154 さあ、全てを壊せ
焔の魔人ツバキを連れた勇者コンラッド・ウィリアムズが発見した怪しい建物は、第二ライコン運河沿いにあった。
ワンゴイ市郊外を流れる運河の水は濃い深緑色に濁っていて底が見えない。ただ水深は浅いようで、ツバキが拾った木の枝で無邪気に水面を叩いたり掻きまわしたりすると、底の泥が巻き上がって茶色っぽい泡がぶくぶくと広がる。
「ツバキ、一度枝を置いてくれ。集中だ。あの建物が見えるかい? 大きな緑の屋根の」
「ミ。白い屋根の隣?」
「そうだね。あの建物からどんな魔力を感じる?」
コンラッドが促すと、ツバキは目を閉じ彫像のように固まって意識を集中した。体に纏う楽しげに揺らめく炎も、精神に反応するかのように鎮まった。
ややあってツバキは目を開け、炎の揺らめきも戻る。魔力を探った魔人は不思議そうに首を傾げた。
「普通。三十人ぐらいの魔力ある。でも、全部普通。弱そう」
「そうだね。でも普通過ぎないかな? もう一度探ってみよう」
「ミ? ミーミ………………ミッ! 分かった、みんな魔力量ピッタリおんなじ。ピッタリ1K!」
「上出来だ。彼らは全員魔力を抑えている、つまり魔人たちだと考えていい。変異者も混ざっているかもね」
元気に挙手して問題に答えた生徒に、コンラッドは優しく微笑んだ。
魔力を抑えて一般人に擬態しようとする変異者や魔人によくあるミスだ。
一般人に合わせようとするあまり、あまりにも一般人平均と一致し過ぎてしまう。あって当然の個人差を持たない、不自然なまでに平均的で均質な魔力を演じてしまうのだ。
コンラッドが理屈も含めて不審な点を丁寧に教えると、ツバキはキラキラした尊敬の眼差しで先生を見上げた。
「ウィリアムズ、賢い。蜘蛛さんみたい。もしかして社長してる?」
「本業は国連捜査官さ。捜査官は利害関係企業と個人的繋がりを持つ事が禁じられている。汚職の元になるからね。それはさておきだ、君ならあの建物をどうやって攻略する?」
「こういう攻略方法、私考えない。考えるの上手な人に考えてもらう」
「そうだね、作戦立案を専門家に任せるのは良い手だ。でも自分で考える事を辞めてはいけないよ」
「ミミミ……」
ツバキは杖先を齧りながら難しい顔で悩み始めた。
コンラッドの目から見ても、ツバキは高い水準に鍛え上げられた優秀な魔人だった。
先程野良の魔物を相手に実演して見せてもらった魔力封印は法外なものだったし、深淵金操作技術の熟練度も桁外れだ。相手が並の変異者ならば余裕をもって倒せるだろう。味方として頼もしい。
問題は、今回の敵は並ではないという事である。
国家規模の魔人誘拐を長い間巧妙に隠してきた難敵だ。最も古い魔人失踪事件を活動開始時期と仮定しても、十年近く存在を悟られず裏で暗躍していた事になる。
言い方は悪いが、これが一般人の誘拐ならまだ理解できる。誰にも顧みられない社会的弱者に絞って連れ去れば注目度は低くなる。有り得る話だ。
しかしこれは魔人誘拐である。
どこの国でも魔人という存在は注目されている。それを誘拐ではなく失踪と誤認させ、何十件もの失踪事件を関連性のない別件として埋没させるとなると、並大抵の事ではない。
コンラッドの経験上、こういった事件はAA級魔物出現よりもよほど厄介だ。
ケースバイケースではあるものの大抵は変異者が絡んでいて、未知の危険な魔法を相手にしなければならなくなる。
ツバキが首を捻ったり体を捻ったりしながら一生懸命攻略法を考えている怪しい建物も、敵の本拠地と決めてかかるのは危険だ。
見せ札かも知れないし、罠かも知れない。外観をざっと見て回ったら一度引き、青の魔女の情報収集結果と照らし合わせ、慎重に対処法を検討する必要がある。
