147 先代は良い奴だったのに
ロードリックには政治が分からない。
ロードリックは、ただのサバイバリストである。
大自然に分け入り、狩猟犬と遊んで暮らしてきた。
だから危険に対しては、人一倍に敏感であった。
成都租界のスチュアート邸に客人として滞在していたロードリックは、何かと理由をつけて二ヵ月も邸宅に留め置かれていた。
やる事といえばエインセル嬢の話し相手になったり、体幹トレーニングや危険な魔物の見分け方を教えるぐらいのものだったが、エインセル嬢の父アーサーにとってはそれが重要らしい。
厳密に言えば、娘とロードリックをセットで置く事が。
アーサーは未だ暗殺を警戒していた。それも、身内の裏切りを。
旧交のある青の魔女がつけた護衛ゴーレムすら信じ切っていないほどの用心ぶりで、心から信用できるのは自分と娘、そして娘を救った事実を持つロードリックだけと決めている様子だった。
エインセル嬢は飛行船暗殺事件で裏切った手勢だけで裏切り者は全員と考えたようだったが、アーサーはより慎重だ。イギリス本国の息のかかった黒幕が、依然として潜伏していると考えていた。
それはメイドかも知れないし、執事かも知れないし、親類かも知れないし、出入りの業者かも知れない。誰でも有り得る。
「分割して統治せよ」はイギリスの国是だ。目に見える外敵より、内部分裂をこそ警戒すべきだった。
とはいえロードリックは年端のいかない少女にすら看破されるほど腹芸ができない。
潜伏する裏切り者を探す内偵任務など務まるはずもなく、水面下で動いているらしい状況の推移がイマイチよく分からないままスチュアート家の客人として過ごしていた。
ピリついた空気を肌に感じ、落ち着かない夜を数えながら。
事件は二ヵ月にも渡って軟禁同然の窮屈な監視生活を強いられ我慢の限界に達したエインセル嬢が、監視を振り切った途端に起こった。
またしても暗殺されかかったのである。
あとほんの1m四次元消失範囲がズレていたら、エインセル嬢は死んでいた。
由々しき事態だった。
やはり、まだ裏切り者はいたのだ。巧妙に潜伏する裏切り者が。
ロードリックはアーサーに緊急招集され、青の魔女を交えて短い密談を行った。
そして諸々の打ち合わせをして、慌ただしく魔女一行の出立を見送り……数時間後。
太陽が山の向こうに沈んだ途端、事態は急変した。
スチュアート家お抱えの護衛変異者、イヴェットが本性を現したのである。
家に仕え家を護るべき要の人物が、全ての黒幕だった。
ガス灯のぼんやりした灯りに照らされる執務室で、魔法で眠らされた父を背中に庇い、エインセルは裏切り者を睨んだ。
一方でロードリックは彼我の力関係を正確に把握し、生存率を計算しながらエインセルのドレスの背中をそっと摘まみ一歩後ろに下がらせた。あまりにもささやかな抵抗ではあるが、たった一歩の距離が命に繋がる事もある。
変異者・イヴェットは夜の女だ。文字通りの。
暗い夜がそのまま人間の形になったような真っ黒な姿をしていて、体の輪郭がガス灯の灯りに滲み風も無いのに揺れている。
両目の位置にある白い両眼は夜空に静かに浮かぶ月のようだった。
イヴェットが、アーサーに向けていた杖の先端をエインセルに向ける。
エインセルは王笏ベイファンを指が白くなるほど強く握りしめ、気丈にも圧倒的強者へしっかと向け、啖呵を切った。
「それ以上近づかないで頂けますか? このクソアマ」
「やはりアジアの血が入ると言葉遣いが悪くなるようですね。誇り高きスチュアート家に相応しくありません」
慇懃無礼なイギリス英語を聞いていると、背筋がゾワゾワした。
