【転】赤い林檎と声の行方
少女は夢を見ていました。
幼いころの自分、目の前には真っ赤な林檎。とても美味しそうで、貧しかった少女はそれが食べたくて仕方ありません。林檎を差し出すのは、誰だっただろう。幼い少女から見ると、まるで大きな悪魔のように見えました。
『君の声をいただくよ。』
そう告げられた途端、少女は溺れるような感覚に陥って、息ができなくなりました。怖い。必死に天へ向かって手を伸ばして助けを求める少女。すると、少女の手が何かを掴みます。その瞬間真っ暗だった世界に光が差し、見慣れた端正な顔が目の前に現れました。
「おい、大丈夫か?」
少女が掴んだのは、リオの手でした。最初は寝起きで頭が働きませんでしたが、状況を把握すると飛び上がって驚き、掴んだ手を開放します。はっと時計を確認すると、起床時間をだいぶ過ぎてしまっていました。
「あんたが寝坊なんて珍しいから様子を見に来たんだけど、大分魘されてたぞ。」
怒られるかと思いましたが、リオは心配げにそう言いました。そういえば、幼いころの夢を見たんだった。少女は自分が汗をびっしょりとかいていることに気づきます。
汗…と考えて、少女は急に今の状況が恥ずかしくなってきました。肌蹴た寝巻の前を隠すように胸元で腕をきゅ、と組むと、リオにもそれが伝わったようで、少し顔を赤らめながら慌てたように言いました。
「し、仕方ないだろ。この屋敷に女はあんただけだし、他の従者に起こさせるわけにもいかなかったんだよ。」
こくこくと少女は頷き、申し訳なさそうな表情を作ります。
「じゃあ、俺はもう仕事に戻るけど。今日は午後から大事な来客があるんだから、しっかりしろよな。」
そう言って、リオはそそくさと部屋を出て行きました。そうだ、お客さまが来るから、応接室のセッティングとお茶出しを頼まれていたんだった、と少女は思い出します。
今日招いているのはチャールズ・ハワード公爵。リオの領土に隣接する土地を治めており、人望も厚いと言われています。リオも今回は珍しく話を聞くのを楽しみにしていました。
午後、約束の時間になり、チャールズの馬車が屋敷へ到着しました。お出迎えは別の従者が担当するため、少女は紅茶の支度を始めます。粗相がないように気を付けないと、と気を引き締めて、ティーカップが乗った盆を片手に応接室の扉を開きました。
「そうなんですね、非常に興味深いお話です。」
「ほっほ、お若いのに感心ですな。」
二人は和やかに会話を進めています。応接室の机には、少女が盛り付けたフルーツが手を付けられないままに残っていました。邪魔にならないよう、少女は静かに席へ紅茶を置こうとします。
「おや、ありがとう。」
それに気づいたチャールズが、そう言って少女の方を見上げて目を合わせます。その瞬間、ぎくり、と少女は体を強張らせました。
今朝の夢の中に現れた男の顔が、鮮明に思い出されます。
間違いない、この人は、幼いころに出会ったあの男だ。少女は確信し、それと同時に全身が震えだしました。
少女の尋常でない様子に、リオがいち早く気づきました。
「大丈夫?やっぱり体調が優れなかったかい?」
客人の前なので、余所行きの声色でそう訪ねますが、その表情には心配と焦りが浮かんでいます。
少女はなんとか平静を保とうとしますが、震えは収まらず、ついにティーカップを床に落としてしまいました。
ガッシャーン。音を立て、カップが砕け散ります。そして少女の視界がぐらりと歪みました。
椅子から立ち上がり駆け寄ろうとするリオを見て、少女は倒れる寸前、机に置かれたフルーツの中の林檎を指さし、そして意識を失いました。