思案していたコンラッドは、考えすぎたツバキが杖からも頭からも湯気を出し、目を回してしまっている事に気付き苦笑した。
「ちょっと難しかったかな。いったん考えるのはやめにして、あの建物の外周を――――!?」
「ミ!?」
それは完全な奇襲だった。
二人の足首に、運河の水面から気配も音もなく伸ばされた触手が絡みつく。
コンラッドは超人的反射神経で試作魔剣を抜き放ち触手を切断したが、ツバキは対処に失敗する。咄嗟にハンマーで触手を叩き潰そうとするも、強烈な叩きつけを受けてもなお触手はツバキの足を離さなかったのだ。
「ミ゛ー!?」
悲鳴を上げ、ツバキが一瞬にして運河に引きずり込まれる。
そしてそれと入れ替わるように、運河に潜んでいた巨大な怪物が水柱と共に姿を現した。
水しぶきが飛び散り、鼻のもげそうな吐き気を催す腐臭が広がる。
一体浅い水深のどこに潜んでいたのか、見上げるほどの巨体は全長6mほど。
概ね人型ではあるが異形で、頭部は髪代わりに海藻を生やしたミイラのよう。腕の代わりには無数の黒い触手が生えている。
怪物の胸元から下を覆い隠す薄手のドレスのような紅い外皮を見て、コンラッドは驚愕に目を見開いた。
「血濡れのメアリー!? ――――いや、変異模倣か!」
怪物は5年前に死んだはずのアメリカの変異者と同じ特徴を持っていた。
しかし本人であるはずがない。彼女は魔法的死によって消失したのだから。
両手の腕甲を打ち合わせ、スクロールシステムと魔法文字を組み合わせた機構を緊急作動する。コンラッドは有り余る魔力の半分を腕甲に注ぎ込む判断を下した。
展開された白い輝剣を左手に、魔剣を右手に握り込み、コンラッドは一本一本が意思を持つかのように襲い掛かる黒い触手の嵐を捌いた。
コンラッドの双剣と触手がぶつかるたび、激しく火花が散る。
余波だけで運河の水が割れて底の泥が剥き出しになる。
剣圧で岸辺の木々が木片と化し、建物が細切れになっていく。
「我らは城塞、早く逃げるんだ!」
怪物と激しく斬り結びながら、コンラッドは防御魔法を唱え、巻き添えで死にかけた老夫婦を護った。腰を抜かしている老婆を老翁が顔を真っ赤にしてなんとか背負い、よろめきながら逃げていく。
それを視界の端で見送ったコンラッドは強化魔法を次々と唱えギアを上げる。
ところが、コンラッドが強化されたのと同等の強化が触手にもかかり、崩せるはずの均衡が崩れない。
勇者の額に冷や汗が伝った。
「こいつ、魔王の特性まで……!」
80年前の魔王戦の記憶が蘇る。
硬いのに柔らかく、吸い込まれるような気色の悪い手応えの、凶器の嵐。
魔王の触腕よりも数段弱いが、怪物の触手は確かにあの恐るべき敵に似ていた。
コンラッドと打ち合いながら怪物はけたたましい金切声を上げ、紅い衣の下から虹色の鱗粉を吹き出す。
「腐れ沼の霧を吹き散らせ」
見覚えのある鱗粉を瞬時に風魔法で押し返し、コンラッドは確信した。
幻覚粉の散布はイギリスの変異者が持つ特性だ。
間違いない。
怪物は、魔法変異学の悪しき結晶体とも言うべき存在だった。
変異者には特異体質が多い。
人工的に変異者の特異体質を再現しようとする試みは昔から続けられてきた。部分的な成功が報告されてもいる。変異者特有の超人的身体機能の謎すらも近年解明され、人造変異者の誕生に近づいている。
変異者に近づいた変異模倣者は過去にもいた。
だが、これほどまでに悍ましく、醜く、無理やりに特異的な体質が混ぜ合わされた、強力な変異模倣者は前例が無い。
コンラッドは知っている。
変異学において、魔人が恰好の実験素体になる事を。
拉致された魔人の子供たちの末路を理解したコンラッドの憤激に呼応するように、運河が沸騰し湯気があがる。
