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犬も舞う地  作者: ひらり
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気合で探し出す!

第五章 気合で探し出す!


          一

 スコップを持って、寅雄と新田は百二十坪の土地を、じーっと見ていた。

「あれ、ですかね、立派な松って……」

 軍手を着けた右手で、新田が松を指差す。

「多分……他に松は、ないよのう」

 口先だけで寅雄は応えた。

 確かに、松はあった。土地の右端の奥の法面より、かなり手前に。道から十五メートルくらいの位置である。

『立派な松』と言っても、庭師が手を加えたような造形をされてもいない、すーっと直立した、ひょろひょろの細い松だった。

「とにかく、作業しましょうや。もう十二時ですけえ。日が暮れる前に、墓の姿くらい見んと」

「よいしょ、よいしょ」と新田はゴミの海の中を歩き始めた。寅雄も新田に続く。

 盛り上がったゴミの山を、まず登る。山の高さは寅雄の肩くらいまであった。

 ゴミは投げ捨てられているため、ちょっと気を緩めると大きくバランスを崩し、足が膝まで埋まる。

 黄ばんだ水溜りを、寅雄は誤って踏んでしまった。つるっと足が滑る。早朝の雨だけではない、ヘドロのような、ぬるぬるした感触があった。かろうじて、なんとか寅雄は持ち堪える。

 何が混ざっているのか皆目わからない、鋭い異臭が漂う。硫化水素とか、有毒ガスでも発していそうだ。寅雄は片手で口と鼻を押さえ、バランスが崩れそうになったら顔から手を離す――という動作を繰り返した。

「で、何で、今、スコップなん? まずゴミを除けんと、活躍せんじゃろ」

 先々と進む新田に、寅雄は大声で質問した。

「思った以上に、早く見付かるかもしれんじゃないですか。また、ゴミの中を通って、車まで取りに戻るんですか? 足元、気を付けてください」

 新田に初歩的な指示を、されるとは。寅雄は、ムッとした。

 徐々に松に近づいて来た。数メートル前の新田が、ひょいと軽快に飛び上がった。

「ああ、嫌になるくらいのゴミの山。そう簡単には見付から……うおおおおお!」

 薄い板の上に置いた右足を蹴ったと同時に、寅雄の右足が後方に向かって板ごとスライドした。雨で板が滑りやすくなっていたようだ。

 寅雄は倒れながら、目を瞑った。畳くらいの大きさの板の縁が、目前に迫って来たからだ。

 顔面を直撃した板は、上に跳ね上がった。板の下は、やや広めの空間になっていたらしい。寅雄の体が頭から、ずぼっとゴミの奥底に潜り込む。

 隙間から土が見えるほど、寅雄は深く潜ってしまった。

 さらに追い討ちを掛けるように、倒れた寅雄の横にあったガス炊飯器やら大きめのインクジェット・プリンターなどが、がらがらと寅雄の体を埋めた。

 逆さに、ずれ落ちたパンツの裾と靴下の間から露になった足の脹ら脛に、微かに外気が当たる。

 頭はゴミの奥深く、足先は空へと向いている。寅雄は、膝を曲げた両足首だけがなんとか動かせる、という無様な姿になっていた。

「いってー。中途半端な空間、作りよって。綺麗に並べて捨てえや。もう、臭いのう」

 ゴミの中の異臭は、外以上に鼻を攻撃する。鼻の粘膜が破れて鼻血が出そうだ。

 かと言って、口を大きく開けて汚れた空気を体に入れ込みたくもない。寅雄は少しずつ、鼻から空気を入れた。

「坂下さ〜ん、大丈夫ですかあ。わしが目の前で飛んだの、見とらんかったんですか?」

「知るかあや! 何で飛んだんか、わからんかったわ! その前に、変な所、踏むなよ。崩れて……わああ!」

 全て言い終える前に、寅雄の頭の上に新田が重なって落ちて来た。さらに深く、寅雄はゴミの中に、ずずずっと埋もれる。

「坂下さんの頭、こんな所にあったんですか。すみません、頭の上にケツ載せて。いてっ」

 新田は仰向けになって、頭からゴミの中に滑り込んでしまったようだ。

 寅雄も、新田も、頭を下にして斜めに埋まっている。

「お前のケツのおかげで、重たいゴミに頭をやられんで済んだわ。じゃが、頭が下に下りたけ、血が頭に上りそうじゃ」

「いや、下がりよるんじゃないんですか? わしら、頭が下にあるけ。あれ?」

 新田の声が、引っくり返った。

「足でも攣ったんか?」

「いや、あれ? 何だ、これ?」

「何? お前のケツで、わしの顔は動かんのんじゃ! 喋るので精一杯! 早う、退け!」

「ちょっと、待ってくださいよ」

 がらがらとゴミを除け、新田が尻に力を入れ、ふっと起き上がった。

「痛いのう! 下のゴミが顔に刺さる!」

 寅雄の悲痛な叫びを無視し、新田は寅雄から離れた。がらがらと、さらに、ゴミを移動させる。

 だが、新田は寅雄を助け出そうとしているわけではないようだ。寅雄の頭より少し先にあるゴミを除けている。

「おい、わしを助けんのんか!」

「何、甘えとんですか。坂下さんが抜けれるように、わしはゴミを除けて出たんですから」

 寅雄は頭を、ぐるりと回した。確かに、空が見える。頭上にはゴミはない。しかし、背中から腿まで、ゴミが載っている。

 ゴミがみっちりと詰まっていそうな左側から出ようと、寅雄は左肩の横にあった錆付いた石油ストーブの上に左腕を載せた。

 ぐいっと片手で上半身を起こす。背中のゴミの中から、どうにか静かに体を地上に出す。まるで、ゴミの殻から脱皮したゴミ蝉だ。

 汗を、だらだらと流しながら、新田は一箇所に手を突っ込んで、犬のようにゴミを引っ掻き回している。

「おい、どうしたんや。そこに何かあったんか?」

「手に、石の感触があったんですよ。結構、大きそうな石の。墓石かもしれん」

 新田の正面に回り、寅雄もゴミを除け始めた。ちろりと真剣な新田の顔を見る。

「のう、ところで、お前、どうして、この墓に執着しとったんや」

「え? ああ、ここの墓の下に、わしの祖母ちゃんの祖母ちゃんの知り合いが眠っとるちゅう話なんですよ。わしも祖母ちゃん子じゃったが、わしの祖母ちゃんも祖母ちゃん子で、いつも聞かされとったらしいんですがね。ある若者と相思相愛の仲になっとったんと。じゃが、幕末の長州征討のときに戦いに出て死んでしもうてから。早くから親兄弟を亡くして、身寄りがおらんかったけ、ここに埋められた、とかいう話。ほんまかどうかは知らんですけど」

「お前の祖母ちゃんの祖母ちゃんが幕末の時代に、乙女だったわけ? ちょんまげの時代に?」

「そうですよ。幕末はそんな遠い昔話ではない、っちゅうことです。ちなみに、複数の人が、ここに埋まっとるんですと。どこの誰兵衛か、わからんようになった人も、埋めたらしいです」

 背伸びをして、新田は腰を、とんとんと叩いた。

「お前は、その祖母ちゃんの祖母ちゃんの恋人の骨を捜しよった、いうことか?」

「骨は、ないですよ。恐らく土葬して、そのまま土になっとるじゃろうけ。ただ、祖母ちゃんの祖母ちゃんが男に渡した物が、一緒に埋められたんじゃないか、いうことなんですわ。恐らく手紙じゃろう、言うて。わざわざ字を読み書きができる人に、教わって書いたらしいんです」

 寅雄も背伸びをして、新田と向かい合った。

「そんとうなこと、爺さんに直接、話をすりゃあえかったろうが。わしに付きまとわんでも」

「爺さんの噂は、なんとなく聞いとったんですよ。婆さんが死んでから、のびのびと偏屈者になったって。もちろん、ここの墓も大嫌い、ちゅうことも。じゃけ、爺さんに直接、話するより、坂下さんに便乗したほうがええかあ思うて。すみません」

