爺さんの恨み、わしが晴らしてみせます
第四章 爺さんの恨み、わしが晴らしてみせます
一
結局、決着がつかなかったK-1の翌日の朝、寅雄の気持ちは、どんよりと重たくなっていた。
前日に無断欠勤をしてしまったからだ。しかも、上司である課長からの連絡など一切、携帯電話に入っていなかった。
「あーん、もう仕事、行きとうなあ。昨日の無断欠勤、課長の無言の怒りが、恐ろしい。電話しときゃよかったかのう。と言っても電話しても嫌味を言われとったじゃろうし」
「坂下さん、そんとうなこと、元『ミス・もみじ』に言うたら、いけんですよ。『金のない男には用はないわ。高級品を売っているデパートを辞めるなんて!』なあんで、一発がつんと言われて、あと三日は保ちそうなものも、その場で終わらされちゃいますよ」
玄関の上がり框に腰を下ろし、皮靴の紐を結んでいた寅雄は、下から上へ、ぐるんと首を回した。真上から覗き込む新田を睨む。
寅雄のバッグを齧っていたベンザイを新田は抱きかかえ、しゃがんだ。
「でも、どうしますか。ほんまに。あの土地」
「……できること、言うたら、『必殺、土下座マン』くらいかの」
「はぁ?」
「とにかく『お願いします!』よ。営業マンの基本ね。そっから、どうするか考える」
「それだけじゃねえ。向こうも損はしとうないじゃろうし。徐々に攻めてみてはどうですか? 今日は、ゴミの始末をします。明日は墓を移動させます、ってな具合で」
ぐいっと再び、寅雄は新田を睨んだ。
「ちゃんと、売ってくれるという約束をしてから、そういう行動に出んことにはのう。やらされるだけ、やらされて、結局、何にも手に入らんかった、いうことになったら、どうするんじゃ。まあ、ええわ。今日、また爺さんの所へ行ってくる」
むくっと立ち上がり、寅雄はベンザイの頭を撫でた。
「待っとれの。でっかーい一軒家を建てちゃるけえの。バッグをガジガジ齧ろうと、わしはお前が大好きじゃ」
「なんか、嫌味っぽいですね」
寅雄は新田を、ぎろりと睨んだ。「ふん」と鼻をならし、ドアのノブに手を掛ける。
「まあ、ええ知らせを待とってくれや。ベンザイの糞の始末、しながら。それと、顎にマキロン、付けといてやってくれ」
バタンと寅雄は激しく、ドアを閉めた。
二
職場の事務所のドアを、寅雄は、ゆっくりと開けた。
「おはようございます」
アイドルの寝起きを直撃するレポーターのごとく、寅雄は掠れた声を出す。
「あれ? 誰もおらん」
「うちが、おろうが」と言わんばかりに、派遣社員の女性事務員が、ぎろっと寅雄を睨んだ。
「おはようございます」
とりあえず、派遣社員は礼儀として挨拶をしてくれた。だが、声が、えらく低く、しゃがれている。
恨みがましい目で見られてしまった寅雄は、機嫌を伺うように、やんわりと質問をした。
「どうしたの、その声。風邪?」
「いいえ、昨日、飲みすぎまして」
「ああ、飲み会があったんだあ」
「ええ、急遽、接待に私が引っ張り出されたんですよ。派遣社員の私が」
「なんで?」
「この前、電話を掛けてきた笹原弁護士。課長宛に昨日の朝一番に電話があって、知人が一気に四名、結婚が決まったけ、その人たちを紹介しちゃるけ、今晩付き合え、みたいなことを、一方的に言ってきたんですよ。しかも、担当の坂下さんには内緒で」
「笹原弁護士?」
わしが、仕事に出とらんことを知っとって、あいつ何をしよるんじゃ――。
親切なのか、意地悪なのか、内緒事を本人に派遣社員は、ぺらぺらと喋る。
「四組もいれば、指輪だけでも、結構な売り上げじゃないですか。課長は大喜びしちゃって。他の外商の営業が昨日は手が空いてる人が一人も、おらんかったんですよ。一人で接待が面倒な課長は、私を誘ってきたんです。『美味しいものでも食べない』って。おかげで、家に帰ったの、三時ですよ。三時」
目を、しょぼしょぼさせながら、派遣社員が喉チンコが見えるほどの大欠伸をした。
思わず、大きく開いた口を覗き込みながら、寅雄は派遣社員に顔を近づけた。えらい酒臭い。
派遣社員は仰け反り、露骨に嫌な顔をした。
「わしのこと、笹原弁護士は何か言いよった? 課長に。わざわざ、わしを同席させんようにしたくらいじゃけ」
「ああ、言いよりましたよ。担当、外してくれって」
「え!」
「もし、可能なら、部署を換えてくれって」
「え!」
「もっと可能なら、職場を辞めさせてくれって。それが無理なら、出向させてくれって」
寅雄は、かちーんと固まった。入梅前の蒸し暑い季節にもかかわらず、寅雄の周辺の空気だけがマイナス二十度くらいになった。
笹原弁護士は、寅雄の周辺から攻めてきたのだ。百二十坪の土地を諦めるまで、寅雄を追い込もうとしている。
強硬手段をとらなくてはならないくらい、倉田不動産と笹原弁護士にとって、寅雄の存在は大きな壁なのだろうか。
「で、課長は何て……」
「検討します、って言いよりました」
「嘘!」
派遣社員は寅雄を一瞥した。「嘘!」と叫んだのに、「嘘だよ〜ん」とは言ってくれない。つまり、本当なのだろう。
「課長は今頃、家でゲロゲロ、吐きよってんじゃあないんですか? あの人も二時過ぎまで頑張りよりましたから」
再び寅雄は、勢いよくドアを開けた。
「今日、わし、有休」
「坂下さん?」
振り返らず、真っ直ぐに寅雄はエレベーターへ向かった。
「教えてくれて、ありがとうよ! お喋り派遣社員さん!」
薄暗い廊下に、嫌味のこもったお礼の言葉が、響き渡った。
三
寅雄は平田爺さんの家に向かった。BMWを、びゅんびゅんと走らせる。
「あったまに来た。あの笹原弁護士、絶対に何か企んどる。金になる何か。口利き料でも倉田不動産から、がっぽり取るつもりじゃろう。あいつの、あの顔なら、やりかねん。趣味の悪いストッキングみとうな靴下、履いてから。目も開けとんか閉じとんか、わからんし」
とにかく、些細な物事でもケチを付けたくなるくらい、笹原弁護士の悪口が寅雄の頭に、花火のごとく、ぽんぽんと浮かぶ。
平田爺さんの家に着いた。寅雄は、さっさとBMWから降りて、小走りに玄関へ向かった。
呼び出しベルを押す。いつも通り、反応がない。
寅雄は引き戸に手を掛けた。少し引くと、引き戸は開いた。予想通り、鍵は掛かっていない。迷うことなく、寅雄は引き戸を、がたがたと開けた。
「おはようございます。坂下です。平田さん、ご在宅ですか?」
大きな声を出しながら、寅雄は平田爺さんの家に上がりこんだ。いつもの、右側の引き戸を、勢いよく開ける。
平田爺さんは炬燵の中に、すっぽり入っていた。相変わらず、らっきょのような後頭部である。
四つん這いになり、寅雄は平田爺さんの肩に手を置き、体を、ゆっさゆっさと揺らした。
「平田さん、平田さん」
反応が、ない。
「平田さ〜ん!」
寅雄は焦るあまりに、平田爺さんの耳元で大声を出した。
「やかましいのう、聞こえとるわ」
ゆっくりと、平田爺さんの顔が回り、寅雄を睨む。
寅雄は、ごくりと唾を飲み込んだ。平田爺さんの顔は、そこら辺の遊園地のお化け屋敷など問題にならないくらい、不気味で恐ろしい。
「もう、返事くらい、とっととしてくださいよ」
「また、死んどるとでも思うたか」
にっと平田爺さんが笑った。
「いいえ、全く思いませんでした。いつもの通り、元気ピンピンだと思うとりました。わしは、どうやら、からかいがいが、あるようなので」
「ほっほ、はぶててから」
平田爺さんは「よっこらしょ」と、炬燵から這い出てきた。そこで、テレビの前に寅雄は正座をした。
「今日も息子さんは、台所にいらっしゃるのですか?」
「おお、まだ寝とるじゃろ。で、今日は酒は、ないんか?」
寅雄の周りを平田爺さんの、ぎょろ目が、ぎょろぎょろと見ていた。
「ございません! 散々、人を利用して、挙句の果てには猪木が観たかった、ですか」
年寄りだと思って生半可な態度をとっていては、平田爺さんには完敗してしまう。九十歳近い平田爺さんを、とことん、寅雄は責めるつもりでいた。
「つまらんのう」
しぼしぼの唇を、平田爺さんは尖らせた。
寅雄は炬燵の上に両腕を載せ、平田爺さんに迫った。
「単刀直入に伺います。あの、例の百二十坪の土地、幾らで譲ってもらえますか? ゴミは、わしがなんとかします。ついでに、あその墓、平田さんが、お持ちの松茸山にでも、わしが移設しますよ。この条件で、どうですか」
平田爺さんの、ぎょろ目が、さらに大きくなった。ゆっくりと、寅雄を見る。
「墓」という言葉に平田爺さんは反応したと、寅雄は思った。やはり、弱点は墓だ。
だが、平田爺さんの答は、予想外だった。
「土地は譲らん。そんとうな条件なら」
「え! 墓があることも目を瞑るつもりなんですよ、こっちは」
皺くちゃの瞼を下ろし、再び平田爺さんは瞼を上げた。目玉は目の前の県道を見ている。