A級魔物を凌駕する圧倒的な威圧感が、ロードリックの本能に今すぐ逃げろと訴える。
しかし逃げ切れるとも思えない。
「私に貴族の誇りを教えたのはイヴェットではありませんか!」
「ええ、ええ。私も初めは信じました。半分は高貴な血が流れているのだからと。しかし成長するにつれあの女に似ていった。顔はアーサー様に似ていても、仕草が、笑い方が、下劣になっていった」
「イヴェット、貴女という人は……!」
「その反抗的な目もですよ、エインセル。嘆かわしくも、貴女の高潔さは野卑の血に負けたのです。汚れは濯がなくてはなりません」
勝ち誇った夜の女が短く息を吸う。次に発せられる言葉が致死的な呪文だと察したロードリックは、咄嗟に横から口を挟んだ。
「なぜ最初からこうしなかった? 変異者ならいつでも、どうにでもできただろう」
「……貴方もつくづく運が無い。この場に居合わせなければ見逃して差し上げられたのですが。
忠臣が娘を殺したと知れば、アーサー様は悲しまれます。妻子を亡くされたアーサー様の御心を支えられるのは私しかいません」
自分本位な優越感に陶酔するイヴェットの言葉を聞いて、この手の謀略に鈍いロードリックにもイヴェットの動機が呑み込めた。
思えば、アーサーは一連の騒動の中で終始狙われていなかった。
イギリスが成都租界の首を挿げ替えたいなら、当主を殺して新しい人間を送り込むのが一番都合が良かったはずなのに。
狙いはずっとエインセルただ一人だった。イヴェットは素知らぬ顔で無実を演じながら、裏で糸を引いていたのだ。
王笏を持つエインセルは、まるで臣下に問う女王のように威厳をもって尋ねた。
「イヴェット。これは本当に貴女の意思なのですね?」
「ええ。死ぬ瞬間まで惨めですね、エインセル。命乞いをするか黙って首を差し出すかどちらかになさい」
「あら! 確かにその通りですわね。私とした事がはしたない、お母様を殺したクソアマと会話をするだなんてマナーがなっていませんでした。では御免あそばせ。
凍る投げ槍!」
奇妙にも、氷槍呪文はロードリックの隣と背後の二カ所から聞こえた。
エインセルが放った氷槍を余裕綽々で受け止め体表で弾いたイヴェットは、間髪入れず執務室の窓を突き破り外から飛来した強力な氷槍に吹き飛ばされ、轟音を上げ壁に叩きつけられた。
天井からパラパラと埃が落ち、常人とは桁違いの異常な威力を物語る。
振り返ると、破壊された窓からひらりと青の魔女が入ってきた。
「良い魔法だった、エインセル」
青の魔女はエインセルの頭を撫でて微笑み、二人の前に立つ。
ロードリックの胸にドッと温かな安堵が広がった。
出立したと見せかけイヴェットを油断させ戻ってくる手筈ではあったが、気配が無さ過ぎて本当に戻ってきているか確証が持てていなかった。
いま確信する。
イヴェットは終わりだ。
世界一強固な盾であり、世界一鋭い矛であり、処刑人でもある青の魔女は、イヴェットを冷たく見下し吐き捨てた。
「現行犯だ、イヴェット。当主への魔法行使に自白。もう言い逃れはできんぞ」
「……なるほど。罠にかけられたようですね。しかし青の魔女、立つ場所が違いますよ? 貴女もアーサー様と旧知ならば分かるでしょう。アーサー様の友人であるならば、友人の過ちを正すべきです。先程の攻撃は不幸な行き違いとしましょう。さあ、エインセルをこちらへ」
「キャンキャンうるさい。要は全てアーサーにフラれた僻みだろう? 不細工女」
冷笑され、明らかにイヴェットは苛立った様子だった。
「アジア人には英国貴族の誇りも義務も理解できないでしょうね。
それで? 私をどうしようというのですか?
