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犬も舞う地  作者: ひらり
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女は悪い男が好き

第七章 女は悪い男が好き


          一

 寅雄の発注した家が着工して、四ヵ月が過ぎた。季節は、すっかり秋である。

 とうとう成犬サイズになってしまったベンザイの存在が表面化し、二日前、マンションの管理会社から寅雄は退去命令を勧告された。

 だが、寅雄は「家を建てよるけ、今月末には退去する」と強気な発言をして、今では堂々とベンザイをマンションのエレベーターに乗せている。

「ベンザイ、あと三週間で新居で。庭に、がっちり囲いを造ってやるけえの。せいぜい走り回れよ」

 玄関で寅雄を見送るベンザイの頭を、ぐちゃぐちゃに撫でて、寅雄は出掛けた。

 今日は、珍しく、日曜日の休暇である。工務店も休みのはず。ほぼ出来上がった家を、じっくり眺めようと寅雄は思っていた。

 県道から細い道に入り、寅雄は新居の目の前にBMWを停めた。

 まだ、作業が完璧に終わっていないため、職人さんの道具が、あちらこちらに置かれていた。

 寅雄はBMWから降りた。数ヶ月前まで鼻を刺す異臭を漂わせていたとは思えない光景が、目の前に広がる。

「もうちょっと、じゃ」

 茶色い重厚な家と秋空を一緒に、寅雄は眺めた。絵画を鑑賞しているような優雅な気分に陥る。

「もう、完成じゃないですか」

 いきなり右耳の直ぐ横から、懐かしい声が聞こえてきた。寅雄は、ゆっくり右に首を回した。

「新田――じゃなくて、田中か。久しぶりじゃのう。相変わらず首が疲れそうな恰好してから」

 田中は寅雄と初めて会ったときと同じように、大きなヘッドフォンを首に巻きつけ、携帯電話と一眼レフのデジタルカメラを、首からブラ下げていた。

 じーっと寅雄の家を、新田は見ていた。

「どうです? 仕事と彼女は」

「仕事は……飛ばされたわ。物流の会社に。美奈子ちゃんとは、今は会うとらん。じゃが、電話で週に一回くらい話をしよるけ、悪い仲じゃあない。家ができたら、無理矢理でも会うつもりじゃ」

 ベンザイを購入してから、寅雄は美奈子とは一度も会っていない。美奈子との週に一回の電話も、寅雄から掛けて、五分も経たないうちに終わりだ。

 まだ、寅雄のプライドと望みは、ぎりぎり、消え去ってはいない。目前の未来が、真っ暗な予感がしても。

「仕事も恋愛も、首の皮一枚ですか」

「相変わらず毒舌じゃのう」

 怒る気力もなく、寅雄は鼻で笑った。

「坂下さん、祖母ちゃん、先月、亡くなりました」

「ほうか、櫛で上手いこと、誤魔化せたんか?」

「それが『手紙じゃ』言うて、最後まで納得してくれんかったです。惚けとる言うても、肝心な所は、しっかりと覚えとったようですわ。馬鹿にはできんです」

「どうやっても、手紙は出んかった。この家を作るとき、配管とか入れるために土を掘ったんじゃけど、結局、何も出てこんかったらしい。工務店の社長が、そう言いよった」

 家を、しげしげと眺めていた寅雄の目の前に、寅雄の視線を切るように何かが右側から、すーっと出てきた。

 ぱちぱちと寅雄は目を瞬かした。目の焦点を物体に合わせる。よく見ると、平田爺さんの義理の祖母さんが埋めたらしい櫛が、目の前にあった。

「本人が違うって言い張るもんを、御棺には入れられんでしょ。じゃけ、返しに来ました」

 無言で寅雄は櫛を右手で掴んだ。

「返しに来たって……もしかして何日も、わしを待っとったんか?」

「いんや、今日、たまたまです」

「自分で爺さんに返しに行きゃあ、良かろう、こっから近いんじゃけ」

「嫌ですよ。騙したこと、バレバレじゃないですか」

 右掌に載った櫛を見ながら、寅雄は頷いた。

「わかった。近々、爺さんの家に御礼に行く予定じゃったけ、そんとき持って行くわ。また、目の前で割れとか言われるかもしれんがの」

「じゃあ、そろそろ行きますわ。きちんと、住宅ローン、返してくださいよ」

「わかっとらあや。お前のほうこそ、子供四人、立派に育てろよ。わしは一回り以上、下の嫁と仲ようするけ」

 なんとなく、寅雄は「ふっ」と笑った。

 すると、カシャっという音が鳴った。寅雄は音がした方角へ、顔を向ける。田中がデジタルカメラで寅雄を撮っていた。

「記念の一枚です。今度、送りますよ。祖母ちゃんに見せよう思うて、散々、この土地の写真を撮ったんじゃけど、ゴミばっかりが写ってから。祖母ちゃんに見せても、頭に?マークを浮かべとったようじゃった。惚けとったけ、理解できんかっただけかもしれんけど」

「祖母さんに、墓でも見せちゃろう思うたんか?」

「墓は他人の物ですけ、せめて埋まっとる場所を、ね。冥土の土産に。じゃ、わしはこれで」

 田中は県道へ向かって、歩き始めた。

 寅雄は、一瞬、呼び止めようとした。せめて、車で送ってやろうと思ったのだ。

 だが、開けた口を寅雄は、ゆっくりと閉じた。

 個人情報は、あえて探らんわ。お前は『不思議な新田』で、ええ――。

 再び、寅雄は新築の家を眺めた。

         二

 寅雄が新居に入居する二週間前になった。

 ここ数週間は毎晩、仕事から帰ると、まず、寅雄はパソコンの電源を入れる。

 パソコンを開いて寅雄はインターネット・ショッピングの画面を楽しんでいた。新居に入れるカーテンや、家具類を鼻歌交じりに検索する。だが、いざ購入となると、なかなか踏み切れない。

「んー、わしが選ぶより、美奈子ちゃんに選んでもろうたほうが、ええかのう。わしの趣味に統一したいところじゃけど、わし一人が住むわけじゃないし」

 美奈子について考えると、寅雄の気持ちは、どんよりとしてくる。しかしながら、美奈子に必ず振られるとは限らない。家を見れば、寅雄が一人前の男であると納得してくれるはずだと、虚しさを感じながらも、寅雄は自分に言い聞かせていた。

 突然、パソコンの横に置いてあった携帯電話が重低音の音楽を流す。映画『ジョーズ』のテーマソングだ。誰だかは、携帯電話の画面を見なくてもわかる。姉の辰子からだ。

 家が完成したかどうかの確認であろう。寅雄は、ここ一ヶ月、故意に辰子からの電話には出ないようにしていた。

「ああん、もう一日に何回、しつこく掛けてくるつもりや」

 いつものとおり、寅雄は横目で携帯電話を見ながら、鳴り止むのを待つ。すると、一旦、音楽が鳴り止む。しがし、五秒もしないうちに、またジョーズが接近してきた。

 電源を切ってしまおうかと、寅雄は思った。だが、辰子には千六百万円の借りがある。無視し続けるには限界の時期であろう。

 意を決して、寅雄は通話ボタンを押した。

「トラ! 何で電話に出んのんね!」

 辰子は絶対に怒鳴ると思っていた寅雄は、携帯電話を耳に当てずに、目から十センチほど離して、じーっと見ていた。携帯電話に耳はあてていなくても、よーく聞こえる。

「トラ! 聞いとるんね!」

 携帯電話を口に近づける。携帯電話はバスガイドのマイクになっていた。

「聞こえとるよね。わしは無職の姉ちゃんとは違うて、超忙しいサラリーマンなんじゃけ。仕事の電話以外は、出んようにしとるの」

「そんとうに、忙しいんね。飛ばされたくせに。今日、会社に電話したら出向になったって事務のお姉ちゃんが言いよったよ。あんたぁ、何か、やらかしたんじゃろ」

 うわ、会社にまで電話しとる――。

「この、ご時世じゃけ、人件費削減。誰かが犠牲にならんといけんの」

「あっそ、それより、家は? さっき父さんに電話したんよ。トラの新居の住所を知らんか、言うて。ほいたら、父さん、かんかんじゃったよ。寝耳に水じゃ言うて。おかげで、うちが広島でトラと一緒に住むっちゅう話、できんかったわ。また『因島の土地は、どうするんじゃ』って、言い始めるけ」