 ぺこりと、新田が頭を下げた。

「わしを利用するとはのう。じゃが、手紙なんか見付けて、どうするん? その手紙も土になっとるかもしれんで」

 少し視線を下に向け、新田は黙りこくった。

「まあ、言いたくなかったら、言わんでもええ。お前の勝手じゃ」

 再び手を伸ばし、寅雄はゴミを拾って、背後に投げた。

「祖母ちゃんが、入院中なんですよ。もう、ええ歳で、いつ迎えが来てもおかしゅうないんですわ。その九十四歳の祖母ちゃんが、寝惚けたように言うんですよ。実際、惚けてますけど。『わしの祖母ちゃんの大切な肩身と一緒に、わしを燃やしてくれ』って。あの世で返してあげるんですかね」

「なんか、すっきりせん話じゃの。お前の祖母ちゃんの祖父ちゃん、えっと、祖母ちゃんの祖母ちゃんの旦那に悪いとは思わんのんかの。ところで、口は動かしてええが、突っ立っとらんと、手を動かせや」

 新田は、しゃがみ込んで、作業を開始した。

「大恋愛の真っ只中で死んでしもうた相手ですから、綺麗な思い出が、もっと美化されて残ってたんだと思いますよ。仮に一緒になったら、毎日、戦以上の大喧嘩だったかも。平田爺さん夫婦にも負けないくらい、憎しみ合っていたりして。はは」

 新田の顔を、寅雄は、ちろっと見た。新田は最後の祖母ちゃん孝行をしてやりたいんだなと、何となく察した。

「やれるだけのことやったら、後悔はないわ。たとえ同じ結果でも、何にもせんかったら、悔いが残る。わしの『最後の恋』と一緒じゃの」

「坂下さんの場合は、もう結果が出てますけどね。人生、無駄も勉強のうち」

 黙々とゴミを動かす新田を、寅雄は合間合間に睨みながら、作業を続けた。

          二

 墓石らしき物がある辺りのゴミを除け始めて、十分も経たないうちに、目的の物が姿を現した。

 寅雄と新田の足元から内側だけ、ぽっこりと月のクレーターのように凹んだ。墓石らしい物は、頭の先から三十センチくらい出ている。

「確かに、墓っぽいのう。苔まで生えとるし。じゃが、墓にしては、小さそうじゃないか?」

 荒い息を、吐き出しながら、寅雄は、しげしげと石を眺める。墓の頭から地上までは、おおよそ、一メートル二十センチくらいではないか。

「爺さんの息子が言いよった位置は、この辺りじゃし、間違いないと思うんですけどね。名前とかは掘ってはないみたいですけど」

 今の状況では、土に埋まった骨を捜すどころか、石さえ、引きずり出せない。

「もうちょっと、頑張るか。この調子だと一時間もせんうちに、石だけでも何とか出せるかもしれん」

「早うしたほうが、ええですよ。何やら雲行きが怪しゅうなっとる」

 新田が、顎を上げ空を見た。喉仏が上下に動く。

 寅雄も空を見た。確かに黒い雲が太陽を隠そうとしている。

「ほっ、ほんまじゃ。天気予報は早朝の雨以外は当たっとるかもしれんのう。と言っても、昨日の予報しか見とらんけど」

 再び、寅雄と新田は、黙々とゴミを除け始めた。

 周りのゴミが落ちてこないように、できるだけ遠くへ、投げられるゴミは投げる。大きく重量のあるゴミは、新田と寅雄の二人でゴミの上に上げ、作業の邪魔にならない場所に運んだ。

 ようやく、足が土に付いた。

 寅雄は石の下のほうが気になった。石に寄り添うように捨てられていた大型のブラウン管のテレビの上に、寅雄は両手を置き、梃子の原理でテレビを斜めにした。斜めになって形成されたテレビと石の間の隙間を覗き込む。

 石は、上こそは、普通の墓の大きさのようであったが、下にいくほど広がっている。奥行きは最大で五十センチくらい、横幅は一メートル弱は、ある。歪な形をした三角形だ。

「おい、こりゃあ、二人で、さげるのは大変で」

 新田もテレビと石の間を覗き込んだ。

「うわ、重そうじゃわ。よう見ると、石の下にも石がありますよ」

 寅雄は、さらにテレビを石から離す。鼻の下を伸ばして寅雄は隙間を覗き込んだ。石の下に、平らな薄い石が見える。

「うわ、嫌なもんが見えた。これ、ゴミを退かして道を作らんと、いけんじゃろ」

 ゆっくりとテレビを元の位置に戻し、寅雄は新田を見た。

「わしら今、ゴミの塀に囲まれとりますよね。いつ雪崩が起きるかわからん」

「でも、顔は出とるで」

 寅雄はゴミから、ひょっこり出た顔を、きょろきょろさせた。

 寅雄の立っている位置から、松は一メートルくらい東の方角にある。松の、さらに東は、ゴミ広場の奥と同様に法面になっている。だが、奥の法面とは違い、滑らかな傾斜で、草が繁々と生えているだけであった。

「横の法面に向かって道を作るか。そうすりゃあ、法面の草の上を滑らせながら、石を移動させることが、できるかもしれんで」

 すると、雨が、ポツポツと落ちてきた。

「草が雨で濡れて滑りやすくなるかもしれんですね。ちょっと不安ですけど。じゃあ、道を作ってみましょうか」

「ああ、じゃあ、作るわ」

 プールの飛び込み台から飛び込むかのように、寅雄はゴミの中へ突っ込んで行った。

「作るって、えー! ちょっと、坂下さん! 怪我しますよ!」

 平泳ぎのように両手でゴミを左右に掻き分けながら、寅雄は東側の法面に向かって押し進んだ。

「大丈夫じゃ! こっちは大したゴミはない!」

 法面までの約二メートルほど、寅雄は腕と胸と足を使いながら、ゴミの中に道を作った。

「どうじゃ!」

 片足を法面の上に掛け、寅雄はガッツポーズを作った。寅雄の頭の中で『ロッキー』のテーマソングが流れる。だが、振り返ると、ゴミの奥にいる新田の姿は見えない。

「力づく過ぎますよ! またゴミが崩れ落ちそうじゃないですか!」

 再び寅雄は、そそくさとゴミの中に入っていった。

          三

 雨が激しく降り始めた。

 墓石らしき石の周りにあったゴミを、寅雄と新田は除けた。石から半径一メートルは土が見えている。

「どうします? そう簡単にはゴミ山から出れませんよ」

 眼鏡に付いた雨を新田は汚い手で擦る。泥がレンズに付き、もっと見えなくなったようだ。今度は眼鏡を外し、汚いTシャツの裾で拭く。

「引越し屋がやるように、毛布か何かに載せて引っ張るか? 探しゃあ、そこら辺に汚い毛布がありそうじゃがの」

「その前に、坂下さんが作った抜け道、坂下さんのサイズじゃないですか。石を無理に通して、ぐらついたら、すぐ墓石が倒れて、ゴミに埋まりますよ。ついでに、わしらも。それに、足元にゴミが、えっと残っとる。なんぼ毛布の上に載せて引っ張っても、動きゃせんですよ」

「あああ、うっさいのう。そんというに言うんなら、お前こそ、ええ案を出せや」

 雨が徐々に激しくなるにつれ、寅雄のイラつきも徐々に増す。

「爺さん、ここに連れて来たらどうです?」

 泥で汚れてしまった眼鏡を、今度は雨に濡らして洗い流しながら新田が、しれっと案を出した。

 目に入る雨を寅雄は汚い軍手のまま拭った。もう、何もかもが、寅雄は面倒になってきた。

「新田、頭がええ! ほんまに、頭がええ! そうじゃ、そうしょうや。もう、今から雨の中、爺さん連れて来ようや。ちゃっちゃと、やってしまったほうが安心するわ」

「投げやりな言い方ですねえ。それに、今からですか? 明日でええじゃないですか。まだ、骨も掘り出しとらんし」

 雨で濡れて雫を垂らし続ける前髪の隙間から、新田の目が不満そうに寅雄を見る。

「何、言いよんや。お前が、今日明日が勝負じゃ言うたんで。骨だって、ないって。とりあえず、墓を粉々にする。一つ一つ片付けていかんとイライラして、どうしようもないわ。笹原弁護士の笑う顔が頭に浮かんで、もう、むしゃくしゃする」

