143 サバイバルお嬢様
サバイバリスト界隈には「野沢チャレンジ」と呼ばれる偉業がある。
2068年~2097年にかけて日本人サバイバリストKiyoshi Nozawaが打ち立てた大記録であるこの世界的冒険行は、世界に点在する魔法地形を全て踏破する事を示す。
ルールは簡単。
通常の(魔法的効果を持たない)衣服を着て、ナイフ一本だけを持ち、大魔法の暴走によってできた魔法地形の端から爆心地へ一人で移動する。水も食料も杖も持ち込まない。
爆心地に自国の国旗を突き立てたら、魔法地形の外に脱出する。
以上を単独かつ七日以内に行う。
つまり、場所によっては万全な装備でも死人が出る過酷で異常な大自然を、ナイフ一本だけで生き残るのだ。
しかも一度ではない。
21世紀を代表する偉大なサバイバリスト野沢は、当時合計で32カ所あった魔法地形を全てナイフ一本で踏破してのけた。
1回だけでは狂人の愚行。
2回なら類まれな幸運。
32回の踏破は、無名の野沢を誰にも真似できない世界的偉人に変えた。
野沢はただの人間だった。変異者でもなければ魔人でもない。入念な事前調査と療養期間を設け合計で29年かけたとはいえ、空前絶後の大記録といえる。サバイバリストを志す者なら誰でも知っている偉人だ。
野沢の時代から15年が経ち、サバイバル論は進歩した。
だが、野沢の後に続けと野沢チャレンジを行った歴戦のサバイバリストたちは、誰一人同じ事ができず、あまりにも高い壁の前に朽ち果てている。
極限環境での生き残りを得意とする超一流サバイバリストたちが生涯の集大成として目指す大目標「野沢チャレンジ」は、同時に地獄への入口でもあった。
アメリカはコロラド州、ロッキー山脈を望む魔王災害終結の地デンバーで生まれ育ったロードリック・ヒラリーもまた、野沢チャレンジに挑むサバイバリストの一人である。
幼い頃からロッキー山脈の自然に親しみ、銃杖をぶっ放して育ったロードリックは二十代にしてオーストラリア冒険紀行出版で財を成した。
三十代に入ってから野沢チャレンジ開始。
たった三年で「海神の大渦」「逆さま火山」「常闇平原」「不帰の霧」「光輝街道」「食わず砂漠」の六カ所を踏破し、夏の間に七カ所目を済ませてしまうために飛行船で移動していた。
ロードリックは、サバイバルを己への究極の挑戦であり証明だと考えている。
地球上で最も過酷な土地で、ナイフ一本で己を守り切り、困難を成し遂げる。
これこそが己の強さを証明する最高の証明だと信仰している。
強い杖を持ち、強力な魔法金属で身を固めても、それは装備が強いだけ。
仲間と共に成し遂げても、それは仲間がいたからこそ。
身一つで過酷な挑戦を成し遂げてこそ、真に混じり気のない己の価値を証明できる。
だからこそ、ロードリックは墜落炎上する飛行船の中から少女を抱えて這い出した時、これは厄介な事になったぞ……と早速後悔していた。
「貴方、素晴らしい道徳心をお持ちですのね。助けていただき感謝いたしますわ」
「ああ……どういたしまして」
もこもこした見るからに高級なファーコートに身を包んだ十歳ほどの少女は、凄まじい吹雪に横殴りにされよろめきながらも、上品にカーテシーをした。
飛行船が墜落したのは、踏破予定の「ウェンディゴ・マウンテン」のド真ん中だ。
ウェンディゴ・マウンテンは北米の魔法地形である。大氷河魔法の暴走によって形成された氷山は周辺一帯を雪と氷で閉ざし、一年を通し吹雪が吹き荒ぶ過酷な土地となっている。
夏の間は多少なりとも気温が上がり攻略しやすくなるため、ロードリックは近くの町に宿を取り、猛暑日が続く一週間を狙い澄まして踏破する腹積もりでいた。
思えば、民間の飛行船に黒服の護衛をゾロゾロ連れた幼いどこぞの御令嬢が乗船してきた時点でイヤな予感はしていた。
ドラゴン便を使わない大金持ちは、大抵ワケ有りだ。関わってもロクな事はない。
キナ臭さを嗅ぎ取ったロードリックは客室の端で大人しく目立たないようにしていたのだが、足りなかった。
出発から1時間が経過した頃、船内に爆発音と悲鳴、呪文が響き渡った。