「じゃあ、どんとうな条件なら、譲ってもらえるんですか!」
県道を見ながら、平田爺さんが、ゆっくりと口を開けた。寅雄は身構えた。さて、どんな条件か。
「ふぁ〜あ」
平田爺さんは、しぼしぼの口を開け、欠伸をした。
ぶちっと寅雄の頭の太い血管が切れるような音がした。幻聴だろうが。
「おどりゃ、人を馬鹿にするのも、ええかげんにせえや!」
片足を立て、炬燵を両手の拳で寅雄は勢いよく叩いた。肩まで、じーんと鈍痛が響く。
ゆっくりと口を閉じ、平田爺さんは寅雄を、きっと睨んだ。
「わしは、墓は要らん。あの墓を見るのも、想像するのも嫌じゃ。あの墓が建っとる土地も、じゃ。墓も一緒にゴミに出してくれるんなら、二束三文で売ったるわ」
「ゴミ? 墓を……ゴミ?」
寅雄には一瞬、平田爺さんが何を言っているのか、理解できなかった。
「そう、ゴミとして処理してくれや。ただし、ゴミで、じゃ。それなら、千五百万で売る」
「千五百万?」
寅雄の声が裏返った。顔も緩む。千五百万なら、なんとかなる、ような気がする。
だが、台所の扉が、ばんと大きな音を立てて開く音がした。どかどか、みしみしと、足音と廊下が軋む音が一緒に響き渡る。
はっと寅雄は振り向いた。平田爺さんの引き篭もりの息子が、立っていた。
「父さん、何、言いよんね。黙って聞いとりゃ、好き勝手なこと言うてから」
ばつが悪そうに、平田爺さんは引き篭もりの息子を、ちろっと見上げた。
「あの土地は、わしが貰う土地じゃ。どうしようが、お前には関係なかろう」
ぶつぶつと口先だけで、平田爺さんが引き篭もりの息子に抗議した。
片足を上げて握り拳を作っていた寅雄と、不貞腐れている平田爺さんの間に、割り込むように、引き篭もりの息子が、どすんと胡坐をかいて座った。
「まあの。父さんにも色々とあったけ、気持ちは、わからんこともないで。じゃけど、わざわざ、こいつに千五百万で売るこたあないじゃろ。同じ条件で、倉田不動産は二千万で買う、言いよるのにから」
引き篭もりの息子は、寅雄を指差しながら、平田爺さんを説得する。
「わしは、あの笹原弁護士が嫌いじゃ」
「父さんは、母さんがやること全てが嫌じゃったんじゃろ? 父さんにも、息子のわしにも相談せず、笹原先生ばっかり頼っとったけ」
「あの二人は、できとったんじゃないんか」
「父さん、母さんは九十一歳、笹原弁護士は四十代の中ば。ありえんでしょ、男が超熟女マニアでない限り。いちいち、いちいち、こじつけてから」
引き篭もりの息子は、鼻から大量の空気を出した。両手を後ろに突いて、天井を見る。
自分の父親を、どう扱ったらいいものやら、困惑しているように寅雄には見えた。恐る恐る、寅雄は引き篭もりの息子に声を掛ける。
「あの〜」
「なんや」
ぎろっと引き篭もりの息子が、寅雄を見下ろす。
「倉田不動産は二千万と言ってるんですか?」
「ほうよ。全く同じ条件での。千五百万よりゃ、二千万のほうがええに決まっとる。なのに、父さんは笹原弁護士の思惑通りにさせとうないもんじゃけ、駄々を捏ねてから」
「わしは、お前の母さんに、どれだけ辛い思いをさせられとったか、お前だって知っとろう。あの墓の下におるもんの、せいで」
とうとう、寅雄には話が飲み込めなくなってしまった。きょろきょろと、交互に、平田爺さんと、引き篭もりの息子を見る。
口を一文字に、ぴしゃりと閉めた平田爺さんの顔は、小刻みに震えていた。なんとなく、哀れだ。だが、千五百万という金額を譲るわけには、いかない。こうなったら――。
寅雄は立てていた片足を下ろし、改めて正座をした。
「平田さん! それから、息子さん! お願いです。あの土地を、わしに譲ってください。千五百万しか払えませんが、わしに譲ってください!」
畳の上に置いた両掌と一緒に、寅雄は自分の額も擦り付けた。『必殺、土下座マン』である。
「そうは言ってものう、こっちも金には困っとるんじゃ。五百万の差は大きいで」
体は丸めたまま、頭を、ぐいっと上に上げ、寅雄は引き篭もりの息子を見た。
「わしにとっても五百万は、大きいです。わしの安月給じゃ、千五百万が、やっと出せる金額なんです。わしは、精一杯の無理をしてでも、あそこで、新しい家族と生活がしたいんです! お願いです。千五百万で売ってください!」
再度、寅雄は畳に額を擦り付けた。
「再婚するんか? いや、お前は……結婚したことないじゃろ。歳だけ食って。それとも、あの犬が新しい家族か? ふふ」
引き篭もりの息子は、鼻で、せせら笑う。
畳に額を擦り付けたまま、寅雄は小さく舌打ちをした。
てめえに、言われとうないわ。仕事すら、しよらんくせに――。寅雄も軽く、鼻でせせら笑った。あえて伏せたままの状態で、寅雄は口を開く。
「ええ、初めての結婚です。仰るとおり、この歳ですので、ローンを組むことも考え、結婚をきっかけに、家を建てようと思いました」
下を向いたまま、神様、平田様と縋るような切ない声を、寅雄は故意に出した。
「そうかい。まあ、お前が結婚しようが、すまいが、わしらには関係のない話じゃ。わしら親子に関係があるのは、金じゃ」
平田爺さん一人なら、なんとかなる話も、引き篭もりの息子が、ややこしくする。
下を向いたまま、寅雄は唇を舐めた。こうなったら、引き篭もりの息子は、完全無視だ。
がばっと寅雄は顔を上げ、平田爺さんに視線を投げかけた。
「平田さん、たいそう、墓の下の人が嫌いなようですね。では、平田さんを苦しめた墓の下の住人を、わしが苦しめて差し上げます」
「何を言いよんや。死んどるもんは、何をやっても、痛うも、痒うも、ないんで」
寅雄の肩を掴む引き篭もりの息子を、寅雄は無視した。揺さぶられても、眼中にも入れない。
平田爺さんの、ぎょろ目が、寅雄を凝視した。
「ほう、何をしてくれるんじゃ? どーんと派手に、やってくれるんじゃろうのう」
「どーんと派手に」と言われても、どうしたものやらと、寅雄は、今さらながら考える。
「父さん、あの墓は……」
「お前は、母さんの血を受けついどるけ、何とも思うとらんのんじゃろ。わしは、母さんとは他人じゃ」
寅雄に視線を向けたまま、平田爺さんが引き篭もりの息子の話を、遮る。
「あの……参考までに、あの墓には奥様が入って、いらっしゃるのですか?」
寅雄は恐る恐る質問した。数ヶ月前に亡くなった人が入っていると思うと、気も引ける。
「いんや。母さんの骨は、まだ二階に置きっ放しじゃ」
「もしかして、あの肥料が積んである部屋、ですか?」
「その通り、糞と一緒じゃ」
戸惑うこともなく、平田爺さんは平然と答えた。
平田婆さんは、鶏糞やら牛糞の袋に囲まれているということか――。
そこまで憎い相手だったのか。寅雄は、質問の意図を込めて、引き篭もりの息子を、ちろっと見た。引き篭もりの息子と、視線が真っ向から、ぶつかる。
大きく深呼吸をして、引き篭もりの息子は目を閉じた。目を閉じたまま、口が開いた。
「あそこの墓には、先祖代々の人たちが入っとるわけじゃない。特定の人物のために建てられた墓じゃ」
「わしは、平田の墓にも入らんけえの!」
下唇を突き出し、平田爺さんが「ふん!」と、そっぽを向いた。友達と意地の張り合いをする、餓鬼の喧嘩のようだ。
また、さらに、平田爺さんと引き篭もりの息子の話の内容が、寅雄には飲み込めなくなった。
「で、どうしてくれるんじゃ」
そっぽを向いたまま、平田爺さんが寅雄に迫る。寅雄は、数秒、無言になった。
わしが、憎いと思う相手の墓だったら……わしなら、どうする――。
寅雄は、かつて自分が憎いと思った人物を思い出そうとした。意外にも多く、頭の中は、憎い人物の顔で、ごちゃ混ぜになった。
引き篭もりの息子が寅雄を覗き込んだ。太い唇が動く。
「何も出てはこんのんじゃ……」
「じゃーあ、まずぅ!」
引き篭もりの息子の声を掻き消すかのように、寅雄は首を伸ばし、大きな声を出した。
「まず、ですね、ゴミの中から出てきた墓石を叩き割ります。これでもか、と言うくらい。それから、墓を掘り起こします。骨が出てきたら、骨も叩き割ります。もちろん、これでもか、と言うくらい。粉々になった墓と骨は、ゴミとして処理します。どうですか!」
何でもいいから、とにかく平田爺さんを納得させようと、寅雄は思いついた案を口から垂れ流した。ここで話をつけてしまえば、後は、どうとでも誤魔化せる。
「ぷっ」と引き篭もりの息子が、吹き出した。
「なんじゃ、それくらいなら、倉田不動産もやるわ。業者を使ってショベルカーで割るなり、掘り起こすなり、するじゃろ。あっちは金を持っとるけ、そんとうなことは、お茶の子さいさい、よ」
いちいち覗き込んでまで寅雄の視界に入ってきた引き篭もりの息子を、ちらりとも見ず、寅雄は平田爺さんを見詰め続ける。