「父さんに、言うたん?」

 寅雄の頭に、最後に見た父親の顔が浮かんだ。呆れと、怒りで歯を食い縛った顔。

「ああ、トラの結婚の話もね。勝手に進めてから、どうのこうの言いよった。そりゃあ、ええけ、新居の住所、早う、教えんさいや」

 しばらく、寅雄は口を硬く結んだ。姉弟家族住宅でない家を建てたと、今、白状するべきか。

「まだ、荷物は入れられんのん? うち、もう今週中にはマンションを出んといけんのんよ」

「え! 今週中って、もう今日は水曜日で。マンション、売れたん?」

「売れん。分譲賃貸にした。それよりも、明日には、引越業者に見積もり貰う段取りをしとるんよ」

 追い詰められた寅雄は、うっかり、ぺろりと言ってしまった。

「まだあ、荷物入れられんけ、わしのマンションに荷物、送りんさい。とりあえず……」

 しばし、沈黙となる。寅雄は慌てて、携帯電話を耳に当てた。

「ト〜ラ〜、何か都合の悪いことでもあるんね。あんたが最後に『とりあえず……』なあんて逃げ道を作るときは、たいがい何かある。『十万円貸して、とりあえず……』みたいな。でも、それには、いっつも嫌な続きがあるんよね〜」

 やはり、辰子は寅雄の姉である。東京から広島の寅雄の様子を把握しているようだ。まるで、寅雄の体にGPSと小型マイクでも埋め込まれているような気分になる。

「とにかく、ええけ、わしのマンションに送りんさい」

 故意に「とりあえず……」は省く。

「わかった。じゃあ、土曜日にどっさり荷物が届くけ、受け取りお願いね」

「どっさり……って、どれくらい?」

「どっさりは、どっさりよ。じゃあね、土曜日、昼にはマンションにおってよ」

 ピッと携帯電話が切れる音がした。

 三十年以上も一人暮らしをしていた辰子である。荷物の量は半端ではないはず。

 寅雄は、ぐるっとリビングを見回した。

「ベンザイですら、身動きが取れんようになる……」

 呼ばれたと思ったベンザイは、齧っていた犬用のガムを咥えて、ひょいっと首を伸ばした。

          三

 土曜日は、寅雄は昼から休暇を取得した。

 辰子の宣告どおり、膨大な量の荷物が寅雄の部屋に送り込まれた。

 東京の辰子のマンションには、収納スペースが相当あったらしく、収納用の家具類は、ほとんどなかった。だが、衣類らしきダンボールは軽く十五箱はある。洗濯機やら冷蔵庫などの家電もある。

 辰子の大小様々なダンボールのおかげで、リビングの空間は埋め尽くされた。おかげで、窓が、ほとんど隠れた。日中にもかかわらず、皆既日食になったように薄暗い。

 洗面所に追いやられたベンザイは、廊下に置かれていたダンボールを齧り始めた。

「ベンザイ、やめえや。姉ちゃんの……まいっか、よう遊べ」

 辰子に対する、寅雄の、ささやかな反撃である。

 寅雄のポケットの中のバイブにしていた携帯電話が、ブルブルと踊り始めた。二つ折りの携帯電話を寅雄は開いた。珍しく、美奈子からだ。

「美奈子で〜す」

 普段、寅雄から電話をすると「また、何よ」と今にも言われてしまいそうなくらい、美奈子のテンションは、低い。

 だが、自ら美奈子が電話を掛けてくるときは、決まって明るい声を美奈子は出す。

「今日は、お仕事じゃないの?」

「うん、ちょっと用事があって、昼から休みを取ったんじゃ。どしたん?」

「『どしたん』って、つれな〜い。美奈子、電話するんじゃなかったぁ」

 携帯電話の向こうで、ぷっくりと頬を膨らます美奈子を寅雄は想像した。

 やっぱり、可愛い――。

「いや、最近、美奈子ちゃんから電話くれんけ、びっくりしとるんよ」

「そお? 今日は用事があるん?」

 美奈子は素早く話を切り替えた。

「用事は、今、済んだ」

「じゃあさあ、美味しいものでも食べに行こうや。友達がお店、出したんよ」

 本当?――。久々に生美奈子が見られる。寅雄の目が、ぱっと大きく開いた。

「うん、じゃあ、夕方六時に迎えに行くわ。ベンザイ、連れて行こうか? 車の中で留守番させときゃ、ええけ」

「ベンザイ? もう大きゅうなったんじゃろ? うち、大きい犬、怖〜い。だから、いい。次、買うときは、チワワとかにして」

 ぴたりと寅雄の動きが止まった。「この子を救ってあげて」と美奈子に言われて買ったベンザイ。美奈子との約束もあるから、大切に育ててきたつもりだ。

「ベンザイがいたら落ち着かんけえ、マンションで留守番させるわ。じゃ、六時ね」

 寅雄は携帯電話を素早く切った。ダンボールで遊ぶベンザイを、そっと横目で見る。

「ベンザイは、わしの犬じゃ。美奈子ちゃんの犬じゃない。わしが面倒を見りゃあ、ええ」

 すると、再び、携帯電話がブルブルと踊りだした。この踊りは『ジョーズ』である。荷物が届いたかどうか、辰子が確認の電話を入れてきたのだろう。

 寅雄は辰子の声を聞く前に、大きな声を出した。

「姉ちゃん、荷物、どっさり着いたで! どうしてくれるんじゃ、こんとうに……」

 すると、ドアホンが鳴った。下のエントランスからではなく、寅雄の部屋のドアからだ。

「誰か来た。ちょっと待っとって。また、住人にくっ付いてマンションに勝手に入ってきた、怪しい営業じゃろ」

 耳に携帯電話を付けたまま、寅雄はドアの覗き穴に片目を近づけた。

「げーっ!」

 ドアの前に立っていたのは、携帯電話を耳に当てた、五十一歳になってしまった辰子であった。昔の面影が、かろうじて残っている。

「トラ、中におるんじゃろ? ドア、開けんさい」

 思わず寅雄は後ずさりをした。しかし、逃げる場所など全くない。

 しぶしぶ、寅雄はドアを開けようと鍵を解除した。と、同時に勢いよく、ドアが自動的に開いた。

 もちろん、ドアは自動で開いたのではない。辰子が開けたのだ。

「うんしょ、うんしょ」と大き目のルイ・ヴィトンのショルダーバッグを担いで、辰子が勝手に寅雄の部屋に上がった。

「外の荷物、頼むわ」

 廊下に置かれた荷物を見る。海外へ二ヵ月もの間、行って来たのではないかと思われるくらい大きなスーツケースが、置かれていた。

「親切な二階の女の子が、ここまで運んでくれたんよ」

 女の子にやらしたんか、このクソ婆――。

 寅雄はスーツケースを部屋に入れた。

 十数年ぶりに見る辰子は、やはり、小母さん化していた。高級そうな派手な服は身に着けている。しかし、体型が崩れまくっているのだ。

 胸とウエストと尻が、まさしく「どん! どん! どん!」という感じだ。

 辰子はショルダーバッグを下ろした。太い腰に手を当て、薄暗いリビングを眺める。

「うっわー、物凄いことになっとるねえ。これでも、かなり、処分したんよ。今日、どこで寝よう?」

「どうして、荷物だけでなく姉ちゃんまで、ここに来たんじゃ!」

「しょうがないじゃろ。東京のマンションには布団もトイレット・ペーパーもないんじゃけ。昨日は東京の友達の家に泊まらしてもろうたんよ。本当は広島に向かおうと思っとったんじゃけど、トラに迷惑になっちゃいけんかのうって、気を利かせたんよ。悪い?」

「悪いも何も、一言、言えや!」

「荷物が来りゃあ、姉ちゃんも漏れなく付いて来ると、先読みできんのんね。ノータリン」

「因島に寄るとか、色々あるじゃろうが。もう、何年も父さんと母さんの顔、見とらんじゃろ?」

 くるっと辰子は回れ右をした。高さの変わらない寅雄の目を睨みつける。

「後ろめたいけ、帰れんよね。トラだって、そうじゃろ? 近いくせに。ところで、どうして、家の間取り図とか、外観の絵とか、メールで送ってくれんかったん? 再々、言ったろう」

「自分で見に来りゃあ、えかったじゃろうが!」

 今だからこそ、言える言葉だ。本当に辰子が来たら、今の家は完成していなかった。

「東京からここまで、新幹線で四時間よ。お金だって馬鹿にならんわ。で、この犬は」

 辰子が登場してから、ベンザイは尻尾を振って辰子に飛びついていた。飛びつく度に、辰子は片手でベンザイの頭を軽くペシペシと叩く。

「わしの犬。ベンザイ。今日は、これから、わしは出掛けるけ、ベンザイと一緒に寝てくれ。空いたスペースで。言っとくけど、わしの寝室は絶対、駄目じゃけえの」

「あのさ、トラ、父さんに、なんで何にも言わんのんね。理由を十秒以内に三十文字で答えよ。点や丸も含める」

 寅雄は小学生の頃、辰子から勉強を教えてもらっていた。「馬鹿! 阿呆!」と罵られ続けた日々が、脳裏を横切る。

「えっと、えっと……」

 なぜか寅雄は、反射的に答えようとした。

「ブッブー、時間切れ。うちじゃったら、全部、英語で言うてやるわ」

 点や丸も含めてかい。スペースは、どうなるんじゃ!――。

「家にしても、結婚にしても、うちから父さんの耳に入ってしもうたのは失敗じゃったわ。人生のうちで結構、重要なことよ。トラから話さんと。父さんは自分からは絶対、連絡してこんじゃろうけ」