具体的に何が起きたかは分からない。
だが、結果として飛行船は炎を上げながら墜落。
覆いかぶさる護衛たちの死体に護られた少女と、あり合わせの物で厚いクッションを作ったロードリックだけが生き残った。
何も聞かなくても分かる。
大金持ちの御令嬢にまつわる何かしらの事件あるいは陰謀に、ロードリックは巻き込まれたのだ。
多数の民間人を巻き込んでまで決行されるほどの殺人だ。これが厄介事でないならなんだというのか。
「申し遅れました。私エインセル・スチュアートと申します。お名前を伺っても?」
「……ロードリックだ」
明瞭なクイーンズ・イングリッシュは、言外に金髪碧眼の幼い令嬢がサバイバルと無縁なイギリス上流階級の出である事を示している。
不運と言う他なかった。
己が身一つで踏破すべき過酷な魔法地形に、厄介極まるお荷物付で投げ出されてしまった。
激しく吹雪く白い雪原の中、飛行船がゴウゴウと燃えている。
肉の焼ける臭い。血の臭い。鼻をつく焦げ臭さ。不愉快な臭いは、しかし二人が凍死を気にせず身の振り方を考えるだけの時間的猶予をくれた。
巨大な破滅の焚火に照らされるロードリックは、飛行船の破れ千切れた船体の切れ端を手癖のように拾い集めながら、努めて冷静に状況を整理する。
まず何よりも、生き残る事だ。
それが大目標。
不幸中の幸いで、不時着したこのウェンディゴ・マウンテンの環境は頭に叩き込んである。単独で脱出し、麓の街に辿り着くのは不可能ではない。
不可能ではないとして、その実現性は何%だろうか?
1%も99%も同じ「不可能ではない」に分類される。実現可能性を概算して、その結果に基づいて行動を決めるべきだ。
野沢曰く「サバイバルとは魔力配分である」。
魔力は火になり水になり、武器にも防具にもなる。
適切に魔力の用途を見定める事で、生存能力は飛躍的に向上する。
逆に、少ない魔力をバカな使い方で散財すれば、生存は絶望的だ。
ロードリックの保有魔力量は20K。
工夫すれば魔法地形から脱出するに十分な量である。
では、自分の後ろをちょこちょこ着いて来る、このイギリスお嬢様は?
「ロードリック様は、先程から何をなさっているのですか?」
「生き残るための資源を集めている。エインセル嬢、保有魔力は?」
「20Kです。魔法学院の4年生ですわ」
エインセル嬢は、歳に見合わぬ落ち着きぶりで質問の意図を正確に読み取り答えた。
喚き散らし泣かれ縋りつかれるよりずっと良い。
だがそれでも10歳になるかどうかの箱入り娘と考えると、合計40Kはなんとも心許ない。
「ロードリック様がいらして良かったわ。私、こういった事に不慣れですの。街までエスコートをお願いいたしますね」
「…………」
のほほんとしたエインセルの物言いに、ロードリックは頭を抱えた。
落ち着いた少女だと思ったが、違った。
自分がどれほど危機的な状況にいるか分かっていないだけだ。
誰かに世話をされ、傅かれる生き方に慣れ切っている。それが通じない状況があるだなんて思いもしていない。
ロードリックは早々に少女に見切りをつけた。
サバイバルは精神的にも肉体的にもタフでなければならない。
世間知らずな上に豪奢な服の重さで折れてしまいそうなほど華奢な深窓の御令嬢に足を引っ張られていたのでは、生き残れるものも生き残れない。
可哀そうだが共倒れは御免だ。
ロードリックは集めた厚い布とロープで手早くリュックサックを作りながら言った。
「エインセル嬢。俺はもう少し遠くまで資材を探しに行ってくる。1時間で戻るから、それまでここで待っていてくれ。戻ったら二人で麓まで降りる手はずを整えよう」
「あら? ロードリック様は嘘がお上手ではないのね。お顔に『見捨てる』と書いてあるわ。お茶会で苦労されているのではありませんか?」
ロードリックは、顔色一つ変えずマイペースで言い放ったエインセルに絶句した。
あからさまな猫なで声を出したつもりはないし、理にかなった言い分だったはずだ。
それでもエインセルは容易く嘘を見抜いた。