 寅雄は頭を、汚い軍手を嵌めた両手で引っ掻き回した。

「そんな、イライラせんでも、ええじゃないですか。今日も明日も変わらんですよ。こんな雨の中、爺さん連れて来て肺炎にでもなられたら、どうするんですか」

「大丈夫、あの爺さん、人に迷惑を掛けても長生きするって言いよった。もし肺炎になっても、気合で治すわ。なにせ、大和やら長門に乗っとった日本男児なんじゃけ。男に二言はないわ。さあ、行くぞ!」

 新田の手から寅雄は眼鏡を奪い取った。「さっさ、ほら、行くぞ」と新田の腕を掴む。

「平田の爺さんの家へ、レッツゴーじゃ!」

「坂下さん、とうとう壊れちゃいました? 風邪引くーーー」

 寅雄は新田の腕を、ぐいぐい強引に引っ張る。寅雄が作った抜け道を通って、BMWへと向かった。

 寅雄と新田は、べったり泥とゴミの付着した、雨でびしょ濡れになった体でBMWに乗り込む。ほんの数分で平田爺さんの家に到着した。

「新田、お前、ここで待っとれ」

「え! わしも行きますよ。バスタオルくらい、貸してくれるでしょ」

「ええけ、ここにおれ。わしは爺さんを、おぶって来るけ、後部座席のドアを開けとけ。あっそうじゃ、裏の納屋から、石が割れそうな道具を探してこい!」

 寅雄は一方的に新田に指示をして、BMWから出た。雨の中を平田爺さんの家の玄関を目指して、寅雄は突進した。

「平田さん!」

 玄関の引き戸を開けると同時に、寅雄は大声を出した。玄関の右側の部屋の引き戸を不躾に開ける。

「入りますよ!」

 いつも通り、平田爺さんは炬燵の中に、すっぽりと入って、眠っているようだった。らっきょ状の後頭部だけが見える。

 どすんと寅雄は平田爺さんの頭を跨いだ。

「わしの頭を跨ぐな」

 寅雄が振り向くと、平田爺さんは、かっと目を見開き、寅雄の顔を睨みつけていた。

 平田爺さんの言葉に鋭さを寅雄は感じた。何度しつこく言ったらわかるんや、と文句を言わんばかりの言い草だ。

「くさっ」

 平田爺さんの顔に形成された無数の皺が、目の周りに集結した。寅雄の体から、ゴミ広場の異臭が、もわもわと漂っていたのだろう。

 シャツの袖を鼻に当て寅雄は、クンクンと臭った。当の本人の寅雄の鼻は、すでに麻痺していて、臭いかどうかも判別できなくなっていた。

 すーっと寅雄の足元に、平田爺さんの視線が移動する。

「外は雨なんか? びしょ濡れの足を布団の上に置くな」

 ふと寅雄は自分の足元を見た。炬燵布団には、確かに足が載っている。じわじわと足を中心にシミが広がっていた。

 平田爺さんは、雨が降り出す前から炬燵の中で、ぬくぬくと眠っていたようだ。

 人の気も知らんで、ええ気なもんじゃ――。

 大袈裟に後ろへ下がり、寅雄は畳の上に正座した。尻と腿の間のパンツが、雨水で寅雄の体に張り付き、冷やりとした。

 寅雄は改まった営業マンの顔と声を作る。

「平田さん、お待たせいたしました。第一章です」

「はあ?」

 平田爺さんの歯のない口から、空気が抜けた。

「では、参りましょう」

 寅雄は平田爺さんの脇の下に手を突っ込み、無理矢理、ずるずると炬燵の中から引きずり出した。

 すると、奥の台所の扉が、バンと激しい音を立てた。寅雄は部屋の入口を振り返って見る。

 出て来やがったな、引き篭もりの役立たず筋肉マン――。

 現れたのは、案の定、Tシャツにトランクス姿の引き篭もりの息子だ。鴨居に両手を掛け、下顎を左右に動かしながら、引き篭もりの息子は寅雄を眺めている。

「おい、父さんを、何処へ連れて行く?」

 溜息混じりに、引き篭もりの息子が寅雄に質問した。だが、おおよそ見当は付いている顔つきであった。

「百二十坪の土地じゃ。息子さんが言ったとおり、ひょろひょろの松の近くから出てきた。変な、出来損ないの三角お握りみとうな石が」

「おうおう、よう見付けたのう。そうじゃ。具も入っとらん、海苔も巻いとらん、出来損ないの、三角お握りじゃ」

 寅雄に中途半端に抱かれたまま、平田爺さんが楽しそうに反応する。まるで子供だ。

 平田爺さんの腰は浮いているが、足は炬燵の中に入ったままだった。寅雄は立ち上がりながら、平田爺さんを強引に炬燵から引きずり出した。

 引き篭もりの息子を寅雄は睨んだ。

「今から、墓石を割る。誓約書どおりじゃ。墓の下は、明日、掘る」

 しばらく、沈黙が続いた。寅雄は引き篭もりの息子から目を逸らさず、殺気を、むんむんと出そうとしていた。

 だが、引き篭もりの息子の反応は、ほんの少し目を泳がせただけだった。

 左耳に左手の小指を入れ、引き篭もりの息子は、ほりほりと耳の中を穿った。考えているのか、はたまた、時間稼ぎをしているのか。

「ええで、わしも父さんの道楽に、付き合わせてもらうわ。十年間、庭から先に出たことがないんじゃが、汚い風貌の他人に父さんは任せられん」

 引き篭もりの息子が両手を出した。寅雄から平田爺さんを奪い取ろうとしたようだ。

 だが、平田爺さんは骨と皮しかなさそうな手で、引き篭もりの息子の太い腕を払い除けた。

「道楽じゃ、ないわ! お前は男でも、母さんの子じゃの。じゃが、母さんは女の子を望んどったんで。将来、有望な婿養子を貰うほうが、お家が繁栄する、言うて。じゃが、わしのせいで男が生まれた言うて、ずっと、わしを責め続けて。母さんの母さんも、母さんの祖母さんも。女三人が揃って。挙句の果てには、お前は無職になって戻って来るし。わしが、つまらん男の種を植えたけえじゃって、わしが母さんに責められる材料を増やしよって」

 唾を撒き散らしながら、平田爺さんは引き篭もりの息子を激しく叱咤する。

 引き篭もりの息子は、今度は右耳に右手の小指を突っ込み、ほりほりと穿り始めた。

「もう、何回も聞いたわ。それ、母さんに直に言やあ、えかったろうが。母さんが元気な間は、へーこらへーこらしとってから。病気になった途端、介護虐めみとうなことしてから。それじゃあ、母さんも思うことがあったろうて」

「介護虐め、じゃと? だいたい、わしに介護ができるか! この足で。先祖の墓の横の法面に草が生えとるけ刈ってこい、って八十前の、わしにさせて、転落して……そん時、婆さん、病院で寝とるわしを見て、何て言うたと思う?」

 いきなり、平田爺さんは寅雄の顔を見上げた。平田爺さんの体を支えたまま、寅雄は少し頭を傾けた。

 なぜ、わしに、質問をする――。

 平田爺さんの目が飛び出て、寅雄の顔面に貼り付きそうだった。

「あ、まあ……そうですね。先祖の罰が当たった、とか」

「ほうよ、その通り。わしの先祖が長州征討の奇兵隊じゃったけえと。母さんの先祖は、わしの先祖の敵の、浅野藩に仕えた武家じゃ。そいつが、あの出来損ないの三角お握りの下におる!」