平田爺さんが瞬きをした。「それだけか」と言わんばかりの、残念そうな表情をしている。寅雄の今の案だけでは、平田爺さんの恨みは、完全には消え去らないようだ。
寅雄の頭に、ある案が、ポッと浮かんだ。だが、寅雄は躊躇した。
これを、言うのは、怖いのう、どうしょ――。
目を、ぎゅっと閉じて、寅雄は再び大声を出した。
「さらに、叩き割った墓と骨を、破棄する前に平田さんに、お見せします」
薄っすらと目を開け、平田爺さんの様子を窺った。平田爺さんの残念そうな表情は変わっていない。
「さっ、さらに、今なら……」
ごくりと喉が鳴るくらい、寅雄は唾を飲み込んだ。ぎゅーっと目を瞑る。
「なんや、早う、言えや。テレビ・ショッピングみとうなの」
次は何が出てくるのだろうかと、引き篭もりの息子が、うきうきした声を出す。
気弱になりそうな自分に喝を入れるように、寅雄は空気を肺に入るだけ、思いっきり吸い込んだ。
「糞の部屋に置かれている、奥様の骨も、目の前で粉々にして差し上げます!」
とうとう、寅雄は言ってしまった。だが、そこまでは、さすがに、平田爺さんも断るだろうと、思った。
「ついでに、ゴミとして捨ててくれや」
マジ……ですか――。
そーっと寅雄が目を開けると、平田爺さんは、にんまりと笑っていた。
引き篭もりの息子を、寅雄は恐る恐る見た。かちんこちんに固まっている。
寅雄は、ぶるんぶるんと首を横に振って見せた。
寅雄は本気で、平田婆さんの骨を粉々にするつもりはないと、引き篭もりの息子に無言で訴えた。
「お前、何てこと……」
「それで、頼むわ」
「え!」
引き篭もりの息子は、勢いよく振り返った。
「売値は千五百万。じゃが、粉々になった物を、わしが見んうちに、家を建てるのは、駄目じゃ。そんときは、さらに千五百万、請求するけえの。ええな。期限は二週間」
「二週間?」
二週間で、そんな酷いことを?――。寅雄自身の口から出た案とは言えど、惨すぎる。
「父さん、なにも、そこまでせんでも……」
平田爺さんの、ぎょろ目が、ぎろっと引き篭もりの息子を睨んだ。平田爺さんこそ、墓から這い出したゾンビのようだ。引き篭もりの息子は、一瞬にして黙り込んでしまった。
もぞもぞと寅雄と引き篭もりの息子に背を向けて、平田爺さんは炬燵に潜った。
「平田さん、本当に、ええんですか? わし、つい、勢いで……」
「勢いで、年寄りの心を裏切らんでくれんかのう」
年寄りも若者も、妻の骨を粉々にしてゴミとして捨てんでしょ。普通――。
平田爺さんは、左手を挙げた。ちょいちょいと引き篭もりの息子を掌で呼ぶ。
「今の内容で、誓約書を書いてもらえ」
そのまま、平田爺さんは手を引っ込めた。らっきょ頭は、土に埋まったように動かなくなってしまった。
四
平田爺さんの家から直行で自宅のマンションへ、寅雄は帰った。鍵を出し、マンションのドアの鍵穴に突っ込む。
重たい頭を垂れたまま、寅雄はドアを開けた。ベンザイが尻尾を振って出迎えてくれた。ベンザイの頭を軽く撫で、寅雄はリビングを覗く。新田の姿がなかった。
「新田は? 昼飯でも食いに出掛けたんかいの」
ベンザイに齧られ放題になっているソファに、寅雄は俯せで、どかっと倒れこんだ。
「あ〜、頭痛がしてきた。眩暈もする。ついでに、吐き気もする。もう、何かが、わしの体に憑いてしもうたかの」
ぐったりしている寅雄の背中に、ベンザイが乗る。
「あれ? もう帰ってきとっちゃったんですか? まだ十二時になったばっかりですよ」
寅雄はくるっと頭を回し、リビングのドアを見た。新田が立っていた。
「お前、どっか行っとったんか。ん? でも、ドアが閉まる音がせんかったのう」
「トイレ」
「ほうか、トイレに行っとったんか。でも、水が流れる音がせんかったのう」
「ああ、流すの、忘れとった」
寅雄はソファの上に置いてある、クッションに顔を埋めた。後方から、トイレの水が流れる音がする。
「坂下さん、どうしちゃったんですか。何か憑き物でも憑いたような、顔してから」
「やっぱり、憑いてしもうたか」
「そのまま、クッションに顔を埋めこんどったら、窒息しますよ」
「このまま、窒息して死にたい……」
口の端から空気を吸い込みながら、寅雄は死にかけの蝉のような濁声を、喉から出す。
がたがたと椅子が引き出される音がした。新田が、椅子に腰を掛けたようだ。
「どうしちゃったんですか? また爺さんに、突飛な難問を叩きつけられましたか?」
「お前は、勘が鋭いのう。ただ今回は、自爆よ、自爆」
「体に巻きつけたダイナマイトに、自分で火を点けた、と? どういう展開になったんですか?」
「売ってくれるんと。千五百万で」
「え! やったじゃないですか!」
「条件付で」
「火を点けちゃったダイナマイト、ですね」
口に出し辛かった寅雄は、うつ伏せのまま、しばらく沈黙を保っていた。だが、いつまでも黙っているわけには、いかない。
ベンザイの「へーへー」という、荒い呼吸のみが響き渡る。
「ちょっと、ベンザイ、のけてくれんかのう。重いし、暑いし」
ひょいっとベンザイが背中から離れた。だが、寅雄の体の気だるさは、変わらない。
体の気だるさを吹き飛ばそうと寅雄は、がばっと起き上がり、正座をした。正座をしたままの状態で、新田のほうへ体を、ぐいっと回す。
新田はベンザイを抱きかかえたまま、きょとんとした顔をしていた。
「頼む、新田、力を貸してくれ。お前が今まで、わしを裏切ってきたことは、全て忘れてやる」
「もう、人に頼み事をするときでも、いちいち嫌味を言うんですか? 余裕がありますねえ」
「爺さんの百二十坪の土地のゴミを取り除いて、出てきた墓を粉々に叩き割る。それから、墓の下の土から人骨が出たら、それも粉々にする。ついでに、半年以上前に死んだ婆さんの骨も、爺さんの目の前で粉々にせんといけん。これ、セットで二週間以内。わし一人じゃ、無理じゃ。勇気も出ん」
寅雄は全て話し終えると、そのまま、ソファに、突っ伏した。
「自爆した、ということは、その提案を坂下さんがした、ということですよね」
「そういうことです。期限は爺さんが決めたが。もっと細かく言うと、粉々の墓も、先祖の骨も婆さんの骨も、全てゴミとして処理せんと、いけんのんです! 誓約書も書かされました! わしの、馬鹿、馬鹿、馬鹿ぁ――!」
寅雄は自分の頭を両手で連打した。。
しばらく沈黙が続いた。寅雄は、自ら頭を上げられない。
「誓約書は、カバンの中ですか?」
新田は立ち上がった。リビングに放り投げられたカバンを、勝手に開ける。
「まあ、汚い字。それに、広告の裏ですか。二部作成して、一部を持って帰ってきたんですか?」
どうやら、それらしい紙を見付けたようだ。
「ああ、もう一部は爺さんが持っとる。引き篭もりの息子が、しぶしぶ書いたんじゃ。わしは、署名と捺印のみ」
「あーあ、ちゃんと粉々になったものを見せんと千五百万を追加ですか。いたたたた。でも、あの爺さんなら、そこまでやってやりたいと思うでしょうよ」
突っ伏したまま、寅雄は目を、ぱちぱちさせた。
なぜ、新田は、そう思う?――。ゆっくりと寅雄は頭を上げた。上目遣いで新田を見る。
新田は再び椅子に腰掛けていた。誓約書を見ながら、ベンザイの首をシャンプーするように、左手の指先で撫でている。意外にも平然とした様子だ。
重たい荷物を自ら背負い込んでしまった寅雄を、嘲笑っているように見えた。
寅雄の頭の中に、もこもこと怒りが膨らんだ。今にも豪雨が来そうな、真っ黒い入道雲だ。
「おい、どうして、そう思うんじゃ」
上目遣いの目の両端が、何かに引っ張られるように、ひくひく吊り上がるのが、寅雄自身、感じられた。
寅雄の知らない重要な平田爺さんの秘密を、新田は知っている。なぜ、今まで黙っていたのか。
「爺さんは、婿養子ですよ。山口県出身らしいんですけどね。肩身が狭かったんじゃないんですか」
安易な新田の答えに、寅雄は拍子抜けした。
「爺さん、婿養子じゃったんか? でも、大野の弟の家も『平田』だったで。あれは違う家じゃったんかの?」
「弟は、婆さんの妹の旦那じゃったんじゃろ。弟も婿養子になって。これまでの内容を整理すると、そうならんですか」
言われてみれば、そうだ。
確か、亡くなった平田爺さんの義理の妹の、ご近所さんの話では「実のお姉さんは、数ヶ月前に亡くなっている」と言っていた。大野の婆さんは平田婆さんの妹だったという可能性はある。
寅雄は、ばちばちと瞬きを繰り返した。
「なるほど……新田、結構、頭ええの」
「常識でしょ」
「むかつくが」
「とにかく、この誓約書通りにせんと、土地は手に入らんっちゅうことですよね。明日から取り掛かりましょうや」
ドキュンと拳銃で心臓をぶち抜かれたような痛みが、寅雄の胸を突き抜ける。
