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犬も舞う地  作者: ひらり
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土地は、誰にもわたさん!

第三章 土地は、誰にもわたさん!


          一

 マンションの八階のベランダに両肘を付き、寅雄は両掌に顎を載せた。目前の道を挟んで連なるように建てられた高層マンションの明かりを、眺望する。

 五月の夜の風は心地よい。だが、寅雄の心は、すでに入梅である。

「色んな色の窓があるのう。蛍光灯のせいかの。それとも、カーテンかの」

 寅雄は大きく溜息を吐いた。昨日、会った平田親子を思い出す。

「それぞれの家庭に、それぞれの事情か。わしには、わしの事情があるわ。あーあ、百二十坪の土地、欲しいのう。美奈子ちゃんはマンションじゃ、納得してくれそうもないし。土地付きの一軒家でないと、ベンザイも飼えんしのう。他の土地を探すほうが賢明かのう。金の問題も大きいが、平田家も気色悪い」

 両掌から顎を落とし、寅雄は俯いた。

 ピンポ〜ンとインターホンが鳴った。新聞紙を口に咥え、ビリビリと千切って遊んでいたベンザイの動きが、はっと止まる。

 リビングに掛けてある時計の針は、十時を指していた。

「誰じゃ、こんな時間に?」

 寅雄はインターホンを握った。

「はい?」

「おれおれ、おれおれ」

 新田の、ふざけた声だ。寅雄のマンションのインターホンにはカメラが付いていない。だが、新田に間違いない。訪ねてくるのは、新田と怪しい訪問販売くらいなのだから。

 寅雄は一瞬、顔が緩んだ。話を聞いてくれそうな相手が戻って来た。

 顔を緩めながら、寅雄は低い声を故意に出す。

「なんじゃ、お前、二度と会わん、言うたじゃろうが」

「リュック、坂下さんの部屋に置きっぱなしにしとったけ、取りに来たんですよ」

「捨てたわ、あんとうな、何が付いとるかわからんもん」

「そんな、月から持って来た、わけじゃないんだから」

「お前のう、自分が必要になったら電話してこいって、わしには言いながら、自分から、わしの所に戻ってきよるじゃろうが」

「帰省本能ですよ。あっ、後ろに行列ができた。早う、エントランスの鍵を解除してくださいよ」

 仕方なく、ではなく、待ってましたと、寅雄はエントランスの鍵を解除した。

 数分後、玄関のインターホンが鳴った。寅雄は、すんなりとドアを開けた。

「なんか、嬉しそうですね、坂下さん」

 気が緩んでいたのか、寅雄は顔が緩んだままドアを開けてしまったようだ。

「わしが戻ってくるの、待っとったとか。だったら電話してくれれば、ええのにぃ」

 新田は紐を解かず、投げ捨てるようにシューズを脱いだ。シューズが裏返る。

 ベンザイがブンブンと尻尾を振って新田に飛び付いた。

「ベンザイ、元気じゃったか? 悪戯をいっぱいしたったか? ん? そんとうに、尻尾を振ったら、もげるで」

「よーし、よしよし」と、ムツゴロウさながらに新田がベンザイの首を、引っ掻くように摩る。

 自分以外の人間にベンザイが喜んで飛び付いている。寅雄の心に妙な嫉妬心が湧いた。

 ベンザイの背後から、寅雄は黙って、ひょいとベンザイを抱き抱えた。

 両前足を新田に伸ばし、ベンザイは体をくねくねと曲げ、後ろ足をバタつかせる。寅雄はベンザイの動きを無視して、リビングに入った。

「リュック、お前のリュック、テーブルの下」

 ぶっきらぼうに、寅雄は顎でテーブルの下を指す。

「もう、坂下さんが変な所で、わしを車から降ろすからですよ」

「わしが悪いんか。お前が要らんこと、ばっかり言うけえじゃ」

 しゃがんでリュックをテーブルの下から引っ張り出す新田の背中を、寅雄は見下ろした。

 今すぐ、平田家の謎を話したい。土地を諦めるべきか、相談したい。

 だが、大人気ないだろうか。せっかちな奴だと思われないだろうか。寅雄の小さなプライドが頭を横切る。

「どうでした? 爺さんの弟に会いました? 大野の工場の辺りに住んどったんでしょ? わしの後輩が言いよりました」

 新田は、勝手に新田の携帯電話に出ていた寅雄を、責めなかった。それどころか、さらりと寅雄に話すチャンスを与える。まるで、寅雄の気持ちを見透かしているかのようだ。

「お前、昨日は、どうやって帰ったんじゃ?」

 とりあえず、寅雄は余裕を見せる。今にも喉から滝のように流れ落ちそうな言葉を、塞き止めて。

「ヒッチハイク。大型トラックに乗せてもろうた。ピカピカの金髪の可愛いお姉ちゃんが運転しとった」

 あっそ――。ここまで余裕を見せれば十分だ。

「爺さんの弟には、会えんかった。家までは突き止めたんじゃが、数年前から行方不明らしい」

 低い声で、しかも、意味ありげに寅雄はゆっくりと言葉を出す。

 しゃがんでいた新田が立ち上がった。

「死んだんじゃなくて、行方不明? あの歳で? 事故に遭って、死体が発見されとらんだけ、とか?」

 新田はリュックサックをテーブルの上に置いた。眼鏡の下の目は、大きく見開いている。

 がっちりと寅雄の話に、新田は食らい付いていた。

「よう、わからん。嫁さんも二日前に、ホームセンターで倒れて亡なっとる。近所の人には、旦那については話しとらんかったらしい」

「捜索願は?」

「出しとらんのんじゃないんか? よう、知らん」

 新田は、目を瞬かせた。視線を床に落とし、小さく口を開く。

「もしかして、旦那の居場所、知っとったんかの、その死んだ婆さん」

「さあ、どうかの。自分で殺したんかもしれんで。それか、自殺したか。婆さんは夜中でも、爺さんに、おらびあげよったいう話じゃ。近所の人が言うんじゃけ、かなりの大声じゃったんじゃろう」