 寅雄は単純に、墓を粗末にしたから先祖の罰が当たったんだ、という意味で言ったつもりだった。だが、平田爺さんの反応は、いささか、ずれていた。ただの、愚痴だ。

 どう行動したらいいのか、寅雄の頭の中が路頭に迷ってしまった。

 引き篭もりの息子を寅雄は、ちろっと見た。

 寅雄の視線に気付いた引き篭もりの息子は、目を瞬かせながら口を開いた。

 すると、奥の台所から、しくしくと、すすり泣く声が寅雄の耳に入ってきた。寅雄の頭が、左右に機敏に動く。

 なっ、なんだ。とうとう、本物の幽霊が参上か?――。

 いきなりドタバタと、走っているとは言い難い、少し速めの歩調の足音が聞こえた。

 寅雄は驚きのあまり、体のバランスを崩した。平田爺さんと共に、どたっと畳の上に倒れる。

 寅雄の背中は畳に付き、平田爺さんは寅雄の腹の上に、上向きに載った。

「兄ちゃん!」

 空気の抜けるような声が叫んだ。

 兄……ちゃん?――。

「うお!」

 寅雄の腹が、さらに重くなった。何かが、寅雄の腹の上の平田爺さんの上に載ったのだ。「ワン、ツウ、スリィ」とカウントを取りたくなるような勢いで。

 ぐいっと寅雄は首を起こした。自分の腹を見る。しばらく、寅雄は、呼吸をするのを忘れてしまっていた。

「らっきょ頭が、二つ……ある……」

 目玉だけ動かして、寅雄は引き篭もりの息子を見た。

 どうなって、いるの?――。首を傾げ、視線で寅雄は訴える。

「はあああ」

 引き篭もりの息子は、大きく溜息を吐き、がっくりと頭を垂れた。禿頭の頂点が「聞かんで、つかあさい」と訴えているようだった。

 平田爺さんの部屋の中は、しんみりとしていた。

 寅雄の腹の上の二人の爺さんは、二人とも、かなり痩せている。まるで、二人で一人分の体重しかないように、寅雄には感じられた。小さな、小さな老人の体だ。

「あの〜、僕は身内でもなんでもないのですが、一体全体、何がどうなっているのか、さっぱりわからんのんですよ。目の前で親子喧嘩するわ、腹の上で泣くわで。本当に墓を割っていいものやら、掘っていいものやら、奥様の骨を砕いていいものやら、わからなくなっているんですけど」

 興味本位半分で寅雄は問いかけた。誰でもいいから応えてくれと、二人の爺さんの頭と、引き篭もりの息子の垂れた禿頭の頂点を交互に見る。

「全部、誓約書どおり、やってくれりゃあ、ええ」

 寅雄の質問など無視して、腹の上で平田爺さんが応える。

 その間、平田爺さんの弟と思しき爺さんは、おいおいと平田爺さんの胸で泣いている。若い娘が泣いているのとは大違いだ。異様な光景すぎる。

 寅雄の足元で突っ立っている引き篭もりの息子に、寅雄は視線を向けた。

 引き篭もりの息子も、寅雄に何かを伝えたそうに、寅雄を見ていた。

「父さんらは、母さんらに苛め抜かれた人生じゃったんじゃ」

 引き篭もりの息子は、やや、自分の父親と叔父に気を使っているような口調だった。言葉を選んで口にしている。

「おたくも察しとってじゃとは思うが、うちの父さんと叔父さんは兄弟で、同じ平田家の姉妹の婿養子じゃ。戦時中に、どさくさに紛れて、二組まとめて見合いをして、すぐ結婚をして、数日後には二人とも戦艦に乗ってしもうた。死ぬ覚悟を、それなりにしとったけ、婿養子になったんじゃろう。まだ、もう一人、小さな弟も山口の実家におったし。戦後、間もなく病気で他界したがの」

「わしは、最初っから母さんとは結婚しとうなかった。年上の巨漢女なんか、見ただけで嫌じゃった。益次の嫁も、臼みたいに巨漢で、不細工で。顔だけならまだしも、お高く留まった底意地の悪い奴らじゃった。平田の女は皆、そうじゃった。ええとこなしの女どもよ」

 天井に向かって平田爺さんが叫ぶ。恐らく、撒き散らした自分の唾液が顔に舞い戻っているだろう。

 益次とは、平田爺さんの弟の名前のようだ。今、寅雄の腹の上で、泣き続けている爺さん。

「あっ、こんな時に、こういう話もなんですが、大野の平田さん、弟さんの奥様、先日、亡くなられたようですよ。ホームセンターで倒れて、ぽっくりと」

 くいっと平田爺さんの弟の顔が、寅雄の顔を見た。

 寅雄は、ぎょっとした。さすが、弟だ。鼻水と涙と涎を流しながら、平田爺さんが泣いているのかと思うくらい、平田爺さんの弟は平田爺さんと瓜二つだった。いや、ぎょろ目らっきょ二つだ。

 平田爺さんの弟の口角が、上下に動いていた。にたつきそうになる顔を、必死で真顔にしようとしているとしか思えない、滑稽な顔の動きだ。

 妻の死を聞いた平田爺さんの弟は、本当は小躍りをして喜びたかったのだろう。だが、他人である寅雄の前で小躍りをするほど、無神経ではないようだ。

「そういえば、弟さんの奥様は、お姉さんが亡くなられたこと、ご存知のようでしたよ」

「どうせ、病院に電話でもして聞いたんじゃろ。母さんが入院してから、うちには電話なんかしてこんかったけ。益次が、うちにおることも薄々気付いとったんじゃないんか。ふん!」

 平田爺さんの頭は、言葉を発するたびに動く。興奮すればするほど、激しく動く。

 混乱して頭が重たくなってしまった寅雄は、後頭部を、ごてっと畳の上に載せた。少しの間、首を立てていたせいで、首筋もどうかなりそうだ。

 なんなんだ、この平田一族は――。天井を見上げ、寅雄は呆然とした。

「妹も死んでしもうたか。はは、益次、もう怖いものなしじゃ。わしら好き勝手に生きれるで。長生きしようや。今までの何十年分も酒飲んで、楽しむんじゃ。何が、浅野の武士よのう。長州の男は学のある立派なもん、ばっかりじゃった。わしの祖父さんを馬鹿にしよってから」

 どうやら、平田爺さんの祖父さんが、長州の奇兵隊だったようだ。新田が言うように、幕末は遠い昔話ではない。

 引き篭もりの息子が、どすんと胡坐を掻いて座った。

「平田の家は、いつからか知らんが、女家系なんじゃ。婿養子に来た、わしの曾祖父ちゃんが立派な人じゃったらしゅうて、その後は、代々優秀な子沢山の女ばかりの家系を捜して、たまたま生まれたような男を婿養子にしよったらしい。そのほうが、女が生まれる確率が高いけえのう。長男は無理じゃけ、次男を迎え入れよったそうじゃ。つまらん息子より、出来のいい婿っちゅうわけよ。じゃが、戦時中は、さすがに優秀な次男が見付からんかったんと。もちろん、戦争に行ってしもうて。父さんと母さんが結婚したときも、まだ、健在じゃった曾祖母ちゃんは、妥協で男兄弟ばかりの父さんらの見合いを、承諾したらしい」

「何を言いよるんじゃ。器量の悪い娘二人を誰も相手にせんかっただけじゃろうが。母さんなんか、二度も旦那に逃げられとったんで。馬鹿なわしとは違うて、前夫たちは賢かったわ。わしは、そんとうなこと、お前が生まれるまで知らんかったし。母さんの父さんだって、妹が生まれて、しばらくしてから、蒸発したいうじゃないか!」

 平田爺さんは、要領よく話そうとする引き篭もりの息子の話に、割って入った。

 寅雄は納得した。どうりで、香典の帳簿の表紙に女の名前が明記された物しか、残っていなかったわけだ。平田爺さんの義理の祖母さん、義理の母さん、そして妻。

「もう、父さんは、そこで寝とけ。わしは嘘は言うとらん」

 おい、わしの腹の上で寝さすな――。天井を見ながら、寅雄は軽く溜息を吐く。

「ふん!」と鼻息を出し、平田爺さんは寅雄の胸に後頭部を、ぽてっと、くっ付けた。

 爺さんも、ほんまに寝んなよ――。寅雄は徐々に話を聞くのが、面倒になってきた。

「結婚してからが大変じゃったらしい。父さんらが戦争に出てから、父さんらが長州の奇兵隊の子孫っちゅうことを、母さんらは知ったんと。要するに、曾祖母ちゃんの立派な婿養子を殺したかもしれん、相手の孫じゃったわけよ、父さんたちは。もう、そんときには、父さん方の曾祖父ちゃんは病気で死んどったがの。そっから、元来、気の強かった女どもが、さらにパワーアップしたんと。曾祖母さんも、祖母さんも、母さんも、ついでに叔母さんも」

