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犬も舞う地  作者: ひらり
6/7

呪われても、土地獲得

第六章 呪われても、土地獲得!


          一

 疲れきった体で、寅雄と新田はBMWに乗り込んだ。爺さんの家に直行する。

 平田爺さんの家から三十メートル手前で、寅雄は静かにBMWを停め、素早くシートベルトを外した。

「新田、ここに、おれや。わし、息子に、こっそり会って来るけ」

 目の焦点が合っていない新田は、正面を向いたまま、小声を出した。

「根回しですか? 爺さんの目を盗んで、どうやって引き篭もりの息子に会うんですか? 電話だって、出んじゃろうし」

 寅雄はBMWのドアを開け、外に出た。ドアを閉めずに助手席を覗く。

「とにかく、待っとれ」

「了解」

 新田は助手席のシートを、がくっと倒した。寅雄はドアを閉めた。

 一歩も進んでないうちに、BMWの助手席の窓がコンコンと叩かれる音がした。

 再び、寅雄はBMWの中を覗く。新田が、百二十坪の土地で掘り出した古めかしい箱を前後に、ひらひらと動かしていた。

「おお、忘れとったわ」

 寅雄は運転席のドアを開き、BMWに上半身を突っ込んだ。

「わりい。櫛は、お前が持っとるの」

 ジーンズの右ポケットの上を、新田はポンポンと叩いた。

 BMWのドアを閉め、寅雄は平田爺さんの家に向かった。

 平田爺さんの家の敷地に入る前に、寅雄は、そーっと様子を窺った。いつもと変わらず、静まり返っている。

 寅雄は、ひょいと爪先立ちをした。視界が、五センチくらい高くなる。

 平田爺さんがいつもいる部屋の反対側の細い道を通って、寅雄は家の裏に回った。

 裏には、勝手口があった。もちろん、開ければ台所だ。

 そーっと、寅雄は勝手口のドアノブに手を掛け、ゆっくりと回す。想像通り、鍵は掛かっていなかった。

 だが、立て付けの悪い家である。引いても引いても、勝手口が開かない。

 もう、ちょっとだけ、力を入れてみるか――。

 腕に力を入れた瞬間、勝手口が勢いよく押された。寅雄は驚きのあまり、尻餅を付く。古めかしい箱が、手から離れ、からからと音を立てた。

 引き篭もりの息子が、ぬーっと顔を出した。

「何しよんや、コソ泥みとうに?」

 寅雄は慌てて人差し指が立った右手を、自分の口元に当てた。「シー、シー」と、歯の隙間から声を出す。

 瞬きをしながら、引き篭もりの息子は寅雄を見ていた。

 よく見ると、引き篭もりの息子の脇の下から、平田爺さんの弟の目が、ぎょろぎょろと寅雄を眺めている。

 うわ、人間の容姿に近い宇宙人みたい――。

 引き篭もりの息子の顔に視線を戻し、寅雄は、立ち上がった。

 転がった箱を拾い上げ、寅雄はドアに、そそそそっと近寄った。寅雄は引き篭もりの息子の正面に立つ。

「おい、近すぎて、お前の頭の旋毛しか見えんで」

 引き篭もりの息子の胸から十センチくらい離れていた寅雄の顔面が、かくっと上を向く。

「大きい声、出さんで下さい。あの、墓の下、掘ったんですよ」

「何か、出たか? もしかして、その箱か?」

 寅雄が胸に抱えていた小さな箱を、引き篭もりの息子の極太の指が指す。

「そうなんです。じゃけど、掘っても掘っても、骨は出てこんかったです」

「じゃろうのう。適当に誤魔化しとけや。そこら辺に転がっとる猫やら犬の死体を焼いて、骨を適当に割って、持ってくりゃあ、ええ」

「あっ! そういう手が……って、最近は保健所が野良を持っていきますから、そうそう都合良くは、出くわさないですよ。はは」

 とりあえず、冗談として、寅雄は笑って通した。

 気色が悪いこと、言いやがって――。

「そういや、お前、犬、飼うとるよのう」

 スイッチが押されたように、寅雄は眉頭に、ぐっと力を入れた。

「冗談じゃねえ!」

 思わず、寅雄は大声を出した。

 美奈子と寅雄を辛うじて繋げているベンザイに、危害を加えるどころか、骨にしてしまうなどとは、冗談にもほどがある。

「おいおい、大きい声を出すな、言うたのは、誰じゃ。冗談じゃ、冗談」

 引き篭もりの息子は、にたにたと笑っていた。まるで、寅雄が憤慨する姿を楽しんでいるようだ。

 寅雄の腕は引き篭もりの息子を殴りたくて、アルコール中毒患者の手のように、小刻みに、ぴくぴくと動く。

「おい、その箱」

 いきなり、引き篭もりの息子の背後から声がした。

 引き篭もりの左の脇から、今度は平田爺さんが、ぎょろぎょろと寅雄が持っている箱を見ていた。

 さらに奥には平田爺さんの弟が、うようよと動いている。

 爺弟め、わざわざ爺さんを呼びに行ったんか。要らんこと、しよってから――。

「これですか? 墓の下から出てきたんですよ」

 左手で抱えていた古ぼけた箱を、寅雄は右手で指した。とりあえず、笑顔で。

 平田爺さんが、予定外の場面で参上してくれたおかげで、寅雄の頭は扇風機の羽根のようにフル回転を始めた。もちろん、弱・中・強のうちの、強だ。どう、切り抜けるか。

 とにかく、何が何でも、寅雄は一時間以内に終わらせたかった。平田婆さんの骨を砕く作業も全て。

 引き篭もりの息子の腰を、平田爺さんは杖で突付いた。

「どけ」

 引き篭もりの息子は、勝手口の扉を全開させた。

 ちょいちょいと、平田爺さんが寅雄に手招きをする。

 寅雄が勝手口に入ると、平田爺さんは杖を持っていない左手を、寅雄が抱えている箱に向けて伸ばしてきた。

 寅雄は、素直に渡そうと、箱を平田爺さんの前に突き出した。

 しばらくの間、平田爺さんは、じーっと瞬きもせずに、箱を見ていた。

「要らん」

 伸ばしていた手を引っ込め、平田爺さんは、ぷいっと、そっぽを向いた。

 要らんのんなら、いちいち手を出すなや! こいつら三人まとめて、掘った穴に埋めたるでえ――。

 寅雄の怒りは、最近、特に日々少なくなっていく頭髪の先から、体の隅々まで行き渡った。自然に、寅雄の鼻の穴が膨らむ。

 そっぽを向いたまま、平田爺さんは寅雄に質問した。

「その箱の中には、何か入っとったか?」

 返答する前に、寅雄は箱を台所の床に叩き付けた。箱の本体と蓋が、ばらばらに転がった。

「爺さん、自分の、でっかい目で見てみいや。何が入っとるんか」

 寅雄の声は、超低音になっていた。寅雄の視線は、平田爺さんの横顔を貫く。

 そっぽを向いたまま、平田爺さんは足元に転がっている箱を見ようとしなかった。『歳をとると子供に帰る』と言うが、本当かもしれない。

 強情爺が――。

「ふーう」と寅雄の隣から大きな鼻息、いや、溜息が聞こえた。

 寅雄は左側に目を向けた。引き篭もりの息子が、自分の父親の反応に呆れ果てているようだった。

 引き篭もりの息子は勝手口の扉から、何も考えずに手を離した。ぎーっと不気味な音を立てながら、勝手口の扉が自動的に閉まる。寅雄の左肩で、扉は止まった。

「よっこらしょ」と、引き篭もりの息子が大股開きで、しゃがんだ。転がっている箱の本体と蓋を、引き篭もりの息子は両手で掴み、床をきょろきょろと見る。

「他には……何も落ちとらんの。何か、入っとらんかったか?」

 故意に寅雄は、語気を強くして答えた。

「何にも、入っとりませんでした!」

 すると、か細い声がした。

「くっくっ、くし〜ぃ、くし〜ぃ……」

 数が日に日に減っている頭髪が、ぴんぴんに総立ちしそうなほど、寅雄は驚いた。

 寅雄の頭の中では「幽霊が出た!」と「櫛が入っていた事実を知られていた!」という叫び声が、同時に響き渡っていた。

 寅雄は目を動かすと、平田爺さんの弟が、口を、ぱくぱくさせている。

 とりあえず、幽霊ではなかった。見方によっては幽霊に見えるが。

 平田爺さん、平田爺さんの弟、引き篭もりの息子の顔を、寅雄はぐるっと眺めた。どうやら、櫛の存在は知っているようだ。

「『くし』って、焼き鳥の串ですか?」

 とりあえず寅雄は、ボケてみた。

「いや、髪をとく『櫛』」

 箱を、じろじろと見ながら、引き篭もりの息子が、ぼそっと答える。寅雄がボケたにもかかわらず、ド真面目な顔で。

「いや、見てないなあ、櫛は。箱の蓋は開いてましたし」

 引き篭もりの息子は箱の本体と蓋を、くるくると引っ繰り返しながら凝視していた。

「開いていたわりには、中は綺麗じゃの」

 鋭い――。

 寅雄は引き篭もりの息子の手元に、すーっと盗み見るように視線を向けた。

 箱の表面は土が付着し、色も剥げている。だが、中はつるつるっと綺麗であった。赤く塗られた色も、ほとんど剥げていない。

 うわ、よう見ときゃ、よかった――。

 寅雄は大きく口を開けた。ぱちっと、両掌を合わせる。

「ああー、土が崩れ落ちたときに出てきたけ、そんとき蓋が開いたんじゃ。でも、近くには、櫛はなかったのう」

 爺二人に引き篭もりの息子が、細い目をして寅雄を見ていた。演技が下手すぎたか。

「なっなんですか。その目は。わしは、嘘は吐かん。それに、櫛がありゃあ『櫛が入っとりましたあ!』言うて、自慢げに持って来ますよ」

 新田の事情は、平田爺さんたちは知らない。寅雄は何が何でも、嘘を真実に変えてやろうとしていた。

「まあ、そりゃあ、そうじゃの」

 引き篭もりの息子は、素直に納得していた。爺二人の顔も、ほんの少し緩んだように寅雄には見えた。

 両手に持っていた箱の本体に蓋を載せ、引き篭もりの息子は立ち上がった。平田爺さんの目の前に、箱を突き出す。

「父さん、あの箱じゃないんか。母さんの祖母さんが、自分の身代わりに埋めたっちゅう」

 寅雄は、平田爺さんと引き篭もりの息子の顔を交互に見た。理解できそうで、全然できない二人の会話を、寅雄は、なんとか飲み込もうとしていた。

「違うわ。母さんの祖母さんが死んだ後に埋めたもんよ。祖母さんが平田の墓に入ったけ、祖母さんが使いよった櫛だけでも祖父さんの側に葬ってやろう言うて、母さんの母さんが勝手に埋めたんじゃ。ふん! 馬鹿らしい」