「八十歳過ぎの爺さんが、自殺するかのう」

 暴れ続けるベンザイを抱いたまま、寅雄はソファに腰掛けた。ベンザイがかじって開けた穴に、左手の人差し指を突っ込む。

「引き篭もりの息子にも会ったで、昨日。全然、引き篭もりには見えんけど」

「え? 出て来たんですか? どんな奴でした? やっぱり、オタク?」

 新田の顔を寅雄は、凝視した。

「いや、爽やかなスポーツマンタイプ」

 絶対に、違う――。

「それよりも、わしのう、あの平田一族が気持ち悪いけ、他の物件を探そうかと思っちょる」

 新田が、どう反応するか、寅雄は観察しようとした。

 心底では寅雄は、新田にもっと協力してほしかった。百二十坪の土地を手に入れる手助けを望んでいた。だが、寅雄の気持ちは、見事に裏切られた。

「『犬神家の一族』ではなく『平田家の一族』ですか。なんか、迫力ないのう。そうですか。面倒な状況には巻き込まれとうないですもんねえ。それも、いいかも」

 寅雄の腕で縛り付けられていたベンザイを、新田は寅雄の右手から、やすやすと奪った。新田もソファに、どすんと腰掛ける。

 願いが叶ったベンザイは、べろべろと新田の顔を舐める。

 願いが叶わない寅雄は愕然とした。一瞬にして怒りが腹の底から湧いてくる。

 むくっと寅雄は立ち上がった。新田を睨みつけ、ベンザイを奪い返す。

「なんなんや、その、他人事のような態度は。調子のいいことを言うだけ言って、知らん振りか? ここまできて、放置プレーか? 無責任じゃ!」

 寅雄の唾液のシャワーが、新田の顔に降り注ぐ。

「何で、逆ギレしてんですか? わしは坂下さんの意見に賛成したんですよ。全て否定されたら、気分良くないじゃろ? これでも気を使ったんじゃけど」

 軽く鼻から空気を出し、新田はソファの背凭れに、べったりと背中を付けた。

 数秒、沈黙状態になってしまった。

 寅雄は、新田の正論に反論できない。新田の額を上から睨み続けるしか、プライドを保持できなかった。

 正面を向いたまま、新田が、にんまりと微笑を浮かべた。

「坂下さん、あの土地、欲しいんでしょ、本当は。だったら、そんな他人を試すような言い方、せんほうが、ええですよ。素直が一番。子供っぽい表現かもしれんですけど」

 悔しいが、今は新田の言葉を素直に受け入れるしかない。頼れるのは新田だけなのだから。

 寅雄は口を尖らせ、口先を動かした。

「ああ、あの土地、欲しいわ。爺さんも引き篭もりの息子も、売る気はあると言いよった。じゃが、弁護士が連れてきた不動産会社も、あの土地を狙うとるらしい。不動産会社の条件以上に金を払えれば何とかなるんじゃが。それに爺さんらも気味が悪いし……」

 寅雄の態度は、ぐずぐずと煮え切らない。

 新田の両眉が、ひょこっと上がった。

「金か。そりゃ、欲しいじゃろ。わしでも欲しいわ。坂下さんなら、なおさら欲しかろ。できるだけ、安う、買いたいですよのう」

 新田は消費者金融から寅雄が金を借りている失態を、遠巻きに言っているのだろう。名誉挽回のために、いや、弁解をするように、寅雄は言葉を流し出した。

「わしが、消金から金を借りるのは、しょうがないんじゃ。美奈子ちゃんは、マニアじゃけ、広島のデザイナーが経営する店舗とかで服とかバッグとか買いたがってから。まあ、元『ミス・もみじ』じゃけ、そういう知り合いも、えっとおるわけよ。そういう店じゃ、カードなんか使えん」

 元『ミス・もみじ』を強調して、寅雄は鼻を、やや高めに上げた。

 目を細め、新田は寅雄に抱かれたベンザイを見詰めている。だが、目はベンザイに向けられていたが、目の端に映る寅雄の顔を睨んでいるように見えた。

「そんなこたあ、どうでもええんですよ。坂下さんに、やる気があるかどうかが重要なんですわ。『爺さんの、あの土地でないといけん』ちゅう、ベクトルが同じ者が手を組まんと、進まんですけ。途中で投げ出されても困る」

「ベクトル? お前、まさか百二十坪の土地を折半しようとか言うんじゃなかろうのう。仕事を休んでまで、わしの土地獲得にボランティアで協力するのは、妙じゃ。前々から思うとったが」

 寅雄は暴れるベンザイを、怒りの感情から、さらに締め付ける。

「ベンザイが嫌がってますよ」

 ベンザイから天井に視線を移動させ、くるっと新田は足元を見た。

「まあ、こっから先は別行動ということで。わしも他の手段を考えますわ。坂下さん、腰抜けのようですし。逃げ道は、えっとありますけえの。冷静に考えれば、坂下さんは別に爺さんの土地に拘らんでもええのも事実じゃ」