怪物の気が一瞬僅かに逸れた。
同時に運河が爆炎と共に弾け、巨大な黄金の全身鎧が飛び出す。
鎧に絡みつく黒い触手を猛る焔で焼いて振りほどきながら、完全武装形態のツバキは叫んだ。
「こいつ魔力の心臓いっぱいある! 一個封印しても、別のやつから魔力流れ込んできてすぐミ゛ミ゛ミ゛ってなる! 封印無理!」
「ツバキ、下がれ! こっちへ! 正面から戦おうとするな!」
「ミ! あとさっきから体ズタズタ! 治しても治しても痛い!」
「赤い衣に触るな。触れるだけで古傷が開く!」
足裏から噴き出す炎を推進剤にして急加速し、ツバキはコンラッドの隣に戻った。
両手に黄金の大剣をもって怪物の触手と打ち合うツバキの鎧の背にコンラッドは手を当て治癒魔法を唱える。
「失せろ運命。私の前から退くがいい」
「……治った、ありがと! でも私もう魔力ない!」
「それは参ったな。三秒だけ盾を頼めるかい?」
「ミ!」
コンラッドはツバキを前衛に立て、両手の剣を束ね眩く光り輝く一本の宝剣にする。
地面が陥没するほど強く踏み込み放った渾身の剣撃は、怪物の触手を三本まとめて斬り飛ばし、塵に変えた。
怪物が初めて苦痛に満ちた金切声を上げる。
ところが、消し飛んだ触手は恐ろしい早さで再生を始めた。
その見知った再生過程を見てコンラッドは苛立つ。
古い友人の思い出を、聖女ルーシェを穢されたようで、胸がムカついた。
「再生で魔力減ってる! 持久戦?」
「いやダメだ、こっちが先に力尽きる。一度退こう、撤退だ」
「ミ! 逃げたら勝ち!」
ツバキは鎧から大規模な焔を一気に噴き出した。
その赤い壁に隠れるようにして、二人は脱兎のごとく戦線を離脱する。
追撃に備えて振り返ったが、怪物は追って来ない。
怪物が投げつける瓦礫をいくつか避けるとそれ以上の追撃はなく、再び運河の濁った水に沈んでいった。
二人は青の魔女と合流すべく、街をひた走った。
一流の魔人と超一流の変異者がこうまで見事に奇襲を決められたのならば、青の魔女も危ない。恐らく敵はコンラッドたちの動きに感づいていたのだ。
二人とも戦闘員だったコンラッド組は辛くも難を逃れた。
しかし青の魔女は非戦闘員を抱えている。
目玉の使い魔を介した連絡は機能していない。敵に使い魔を破壊されたか、戦闘中で応答の余裕が無いならまだ良い。だが、主人が死亡し使い魔が機能を喪失しているとしたら……
青の魔女の居場所は分からなかったが、分かりやすく街の一画で騒ぎが起きていたため所在は分かった。
大通りに転がり呻く重傷者たちと呻く事すらできない死者たちを道しるべに、二人は青の魔女の戦闘跡に辿り着いた。
地面や石塀に突き刺さった何十本もの研ぎ澄まされた氷槍が激戦を物語る。
氷槍ばかりで大魔法使用の形跡が無い事から、コンラッドは青の魔女もまた奇襲を受けたのだと察した。大魔法を唱える隙を与えられなかったに違いない。
「ミミミ……青の魔女とオーリの匂いする。二人、ここにいた」
地面に四つん這いになったツバキが土の匂いを嗅いで報告する。
コンラッドは負傷者を助け群衆を追い散らしている警官の一人を捕まえ、変異者証明書を見せて事情を尋ねる。
証明書を見た警官は慌ててもたもたと敬礼した。
「私も現場に到着したばかりですが。目撃者の証言によれば、突然魔女が暴れ出し、消えたとか」
「消えたとは?」
「こう、フッと。一瞬で消えたようです」
「…………? 目にも止まらない速さで移動したとか、金の粒子に代わって空に昇っていったとかではなく?」
「いえ。ただ消えたそうで。目撃者も混乱しているようです」
コンラッドは困惑した。青の魔女は何をしたのか? 何をされたのか?
