182 帰還
魔王が持っている能力は、魔神も持っている。大利の見解は確かだ。
魔王が持っていた魔物を操る力も当然持っている。
だが魔王は甲類魔物を操るために黒グレムリンを寄生成長させる必要があった。
それは何カ月もかけて進行する病のようなもので、感染したその日のうちに何かが起きるわけではない。
以上の理屈から、魔神は魔物を操れるが、その能力が今回の戦闘中に発揮される事はないという結論が導き出される。
しかし魔神は魔王の上位互換。何があるか分からない。
未知の能力には臨機応変に対応する他ないが、判明している能力については念には念を入れて対策しておくべきだ。
主戦場の外縁上空を旋回し哨戒を行っていた竜の魔女は、拡声魔法で腰の引けた声を届けてきた。
「ヤバいの、ガチでエグいの! 魔物がバカみたいに集まってきてるの!」
竜の魔女は言うが早いか急降下し、ぽつぽつと現れ始めた地上の黒い影たちに空から業火を吐き下ろす。
竜の魔女は勝っている時は調子に乗り、負けている時は弱腰だ。弱気な声は対処しきれない魔物の大群が押し寄せてきている事を示していた。
魔神は魔王と違い、事前準備無しに魔物を操れるようだった。あるいは魔王とは比較にならないほどの短時間で事前準備を済ませたのか。
何にせよ、魔物の群れに包囲されながら魔神を打ち倒す事などとてもできない。
青の魔女の魔力は半分を切っている。
女王を庇い続けていたコンラッドは二割もない。
魔力も時間もない。早急な決着が必要だ。
ただ一人開戦直後からずっと完全停止させられていた女王は魔力充分で、落ち着き払って言った。
「私が魔神を止めます。皆さんは全力で攻撃して下さい」
「可能なのか? いや、できるんだな?」
「ええ。仮にもヒトを模した存在ならば通じるでしょう」
「信じよう。皆、女王が魔神を止めたら全力攻勢だ!」
青の魔女は頷き、コンラッドが叫んだ。
地上でひたすらに魔神の足元を攻撃し機動力を削いでいた豪腕の魔法使いから返事がかえる。地面に叩き落とされ酷い有様の死神を治療していた聖女からも是の声がかえった。
「私の愛は永遠より強い、全き真実」
女王は不滅魔法を唱え、幻想的な銀の光を纏う。
続いて魔神の腹部に杖先を当て、大詠唱を始めた。
「人が自由を持つのではない
自由が人の形をしているのだ
与えられているうちは虚しい
掴み取る力こそが己の故」
魔神鎧の腹部から黒い触手が滲み出る。
触手は女王を掴み引きずり込もうとするが、銀の光がそれを阻み、激しい火花を上げ拮抗する。
「来たるべき新時代の支配種よ
連環の担い手よ
人形よ
いつかきっと
吾輩に逆らっておくれ」
夥しい数の触手を弾きながら、女王は人形操作魔法大詠唱を完成させる。
クォデネンツ剣を振り回していた魔神が、あれほど手に負えなかった魔神が、巨大な彫像のように止まった。
握っていたクォデネンツ剣が手から滑り落ち、地響きを立て大地に突き刺さる。
それを見た死神が拳を振り快哉を上げるも、女王は脂汗を垂らしながら鋭く叱責した。
「何をやっているんです。早く、急いで!」
女王の魔力は全超越者の中でも飛びぬけて多い。
かつて暴走魔法を魔法解除魔法で半日も打ち消し続けた馬鹿げた魔力だが、それでも魔神の前には心許ない。
魔神の全身を停止させるのと引き換えに、女王の魔力は30秒ももたないペースで激減していっていた。
全員が総攻撃にかかった。
勇者と死神が剣と鎌を振るい、二人がかりで装甲に亀裂を入れていく。
豪腕の魔法使いと聖女は亀裂から魔法を叩き込み、内側から爆破していく。