少女は大自然で生き抜く力を持たない代わりに、貴族社会で生き抜く力を持っているらしい。ロードリックとは真逆だ。
「……いや、そんな事はない。1時間で戻る。見捨てたりはしない。ほら、偵察に二人で出かけても仕方がないだろう? エインセル嬢はここで動かず体力を温存していて欲しい」
「うう~ん。そうですわね、では約束いたしましょう。ロードリック様が私を麓まで届けて下されば、貴方が望むだけの報酬を支払うと誓約いたします。私が生きて帰れば、お父様は必ずそうして下さいます。1億ドルでも2億ドルでも、お好きなだけ」
「それは……」
ロードリックが躊躇すると、エインセルは微笑み、そのほっそりした小さな白い手に指から豪華な指輪を抜いて握らせてきた。
「これを手付金としてください。値段は分かりませんが、当家で召し抱えている一流の職人の作です。それなりの値にはなるでしょう」
「……これは真空銀製か?」
「魔法金属製と聞いています。中石は魔石『マーリン・ダイヤモンド』ですわ」
ロードリックはゴクリと息を呑んだ。
実際、魅力的な提案だった。
野沢チャレンジにはとにかく時間と金がかかる。大怪我を負えば高額な治癒魔法を受ける必要があるし、下調べも移動費もタダじゃない。
冒険記出版で儲けた金がまだまだあるとはいえ、この先十年も二十年もかかる野沢チャレンジ完走まで足りるかは怪しいところだった。
この先を見据えるなら、英国貴族がバックについてくれるチャンスは非常に魅力的だ。
だが、それは生き残れたらの話。
欲に駆られて足手まといを連れた結果、自分が凍死しては意味がない。
生存確率と利益を天秤にかけしばらく悩みに悩んだロードリックは、吹雪になびく金髪を手で押さえ吹き飛ばされまいとしている少女に確認した。
「不躾な話だが、麓に下りた途端に……あー、飛行船にいたような連中に襲われるなんて事は?」
「ありえません。当家の事情は伏せさせていただきますが、この飛行船で私の命を奪えなかった。それで全て終わりです。ああいえ、スライムを食べさせられた虎のように怒り狂ったお父様が待っているかも知れませんが、ロードリック様が私を護衛して下さったと知れば騎士位を下さるでしょうね」
「OK、いいだろう。俺の言う事を全て聞くと約束できるなら、エインセル嬢の護衛を引き受けよう」
「ええ。よろしくお願いいたしますね、騎士様」
少女は微笑み、片手を差し出してきた。
一瞬握手かと思ったが、エインセルは手の甲を上に向け、気位高く笑みを浮かべている。
ロードリックは苦笑し、降り積もる雪の上に片膝をつき、エインセル・スチュアートの手の甲に接吻をした。
かくして二人の下山は始まった。
手始めに、二人は火の手が収まった飛行船の残骸からエインセルを護って死んだ護衛を探し、埋葬した。
エインセルがそうすると言って聞かなかったからだ。
早速「俺の言う事を全て聞く」約束を真正面からブチ破ったエインセルに、ロードリックは散々口汚く悪態をついた。
「とんだクソお嬢様だ。こんなクソ雪山でもクソ貴族らしくあらせられる。クソが!」
「これがクソ貴族のクソ誇りというものですわ」
かじかんで赤らむ手に息を吹きかけながら、エインセルは軽やかに笑った。
箱入りお嬢様のクセに俗なアメリカ英語に慣れるのが早すぎる。だがイギリス訛りでまくし立てられるよりずっとマシなのは確かだ。
お嬢様の我儘を渋々聞いたロードリックは、代わりにお嬢様にサバイバルの基礎を叩き込みながら下山を始めた。
「嫌ですわ。脱ぎません。これはお婆様が誕生日に下さった大切な靴ですの」
「うるせぇ! こんなクソハイヒールで雪の上を歩けるか、バカが! 脱げ、捨てろ! 荷物にしかならん! 脳みそにクソ詰まってんのか!?」
飛行船の残骸から作ったスキー板をたどたどしく操るエインセルが妙にフラついているのを不審に思ったロードリックは、クソの役にも立たない化粧品や財布を詰め込んだポシェット、そしてキーケースやらぬいぐるみやらをコートの下に隠していたのを見つけてブチ切れた。
「余計な物は置いていけと言ったよなぁ!? なんだこれは!」