 田舎の父親と寅雄との仲は、十数年前の二百万円の借金返済のときから、最悪となっている。「休暇が不定期の職場じゃけ、帰れん」と母親にいつも伝言をして、ここ十年近く、因島には寅雄は帰っていない。

「ねえ、これから、どこに行くん?」

「飯、食いに」

 辰子の目が、弓のごとく、にょきっと曲がる。

 やばいっ――と、寅雄は思ったが、すでに時遅し。

「彼女と?」

 すーっと寅雄は辰子から目を逸らした。

「そう、じゃあ、うちも行く。義理の姉妹になるんじゃけ、挨拶くらいはしとかんと」

 さっと、寅雄は辰子に視線を戻す。

「え? なんで? 彼女と行くとは言っとらん!」

「じゃあ、いい男が一緒なわけ? やっぱり従いて行く」

 辰子の眉が、くいくいっと上がった。なにがなんでも、辰子は寅雄に従いて行くつもりだ。こうなったら、人の話など、辰子は全く聞かない。特に、寅雄の話など。

「誰にも負けない、いい女に変身せんと」

 辰子はスーツケースを開けた。

 どうやっても、美奈子ちゃんには負けるって、姉ちゃん――。

 軽く溜息を吐いて、寅雄は小母さんになってしまった姉を、じろーっと睨んだ。

 しばらくして、お色直しのため、辰子は寅雄の寝室に入って行った。

 目を細め、寅雄は薄暗いリビングの掛け時計を覗く。掛け時計は四時を指していた。

 寅雄は携帯電話を握ったままトイレに入った。洋式便所の便座に蓋をして腰を下ろす。

「もしもし、美奈子ちゃん?」

 小声で話しても、窓の無い密閉されたトイレの中では、寅雄の声が微妙に響く。口元に寅雄は左掌を添えた。

「寅ちゃん、どうしたん? 今日、無理になったん?」

「そうじゃなくて、時間、早めてもろうても、ええ? ちょっと寄りたい所があってから」

「ええーー、美奈子も行かんといけんのん? 用事、済んでから迎えに来てや」

「いや、時間が押し迫っとるけ、スムーズな動きをしたいわけ。それに、美奈子ちゃんにも見てもらい物もあるし。美奈子ちゃん、四時半じゃ都合が悪い?」

「美奈子ちゃんに見てもらいたい物」とは、寅雄の豪邸だ。こうなったら、姉の辰子と一緒に、まとめて見てもらおうと寅雄は考えた。

 苦しみは、まとめて早く解消するべし。数時間後、どういう結末になっているかは、神のみぞ知る。

「う〜ん」

 美奈子の反応が悪い。寅雄は、いっそうのこと「今日は、中止」と、ずばっと気持ちよく言って欲しいような気もした。

 美奈子に会える数ヶ月ぶりの幸せなチャンスなのだが、辰子のせいで、台無しである。

「うんとね、四時半ならええよ。急いで準備せんといけんけど。お店には七時に行くって言っとるんよ。間に合う?」

 嬉しいような、そうでないような――。

「多分、ぎりぎり。じゃあ、四時半にね」

 電話を切り、寅雄は、がっくりと肩を落とした。

 事の成り行きは、寅雄は全て自分の失敗とわかっている。しかし、どうして、こうも自分の思うように進まないのかと、ひしひしと思った。

「トラ〜、あれ? どこ行ったん?」

 お色直しが終わったのだろう。辰子が寅雄に声を掛けた。

 寅雄は締め切ったドアを、キーっと睨んだ。

「ああ、トイレ」

 座っただけのトイレの水を、寅雄は『大』と明記されているボタンを押して、勢いよく流した。

 寅雄はトイレから出た。辰子の姿が否応無く寅雄の目に入る。

 がくっと力が抜け、寅雄の両足の膝が曲がった。思わず、よろよろっとトイレのドアノブに掴まる。

 辰子は首に豹柄のスカーフを巻きつけ、黒のレース網のような繊細なジャケットを羽織っていた。

 腰から下は、踝まである黒のマーメード型のロングスカート。尻の大きさが極端に目立つ。腰には金色のチェーンが巻きつけられていた。

 さらに、ジャケットの下はワインレッドの、伸縮性のある肩紐のないタンクトップのような服を着ている。見方によっては、派手な腹巻を胸まで引っ張り上げたようだ。

 間違いなく、辰子の腹は三段腹だった。

 惜しみも全然なく、辰子は大きな胸を自慢げに見せていた。胸の谷間は十センチは見える。

「どう? 外資系のセレブなキャリアウーマンのアフター・ファイブ、って感じがするじゃろ」

 左手に持った赤いハイヒールのパンプスを眼の高さまで、辰子は上げた。

「姉ちゃん、胸、開けすぎ。デブの巨乳は当たり前じゃ」

 やばっ、失言――。

 辰子の目が、徐々に細くなる。

「あんたも、早う、着替えんさいや。白のダボダボのジャージ姿で行くんじゃなかろうねえ。スポーツマンぽく爽やかならええけど、あんたじゃったら、まるで馬鹿チンピラ」

 軽く、辰子は寅雄に反撃した。

 寅雄は、自分の服を見下ろす。

「部屋着じゃ、これは。着替えてくるわあや。ちいと、待っとれ」

 いちいち反撃を試みても、無駄だ。辰子のほうが、寅雄より十倍は口達者である。

 寅雄は、すーっと幽霊のごとく自分の寝室に入った。

          四

 寅雄のマンションから五分の街中のお寺の前に、寅雄はBMWを停めた。

 すでに美奈子は、古い大きな木の門の前に立っていた。寅雄が運転席から伸ばせるだけ短い体と手を伸ばして、助手席のドアを開ける。

「寅ちゃん、時間ぴったりぃ」

 上機嫌で美奈子は助手席に乗ってきた。

 今回、誘ったのは美奈子である。寅雄の機嫌を取ろうと、故意に元気に振舞っているのだ。

「早く用事、済まそ。七時に間に合わんようになるけ。どこまで行くん? ん?」

 美奈子は鼻を、やや上に向け、犬のようにクンクンと匂いを嗅いだ。

「あれ? 寅ちゃん、車の芳香剤、替えた? て言うか、これ、香水? うわ、なんか、悪酔いしそう」

 すっと鼻と口を両手で押さえる美奈子の横顔を、寅雄は横目で見た。そのまま美奈子の真後ろの後部座席に、寅雄は視線を移す。

 足を組んで座っている辰子の顔が、歪んでいた。呆れているのか、怒っているのか……どちらでも面倒だ。

「美奈子ちゃん、あの、紹介するよ。わしの姉貴」

 美奈子の表情が急激に硬直した。殺意を感じさせる美奈子の視線が、ぶっすり寅雄を突き刺す。

 どういう顔をしたらいいのか、寅雄には皆目わからなかった。

 とりあえず、眉間にぐっと力を入れて「ごめんね。面倒なんだよ、わしも」という渋い表情を作ってみた。

 顎で寅雄は後部座席を指す。寅雄の顎に釣られて、美奈子の目が後部座席を見る。

「こんにちは〜。寅雄の姉の辰子ですぅ。ちょっと香水、きつかったかなあ。仕事でフランスへ行ったときに買った香水なの。私に合う香水を、特別に作ってもらったんだけど、お嫌いだった?」