「お前は、血も涙もない奴じゃの! 墓を掘り起こすんで!」
「墓の下には何もありゃしませんよ」
「婆さんの骨も砕かんと、いけんのんで! 爺さんの目の前で!」
「それは、その時、考えりゃあええ。だいたい、その残酷な提案をしたのは坂下さんでしょ」
「そうです! じゃが、それを上手く回避できる方法があれば、と思うとるんじゃ!」
両掌を、ぐっと握り、寅雄は新田が、よい提案を出してくれるのを期待した。
だが、新田の返答は、さっぱりしたものだった。
「ないですね。あの爺さん、頑固そうじゃし。あの歳で、呆けとるどころか、記憶力はええ。特に、恨み事に関しては。坂下さんだってそうでしょ。嫌いな奴の一言、って結構、覚えとるでしょ?」
「ああ、わしゃ執念深いけ、よう覚えとるわ。お前が、わしにしたことも」
「でしょ? 爺さんなんか、長い年月を経て、蓄積されてるわけですよ。婆さんが死んだ今、爺さんが死んでない今が、爺さんにとって恨みを晴らす絶好の時なんじゃないんですか。腹を括ってください、坂下さん」
寅雄は再び、ソファに突っ伏した。やはり、もう、逃げ場はない。寅雄自ら、逃げ道を塞いでしまったのだ。
ピッピッピという機械音が寅雄の耳に入ってきた。新田が携帯電話で誰かと連絡を取ろうとしているようだ。何か良い手段を求めて、誰かに電話しているのかもしれない、と寅雄は淡い期待を抱いた。
「明日、昼から雨ですねえ」
ぐいっと、寅雄は顔を上げた、新田を見る。どうやら携帯電話で、天気予報を見ていたようだ。
「お前、わしの力になってくれるんじゃないんか? お前だって、あの土地に用があるんじゃろ?」
「金も時間もありませんからね。二週間で簡単に済ませる方法を考えているんです。雨かあ。作業するのに支障があるくらい、降るんかのう」
そっちの方向で考えよるんか。わしの馬鹿な提案で――。
姿勢を正し、寅雄は正座した足の腿を両手で叩いた。
「もう、ええわ、わかった。やるだけやってやるわ。明日、昼から雨じゃの。降水確率は」
「六十パーセント」
「また、中途半端な。爺さんの家の二階に婆さんの骨と一緒に仲良く置かれている、肥料どもがある。発火するもんもあるじゃろ」
「リンが入っていれば、大気中で発火する、言うけど、六十度はないといけんのんじゃないんかな。何かで摩擦するとか」
「リンって、人魂になるとか言うやつじゃろ? 縁起でもねえ。じゃなくて、生石灰とかがあったんじゃ、糞と一緒に。雨が降らんうちにゴミ広場に生石灰を置きに行く。そのとき、袋をカッターで破っておく、っちゅうのはどうじゃ。雨が降って着火したころには、わしらの姿はゴミ広場には、ない」
「わあ、名案! と言いたいところじゃが、怪しまれませんかね。警察にも消防にも、ご厄介になるわけですよ。しかも、土地に興味のある人間が、故意に放火したとか言われる可能性もある。以前から、石灰が放置されていたのなら、難は免れるかも知れんけど」
寅雄は記憶を辿った。以前、どっかで生石灰を見て、思いついた方法だった。
寅雄は天井を、ぐるっと見回した。ぽっと記憶が蘇った。
「下の畑に、生石灰と糞が積んであったわ。量は少なかったような気がするが。あたかも、そこの畑の持ち主が積んでいたのを忘れていたような死角に生石灰を山積みにする、っちゅう手は、どうじゃろ」
目を瞬かせながら、寅雄は、すらすらと提案する。何かが寅雄に取り憑いて、勝手に口を動かしているような不思議な感じが寅雄にはした。
「なんか、ちょっと納得いかんけど、その方法でやってみます? 下の畑の人には大迷惑な話ですが」
「今から、爺さんの家に行こう。足りんかったら、ホームセンターで買えばええ」
素早く寅雄は立ち上がった。
ベンザイを抱いたまま、ゆっくりと寅雄の動く姿を新田は見ていた。
「何しよるんじゃ、お前も行くんで」
「わしも、ですか? 坂下さん、一人で行ってくださいよ。わしは倉田不動産の社員ちゅうことで、爺さんは認識してるんですよ」
「オールバックに金縁眼鏡でなかったら、わからんわ」
ベンザイを、ぎゅっと抱きしめ、新田は肩を窄めた。
新田の手から寅雄はベンザイを取り上げる。ベンザイを床に置いて、寅雄は新田の腕を無理矢理ぐいぐい引っ張った。
「嫌ですよ、犯罪の加担なんか、しとうないですよ!」
「今さら、何を言いよんじゃ! おりゃ!」
寅雄は新田を背負い投げした。寅雄は転がった新田の両足を持って、ずるずると引き摺りながら、玄関へ向かった。
五
寅雄は平田爺さんの家へ向かって、再びBMWを、びゅんびゅんと走らせた。赤信号でも突進してしまう勢いだ。
「坂下さん、ここで、ぶっ飛ばしても、あんまり変わらんと思いますけどね」
「わしは、いらっちなんよ。思い立ったら早くやってしまわんと、夜も眠れん」
「そういう人は、自律神経、やられちゃうんですよ」
助手席に座らされている新田は、怪訝そうな声を出す。
すると、寅雄のスーツの内ポケットの中に入っていた携帯電話が踊りだした。携帯電話はバイブにしていたのだ。
「ちょっと、新田、これ、誰が掛けてきとるんか、見てくれや。わし、運転で手一杯」
顎で、寅雄はスーツの内ポケットを指し示す。
新田は、一瞬、左側の窓を見て、寅雄のスーツの内ポケットに手を突っ込んだ。カチャリと二つ折りの携帯電話を開く。
「もしもし、坂下ですけど」
「おい、お前、勝手に出るなや」
「今日? 無理、仕事。別に……無理なもんは無理。向こう二週間は忙しいから。じゃ」
携帯電話を元通りに折り畳み、新田は寅雄の内ポケットに戻した。
「誰じゃったんや!」
寅雄は、ちろちろと新田に視線を送りながら、運転する。
「『美奈子で〜す』なんて言ってたかな。馬鹿っぽい女」
ハンドルを握る寅雄の手が、がくがくと動いた。BMWが細かく左右に動く。
「今、わしの振りして喋りよったじゃろ。おい、勘違いされるじゃないか!」
「勘違いしているのは、坂下さんですよ」
「もう!」
寅雄はBMWを右の路肩に停めた。携帯電話を開き、急いで美奈子に電話をする。
「あっ、美奈子ちゃん?」
「ええ、美奈子です」
つれない返事をされてしまった。美奈子のご機嫌は、かなり斜めのようだ。だが、電話に出てくれただけでも、マシである。
「ごめ〜ん。今、職場の奴が出ちゃって。あの、黒田っていう、わしの後輩。知っとるよね。美奈子ちゃんだと思って、もう、先輩のわしを、からかうんじゃけ」
「そう、で、今日、仕事なんでしょ?」
「明日の夕方からなら、何とかするよ」
すると、携帯電話の向こうから、メロディが聞こえてきた。機械的なメロディは、携帯電話の着信の音だ。ということは、美奈子が持っている携帯電話は一台ではない。
「美奈子ちゃん、携帯電話、もう一台、持っとん?」
「使い分け。じゃあ、また気が向いたら電話する」
携帯電話はピっという音と同時に、切られた。虚しいプープーという音が、鋭く寅雄の耳の鼓膜を突き刺す。
「使い分けって、どう使い分け?」
両手の指を頭の後ろに絡め、新田が、溜息交じりの声を出す。
「坂下さん、早く行きましょうよ。いらっちなんでしょ。早く納得せんと、夜も眠れんのんでしょ」
ダッシュボードを開け、寅雄は携帯電話を投げ入れた。
「新田、お前、ここで降りろ」
「またですかあ? 勘弁してくださいよ〜。だいたい、坂下さん一人じゃ、この計画は成功しませんよ」
「わし一人で、全部、やってやる。お前の目的なんか知るか!」
寅雄はシートベルトを外し、助手席の新田に覆いかぶさった。助手席のドアを開ける。
口を一文字にして、新田は眉を上げた。どう見ても、呆れ返った顔だ。
「わかりましたよ。またヒッチハイクでもしますよ」
すんなりと新田はBMWから降りた。ばたりと寅雄が勢いよく助手席のドアを閉める。
後方の車の確認もせず、寅雄は、思いっきりアクセルを踏んだ。背後から激しいクラクションが鳴り響く。
「わしは、一人でやってみせる。美奈子ちゃんに認めてもらうためにも。わし、一人でやり遂げたという達成感のためにも」
鼻を、ひくひくさせながら、寅雄はBMWを走らせた。
六
寅雄は平田爺さんの自宅の前に車を停車させた。今日は二回目の慌しい訪問である。
立て付けの悪い玄関の引き戸を乱暴に開け、寅雄は靴を脱ぎながら大声を出した。
「平田さん! 坂下です! 再々、すみません! 二階にある肥料、少し頂きますね!」
寅雄は「少し」と言いつつ『石灰』と書かれてある袋は全て持ち去るつもりでいた。
いつも平田爺さんがいる部屋の引き戸を開けずに、寅雄は二階へドタバタと上がった。
すると、奥の台所の扉がバンという激しい音を立てた。ドスドス、メシメシと大股で歩く足音がする。もちろん、平田爺さんの引き篭もりの息子の足音だ。