「さらに、追い討ちを掛けるように、平田さんには望まれない息子が誕生し、その後も子供はできんかった。弟さんのほうは、一人も子供ができんかった。待望の女が一人も生まれん。さらに、平田さん兄弟は曾祖父さんを殺したかもしれん奴の血が流れとる。でもって、家の中が、ごちゃごちゃになった、っちゅうことですね?」

 話を聞くのが億劫になった寅雄は、話の流れから予想した内容を、口から、さっさと出した。

「まあ、そういうこっちゃ。うちの女どもは普通の気性じゃあ、なかったけえのう。気に入らんことがありゃあ、おらびあげる。それだけならまだしも、刃傷沙汰を起こしそうになったこともある」

「わしは抵抗はせんかったで。いっそのこと、殺してくれって思ったくらいじゃ。顎を上げて、首を斬りやすいようにしてやった。わしの首を刺して、母さんは刑務所に行きゃあええと思うた。平田家の破滅よ。こっちは鋏ですら持っとらんかったのに、戦艦から出てくる大砲を相手にしとるような攻撃をしてきよってから。そん時は、たまたま来た農協のお兄ちゃんに助けられてしもうたが。わしの人生の中で一番の誇りは、何隻もの戦艦に乗ったことだけじゃ。他は、苦しさしか残っとらん」

「じゃあ、離婚すりゃあ、良かったじゃないですか。巨漢女と結婚すると決めたのも、この家に留まることを選んだのも、平田さん自身でしょ」

 ぺろりと寅雄は溜息交じりで、本音を吐いてしまった。とにかく、面倒臭い。

 平田爺さんは首を曲げて寅雄の顔を見ようとしていた。だが、平田爺さんの腹に載って、しがみ付いている弟が邪魔をして、身動きがとれない。

 しばらくして諦めたのか、平田爺さんは天井に向かって寅雄に反論した。

「わしだって、逃げよう思うたわ。どっかで数年、身を潜めとりゃあ、離婚だってできる。女の逃げる公共の施設は探しゃあ、ある。じゃが、男のための駆け込み寺みとうな施設は、聞いた覚えがない。山口の実家は、のうなっとるし、弟の家には母さんの妹がおる。弟は、うちの母さんが入院してから、わしが呼んだ。こいつも逃げたがっとったけ。お互い逃走資金も、なかった。金の管理は全て母さんと義理の妹。昔、逃げられた旦那どもに、金をごっそり持って行かれたんと。じゃけ、男は信用ならん言うて。財産らしい財産も残さんで。死んでも、わしを苦しめるつもりでおるんじゃろうよ!」

 平田爺さんは興奮のあまり、少し呼吸が荒くなっていた。

 平田爺さんの怒りの篭った愚痴の最中、天井の三角のシミを眺めながら、寅雄は思案中だった。

 あの墓石、どうやったら割れるかのう。新田の野朗、ええ道具は見付けたかいの――。平田爺さんの話など、寅雄の右の耳から左の耳へと、さらさらと抜けていく。

「おい! 聞いとんか!」

 はっと、寅雄は我に帰った。

「ああ、聞いとりますよ。それだけ憎い奴らが死んでから、復讐しようとしよるんですよね」

「死んでからでないと、復讐できんかった、みとうな言い方しよって!」

 その通り。自分に意気地がなかったことを認めりゃあ、楽になるのに――。

 だが、今ここで、平田爺さんの機嫌を損ねるわけには絶対いかない。とりあえず、寅雄は思っても、黙っておく。

「あの、とにかく、僕の上から退いてくれんですか?」

 腹筋に力を入れ、寅雄は上半身を少し上げた。左の尻も少し上げる。平田兄弟が右側へ、容易に、ごろごろと転がり落ちた。

「平田さんの人生は、辛かった。邪魔者がいなくなった今、胸にできたポリープを根本から取り除こうと、いうことですよね。再発できないくらいに。じゃあ、行きましょう」

 さっと寅雄は立ち上がった。

「はい、復讐の第一章です」

 平田爺さんを、寅雄は、きょいっと抱き上げた。胡坐をかいて座っている引き篭もりの息子の膝に、寅雄は平田爺さんをどさっと載せた。

          四

 平田爺さんの家の玄関を寅雄は開けた。雨は激しく降り続いている。

 目の前に駐まっているBMWのトランクに、新田が荷物を入れている最中だった。

 走って、寅雄は新田に近づいた。

「どうじゃ、ええ道具はあったか?」

「農家ですけ、それなりの物はありました。相当、古そうな石じゃったけ、案外、簡単に割れるかもしれんですよ。ハンマーは一本だけじゃったけ、鍬も入れておきました。ハンマーの代わりにならんか、思うて。爺さんは粉々を希望しとるんですよね。ミノとコヤスケとセットウとタガネが道具箱に入っとったんで、道具箱ごと、トランクに入れておきました。ちょっと気になるのが、手入れしとらんのんですよ。使い物になりゃあ、ええけど」