 故意に、であろう。辰子は標準語で話す。しかも自慢げに、フランスなどと。

 美奈子は、思いっきりウエストを捻り、背中をダッシュボードに、ぐぐっと、くっ付けた。

 大きな目はぱっちり、口はオバカギャルのように半開きになっている。まるで、珍獣に遭遇したような顔だ。

「こっ、こんにちは……寅ちゃん、お姉さんと一緒だったの? それに、ベンザイまで、いる」

 寅雄の座る運転席の真後ろには、ベンザイの姿があった。ベンザイは、すっかり辰子に懐いて、いや、服従していた。

 目と口を開けたまま、美奈子は寅雄の顔を、ぎろりと見た。美奈子の目の中には、怒りの炎が火柱を立てている。

 何故、電話で言わなかったのかと、美奈子の目の炎が文字を作っているように、寅雄には見えた。幻覚だろうか。

「姉貴が、突然、わしの家に来てから。せっかくじゃけ、一緒に夕飯でも、ってことになって……」

 寅雄の声が、徐々にフェイド・アウトする。

 美奈子ちゃん! 怖いよ、その顔!――。

「ふふ、美奈子ちゃんっていうんだ。可愛らしいお嬢さんね。寅雄と二人っきりのほうが良かったのかしら。ごめんなさいね。私が無理を言っちゃったから」

 ルームミラーに映る、漆喰のような化粧で厚塗りの辰子の顔を、寅雄は睨んだ。

 ころころと口に手を当て、お上品に笑う憎たらしい辰子。

 要らんこと、言うんじゃねえ――。

 捻ったウエストを戻し、美奈子は助手席の背凭れ手に背中を付けた。

 再び、美奈子は明るい声を出した。恐らく、かなりの無理して。

「大人数も楽しいしぃ、お客さんが多いほうが、友達も喜ぶ。で、寅ちゃん、用事って?」

「ああ、これから向かう。ちょっと車、走らせるけえ」

 寅雄のBMWの中は、臭い香水の臭いが混じった重たい空気で、充満していた。

 真実は何故、一つなのだ。嘘も真実にならないのか――。二人同時に嘘がバレる瞬間を想像するのも、寅雄には恐怖だった。

          五

 BMWの中に充満している臭い空気を外に撒き散らそうと、寅雄は窓を全開にして走った。

 外の騒々しい車の音に声は掻き消され、話もできない状況になった。寅雄にしてみれば、冷やひやしながらも、何とか凌げる空間である。

 とにかく、女二人を喋らしちゃあ、絶対いけん――。

「あっ、そう言えば……」

 寅雄は、ふと、平田爺さんの顔を思い出した。家も完成した。そろそろ、平田爺さんの家に行かねばならない。この機会に、まとめて済ますか。

 だが、辰子と美奈子を二人だけでBMWに残すのは、やたら恐ろしい。どんな話が出てくるか、皆目わからない。

 辰子は、薄っすらと笑みを浮かべ、余裕というより「いつでも、懸かってらっしゃい」の表情。

 美奈子は、風で茶色い巻き髪が崩れないよう、手で髪を束ねている。顔は、やや、頬を膨らませていた。

 嫁と小姑の間にサンドウィッチ状態で挟まっている男って、きっと大変なんだろうと、寅雄は実現するかどうか全然わからない未来を予想する。

 寅雄自慢の豪邸が迫ってきた。だが、寅雄は決心した。

 田中から預かった櫛もある。早く行くべきじゃ――。

 寅雄は平田爺さんの家へ向かった。

 数分、BMWを走らせ、平田爺さんの家に着いた。

「寅ちゃんが用事があるって、この家?」

「うん、わしの顧客の爺さんの家。挨拶がしとうてね。車の中におるのもなんじゃけ、美奈子ちゃんも一緒に行かん?」

 美奈子の目の前にあるダッシュボードを寅雄は開けた。中からB五サイズ用の封筒を取り出す。強引に突っ込んでいたおかげで、封筒の角は全て折れ曲がっていた。

 ルームミラーを、ちろりと寅雄は覗く。

 少々、顎を上げて寅雄をルームミラー越しに睨んでいる、辰子の顔があった。口は薄っすらと微笑んだままだ。余裕たっぷりである。

「うちも、行く。車の中、ばっかりじゃ、つまらんし」

 美奈子が苦笑いを浮かべた。辰子と二人っきりの状況に、なりたくなかったのだろう。

「そう、私はベンザイと留守番しているわ。行ってらっしゃい、二人で」

 寅雄と美奈子は視線を合わせた。「では、お言葉に甘えて」と二人で、それぞれのドアを開けた。

 美奈子を連れて、寅雄は平田爺さんの家の裏の勝手口を目指して、歩いた。

「なんか、窒息しそう。お姉さん、強烈ね。うちの、お母さんと、あまり歳も変わらないようじゃし。威圧感があるぅ」

 辰子が寅雄の姉であるとわかっているにもかかわらず、美奈子は失礼な発言をする。

「東京で、ずーっと一人でやってきた女じゃけ、強いよ。でも、世間もよう知っとるけ、それなりに、弁えるっちゅう技は持っとるよ」

 美奈子を怖がらせないように、寅雄は辰子のフォローを軽くした。

 ほどなく平田爺さんの家の勝手口に着いた。寅雄の背後から、美奈子が小声で話し掛ける。

「ねえ、寅ちゃん、裏から入るん? なんか、泥棒みたい」

「大丈夫。用事がある人が、いつも台所におるけ」

 立て付けの悪い木製の扉のノブを握り、寅雄は思いっきり引っ張った。

 いきなり、寅雄は、引き篭もりの息子と目が合った。引き篭もりの息子は、土間の真横に置かれた冷蔵庫の中を覗いてる最中だった。

「おお、久しぶりじゃのう。また、こそこそと裏から侵入してきてから。父さんに知られとうない話でもあるんか?」

 冷蔵庫の扉を開けっ放しにして、引き篭もりの息子はソーセージを頬張り始めた。もちろん、袋から出したソーセージには、火は通していない。

 平田爺さんの弟が台所から出ようとしていた。寅雄は即座に呼び止める。

「ああ、平田さんの弟さん、ちょっと、ちょっと」

 素っ頓狂な顔で、平田爺さんの弟は振り返った。お面を着けてない、本物の、ひょっとこのようだ。

 平田爺さんの弟に向かって寅雄は「おいで、おいで」と手招きした。

 寅雄と、引き篭もりの息子、平田爺さんの弟が、顔を寄せ合った。

 寅雄はBMWから持ち出した封筒を、素早く三人の真ん中に差し出す。

「なんや、これ」

 ソーセージをバリバリと噛みながら、引き篭もりの息子が封筒を指差した。

 封筒の中から、櫛を寅雄は、さっと取り出す。櫛の端を持ち、引き篭もりの息子と平田爺さんの弟の目の前で、ひらひらさせた。

「ちょっと、手っ取り早く話しますね。これ、家を建てよる時に出てきたんです。例の櫛じゃあないんかと思うんですが」

 あらかじめ、寅雄は嘘のストーリーを準備していた。本当は田中が持って帰っていました、とは、絶対に言えない。

「叔父さん、これ、見覚えある?」

 平田爺さんの弟は、頭を傾けた。

「昔のこと過ぎて、忘れた。兄ちゃんに訊いてみりゃあ、わかるかもしれんけど」

「叔父さんも、わからんのんなら、父さんなんか、なおさら、わからんわ」

「ちょっと、兄ちゃん、呼んでくる」

「叔父さん!」

 止めようとする引き篭もりの息子を無視して、平田爺さんの弟は台所を出て行った。

 しめしめ、チャンス――。

 足の裏が吊りそうなくらい、寅雄は、ぐいっと爪先立ちをした。

 小声で、寅雄は平田爺さんの息子に耳打ちをしようとした。もちろん、寅雄の口は、引き篭もりの息子の耳には、達していない。

「ちょっと、息子さん、もう一つ、お渡ししたい物があるんです。息子さんに」

 二本目のソーセージを頬張りながら、引き篭もりの息子は目を瞬かせた。

 封筒の中から、寅雄は、小さいサイズのインスタント・コーヒーの瓶を取り出す。

「これ、平田さんの奥さん、つまり、息子さんの、お母さんの喉仏……だと思います。二階の部屋から、石灰を頂いたときがあったでしょ。あんとき骨壷から喉仏だけ、取り出しました。とにかく、受け取ってください。どの宗派かは知らんですけど、納めるべき場所に納めて!」

 もごもごと動いていた引き篭もりの息子の口が、ぴたりと止まる。

「わしだって、嫌じゃったんですよ。骨壷に手を突っ込むの。平田さんが来られます。早く!」

 呆然としている引き篭もりの息子の手に、寅雄は瓶と櫛を握らせた。瓶の中で、喉仏らしい仏様の形をした小さな骨が、コロンと転がる。

「いやぁぁぁーーー!」

 寅雄の真後ろから、悲鳴が上がった。美奈子が喉仏を見たのだ。

「それ、人の骨、なっ、ぅごっ!」

 騒ぐ美奈子の口を、寅雄は力づくで、塞いだ。

「とにかく、わしの役割は終わりましたんで。それじゃあ、お元気で!」

 素早く、しかも思いっきり、寅雄は勝手口の扉を閉めた。じたばた騒ぐ美奈子を引きずって、平田爺さんの家の敷地を出る。

 BMWの助手席に、寅雄は美奈子を乗せようとした。だが、美奈子は抵抗する。

「なんなのよ、あれは! 『息子さんの、お母さんの喉仏』って何?」

「美奈子ちゃん、声が大きい。とにかく、落ち着いて。車に乗って。それから話を……」

「嫌よ! 気持ち悪い! 近寄らんで! 触らんで!」

 手を、ぶんぶん振り回しながら、美奈子は寅雄から離れる。

「どうしたの? 美奈子ちゃん。寅雄が何か、しでかした?」

 余裕の表情で、辰子が参上した。わざわざ、後部座席から足を揃えて、出てくる。

 一瞬びくっと、美奈子の動きが止まった。だが、下唇を、ぎゅーっと噛み締めている。

「あんたの弟、超キモイ! 生理的に受け付けん! 付きまとわれて困っとったんよ! あれだけ冷たくしても、空気も読めんし。KYも、ええところ。しかも……骨壷から人の喉仏を取り出したって言うじゃない!」