階段を上がって手前にある襖を寅雄は開けた。むっと異臭が漂う。寅雄は集中治療室にいる患者のように、即座に右手で鼻と口を塞いだ。
寅雄が部屋の中に入ろうとすると、引き篭もりの息子が寅雄の目の前に、ぬりかべのごとく、はだかった。
「おい、勝手に人の家に上がり込むなや」
「肥料を分けて欲しいんじゃ」
ぬーっと引き篭もりの息子の首が伸びた。寅雄の目の前で引き篭もりの息子の顔が止まる。
「家庭菜園でもするんか? あん?」
「いや、その……」
肥料が山積みになった部屋を、引き篭もりの息子の体の隙間から、寅雄は覗きこむ。
「農業を知らんもんが、いきなり思い立ったように家庭菜園をしてものう。土の質を変えるのに何が必要かとか、お勉強したんか? ん?」
「別に家庭菜園なんか、せん。とにかく、石灰類が欲しいんじゃ。使わんのんなら、くれや」
引き篭もりの息子の右の骨盤を、寅雄は両手で掴み、襖を引くように動かそうとした。まさに二重の襖だ。だが、二枚目の襖は、筋骨隆々すぎて、ぴくりとも動かない。
「石灰だけか? 何に……」
引き篭もりの息子の目が、ぐいっと見開かれた。よぼよぼに痩せれば、平田爺さんの目に、そっくりである。
「お前、父さんに言われたこと、もう実行しようとしとるんか。ほんまに、やる気なんか? あんな紙切れの約束事なんか忘れて、他の土地を探せや」
引き篭もりの息子の骨盤を、ぐいぐい引きながら、寅雄は叫んだ。
「誰にもやらん! あの土地は、わしのもんじゃ! どうやってでも、わしのもんに、するんじゃ!」
寅雄の少し広がった額に、引き篭もりの息子の大きくて、ごつい掌が、ぴたっと貼りついた。ぐーっと後ろへ押される。
「何を餓鬼みとうな阿呆、言いよるんじゃ。あの土地は、まだ、うちのもんで。お前のもんじゃ、ありゃあせん。それに、石灰を使うて火でも点けようと思うとるんか? あんとうなゴミ広場に火を点けて裏山まで燃えてしもうたら、どうするんじゃ。あの山は、うちの山じゃないんじゃけえの!」
「爺さんは、ゴミと墓と骨の始末を条件にしよるんじゃろうが。しかも、二週間っちゅう超短い期限付きじゃ。汚い手でも使わんと、事は進まん!」
額を押さえつけられ、寅雄は後ろに倒れそうになっていた。だが、寅雄は腹筋に、ぐっと力を入れ、やっとの思いで立っている。
引き篭もりの息子が、さらに寅雄の耳元に顔を近づけた。
「お前、阿呆じゃの。馬鹿正直にやるつもりか? 気の強い母さんじゃったけ、わしも好きじゃなかったがの、父さんほど恨んどるわけじゃあない。死んだんじゃけ、過去のことは忘れて、きちんと供養してやりたいんじゃ。先祖の墓の件は、正直に言って、時代を考えても、どうでもええと思うとる。あそこの墓にはの……」
がたがたという音が、下から聞こえた。平田爺さんが、いつもの部屋から出てきたようだ。
あそこの墓には……あそこの墓には、何があるぅ――。間の悪い平田爺さんのおかげで、寅雄は聞きたい真実が聞けなかった。
階段の下から、空気の抜けるような平田爺さんの声がした。
「石灰が欲しいんか? 持っていけや、どうせ使わんのんじゃけ」
寅雄は、ぎろりと引き篭もりの息子を見た。
「とっ、とにかく、同じ人間として、そちらさんの意見も、それなりに考慮しますよ。じゃが、わしが今、相手にしているのは、あくまでも、爺さんですけ」
骨盤に当てていた手を、寅雄は離した。引きこもりの息子のミゾオチに二発がつんと、おみまいしてやった。
だが、引き篭もりの息子は、Tシャツの上から腹を、ほりほりと掻いた。蚊でも刺したかなと、思わせるような態度だ。
寅雄は、ほりほりと掻く引き篭もりの息子の手を眺めながら、高い位置にある股間を膝蹴りした。
「うっ……」
股間を両手で押さえ、「く」の字のまま、引き篭もりの息子は、ばたんと倒れた。
「ばーか、体がでかけりゃ、ええちゅうもんじゃないんじゃ」
倒れた引き篭もりの息子を、ひょいと跨いで、寅雄は肥料が山積みになった部屋に入った。
薄暗い部屋の奥の窓際の隅に『石灰』と書いてある袋が積まれてあるのが、見えた。
寅雄は『石灰』目がけて突進した。しかし、つんのめるくらい急に、ぴたっと足が止まった。寅雄の背中に、冷たい何かが走る。
『石灰』の向こうに骨壷が、ちょこんと置かれていた。花も飾られていない、箱にも入っていない、小さな白い骨壷が。
寅雄の胸が激しく上下する。
「邪魔じゃけ、奥に追いやっとるようじゃ」
後ろを振り返り、倒れている引き篭もりの息子を寅雄は見た。
引き篭もりの息子は、歯を食い縛りながら、寅雄の様子を窺っていた。慈悲を求めている目だった。
「お前、自分の母親の骨壷を、こんな所に置いたんか? 爺さんじゃ、できんじゃろ。足の悪い爺さんが二階に上がってくるわけ……えー!」
杖を握った平田爺さんが、ひょっこりと顔を出した。寅雄の上唇が上に上がった。どんよりとした気持ちの悪い空気が、寅雄の歯茎を撫でる。
爺さん、杖がありゃあ、二階にも上がれる、ってか?――。
「石灰がいるんじゃろ? 持っていけや。息子も畑仕事はせん言いよるし」
もぞもぞと、巨大な蛾の幼虫のごとく、引き篭もりの息子が動いた。成虫になったら、ウルトラマンと戦いそうだ。
「父さん、あいつ、石灰、使うてゴミを燃やそうとしとるんで」
平田爺さんは、転がっている引き篭もりの息子を一瞥した。
「ほう、そりゃあ、手っ取り早いわの。それにしても、お前は情けないのう。金玉蹴られたんか。想像しただけで痛いわ。早う立って、わしを、おぶれや。階段、登るのはええんじゃが、降りるのは、いびせえわ」
ゆっくりと、やや「く」の字の体勢で、引き篭もりの息子は立つ。膝を曲げ、平田爺さんに大きな背を向ける。
ひょいと『おんぶお化け』のごとく、平田爺さんが引き篭もりの息子の背中に乗った。
引き篭もりの息子が立ち上がると同時に、平田爺さんは寅雄に視線を向けた。
「何しても、ええで。うちに迷惑が掛からんかったら」
平田爺さんと引き篭もりの息子は、そのまま階下へ降りていった。
しばらく寅雄は、呆然と入口を見続けていた。
爺さんは死んだ婆さんに、わしを使って惨い復讐をしようとしよる。でかい息子ですら制止できないくらいの意思で。爺さんの精神状態は麻痺しとるとしか思えん。恨みの塊じゃ――。
ゆっくりと寅雄は背後にある石灰を見た。奥には孤独な骨壷が、やはりある。
寅雄は骨壷に近寄った。しゃがみ込んで、小人のような骨壷に話しかける。
「婆さん、あんたあ、爺さんを、あれだけ怒らせるような何かをしたんか? あの恨みがましい、憎憎しい顔は、婆さんが、こしらえたもんじゃろ?」
しばらく骨壷を眺めていた寅雄は、ぱちっと一回、瞬きをした。頭を切り替え、行動を起こす合図を、自分に送る。
「さあて、っと。取り掛かるか。婆さん、安心せえ。あんたのことは、わしが何とかする」
寅雄は、すくっと立ち上がり、『石灰』と印刷されている袋を二袋、担いだ。一袋十五キログラムはあるため、一度に二袋が限界だった。
「婆さん、何回か上がってくるわ」
せっせと寅雄は一階へ降りた。靴を脱ぎ履きするのが面倒で、靴下のままBMWへと荷物を運ぶ。
四十歳を越えた体である。明日は元気でも、明後日は確実に筋肉痛だろうと、寅雄は覚悟した。
寅雄は平田爺さんの家から持ち出した石灰を、BMWに積んだ。
だが、まだ明るい夕方の五時である。他人目に触れてはならない。日没後に作業をしようと、県道の路肩にBMWを停めた。
シートを倒したが、寅雄は興奮のあまり眠れない。目を、瞑ったまま通り過ぎる車の音を聞きながら数時間、過ごした。
石灰は寅雄が思うほど、平田爺さんの家にはなかった。二袋を担いで七往復、つまり、十四袋しかなかったのだ。
「もうちょっと、欲しかったのう。せめて二十袋くらいありゃあ、えかったのに」
ホームセンターで石灰を買ってくるかどうか、寅雄は迷った。大量に買いすぎると目立つのではないか。
ホームセンターの店内に設置された監視カメラで撮られた不審人物、つまり、ぼやけた寅雄の映像がテレビで放送されるシーンを、寅雄は頭の中で思い浮かべた。
『ゴミ広場が炎上! 古い墓のみが残る! 怨恨か? それとも、先祖の恨みか? 不審人物、ビデオカメラに映っていた!』などと、スポーツ新聞に面白おかしく載せられるかもしれない。
「どうせなら、白い着物を着て、額に三角の布を付けて、ホームセンターへ行ったほうが、先祖の恨みと世間は思って……くれるわけねえよ」
つまらないボケ突っ込みを一人でしながら、寅雄は大きく溜息を吐いた。
七
太陽がすっかり沈んだ七時過ぎに、寅雄は行動を開始した。
百二十坪の土地の前に、静かにBMWを停める。ダッシュボードに常時入れている携帯用の懐中電灯を、取り出した。
静かにBMWのドアを寅雄は開けた。生ぬるい、何かが出てきそうな重たい空気が漂う。