 新田は頭を、ぶるぶるっと振った。雨の大きな雫が飛び散る。風呂上りのベンザイと同じ行動だ。

「お前、詳しいのう。わしの頭にはハンマーと工事現場のドリルみとうなもんしか思い浮かばんかったで」

「もう、早う、行きましょうや。わし、ほんまに風邪を引く」

 鼻をズルズルと鳴らしながら、新田は助手席に乗り込んだ。

「ドア、開けえや。濡れる」

 寅雄の背後から、空気の抜けるような声がした。寅雄は振り返った。

 平田爺さんを負ぶった、引き篭もりの息子と、平田爺さんの弟が立っていた。

 平田爺さんの弟が傘を二本、両手に持っている。平田爺さんの弟は、平田爺さんを、さらに小型化したようだ。

「はいはい」

 小走りで奥部座席のドアの前に立ち、寅雄はタクシーの運転手のごとく、ドアを開ける。平田一族の頭をBMWのドアの上に当てないよう、腕でドアの上の縁を覆った。

 平田爺さんを負ぶった引き篭もりの息子は、ちろっと寅雄を見てBMWに乗り込んだ。爺さんの弟は、ちょこまかした動きで、足からBMWに入った。

 尻から入れば、すんなり座れるのに、と思いながら寅雄はBMWのドアを閉めた。

 ゴミ広場に着いた。寅雄と新田は、急いでトランクから道具を出す。

 寅雄がハンマーと鍬を担いだ。新田は道具入れを抱える。

 後部座席のドアを開け、平田一家に寅雄は声を掛けた。

「横の法面を沿って、歩いて行きますんで。足元、気を付けてください」

 平田爺さんの弟が、まず、傘を差しながらBMWから降りる。

 続いて、引き篭もりの息子が降り、背中に平田爺さんを負ぶった。平田爺さんが引き篭もりの息子と自分の頭上で、ジャンプ傘を、ばっと開く。

 寅雄と新田は、相変わらず、濡れ鼠状態である。

「なんじゃ、道は作っとらんのんか? あの法面で、わしの足は死ぬまで不自由になったんで」

 平田爺さんの愚痴が再発しそうだった。

「父さん、わしが背負っとるけ、大丈夫じゃ」

 引き篭もりの息子が、平田爺さんを宥める。

「お前、まさか、サンダルで来たんじゃ、なかろうのう」

「サンダルは父さん。わしと叔父さんは長靴。履きよるところ、見たじゃろうが」

 くだらん親子喧嘩なんぞ始めよって――。寅雄と新田は視線を合わせた。

「はい、とにかく、僕たちに従いてきてください。法面から墓石までの道は、作っていますので」

「くっさいのう。マスクはないんか」

 これだけのゴミを放っておいたのは、何処のどなた様でしょうか。平田爺!――。

「すみません、マスクはないんですよ。なんなら、タオルで口と鼻を覆いますか?」

「タオルが雨で濡れたら、どうするんじゃ! 窒息死するわい!」

 引き篭もりの息子の背中の上で、平田爺さんは頭を、ぐるんぐるんと回しながら、講釈を垂れる。

「ぐぐ」

 新田が、そっぽを向いて笑っていた。ちょっとからかいすぎたかと思いつつ、寅雄も頬を、ひくひくさせながら笑いを堪えた。

「とにかく、行きましょう」

 寅雄を先頭に、引き篭もりの息子と平田爺さん、爺さんの弟、殿軍しんがりが新田の順で、ゴミ広場の法面に入って行った。

 雨で滑りやすくなっていた法面では皆が、足がつるっと滑るたびに「うお!」「ひー」と派手に叫んでいた。

 鍬を担いだ左手を中途半端に挙げ、寅雄は自分が作ったゴミの道を指差した。

「ここです。この奥。足元が非常に悪いので、気を付けてください」

 ツアー・コンダクターのごとく、寅雄は平田一族を案内する。

 ゴミの道は、さらに危険である。下手に足を滑らせたが最後で、左右にぐらつきでもしたら、ゴミの壁が崩れ落ちて土石流のように襲いかかるかもしれない。

 手本を見せるかのように、寅雄は慎重にゴミの道を歩いた。時折、寅雄は首だけ回して、振り返る。

 平田爺さんは引き篭もりの息子の背中で悠々としていた。平田爺さんの後方では、手を精一杯、上に挙げ、傘がゴミに当たらないように歩く爺さんの弟の姿が見え隠れした。

 石が割れるだろうか。ゴミが崩れ落ちないだろうか。平田爺さんが納得できるような成果が出せられるか。

 足元を注視しながらも、寅雄の心は別の不安に占領されていた。

 寅雄のおかげかどうかは不明だが、目的地へ無事到着した。ほんの二メートルくらいの距離が、寅雄には途轍もなく長く感じられた。

 ぽっこりと墓石を中心に出来上がった空間の奥に、寅雄は入った。

 三角の石の正面に寅雄は立った。平田爺さんを背負った引き篭もりの息子は、寅雄の右側に立った。石の裏側に、爺さんの弟と新田が立った。

「この石に、間違いありませんか」

 引き篭もりの息子の背中にいる平田爺さんに、寅雄は尋ねた。息子の肩越しから、平田爺さんは覗き見た。なぜか、真顔だ。

「間違いない」

 四人が立つと、暑苦しいほど、ぎゅうぎゅうである。どう考えても、ハンマーを振り上げる余裕など、全然ない。

 雨の雫で新田の眼鏡の奥の眼が、見えなくなっている。だが、何かを話したい様子だ。口がぱくぱくと動いていた。

 おそらく新田は「この空間では、作業をするには狭すぎる」と言いたいのだろうと、寅雄は思った。

「わかっとる」と、二回、寅雄は新田に頷いて見せた。

 寅雄は担いでいたハンマーと鍬を下ろそうと、少し腰を前に曲げた。だが、まだ新田の視線が必要に刺さる。

 再び、寅雄は腰を曲げたまま、新田に目を向けた。新田の口の動きは、止まっていなかった。

 道具箱を抱えている手が、わずかに動く。道具箱の下を支えている左手の人差し指が、何かを指しているように寅雄には見えた。

 なんとなく、寅雄は後ろを振り返った。寅雄の目の前に、古い、木の色をしたエアコンが落ちてくる真っ最中だった。

 一瞬の出来事のであったはずだ。だが、寅雄にはエアコンが、ゆっくりスロー・モーションで落下してくるように見えた。

 寅雄の口からは悲鳴は出なかった。

 何十年前製の重量のあるエアコンに、寅雄は押し倒された。同時に、ハンマーと鍬を両肩に担いだまま、墓石に倒れ込む。

「いって〜」

 背中に重みを感じながら、寅雄は顔を上げた。なぜだか、えらく見通しがいい。新田の膝から上が良く見えた。

「坂下さん、大丈夫ですか?」

 手に持っていた道具箱を足元に置き、新田が近寄って来た。

「あれ? どうなっとるん?」

 寅雄には今の状況が、さっぱり掴めない。

 エアコンは寅雄の背中に橋を掛けるように、横たわっているようだった。

 新田の足が寅雄に近づいた。寅雄の背中に載っているエアコンを新田が、ねじねじと動かしていた。

 エアコンの凹凸が中肉の寅雄の背骨を横断する。新田が、ねじねじとエアコンを動かすたびに、寅雄の耳の奥では、背骨が、ごりごりと鳴る音が聞こえそうだった。

「いたい! 両手で、さげれんのんか!」

「さげれるわけなかろう。こんとうな、無茶苦茶、重たいもん。最近のエアコンじゃ、ないんじゃけ」

 歯を食い縛りながら、新田は声を出していた。

 寅雄は、じろりと引き篭もりの息子を下から睨んだ。お前も、少しは手伝えと目で訴える。

 だが、引き篭もりの息子は、寅雄を見下ろしながら両眉を二回、ひくひくと上に上げただけだった。「だから? わしは父さんを背負っとるも〜ん」と、せせら笑っているようだ。

 新田は寅雄の背中から、ねじねじとエアコンを寅雄の左側に下ろした。

 背中の痛みを感じながら、寅雄は周辺を見回した。目の前にあったのは、墓石の下に敷かれていた、平たい石の裏のようであった。

「坂下さん、おかげさんで、手間が少し省けましたよ」

 寅雄の背中の痛みなど気にも留めず、新田は寅雄に笑いかけた。

「墓が六個に割れたでぇ」

 引き篭もりの息子の背中にいる平田爺さんが、傘を上下に動かしながら喜んでいた。傘に付いた雨水が、飛び散る。

 両手を突いて、寅雄は上半身を起こした。四つん這いになり、石を覗き込む。

「あっ、ほんまに割れとる」

 平田爺さんの発言どおり、大小さまざまの六個の石が転がっていた。真ん中に集結させれば、まさしく、三角お握りの墓石になる。

「坂下さんが両肩に担いでいたハンマーと鍬が、活躍したんですよ。坂下さんが倒れると同時に、ハンマーと鍬が、石を押したんです。完全に坂下さんが倒れる前に石が倒れたけえ、坂下さんは石に当たらんで済んだんですよ」