 美奈子の最後の言葉は、汚い痰を吐き捨てるようだった。寅雄は俯いてしまう。

 生理的に受け付けない……ショック――。

「うっそ! トラ、あんた、骨壷から喉仏、取り出したん? 素手で? うわっ、キモッ! あんた、マンションにオカルト系のDVDなんか、仰山、隠しとらんじゃろうね!」

 気取って標準語で話していた辰子の言葉が、一気に広島弁になる。

 辰子と美奈子は、寅雄から、さらに、超高速の引き潮のように、さーっと離れた。二人は手を取り合い、びくびくしている。

 どうして、二人仲良くドン引きするん? さっきまでの最悪の雰囲気は何処へ?――。

「あんね、物事には、理由ちゅうもんがあるの」

「あんたの理由なんて、たかが言い訳じゃろ!」

 すかさず、辰子が寅雄を責める。

「二人とも車に乗るのが嫌なら、ここに置き去りにするで。タクシーで帰るなり、なんなりとしんさい。わしゃ、もう、精神的に疲れたわ」

 静かに寅雄は女二人に言い放った。すたすたと、運転席に乗る。

「トラ、ちょっと、待ちんさい! せめて、タクシー会社の電話番号……」

「そんとうなもん、携帯のサイトでグルれや! 姉ちゃんの荷物、全部、因島に送っとくけ。わしは、これから新居へ行く。気持ち悪けりゃ、ホテルにでも泊まれ!」

「今から、新居へ、行くん?」

 辰子の声が、少し穏やかになった。行き場が、すでにない辰子である。新居は捨てがたいようだった。

 だが、寅雄は、豪邸に一人で住んでもいいと思い始めていた。もちろん、ベンザイを連れて。ベンザイ以外の女は……面倒臭い――。

 辰子の質問には答えず、寅雄はBMWのエンジンをかけた。

「ちょっと待って! トラ、うちも行く!」

 慌てて辰子が、後部座席のドアを開けた。

「え! お姉さん、この車に乗るん? 骨がダッシュボードの中に入っとったんよ! しかも、この人が乗ってる」

 運転席の寅雄を、美奈子は指差した。

 この人、かよ。そんとうに気持ち悪いんか――。

 だが、秋の夕方五時半である。すでに、辺りは薄暗い。美奈子は、寂しい県道に独りで取り残されるのが嫌だったようだ。

 後部座席のドアを半分開けて、再び、辰子は、落ち着いた気取った声を出した。

「こんな奴でも、私の弟なの。他人なら放っておくけど。だから、美奈子ちゃんは無理しなくてもいいのよ。寅雄も美奈子ちゃんの気持ちを、よく確認してなかったようだし。今日は、タクシーでお帰り。あっ、タクシー代、渡すわ」

 後部座席で、辰子がバッグを開ける音がした。

 ああ、そうじゃ、美奈子ちゃんの気持ちなんか無視して、わしは一人で突っ走っておりましったぁ。

 でも、気付いてなかったわけじゃあ、ございませ〜ん。そんとうに言うんなら、最初っから、ばっさり切れ、っつうんだよ!――。

 口には出せないが、寅雄は、完全に開き直った。

「じゃ、じゃあ、うちも行く。お姉さん、奥に詰めて下さい」

 辰子を押し込み、美奈子は後部座席に乗り込んだ。明らかに、少しでも、寅雄とダッシュボードから離れた場所を確保しようとしている。

 身勝手な女どもだと、寅雄は小さく溜息を吐く。

 ルームミラーに映るベンザイは、寅雄の真後ろで、窮屈そうに座っていた。

          六

 後部座席が、ぎゅうぎゅうのBMWが県道から細い道に入った。

 後部座席の二人は、きょろきょろと外の風景を眺めていた。外は、かなり暗くなっている。

「寅雄、なんか寂しい場所に入ったね」

「寅ちゃん、へっ、変なこと、考えてないじゃろうねぇ」

 変なことって、どんなこと?――。

「あれ、見えてきたで」

 寅雄はBMWをハイライトにした。寅雄自慢の豪邸に、ちらほらとライトが当たる。

 豪邸の前に、寅雄はBMWを停めた。

「これ? トラの家って……よう見えんけえ、真正面から車のライトを当てて」

 運転席と助手席の間から、辰子が顔を出した。寅雄の顔の、すぐ左に辰子の顔がある。

 辰子は、フロントガラスを凝視していた。

 寅雄はBMWを九十度、ぐるっと回転させた。まだ、全く庭が整備されていない土地に、BMWは突っ込まれた。正面に、どどーんと家が現れる。

 まるでライト・アップされたディズニーランドのシンデレラ城のようだと、寅雄は、うっとりと眺めた。

 だが、うっとりとしている寅雄とは正反対の意見が、後部座席から、ボンボンと投げ込まれた。

「ちょっとぉ、ここって、下水、通ってんの? もしかして、トイレ、ボットン? じゃあ、定期的にバキューム・カーが、やってくるってこと? ええー、美奈子だったら、こんな所には住めな〜い」

「そうよね、ガスだって都市ガスじゃあないわよ。プロパンよ、プロパン。それに、ネットなんか繋げるのに、何ヶ月かかるやら」

「あっ、お姉さん、携帯電話は、なんとか繋がりそう。でも、電波はバリ3じゃない。一本ですよ! あっ、微妙に圏外になりそう。ちょっと移動したら圏外よ、圏外!」

「うっそ、マジぃ? じゃあ、固定電話は必需品じゃね」

 くっそー、痛いところばっかり、ぶすぶす突き刺しよって――。

「あのね〜、世の中は、徐々に発展していくもんなの。それに、この家は、わしのもんじゃ。とやかく言われた筋合い、ないわ! 男探しと一緒よ。そうやって、まず、マイナス部分ばっかり探すけ、姉ちゃんは結婚できんかったんじゃろうが!」

 痺れを切らした寅雄は、後部座席の女二人の話を押し潰しにかかった。

 本筋から逸れた反撃をする寅雄に、容赦なく辰子が止めを刺す。

「トラ、この家の玄関、一つしかないじゃないね」

「わっ、わしの家じゃ! わし一人が住むんじゃけ、二世帯住宅なんかにせんで、ええ」

 辰子は次の手段に移る。

「美奈子ちゃん、寅雄は美奈子ちゃんと結婚するから、これを機会に家を……」

「あああああ、もううううう、やかましいいいい!」

 勝手に美奈子と結婚すると宣言していたストーカー的な寅雄の愚かさが、表面化した。

 さらに、千六百万円も辰子から借金した事実を、美奈子に知られるなんて、とんでもない。大声を出して、辰子の声を掻き消す。

 だが、寅雄の声より、五倍くらいの大きな声で美奈子が叫んだ。

「うち、寅雄さんとは結婚するつもりなんか、全く、全然、ございません!」

 今度は、寅雄さん、かよ――。寅雄はハンドルに抱きつき、顎を載せた。

「そうじゃの、キモイ、KY、四十過ぎ、骨を素手で骨壷から取り出すオカルト男なんか、美奈子ちゃんは相手にせんわ。そんとうなことくらい、わかっとったわ。わしだって、何となく生きてきたわけじゃないんじゃけ。学習しとります!」

 やけくそになってしまった寅雄は、大きな声で美奈子に反撃した。初挑戦である。

 だが、美奈子も負けては、いない。

「学習してるんだったら、同じ過ちを何度もするはずないと思います! 寅雄さんは現実を受け止めるべきです!」

 小学校の学級委員長のような口調で、美奈子は寅雄に反撃する。

 すると、辰子が軽く咳払いをした。

「ちょっと、美奈子ちゃん、それは言い過ぎじゃない? あんな馬鹿でも、私の弟なんだから。でも、ごめんね。迷惑を掛けちゃって。私から誤るから許してやって。寅雄、姉ちゃんと一緒に暮らそ。そうすれば、万事解決じゃない」

 姉弟夫家族宅ではなく、姉弟住宅であれば、気兼ねがない。玄関、台所、風呂、全て一つで十分と、辰子は示唆しているのだろう。

 美奈子の気持ちを確認した以上、辰子も強気だ。

「冗談じゃねえええええ!」

 ワンワン! ワンワン!