何のために夜まで待ったと? 私は――――」
「夜の間は不滅なんだろ。知ってる」
夜の魔女がそうだった、と青の魔女は呟いた。
エインセルも当たり前の顔をしているし、本棚に背を預け睡眠状態のアーサーも知っていたのだろう。
知らぬはロードリックばかり。
ますます自分が場違いな場所にいる事を思い知らされている間にも、絶対者同士の話は進んでいく。
「夜限定の強力な再生能力。知覚身体能力の向上。魔法抵抗力。魔力の急速回復。お前が何か事を起こすなら夜だ。昼間だったら私にそんな態度は取れないからな?」
「分かっているなら退きなさい。いくら青の魔女でも今の私と戦えば無事では済みませんよ? 私はアーサー様を決して傷つけません。エインセルを殺して終わりですから、さあ」
「さえずるな。今お前が一番苦しむ殺し方を考えている」
本当に熟考している様子で、青の魔女はイヴェットに向けたキュアノスの先端を揺らす。
そんな青の魔女に、ロードリックの袖をぎゅっと握るエインセルは言った。
「拘束して頂ければ私の名において司法に則り処断しますよ、青の魔女様」
「……母の仇だろう。1秒だって臭い息をさせたくないんじゃないのか」
「その通りです。でも、私は青の魔女様が人の命を奪う事を好まれない優しい方なのを知っています」
「え。優しい?」
ロードリックの素の疑問は全員に無視された。
「せめて、決定の責任だけでも私に取らせて下さい。イヴェットを処断すると決めたのは私ですわ」
「ふ。子供がそんな気遣いをしなくていい。だが、そんなエインセルが私は好きだよ」
優しくエインセルの髪を手で梳いた青の魔女は「さて」と呟き、杖を持っているのと逆の手をイヴェットに向けた。
イヴェットは体を構築する夜を蠢かせ何かしようとするが、驚愕に固まる。
「! なんですかこれは。魔力が固まった……!?」
「空を飛び、火を吐けば、蜥蜴も竜」
青の魔女がローブを脱ぎ捨てながら呪文を唱える。
すると風船が破裂するような音と白煙と共に青みがかった黒色のドラゴンが顕現し、泡を食って動揺するイヴェットを前脚で掴み上げ、執務室を突き破り半壊させ夜空へ飛び立っていった。
暴風を纏う黒い巨影は、あっという間に星空の向こうに見えなくなる。
冷たい夜気が頬を撫で、遠くの物陰でカンテラを掲げ恐る恐る様子を窺っているメイドたちの姿が目に入る。
ロードリックはメイド達に親指を立てて見せ、ようやく肩の力を抜いた。
腰からも力が抜けそうになったが、エインセルの手前、見栄を張って踏ん張り軽口をたたく。
「これが貴族社会の日常か? サバイバルより危ないな」
「危険の種類が違うだけですわ。ロードリック様もいずれ慣れます」
「待て。俺はアメリカに帰るぞ? お家騒動の元凶が消えたなら俺はもう要らんだろ」
「ふふ、ロードリック様は冗談がクソ上手くていらっしゃいますわね」
コロコロ笑う鋼の心臓のお嬢様は、たった今死線を越えた緊張など忘れたようだった。
エインセルは、駆け寄って来た顔面蒼白のメイド達に父と共に揉みくちゃにされ、担ぎ上げられ安全な場所に運ばれていく。
その後ろをついていきながら、ロードリックは何だか経験した事のない種類の危機感を覚えた。
まるで外堀を埋められていくような……囲まれていくような……
首を傾げるロードリックは政治が分からない。
エインセルやアーサーが本当は何を思って自分を引き留めようとしているかも、分かるはずもなかった。
ロードリックが身の振り方を考えている頃、ドラゴンに変身した青の魔女はイヴェットを鷲掴みにし、流星のように星空を駆けていた。
自己強化魔法を併用した高速飛行は音速を突破している。
空気の層が衝撃波となって前脚に掴まれたイヴェットを殴り、体を構成する夜がなびく。
魔力を封印されたイヴェットは素の身体能力だけではドラゴンの力に勝てず、不貞腐れて大人しく運ばれていた。
「ハァ。まさか朝になるまで飛び続けるつもりですか? 落下死なんてしませんし、流石に朝になるよりこの封印を解除する方が早いですよ?」
「お前がバカで良かったよ。大丈夫か? 死ぬ前に後悔するだけの知能はあるか?」
魔力が封印されてもなお、再生能力は健在である。規模にもよるが魔法暴走による爆発からも元に戻れる強力な再生能力は、イヴェットに過剰な自信をつけていた。
自分の優位性を信じて疑わない夜の化身の言葉に、青の魔女は先程からずっと嫌味しか返さない。
全く嫌われたものだ、と溜息をついて何の意味があるかも分からない夜間飛行をさせられていたイヴェットは、見えてきたものに目を疑った。
計算が合わない。
まだ日が落ちて間もない。時刻は夜になったばかりのはず。
だが、確かに空の向こうがだんだん白んできていた。
見間違いではない。
日没から1時間も経っていないというのに、ありえない早さで日が昇り始めている。
夜明けが迫っている。
幻影でも見せられているのか?