怖いのう……いんや、気のせい、気のせい。明日、雨が降る予定じゃけ、空気が湿気て重いんじゃ――。寅雄は自分に言い聞かせ、外に出た。
両肩に力を入れ、寅雄は下の段の畑を、そーっと覗いてみた。人の気配はない。
懐中電灯を点してみた。道から下の畑までは三メートルはありそうだった。
「けっこう、高いのう。十四袋を無理矢理どうにか積んでも、下の畑が燃えるだけで終わりそうじゃ」
回れ右をして、寅雄は百二十坪のゴミ広場に懐中電灯の明かりを向ける。
ゴミの向こう側に、山の法面が、ちらほらと照らされた。草や木が生い茂り、火が点けば、瞬く間に燃え広がりそうだ。
「爺さんに迷惑が掛からんように、かあ。他人に迷惑を掛けるのは構わんっちゅうことじゃろう。爺さんも無責任よのう」
寅雄はBMWに積んだ石灰の袋を、二袋「よいしょ!」と担いだ。
ゴミ広場の真ん中より道側で、足を止める。簡単に燃え上がりそうな、古いスポンジの出たソファの横に、石灰を置いた。
寅雄はカッターを持ってくるのを忘れていた。何か代用になる物はないかと、ズボンのポケットを上から両手でパンパンと叩く。ハンカチしかない。
車に戻り、運転席に置いていたスーツの上着のポケットから、ボールペンを取り出した。高価なボールペンであったが、今の寅雄には、百二十坪の土地しか眼中にない。
再度、石灰を置いた場所に戻り、ぶっさりとボールペンの先で刺そうとした。だが、思った以上に、石灰の袋は頑丈であった。
「ちっ」と舌打ちをし、寅雄は辺りを見回した。
ぐずぐずしていたら、人に見られる――。もう誰かに見られているかもしれない、という恐怖心を抱きながら、寅雄は袋を開ける道具を、素早く探した。
大量の猫缶の蓋はあったが、錆付いて、とうてい役に立ちそうもない。
すると、角に放置されている軽自動車が懐中電灯に点された。寅雄は駆け足で近寄る。焦りすぎて、三回、ゴミの中に埋まるように寅雄は転んでしまった。
タイヤや使えそうなライトなどは取り除かれていたが、助手席のガラス窓が割れていた。
懐中電灯を当てて、寅雄は、じっくり凝視する。今にも、膝の瘡蓋のように、ぽろっと取れそうな鋭利なガラスの破片が、ぐらぐらと不安定に車に、くっ付いていた。比較的、大きなガラスの破片だ。
寅雄はポケットからハンカチを取り出した。下唇を噛み息を止める。手を怪我しないように、ゆっくりと慎重に、寅雄はガラスの破片を取った。懐中電灯を当てて、ガラスの尖った先を見る。
「よっしゃ、これで何とかなるじゃろ」
寅雄は今度は転ばぬよう、猫のごとく、ぴょんぴょんと軽快に走って、石灰を置いた場所に戻った。だが、やはり、一回どてっと無様に転んだ。
早速、一袋目にガラスの先を突き刺した。少し、力を入れて押す。なんとか、穴が開いた。
寅雄は両手で、さらにビニールを裂く。三十センチくらい開け、中の石灰が雨に当たるように、できるだけ、開く。ぱっくりと割れた傷口のように。
同じ作業を寅雄は繰り返した。ベビー・ダンスなど、燃えそうな物を探し、近くに石灰を置く。
作業が終わると同時に、寅雄は速攻でBMWに乗り込んだ。
百二十坪の土地に来てから一時間も経っていない。だが、シートに座った瞬間、シャツと、スーツのパンツと下着のパンツが汗で、ねっとりと寅雄の体に貼り付いた。
寅雄は、エンジンを掛け、ゆっくりとUターンする。県道へ向けて、BMWを慎重に走らせた。
民家を一軒、通り過ぎる。県道に入り、右へ曲がった。
ハンドルを握る寅雄の手が、緩んだ。ぜいぜいと荒い喘息のような呼吸が、肩を揺らしながら、口から出る。
「後は、明日、雨が降るのを待つばかりか。裏山に燃え移る前に、誰か通報してくれりゃあええが。燃えたところで、わしがやっと、バレにゃあ済む話じゃ」
ラジオのスイッチを寅雄は押した。明日の天気予報が、どこかの放送局で流れてないか。
時間が中途半端だったため、気象情報を流している放送局はなかった。聴きたくもない演歌やら、ヒップ・ホップが、ひたすら流れる。寅雄はラジオのスイッチを叩いた。
「ケーブルテレビみとうに、一日中、ひたすら天気予報だけを放送するラジオ局は、ないんかいの!」
一日中、天気予報を放送し続けるような、つまらないラジオ局などない。
寅雄は助手席に投げ込んだ上着の内ポケットを左手で、弄った。携帯電話を取り出し、開ける。
天気予報のサイトを開いた。やはり、午後から雨は降るらしい。
だが、少し状況が変わっていた。
「ええ! 降水確率五十パーセントぉ! 十パーセントも下がっとるじゃないか!」
頭を、ぶるぶると寅雄は軽く振った。助手席の上着の上に携帯電話を、寅雄は、ぽいっと放り投げた。
「天気予報は、あくまでも、予報。晴れと予報しても雨が降るということも、ある」
気を取り直し、寅雄はハンドルを、ぎゅっと汚い手で握った。
八
百二十坪のゴミ広場に石灰を置いて帰った夜、寅雄はベッドに入り、ひたすら目を瞑っていた。
「羊が百二十六匹、羊が百二十七匹……」と、頭の中では羊の数を延々と数えていた。
寅雄は、がばっと薄い布団を捲り、足で床に蹴り落とした。
「あああああ、何で、羊の数、数えよんじゃあああああ! sheepとsleepのスペルが似とる、いうだけじゃろうがあああああ。日本語にしたら、羊と眠りで全く違うんじゃあああああ! おかげで眠れんわあああああ!」
近所迷惑も考えずに、寅雄は大声を出した。うつ伏せになり、頭を抱える。
「どうしよう、墓の住人に恨まれたら。呪い殺されたら。今なら、あの石灰を回収できる。そうすれば、放火魔にもならん。あああああ、でも、土地が欲しいいいいい」
ベッドの上で、寅雄は足をバタバタさせた。もがいても、何も変わらないと思った瞬間、虚しさから、ぱたっと両足をベッドの上に放り投げた。
「このまま、振り返らず、突っ走るか。それとも、これからゴミ広場に突っ走るか」
枕の上に顎を載せ、寅雄は「あ〜あ」と声を出しながら大きく溜息を吐いた。
「大丈夫、放火はバレん。墓は石。大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
寅雄は壁側に、ごろっと体を向けた。足を折りたたみ、胎児の態勢になった。目を、ぎゅっと瞑る。
誰にも相談できない苦しみを寅雄自身の中で解消するには、自己暗示しかなかった。
翌朝の五時半、寅雄はベッドの中に入ったまま、テレビにスイッチを入れた。朝のニュース番組が始まる時間だ。
寅雄は、うつらうつらとしても、ほとんど眠れなかった。ベンザイが隣のリビングで、ごそごそと寝る場所を変える音ですら、耳に入って癇に障るくらいだった。
ぼーっとしながら、全国ニュースを観る。若い女性が殺害された、やら、身元不明の遺体発見やら、物騒なニュースが流れる。
「全国ニュースのトップを飾ることは、ないじゃろうのう、わしの放火くらいで。ええけえ、早う、天気予報せいや」
ふと、テレビの画面左上に視線を向ける。ニュース番組の邪魔にならない程度に、広島県内の天気予報が小さく表示されていた。
寅雄はベッドから転がり落ちた。這ってテレビに近づく。庄原地区の天気予報が出ていた。
「違う! 広島県南部の天気は、どうなんじゃ!」
四十二型の薄型テレビの上部を両手で持ち、寅雄は庄原地区の晴れマークに、ぐっと目を近づける。晴れマークに眼を飛ばし、睨み続けた。
次に福山地区の天気予報が出る。晴れと曇りマークだ。
すると、テレビの左側にある遮光カーテンの隙間から、光がピカッと一瞬差し込んだ。
寅雄は何気に、カーテンを見る。
ゴロゴロ、ゴロゴロ……。雷である。
素早く立ち上がり、寅雄はカーテンを開けた。まだ薄暗い空には星も太陽も見えない。
窓から顔を出し、空を、じっくりと眺める。
「雲が厚い。湿気た雨の臭いもする。こりゃ、もう降るぞ」
しばらく空を眺めていると、ぽつぽつと、ベランダの手摺に雨が当たる音が、聞こえてきた。
寅雄の計画通り、雨が石灰に命中し火を出せば、一時間も経たないうちに、百二十坪の土地は火の海である。
寅雄には、もう、悩む余地がなくなった。突き進むしか、ない。
九
雨は一時的に激しく降った。だが、雨が降り続いたのは一時間くらいだった。
逸る気持ちを押さえながら、寅雄は職場へ向かった。BMWから見える空は、職場に近づくにつれ、徐々に晴れ間を見せてきた。
点けっぱなしのカーラジオからは、火事についての報道は一切されなかった。
従業員用のエレベーターに乗り込み、寅雄はオメガの腕時計を見る。何度しつこく見ても、やっぱり八時半前だ。
今頃、百二十坪の土地はどうなっているのだろうか。燃えているだろうか。それとも、不発で終わっているだろうか。