堅牢な魔神の装甲は内部からの破壊によって剥がれ落ち始めた。
装甲が完全だったならこうはいかなかっただろう。
とうとう鎧に隠された黒い生身が露出しはじめる。
勝ち目が見えてきた。
内部のどこかにある魔王グレムリンコアを身体から完全に切り離してしまえば、魔神は息絶える。
心臓を抉り出すようなものだ。どれだけ常軌を逸した怪物であっても、中核を失えば死ぬ。
青の魔女は一瞬、魔神を止めている女王を見る。
女王は額から滝のような汗を流し、目からは血を流し、チカチカと不安定に瞬く不滅魔法を維持しながら、なんとか干渉を続けている。
魔眼を破壊した青の魔女には女王がどれほどの離れ業をしているのかよく分かった。いくら不滅魔法を張っているとはいえ、自分なら魔神が流し込んでくる魔力の奔流に耐えきれず死んでいるだろう。
このままでは魔力が尽きる前に女王が力尽きる。
魔物の軍勢も迫っている。
本当に時間が無い。唱えられるのはあと大詠唱一回が限度だろう。
青の魔女はキュアノスを構え、ありったけの魔力を注いでいく。
鎧が剥がれた今なら、内側の生身部分に大氷河魔法を当てる事ができる。
即死すれば儲けもの。
死なずとも全身を中から凍らせ、女王の停止が途切れた後の戦いを優位に進ませる事ができる。
青の魔女を中心に、足元に霜柱が這い広がった。
空気が重く冷たく沈む。
触れるほどに濃密な冷気が湧きあがり、戦場を支配する。
高まった凍結魔力がキュアノスによって更に異常増幅され、まだ呪文も唱えていない予兆に過ぎないというのに魔神鎧の奥の黒い触手が凍えたように委縮した。
「君よ、氷河に沈め。私が戻るその時まで
私は貴方の巫女
でもほんのひと時でいい
外の世界の温もりに触れてみたい」
大氷河魔法大詠唱の反動は致命的だった。
既に杖を持つ両腕が完全に凍りついている。足の感覚もない。
大詠唱前段ですら死にかけている。
唱え切ればいかな青の魔女とて氷像と化し、死ぬだろう。
私が死んだら、大利は泣いてくれるだろうか?
束の間浮かんだぼやけた想像が実像を結ぶ前に頭を振り払い、大詠唱後段を唱えるため、決意を込め口を開く。
その口から言葉が紡がれる寸前。
青の魔女は何かを感じ取り、直感的に身をかがめた。
四肢が完全に凍結していなかったのも、勘が働いたのも奇跡だった。
持ち主もなく独りでに動き出したクォデネンツ剣が、戦場を横薙ぎに斬り払っていた。
魔神が振るうより速度も威力も劣る。
だが完全な奇襲だ。
完全回避できたのは青の魔女だけだった。
魔神に手を当て引きつけを起こしたように痙攣していた女王が吹っ飛ばされた。
振り向いた勇者コンラッドは咄嗟に自分の剣の腹で受けるも、剣も骨も折られくの字に曲がって吹き飛んでいく。
死神と聖女は豪腕の魔法使いに地面に引き倒され、代わりに老翁一人が犠牲になった。
「おい!」
死神が慌てて叫ぶ。
まともに受けた豪腕の魔法使いは切断されるのではなく、剣に吸い付くように取り込まれかけていた。
聖女がたったひと飛びで魔神の手に戻ろうと浮かび上がるクォデネンツ剣に追いすがり、老人に手を伸ばす。
しかし手を掴んだ途端、剣から飛び出した黒い触手がうねり、聖女を捕えようとした。
豪腕の魔法使いは何が何でも自分を助けようと必死の形相の聖女を振り払い、突き飛ばしてクォデネンツから離した。
そして聖女から僅かに遅れて救助に動く死神に叫ぶ。
「助からん! 殺せ!」
「ッ! 私が操られたら、どうか躊躇わないで。君を殺したくない」
死神ゲデは、豪腕の魔法使いが完全に吸収される前に、絶対死魔法の大鎌でその首を刈り取った。