混乱するイヴェットは、ふと気づく。
青の魔女が飛んでいる方角に。
「ま、まさか……!」
「気付いたか。夕日が昇るのを見るのは初めてか? 見納めだぞ、感謝して拝め」
青の魔女は地球の自転速度より速く西へ向かって飛んでいた。
遥か眼下の大地は流れるように過ぎ去り、幾つもの国を越え、時刻が変わる。
暗い夜は巻き戻り、美しい茜色の夕暮れがやってくる。
夜が終わる。
イヴェットは狼狽して叫び、必死に暴れた。
「や、やめなさい! 放しなさい、放せ、このっ、放せーッ!」
「やっぱり太陽は嫌いか。それは良かった」
地平線の彼方からどんどん夕日が昇っていく。
空が明るくなっていく。
反比例するようにイヴェットは弱っていく。
夜の間は何も感じなかったドラゴンの脚の怪力が、万力を締めるように体を潰していく。
滾る魔力が消える。
全能感が失われていく。
「やめなさい! やめろと言っている! 何故分からない! 私がお前に何をした!? お前にもお前の仲間にも、何もしなかったでしょう! 私はただ、アーサー様のためを思って、アーサー様のために! ぐぅううう!」
陽光を浴びて焦がされ煙を上げるイヴェットに軽蔑の唸り声を上げた青の魔女は、刻み付けるように呪文を唱えた。
「太陽に焼かれて灰になれ。沸き立て我が血潮、我が怒り。貴様の血を一滴残らず絞り出し、先祖への贖いとしよう」
悍ましい真紅の霧がイヴェットにまとわりつく。
黒い体から黒い血が絞り出され、魔力が急激に漏出していく。
イヴェットは悲鳴を上げた。恐怖と悲嘆の悲鳴を上げる以外、出来る事が無かったから。
悲鳴と体が萎んで、みるみる小さくなっていく。
風鳴りにかきけされ悲鳴が聞こえなくなった時、イヴェットは黒く塗りつぶされた小さなミイラのようになっていた。
青の魔女は鼻を鳴らし、カラカラに乾いた死体を夕焼けの空に放り投げる。
木の葉のように突風に翻弄される黒いミイラに、青の魔女はダメ押しの魔法を唱えた。
「私が操られたら、どうか躊躇わないで。君を殺したくない」
交差する二丁の大鎌が出現し、独りでに動きミイラを真っ二つに絶つ。
絶対死魔法によって切断されたイヴェットの死体はたちまち塵となり、風に吹かれ虚空に解けて消えた。
二度と蘇生叶わない絶対死を与えられたイヴェットは、跡形もなく世界から消え去った。
青の魔女は大きく旋回し、帰路につく。
たった今消し去った魔女の存在は早くも思考の隅に押し退けられ、青の魔女の頭の中は置いてきた恋人と娘への心配でいっぱいだ。
成都租界に暗い影を落とした裏切り者は、やがて忘れ去られていくだろう。