 平田家の家系図を書かんことには、ややこしい――。

 寅雄が、きょろきょろ見回していると、平田爺さんの視線とぶつかった。

「骨は、出んかったんか?」

 出るわけ、ねえだろ。本気で骨があると、思っとったんかよ――。

 内心、えらく呆れながらも、寅雄は平田爺さんに諭す。

「残念ながら、一つも、それらしいもんは出てきやしませんでした。普通に考えると、土に返ったのではないかと。それに……」

 寅雄は、故意に間を空けた。じらすだけ、じらす。

「なんじゃ?」

 横目で寅雄を見ていた平田爺さんは、首を、ぐるっと動かし顔を寅雄のほうへ向ける。

平田爺さんは、ぎょろ目を大きく開けて寅雄を凝視した。

「こういうことを申し上げて良いかどうか……」

 さらに、じらす。

「じゃけ、なんや!」

 平田爺さんの、イライラ度がアップする。

 口をぴしゃりと閉じ、寅雄は顔をひん曲げた。

「ほんまに、あの墓石の下に埋めたんですかね。ご立派なご先祖様を」

 平田爺さんの口も曲がった。ひん曲がったままの平田爺さんの口が開く。

「どういうことじゃ」

「いやあね、僕らは、あの墓の周りをぐるっと掘ってみたんですよ。でも、遺品らしいものすら見付からんかった。あったのは、その箱だけ。後から埋めた、その箱だけ。確かに、墓石の真後ろ辺りから出てきましたよ。まあ、埋め易い場所じゃったんじゃろ」

 一瞬、空気が、ぴーんと張り詰めた。

 よし、よし。わしのペース――。寅雄の空想の話が、ぽんぽんと調子よく口から出始めた。

「ご先祖様が戦で亡くなったのは本当でしょう。あれだけ、自慢しよったんですから。じゃが、何処で亡くなったとか、ご存知ですか?」

 平田爺さんと弟、引き篭もりの息子の目と頭が、動く。目玉が右を向けば、頭が左に傾く。

「そういやあ、聞いたこと、ないのう。父さん、聞いたこと、あるか? 母さんの祖母さんから直接」

 引き篭もりの息子の太い唇の先が、もごもごと動く。唇だけ見ると、未知の生物のようだ。

 ひん曲がった顔のままの平田爺さんは、ぎょろ目を天井に向けていた。

「益次、お前、聞いたことあるか?」

 平田爺さんの弟は、涎が垂れそうなほど、ぽかーんと口を開けて天井を見ていた。やはり、歯は、ほとんどない。

「なあい」

「どういう状況で亡くなったとかも、聞いとりませんか? 例えば、矢で刺されたとか、馬に乗った偉い人に立ち向かって行って、ばっさり斬られたとか。何か武勇伝は……」

「なあい」

 平田兄弟が、天井を見上げたまま、同時に答えた。

「そりゃあ、眉唾もんですね」旦那――。

「じゃが、あそこには無縁仏さんも、仰山、埋まっとるいうて聞いとるで」

 眉毛を、くいくいと上げながら、引き篭もりの息子が寅雄に質問する。頭の中が、混乱し始めているようだ。

「それも……こう言っちゃあ、なんですが、見栄じゃないかと。それだけ人望のある人物だったということを、アピールしているんじゃないかと。どれくらいの地位の方だったかは存じませんけど、話を聞いた限りでは、平田さんの奥様方は、代々、そのご先祖様の存在に縋り付いて生きていたように、僕には思えるんです。だからこそ、話が大きゅうなっとるような、気がするんですよ」

 狭い勝手口に男が四人、円を描いて突っ立っていた。

 寅雄の肩で止まっている扉の向こうから、山鳩の声が響き渡る。ホーホホーホホ。

 慌てて寅雄は、両手を胸の辺りで、小刻みに左右に振った。

「いや、別に、奥様方が嘘を吐いているとは、思わんですよ。もしかしたら、遺体がなかったために、そうであって欲しいと願っていたのかもしれません。それに、事実であったとしても、亡くなられたという話は悲しすぎて、口にするのも辛かったのかもしれん」

 とりあえず、寅雄は平田一族の女たちを庇う。

 しばらく、妖気が漂う沈黙が続く。意外にも、第一声を出したのは、引き篭もりの息子だった。

「なんか、ようわからんけど、確かに、そんな気がしてきた……母さんの一族なら、ありうる話じゃ。嘘をへし曲げてでも、見栄を張る人らじゃったけえのう。おかげで、失業して戻って来たわしを、他人目に晒さんように軟禁しよったし。息子が大企業に勤めとることが、唯一の自慢じゃったようじゃけ」

 つるつるの頭を、右手で、ごりごりと掻きながら、引き篭もりの息子は左手に載っている古めかしい箱を眺める。

 がばっと、寅雄は勝手口の狭い土間で、土下座をした。『必殺、土下座マン』である。だが、不恰好にも尻が外に出ている。

「申し訳ございません! 骨は見付かりませんでした。わしの力不足です! この箱を割るということで、勘弁していただけんでしょうか」

 寅雄は下を向いたまま、耳を澄ました。三人の動きが気になる。

 寅雄の左側に立っていた引き篭もりの息子が、しゃがんだ。

 超狭いし、超暑苦しい――。

「ほんまに、骨は無かったんよの」

 泣きじゃくる子供にお父さんが話しかけるように、引き篭もりの息子は寅雄に尋ねた。

「はい、なんぼう掘っても、ありませんでした!」

「父さん、この箱が見付かっただけでも、良かろう。わしは、箱の存在すら忘れとったわ。この箱を叩き割る、いうことで、お終いにしようや」

 寅雄の頭上で、引き篭もりの息子が平田爺さんを説得する。

 頼む、爺さん、納得してくれ。ほんまに、これ以上、どうすることもできん――。寅雄は目を、ぎゅっと瞑った。

「いんや。まだ、お終いじゃ、ないで」

 平田爺さんの、空気の抜けるような声が、ゆっくりと湿気た風のように流れた。

 寅雄の目が、ぱっと開く。「まだ」と言う平田爺さんの言葉の裏には……わかりきった要望である。平田爺さんの恐妻の骨を砕くという誓約だ。

 寅雄の頭を、何かが、コンコンと叩いた。寅雄は頭を上げた。

 一段高い上がり框に立っている平田爺さんが、杖で寅雄の頭を叩いたのだ。

 平田爺さんは、薄っすら笑いながら、寅雄を見下げていた。

 土間に土下座している寅雄の目に映る平田爺さんの姿は、巨大な悪人としか言いようがない。

 ベンザイから見た寅雄は、今の平田爺さんのように巨大な悪人なのだろうか。

 寅雄は、平田爺さんに睨まれながらも、「へーへー」と荒い息を吐いて笑顔らしき表情を浮かべるベンザイの顔が、頭を過ぎる。

 いや、爺さんより、わしのほうが善人じゃ。いい歳こいて、まったく。長くもって数年で仏さんになるんじゃけ、もっと穏やかな顔は、できんのんかいの――。

 にたつきながら、平田爺さんが、しわしわの口を動かした。

「先祖の骨は、ええ。まあ、箱は、わしが始末する。じゃが、二階にある骨は、お前が割れ。誓約書どおりにな。復讐の第二章じゃ」

「父さん、もう、ええじゃろ」

「誓約書どおり」

 引き篭もりの息子が引き止めるのも振り切り、平田爺さんは、よちよちと体を左右に動かしながら、方向転換をした。

「他人の、わしがやるより、平田さん自身が割っちゃったほうが、すっきりしませんか?」

 つい反射的に、寅雄は平田爺さんの背中に向けて低い声を出した。

 平田爺さんの足が、ぴたりと止まる。

「なぁ〜にぃ」

 首を回し、平田爺さんは寅雄を横目で睨んだ。

 上半身を起こし、これ見よがしに「あ〜あ」と寅雄は大きな溜息を吐いた。

「でないと、話の筋がとおらんでしょう。わしは、あの土地欲しさに、平田さんの言うとおりにやってきた。じゃが、おたくの奥さんには、なあんの怨みもありゃあせん。怨みがあるのは、平田さん兄弟と、ついでに息子さんでしょ。ここで一発、その箱と一緒に、割っちゃったらどうです? すっきりしますよ〜。それとも、割るのも怖いんですか? あの世に行こう思うたら、三途の川の対岸で恐妻が仁王立ちして待っとる姿を想像して。まあ、三途の川も渡りきれんで、この世に戻って来るかもしれんですよ、けっ!」