放火魔として捕まらなければ、ひとまず、第一目標は達成である。だが、どちらかと言えば、不発で終わっていて欲しいと、寅雄は心底では思っていた。まだ、心のどこかで逃げ道を求めている。
頭の中で火事の光景を浮かべながら、寅雄は事務所のドアを開けた。
「おはようございます」
ぼそぼそと朝の挨拶を適当にする。事務所内の様子を気にせず、寅雄は自分の机に向かった。
三十センチくらい上から寅雄は鞄を放り投げた。ぱたりと鞄は床で倒れる。ついでに、どかっと事務用の椅子に寅雄は埋もれた。
「おう、坂下、おはよう」
気持ちの悪い元気な声がするほうへ、寅雄は首を、ぐるっと回した。
風呂嫌いのベンザイを餌で誘き寄せる時、きっと自分も、こんな奇妙な笑顔を浮かべているんだろうなと、寅雄は思った。
あっ、そういやあ、笹原弁護士に、わしは売られるんかいの――。
百二十坪の土地が燃える映像で脳が占領されていたために、寅雄をデパートから追い出すよう笹原弁護士が課長に話を持ちかけていたのを、すっかり忘れていた。
もう、課長の好きにせえや。こっちは、それどころじゃないわ――。
すーっと寅雄は前に向き、机の角に置かれた書類を揃えた。
現時点では、百二十坪の土地に関しては、笹原弁護士の率いる倉田不動産よりも圧倒的に寅雄が有利である。寅雄の眼中には笹原弁護士の姿は、すでにない。
電話が鳴った。派遣社員が受話器を上げる。
「なあ、坂下、ちょっと、ええか。相談したいことがあるんじゃがのう」
机に両手を突き、課長が立ち上がろうとした。
「坂下さん! 笹原弁護士です!」
課長の行動を遮るように、派遣社員が大きな声で寅雄を呼んだ。
ぎろっと課長のほうへ、寅雄は視線を向ける。寅雄の視線が痛かったのか、さっと課長は下を向き、上がりかけた腰を、再び椅子の上に載せた。
軽く瞬きをして、寅雄は受話器を耳にあてる。今さら、何の用事だ。
どんよりとした事務所の空気を大きく吸い込み、一気に吐き出しながら、寅雄は受話器に話し掛けた。
「はい、お待たせいたしました坂下です。この度は、ご結婚前のお客様を四組も、ご紹介いただき、ありがとうございます」
故意に、寅雄は語気をきつくする。
新聞を開く音がした。課長が顔を隠して、寅雄と目が合わないようにしているに違いない。
「おお、そうじゃ。客を紹介してやったんじゃ。感謝してくださいよ」
笹原弁護士の物言いは、余裕綽々だ。暢気なもんだと、寅雄は「ふっ」と笹原弁護士に聞こえない程度に鼻先で笑った。
「まだ、お客様にお目にかかっておりませんので、是非、今日にでも正式に、ご紹介いただきたいですね」
「それは後日の。あの、平田さんの土地なんじゃがの」
じゃけ、何や。人の話を無視してから――。
「さっき、倉田不動産から電話があったんじゃ。今朝、ゴミの処理をしよう思うて業者を連れて行ったらしい」
「え? ちょっと待ってくださいよ。契約は、まだ結んでないでしょ?」
「契約する条件の一つに、ゴミ処理ちゅうのがあるじゃろ。金額がどれくらいになるんか、見積もって貰うために朝の七時ごろ、行ったんと。早朝でないと業者も時間がなかったらしい」
あっそう、と軽く受け流し、椅子の背凭れに、寅雄は背中を付けた。だが、がばっと、再び前のめりになった。
朝の七時なら、百二十坪の土地が燃えていたかどうか、知っているはずである。
笹原弁護士が何を話そうとしているのか、寅雄は沈黙のまま待った。寅雄自ら訊くわけには、いかない。心臓と荒い鼻息の音が、耳に、じんじんと響き渡る。
「それでゴミ山が一部」
ゴミ山が……一部――。
「ほんの少しじゃけど、燃えとったらしいんじゃ。わしも見とらんけ、よう、わからんのんじゃが」
「え? 少し?」
ついうっかり寅雄は、素っ頓狂な声を出してしまった。しかも、燃えたという言葉に反応したのではなく、燃えた量に反応してしまった。
「不服か? 全部ごっそり燃えて欲しかったんか? 金が掛かるけえのう、ゴミ処理だけでも」
笹原弁護士は、ねちねちした、いやらしい声を出す。
だが、妙に安心してしまった寅雄は、見事に一位で完走したランナーの気分になった。逃げ切れた。犯罪者にならずに済んだ。平田家の先祖に恨まれずに済んだ。
「その場で消したんと。下の畑の蛇口とホースを勝手に借りて。一応、不審火いうことで警察に届けたらしい。もちろん、平田さんにも」
「え?」
今度の寅雄の声は、唸り声になっていた。
「何や、さっきから『え?』ばっかり言うてから。とにかく、しばらくは停戦じゃ。人が火を点けた可能性もあるけえのう。最近は物騒じゃけ、警察がどれくらいの時間を掛けて調べるか、わからんし」
何となくだが、笹原弁護士は寅雄に放火の疑いを抱いているような口振りだ。喧嘩を仕掛けられているように、寅雄には感じられた。神経過敏になっているだけかもしれないが。
とにかく、動揺を察されてはならない。寅雄は故意に落ち着き払った声を出した。
「そう、ですか。かしこまりました。では、また進展がありましたら、ご連絡ください。失礼します」
寅雄は、即座に失敗したと思った。「そう」の後に一拍、置いてしまったのだ。
「おう、またの」
笹原弁護士が受話器を置くのを待って、寅雄は、ゆっくりと受話器を置いた。
机の狭い空間に寅雄は額を付けた。
やばい、警察かよ――。
ふっと、疑問が浮かんだ。なぜ、一部しか燃えなかったのだろう。どれくらいの範囲か知らないが。雨も、雷を鳴らしながら激しく降っていたはずなのに。
寅雄は鞄を持ち、事務所を飛び出した。閉まりかけのドアの向こうから、課長の声がする。
「坂下! どこ、行くんや!」
「客先、回ってきます。今日はノー・リターンです!」
ばたんとドアが閉まる音がした。どたばたと寅雄が走る足音が、薄暗い廊下に響き渡った。
十
百二十坪の土地に向かって、寅雄はBMWを走らせた。
目的地の近くまで来て、寅雄はBMWの速度を落とす。
県道にはパトカーも人影もなく、いつもと変わらない寂しい風景だ。
寅雄は少し、きょろきょろしてみた。煙が燻っている様子もない。
「なんか、薄気味悪いくらい静かじゃの。土地までパトカーやら消防やらが入っとんかいの?」
怪しまれては、元も子もない。アクセルを深く踏み、寅雄はBMWを走らせた。
目の前のカーブを曲がれば平田爺さんの家が、百メートルくらい先に見える場所で、寅雄はBMWを停めた。
百二十坪の土地の現状を見たい。だが、今すぐ行くと怪しまれる。寅雄はハンドルを抱きかかえた。額をハンドルの上部に載せ、グリグリと左右に頭を動かす。自分を痛めつけても何一つ変わらないのに。
コンコンと鈍く窓ガラスを叩く音が聞こえた。
寅雄の肩が、びくっと上がった。顔を上げれば、警察官が笑顔で職務質問をしてくるのではないかと寅雄は怯えた。
だが、いつまでもハンドルに額をグリグリやっているわけには、いかない。
そーっと、運転席の横の窓ガラスを寅雄は覗き見た。大きな掌が二つ、目の前に飛び込んできた。
「うぉぉぉぉ」
声にならない声を出しながら、寅雄は助手席に頭を載せようとした。シートベルトが邪魔をする。焦るあまり、シートベルトを外すなんて発想は浮かばなかった。右肩に掛かっていたシートベルトの下に右腕を入れ、寅雄は助手席に突っ伏した。
出た出た出たあああ――。とうとう、平田家の霊が寅雄の目の前に現れたと、寅雄の頭の中はパニック状態に陥った。
コンコンと、今度は助手席側の窓ガラスが叩かれる。寅雄は、突っ伏したまま、顔が上げられなくなっていた。寅雄の体は小刻みに震える。
すると、閉まった窓ガラスから微かに声が聞こえた。
「坂下さ〜ん」
じりじりと寅雄は顔を上げた。よく見ると眼鏡を掛けヘッドフォンを耳に当てた男が、大きな両掌を振っている。新田だ。
寅雄は安心と同時に、怒りが湧き上がった。
上体を起こし、外に出ようとした。また、刺さったままのシートベルトが邪魔をする。
「ああ、もう!」
シートベルトに八つ当たりをしながら、寅雄が、じたばたしていると、鍵の掛かっていない助手席のドアが開いた。
「坂下さん、落ち着いて。そんな、怒ってんのか、安心してるのか、怯えているのか判断できなんような複雑な顔をせんでくださいよ」
新田は手を伸ばし、寅雄のシートベルトを解除した。
「煩いわあ! ああ、わしは怒っとるし、安心しとるし、怯えてもおるわ!」
「ほんま、正直ですね〜。それが、坂下さんの人間臭い、一番ええところなんですけどねえ」
寅雄は運転席に普通に腰掛けた。下唇を出し、正面を見る。
新田が勝手に助手席に乗ってきた。
「お前、勝手に人の車に乗るなや。突き放しても突き放してもブーメランのように戻って来てから」
「古っ! 西城秀樹ですかあ、それ、昭和。でも、そのブーメランのおかげで、坂下さんは助かってるんでしょ? わしは、何かあると調子よく出てくるヒーローみたいじゃないですか。で、面白いですね。本当に放火魔は現場に戻ってくるんじゃ」