吸収されかけた豪腕の魔法使いの老体がたちまち塵になり、虚空に解けて消える。
生きたままでは吸収される。
死体になっても吸収される。
だが、絶対死によって二度と戻らぬ塵になれば吸収されない。
吸収によってこれ以上魔神を強化しないための苦肉の策だ。
歯噛みする死神は、忘我の聖女の襟首を掴んでクォデネンツ剣の追撃を避けた。
地面が派手に爆散し、できあがったクレーターに大きな影がかかる。
魔神がクォデネンツ剣を握り、再び動き出していた。
コンラッドは遥か遠くへ吹き飛ばされた後、戻ってくる様子がない。
女王は倒れ伏し、血反吐を吐きながらなんとか立ち上がろうと藻掻いている。
聖女は涙をボロボロ流しながら死神に礼を言い自分の足で走り出したが、魔力が枯渇寸前。
死神も魔力がほとんど残っておらず、左腕が折れたまま。
青の魔女はキュアノスを杖にしてよろめきながら立ち上がり、唇を噛んだ。
大詠唱のために込めた魔力が拡散してしまい、満身創痍な上に大魔法を唱えるだけの魔力が無い。
魔神討伐部隊は死に体だった。
魔神も無事ではない。
装甲の八割が失われ、黒い生身のほとんどが露出している。
その生身にもところどころ白い霜が降り、心なしか動きが鈍っている。
クォデネンツ剣も刀身こそ無事だが、かなり無理をしたのか火花を上げるコアが先程より更に欠け半壊している。
魔神も無事ではない、無事ではないが、十二分に動ける状態だった。
聖女と死神が残りの力を振り絞り魔神と戦っている隙に、青の魔女は女王を引っ張り起こした。
自分も女王も魔力回復薬を飲める状態ではない。いま超越者用に効能が高められた回復薬を飲めば、疲れ果て萎え切った体は強い副作用に耐えられない。
「動けるか」
「…………はい」
「動けるだけだな。お互いに」
「……はい。それでも」
続きは聞かなくても分かった。
それでも、ほんの僅かでも可能性がある限り、諦めない。
どんなに僅かな可能性だったとしても。
ここで魔神を討ち損じれば世界は終わりだ。
倒しきらなければならない。
例え死んでも。
二度と蘇生できない真の死に落ちようとも。
悲壮な決意を固めた二人の魔女が、とうとう聖女と死神を踏みつぶした魔神に杖を向ける。
一時は倒しきれるかというところまで迫った。
いま戦場に立っているのは二人だけ。
たった二人だけだった。
そしてその二人の目の前に、煌めく黄金の光の粒子が降り注いだ。
魔神が目の前の魔女たちから目を離した。
魔神が空を見上げる。
空から太い黄金の光の柱が落ちてきていた。
それは中空で何十本にも枝分かれし、大部分は戦場の外周部に落ちる。
近づいてきていた夥しい数の魔物の群れが、主戦場に入る手前で蹴散らされていく。
唖然とする青の魔女と女王は、黄金の奔流が消えた後に目の前に立っている白いフードを目深に被った少年に頭を下げられた。
「すまない。ギリギリまで視ていたんだ」
青の魔女の体にドッと暖かな安堵が広がる。
未来視魔法。これほど頼れる魔法の使い手は他にない。
しかし同時に一抹の不安もよぎる。
未来視魔法は万能ではない。
未来が視えても分からない事はある。
どうしようもない事もある。
今代未来視は何を視て、なんのために現れたのか?
「お前、ハトバトに力を借りたのか?」
大規模な集団帰還魔法による援軍。
こんな事ができる存在を、青の魔女は一人しか知らない。
尋ねると未来視はこともなげに頷く。
「ああ。安い取引だった」
「じゃあ必勝の策を――――」
「いや。これでも無理だ」
キッパリと言った未来視に言葉を失う。
今、未来を視た未来視の魔法使いが「無理」と言ったのか?