 すくっと新田は立ち上がった。身長の低い寅雄を見下ろす。

「言っときますけど、わしは土地は欲しゅうはないですけ。そこんとこは、理解しとってくださいよ。『ミス・もみじ』とお幸せに」

 ベンザイの頭を、新田は乱暴に撫でた。「ふっ」と失笑する。

「お前も不幸じゃの。便秘薬みとうな名前、付けられてから」

 さっと寅雄は新田に背を向け、新田からベンザイを隠した。

 テーブルの上に置いたリュックサックを肩に掛け、新田は玄関へ向かった。

「おい、ちょっと待て! お前の目的は、一体全体、何なんや」

 寅雄は新田の後を追う。だが、新田は動きを止めない。裏返ったシューズを足で戻し、足を捻じ込む。

「不動産会社が狙うとる、いうんなら、そっちを当たってみます。わしは、あの土地でないと絶対いけんのんじゃけ」

 ドアを開け、新田は寅雄の部屋から出た。

「待て、待っててば、弁護士と手を組む、いうことは、わしを敵にするいう……待てよ……」

 止める寅雄の声を遮るように、ドアはバタンという大きな音を立てて閉まった。

 寅雄は靴を突っかけるのも忘れ、靴下のまま玄関に下りていた。だが、新田の気迫に負けた。ドアを開けて追いかける気には、なれなかった。

「クゥ〜ン」

 寅雄に抱かれたベンザイが、切なそうな声を出す。寅雄はドアから視線を、ベンザイの垂れた目に移した。

「新田が出て行ったけえ寂しいんか? それとも、わしを哀れんどんか? どっちも嫌じゃのう」

 寅雄は大きく深呼吸した。ベンザイが寅雄の胸部の動きに合わせ、前後に動く。

「わしは、どうしたら、ええんかのう。ああ、結婚したい……」

 情けない呟きをベンザイの耳元で、寅雄は漏らした。

          二

 平田爺さんと、平田爺さんの引き篭もりの息子と会って三日が経っていた。

 寅雄はいつもどおり、『まぼろし』を準備しようとした。職場である事務所から、地下の酒売り場に電話をする。

「ちょっと、待てよ」

 売り場の店員が出るか出ないかのタイミングで、寅雄は電話を切った。

 やすやすと、全て思い通りにさせてたまるか――。今回は子供じみた反撃をしてやろうと、寅雄は企んだ。

 再び地下の酒売り場に電話をする。甘口の『まぼろし』に対抗して、辛口、一升で『まぼろし』よりも安価な酒である『誠鏡』を頼んだ。

「ふん、何が『一升瓶は持てん』よ。あんな、筋肉隆々の息子がおるくせに。額に『肉』って書いたら、『筋肉マン』じゃ」

 だが、こざかしい反撃は思いついても、平田婆さんが土地の管理を依頼していた弁護士と、仲間である不動産会社に対抗できるだけの名案は、浮かんでいなかった。

「あーあ、わしには相談できる相手がおらんのう。今までの人生の集大成かのう」

 机の上に、寅雄は、ばたりと伏せた。

 寅雄の頭上で電話が鳴った。派遣社員が取る。

「はあ、はあ」と派遣社員は電話に向かって反応していた。寅雄は、むくっと顔を上げる。

 派遣社員が目を細め、頭を傾けてていた。受話器の向こうには不審人物がいるようだ。

 保留ボタンが押され、電話機の外線のランプが赤く点滅する。派遣社員が寅雄を見た。

「あの〜、平田さんって、坂下さんのお客さん……でしたよね」

「爺さん……じゃない、平田さんから? じゃあ、出るわ」

 机の上の書類を押しのけ、埋もれかけていた電話機に寅雄は手を伸ばす。

「いや、あの、ちょっと待ってください。それが、平田さんの弁護士さんという方からなんですよ。平田さんが坂下さんの名前を、ド忘れしてしまったようで」

「弁護士?」

「ええ、ほんまに弁護しか! お前は! って突っ込みたくなるくらい、ぶっとい声で横柄なんですよ。『平田さんの香典返しを担当したもんは、誰じゃったかいのう』みたいな。ヤクザですよ、ヤクザ。どうします? 居留守、使いますぅ?」