 言い過ぎたか、それとも、ちょうど良かったか、寅雄には判断できなかった。

 だが、ふつふつと煮え始めた寅雄の腹は、もっと毒を吐きたくて、むずむずしていた。

 ふっと、平田爺さんの目が細くなった。口元は笑っている。

「三途の川なんぞ、わしは渡らん。母さんが極楽におるなら、わしは地獄に行く。閻魔さんと酒を飲み交わすんじゃ。けけけけ」

 平田爺さんの顔は、あまりにも不気味だった。寅雄の肺の中に、冷たい空気が入り込んできた。

 ゆっくり前に顔を向きなおし、平田爺さんは、いつもの部屋に歩いて行った。

 左隣でしゃがんでいた引き篭もりの息子が、むくっと立ち上がった。寅雄は引き篭もりの息子の顔を見上げる。

 もちろん、引き篭もりの息子は平田爺さんより巨大に見える。だが、目は「やれやれ、すまんのう」と寅雄に訴えているようだった。

 母親も母親なら、父親も父親っちゅうわけか――。

 奇妙な夫婦から生まれたにもかかわらず、常識を弁えた正常な息子に育ったものだと、寅雄は初めて思った。

「兄ちゃんも、わしも、逃げたいと思いながらも、我慢をしてきた。子供みとうに見えるじゃろうが、ここは、兄ちゃんのゲームに付き合ってくれんかのう」

 すかすかと、空気の抜ける声を出したのは、平田爺さんの弟だった。寅雄は、平田爺さんの弟を凝視したまま、体を後ろへ反らした。

 この爺さん、まともに話せるんじゃ――。単に、今まで話を全然しようとしなかった、だけだが。

 平田爺さんを追って、平田爺さんの弟は台所から出た。

 寅雄も立ち上がり、嫌々ながらも意を決し、靴を脱いだ。

「大丈夫なんか?」

 引き篭もりの息子が、寅雄の背中から問いかけた。

「大丈夫……で、す」

 優しい言葉を掛けられたせいであろうか、数秒前の寅雄の決心が、ゆらゆらと揺らぎそうになった。子供であれば、すでに泣いている。

 振り返らず、寅雄も台所を通り、平田爺さんの待つ部屋へ向かった。

          二

 平田爺さんは、また酒を飲んでいた。台所に行く前まで、酒を堪能していたようだ。

 平田爺さんの左側には爺さんの弟が、おろおろした顔つきで、ちょこんと座っている。

 いつものテレビの前に寅雄は腰を下ろした。爺さんの弟の真正面だ。

 寅雄は平田爺さんの顔を、じーっと見た。

 今日の酒は、平田爺さんが自分で購入した酒なのだろう。安そうな芋焼酎を、いつもの汚いコップにゴボゴボと入れて飲んでいる。氷や水、湯を入れるわけでもない芋焼酎を。

 寅雄の視線に気付いた平田爺さんは、コップを口に付けたまま、口を開いた。

「なんじゃ。お前、不細工じゃのう。けけけけ」

 コップの中で行き場をなくした平田爺さんの声が、うわん、うわんと響き渡っていた。寅雄の耳には、くぐもって聞こえる。

 わしが不細工っちゅうのじゃなくて、何で、わしが、じーっと爺さんを見とるんか、質問せえや――。

「不細工なのは、生まれつきです」

 寅雄は、きっぱりと言い切る。今さら言われなくても、四十数年、ずーっと思い悩んだ真実だ。

 昔も、ちびで不細工だったに違いない平田爺さんに言われて、寅雄の腹が立たないわけがない。

 だが、今から実行される残酷な絵が、寅雄の頭を横切った。寅雄のむかっ腹が、臆病にも、しゅーっと縮こまってしまった。

 一体全体、何の罰ゲームじゃ。ちょっとした地獄絵にもなるぞ――。

 ずきん、ずきんと頭痛がしてきた。頭をがっくりと垂れ、寅雄は右手を額に当てた。

 すると、寅雄の左目の視界の端に、ぶっとい腕が映った。顔を見なくても、わかる。引き篭もりの息子の腕だ。

 ことっと音がした。俯いたまま、寅雄は上目遣いに自分の目の前を見た。緊張のあまり筋肉が凝縮して、寅雄の両肩が、ぐいっと上がる。

 炬燵の上に箱にも入っていない剥き出しの骨壷が置かれていた。しかも、寅雄の目から、ほんの二十センチくらい先に、だ。

 新聞紙が引き篭もりの息子の手によって、炬燵の上に敷かれた。骨壷が新聞紙の上に載せられる……。

 引き篭もりの息子が、寅雄の左隣に胡坐をかいて座った。

 一呼吸おいて、引き篭もりの息子は無言で、正座している寅雄の太腿に金鎚を置いた。金鎚は、普通の大きさだった。

 寅雄は処刑台に上がった気分になった。もっとも、処刑台に上がった経験はないが。

 寅雄自身が言い出したとは言えど、本当に平田婆さんの骨を砕く羽目になろうとは。回避できる方法は、皆無だったのだろうか。

 焦って物事を進めると失敗するという現実は、寅雄は熟知していたつもりであった。今さらながら、自分の愚かさに、寅雄は嫌気がさしていた。

 ああ、このまんま、気でも失っちゃおうかなあ。でも、それだと「また、後日」っちゅうことになるだけなんじゃろうのう。爺さん、やらせる気、満々じゃけ――。

 骨壷を凝視したまま、寅雄は膝の上に載せられた金鎚の柄を握った。周りの様子を、ぎろっと見た。

 平田爺さんは、コップを口に付けたまま、にたにたと寅雄を見ながら笑っている。楽しいショータイムを待ちわびているようだ。

 平田爺さんの弟は、相変わらず、目を、うようよさせ落ち着きがない。砕かれた骨が見たいのか、それとも、残酷な行為だと思っているのか、さっぱり想像できない。

 引き篭もりの息子は、骨壷を、ぼんやりと眺めていた。諦めの表情だ。

 寅雄は十メートルの高さがある崖から海へ飛び込むときと、同様の心境になった。上から海面を見れば見るほど、足がすくみ、飛べなくなる。

「骨壷から骨を出して、やれ」なんて、平田爺さんから、いきなり言われたら、どうすればいいのだ。人の骨なんか、素手で触るなんて……。

 さっさと、やってしまえ――。

 正座していた寅雄は、すっと尻を上げた。骨壷に命中する位置に、金鎚を握っている右手を挙げる。

 目を、硬く瞑り、寅雄は勢いよく、金鎚を振り落とした。

 ガシャンという、陶器が割れる音が聞こえた。寅雄は目を開かず、そのまま、何回も力任せに金鎚を振り下ろす。

 二十回くらい、金鎚を振り下ろしただろうか。寅雄が振り上げた手が、がっしりと掴まれた。

「おい! おい! もう、ええで。ぐちゃぐちゃになったけ、もう、やめえ」

 引き篭もりの息子が、寅雄の耳元で大声を出した。耳の奥の鼓膜が、びりびりと震える。

 寅雄は眉毛を上下に動かしながら、抵抗する瞼を、こじ開けた。

 正面にあった骨壷は、見事に割れていた。骨壷の中にあった骨は、中途半端に砕けている。

 おい、この中途半端な大きさの骨なら、爺さん、文句を言って――。

 ごんっ、とコップが炬燵の上に載せられた板の上に、手荒く置かれた。

 うわ! やっぱり――。

 視線を下から上へ、ゆっくりと動かし、寅雄は平田爺さんの顔を窺った。

「駄目じゃ! 粉々になっとらん。墓石とは違うんじゃ。骨くらい、さらさらに砕け!」

 平田爺さんの口から、酒臭い唾が寅雄の顔まで飛び散った。飛距離は一メートル弱だ。

 引き篭もりの息子が平田爺さんの肩を大きな左手で、がっしりと掴んだ。

「父さん、息子の、わしの気持ちも考えてくれや。頼むけ」

「だぁめぇじゃ。小麦粉か砂糖か塩か、間違えるくらいまで、砕け」

 わかりましたよ。砕いた骨、奥の台所の砂糖用の容器に入れておいてやるわ。クソ爺ぃ――。

 力強い引き篭もりの息子の右手を、寅雄は振り払った。

 目を、かっと開き、寅雄は再び、ごんごんと金鎚を振り下ろす。

 寅雄の意識の中では、平田婆さんの骨は、もう骨には見えなかった。虫に食われ、乾燥した枝の端切れとなって、寅雄の目には映っていた。

 ある程度まで割れたところで、寅雄は前屈みになる。金鎚を低い位置にセットし、玉葱の微塵切りのごとく、トントントントンと細かく叩く。

 焼かれて脆くなっていた骨は、容易く小さくなっていった。

 再び、引き篭もりの息子の手が伸びてきた。今度は、金鎚を握っている寅雄の手を金鎚の柄と一緒に、大きな掌で、すっぽりと握っていた。

 小さくなった骨を見詰めながら、引き篭もりの息子は、ゆっくりと声を出した。

「父さん、これで、どうじゃ。父さんが飲みよる小さい錠剤と、変わらんくらいの大きさになったで」

 高齢の平田爺さんだ。体のどこかに異常があっても不思議ではない。だが、まさか、糖尿病ではないであろう。

 芋焼酎の瓶を小刻みに震える手で取り、平田爺さんはコップに、なみなみと注いだ。自分の息子の言葉など、まるで聞こえていない素振をしている。

「平田さん、擂り鉢ありますか。ゴマを擂る、擂り鉢ですよ。もちろん、棒も必要です」

 低い声で、寅雄は平田爺さんに訊いた。無残に、ぼろぼろになった平田婆さんの骨を眺めながら。

「ゴマ擂り、かい? 今さら、ゴマを擂っても、なあんにも、ええことにはならんで。けけけけ」

 意味不明――。

「平田さんを煽てるつもりは、目の前の骨の大きさほども思ってませんから。どうせ、料理らしい料理なんて、してないんでしょ? 擂り鉢なんか使わんのんなら、ええじゃないですか。台所にあるんですか? わし、探してきますけ」

 寅雄は、さっと立ち上がった。

「わしは、ゴマ和えを食べる」

 真面目な顔で、平田爺さんが、さらっと口に出した。

 どうせ、スーパーの惣菜コーナーで買ったゴマ和えじゃろうが。どうやってスーパーに行くんか知らんけど――。

 寅雄の左の頬が、ひくひくと痙攣する。

「父さん、この歳じゃけ、今はほとんど、料理なんかせん。じゃけど、好物のゴマ和えだけは作る。母さんは食べるばっかりで料理なんかせん人じゃった。特別な日の、ばら寿司だけは作りよったがの。それ以外は、食事は父さんが準備しよった。結構、美味いんで」

 顔を上げずに、引き篭もりの息子は、ぼそぼそと答えた。

 もう、いや――。寅雄は首を後ろに、がっくりと曲げた。天井を眺める。

「後は、わしが何とかする。父さん、それで、ええの」

「何で、お前が勝手に決めるんじゃ!」

「後は、わしが何とかする、って言いよるじゃろうが!」

 引き篭もりの息子の口調は、完璧に巻き舌になっていた。イタリア人か、性質の悪い男のようだ。大声ではなかったが、凄みはある。

 恐る恐る寅雄は、引き篭もりの息子に声を掛けた。

「あの、すみません、何とかするって……」

「何とかする、言うたら、何とかするんじゃ。だいたい、想像は、できよう」

 平田爺さんのほうへ、引き篭もりの息子の体は向いたままだった。

 自分の母親の骨を、引き篭もりの息子が粉々にしようとしている。

 平田爺さんの、ぎょろ目が、益々ぎょろぎょろと動いた。

「あっ、いや、あの……それは、息子さんがしては、いけんで……」

「坂下さん、帰ってくれんですか。帰って、すぐに金を準備してください。できるだけ、早いほうがええ。父さんのためにも、早く、あの土地を手放したい」

 急展開である。だが、寅雄にしてみれば、引き篭もりの息子の声が、神が発する声のように聞こえた。

 引き篭もりの息子のツルツル頭を眺めながら、寅雄は小さく深呼吸した。

「お金は、いつまでに準備したら、ええですか?」

「一週間以内」

「え! 早い! ちょっと待ってください。わしにも都合が……」

「闇金から借りてでも、現金を準備せい」

 引き篭もりの息子は、いきなり悪人に変貌した。神と悪人は、紙一重なのか。

 がばっと寅雄は、再び畳の上に正座した。両手と額を、ぴったりと畳に付けた。『必殺、土下座マン』である。

「せめて、二週間! 二週間、待ってください」

 借金回収屋に頭を下げているような屈辱感が、寅雄の胸に湧いてきた。

「駄目じゃ! 一週間じゃ! わかったら、とっとと、出て行け」

 引き篭もりの息子は、全く寅雄を見なかった。だが、ツルツル頭から寅雄を睨む大きな目が、浮いて見えた。

 幻覚まで、見え始めてきた――。寅雄は大きく溜息を吐いた。

 ふと、寅雄は視線を感じた。目を右側に動かす。

 平田爺さんの弟が、ぎょろ目を瞬かせていた。「とにかく、早く、出ろ」と目で合図を送っているようだった。

 とりあえず、この場を離れて新田と作戦を練るのが妥当ではないか。

 一晩でも眠れば、平田爺さんも息子も、落ち着きを取り戻すかもしれない。また、明日、出直すのが賢明だ。

 寅雄は無言で、部屋から出た。いつもどおり、玄関に足を下ろそうとすると、寅雄の靴がない。台所の勝手口に靴を脱いだ数分前の自分を思い出した。

 数メートルの廊下を歩き、寅雄は台所へ向かった。開けっ放しにされた扉を潜る。

「一週間以内じゃけえの!」

 背後から追い討ちを懸けるように、引き篭もりの息子が念を押してきた。

 不安で、どんよりとした気分になっていた寅雄の心が、怒りで爆破した。顎を上げ、首を伸ばす。

「ああ、耳揃えてきますよ。銀行から引きおろしたての、ほかほかの千五百万の束を。平田さん御一家では、目にすることもなかった、これからも、絶対に目にすることもない、現金の帯つきの束を」