「余計な物ではありませんわ! どれも私の大切な――――ああっ、何をなさるの! 横暴ですわ!」
「体が重くなるだろーがボケッ! 要らん要らん要らん、これも要らん! これはションベンみてぇな中身捨てちまえ、後で水筒にして湯を沸かす!」
雪中行軍初日にいきなりA級魔物に遭遇した時は、二人揃って震えあがった。
「な、なんですの? あのクソ大きくていらっしゃる白い狼は……!」
「喋るな……! 動くな、刺激するな。奴が満腹だと祈れ」
「く、空腹なら?」
「俺達は食われて死ぬ。満腹でもオモチャだと思われたら死ぬ。とにかく動くな、つまらん生き物だと思わせるんだ」
A級魔物に鼻息をかけられるほど接近されるも九死に一生を得た二人は、日が暮れる前に雪で小さなスノーハウスを作った。
狭いシェルターの中で身を寄せ合い、炎魔法で温めた白湯を飲み、体と精魂尽き果てた心を温めた。
「思ったのですけど、仮死魔法を使えば安全にあのA級魔物をやり過ごせたのではなくて?」
「ハッ、頭でっかちの浅知恵だな。仮死魔法を使ったら、この温かい湯を沸かすために必要な魔力が足りなかった。そしたら凍死だ。違うか?」
「……違いませんわ」
「その空っぽの頭にクソ以外を入れておけ。いいか? サバイバルは、魔力配分だ。魔法の使いどころを見極めろ」
「心に刻みますわ」
三日目になると空腹は限界に達した。
雪洞に腕を突っ込み、翼の生えた蛇のような魔物を引きずりだしたローデリックは、天に十字を切って恵みに感謝した。
「おお神よ! ありがとうございます。ささやかな恵みに感謝し、血の一滴も無駄にせず食べ尽くします」
「え゛……た、食べるんですの? そのクソ蛇を?」
「口が悪いぞエインセル嬢。餓死よりマシだろ? さあ、魔力の使いどころだ。皿を用意しろ。いいか? まず全身を骨と皮ごと細かく刻んでミンチにする。胃液と胆汁を肉とよく混ぜるんだ。そうすれば腹を壊しにくくなる。じっくり漬け込んで熟成する時間がないから、生で食べるぞ。腹の調子が悪くなってきたと感じたタイミングで治癒魔法を使って不調を治すんだ」
「ううっ! 私、吐きそうですわ。無理です、これは無理」
「無理なら体力が尽きて死ぬ。食え、死にたくないだろ?」
最初、ローデリックはいよいよとなったらエインセルを置いていこうと考えていた。
だが、エインセルは四六時中弱音を吐いたし泣き言を言ったが、一度として涙を見せなかったし、生存を諦めもしなかった。
エインセルは華奢な深窓の令嬢だったが、同時にクソ根性も兼ね備えていた。
とはいえ。
いくら蛇魔物の生食ができても、元が体力も筋力もないお嬢様である。
日に日に一日に進める距離は短くなっていき、五日目にはとうとう200m進んだかどうかというところでエインセルは倒れてしまった。
ロードリックも疲労困憊だった。体力の消耗はもちろん、庇護対象を連れているとそれだけで大幅に気力を消耗する。
ロードリックのぼんやりと痺れたように鈍った頭に「見捨てる」という選択肢が浮かび上がる。
だが、ロードリックは雪に倒れ込んだエインセルを助け起こした。スキー板を解体し、板と足を結んでいた二本の紐を解いて一本に結び合わせ、それを背負い紐代わりにして少女を背負う。
華奢なのも悪い事ばかりではなかった。
体力は無いが、背負っても軽い。
「……いや嘘だ。めちゃクソ重いぜ、エインセル嬢。鉛でできてんのか?」
「それでも背負って下さるのですね、ロードリック様。率直に申し上げて、意外ですわ」
「何が」
背負ったエインセルのか細いが熱い息が、生きている証が、首筋にかかる。
エインセルは力の抜けた声をなんとか形にして、首に回した両手の力を緩めて言った。
「私も少しは生存術を知りました。今からでも私を捨て置けば、ロードリック様は容易く下山できるのではありませんか。私を連れているから、ロードリック様までお命が危ない……」
ロードリックは首に回された両手を握り、しっかり自分にしがみつくように調整してやる。
そして、この五日で何百回も考えた事を口にした。
「俺は、一人で、身一つで大自然を制覇する事こそ最強の証明だと思っていた」