 ごくりと寅雄の喉が鳴る。

 なぜ、弁護士。なぜ、なぜ、なぜ――話したい、だが、丸め込まれそうで、怖い。

「坂下さん、どうしますぅ?」

「出る、出る。もう、お香典返しは済んどんじゃけどのう。請求金額、間違えちゃったかなあ」

 派遣社員の顔が強張っていた。よほど寅雄の顔が不自然だったのだろう。

 精一杯、何食わぬ顔を装い、寅雄は受話器を握った。

「お待たせいたしました。坂下です」

「坂下さん? 平田さん、坂下さんで合っとりますかいの?」

 受話器の口を押さえず、弁護士らしき男は平田爺さんに確認をしていた。

 声の主は、即座にわかった。寅雄の顧客の一人、笹原弁護士だ。寅雄より二歳年上である。細身の淵なしの眼鏡を掛けた、一見、神経質そうな痩せ型の小柄な男である。

 だが、性質は、弁護士にもかかわらず、そこら辺のヤクザ以上に悪い。

「坂下さんですね。私、平田三次さんの奥様の財産管理をしております、弁護士の笹原と申します。まあ、年に二回、お中元とお歳暮の時期に会うとりますよのう」

「ええ、今年のお中元も宜しく、お願いいたします」

 いつも通り、ヤクザのような荒い話しっぷりだ。派遣社員の物真似が微妙に酷似している。

「あの、ご用件は……」

「今日、平田さんの自宅に来られるということですが、何時ごろになりますかいの」

 ふと、寅雄は事務所の壁に掛けてある大きな電波時計を見た。針は午後一時十七分を指している。

「僕の予定では、これから客先に行きますので、四時過ぎになるかと思いますが」

 本当は、暇で今から出ても問題はない。だが、寅雄には心の準備が必要だった。

「四時ぃ?」

 語尾を強く上げ、笹原弁護士は挑戦的な反応をした。

 そっちが、都合を聞いてきたくせに――。恐れながらも、寅雄は心中で反論した。

「そちらの、ご希望は何時でしょうか?」

「あののう、わしは今、ここにおる。平田さんの家に。わしにも色々と都合ありますわ。それくらい察してもらわんと。今すぐ出て来れんですか」

「それならそうと、先に言え」という言葉が、寅雄の喉の奥で止まる。

「そうですよね、申し訳ございません、気付きませんで。かしこまりました。これから向かいます。二時前には伺いますので」

「二時ぃ?」

 笹原弁護士の語尾が上がる。二時でも遅いと言わんばかりだ。

 どう考えても、二時前が、やっとじゃろうが――。

「できるだけ早く着くように努力しますので。では、後ほど」

 相手の電話が切れる音を確認する前に、寅雄は電話を切った。すぐ、地下の酒売り場に電話する。

「すみません、先ほど『誠鏡』を頼んだんですが、『まぼろし』に変更してください。それと、一升ではなく七百二十を二本で。すぐ、今すぐ準備してください!」

 履いていた健康サンダルを脱ぎ、寅雄は革靴に足を突っ込んだ。椅子の背凭れに掛けてあった上着を、引っ手繰るように掴む。

 爪先をトントンと床に当て靴の中に足を入れながら、寅雄は、ふらふらと走ってエレベーターへ向かった。

          三

 平日の裏道は営業車で混雑していた。

 BMWで、ひたすら走り、寅雄は、やっとの思いで平田爺さんの家に着いた。

 オメガの腕時計を覗く。最悪だった。二時十三分になっていた。

 平田爺さんの家の前には、白いベンツが駐めてあった。笹原弁護士のベンツに違いない。

 寅雄は、ベンツの後ろに、ちょこんとBMWを駐めた。

 気を引き締め、寅雄はBMWから颯爽と降りた。手土産の『まぼろし』の入った紙袋を、これ見よがしに少し大きく振りながら、玄関へ向かう。

 敵は、窓から覗いているかもしれない。少しでも、気が抜けない状況だ。

 思い切って、寅雄は呼び出しベルを鳴らした。

 すると、いつもとは違い、家の中から、どすどすという足音がする。

 がらりと玄関の引き戸が開いた。笹原弁護士だ。細く吊り上った目が、さらに糸のように細くなっている。

 笹原弁護士はスケスケの黒のストッキングのような靴下のまま、玄関に下りていた。

 気持ち悪い、悪趣味――。寅雄は心の中で呟く。

「遅いじゃ、ないですか、坂下さん。二時前には来れる、って言いよりましたよね。二時前って何時何分のことですか?」

 相変わらず嫌味な奴だ――。寅雄は、ほんの少し反撃を試みた。

「申し訳ございません。急いで運転はしたのですが、渋滞しておりましたし、法定規則通りに車を走らせていましたら、こんな時間に」

「こっちも、仕事があるんですよ。もう、本当は事務所に帰らんといけんのに。顧客が呼んどるときは、法定規則なんか守っとる場合じゃなかろう。覆面パトの、くるくる回るランプを車の上に付けて、警報鳴らしながら走るくらいの気合がないと、お話にならんですわ」