 後先をまるで考えない捨て台詞を吐いて、寅雄は平田家を出た。

          三

 平田爺さんの家から離れた場所に停車させていたBMWに、寅雄は戻った。怒りのあまり、乱暴にドアを開け、どかっとシートに腰を掛ける。

 バンと大きな音を立ててドアを閉めると同時に、寝ていた新田が、ぼんやりとした目で寅雄を見ながら、重たそうに体を起こした。

「あ〜あ、あらま、ご機嫌斜めですねぇ」

 倒していた助手席の背凭れを戻しながら、新田が大きな欠伸を出した。

 無言で寅雄はBMWのエンジンをかける。だが、サイドブレーキを解除せず、ハンドルを握ったまま、寅雄は硬直していた。

「どうしたんですか? あの箱で勘弁してくれませんでしたか? 頑固爺は」

「よう、わからん」

 声を出した瞬間、寅雄の怒りは不安に戻ってしまった。寅雄の頭の中で、大量の一万円札が、ひらひらと紙吹雪のように舞い狂う。

「よう、わからん、って。話してくれんと、こっちは、全く、わからんですよ」

「どうしよ。また、勢いで言うてしもうた」

「今さら始まったことじゃないですか。坂下さんの血の気が多いのは」

 ハンドルを握ったまま、寅雄は横目で新田の様子を窺う。

 シューズと靴下を脱いでいた新田は、右足の膝を折り、足の指を一本づつ揉んでいた。少し寝て、疲労が、どっと足に出たのだろう。

「新田ぁ、千五百万、貸してくれん?」

 足の指を揉んでいた新田の手が、ぴたりと止まる。

「えっと、一千万で、ええわ。五百万は、なんとかする。余裕を持って、五日でなんとかならんかのう」

「なるもならんも、貸せんですよ、一千万も持ってないし。ほんまに、また、無理な約束してきたんじゃろ」

 前方を見ながら、新田は今度は足の裏を、ぐいぐいと力を入れながら、親指で押さえ始めた。

 寅雄の言葉に大きな反応が出せるほど、新田の体にはエネルギーは残っていない様子だ。

「書面は残しているんですか?」

「ない」

「ないんなら、なんとかなりますよ。ずるずると一ヶ月くらい延ばしてやったらどうです?」

「一ヶ月も、一週間も、大して変わらんじゃろ。それに、倉田不動産に横取りされとうないし。ここまで、やったのに……」

「期限は一週間ですか。坂下さん、今、消金から借りてる金は、清算済みですか? あと、ローンとかも」

「車のローンが、あと三年」

 あえて寅雄は、消費者金融から借りている金額を言わない。

「あのね、車でローンなんか組む歳じゃないでしょ。その様子じゃ、五年ローンですか。給料に見合った物を買うべきですよ。経済観念がない。で、肝心の消費者金融のほうは」

 寅雄は背中をシートに、ぺたっと付けた。しばし、沈黙となる。

「たぶん……七十万」

「内訳は」

「ベンザイ代に、美奈子ちゃんの……なんで、内訳まで言わんといけんのんや!」

「七十万か。ベンザイ代くらい、普通のクレジットカードで買やあ、えかったのに。まあ、口座に現金がなければ、結局は借りることになりますけど」

「煩いわ!」

「貯蓄もないんですか? 定期預金とか、財形とか」

「ない!」

「それで、よう家を建てる気になりましたね。四十過ぎて『一文無し』は問題ですよ。マイナスなんて、以ての外。結婚して子供が生まれたらどうするんです? 学費とか、払わんといけんのんですよ」

 足の裏の皮を毟り取りながら、新田は冷淡な声を出す。反面、寅雄は反論する言葉が出てこない。

 ごんごんと、寅雄はハンドルに額を、やや手加減しながら当てる。だが、結構、痛い。

「もう、どうすりゃあええんじゃ、ここまで、やったのにぃぃぃ。おい、新田、お前の祖母さんのために、わしも手を貸したんじゃけ、金を貸せ!」

「何を言いよるんですが。逆切れしてから。わしだって、坂下さんの手伝いしたんじゃけ」

 再度、しばし、沈黙となる。

「金は、貸せません。わしには嫁一人に子供四人いますから」

 くるっと左側に寅雄は顔を向けた。

「え! お前、そんとうに子沢山なわけ?」

「出産は二回じゃったんじゃけど、双子が二回、生まれたんですよ。わしのことなんか、どうでもええことです。とにかく、試しに、まともな金融機関に相談してみちゃったらどうです? 住宅ローンを組む、いうことになりますが。わし、紹介しますよ。まともな金融機関」

 新田の一言で、寅雄の目の前が、ぱあーっと明るくなった。

 何とかなる。新田が言うんじゃけ、何とかなる――。

「ただし、それなりに自分でも努力してくださいよ。無利子の『お父さん、お母さん、にこにこローン』でも組んで。まずは借金を返済してください。そっからです」

 緩みそうになる頬に力を入れて、寅雄は頷いた。

「あの土地は、わしのもんじゃ。絶対、手に入れる」

 寅雄の独り言を聞いているのか、聞いていないのか、無言で新田は一生懸命、足の裏の皮を剥ぎ続けていた。

          四

 寅雄のマンションに帰り、寅雄と新田はコンビニで買った弁当の蓋を開けた。

 だが、二人とも疲れきっていたせいで、食欲がなくなっていた。今日、初めて口にする食事も、結局、半分は残した。挙げ句に風呂にも入らず、ほんのり明るい夜の七時には眠ってしまった。

 夜の十時、寅雄は目覚まし時計をセットしていたわけでもないのに、暗闇の中、ぱちっと目が覚めた。腹時計ではなく、頭時計だ。

 隣のリビングを寅雄は、そっと覗く。

 ソファの上で、新田が、ぐっすりと眠っていた。迷惑そうにベンザイが床の上で、首を、ぬーっと伸ばして新田を見ている。

 どうやら、ベンザイは、なんとかソファの上で寝てやろうと隙間を探している様子だ。

 寅雄は、そっとドアを閉めた。携帯電話を手に取り、ベランダに出る。

 携帯電話のアドレス帳を開く。「な」行を開いて、目当ての相手の名前の色を変え、電話を掛けた。

 三回コールを鳴らして、携帯電話が通話になった。寅雄の心臓が、ばくばくと鳴る。

「もしもし、姉ちゃん?」

 寅雄は、ゆっくり丁寧に携帯電話に話し掛けた。だが、携帯電話からはテレビらしき音が聞こえるだけで、人間の反応はない。

「もっしもーし!」

「あんら、トラ。珍しいわね〜、あんたから電話してくんの」

 東京の外資系証券会社でキャリアウーマンをしている、寅雄の姉の辰子である。夜であれば、いつ電話を掛けても酔っ払っている。

 辰子は寅雄を、子供の頃から「トラ」と呼ぶ。アクセントが「ト」に付けられているため、虎縞模様の猫に話し掛けているようだ。

「姉ちゃん、また酒、飲んどんね」

「煩い! ゲコトラ」

 デコトラでなくて、良かった――。

「ゲコで悪かったの。じゃが、付き合い程度には飲めるようになったわ。そもそも、酒と煙草は、うちの家系じゃ、姉ちゃんしか飲まんで」

 ゴクゴクと喉が鳴る音が、電話の向こうから寅雄の耳に流れてきた。寅雄は、携帯電話を当てている耳に指を突っ込み、今、入った雑音を掻き出す。

 今日の辰子は、一段と悪酔いしているようだった。

「姉ちゃん、また男ね。もう、ええかげん、諦めたら? 五十一歳なんじゃけ」

「煩いねぇ。人生の記念に、一度くらい結婚したいんよ!」

 やはり、男問題で機嫌が悪いらしい。寅雄は翌日、電話を掛けなおそうとした。

「まあ、ええわ。今日は寝る。明日、電話するわ」

「ちょっとお、待ってよお」

 年増の、ぶりっ子である。

「どうせ、また年下の妻子ある男との純愛話をするつもりじゃろ? 聞き飽きたわ」

「ああ、ええねえ、広島弁は。うちも帰ろっかなあ、広島に。こんな1LDKマンションなんか、売ってしもうて」

 寅雄の話など、全く聞こうとしない。自分のペースで辰子は話す。いつもの調子だ。

「因島に帰れや。父さんも母さんも、ええ歳じゃけ、喜ぶで」

「いやーよ、あんとうな島。うちに蜜柑、作れ言うんね。都会で三十年も暮らしとる女には、ムーリ。長男のトラが帰りゃあ、ええでしょうがあ」

 故郷の島を「あんとうな島」と言う姉にムッときたが、寅雄にとって、良い方向に話が進んだ。話をするなら、今だ。

「わしもムーリ。結婚するんじゃけ。広島市内に土地、買うんじゃ」

 再び、テレビの音が聞こえる。お笑い番組を観ているのか、ゲラゲラと笑う声が寅雄の耳に響く。

 数秒、テレビの音しか聞こえなかった。

 辰子の機嫌を損ねたのかもしれない。辰子の反応がなかったら、一方的に切ってしまうほうが良さそうだ。寅雄は、恐る恐る、携帯電話に呼びかける。

「もしもーし、姉ちゃん? あれ? 寝ちゃったあ? じゃあ、明日にしよっ……」

「いつ結婚するん?」

 辰子の短い言葉は、聞き取り辛いくらい早かった。

「え? あ、まだ、そこまでは決まってない……けど、結婚前に家だけでも準備しよう思うて」

 だが、今の時点では、美奈子の気持ちなど確認していない。

「あっそ。あんたまで、二十代の若い子がいいとか、馬鹿を言うんじゃなかろうねえ」

 無駄に五十一年も生きていない。このオバサン――。

「そんなことは、絶対に、ないよ。姉ちゃん」

 ついうっかり、寅雄は焦るあまりに、腹話術の人形のような話し方になった。

「標準語の棒読みしてから、変なの。ふーん、そう。うちも小姑かあ。何か、お祝いせんといけんね。何がええ?」

 ズバリ、言うわよ――。

「千六百万円!」

 消費者金融から借りている七十万円と予備費も上乗せした。

 タイミングよく、爆笑するテレビの音が聞こえてくる。ついでに、辰子の溜息も聞こえた。

「あんた、子供の頃から、ちぃっとも変わらんねえ。そんとうな大金、弟であっても貸さんわ」

「貸さない」と言うことは、現金は持っている、という結論になる。

「父さんに相談しんさいや。やっと、孫が抱けるかもしれん言うて喜んで出してくれる……あっ、そっか。あんたあ、三十歳手前の頃にホステスに貢いで首が回らんようになってから『勘当じゃあ!』って、父さんに叫ばれたんだっけ。そんとき、父さんが二百万、清算してくれたんよね」

「あれは、結婚詐欺に遭うたの」

 苦し紛れの言い訳を、寅雄は口にする。

「けっ、また、強がってから。数時間の恋愛ごっこを楽しませる、それが向こうの仕事。上手いこと引っかかってから。あんたあ、派手な女が好きじゃけねえ。もしかして、また派手な女に騙されとんじゃないんね? ああいう女に嵌ると、普通の女が物足りんようになるらしいけ」