「ええ……」
「誰の助けも借りず。ナイフ一本で、自分の価値を自分自身に証明する。それが至高だと思っていた」
「ええ……」
「だが違った。それは野沢の考え方だ。俺には別の証明が見えた。
単純な計算だ、エインセル嬢。一人で生き残るより、お荷物連れて二人で生き残る方が難しい。1より2の方が大きいんだ。二倍だぞ、二倍! 二倍難しいんだ。エインセル嬢を連れてこのクソ雪山を脱出すれば、俺は一人で脱出するより二倍偉大になれる。このチャンスを逃せるか? 逃せるわけないだろ? なあ?」
返事は無かった。
しかし、ロードリックはエインセルが笑ったのが分かった。
ぎゅっと精一杯の力が込められた小さな両手を活力に変え、ロードリックはまた少し麓に向けて進んだ。
足がガクガクと震える。寒さと極度の疲労のダブルパンチだ。
視界が霞む。雪と睡眠不足のせいだ。
一人ならもっと身軽だ。もっと早く下山できる。最初から一人なら今頃下山できていた。
しかし、いま雪を踏みしめ歯を食いしばり歩を進められているのは、間違いなくずっしりとした二人分の重さがあるからだった。
ロードリックは意識を失いそうになり、強化呪文を唱えた。
体に力が漲り、同時にこの魔法が切れたらいよいよ打つ手が無くなると悟る。
遮二無二スキー板を駆るロードリックは、街の尖塔が見えないかと目を凝らす。
だが、何も見えない。
行けども行けども、雪と氷の冷たく凍える無慈悲な銀嶺世界だ。
魔法が切れる。
それでも、ロードリックの気力は切れない。
一歩、進む。
もう一歩、進む。
さらに一歩進んで、全身の力がフッと抜け横倒れに倒れ込んだ。
雪が冷たいはずなのに、温度が分からない。
もう痙攣もない。
ロードリックは全ての力を使い果たした。
「エインセル嬢。生きてるか」
「ええ……生きてますわ」
「空のアレが見えるか」
「ええ……クソドラゴンですわね。ここに降りて来ますわ」
「まだ諦めてないな?」
「ええ……!」
「俺はもう手が動かん。ポケットの中のあの指輪を取ってくれ。遠くに投げろ。財宝目当てにそっちに行ってくれる事を祈れ」
無理なら、死ぬ。
言わなかったその言葉の続きが分かるぐらい、エインセルはサバイバルに慣れた。
エインセルは四苦八苦して背負い紐を抜け出し、緩慢な動きでロードリックのポケットを漁る。
探り当てた指輪にそっとキスをしてから握りしめ、遠くに投げ捨てるために大きく振りかぶったエインセルは、目を丸くした。
今まで涙を見せなかった少女の瞳が潤む。指輪を投げようとしていた手は、下降してくるドラゴンへ向けて大きく振られた。
泣き笑いするエインセルは、倒れ込み目を閉じるロードリックの肩を揺さぶり歓喜した。
「当家の紋章を下げたドラゴンです! 助けが来ましたわ!」
答えようとするが舌が上手く回らない。
代わりにロードリックもまた、熱い涙を零し雪を溶かした。
ドラゴンが着陸する衝撃を雪の大地から感じる。風圧で雪が吹き飛び、熱い熱気が逆巻く。
倒れたまま深い安堵に包まれるロードリックは、ドラゴンに向かって軽やかに駆ける少女の足音と、凍り付くような喜びの言葉を聞いた。
「クソ会いたかったですわ、クソお父様!」
「!?」
血の気が引いた。
学ぶのはサバイバルだけで良かったのに、口の悪さまで教えてしまった。
弁解しようとしても本当に体がピクリとも動かない。
変な汗をかきはじめたロードリックの体は、ややあって屈強でがっしりとした、上品な香水が香る男の手によって力強く助け起こされた。
怒りの滲んだ声で噛みつくように語り掛けてくるその声は、いかにも貴族然としたクイーンズ・イングリッシュだ。
「君は死なせん。娘に何をしたのか、君は何者なのか。じっくり聞かせてもらわなければならん」
「……俺はただのサバイバリストですよ」
ロードリックは力なく呟き、暖かな治癒魔法を感じながら意識を失った。
娘に悪い影響を与えた悪い虫が、怒り狂った父に八つ裂きにされない事を祈りながら。
かくして、お嬢様とサバイバリストの脱出劇は幕を下ろした。