 やれるもんなら、おのれが、まずやってみいや。弁護士のバッヂ、付けて。それに、もう爺さんは顧客じゃあ、ありゃあせんよ――。

「早う、中に入りんさい」

 笹原弁護士は、顎で家の中を指した。くるっと寅雄に背を向け、さっさと、家に上がってしまった。足の裏に付いた砂を、廊下に落としながら。

 玄関には、革靴が三足、綺麗に並んでいた。笹原弁護士と、もう二人……不動産会社の社員の靴だろう。

 とりあえず、話を聞いて作戦を考えればいい。今日中に返事が必要なら、オークション大会になっても、致し方ない。

 寅雄は頭の中で電卓を叩く。自分の少ない給料、膨れ上がる借金、当面の生活費……。多少の無理は覚悟の上だ。

 玄関横の、いつもの部屋へ向かう。笹原弁護士の細い首から部屋を覗いた。平田爺さんが、いつもの座椅子に座って嬉しそうに酒を啜っていた。もちろん、あの汚いコップで。

 置かれていた一升瓶のラベルを寅雄は見る。銘柄は『賀茂泉』であった。

 一升瓶に『賀茂泉』か。爺さんの拘りを知らんのう――。

「座りんさいや」

 なぜか、笹原弁護士が寅雄に座るよう勧める。

 いつものテレビの前に腰掛けようと、寅雄は右側を見た。寅雄の口が、あんぐり大きく開いた。

 寅雄の口は、ぱくぱくと酸欠の金魚のごとく動く。声を出したいが、出せない。

 右側にバーコード頭の見知らぬ男。左側には、なんと、薄ら笑いを浮かべた新田が正座しているではないか。

 寅雄は歯を食い縛り、酒が入った紙袋を持つ掌を、ぐっと拳にした。

 本来ならば、新田の胸倉を掴んでいるところだ。

 新田は、髪の毛をオールバックにし、眼鏡も知的そうな金縁にしている。数日前までは、青色の縁の、ふざけた眼鏡を掛けていたくせに。

「あれ? 田中さんとお知り合いですか? 坂下さん」

 頬を、ひくひくと動かしている寅雄の顔を覗き込み、笹原弁護士は質問した。

 田中、だとぅ――。

「いえ、僕の知人に、よく似ていましたので。まあ、さほど親しくもなかったのですが。でも、違うようです。僕の知人は、もっと下品な、おちゃらけた風貌の奴でしたから」

 寅雄は笹原弁護士に向かって毒を吐いた。もちろん、毒を撒かれたのは新田である。

 四十歳過ぎの顔が、平田爺さんのごとく皺くちゃになるのを覚悟して、寅雄は「これでもか!」と言うくらいの笑顔を作った。

「平田さん、いつもの『まぼろし』です。七百二十を二本、持ってまいりました」

「いつもの『まぼろし』」という言葉を寅雄は強調し、平田爺さんに『まぼろし』の入った紙袋を差し出した。

 ぎょろっと平田爺さんは紙袋を見た。目が徐々に三日月形になっていく。

「今日は、仰山、酒が来てくれてから。今夜は、寝れんのう」

 酒が来たのではない。酒は持ってこられた、いや、持ってこさせられたのだ。平田爺さんにとって来客の存在など、二の次のようだった。

「いつもどおり、すぐ飲めるように『まぼろし』を出しましょう」

 平田爺さんの横に座り、寅雄は袋から酒を二本、取り出した。さも、親しい仲のように。

 がさごそと寅雄が『まぼろし』を箱から出していると、笹原弁護士が口を挟んできた。

「平田さん、土地の話を、しましょうか」

 寅雄は酒の蓋を開ける。寅雄は笹原弁護士を、故意に視界に入れなかった。

「坂下さん、ここにいらっしゃる方は、倉田不動産の倉田社長と田中さんです。まあ、だいたいのことは、ご察しでしょ。坂下さんが欲しがっている土地を、倉田不動産さんも欲しがっている、っちゅうわけですわ」

 かなり忙しいのか、笹原弁護士の語気は鋭く、早い。無駄話は一切しない、というオーラをギラギラと放出している。

 いつから、新田は田中になり、倉田不動産の社員になったのか。

 ゆっくりと寅雄は二本目の『まぼろし』に手を伸ばした。

 すると、いきなり、未開封の『まぼろし』を横から奪い取られた。奪い取ったのは、田中と名乗る新田だった。

 口は閉じられているが、口角が微妙に上がっている新田の顔は、寅雄に薄気味悪さを感じさせた。寅雄が知っている新田とは、重なる部分が全然ない。

 手に何も持たないという状況は、こんなにも、人の心を不安にさせるものなのかと、寅雄は思った。手元にあった炬燵の布団を両手で、がっちりと握る。

 こうなったら、戦ってやる――。

「で、坂下さん、おたくは、幾らで買うつもりですかいのう」

 右斜め前に座る笹原弁護士を寅雄は見た。笹原弁護士は腕を組み、右手の中指を、とんとんと上下させていた。

 薄っすらと寅雄は笑ってみせた。

「それは、言えんですわ。僕は平田さんと話をして、平田さんに決めてもらいたいのです。物を買うときは、営業をする者が信用できる人物と思えば、同じ物が多少は高くても、購入してもらえるということもあります。今回は、その逆です」

「わしは、金が欲しい」

 いきなり、平田爺さんが直球の一言を述べる。ストライク、バッター・アウトである。

「坂下さん、平田さんは金が必要なんじゃ。そんな、生ぬるい発想はない」

「ですが、僕から金額を言うのは、どうかと思います。僕は個人で買うわけです。そちらは会社で購入して、転売するつもりなんですよね。僕は、あの土地で暮らしたいのです。売るつもりもないわけですから、買う段階で安く手に入れたいと思うのは当然でしょ」