「いや、今度は間違いない、寺の娘じゃけ」

 とりあえず、硬いところをアピール。

「ほおね。じゃが、千六百万は貸せんよ。うちの年収の半分じゃ。女一人の老後のために、持つものは持っとかんと」

 ごくりと、寅雄は生唾を飲んだ。そんなに辰子は稼いでいるのか。

「それとね、うち、昨日、退職したんよ。これからは、株、一本の収入で生きていかんと、いけん」

「え! 辞めたん? 勿体な。父さんは知っとるん?」

「知るわけなかろう。社内の妻子持ちのスウェーデン人に振られて辞めましたぁ、なんて言えんでしょ」

 そんな詳細まで、説明せんでも――。

「ああ、ほんまに、広島に帰ろうかなあ。あ!」

 寅雄の耳元で、辰子の大きな声が響いた。

「トラ〜、千六百万円、貸したげるぅ。いや、プレゼントしてあげるぅ」

 何だか、猛烈に嫌な空気が、寅雄の携帯電話から、もんもんと出てきた。辰子の、いきなり「プレゼント」は、絶対に何かある。

「いや、そんな大金、プレゼントしてくれんで、ええよ。貸してくれりゃあ、ええ」

 とりあえず、寅雄は予防線を張った。

「どうせ、返す金もないくせに。プレゼント、プレゼント。はい、決まり! 金持ちの姉ちゃんがおって、トラはラッキーじゃ。で、いつまでに送金すりゃあ、ええん?」

「……五日以内……」

「そりゃあ、急がんといけんね。ええよ、明日には振り込んじゃる。口座番号は、いつもんところでええね」

「いつものところ」と言われると、寅雄の耳が、がんがんと痛くなる。確かに、金持ちの辰子からは、数回、金を借りている。

「それで、ついでじゃけど」

 何だ――。

「二世帯住宅、作ってよ。うち、広島に帰って、そこで暮らす。あっ、二世帯住宅とは言わんね。姉弟家族住宅? はははは」

 何が、可笑しいん? わし、笑えん!――。

「姉ちゃん、そんなんじゃ、彼女が嫁に来てくれんようになるじゃろうがあ。爺婆付きでも嫌がられるのに、小姑がおったら、なおさらじゃろ」

「別に爺婆は呼ばんよ。それに、トラ、あんたあ、その子と本当に結婚できるん?」

 寅雄の呼吸が、止まった。これからの課題だとは、もう、言えない。

「結婚、するわ! 何、今さら……」

「大丈夫、あんたが振られたら、姉弟で子供のおらん夫婦のように、仲良う歳を取りゃあえかろう。寂しゅうない老後が送れる保障ができて良かった、ちゅうことよ。はははは」

 辰子の勢いを、どう止めるべきか。寅雄の口は、ぱくぱくと動くが、声が出ない。

「じゃ、ええ家を建ててよ。うちの家には収納を大目にね。頼んだよ! ここの部屋、売っちゃお。じゃあねー」

 携帯電話が切れる音が、ピッと聞こえた。辰子の声は、もう聞こえない。

 プープーと虚しく流れる携帯電話の無機質な音を聞きながら、寅雄は呆然としていた。

 体が後ろに反るくらい、寅雄は大きく息を吸い込んだ。

「姉ちゃんのマンションなんか、売れるなーーー!」

 真夜中の十時過ぎ。寅雄は広島市の中心で、哀訴を叫んだ。

          五

 翌日、寅雄はベットの中で目覚めた。

 遮光カーテンのおかげで、太陽の光が部屋に、ほとんど入り込まない。昼寝のときは、いいのだが、目覚めなければならない朝は、時間の予測ができず、不安になる。

 ベッドの上に放り投げてあった携帯電話が、寅雄の手に当たった。二つ折りの携帯電話を開ける。

「うんわ、もう十二時になるわ。眠い……」

 顔に手を当てたまま、寅雄は、しばらく、まどろんでいた。

 もう一度、ふっと寅雄は携帯電話を見る。姉の辰子を思い出した。

 もしかすると、寅雄の口座には、すでに、辰子から入金された千六百万円があるかもしれない。

 寅雄は、のっそりと上半身を起こした。

「銀行、行こ。その前に、シャワー」

 着替えを持って、寅雄は、ふらふらと寝室から出た。

 風呂の脱衣所のドアを開ける。すると、新田が、真っ裸で頭を拭いていた。

「おはようございます。なんか、体が鉛のように重いんですけど」

 廊下で寅雄は汚れたシャツを脱ぐ。

「ほうじゃの。じゃが、今日も出かけるで」

「今日もですか? 一日くらい、休みましょうよ」

「金の準備ができとるかもしれんのんじゃ」

 指にタオルに巻きつけ、耳の中に突っ込んでいた新田の手が止まった。

「早! また、変な所から、借りたんじゃないでしょうねぇ」

「姉ちゃん。金持ち姉ちゃんが、わしにはおるの。夕べ、電話したら、今日にでも振り込んでくれるって言いよった」

「姉ちゃんって、実の姉ちゃん?」

「ほうよ。他に、どんな姉ちゃんがおるんや」

「……身内なら、ええですよ。じゃけど、三時直前に銀行に行ってみたほうが、ええんじゃないんですか? 今すぐ行っても、入金されとらんかもしれんし」

 新田は、もう一眠り、したい様子だった。

「いや、ありゃあ、入金しとるの。昨日、酔っ払った勢いで、ネットバンキングから振り込んどると思うで。多分、二つの銀行から。銀行が倒産しても保障されるのは一千万までじゃろ、それ以上は一つの銀行に入れとらんはずじゃけ。まあ、振り込める上限も一千万じゃけどの」

「へー、坂下さんとは違って、金銭感覚がビンビンしとるんですね」

 新田がトランクスに両足を入れ、上に引き上げる。今度は寅雄が真っ裸になった。

「金に関しては、姉ちゃんはプロじゃじゃけえ。どけ、風呂、入る」

 故意に、寅雄は、どんと新田に体当たりをした。回っている換気扇のスイッチを止める。

「消費者金融のほうは……お姉さんから、ちゃっかり、貰っちゃいましたか?」

「おう、今日、耳そろえて、きっちり、返すわ。無人のATMから」

「重ね重ね、良かったですね」

「おう、ベンザイに餌、やっとってくれ」

 寅雄は新田の顔を、あえて、見なかった。

 がちゃりとドアを閉め、寅雄は蛇口の栓を捻った。

 四十三歳の、甲斐性なし男、か――。

 シャワーの口から出てくる水が、寅雄に当たる。滝から流れ落ちる水のように、痛く感じた。

          六

 寅雄は新田と一緒にBMWに乗って、銀行へ向かった。

 少しでも時間を無駄にしないために、平田爺さんの家に向かう途中にある銀行に寄る。

 新田をBMWの中に残し、銀行の三台並んだATMの一台に、滑り込んだ。

 まずは、記帳してみる。やはり、辰子からの送金は二回、されていた。合計すれば、きっちりと千六百万円になる。

 寅雄はBMWに戻った。新田が座っている助手席のドアを開ける。新田の目の前にあるダッシュボードに手を伸ばした。

「えっと、こん中に認印を入れといた……あった、あった」

 使い古しの封筒を寅雄は取り出し、逆さにした。寅雄の左掌に認印が、ぽとりと落ちる。

「ねえ、坂下さん、爺さんから土地を譲ってもらうんじゃったら、法律のプロを間に立てたほうが、ええ思いますけど。そうすれば法的な手続きを、一切合財やってくれます」

 寅雄の左掌を新田は凝視していた。

「そん代わり、金が掛かるんじゃろう」

「当然ですよ。人を雇うっちゅうことは、そういうことです」

「わしが、やる」

 寅雄の声が、やや、ひ弱になる。

 ゆっくりと、新田が首を振った。

「無理! 絶対、無理! 坂下さんの性格じゃったら、役人と大喧嘩して、なかなか事が進まんわ。『面倒臭せー!』で、終わりに決まっちょる。で、坂下さん、司法書士の知り合いでも、おります?」

「ああ、顧客でおるがの」

「その人に相談されてみちゃったら、どうですか? 『坂下さん特別価格』でやってくれるかもしれんですよ。銀行でローンを組むとき、通常、お抱えの司法書士を紹介されるんです。わしが知っとる優良金融機関に話して、その点は融通きかせますから。ただ、ちょっと気になることが……」

「なっ、何や」

「もしかしたらじゃけど、爺さんも司法書士を付けてくるかもしれん。爺さんがどう出てくるかが、問題じゃが。そんときは、坂下さんが費用を負担せんと、爺さんは納得せんと思いますよ」

 左掌で、寅雄は握り拳を作った。右手に持っていた封筒をアスファルトの上に叩きつける。

 空いた右手で、寅雄は新田のTシャツの襟を、むぎゅっと掴んだ。

「おい! 冗談じゃねえよ! 金、金、金、金、金ばっかりじゃねえか!」

「おぎゃーーー」と、寅雄の背後から赤ん坊の、必死の泣き声が聞こえた。

 乳母車を押していた若い母親が、赤ん坊をあやす間もなく、乳母車を押しながら走って逃げ去る。

 若い母親の背中を睨む寅雄の手元から、静かに新田が寅雄を諭す。

「坂下さん、世の中は、金で回っとるんですよ。皆、金で飯食って、楽しんで、少しだけ贅沢して、少しだけ楽をしよるんです。そのために働いとんです」

 新田のTシャツを握っていた寅雄の右手が、すとんと下に落ちた。さらに、寅雄の体も地球の重力に引っ張られて、アスファルトの上に、へたっと崩れ落ちる。

「とりあえず、利子が増える前に、消金から借りた金は、すぐ返しておきましょう。それから、司法書士の先生の所へ向かいましょうや。大丈夫、今なら、何とかなりますけ」

「何とか、なるんか。四十過ぎの一文無しで。仕事だって、無くなるかもしれんのに……ほんまに、何とか、なるんか」

 アスファルトの非人情な路面を、寅雄は、じっと睨んでいた。掴む砂も、ない。

「早く、目の前の銀行から消費者金融に送金してきてください。こうしている間にも、こくこくと利子は増えますよ」

 秒単位で、利子って増えるもんなん?――。

 寅雄は印鑑を握って、再び銀行へ入って行った。

          七

 寅雄のBMWは、平田爺さんの家とは全く違う方向へ走っていた。

 広島市内の繁華街のコインパーキングに、寅雄はBMWを停める。

 シートベルトを外しながら、寅雄は目の前の古いテナントビルを、つんつんと指差した。

「司法書士の先生の事務所」

 背中を丸め、新田がフロントガラスからテナントビルを覗き込む。

「二階ですか? 窓に手作りの紙の看板が内側から貼ってある。カープ司法書士事務所……怪しい」

「確かに、ネーミングと看板とは言い難い紙は、いけんのう」

 BMWから降り、寅雄と新田はテナントビルに入った。一人が、やっと通行できる幅の、薄暗い階段を上る。

 すりガラスの小さなドアを、寅雄はノックした。そっとドアを開ける。

「失礼しま〜す。山本先生、いらっしゃいますか?」

 すると、部屋の右奥に詰まれたダンボールの中から、ひょっこりと顔が、もぐら叩きのごとく、出てきた。しばらく、動きが止まる。

「えーっと、坂下さんじゃったの。電話も寄こさんと来てから。よう、わしが事務所におるってわかったの、って、いっつも、おるがの」

 少し、伸びたグレーのウェーブ・ヘヤーを、山本は邪魔と言わんばかりに掻き揚げた。

にっと、愛想笑いをしたが、すぐさま、山本はダンボールに視線を落とす。どうやら忙しいらしい。

 司法書士の山本は七十歳を超えたくらいだ。事務所は、そこそこの広さはあるが、ダンボールの山積みで窓が塞がれ、西向きの窓からは陽が差し込まない。

 ドアの真横に設置されている応接セットを、山本は顎で指した。

「まあ、座ってつかあさい。中元の時期じゃけ、来られたんか? それにしても、今日は若者らしい格好してから。ついでに、同僚まで」

 寅雄は黄色いシャツに綿パン、新田はTシャツに膝丈の短パン姿である。

「今日は、先生に仕事の依頼で参りました。個人的な用件です。隣の、こいつは新田といいます。僕の友人です」

 即座に新田が呟く。

「いや、別に友人では……」

 ダンボールの中から、泳ぐように山本が出てきた。山本にしても、他人の服装をとやかく言えたもんではない。白いポロシャツに、何故かサスペンダーの付いたブルー系のチェックのズボンを履いている。