 ベンザイが喧嘩の仲裁をするかのように吠えた。寅雄はルームミラーに、薄っすらと映るベンザイを見る。薄暗い後部座席で、ベンザイが耳を揺らしていた。

 お前だけじゃ、わしの味方になってくれる、牝は――。

 しかし、ルームミラーに映るベンザイを、よく見ると、ベンザイは豪邸に向かって吠えていた。しかも、尻尾を振っている。

 寅雄の真後ろのドアを開けて欲しいと、ベンザイはBMWの窓をガリガリと引っ掻き始めた。

「おい、ベンザイ! 爪を立てるな! もう」

 あまりにも激しくベンザイが引っ掻くため、寅雄はBMWから降りた。後部座席のドアを開け、首輪に付けたリードを、素早く、ぎゅっと掴む。

 ベンザイは寅雄の豪邸へ向かって、脱兎ならぬ脱犬の勢いで走り始めた。

 大型犬のベンザイの力は、いつも以上にパワフルだ。寅雄は、ぐいぐいと引っ張られる。まるで初心者のスキーヤーのように、寅雄の体は後傾になっていた。

「ベンザイ! ストップ! お座り!」

 お座りなんて躾など全然してもいないのに、寅雄は叫ぶ。

 やや右の方向へ、ベンザイは走る。ベンザイが向かう先には、あえて残しておいた松があった。平田家の立派な先祖の墓の真後ろにあった、あの松だ。

「うわ!」

 とうとう、寅雄はベンザイに振り切られた。まだ、多少、凸凹している土の上に、どてっと、寅雄はうつ伏せで倒れる。

 ベンザイは数メートル先にある松の前で、踊るように後ろ二本足で立った。何かに凭れかかるわけでもなく、何度も前足を地面に付いては、また立ち上がる。

「何しとんじゃ、あいつ。脱走しようとしとる……じゃないな」

 寅雄は立ち上がり、ゆっくりベンザイに近づいた。不可解な行動をとっているベンザイの大きな体を、寅雄は後ろから、がっしり抱いた。

「どうしたんじゃ? 虫でも飛んどるか?」

 くねくねと体を捩りながら、ベンザイは寅雄の腕の中で大暴れする。

「もう!」

 結局、ベンザイは寅雄の腕を、すり抜けた。寅雄の目の前で、上を向いて、ぐるぐると回りながらベンザイは踊っている。ぐるぐる、ぐるぐる……。

 しゃがんだまま、寅雄はベンザイの様子を見ていた。すると、背後からBMWのドアが開く音が、寅雄の耳に入ってきた。

 振り向くと、BMWを挟んで辰子と美奈子が突っ立っている。

「なんじゃ、あの二人、まだ文句があるんかいの?」

 BMWのライトの後ろにいる辰子と美奈子の顔の表情は、皆目、わからない。だが、二人とも動く気配が全くなかった。

「ベンザイ、帰るで」

 ベンザイの首輪に着けられていたリードを寅雄は手に取った。動きを止めないベンザイを後ろ二本足で立った状況のままで、寅雄は引っ張る。

 ぴょんぴょんと二本足で飛びながら、ベンザイは寅雄に後ろ向きで歩かされた。

「ベンザイ、縁起でもないこと、するなや。あそこは墓があった場所で」

 名残惜しそうにするベンザイを、やっとの思いで寅雄はBMWに詰め込んだ。

「はい、完了。で、お二人さんは、これからどう、され……何か、あった?」

 薄暗い中、やっと見える辰子と美奈子の顔を寅雄は見た。二人とも呆然としている。

 二人の視線を辿ると、どうやら、ベンザイが踊っていた場所を、じーっと凝視している様子だった。

 寅雄の真横に立っていた辰子が、ぼそっと固い決意を表明した。

「絶対、うち、ここに住む」

「まだ、そんとうなこと言いよるんか。帰るで。乗るんなら、早く乗れ。美奈子ちゃんは、どうするん?」

 はっと我に返ったように美奈子が寅雄を見る。

 BMWは、しばらく、静寂に包まれた。秋の虫の鳴き声だけが聞こえる。

 寅雄は、やや大きな声で、BMWを挟んだ先にいる美奈子に再度、問いかけた。

「じゃけ、帰るけど、美奈子ちゃんはどうするん?」

「う……ん。うちも、帰るわ」

 辰子と美奈子は、それぞれBMWのドアを開け、そそくさと乗り込んだ。ベンザイは必然的に真ん中に座らされる。

「結局、わしの愛車で帰るんか。わしも、甘う見られたもんじゃ」

 寅雄は少し荒っぽいハンドル捌きで、BMWの向きを変えた。

 どうだ、わしの怒りが通じたか――。ちろっと寅雄はルームミラーを見た。

 だが、寅雄の、ささやかな反撃は完敗だった。

 車体が激しく動いたにもかかわらず、後部座席の辰子と美奈子、それに、なぜかベンザイまでも、呆然とした顔で正面を向いていた。

 自然に寅雄の頭が横に傾く。また、BMWの中の空気が変わってしまった。説明不可能な、妙な空気。

 沈黙のまま、寅雄たちは広島の中心地へ帰った。

          七

 結局、新居を辰子と美奈子に見せた日の夕食は、お預けになった。

 呆然としていた美奈子が「帰る」と、ぼそっと言ったからだ。寅雄にしてみれば、願ったりの状況になった。

 だが、寅雄の新居を見たときから、辰子の様子が変わった。

 辰子の顔は、家を見たときの呆然とした形相から、変化が一切ない。ベンザイも、なんとなく落ち着きがない。どうなっているのか。

連絡を取っていない美奈子も、呆然としているのだろうか。

「姉ちゃん! ぼーっとしてから。わし、これから仕事に行くけえね」

 山のような自分の引越し荷物に囲まれて、辰子は、ぼんやりとしている。

「明後日には、わし、このマンションから出んといけんのんよ。この荷物と姉ちゃんも、行き場を考えてくれんと、困るんじゃけど」

「うちは、あの家に住む」

「まだ、そんとうなことを……。まあ、ええわ。しばらく、置いてやってもええよ。半年以内には出てよ」

 すると、辰子が寅雄を窺うように見た。

「ずーっと、おっちゃ、いけんのん? うち、あそこで死にたい」

「死にたい? ずっと、わしと一緒におるつもりか? 千六百万は、なんとか返すけ。もう、勘弁してくれや」

 寅雄が俯いた瞬間、寅雄のスーツの内側に入れていた携帯電話が鳴った。寅雄は即座に携帯電話を取り出す。

 携帯電話のディスプレイには『美奈子ちゃん』と表示されていた。面倒臭い女二号である。

「もしもし」

 寅雄の声色は、自然に暗くなる。というより、声で美奈子を脅していた。

「あっ、とっ、寅ちゃん? 今、仕事?」

 美奈子の声は、明らかに寅雄の機嫌を探っている。

「いんや、今からマンションを出る。まだ七時前じゃし」

「あの、あのね、この前は、御免なさい。私、ちょっと、どうかしとって。それで、寅ちゃんに、お願いがあるの。今晩、空いとらん?」

 またか、と言わんばかりに、寅雄は大きく溜息を吐いた。寅雄の溜息は携帯電話を通して、美奈子の耳にも入ったはずだ。

「あのね、もう、わしは美奈子ちゃんとは……会わん」

 あえて寅雄は、やや大きい声で、はっきりと「会わん」と言った。

 本当は「会わん」なんて言葉は出したくなかった。まだ、寅雄は美奈子と、もっと深い仲になれるものなら是非なりたいという未練は、たらたらであった。

 だが、苦しい気持ちを持ち続けた、宙ぶらりんの都合のいい男には、成り下がりたくない。これまでの寅雄の経験が、今の寅雄の気持ちに待ったをかける。

「ねえ、寅ちゃん、美奈子のこと、もう、嫌い?」

 どうして、そんな問いかけをして、勘違い男を作ろうとするの――。

「嫌いも何も、美奈子ちゃんが、わしのこと、嫌なんじゃろ? それじゃあ……」

「そんなことない、そんなことない……うやはやほや……」

 美奈子の言葉の最後が、何を言っているのか、寅雄には、読解不可能だった。赤ちゃんが、独り言を言っているようだ。だが、泣いているようには聞こえない。

「じゃあ、今すぐ用件を言って。聞くだけ聞くけ」

 低い上がり框に、寅雄は腰を下ろした。

「あのね、美奈子ねー、あの家に、住みた〜い」