「こちらの倉田不動産が土地を造成し、あそこには共用の道を入れて、二軒の家を建てる計画を建てとってじゃ。そのうちの一軒、格安で購入というのは、どうじゃ」

 いきなり、結論かよ――。

 百二十坪の半分の六十坪、うち数坪は共用の道。百二十坪の土地に夢を抱いていた寅雄には、ありえない話である。

「そちらの売り上げに貢献ですか。冗談じゃねえ、っつううんだよ。これじゃあ、話し合いになっとらんじゃろうが」

 低い声で寅雄は、ぼそぼそと独り言のように呟いた。

「ぐぐっ」と、蛙の鳴き声が寅雄の右側から聞こえた。くるっと寅雄は右を向く。

 新田が下を向き、笑い出すのを必死に堪えていた。

「ほんま、笑えますよのう。そんとうに血の気が多いと、温和な話し合いは無理ですわ。いい年こいて。はははは」

 下を向いている新田に合わせて、笹原弁護士が豪快に笑った。釣られてバーコード頭の倉田社長も笑い出す。

 むくっと寅雄は立ち上がった。右足を一歩、大股で出す。新田の胸倉を両手で掴んだ。

「おい、何が、おかしいんじゃあ」

 新田が寅雄を見上げた。目に涙を溜めて笑っている。

「ぼっ、暴力は、いけんです。暴力は。DVですよ、DV」

 笑いながら、新田が両手を挙げる。

 ぐっと寅雄の頭が掴まれ、ぐるっと勢いよく左側に向けられた。笹原弁護士が寅雄の頭を、開けにくいジャムの瓶の蓋を捻るがごとく捻っていた。

「暴力を振るうんですかあ? 出るとこ、出ても、ええんですよ。坂下さん! そのほうが、こちらとしては手っ取り早いんですけどねぇ」

 笑う新田の胸倉を、怒りに任せて掴む寅雄。その寅雄の頭を力尽くで捻り、脅しを掛ける笹原弁護士。男の妙な三連ができあがっていた。

「ふふ、面白いのう。拗れあげとって」

 平田爺さんの声は、愉快そうだった。ずるずると熱くもない酒を啜る音がする。

「平田さんの土地のことですよ。まるで他人事のようじゃないですか。こんとうに柄の悪い連中の言いなりに、なるんですか!」

 寅雄は笹原弁護士を睨みながら、平田爺さんに声だけで迫る。

「喧嘩は面白い。相撲みたいに、決まりごとに縛られとらんけえのう。へへ」

「平田さん! 意味わからんこと、言わんでくださいよ」

 ちらっと寅雄の目が平田爺さんを見ようとした。だが、固定されている頭の位置が悪いせいで、爺さんの姿が寅雄の視界に入らない。

 にたっと笹原弁護士が笑った。寅雄は新田から両手を離した。頭上に置かれた笹原弁護士の手を払い除ける。

 相変わらず新田は「ひーひー」と裏返った声を出しながら笑っていた。

 再び寅雄は、平田爺さんの隣に、胡坐をかいて座った。

「まあ、事を荒立てるような真似は、お互い、せんようにしましょうや。倉田不動産が建てた家を購入する案、悪うないと思いますがの。個人でやると大変ですよ。法的な手続きとか、色々とありますけえ」

 笹原弁護士は、座ったまま顎を突き出していた。極細の目は閉じているのか、開いているのか、さっぱり、わからない。

 寅雄が反論すれば、その言葉に反撃するための言葉が、既に笹原弁護士の口の中には含まれているようだった。

 とにかく、今日は、うやむやで終わらせたい。だが、寅雄の頭には、方法が浮かばない。

 角に追い込まれた子鼠の気持ちが、寅雄は痛いほど理解できた。

「わし、喧嘩が見たいのう」

 またまた平田爺さんが、理解不能な言葉を吐く。

「喧嘩なら、色んな方法がありますわ。わしは、法律が専門ですけ、法律を武器にしてでなら喧嘩できますが、どうですか。ええ弁護士、紹介しますけ、坂下さん、戦わんですか」