 何か、どうかすれば、痩せ型の山本は、ノッポさんのように見える。

「ほうね、今、見習い軍団が出てしもうて、わししかおらんのんじゃ。あいつら、早う司法書士試験に合格してもらわんと、わしも廃業できんで困っとるんよ。まったく。三人中の三人が揃って三十五歳を過ぎてしもうて。もう、諦めりゃあええのに……なあんてこと、言うちゃあ、いけんの」

 そんな無駄な話を聞くために、寅雄たちは来たわけではない。

 前置きも無く、寅雄は本題を切り出した。

「あの、僕、土地を購入することにしたんです」

 右奥の給湯室に向かう山本の背中に向かって、寅雄は叫んだ。

「まあ、座りんさいや。普通のお茶で、ええかの。コーラとかファンタとか、そんとうな洒落たもんは、置いとらんけ」

「何でも、ええです」

 新田をソファに力ずくで座らせながら、寅雄は叫ぶ。

「それで、手続きを、わしに任せるというわけ?」

「ええ、そうです。購入価格は決まってるんですけど、そっから先、どうしたらええんか、さっぱり、わからんのんですよ。素人なもんで。お相手さんも、高齢ですし」

「個人売買ですか。本気を出しゃ、自分でやれんこともないで」

 せっかく仕事の依頼をしているのに、山本は浮かない声を出す。仕事を増やしたくない様子だ。

 お茶を淹れた二つの湯飲みを、山本はテーブルの上に置いた。

「どうぞ、どうぞ。香典を出したら貰えるお茶の葉ですけ、結構、美味いですよ」

「ありがとうございます。で、先生にお願いしたいのですが。他に頼れるもんが、おらんのんですよ」

「まあ、無下には断われんわの」

 いささか、山本の口が「へ」の字になる。

 恐る恐る寅雄は、山本に重大な質問を、小声でした。

「ちなみに、金額は……」

 初めて司法書士らしく、山本の目が、きらりと光る。

「幾らが、ええですか?」

 これまた司法書士らしく、山本は『質問返し』の秘技を繰り出してきた。

 こっちの、言い値で決まるんか? そもそも、価格設定はないのか?――。

 相場を知らない寅雄は、手元に視線を落とした。安いほうが、いいに決まっている。

「印紙代、登録免許税と売り手側の手続き、他諸費用含めて、十五万円でどうでしょう」

 突然、新田が低い声を出した。左側に座る新田の顔を、寅雄は思わず見る。

「売り手側に専門家が付くかどうか、まだ確認していませんが、わしらとしては先生に全てを、お任せしたいんです」

 ソファに深く腰を掛け、新田は口を一文字にした。目は、微妙に山本を正視していない。

 そんな……十五万くらいの、もん?――。

「ほっほー、売り手側の手続きも含め、ね。評価格は?」

「不動産評価格は、わかりません。広さは百二十坪。購入代金は千五百万円。現金一発。こちらには、お金の余裕など、全くございません。十五万でやっていただけんでしょうか。家を建てるときも、先生にお願いしますから」

 山本から目線を逸らしたまま、新田は、寅雄を置いて話を進める。

 口を歪めながら、山本がソファの背凭れに凭れかかった。

「十五万ねぇ。そりゃ、世間で言うところのボランティアじゃ。わしとしては、少なくとも二十万は頂かんと。評価格によっては、足が出る」

「そこをなんとか、お願いしてるんです。山本先生」

 しばらく「んー」と唸る山本の声だけが、事務所の中を回っていた。

 金に余裕が全くないと言われてしまった寅雄は、新田に対して、怒りが湧かないわけでもなかった。だが、ここは、ぐっと我慢。できるだけ、穏便な空気で交渉したい。

 寅雄は山本と新田の間に顔を入れ、新田の顔を覗き込んだ。あえて、小声を出す。

「新田、五万でとやかく言うのは……」

「十五万じゃ! そんとうな見栄を張るけぇ、坂下さんの浪費は止まらんのんじゃ!」

 寅雄の小声を、新田の大きな声が塞いだ。ぐっと、寅雄の目が細くなる。

 わしに、恥をかかせよってから――。

「五万もありゃあ、一カ月分の車のローンが支払えるでしょうが! 得意の土下座して、先生に頼んだらどうですか!」

「なんじゃと〜」

 寅雄の左手が、がばっと新田の襟を掴む。

「まままま、まあまあ、落ち着いて」

 寅雄の後頭部から、山本の声が聞こえた。だが、山本は手を出してくるわけでも、ソファから腰を上げる様子でもなかった。

 相変わらず一文字の口をした新田の襟を、寅雄は乱暴に放した。どすんとソファに座る。

 腕を組み、顎を少し上げ、山本は天井を見ていた。「んー、んー」と、まだ唸っている。

 右奥に積まれてあるダンボールを眺めながら、寅雄は荒い鼻息を出し続けた。

「新田さんですっけ? そちらさん」

 新田は何も応えない。

「わし、あんたみとうな人、好き」

「え! ゲイ?」と、寅雄は山本を見た。

「そんとうな変な意味では、のうて。うちの事務所の若造は、みんな仕事でも勉強でも女でも、だらだら、ぐずぐず、する。はっきりと、ものも言わん。なんちゅうんかなあ、切れが悪いと言うか。結局、相手に足元を見られるんじゃ。その点、新田さんは揺るぎない。自分の意思を通すために、わしの目を、あえて見んのんじゃろ。若いのに、なかなかじゃ。こういう男がええよのう」

 単に巫山戯ている失言男と、思いますけど――。

 山本は、にったりと笑った。口の横に括弧マークの皺ができる。

「よっしゃ! 十五万で引き受けちゃるわ。見習い軍団は、今ちょっと手が空いとらんけ、わしがやる。仕事らしい仕事は、久々じゃ。忘れとらにゃあええ、が。先方へは、いつ行くんじゃ?」

 煙草を胸のポケットから、山本は取り出した。商談は、あっという間に成立である。

「今日、今からです」

 形相を変えずに、新田が応える。

 煙草の箱を人差し指で、とんとんと叩いていた山本の手が止まる。

「今から?」

「ええ、今日中に話をつけんと、他の不動産会社に持っていかれる可能性があるんです。まだ、書類一つ、作っておりませんので」

「え? だって、わしにも予定が……」

 新田が爽やかな笑顔を作った。

「いいじゃないですか。いつも事務所にいらっしゃるんでしょ? 仕事らしい仕事も、しよってんないんでしょ? しかも、こんな騒々しい街中じゃ、リフレッシュもできん。山の空気でも吸いに行きましょうや」

 すっと新田が立ち上がった。テーブルを挟んで、山本の腕を、ぐっと掴む。

山本の様子を窺いながら、寅雄も立ち上がった。

「そんな、強引なって、そういう強引さも、男には必要よのう! 駄目よ駄目よも、OKのうち〜」

 嫌よ、嫌よも好きのうち〜、じゃろ!――。

「書類の整理を、毎日しよるだけじゃけ。今日の目標が果たせんかった、言うだけじゃ。ちいと待っとって。すぐに準備してくるけ」

 新田は山本の腕を放した。黙って深々と頭を下げる。

 寅雄も、新田と同じ角度まで黙って頭を下げた。

        八

 寅雄のBMWは新田と山本を乗せて、平田爺さんの家へ向かった。

 途中、寅雄は酒屋で、いつもの『まぼろし』を購入した。少しでも、平田爺さんのご機嫌を取るためだ。

 平田爺さんの家に到着し、県道を囲む山を眺めながら、山本がBMWから降りた。

「ほんまに、山の空気を吸いに来たんじゃのう」

 山本は白いポロシャツに、サスペンダー付きのチェックのズボンの上にスーツの上着を羽織っていた。どう見ても司法書士には見えない。

「山本先生、こちらです」

 寅雄は山本を丁寧に誘導した。

 平田爺さんの家の呼び出しブザーを、寅雄は二回押した。すぐさま、引き戸を引く。

「こんにちは〜。平田さん、いらっしゃいますか? 坂下です」

 山本が容易に入れるように、強引に、寅雄は引き戸を全開にした。勝手に玄関に入る。

「平田さ〜ん。入りますよ〜」

 家の中から返答がない状況のまま、寅雄は靴を脱いだ。

「おい、勝手に入っても……」

「ええんですよ、ここはいつも、こんな……ん?」

 寅雄は靴が置いてある玄関を振り返った。平田爺さんのサンダルの他に、二足の男性用の革靴が綺麗に並べられていた。

 急いで寅雄は靴も履かずに玄関に下りた。山本を軽く突き飛ばす。寅雄の右横で「おっとっと」と、山本の体がよろめいた。

 玄関に片足を入れていた新田の耳に、寅雄は背伸びをして、口を近づけた。

「おい、笹原弁護士と倉田不動産が来とるかもしれん。玄関に靴がある。お前は車に戻っとれ」

 ズボンのポケットから寅雄はBMWのキーを出し、新田に差し出した。

 玄関に置かれた二足の革靴を、新田は一瞥した。

「ええですよ。どうせ、わしは途中で裏切って逃げた身ですから。今さら、どうってことないですよ。さっさ、上がりましょ。山本先生、大丈夫ですか?」

「おお、何とか立っとるで。うちの事務所みとうに」

 寅雄の心配を他所に、新田は平田爺さんの家に上がった。迷う様子もなく、平田爺さんがいつもいる玄関の右側の部屋の引き戸を、新田は引いた。

「こんにちは〜。ここんとこ毎日すみません。あれ? お客さんでしたか?」

 来客は誰なのか。寅雄は新田を押しのけ、部屋の中を覗いた。

 いつもの左側の座椅子には、平田爺さんが座って酒を飲んでいた。

 寅雄は右側に視線を移す。やはり、笹原弁護士と倉田不動産の社長だった。

 笹原弁護士が、細い目を、さらに細くして寅雄を睨んだ。

「おお、こんにちは。坂下さん。そっちの、ふざけた眼鏡の方は、田中さんではないですか?」

「いえ、違います。こいつは新田って言います」

 動揺している心境を読まれないように、寅雄は、ゆっくりと落ち着いた声を出した。

 だが、寅雄の肩を新田が、ぽんぽんと叩いた。

「ああ、もういいですよ、坂下さん。そうですよ、田中です。二日間だけ、お世話になりました」

「坂下さんの車に乗って、怪我した犬と一緒に消えてしもうたらしいじゃないですか。まあ、田中さんが味方であろうが敵であろうが、大して変わりゃあしませんから。どうぞ、入ってください」

