“推し活”のすすめ
しかし凪紗が感じたのは、顔を傷付けられた痛みではなく、誰かが近づいてきた気配と足音だった。
「なに!するの!!」
瑞希の声に凪紗は目を開ける。掴まれた手を振りほどこうとしている瑞希と、
「奏……。」
瑞希の両手を掴んだまま、こちらを見つめる奏がいた。瑞希も凪紗の声に反応して後ろを見る。
「南野奏……。なんで!手、手握ってる……!やば!至近距離やば!」
突然目の前に現れた南野奏に、瑞希は興奮気味だ。しかしそんな瑞希の声が届いてないように、奏は真っ直ぐに凪紗を見ていた。
「……はぁ、まじで?ほんとに生まれ変わりかよ、」
奏はボソボソと小声で呟く。
「へ?」
「いや。……凪紗、何やってんだよ。」
「こっちのセリフ。なんで、来たの?」
さっきまで有り得ない程近い距離にいる南野奏に、興奮していた瑞希の顔色が変わる。
「……ねえ、待って?なんで、凪紗と普通に話してるの?なんで、こいつのこと庇うの?ちょっと顔に傷付けるだけだから、殺したりしないから、大人しく見守っててよ。」
「顔に傷……?」
奏はハッとしたように、瑞希の右手に握られているカッターナイフを見る。
「だって、こいつはっ!私たちファンプレイヤーのことを、侮辱したのよ!?奏だって、凪紗のこと、軽蔑するでしょう?ずっとあなたのこと、支えてきたファンのこと、下に見てる奴なんて。ねえ!奏!!」
瑞希は奏に必死に訴える。しかし奏は瑞希の声が聞こえていないのか、と思ってしまうほど凪紗から一瞬たりとも目を離さなかった。
「なんで?なんで、こいつのこと、そんな目で見てるの……?やめて、やめてよ!こんな奏の顔にしか興味無いような女より、私の方が、よっぽど奏のこと、支えてきたんだよ……?CD買って、新曲でたら何万回も聞いて、ライブも応募しまくって、チケット買って、グッズも買って、……。私の方がよっぽどあなたの役にたってる……!!あなたのこと、支えてきたのは、私たちファンでしょう!?お金、たくさん使って、好きになっても貰えない、認知しても貰えない。それでも、いいって思って、あなたたちが作る音楽が好きだから、あなた達の幸せが私の幸せだって言い聞かせて、貢いで、推して……。なのに、なんで……、少しもこっち、見てくれ、無いの……?」
瑞希はいつの間にか泣いていた。
─────その気持ち、知ってる。
凪紗はふと、半年ほど前の自分を思い出す。どれだけ手を伸ばしても、届かない存在。いつもいつも、自分の頭の中は彼らのことでいっぱいなのに、彼らは少しも自分のことを知っていないという事実。自分から見たら特別な存在なのに、彼らから見たら、「ファン」という存在として、一括りにされてしまうことへの劣等感。どれだけ節約して、生活費を切りつめて、貢いでも、見返りが返って来る訳では無い、虚しさ。そして何より、その状態が当たり前とされていて、見返りを求めることすら許されていない風潮への違和感。
─────その虚しさも、劣等感も、違和感も、苦しさも、辛さも、でも彼らの役に立っているという事を信じることで少し楽になって、少し満たされる、その欲求も全部知ってる。
それが今となっては、求めすぎているな、と考える。彼らに知ってもらえるだけでも良いと思っていたのに、どんどん欲しがりになっている。
凪紗の顔が少し苦しそうに歪む。奏はそれを見過ごさなかった。
「……凪紗?」
「いいの、奏。瑞希ちゃんの心が、少しでも楽になるのなら、私の顔の一つや二つ安い物だから。だから、手、離して。」
「な、に、言ってんだよ。お前は、」
「いいから。離して。」
「……なんで、お前は。そうやっていつも自分のこと安売りするみたいに……!お前が良くても、俺は良くない……!!」
「いいの、私の顔でしょ?どうしようと、私の勝手。」
「なんで!そんな事!言うんだよ!!なんでもっと、自分を大切にしないんだよ!!」
「うるさい!!さっきから、凪紗、凪紗って……。奏は私の事見てる?少しでも、見てくれてる!?ファンの事、大切なんじゃないの?!」
凪紗と奏の口論を聞いていた瑞希は、耐えられないと言うように叫ぶ。
「こいつは私たちプレイヤーのこと、切り捨ててまでも、あなた達に近づこうとしたんだよ!?許せなく、無いの?デュエットの件だって、どうせこの女に脅されたとか、なんかなんでしょ?こいつはあなたの優しさに漬け込んでる!!」
「……それは、違う。あの動画は間違えなく俺が発した言葉だ。俺の本心だ。凪紗は何も悪くない。」
「……何、言ってるの?あれは凪紗の言葉でしょ?」
「違う。凪紗は俺を庇っただけだ。」
「奏!!何言うの!?私は庇ってなんか、無い!」
「凪紗は、俺の事を、バンドの事を思って。本当は俺が、プレイヤーを、傷付けたんだ。今まで着いてきてくれたファンを、侮辱した。」
「……そんな、そんな訳ない……。奏がそんな事、言うわけ、無い。あんな綺麗な歌詞を書いている人が、私にいつも寄り添ってくれる歌を作っているあなたが、そんなこと、する訳、無い。」
「……改めて俺からプレイヤーの皆には謝罪するつもりだ。君も、今まで信じて着いてきてくれていたのに、がっかりさせてしまった。裏切ってしまった。本当に、ごめんなさい。」
奏は瑞希の手を離し、地面で正座をしたまま、頭を下げた。
「……違う。こんなの、南野奏じゃない……。私の好きな、奏じゃ、無い……。奏は昔から、ずっとファンのこと、大切に思ってた……!……お前、だろ。」
「え……」
「お前が、お前が奏の事!!そそのかしたんだろ!!ふざけるなよ……!!私の!!私の奏を!!!!返せ!!!」
瑞希は我を失ったかのように、凪紗に襲いかかる。それを止めようと奏は必死で瑞希を抑える。
「待って……!瑞希、ちゃん。凪紗は何もしてない。何も、悪くないから。巻き込ま無いで。」
「なんで!こいつを庇うんだよ!!なんでこいつを助けようと、するんだ!!!なんで、さっきまで私の方なんて、見向きもしなかった癖に!!!今、なんで私の名前、呼んだんだよ!!こいつを、助ける時だけ……!……やっぱり、お前が悪い。お前さえ、お前さえいなければ!!」
「瑞希、ちゃんっ!!……うっ!ゲホッ!ゲホッゲホッ」
それまで瑞希を必死に抑えていた奏が急に咳き込む。凪紗は思わず奏の方を見ると、顔が真っ青だった。息も荒くなっており、肩でゼェゼェと息をしている。
─────あ、やばい。無理、しすぎた。
今までのいざこざの中ですっかり忘れていたが、奏はこれでも、病人だった。バンドを続ける事でさえ、体に負担が掛かるというのに、さすがにこの揉め事は、体に負担がかかりすぎだ。
しかし、なんの事情も知らない瑞希は奏の様子などお構い無しに、こちらに向かってくる。
「凪紗、もう悪いなんて思わないわ。全て、あなたのせいなの。死んで。」
瑞希はもはや正気では無かった。
「死んで、死んで、死んで。」
と呟きながら凪紗の方へ近づいてくる。その後ろで何とか瑞希を止めようとする奏も、足がふらついて立てずにいた。そんな奏に凪紗は笑いかけるように、
「大丈夫だよ、奏。ありがとう。」
と呟いた。