「おたくが紹介する弁護士なんか、どうせ悪い弁護士に決まっとる。負けさしたうえ、高額な報酬を要求するんじゃろうが」

「わしは、取っ組み合いが観たいんじゃ」

 何か、非現実的な言葉が、寅雄の左側から聞こえてきた。

 睨み合っていた寅雄と笹原弁護士が、同時に平田爺さんを見た。

「えっと、何かいのう。曙がやりよる。年末に」

 平田爺さんは、下唇にコップを当てていた。誰かが答えてくれるのを、待っているようだ。

「まさか、K-1、ですか?」

 恐る恐る、寅雄は答えてみた。

「そうそう、ケイワンちゅうやつじゃ。ありゃあ男の勝負よのう。見応えがある」

「で、もしかして、僕たちに、その、K-1をやれと」

 笹原弁護士の右の瞼が、痙攣のごとく、ぴくぴくと動く。極細の目が、少しだけ太くなる。

 平田爺さんは、ずずーっと酒を口に含んだ。

 笹原弁護士なら、勝てるかも――。体が小さいながらも、寅雄は幼少の頃から柔道をやっていた。チャンスだと、寅雄の野生の本能が叫ぶ。

「やりましょう」

「何、言ってんだ。こんなの、冗談に決まっとるじゃろうが! 暴力で解決できるんなら、戦争反対なんて誰も言わねえんだよ! ねえ、平田さん」

 平田爺さんの目の高さより低い位置に、笹原弁護士は故意に顔を下げる。「勘弁してくださいよ〜」と、視線で平田爺さんに懇願しているようだった。

 焦る笹原弁護士を無視して、平田爺さんは目を瞑った。頭を縦にも横にも動かさない。K-1を観たい、と平田爺さんの瞑った瞼の皺が、物語っていた。

「じゃあ、K-1のチケット、プレゼントしましょうか?」

 苦し紛れの逃げ道を、笹原弁護士は作る。

 寅雄は眉を上げ、深呼吸、いや、溜息を吐いた。

「広島で、いつK-1が開催されるんですか? 相撲なら、一日巡業みたいなのがありますけど。開催地までの旅費も支払う……」

「出すわあや。倉田不動産を舐めちゃあ、いけんですよ」

「ほう、倉田不動産が出費すると。そりゃあ、そうですよね。いっくら、笹原弁護士が吠えても、金を出すのは倉田不動産ですわ」

 倉田社長を寅雄は、ぎろりと睨んだ。倉田社長の口は半開きになっていた。

 頭に薄っすらと載っているバーコードが、一束、てろんと額に垂れ下がっている。

 寅雄は吹き出しそうになった。だが、今ここで、うっかり顔を緩ませるのは、危険だ。

 平田爺さんがK-1が観たいという。次に旅費の話が出てくる。倉田社長の意見など無視した展開が、さっさと繰り広げられていた。

 さっきまで爆笑していた新田は、目を大きく開けていた。薄ら笑いを浮かべた口から「やる気ですか」と寅雄に語ってくるようだ。

「全額ねえ。介護付きで。もちろん、交際費ですよね。それとも、裏処理ですか」

「わしは、ここで酒を飲みながら観たい。生で、観たい。明日、朝十時から」

 え? 明日、朝十時? それは、また急な――。

 平田爺さんは空になったコップを、じーっと見ていた。だが、酒を注いでいる場合ではない。

 今は平田爺さんの意向を、絶対に無視してはならない。血の気の多い寅雄にとっては、手放せないチャンスなのだから。

「よっしゃ、決まりですねえ。僕もK-1、大好きです。早いこと、勝負してしまいましょう」

 しばらく、部屋の空気が、かちーんと固まった。

 固まった空気から、固まった笹原弁護士の声が聞こえた。

「坂下さんは、腕に自信がおありのようですのう。ここは……若い田中さんが出るということで、どうでしょう。倉田社長」

 しまった! そうか、金も体も倉田不動産か――。

 寅雄は、均整のとれた新田の裸体を思い出した。新田に視線を向ける。

「いいですよ。全力を尽くしますから。社長」

 躊躇する理由など、何一つないと言わんばかりに、新田は答えた。

「おお、さすがじゃ、田中君。会社のために頑張ってくれ」

 倉田社長の声は意外にも、きんきん甲高かった。えらく迫力に欠ける。

「一つ、お願いがあるのですが……」

 金縁眼鏡の下にある新田の目が、寅雄を見る。

「顔は、狙わないで下さいね。僕、顔には自信があるもんで。坂下さんの手が、僕の顔に届くかどうかは別ですが」

 にっと、新田は笑った。

 田中になっても、むかつく男じゃ――。

「ぼっこぼこにしてやるわ。人間は劣等感がないと、人に頭を下げるっちゅうことを軽んじるけえのう。その高い鼻、折れんようにカバーでも、しておけ」

 寅雄は立ち上がり、平田爺さんの脳天を見下ろした。

「平田さん、わし、頑張りますけ」

 平田爺さんに一礼をして、寅雄は平田家を出た。

 百二十坪の決戦の当日の朝八時、寅雄は洗面台の鏡に映る自分の顔を見ながら、ぼーっと歯を磨いていた。

 ベンザイが寅雄の周りを惑星のごとく、くるくると回っていた。

「お前は、ええのう。部屋中、しょんべんに糞、色んなもん齧りまくって、やりたい放題。今日、わしが戦うのも、お前のためでもあるんで。感謝せえ」

 リビングは、いつもどおり、悲惨な状況になっていた。見るのも、躊躇してしまう。

「あっ、そうじゃ、ベンザイ、お前も今日、爺さんの家に行くか? リビングも、めちゃくちゃじゃし……でも、邪魔かのう」

 尻尾を、ふんふんと振っているベンザイの顔を寅雄は凝視した。

 歯ブラシを銜えたまま、寅雄は、しゃがんだ。ベンザイの垂れ目を覗き込む。

「ベンザイ、行こうやあ。お前も外で遊びたいよのう」

 にんまりと笑った寅雄の口から、歯磨き粉が、たらーりと垂れ落ちた。

          五

 とうとう、百二十坪の土地を賭けた、決戦のときが来た。

 寅雄は膝上の赤いトレーニングパンツを履き、上半身は裸である。

 相手の新田はというと、ショッキング・ピンクのTシャツに、なぜか、膝まであるトランクス型の黄色い海水パンツを、身に着けていた。

「あいつ、バカじゃないんか。バカンスみとうな格好して。Tシャツなんか着とったら、すぐに襟を取られる。戦いを知らん男は、これじゃけ、いけんよのう」

 きょろきょろと寅雄は辺りを見回した。

「おい、そこの、バナナの浮き輪を持たしたら海辺のナンパ師。笹原弁護士は、来んのんか」

 ゆっくり左右に頭を動かしてから、新田が自分の顔を指差す。

「お前しか、おらんじゃろうが」

 オールバック、金縁眼鏡の新田は、寅雄から視線を外した。

「仕事があるんですと。で、何処で戦うんですか」

 確かに、まともに取っ組み合いができる広さなど、ない。二メートル四方の隙間が、家の裏にあるのが見えるくらいだ。

 だが、家の裏では、平田爺さんは観戦できない。どうするのだろうか。

 すると、目の前のガラス戸が開いた。倉田社長が、時折、バーコードの髪の毛を押さえながら、カーテンを束ねる。

「あのバーコード、スーパーでピってやったら、『糸こんにゃく五十八円』とかって出るんかのう。どうでも、ええけど」

 炬燵の、さらに奥には、座椅子に腰掛けた平田爺さんがいた。

 平田爺さんの右手は、やはり、コップを握っている。

「じゃあ、もう十時になりますので、始めましょう。平田さんもお待ちかねです」

 きんきん声の倉田社長が、大きな声を出した。

「何処で、やるんですか。ここじゃ、狭もうて、二人で立つと、もう動けれんですわ」

 寅雄は倉田社長に抗議した。

 寅雄と新田が立っている場所は幅、およそ五十センチ、横、およそ一メートル強。二人で組み合うと、道側の低木と家のサッシが体に当たる。低木の上に二人して倒れるしか、余地がない。