 よく見ると、ハンマーと鍬が石を挟んで、左右に転がっていた。寅雄の軍手を嵌めた掌には、確かに鈍痛が残っている。かなり強く握っていたようだ。

「なんか、ようわからんが、結果オーライ、だったわけ?」

「そうです。坂下さんの背中以外は」

 痛いに決まっとろうが――。寅雄は、左手で自分の背中を摩った。

 ゆっくりと寅雄は立ち上がった。

「平田さん、六個に割れて良かったですね」

 自分の背中を摩りながら、寅雄は平田爺さんに微笑んだ。激しい雨の中で微笑むのは、困難だ。

「ほうじゃのぉ。こうやって上から眺めると、ただの石じゃの。ほほ」

「そうです。ただの石です。明日は石の下を掘ります。骨が出たら、お迎えに上がりますね」

 このまま、すーっと帰ってしまおうと、寅雄は話をスムーズに流したつもりだった。

「第一章は、これで、お終いかい」

 爺さん、超ひつこい――。雨の中、寅雄は目を細め、平田爺さんを見た。傘を差しているにもかかわらず、平田爺さんのぎょろ目も、細くなっている。

「粉々にする、言うたじゃろうがあああ」

 平田爺さんは足をバタつかせ、傘をぶんぶんと振った。完全に駄々っ子になっている。

 引き篭もりの息子が、雨空を眺めながら、口を歪めた。さすがに悪臭の中で、思いっきり空気を吸って、大きな溜息を吐きたくなかったようだ。

「父さん、動くな、危ない! それに、ここまで割れれば、粉々言うてもえかろう。それとも、臼でも持ってきて、ゴロゴロ引くんか?」

「誓約書どおりじゃ、ない!」

 一瞬にして、引き篭もりの息子の顔が変わった。太い眉は「V」の字になり、眉間に皺がきゅっと寄る。

「じゃあ、何処までを粉々言うんや! 誓約書には『粉々とは直径何ミリ以内』なんて書いとらん!」

 引き篭もりの息子が、大声を出した。平田爺さんの動きがぴたりと止まる。雨がゴミを打つ音だけが、響き渡る。

 引き篭もりの息子は、ねちねち嫌味は言っても、大声を出すような性質ではない。ワンマンな平田爺さんに対して、我慢の限界を超えてしまったのだろう。

 平田爺さんの弟は、ぎょろ目をうようよさせながら、親子喧嘩をする二人の様子を窺っていた。

 平田爺さんは、しぼしぼの口を一文字にしていた。引き篭もりの息子の背中に負われていては、抵抗もできない。

 引き篭もりの息子は、平田爺さんの出方次第では、ゴミの中に自分の父親を捨てて行きそうな勢いだ。姨捨山ではなく爺捨ゴミ山である。

「父さん、帰るで。坂下さん、家まで送ってくれや」

「ああ、いいですよ」

 難を逃れたと、寅雄は内心では、ほっとしていた。寅雄は新田の顔を見る。

 新田は腰を屈め、道具箱を持ち上げていた。さっさと帰ろうやといわんばかりに、寅雄に視線を投げかける。

 ほんま、新田の野郎は、淡白な奴じゃ――。

 帰りは新田、平田爺さんの弟、平田爺さんを背負った引き篭もりの息子、殿軍が寅雄の順番で法面を歩いた。

 足元を見ながら、皆は「うお!」「ひー」などと叫びながら、慎重に歩く。

 やれやれ、この数日で何着のスーツを汚したんじゃろ――。寅雄は鼻から空気を、ふーっと出した。足元を見ていると、否応なしに泥だらけのシャツが視界に入る。

 ふと、寅雄は顔を上げた。引き篭もりの息子が背負う平田爺さんが、寅雄を横目で凝視していた。

 なんじゃ、文句あるんか――。寅雄は目を細め、平田爺さんを見た。睨みたいのを堪えて。

 寅雄と視線がぶつかると、平田爺さんは、ぷいっと顔を前に戻した。

 前を向いて「あっかんべー」でも、しよるんじゃろ。クソ爺――。

 平田一家と新田をBMWに乗せ、寅雄は来た道を戻った。BMWの中は、お通夜のごとく、重く冷たい空気が充満していた。

          五

 墓を割った翌日、空は朝から青々と晴れ渡っていた。

 寅雄はTシャツに膝丈のトレーニング用パンツを履き、朝の六時半に新田と共にBMWに乗り込んだ。

 早朝だったため、渋滞には巻き込まれなかった。七時には百二十坪のゴミ広場に到着した。

 平田家の納屋から拝借しているスコップを、トランクから出す。軍手を嵌めながら、新田は寅雄に訊く。

「まずは、墓石ですよね。あれも、ゴミにします?」

「とりあえず石は、どかす。周りのゴミも、どかして空間を広うせんと、またゴミが崩れ落ちてくるかもしれん。それに、お前の婆さんの婆さんの恋人が、どこら辺に埋まっとるかも、わからんし。墓の真下におるとは限らんけえのう」

「わしの目的も、ちゃんと考えて、くれとったんですね」

「しょうがなかろうが。ここまで、一緒にやってきたんじゃけ。ほんまは、そんとうな面倒臭い難題なんか、無視したいんじゃがの」

 寅雄と新田はスコップを担いで、右側の法面を歩いた。昨日の雨で法面は、まだ、ぬるぬると滑る。

「坂下さん、ところで、今日、会社は?」

 寅雄の背後で歩く新田が、くぐもった声を出す。首を折って足元を凝視しているのだろう。

「ああ、夕べ、ファックスしといた。『来週の水曜日まで休みます。By坂下』ってな」

「一週間も休むつもりですか?」

「ええんよ。どうせ課長は、わしを首ちょんぱにするつもりなんじゃけ」

「あら、坂下さん、そんとうに信頼がないんですか?」

「ほうよ、ほうよ。今度、職安、行かんといけんわ」

 新田は寅雄の軽々しい発言を、冗談だと思っているに違いない。だが、寅雄に重大な悩みの種が増えてしまったのは事実だ。笹原弁護士のせいで。

 割れた墓石が横たわる、小さな空間に着いた。

 首をくいっと曲げ、寅雄は青空を見上げた。すーっと、臭い空気を吸い込む。

「くっそー、絶対に、この土地は、誰にも渡さん!」

 寅雄は仕事始めの気合を、言葉にして叫んだ。

「坂下さん、ゴミ、どけるんなら、一回、ゴミの上に登ったほうが、いいんじゃないんですか?」

 寅雄の気合を無視し、新田が冷静な判断をする。

 スコップを置いて、寅雄と新田は再び法面へ戻り、ゴミ山に登った。

 徐々に陽が高くなってきた。太陽光線が寅雄の露出した素肌を、ちくちくと刺す。

 寅雄は左手首を見る。今日の寅雄の腕の時計はGショックだ。

「もう、十時か」

「そろそろ、ええんじゃないんですか? 結構、土が見えとりますよ」

 汚い軍手で額の汗を拭いながら、新田が、腰を伸ばした。

 倒れた墓石の周辺は、半径三メートルくらい土が出ている。

 ゴミが崩れないように、寅雄は作った広間に注意深く、ずるずると下りた。寅雄に続いて、新田が無神経にも、ぴょんと飛び降る。

 咄嗟に、寅雄は新田の背後のゴミ山に向けて、両手を翳した。

「お前、思い切って飛ぶなや!」

 ビニール袋が、ひらひらと落ちてきたが、ゴミ山は崩れなかった。寅雄のハンド・パワーか、はたまた眼飛ばしのおかげか。あるいは、ゴミが寅雄に恐れおののいて、踏ん張ったのかもしれない。

「ほんまにもう……掘るで。石の後ろにはないじゃろけ、前から掘ろうや」

 また、冷静に新田が質問する。

「どっちが前ですか? 石には、なあんも書いてありませんよ」

「ああん、もう知るかあや。法面側が後ろなんじゃないんか!」

「普通、そう考えますよね〜。でも、ほんまに前に埋まっとんですかね〜」

 憎憎しい内容の言葉を、新田は、すかっと爽やかに口から吐く。

「お前、わしを、からこうとんかあ?」

 新田は寅雄の怒りの叫びを無視し、スコップを手に持った。墓石の真下にスコップを刺す。

 新田は、じろっと寅雄を睨み、すっとスコップに視線を戻した。

「結構、硬いのう。ほら、坂下さんも睨んどらんと、掘って」

「何で、お前に指図されんと、いけんのんじゃ、くそ!」

 死体が墓石の真下に横一列に並んで埋められたという絵が、寅雄の頭の中に、ぽっと頭に浮かんだ。倒れた墓石の右側を、寅雄は掘り始めた。

「一メートルくらい掘ったら十分かの」

 一メートルも、掘りとうないが――。

 左右に、ねじねじとスコップを動かしている新田を、寅雄は、ちろっと見た。

「う〜ん。人が掘ったんじゃろうけ、そんなもんで、ええんじゃないんですか? ショベルカーがあった時代じゃ、ないんじゃけ」

 ふーっと寅雄は胸の中で息を吐く。少し安堵した。

「でも、わしの答が必ず合っとるとは、限りませんで。ちょっとした変化を見逃さんようにせんと」

 寅雄の頭の構造を知り尽くしているかのように、新田が寅雄に釘を刺した。寅雄は不覚にも納得してしまった。

 今まで寅雄は不安になると、新田に意見を求めていた。新田の意見に間違いがないような気がしていたのだ。あまりにも、新田の態度が、ひょうひょうとしている、いや、態度が大きかったからだ。