 寅雄の目が、ばしばし、瞬く。どういう意味だ。

「もしかして、美奈子ちゃん、わしと結婚、する、とか?」

 曇っていた寅雄の気持ちが、ぱーっと晴れた。そうなったら、美奈子に利用されようが、どうされようが、構わない。四十三歳にして寅雄の最大の夢が、叶う。

「いや、そうじゃくて……下宿?」

「は〜あ?」

 思わず寅雄は、マヌケな反応をしてしまった。

「トラ、ちょっと、電話、貸し」

 いきなり後ろから辰子の声がした。寅雄が唖然としているうちに、辰子は寅雄の携帯電話を奪い取った。

「美奈子ちゃん、狙いはわかってるのよ。図々しい……はあ? そうよ、私はオバサンよ。でも、女なのよ……はあ? 美奈子ちゃん、トラで我慢したら?」

 それなりに辰子は感情を抑えているようには見えた。しかし、顔は、ぐにゃりと歪んでいる。

 一体全体、辰子と美奈子は何の話をしているのか? 寅雄には、さっぱりわからない。

 携帯電話から、激怒した美奈子の声が漏れている。内容までは把握できないが。

 しばらくして、一方的に辰子は携帯電話の電源を切った。

「ちょっと、わしの携帯電話で! 電源を切ったら、仕事にならんじゃろうが」

 携帯電話を辰子から引っ手繰り、寅雄は電源を入れた。すぐに携帯電話が鳴った。また、美奈子からだ。

 さっと辰子が寅雄の手から携帯電話を取り上げた。無条件で電源を切る。

「なんなんや、二人とも? 猫撫で声を出しよったか思うたら、今度は女同士のバトルか? 何を考えとんか、さっぱりわからん! 携帯電話、返せ!」

 さっと辰子は、携帯電話を持った手を後ろに回した。

「だめ。トラは今日は携帯電話なし。うちが預かる。あの小娘、自信満々。冗談じゃないわ。トラ、あんとうな女と結婚したら、不幸になるよ!」

 さっき、聞こえたんですけど「トラで我慢したら?」って――。

 鼻を上にツンツン上げたまま、辰子はリビングに引っ込んだ。

「はああ、もう、いや」

 携帯電話を奪い返す気力もなく、寅雄は職場へと出かけた。

          八

 結局、寅雄は辰子と一緒に新居に入る羽目になった。

 辰子には「半年」という期限付きで、寅雄は入居を許可したが、千六百万円を借りた負い目もあって、強くは言い切れない。

 新居に荷物を入れ、寅雄は面倒な荷物の整理をしていた。今まで使用していた物のみ入れたため、大して荷物はなかった。

「今度、うちのデパートに久々に行ってみよ。ええもんがあったら、買い揃えよ」

 何気に、寅雄は辰子を見る。寅雄の荷物の少なさとは比較にならないくらいの、大荷物だ。

 妙に、辰子は上機嫌だった。鼻歌を歌いながら、辰子は勝手に自分の部屋を決め、荷物を入れていた。一階の一番日当たりのいい、十畳の洋間だ。

 辰子が選んだ部屋は、あの松も良く見える。墓があった目の前の部屋。

「姉ちゃん、そこ、応接間にしようと思うとんじゃけど。収納もなかろう」

「二階の空いた部屋を収納にする。普段よく使う物は、収納家具でも買って入れておくわ」

「半年しかおらんくせに、何で無駄な買い物するんや」

「千六百万円、トラがうちに返しきったら、出て行ってやるわ。まあ、一生、ここで生活するようになるじゃろうね。応接間は、考え直し」

 くっそーー――。

 ふと、寅雄はベンザイを探す。新居に入ったら、物珍しさで悪戯をするのではないかと心配していたが、走り回る音すらしない。

 ベンザイはリビングの大きな窓から、じーっと松を眺めていた。しかも、きちんと、お座りをしている。

「なんか、気味が悪いの。この間から、松に取り憑かれとるようじゃ」

 ピンポ〜ンとドアホンが鳴った。寅雄はモニターを見る。宅配業者のようだ。

「なんじゃろ? もう荷物は全部入れたはずじゃけど。姉ちゃんの荷物かの」

 寅雄は玄関を開けた。寅雄の思考回路が、完全に止まった。

 宅配業者と思いきや、どうやら違う。大型家電量販店のトラックが目の前に停まっていた。

「あの、すみません、うち、家電は買ってないと思うんですが」

 家電量販店の配送人は、伝票を取り出した。

「ええっとですね、坂下さんですよね。奥様の坂下美奈子さんが注文されているようですが」

「坂下……美奈子……?」

 がばっと寅雄は家電店の配送人の胸倉を掴んだ。

「意味不明じゃ! 奥様、だと? 戸籍謄本は見たんかーーー?」

「そっ、それは、売り場からそういう伝票が来たのですから、僕に訊かれても……」

 すると、家電量販店のトラックの後ろに、タクシーが停まった。タクシーから颯爽と出てきたのは、美奈子だ。

 小走りで美奈子は寅雄に近づいた。

「寅ちゃん、暴力は駄目。手を離してあげて」

 にこっと美奈子はコンパニオン・スマイルを浮かべる。さっと家電量販店の配送人の胸倉から、寅雄は手を離した。

「ちょっと、道が混んどって、遅れちゃったあ。すみませ〜ん、荷物、中に入れてくれますぅ?」

 訝しげな顔をしながら、家電量販店の配送人は頭を下げた。トラックへ走って逃げるように、戻る。

「美奈子ちゃん、どういうこと?」

「美奈子ね、やっぱり、ここに住もうと思ってえ。部屋、見せてねー」

 寅雄が承諾する間もなく、美奈子は当然のような顔つきで、ずかずかと家に上がる。

 美奈子の腕を、寅雄は掴んだ。

「ちょっと、美奈子ちゃん、冷静になりんさい。お父さんとお母さんには話したん?」

「うん、美奈子、結婚するから家を出るって言ってきた。それなら文句はないでしょ?」

「それは……誰と?」

「寅ちゃんしか、この家の中で結婚できる人って、いないじゃなーい。それが何か?」

 これまた当然のごとく、美奈子は返答した。恥らう様子も、一切ない。

「これで、寅ちゃんも納得して、うちを、この家に入れてくれるでしょ。美奈子と結婚できるんだから感謝して。戸籍上だけだけどー」

 するっと美奈子は寅雄の手を解き、奥へ入っていった。

 寅雄は眉頭に、ぐっと力を入れ、頭を傾けた。

 今、何か、引っかかるような発言、しませんでしたか? 美奈子ちゃん――。

 頭を抱えて、寅雄はしゃがんだ。何が、どうなって、こういう展開になるわけ?――。

 すると、奥の部屋から、女二人が罵り合う声が、聞こえてきた。

「姉ちゃんがおる部屋からじゃ」

 大急ぎで走って、寅雄は辰子が荷物を入れていた部屋へ向かった。

 部屋のドアは開けっ放しになっていた。

 辰子は腕を組み、仁王立ち。美奈子は巻髪を、ぶるぶると揺らしながら辰子に噛み付いていた。

「どうして、あんたが、ここに、図々しくおるん! 小姑と同居なんて、とんでもないわよ! 出てって! ここは、うちのプライベート・ルームにするんじゃけ」

「あんら、トラと結婚する気は全くないって、断言してたじゃないのさ。うちの可愛いトラを蔑んで、失礼しちゃうわ。それに、結婚なんて、思いついたようにするもんじゃないの」

 すると、美奈子はプラダのショルダー・バッグから、一枚の紙を取り出した。辰子の目の前に、じゃーん、とかざす。

「これ、戸籍謄本。昨日、うちと寅ちゃんは結婚したの。残念でしたぁ」

 これまた、どういうこと?――。寅雄は、すでに美奈子の旦那になっている。戸籍上だけらしいが。

 どしどしと辰子は美奈子に近づいた。美奈子が持っていた紙を、横から、手荒く奪い取る。

「これって詐欺じゃない! トラの同意も得んと。不用品になったトラを殺して、遺産を丸々、手に入れようとしてるんでしょ!」

「そんな、ちゃっちい犯罪なんか、せんよ! それに、寅ちゃんは、うちと結婚したがっとった。今だって、未練たらたらなんだから。寅ちゃんにあげる、サプライズの新居祝いよ」