寅雄の思考回路が、ぴたりと止まる。すーっと頭を助手席の新田のほうに向けた。
「うお、本物の幽霊みとうな顔してから」
眉間に皺を寄せ、新田は蛸のように口を突き出した。
新田のヘッドフォンを取り上げ、寅雄は新田の右腕を両手で、ぎゅーっと握った。
「痛いですよ!」
「ゴミは、どれくらい燃えたんか? 新田、見たんか? おい! おい!」
「見ましたよ。大して燃えとらんかったです。ベビーダンスが一個、火柱を立てとったくらいです」
「警察は! 消防は!」
「もう、焦らんで下さい。警察も、消防も来とらんですよ。呼んどらんのんですけ。どうせ、笹原弁護士から聞いたんでしょ? 笹原弁護士に連絡したのは、わしですけえ」
「え? 倉田不動産じゃなかったんか?」
「倉田不動産の社員の振りをして、わしが知らせたんですよ。わざわざ公衆電話を探して。とりあえず、邪魔されんための時間稼ぎです。もう、腕、放してくださいよぉ」
我に帰り、寅雄は新田の腕を放した。
「坂下さんが置いた石灰は、ほとんど苦土石灰ですよ。水分を含んで容易に火が点くのは、生石灰です。残念なことに、生石灰はベビーダンスの横に置かれた二袋しかなかったようです」
寅雄は目を瞬かせた。
「生石灰の残骸と苦土石灰は集めて、他人目に付かない場所に置いておきましたけ。ほんま、むやみやたらに袋を裂いとるけ、どうしょうかあ思いましたよ」
新田の服や手を、寅雄は見た。炭や土が所々に付いている。
「あっ、ありがと」
寅雄らしくない言葉が、つるっと出た。
「坂下さん、素直〜」
ばつが悪くなった寅雄は運転席のシートに、しっかりと腰と背中を付けた。
「でも、そんとうな嘘、すぐバレるんじゃないんか? 弁護士じゃけ、警察に知り合いくらいおろうし、倉田不動産に確認すれば……」
「でしょうね。でも、笹原弁護士もお忙しそうですから、この件ばかりに時間を費やすような阿呆な真似はしませんよ。多分」
「多分とはなんや! 多分とは!」
「とにかく、今日、明日が勝負ですよ。ゴミを始末する前に、爺さんの最大の願いを最初に叶えるほうが、ええんじゃないですか? 坂下さんの気持ちも早く楽になろうし」
「もしかして……」
新田の顔は、どう見ても、やる気満々、本気モードだ。新田の眼鏡の下の目が、ギラギラ、メラメラと輝いている。
「骨ですよ、骨。この問題さえ解決すりゃあ、爺さんだって納得するでしょ。後は、金を払えば、好きなようにできるじゃろ」
寅雄が一番、恐れている契約だ。しかも、千五百万円という大金を、すぐ準備できるほど、寅雄の財布は分厚くない。
「百二十坪のゴミ山の中から、どうやって墓を探すんじゃ! 位置が、さっぱりわからん!」
何とか先延ばしにできないものかと、寅雄は新田に反論する。
「そんとうなこと、爺さんに聞きゃあ、わかるでしょ。それっくらい、教えてくれますよ」
悔しいが、一理ある――。
なんとなく、寅雄はハンドルに両手を置いた。なんとなく、ハンドルを両手で撫でてみる。これから、どう行動すべきか、どうにか寅雄は考えようとした。
「早く、車、出してくださいよ」
「はあ?」
「車で数秒の場所に爺さんの家があるでしょ。時間は押し迫っていますよ」
ごくりと寅雄は生唾を飲んだ。
鼻息が荒くなる寅雄とは正反対に、新田は平然としている。
「新田、お前、なんでヘッドホンやらデジカメやらリュックを持っとんじゃ。わしの家に置いて来たはずじゃろ」
「へ!」
いきなり、新田の声が裏返った。
「いや〜、あの〜、坂下さんがいない間に、合鍵、作っちゃいました。鍵のレスキューとかいうのを呼んで。鍵があれば、下のエントランスにも入れるじゃないですか。エヘ」
「エヘじゃねえよ。てめえ、わしは女にも合鍵を渡したことないのに!」
「もう、そんとうな、ちまいこと言わんと、さっさと骨を、やっつけてしまいましょうや。さっ、爺さんの家へレッツゴー!」
口を一文字にして、寅雄はアクセルを思いっきり踏んだ。
十一
寅雄のBMWが平田爺さんの家に着いた。寅雄と新田は揃って玄関に向かう。
「平田さん、坂下です。入りますよ〜」
いつもの玄関の横の部屋へ、まるで借金取りのように、ヅカヅカと寅雄と新田は勝手に入った。
今日の平田爺さんはテレビを観ていた。テレビには古い時代劇の再放送が映っていた。
「おや、今日もお出ましですか」
不躾にも平田爺さんは、じろじろ寅雄の手を見る。何も持っていないと気付くと、口を「へ」の字にした。
ずうずうしい、要求爺め――。
「『まぼろし』は完全に土地が僕の物になりましたら、持ってきます。今は酒を買ってる暇もありませんので!」
平田爺さんはテレビに目を向け、寅雄の言葉に返答しなかった。
寅雄は平田爺さんの真横に、すとんと座った。
「あの、平田さん、お伺いしたいことがございまして。例の、平田さんの、ご先祖様のお墓ですよね。どの辺りに、あるんですかね」
子供に説明するように、寅雄は、ゆっくりと平田爺さんに質問をした。
「わしの先祖じゃあねえ。母さんの先祖じゃ」
「わかりました、わかりました。奥様のご先祖様のお墓は、どの辺りにありますか?」
「ゴミを燃やしゃあ、わかるじゃろうが」
「それがですね。燃やせなかったんですよ。色々と事情がありまして」
「警察沙汰になりとうなかったんか? ふん、意気地なしめ」
なんだとおおお――。
平田爺さんの横顔を、思わず寅雄は睨み付けそうになった。下瞼が、ひくひくと痙攣を起こす。
横から軽く腕を掴まれた。寅雄の横に座った新田が、寅雄に「落ち着け」と合図を送っているようだった。
「そうなんですよ、僕、いざとなると意気地がなくて。ははははは」
くっそ、ぶん殴ってやりたい――。
ぎこちない低い声を、寅雄は無理矢理どうにか喉から絞り出した。どうやっても、楽しく話せない。
「婆さんが入院してから一度も行っとらんけ、はっきりと覚えとらんのう。もう五年も前じゃけ。あの婆さん、五年も入院してから。それでも文句ばっかり。わしの足が悪うなったのも、誰のせいじゃ思うとるんかいの」
そんとうな、死んだもんの愚痴なんか、聞きとうないわ――。
「奥様についてのお話は、後日『まぼろし』と一緒に伺います。で、お墓は、どの辺りに……」
平田爺さんの目は、相変わらずテレビを観ている。思い出そうと努力しているようには、全く見えない。
「んーー、確かあ、真ん中の奥のほうじゃったと思うがのう。法面のほう。石を積んだだけの、変てこりんな墓があるはずじゃ」
寅雄と新田が目を合わせた。
すると直後、バンという激しい音がした。奥の台所の扉が開けられたのだ。
寅雄と新田は、同時に背後を見た。引き篭もりの息子が、呆れ顔で立っていた。
「父さん、また、そんとうな適当なこと言うてから。墓は、右側にある。右側の松の下。母さんが嫌味のように自慢しとったじゃろうが『立派な松の下には立派な先祖』言うて」
「何が『立派な松に立派な先祖』だ。ふざけよって。わしは墓守なんか、せんぞ!」
引き篭もりの息子の声にも負けず、平田爺さんの目はテレビに向けられている。
『先祖』と『せんぞ』という文字を掛けている駄洒落か?――。
大きな鼻息が聞こえた。寅雄と新田は引き篭もりの息子の顔を見上げる。
「父さんは適当なこと言うて、遊んどるだけじゃ。とにかく、右側にある大きな松の下辺りを探してみ。出てくるはずじゃけ」
「すみません。できれば、スコップを、お借りしたいんですけど」
しゃーしゃーと戸惑う様子もなく、新田が引き篭もりの息子に、お願いをする。
「おお、ええで。裏の納屋の中にあるわ。好きなもん使えや」
くるっと向きを変え、引き篭もりの息子は再び台所に戻った。バンと扉が閉まる音がした。
寅雄と新田は、むくっと立ち上がった。平田爺さんの顔を見る。
「平田さん、道具、借りますね。僕が遣り遂げるまで、倉田不動産とは一切、話をしないでくださいよ! 二週間、猶予があるんですから! おい、新田、行くぞ」
「ほう、その方は新田さんというんですか」
新田の足が、ぴたりと止まった。玄関に向かっていた体をそのままに、新田は頭だけ動かした。
「前、うちに、来んかったかいのう。確か、倉田不動産の社員じゃったと思うが。ふふ」
平田爺さんは新田を覚えていた。予想以上の記憶力だ。
「こいつ、勤めてませんよ。ネット難民ですから。だから、こんとうに汚いんです」
「ネット難民……最近、ようテレビで取り上げられよるのう。ええのう、そういう自由な生活」
平田爺さんは、テレビっ子らしい。新田は苦笑いを浮かべた。
靴下のまま玄関に下り、シューズを突っかけて新田は外に出た。新田の後を追って、寅雄も靴下のまま玄関に下りて、シューズを突っかけた。