ならば、勝てないではないか。
件のハトバトはステッキをタクトのように振るい、超越者たちに襲い掛かろうとする魔神の動きを鈍らせている。
ハトバトは一瞬視線を寄こし、指を三本立てた。
未来視が頷いて言う。
「陛下。頼みがある。三十秒で決めてくれ」
未来視が投げて寄こした守護神杖オクタメテオライトを、目を白黒させ目まぐるしく動く状況に追いつこうとしていた女王は反射的に受け取った。
自分が受け取った、黒い魔石が嵌る魔法杖を見た瞬間、悲鳴を上げて取り落とす。
未来視は酷く狼狽える女王の前に膝をつき、深々と頭を下げた。
「陛下も青の魔女も死なない方法を探した。無理だった。俺はどうしても青の魔女を犠牲にできない」
「…………」
「これしかなかったんだ。俺を信じてくれるなら、保証させてくれ。陛下が死んでも陛下の祖国は守られる」
「! ……本当ですか?」
「陛下が自分を信じられないのは痛いほどよく分かる。だが、俺は視たんだ」
青の魔女は話の内容を呑み込めなかったが、女王には伝わったようだった。
ハトバトが指を一本立て、合図してくる。
女王は目を閉じ、深く深く深呼吸をして、再び目を開けた。
女王が頷く。
未来視は感情を押し殺した声で短く感謝を述べ、後ろに下がった。
「おい、何をするつもりだ?」
オクタメテオライトを拾い上げる女王に尋ねても、答えない。
「もう二度と、私から」
女王は指先でそっと祖国の大地に触れた。
「私達から」
女王は青の魔女を見た。
「何も奪うな」
そしてルーシの女王は守護神杖オクタメテオライトを手に走り出し、魔神の触手の中に身を投げた。
魔女と魔石を取り込んだ途端、魔神は動きを止めた。
ハトバトは肩を竦め、呆然とする青の魔女に優雅に一礼して姿を消す。
轟音が鳴り響いていた戦場に、突然静謐な静けさが広がった。
大地と空気までもが息を潜めたような厳かなその場に、魔神から流れ出す誰かの声が聞こえる。
青の魔女はすぐに気付いた。
魔力が凪いでいる。
これは呪文ではない。
誰かの詩だ。
―――――――――――――――――
貴方と初めて会った時、これが運命だなんて思いもしませんでした
貴方はいつか故郷を見せたいと言ってくれましたね
貴方の故郷はもうないけれど
私の聖域が安らぎの地になればと思ったのです
貴方は私のために一度命を落とした
だから私は貴方の命を紡ぎあげた
だって貴方を愛してる
誰よりも何よりも愛してる
太陽と月に背いても、貴方の愛には背けない
死神の鎌に斃れた貴方は世界から消えてしまった
二度目の死は真の死
真の死は貴方を私の手から永遠に奪った
でも私の愛は永遠より強い、全き真実
ゆえに愛だけが真実の死を覆し得るのです
私は千の星空を超え、真の死すら超克せんとする者
私は真実の旅人
私は勇者の花嫁
私は聖域の魔女
―――――――――――――――――
詩が終わる。
すると、魔神が一人の魔女を吐き出した。
その魔女は、女王によく似ていた。
一糸まとわぬその体には黒い粘液がこびりついている。
地面に投げ出され咳き込んでいた魔女は、呼吸を整えると軽く指を振った。
魔女の胸を中心にして整然と流れる魔力が瞬時に服を形成し、全身が黒いローブに包まれる。
魔女がゆっくりと立ち上がる。
白く長い髪。
整った容貌。
背丈も体格も雰囲気も、女王にそっくりだ。
しかし青の魔女は女王と魔女の一つの決定的な違いを目にした。
魔女の胸元に魔石が埋まっている。
そこにあるのが当然かのように、元々そこに埋まっていたかのように。
黒い魔石が、魔石オクタメテオライトが魔女と一体化している。
魔女はなんとも言い難い表情で周囲の惨状を見回すと、長く深いため息を吐き魔神に手を触れた。
途端に巨大な魔神が消え、代わりに手のひら大のミニチュアが魔女の手の中に出現する。
聖域の魔女は静かに、青の魔女と未来視に語りかけた。
「話をしませんか、地球の方々」