「なによーー! なによーー! こんなもの、無効よ! 訴えてやるわ!」と叫びながら、辰子は戸籍謄本を、びりびりに破った。

「破ったって、無駄ですよーだ」

 顔を右側に少し斜めに傾け、美奈子は左口角を上げた。「反論してみろ」と言わんばかりの顔だ。

 辰子は、あらためて、鋭い眼光を美奈子に向けた。

「美奈子ちゃん、本音を言ったら? トラを利用するだけなんでしょ? この家が、いいえ、この土地に執着しちゃったんでしょ?」

 この土地に執着?――。寅雄の頭では、二人の会話には入りきれない。

 美奈子の肩が、ぐいっと上がった。両手で握り拳を作っている。

「あんたも、でしょ? この前、電話で言ってたじゃないの。歳を食ってても女だって」

 歳を食ってても女?――。土地と女、どう繋がりがあるのか。

「そうよ、それが……」

「もうううう、煩いのぉぉぉぉ! お前ら、ようわからんこと喋りよって! この家は、わしのもん! 勝手に話を進めるな! どいつもこいつも」

 寅雄は、大股で部屋に入った。松が見える大きな窓を全開にする。辰子と美奈子の手首を両手で掴み、裸足のまま、引きずり出した。

「お前らは一歩も、この家には、入れん! 戻る場所へ戻れ!」

 全開にした窓を、寅雄は、ぴしゃりと閉めた。がちゃりと鍵も掛ける。

 急いで他の部屋の鍵も、寅雄は閉めて回った。

「トラ、ちょっと開けてよ〜。トラ、うちはあんたの姉ちゃんよ。この家に出資してるんだから。千六百万円よ!」

「寅ちゃん、うちと結婚したかったんでしょ? 願いが叶ったのよ。今さら、無効になんかできないんだから。美奈子のこと、好きでしょ?」

「美奈子ちゃん、お互いの両親にも会ってないのに、そんとうなこと、しゃーしゃーと、よく言うわね。トラは、もう美奈子ちゃんには興味ないのよ!」

「何よ!」

 寅雄とベンザイは、リビングから辰子と美奈子の女のバトルを見ていた。

「もう、うんざりじゃ」

 溜息混じりに寅雄は、言葉を吐き出した。

 ピンポ〜ンとドアホンが、再び鳴る。

「電器屋、まだおるんかいの。帰らせよ」

 どすどすと、寅雄は玄関へ向かった。勢いよく、ドアを開ける。寅雄は怒鳴りつけた。

「もう、帰ってくれや! あれ?」

 よく見ると、家電量販店の配送人ではなく、郵便局の職員が立っていた。ヘルメットの中の顔は、恐怖で目と口が歪な形になっている。

「あの、何か」

 ばつが悪くなった寅雄は、もぞもぞと郵便局の職員に問いかけた。

 郵便局の職員は、少し唾を飲み込んだ。

「坂下寅雄さんの、お宅で間違いないしょうか?」

「ええ、まだ表札は付けていませんが」

「元の住所から転送されてきた手紙を、お届けに参りました」

 すっと、郵便局の職員は封筒を差し出した。

 引っ越すにあたって郵便物の転送の手配を寅雄は、一週間前にはしていた。早速の手紙に寅雄は反射的に戸惑う。

 寅雄の頭の中には、消費者金融からの請求書が浮かんでいた。だが、全額、清算したはずだ。滞納金が、まだ、あっただろうか。

 しかし、よく見ると、普通の白い封筒だった。業者のダイレクトメールなどではない。

「ご苦労様でした」

 寅雄は、手紙を受け取った。

 さささっと郵便局の職員は敷地の外のバイクに向かって歩き出した。ちらちらと振り返っている。

 辰子と美奈子の、主旨のわからないバトルを物珍しそうに、郵便局の職員は見ていたようだった。だが、凝視も禁物とばかりに、途中から走って行ってしまった。

「馬鹿じゃの、姉ちゃんも美奈子ちゃんも。今、家に入り込むには、絶好のチャンスじゃったのに」

 寅雄はドアを閉め、鍵をかけた。人が来たという状況にも気付かないくらい、辰子と美奈子のバトルは凄まじいものらしい。

 封筒の裏を見る。送り主は、田中からだった。

 手で、びりびりと、寅雄は封筒を開けた。中から写真と手紙が出てきた。

 まず、写真を見る。最後に田中に会ったときに、不意打ちで田中が寅雄を撮った写真だった。

 寅雄の横顔がアップで映っている。自然に、寅雄の鼻から笑いが零れ落ちた。

「おお、なかなか、男前に撮れとるじゃないか」

 次に、寅雄は手紙を開いた。昔の女子高生が書きそうな丸文字が横に並んでいる。田中らしいのか、そうでないのか。


坂下さんへ

 元気ですかーーー!(平田の爺さんの好きな猪木の真似のつもり)

 先日、撮った坂下さんの写真を送ります。男のわしが、坂下さんの写真を持っておくのは、気持ちが悪いので。

 ところで、もっと気持ち悪いことがありまして。坂下さんの映った写真を、うちの嫁やら母親に見せたら、坂下さんの隣に別の男が映っていると言うんです。父親と、わしには、さっぱりわからんのんですが、女性には、普通に、はっきりと違和感なく見えるようです。

 目は細く、唇は薄い、身長は坂下さんと、さほど変わらない男とのこと。薄っすら微笑んだ、かなり優しい顔のイケメンらしいのです。

 二人ともが「この人は、うちに恋をしたみたい」な〜んて、アホンダラな発言もしています。

 嫁も六十歳目前の母親も、恐れるどころか胸をキュンとさせながら写真を見ている様子は、ぞくっとします。撮影した場所まで、目の色を変えて訊いてくる始末です。

 坂下さんではなく、わしには見えない男を、見てるんですよ。坂下さんの姿など、存在しないかのように。

 これって、わしの死んだ祖母ちゃんの祖母ちゃんの恋人の人相と似ていると思いませんか?

 不気味な写真を、よ〜く眺めてみてください。もし、坂下さんに見えたら、坂下さんは女の心を持ったオカマちゃん? ということになりますが。

 では、ローンの返済の滞りは、やめてくださいよ。

田中より


「田中の嫁も母さんも、酷いのう。わし以外の……誰?」

 もう一度、寅雄は写真を見ようとした。だが、焦るあまり、手から写真が、ひらひらと落下する。

 ベンザイが、リビングから飛んできた。写真を咥えようとする。

 寅雄は、落ちた写真を、さっと拾い上げた。ベンザイの前足が届かないように、写真を天井に翳す。

「だ〜め、お座り!」

 躾もしていないくせに、飼い主らしく「お座り!」と寅雄は言ってみた。せっかく豪邸に住むのである。品のいい犬に躾けなければ、興醒めだ。

 すると、ベンザイは素直にお座りをした。寅雄は、えらく、拍子抜けしてしまった。

「あら、いつのまに、そんな芸ができるようになったん?」

 変なベンザイと思いながら、再度、寅雄は写真を見た。

 寅雄の横顔の向こう……人なんて、写っていない。

「もしや……」

 急いで、寅雄はリビングへ向かった。窓を開け、バトル中の辰子と美奈子に声を掛けた。

「おい! そこに男がおるんか? 目と唇の細い、すけこまし風の色男が」

 ぴたりと、辰子と美奈子のバトルが止まる。

 般若の形相で、辰子と美奈子は同時に寅雄を睨んだ。ごくりと、寅雄は生唾を飲んだ。

「『すけこまし風』? 冗談じゃないわよ、彼は、うちのことが好きだって。本気だって……」

「何、いいよんね、年増クソ婆。あんたになんか興味ないって、彼は言いよる。一番も二番もなく、美奈子だけが好きだって……」

 すーっと寅雄は窓を閉めた。ちろっとベンザイを横目で見る。

 ベンザイは寅雄の横に座って、松を見ていた。床掃除でもするかのように、尻尾を左右に、すーすーっと振っている。

「お前も、女よの。やっぱり見えるんかの。見えんっちゅうことは、いいことなんかもしれん」

 窓に鍵を掛け、寅雄は庭に背を向けた。

「田中の祖母さんの祖母さんが好きになった男は、死んでも生きた女にまで手を出す、ろくな奴じゃあなかった、っちゅうわけか。良かったの、別の人と結婚して。それにしても、女一人一人に対して、違う手法で誘惑しよんかの。器用な奴じゃ」

 再び、寅雄は窓を、がらっと開けた。すーっと、山の空気を吸い込む。

「おい! 女誘惑妖怪! 生きとるうちに、女遊びが十分できんかったもんじゃけ、成仏せんかったんじゃろ! 女にちやほやされる自信満々の甘いマスクが役に立たんかったのが名残惜しゅうて、それで、妖怪にでもなったんか! 手当たり次第とは、猿以下じゃの! 今、お前が誘惑しよる女どもは、最低でぇ!」

 辰子と美奈子が寅雄に眼を飛ばしてきた。寅雄は、さっと窓を閉め、鍵を掛けた。

 ピンポ〜ンとドアホンが鳴った。今度こそ、家電量販店の配送人だろう。

「あ〜あ、もう、面倒臭い。冷蔵庫も洗濯機も三台になるわ」

 しぶしぶ、寅雄は玄関に向かった。



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