 何故か、笹原弁護士が中に入るよう促す。

 平田爺さんのほうへ、新田は顔を向けた。

「では、平田さん、お邪魔しますね」

 この家の主は、平田爺さんだと言わんばかりに、新田は丁寧に平田爺さんに頭を下げた。

「おお、毎日ご苦労じゃのう」

 ささささっと、寅雄は平田爺さんの横に座った。

「いつもの『まぼろし』です。後ほど、ゆっくりと」

「すまんのう。また酒が増えたわ。へへへ」

「こんにちは。えっと、こちらが売主さんですか」

 部屋の中にいる者の全てが、開いた引き戸を見る。

 平田爺さんの顔を見ながら、山本は人のよさそうな笑顔を浮かべていた。

 早速、寅雄は平田爺さんに山本を紹介する。

「平田さん、百二十坪の土地を購入するに当たって、事務的な手続きの手伝いをしてくださる司法書士の山本先生です」

「準備がええですのう、坂下さん。人を騙してまで。そこの田中さんに、やらしたんですか? おかげで、平田さんが、わしらの手土産の酒を飲みながら、商談を聞こうとせん」

 きりっと寅雄は笹原弁護士を見た。

「人を騙す」とは、百二十坪の土地の小火事件を、笹原弁護士は指しているのだろう。

 白を切りとおす――。

「何を指して、そんとうな嫌味を言よってんですか? さっぱり見当がつきません。それに、平田さんとわしは、ちゃんと話をつけた上で、進めているんです。平田さん、間違いないですよね」

「間違い、ない」

 きっぱりと、空気の抜ける、すかすかの声で、平田爺さんは返事をしてくれた。

「ついでですけど、『人を騙す』と仰いましたが、笹原さんだって、わしがおらんとわかっとって、わしの上司に、わしの異動を強要したそうじゃないですか。まあ、その点は、自分でなんとか始末しますけど」

 あえて寅雄は「笹原さん」と呼ぶ。「先生」なんて、寅雄は絶対に、口にしたくなかった。

 目を細め、笹原弁護士は心中を読み取られまいとしている。

 寅雄と平田爺さんの間に、山本が割って入ってきた。正座をし、揃えた腿の上にカバンを置く。

「まあまあ、で、平田さん、土地を売却するには、必要な書類などがあるわけなんですよ」

 カバンの中からA4サイズの書類を、山本が取り出した。

「ちょい、待て! 話を勝手に進めるな。司法書士!」

 笹原弁護士が山本を蔑むかのような口調で、攻撃してきた。

 温厚な山本の目が、シャキーンとサーベルの先ごとく光る。

「平田さんも、たった今、仰ったじゃないですか。坂下さんは平田さんとの約束どおりに進めていると。勿論、土地購入のため。売主が、認めているのに、今さら、どーのこーの言うのは、如何なもんでしょうかのう。は〜あ、弁護士は、すぐ法廷に出ろっ、言うて脅すけえのう。法律っちゅう刃物をちらつかせて。どうせ口利き料を五百万くらい貰おうと思うとったんじゃろ? 性質が悪いわ」

 笹原弁護士の右眉がひょこっと上がった。

「良太郎〜」

 突然、平田爺さんが出せるだけ大きな声を出した。

 ヨシタロウ? 誰?――。

 すると、バン! という台所の扉が開く音がした。引き篭もりの息子だ。

「何や、父さん」

 引き篭もりの息子は引き戸に寄りかかり、太い腕を組んだ。

 山本を顎で指しながら、平田爺さんは息子に命令した。

「この先生の説明を聞いておいてくれ。わし、さっぱり、わからんけ」

「ちょっと、待ってください! おかしいじゃないですか。商談を先に持ってきたのは、倉田不動産でしょ? それに、土地の管理を任されているのは、わしですよ」

 笹原弁護士は、平田爺さんの顔を炬燵越しに覗き込んだ。

「それは、母さんがしよったこと。今は違う。わし、お前、嫌い。遺産相続の手続きも、せんでええ。他の人に頼むけ。母さんと、あの世で仲良うせえ。」

 たんたんと平田爺さんは笹原弁護士を一撃した。

「なっ、なんで、あんな婆さんと、死んでまで仲良うせんと、いけんのんですか?」

「あんな、婆さん、じゃとぉ?」

 引き篭もりの息子が、高い位置から重い声を落とす。

「時間もないことなんで、えーと、息子さんですかね。わしの隣にどうぞ」

 周りの重たい空気を跳ね除けるように、山本は引き篭もりの息子に明るく声を掛けた。

 山本と寅雄の間に、引き篭もりの息子が、どーんと腰を下ろした。炬燵を囲んで、男ばかりが、ぎゅうぎゅうに座っている。

 勝手に山本は手続きの話を始め、笹原弁護士は、がばっと立ち上がった。

「倉田さん、もっと、ええ物件を見つけて、ご紹介します。こんとうな尋常でない奴らを相手にしても、時間の無駄なだけじゃ」

 バーコード頭の倉田社長は、軽く頷き、立ち上がった。二人は揃って部屋を出る。

「坂下さん、もう、お会いすることもないじゃろう。中元の営業に来んでくださいよ」

「行きゃあせんですよ。その前に、笹原さんのおかげで、うちの事務所から、わしはおらんようになっとるわ」

「それと、田中さん、おたくにも何らかの処置はさせていただきますから」

 山本の手元にある書類を横目で見ながら、新田が反論した。

「どうぞ、ご勝手に。傲慢へなちょこ弁護士。あんたにやられるほど、やわじゃないわ」

 こいつ、ほんま、恐れを知らん奴じゃ――。寅雄は新田の横顔を繁々と眺めた。

          九

 夕方、寅雄と新田に山本は、揃って山本の事務所に戻った。

 山本の事務所が入っているテナントビルの前に、寅雄はBMWを停めた。急いでBMWから降り、後部座席のドアを開ける。

 新田も、助手席から降りてきた。

「先生、本日はありがとうございました」

 深々と寅雄は頭を下げる。

「いやいや、どうせ暇なんじゃけ、ええよ。おかげで、平田さんから相続の手続きの依頼も受けたし。では、わしはここで。あっ、坂下さんの書類も揃えておいてくださいよ。それから、平田さんへの送金は、明日中に」

「はい。朝には振り込みます」

 後方の車からクラクションを鳴らされた。

「はいはい、街中の狭い道は、いけんのう。じゃあ、また」

 山本は狭く暗い階段を、上がっていった。

 再び、寅雄と新田はBMWに乗る。

「それにしても、人間ができとりますね、山本先生って」

 シートベルトを引っ張りながら、新田が感心したように寅雄に話しかけた。

「ああ、あの人はね。『残りの人生を、静かに、のんびり、こそこそと過ごしたい』っちゅうのが、最近の口癖。じゃけ、あんまりカリカリせんのんじゃろ」

「じゃが、笹原弁護士に向ける目は、厳しかったですけどね」

 背後から鳴らされる長いクラクションの音に押され、寅雄はアクセルを踏む。

「いざとなったら、プライドが出るんじゃろ。それよりも、あのゴミどうしたら、ええと思う?」

 後から後から休む間もなく出てくる、次の難問の解決策を、寅雄は考えていた。

「金は、出しとうないんですよね」

「当然じゃ」

「車なら、なんとかなりますよ」

「え? 一番、厄介者じゃろ。あれ、動かんで。それどころか、部品がなくなっとるし」

「車の修理屋をやりよるもんがおるんですよ。そいつ、そこら中の放置自動車から色んな部品を取りよってから。他人に頼まれては、改造自動車を作りよるんと。そいつに丸々そっくり持っていくよう、言いますよ。多分、喜ぶし」

 助手席に座る新田を、寅雄は運転しながら横目で見た。

 こいつ、悪に手を染めとらん、じゃろうのう――。寅雄は、とりあえず提案してみる。

「そういやあ、最近『動かなくなったラジカセ〜、バイク〜、テレビ〜、エアコン〜無料で回収に伺います〜』とかいう車が走りよるじゃろ。あれは?」

「怪しい」

「お前の友達も怪しかろう」

「本気でやるなら、もっと怪しい人にも声を掛けますけど」

 部品を、北の危険な国に輸出して、軍事目的で使用するとか――。寅雄は生唾を飲んだ。

「一種の小汚いリサイクル・ショップですよ。他の、どうしようもないゴミは、迷惑な話ですが、焼いちゃいましょう。恐らく、焼けるものしか残らんでしょうから」

「わしが前、石灰で焼こう思うてセットしとったら、お前が火を消したくせに」

「あっ! 『吉野家』!」

 新田は、完全に寅雄の話を無視した。大きな『吉野家』の看板を、指差す。

 薄気味悪い新田を左側に感じながら、寅雄は『吉野家』の駐車場へBMWを突っ込んだ。

          十

 翌朝、寅雄は一人でBMWに乗って銀行へ出かけた。平田爺さんの口座に千五百万円、山本の口座に十五万円を振り込んだ。

 銀行を出て、寅雄はオメガの腕時計を見る。金を払ったという安心からか、寅雄は百二十坪の土地が見たくなった。

「十時前か。ちょっと土地でも眺めに行くかの」

 そのままBMWに乗り、百二十坪の土地に向かって走った。

 百二十坪の土地に着いた途端、寅雄はBMWの中で、ぽかーんと大口を開けてしまった。しばらく、動けなかった。

「どうなってるんだ? ゴミは……何処へ?」

 昨日まで、もりもりに山を形成していたゴミどもが、忽然と姿を消していた。多少の残り物はあったが。

 急いで、助手席に投げ置いていた携帯電話を、寅雄は手に取った。新田に電話する。

「もしもし、新田?」

「眠い……」

 ベンザイの「へーへー」という息遣いも聞こえる。

「おい! 起きろ! 電話中だけ起きろ! ゴミが、ほとんど消えとんじゃ。草が、よう、見える!」

「ああ、寝る前に、ゴミのこと、五人に話したんですよ。好きなもん持ってけって。速いもん勝ちじゃ言うて。掘り出しもんを逸早く見つけよう思うて、夕べのうちにハイエナのように集ったんじゃろ。ついでに、優良ゴミを紹介してやったんじゃけ、要らんゴミの始末もしとけ、って言っときました。あいつら、ゴミ捨て場なら、よう知っとるけ、多分、移動させとるわ」