幻影魔法で透明化し離脱したのなら、自分に連絡するはずだ。
それをしてこないという事は、窮地に陥っている可能性が高い。そうなると大利賢師の安否も怪しい。
コンラッドは素早く思考を巡らせた。
ここから更に深追いすると、更なる罠を踏んでしまう危険がある。
だが今この瞬間もどこかに消えた青の魔女と大利賢師が危険に晒されているならば、取り返しのつかない事態になる前に救助した方が良い。
何よりも消えた友人たちを探しもせず、敵に背を向け逃げる事などコンラッドにはできなかった。
ではどうやって消えた二人を探し出し助けるのか?
具体的な方法を考え始めたコンラッドの手を、ツバキが引いた。
「ウィリアムズ、あれ」
「ん……?」
警戒を滲ませるツバキが指さす方を見ると、死屍累々の戦闘跡の中心で、異変が起きていた。
ツバキに続き、警官が乗って来て停めていた虎魔獣たちも急にそわそわし始める。
コンラッドも遅れて気付く。
虚空から、冷気が漏れ始めていた。
酷く冷たい白い靄が何も無い空中から漏れ出す。
地面に垂れ落ち、広がり、霜柱を立たせていく。
大通り一帯の気温が急激に下がり始めた。
敏感な者達だけでなく、警官も群衆も異変に気付く。
何かが起きている。
何かが現れようとしている。
そして人々は彼方からの声を聞いた。
魔女の声を聞いた。
「海よ山よ、道を開けよ。頭を垂れよ、王の凱旋だ」
虚空から、一人の魔女がまろび出た。
ズレた魔女帽子を手で押さえ、コアが点滅する青い杖を松葉杖代わりにして転ぶまいとする。しかし大きくよろめいた魔女は足をもつれさせて転び、その場で激しく嘔吐しはじめた。
「ミミッ、青の魔女でてきた! オーリ、オーリは?」
パッと顔を明るくしたツバキが二人目が出てこないか周りを見回す。
唖然としていたコンラッドは我に返り、青の魔女に駆け寄る。
跪いて治癒魔法をかけようとするコンラッドを手で制した青の魔女はかつてないほど蒼褪めている。口元を乱暴に拭い、えずいた。
「ぐぅ……治癒魔法は意味がない。おぇ、四次元が……フクロスズメの腹袋に、生身で……うぐ、入るのと同じだ。とにかく、大利の安全装置が……功を奏した。二つのテンセグリティ構造で、相補的に座標を補完すれば……帰還魔法で辿れるみたいだ」
「何をされたんだい? 敵は?」
「ん……大利は?」
朦朧としていた青の魔女は徐々にしっかりしはじめ、目の焦点が戻る。
「すまないが、僕たちは彼の居場所を把握できていない。だが死体も見ていない。攫われたのか?」
現状、敵に尽く先手を打たれている。
だが青の魔女はどうやら敵の一枚上を行ったらしい。
状況確認のために尋ねたコンラッドは、青の魔女の顔を見て息を呑んだ。
「青の魔女、オーリは? オーリいなっ……ミ゛」
周辺を駆けまわって戻ってきたツバキも、青の魔女の顔を見て絶句する。
コンラッドは意思の力というものを正しく把握し、評価している。
それは根性論ではないし、感情論でもない。
士気が戦況に齎す影響は極めて大きい。
相手の戦意を挫けば戦わずして勝てる。
実力で勝っているにも関わらず気勢に飲まれて負けた者は古今東西枚挙に暇がない。
無論、意思の力だけで全てを覆す事はできない。
物事を成し遂げるためには、まず確固たる実力が必要で、その上で強い意思が求められるのだ。
コンラッドの目から見て、今の青の魔女はそのどちらもをこれ以上ない強さと激しさで兼ね備えていた。
迸る冷たい怒りを浴びているだけで膝を折ってしまいそうなほどだ。
野次馬たちも警官たちも蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
ツバキが怯えて足にしがみついてくるが、しがみつく先があればコンラッドも何かにしがみつきたかった。
心底震えあがる二人に、怒りを上限突破させとうとう能面のような無表情になった青の魔女は、一言だけ言った。
「片付けるぞ」