 こいつ、意外にもカリスマ性があるのかも。『新田教』ができるかもしれん――。

 その場を繕うように、寅雄は口を開いた。

「お前、あんまり力任せに掘るなよ。お前の祖母さんの祖母さんの愛しい色男の頭を、スコップでカチ割るかもしれんでぇ」

「祖母ちゃんの話では、ええ男じゃったらしいですわ。当時の『ええ男』っちゅうのが、ようわからんですけど。少し垂れた細い目で、目と同じくらい細い唇をしとったらしい。難点は、坂下さん同様、背が低かったんですと」

 また、要らんことを――。

「でも、出てきても、ぼろぼろの髑髏ですよ。それに、骨が目的ではないですし」

 寅雄の顔を、ちろりとも見ず、新田はスコップを動かしていた。

 昼食も口にせず、寅雄と新田は、墓の周辺を掘り続けた。

 やはり、何かが出てくる気配は全くない。出てくるといえば、石くらいだ。

 寅雄は左腕のGショックを見た。

「新田、どうする、一時半過ぎたが、飯、食いたいか?」

「わしは、今はええですわ。暑さにやられて、食欲がのうなってから。それに一度、休んだら、それっきり、堀りとうなくなりそうじゃ」

 寅雄も同じ心境であった。スコップを振り上げ、作業を続行する。

 墓石の周りは、ほとんど掘った。

「倒れた墓石の下も、掘ってみるか」

 持っていたスコップを手から離し、寅雄は掘った、視力検査のマークのような形状の溝に、割れた六個の墓石を落とし入れた。

 墓石を載せていた薄い石だけ残し、寅雄は横から墓石が載っていた土を穿る。

 底から五十センチくらいのところで、カツっと何かがスコップの先に当たる音がした。また石かと思い、軍手を嵌めた手で硬い物を探る。

「何が当たったんじゃ?」

 反対側を掘っていた新田が顔を、ひょっこり地上に出した。

「どうしました? 無理に石を引っ張らんでくださいよ。墓石の土台が転げ落ちてきますけ」

 寅雄はスコップを置いて、軍手を外す。素手で、得体の知れない物を触る。目は何故か空を、きょろきょろと見ていた。

「何じゃろ、これ?」

 四角い何かが手に当たっている。寅雄は両手で掴み、力任せに引っ張り出そうとした。

「坂下さん! 危ない!」

 無理をしすぎたらしい。墓石の土台の薄い石が法面方向へ倒れた。

 握っていた物を手から離し、寅雄は溝に、しゃがみ込んだ。寅雄の目の前で、墓石の土台の石が土を崩しながら、ずるずると溝に落ちた。

「ほーら、もう、言わんこっちゃない」

 自分が掘った溝に尻餅を付けたまま、寅雄は、じーっと崩れた土を見ていた。土の中から、薄汚れた箱が見える。

 墓石の土台のおかげで、容易に取り出せそうである。寅雄は土を払いのけ、箱を取り出した。

 箱はOLが好みそうな小さめの弁当箱くらいの、サイズである。塗られていたはずの色は、ほとんど剥げ落ち、所々に赤色が残っている程度だった。

「おい、新田、これ、何じゃと思う?」

「はあ〜」

 面倒臭そうに新田は間延びした返事をする。「どっこらしょ」と腰を伸ばし、新田は寅雄に近づいた。

 座っている寅雄の横に腰を下ろした。寅雄が両手で持っている汚い箱を、新田は横から覗き込む。

「弁当箱じゃ、ないんですか?」

「よう見てみいや、これ、タッパじゃないんで」

「全ての弁当箱がタッパとは限らんでしょ。まあ、確かに古いですよね。開けてみちゃったら、どうです?」

 箱を耳元に近づけ、寅雄は横に振ってみた。コトコトと音がする。

「えええ、何か、怖いわ〜。爆発物とか入っとらんかの。それとも、煙が出てきて爺さんになってしまうとか」

「爆発物をこんとうな箱に入れて、埋めとく理由がわからんですよ。それに、坂下さんは、浦島太郎っちゅう名前じゃないでしょ。逆に、亀を苛めよったんじゃないんですか」

 寅雄の手から、新田が古めかしい箱を手荒く取り上げた。躊躇う様子もなく、ぱかっと蓋を開ける。

 寅雄は目を、ぎゅっと瞑って、箱から顔を背けた。山鳩の鳴き声が、寅雄の耳の中で響く。ホーホホーホホ。

 そーっと目を開け、寅雄は、じろっと横目で新田を見た。

 新田の目が、少し大きくなった。

「何や、何や何や、何が入っとんや」

 寅雄は新田に飛びついた。箱の中が、よく見えない。寅雄は新田の腕を掴んで、箱を引き寄せた。

 再び、山鳩の鳴き声が響き渡る。ホーホホーホホ。

「櫛?」

 箱の中には竹で作られた櫛が、一個だけ入っていた。新田は、櫛を凝視している。

「櫛……じゃあ、なかったんよの、お前が探しよるもんは。手紙じゃったよの」

 こくっと頭を横に傾け、新田が瞬きをした。

「う〜ん。じゃが、ほんまに手紙じゃったかどうかも、怪しいような気もしてきた。何せ、昔話じゃけ、話しよるうちに、どっかで事実が曲がったかもしれん……」

「そういう考えじゃったら、そのものが存在しとらんかった、とも言えるんでえ」

 さらに深く、新田は頭を横に傾ける。

「でも、やっぱり手紙かなあ、いや、どうじゃろ……」

「おい! ええ加減に……」

 鋭い声を出したが、ふと、寅雄は黙り込んだ。新田は、この櫛で痴呆の婆さんを納得させようとしているのかもしれない。

 これで、難題その一、解決――。

「まあ、昔話じゃけ、本当のところは、死んだもんしかわからんの。その櫛、持って帰れや。そん代わり、その箱、くれ」

 きょとんとした顔で新田は寅雄を見た。

「祖母ちゃん、納得してくれるかのう。それに、これ、ほぼ墓の真下から出てきとるけ、もしかしたら、平田の爺さんの義理の祖父さんの物かもしれん」

 寅雄は新田の右肩に手を置いた。少し体が傾いて、新田の耳が寅雄に近づく。

「新田ぁ、こういうことは、有耶無耶でええんよ。この櫛には、お前の祖母さんの祖母さんのラブ・ロマンスが込められとるかもしれん、ってな。お前も、もう精神的にも体力的にも、疲れとろう」

 頭を垂れ、新田は、しばらく櫛を見ていた。

「で、何で、坂下さんは、この箱が、要るん?」

 おっと、鋭い――。

「いやあ、わしも、そろそろ解放されたいわけよ。骨も出てくる気配もないじゃろ。せめて『墓の真下から、こんなん出てきましたあ』言うて、平田爺さんに見せて、納得してもらえたらなあ、と思うて」

 目を細め、新田は寅雄は、じろりと見る。

「でも、あの爺さん、骨に拘りそうですよ」

 寅雄は新田の肩から、ぱっと離れた。

「だってぇ、ないものは、ないも〜ん。骨なんか土になっとるわ。それに、一発、息子に喝を入れてもらやあ、何とかなろう。まあ、そこんとこは事前に息子に根回しする必要があるがの」

 完全に、寅雄は開き直っていた。

「ほうですよね。真実は一つでも、有耶無耶も、いいときがありますよね」

 真っ青な綺麗な空を、新田は見た。すーっと息を吸い込む。

「あ〜あ、やっと、終わるううう」

「おい! まだ、終わっとらんで、ゴミの始末。自分の用件だけ、さっさこ終わらせて、とっとと消えようと思うとんか? そうは、いかんけえの」

 気が抜けたような、うっとりとした顔のまま、新田の動きが、ぴたりと止まる。

「やっぱり、最後まで、やらんといけんですか?」

「当ったり前じゃあ。家が建つまで付きおうて貰うけえの。半年後には友人として、結婚式に呼んでやるわ」

 寅雄も首を曲げ、真っ青の空を見た。

「あの……坂下さん、一回ぐらい家に帰っても……」

「駄目。とんずらされちゃあ、困る」

 寅雄と新田は、しばらくの間、空を眺め続けた。



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