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歴史

「式部卿の御息所」の返らぬ手紙

彼女は、書き上げたその文を破り捨てようと 指に力を込めたのち 両手を 膝の上に下ろした。


そのまま 文を見下ろす。


膝の上にあった 彼女の右手が上がり、自らが書いたその文字を その手の平が さらりと撫でると、口からは、ふぅっと ため息が漏れた。


美しき 高貴な女性。


その名を、良子という。


母は、藤原比良忠の次女・広子。 父は、智伊豆天皇 第四皇子 式部卿宮・明軽親王。 つまるところ、良子は、智伊豆天皇の 皇孫にあたる。


当人は、先の春宮の妃であったが、先年の流行り病により、宮を亡くした後、六条京極・・・ 現在の 下京区本塩竈町辺りに居を構えている。 彼女は、父である明軽親王の肩書から、もっぱら「式部卿の御息所」と称される貴人であった。


さて、その「式部卿の御息所」良子の元に、若き皇子が 通い始めたとの 噂が風に乗るようになったのは、いつの頃からだったであろうか。


まだ 少年と呼ぶのが相応しい風貌の皇子は、七弦琴の名手であった良子が、はっと 息をのむような音楽の素養を持ち、十二歌仙の一人に数えられる彼女が思いもつかぬ発想の和歌を詠む・・・ いわば、才の塊であった。


そして、特筆すべきは、その光り輝くような姿、匂い立つような麗しき風貌。


はじめは、若く美しい子供を、からかうような気持ちで、彼と相対していた良子も、宮中の女官から「輝く諸星の君」と呼ばれるその皇子に 詩歌、管弦、琴などを教え、そして、女性の体の不思議を手ほどきする 毎日を送るうちに、この少年に のめり込み、皇子なくては、生きてゆけぬという自分の気持ちが、にじみ出ぬよう その心を抑えることに 苦労するようになっていた。


やや 年は取ったものの、彼女の容貌は まだまだ美しい。


気品にあふれ、教養は言うまでもなく、もちろん 身分も人に優れる。


良子は、その気位の高さから、この若き皇子に 素直な心を見せることが出来ず、自分を・・・ その高きプライドを傷つけまいと、心の奥底に気持ちを 押し殺すのであった。


そんな良子の想いをよそに、屋敷に「諸星の君」が 毎日のように通った春が過ぎ、梅雨をこえる頃には、六条京極には、以前の静けさが戻っていた。


皇子の足が遠のいていったのだ。


生来の気位の高さから、素直に心を現すことのできぬ良子。 もちろん、大きく開いた年の差・・・ 年上だという 引け目もあったのだろう。


「諸星の君」は、次第に 完璧な女性「式部卿の御息所」に 息苦しさを感じるように なっていたのである。


「式部卿の御息所ではなく、この私・・・良子だけを見てほしい。」 自ら纏った 完璧な女性の仮面を取り払い、素直に そう伝えることが出来たならば・・・。


皇子の新たな恋人・・・ 自分にはない若さを持つ女性の噂を聞き、その逢瀬を想像するたびに、琴を奏でる指が震え、その音は 小さく乱れるのであった。


心を乱し、何度送っても返ってこぬ文のことを思い出すと 琴を かき鳴らす。


そんな毎日を繰り返すうちに、暑き夏は過ぎ去り、秋風が 庭の萩を 揺らしはじめる。


時折、彼女が 鳴らす七弦琴の音が 響くのだが、屋敷の中は、寂しいもので、良子と共に 屋敷に住まう者といえば、世話役の お側仕えの女のみと なっていた。


今でいう、黄斑変性症・・・ いや、緑内障であったのかもしれない。 この頃、独り家にこもる良子が、目の奥の痛みと、頭痛を訴え始めた。


その目は、光を失い始めており、夜空の美しい月を見上げても、その光は、おぼろ。


彼女は、その記憶から「諸星の君」の 愛らしい笑顔さえ 薄れて消えつつあることに、恐れおののいていた。


再び 皇子の顔を 拝することが出来たとしても、自分の目が それを、はっきりと 視認することが出来るとは 思えなかったのである。


そんな、ある日のことであった。


もはや 月明かりを おぼろに感じることしか出来ぬその目で、いつものように 七弦琴を奏でる良子の耳に、廊下をきしませる 足音が聞こえた。



  諸星の君っ・・・



思わず 琴から指を離し、大きな声で叫びたくなる気持ちを抑えつけ、その足音を 気に留める素振りすら見せずに 弦を弾き 琴を奏で続ける。 そうして、曲が 静かに その調べを終えた時、良子は、小さく呟いた。



  秋の日の あやしきほどの夕暮に 荻吹く風の音ぞ聞こゆる


(あやしいほどさみしく、あなたが恋しい秋の夕暮に、庭の荻が、風にそよがぐ音が聞こえるのです)



これが、精一杯だったのだろう。 心の中を 素直に詠む良子の歌に、若き なめらかな指先が、そっと、彼女を撫でる。


・・・皇子っ、わたくしは、返ってこぬ あなたの文を ずっと待っていたのですよ。 本当に、あなたに 逢いたかったのですよ。 ・・・心の中で、呟きながら、差し出された手を 握り締める。


月の明りが、2人を照らす。


御簾は、するりと開かれ、すっかり痩せてしまった 彼女の体は、やや細めの腕によって 力強く持ち上げられると、しとねに寝かされた。


ひたいをふわりと撫でる 甘い吐息を感じながら、彼女は、もはや光を失ってしまった 目を閉じ、ニコリとほほ笑む。 彼女の 喉は、その役目を終えたとばかりに 最後の息を吐き出すと、そのまま ふっと 動きを止めた。


どれほどの時間が経ったか・・・ 白く寂しい月明かりに照らされ、御簾が持ち上がる。 そこに立つのは、良子を世話する お側仕えの女が ただ一人のみ。


少し欠け始めた月が、その濡れ縁を 照らすばかりであった。



寂しき秋風が、するりと 都の通りを吹き抜ける。


人気の無くなった その道には、諸星の君の正妻に その男子が 誕生したことを祝うためにまかれた 紙の祝い細工が、秋風に吹かれ カサカサカサと、もの悲し気な音をたてて 舞っていた。

秋の日の あやしきほどの夕暮に 荻吹く風の 音ぞ聞こゆる


出典 斎宮集 詠み人 徽子女王(きし(よしこ)じょおう)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 秋の企画から拝読させていただきました。 世界観が大変しっかり構築されていて、平安ロマンに浸りきることができました。 哀しいお話ですが、これもまた妻問婚でしょうか。
[良い点] 主人公の心情が伝わってくる美しいお話ですね。 「荻吹く風の音」は、お招になられた足音、で久しぶりに逢えたうれしさを表しているようで。 [一言] 徽子女王って最近見た名前だけど誰だっけ?と…
[良い点] 秋に相応しい物悲しくて素敵なお話でした!
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