「こんとうに狭い道に、よう、トラックが入ったのう」

「軽トラでしょ。そこの狭い道だけ、渋滞だったんじゃないんですか。ご近所迷惑になっとらんにゃ、ええですけど。じゃ、おやすみなさい」

「おい、新田! 新田! ほんま、大丈夫……おい!」

 新田の「すーすー」という寝息が聞こえる。通話の状態にしたまま、耳の横に携帯電話を置いて、新田は寝てしまったようだ。

 溜息を一つ吐いて、寅雄は携帯電話を切った。再び、百二十坪の土地を見る。

「はっ、はは……ははは……」

 気持ちが、ゆるゆるに緩んでしまった寅雄の口から、笑いが自然に零れ落ちた。

「新田、お前は、わしのヒーローじゃ。ははははは……やっと家が建てられる」

 しばらくの間、すっきりした百二十坪の土地を、寅雄は眺め続けた。

          十一

 ゴミがほとんど消えてなくなった百二十坪から離れ、寅雄は司法書士の山本に出す書類を揃えるために、役所に向かった。

 書類の受け取りには、さほど時間は要しなかった。

「このまま家に帰れば、一時過ぎか。新田に昼飯でも奢ってやるか」

 役所からBMWで五分足らずのマンションへ、寅雄は戻った。

 ドアを開けると、ベンザイが嬉しそうに尻尾を振って、出迎えてくれた。機嫌がすこぶる良い寅雄は、ベンザイを抱き上げた。

「おお、よしよし。お前、日に日に大きゅうなるのう」

 ベンザイを抱いたまま、寅雄はリビングを覗いた。新田の姿が、ない。

「飯でも食いに行ったんかの」

 何となく、寅雄はテーブルの上に視線を向けた。置いた記憶がない小さなメモ用紙が、ぺろっと置いてあった。


 坂下さんへ

 お世話になりました。まず、家の見積もりを準備してから、電話をください。住宅ローンの件、ご相談に乗ります。ちなみに、わしの名前は『田中』です。


「田中? 新田は田中? 田中のほうが本当の名前じゃったんか?」

 寅雄は新田に出会ってからの記憶を辿った。レシートに書かれた電話番号の上には『新田』と乱雑に書いてあった。

 だが、確かに、新田は自分の名前を『新田』だとは決して言っていなかった。

「つくづく、不思議な奴じゃ」

 単純に、寅雄が勘違いしただけなのだが。

「とにかく、休暇中にできることはせんと」

 司法書士の山本から紹介された工務店へ、寅雄は電話を掛けた。

 すると、夕方五時前に工務店の社長が、簡単な完成図と設計図、見積もりを持って寅雄のマンションに、やって来た。

 腕を組み、寅雄は目を瞑った。

「二世帯住宅って、これっくらいの金額が当たり前、なん?」

「そうですね。外構工事も含めると、そうなりますね」

 工務店の社長は、テーブルの下から飛びついてくるベンザイを迷惑そうに撫でながら、返答をした。

 姉の辰子のおかげで、姉弟家族住宅になってしまった寅雄の家は、おおよそ三千五百万円と断言された。しかも、安く見積もったらしい。

 寅雄の目標金額は二千万円。三千五百万円から二千万円に値切るのは、至難の業だ。

 百二十坪のうち三十坪を辰子に分配して、本人の好きなように家を設計し出資させる、という案も寅雄の頭には思い浮かんではいた。

 だが、それでは、寅雄の描いていた大きな御殿にはならない。無理して手に入れた百二十坪の土地の意味がなくなる。しかも、百二十坪の土地の名義は全て寅雄になるのだ。

 全体図に拘ってものう。姉ちゃんの家と密接になるのは、後々、嫁と小姑の問題を大きくするだけのような気もする――。

 勝手に寅雄は、嫁の顔を思い浮かべる。もちろん、美奈子だ。

「他の工務店とかハウスメーカーさんから見積もり、取ってみます?」

 親切にも、工務店の社長は提案をしてくれた。恐らく、どの工務店で見積もってもらっても、金額の差は大してないのであろう。

「ちょっと、待っていただけますか?」

 携帯電話を握って寅雄はベランダに出た。

「は〜い、カープ司法書士事務所」

「もしもし、坂下ですが、山本先生ですか?」

「昨日はどうもね〜。入金も確認しましたあ」

 司法書士の山本である。気持ちが他所へ行っているのか、適当に返事をしているようだ。

「あの、先生、ちょっと、お願いがあるんです。先生から紹介していただいた工務店の社長さんが、今、見積もりを持って来てくださってるんです」

「ほう、早いね〜。社長も、うちみとうに、暇なんかね〜」

「で、僕の条件で見積もりをしていただいたら、三千五百万円って言われたんです」

「ほうね、それでも安うしてくれとんじゃないん?」

「らしいんですけど、僕の財布にはきついんですよ。先生から……二千万でお願いしてみてもらえんですか?」

「二千万? 無理よ、それは。そんなんじゃ、釘やらネジを、ほとんど使わん欠陥住宅ができるで。条件を、もっと緩くしたら? 家を小さくするとか、二世帯住宅ではない、普通の住宅にするとか」

 二世帯住宅にではない――。寅雄は目玉を携帯電話を当てている右耳のほうへ向けた。

 普通の住宅を勝手に建てて、出来上がった後で辰子に連絡してみればどうか。そうすれば、辰子も諦めて因島の実家に戻るのではないか。

「金を返せ!」と辰子から責められたら「いつかね」で誤魔化しておけばいい。

 よし、これで突き進もう――。

 もう一つ、寅雄の難問が解決した。だが、辰子から逃げ切らなければならない。難問が、また一つ増えてしまったのも、事実である。

 工務店の社長が来た翌朝、寅雄は理想の家を求めて、BMWで住宅展示場へ行った。

 結局、寅雄は普通の一軒家を建てようと決心した。やはり、思い描くのは美奈子との新しい生活。姉の辰子の存在は、かなり、邪魔者である。

 ハウスメーカー数社からパンフレットと見積もりを貰う。前日、話をした工務店の社長に電話をして、直接、工務店へ出向いた。

 目星を付けた物件の見積もり金額は、建坪六十坪で三千万円だった。なんとか、目標の二千万円にはならないだろうか。

 寅雄は一生懸命「安くしてください!」と、社長に頼み込んだ。パフォーマンスとして『必殺、土下座マン』も披露した。

 間取りの変更などは多少あったが、結局、二千三百万円で契約を締結した。

 工務店を後にし、今日は一食も取っていない腹に気付いた。工務店の近くにあった駐車場も一台分しかない、小さなお好み焼き屋に入る。

 客は、予想どおり、いなかった。店のおばちゃんが汗を、だらだら流しながら、お好み焼きを焼いていた。

 焼きあがる前に、寅雄は新田、いや、田中に電話をした。

「田中さんですか? 坂下です」

 故意に「田中さんですか?」と、寅雄は訪ねた。

「はい、田中です」

 電話の向こうから、ざわめきが聞こえる。仕事中なのか、田中は素っ気無い返事をしていた。なんとなく、寅雄の調子が狂う。

 寅雄の口調が、戸惑いながら、丁寧になっていた。

「えっと、住宅ローンを組みたいんです。何処か、金融機関を紹介していただけませんでしょうか?」

「もう、金額が決まりましたか。でしたら、すぐ、ご自宅へ伺わせます。私の後輩が参りますので、頭に来て殴ってやろうかと胸倉を掴みそうになったら、携帯電話を掴んでください。それから、私に電話してください」

 意外にも、田中は単調な口調で、冗談らしい発言をする。

 寅雄はオメガの腕時計を見た。四時半だ。

「あの、今から食事ですので、六時頃、お願いできないでしょうか」

 どうして、こんなに下手に出ているんじゃろ、わしって――。

「かしこまりました。そのように伝えておきます。では失礼いたします」

 携帯電話を耳から離し、寅雄は電話を切った。

 お好み焼きを、寅雄は急いで食べた。店のおばちゃんの汗が染み込んでいたのか、キャベツが、ねちょっと水分を多く含んだ、あまり美味しくないお好み焼きだった。

 夕方六時、時間を計ったように、田中の後輩が寅雄のマンションを訪ねて来た。

 十分で掃除をしたリビングには、多少、ベンザイが遊んだ残骸があった。だが、話ができる場所は、リビングしかない。

 田中の後輩を、寅雄はリビングに案内した。

「私、JAの佐藤と申します」

 椅子に腰を下ろす前に、田中の後輩と称する佐藤が名刺を出してきた。ベンザイが、得たりとばかりに、名刺に飛び掛ろうとする。

 ベンザイを無視し、寅雄と佐藤は向かい合って座った。

「えーっと、住宅ローンという……」

「あの、ちょっと、ええですか? 田中さんは佐藤さんの先輩なのですか?」

 今まで不明瞭であった、新田と思い込んでいた田中という人物を知ろうと、寅雄は佐藤に質問した。

「ええ、高校の頃からの仲です。今は、あまり顔は合わせませんが。僕は金融ですけど、彼は組合の方のお世話とかをする部署にいるんです。出荷とか、苗の買い付けとか」

「住まいは?」

 少し、佐藤は眉間に皺を寄せた。

「坂下さん、田中のこと、何も知らずに、お友達になられたのですか?」

「お友達?」

「ええ、田中は坂下さんのこと『宝探し、お友達』と言ってました。ですが、彼が何も言わなかったのであれば、僕からはお答えできません。個人情報ですので」

 佐藤は、小柄で目の垂れた可愛らしい堅物であった。

 違う切り口から、寅雄は責める。

「彼、お子さんが四人も、おるそうですね」

「そうなんですよ。遊べず結婚してしまって。まだ、田中は今年で二十四歳ですから」

「え! 二十四!」

 寅雄の体は自然に、前に倒れていた。

「ご存じなかったんですか? 高校卒業して、すぐ父親になったんですから。田中は態度が、無駄にデカいですから、老けて見られるんです」

 個人情報のため、佐藤は静かに口を閉じた。

 にこにこと苦笑いを浮かべながら、寅雄は誘導尋問をする。

「わし、最初、田中さんのこと、新田という名前だと思っとったんですよ。メモに書いてあったもんで」

「それはニッタではなく、シンデンですよ。恐らく。最近では農業に憧れる方が沢山いらっしゃって、その中で田圃を作りたいと仰る人も結構いますから」

 シンデン……ただのメモじゃったんじゃ――。

「最近、わしは知り合ったんですよ、田中さんと」

「何やら一緒に、宝探しをしていたようですね。休み中も僕の所に再々、電話を掛けてきてたんですよ。あの人のこと教えて、とか。お金を扱っていると、個人情報が結構、わかりますからね。でも、さすがに全ては答えられませんでしたよ。個人情報ですから」

 そうか、こいつか。土地の情報やら、平田爺さんの弟の情報を流していたのは。ついでに、わしが消費者金融から金を借りとった情報も――。

 自然に、寅雄の目が細くなる。

「なっ、何か、お気に触るようなこと、僕、言いましたか?」

 少し佐藤は、びくっと背中を反らす。目が、いささか大きくなっていた。

「え、ああ、いや、そんなこと全然ないですよ。で、住宅ローンのプランを色々と紹介してください」

「はい、では……」

 佐藤は、カバンからパンフレットを取り出そうと、下を向いた。下を向いたまま、佐藤は寅雄を一瞥した。

 寅雄は、左の口角を、ちょいと上げ、馬のごとく大きな鼻息を噴出させた。



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