に、静かな白雪が降る。
静謐な静寂が慈悲深く世界を包み、青の魔女は自分の魔法がもたらした目の前の光景に乾いた笑いを漏らした。
誰がここまでやれと言った?
これでは私が世界を滅ぼす怪物だ。
「流石にこれはオーバーテクノロジーだよ、大利」
ぽつりと力なく呟いた青の魔女は、魔力切れで気絶した。