 想像しただけで、寅雄の裸の上半身が、ちくちくした。

 すると、平田爺さんが口を動かしているのが見えた。倉田社長が平田爺さんに近づく。

 くるっと倉田社長が振り返った。

「道でやれとのことです」

 寅雄と新田の動きが止まった。

 車が通るじゃろうが。ぶち、迷惑じゃし、恥ずかしいわ――。

「ここに生えとる木で、腰から下は全く見えんですけど、ええんですか? 技なんか見えんですよ。面白うないですよ」

 真後ろにある、低木を指差しながら、寅雄が念を押す。

「平田さんが、道でせえ、って言いよってんじゃけ、早う、やれ」

 どうやら倉田社長も、阿呆らしい、と思っているようだ。眉間に皺を寄せながら、野良猫を追い払うように、右手を、ぱっぱと動かした。

「あっ、じゃったら、車、移動させますけ。ちいと待っとって下さい」

 いいタイミング――。

 ぴったりと低木に、くっ付くように、寅雄のBMWは駐まっていた。

 寅雄はBMWを山手に前進させる。

 BMWから降りた寅雄は、後部座席のドアを開ける。キャリーバッグを開け、ベンザイを抱きかかえた。

「さあ、ベンザイ、ちいと遊ぼうか」

 忍者のごとく中腰になって、寅雄は低木に隠れながら素早く移動した。

 大きく口を開け、寅雄は山の中の澄み切った空気を、すーっと吸い込む。

 平田爺さんの家の玄関前で、抱えていたベンザイを手から離した。

「ベンザイ! ベンザイ! 車の中に戻れ! これから、わしは戦わんといけんのんじゃ」

 さも、ベンザイが車から脱走したかのように、寅雄は大騒動した。足を小刻みに動かしベンザイをけしかける。

 ベンザイは、すっかり寅雄の挑発に乗ってしまった。

 寅雄に追いかけっこをしようと誘うかのごとく、ベンザイは寅雄に尻を向け、走り出した。平田家の小さな庭へ突進する。

「ベンザイ! わし! わし!」

 新田がしゃがみ込み、両手を広げてベンザイに微笑んだ。微笑んではいたが、いささか、顔が引きつっている。

 寅雄以外にも遊んでくれる人がいると、てっきりベンザイは思ってしまったようだ。尻の高さは変えずに、前足を突き出し、顎を地面に付けた。

 タイミングを見計らって、ベンザイは新田の手を、すり抜けた。「ほ〜ら、こっちまでおいで」と、尻尾を振る。

 ガラス戸が開け放たれた平田爺さんの部屋に、ベンザイは飛び込んだ。

「ベンザイ! 入っちゃだめ! ベンザイ! せめて、足を拭け!」

 怪しまれないように、寅雄は大袈裟な演技をする。

 よっしゃ、ベンザイ、めちゃめちゃに、してやれよ――。

 しゃがみ込んでいる新田を「邪魔」と言わんばかりに思いっきり蹴り倒し、寅雄はベンザイの後を追った。急いで平田爺さんの部屋を覗く。

 ベンザイは炬燵の上に上り、一升瓶を倒す。

 さすがに、平田爺さんの、ぎょろ目の動きが止まった。

 即座にベンザイは炬燵の上からジャンプをする。次に狙われたのは、倉田社長だった。

 腰を抜かして尻を付いて座っていた倉田社長の上半身をベンザイは押し倒した。バーコード頭を大きな舌で、べろべろと舐めまわす。

 綺麗な直線を集結させていた倉田社長のバーコードは、多方面に向きを変えた。もはや、製作中の鳥の巣である。

 寅雄は平田爺さんに視線を向けた。

 平田爺さんは左手でコップを持ち、炬燵の上に置かれた板の上に、一升瓶から流れ出た酒を右掌で、掻き集めていた。

 なぜだか、薄っすらと平田爺さんの口が、気持ち悪い微笑を浮かべていた。ベンザイが暴れる姿を酒の摘みにしているようだ。

 一体全体、平田爺さんが何を考えているのか、寅雄には見当が付かなかった。

 いきなりベンザイが、ぴたりと動きを止めた。倉田社長の顔面に両前足を載せたまま、首を伸ばした。何かを察知したようだ。

 はっと、ベンザイは左側に姿を消した。台所に通じる廊下に出たのだ。

「ベンザイ! ベンザイ!」

 取りあえず、場繋ぎに叫びながら、寅雄は冷静に靴を脱ぎ、平田爺さんの家に上がった。

「平田さん、本当に、すみません」

 平田爺さんの顔を眼中に入れずに、寅雄は一言、取って付けたように平田爺さんに侘びを入れる。

 寅雄は廊下を覗いた。すると、台所の扉に向かって、ベンザイが「ウーウー」と威嚇していた。

「ベンザイ、どうした……」

 ワンワン! ワンワン!

 ベンザイが吼えた。珍しい光景だ。

 以前、平田爺さんの家にベンザイを連れてきたときがあった。車に残していたベンザイが吼えていたと言っていた、平田爺さんの言葉を、寅雄は思い出した。

 台所には、引き篭もりの平田爺さんの息子がいるはずである。

 もしや、あの時、平田爺さんではなく、引き篭もりの息子が、BMWに近寄っていたのではないかと、寅雄は思った。

 わしを偵察していたのか――。寅雄の背中に、不思議な悪寒が暴走した。

 ベンザイは、後ろ足の二本で立った。前足の二本でガリガリと扉を引っ掻く。見るみるうちに、古い木の扉に綺麗なベンザイの爪痕が派手に付いた。

「ベンザイ、ベンザイ、ほら、おいで。いけない子だなあ」

 故意に大きな声を出しながら、寅雄はベンザイを後ろから抱きかかえた。

 くるっと向きを変え、今度は階段の横にベンザイを置く。もちろん、平田爺さんがいる部屋から見えない位置に。

 ベンザイは背後にある台所の扉が気になっていた。

 だが、寅雄は二階へ上がるよう、両手でベンザイの尻を押す。

 尻の後ろにある台所が気になるベンザイは、頭を後ろに回し、ぴたっと、四本足を止めた。

 寅雄が尻を両手で押しても、ベンザイは一向に動かない。

「ベンザイ、どうしたんや、二階に上がってしまえ」

 ベンザイに寅雄は囁く。

 ワンワン! ワンワン!

 激しくベンザイが台所に向かって、吼え始めた。もう、どうにも止まらない。

 くるっと向きを変え、ベンザイは再び台所の扉に飛びついた。爪を立てて扉を引っかく。

 ガリガリ、ワンワン! ガリガリ、ワンワン!

「どうしたんですか、坂下さん!」

 平田爺さんの部屋から、新田が出てきた。固めていたオールバックが乱れている。

「いや、よう、わからん。とにかく、吼える……」

 バン! という激しい音と同時に「キャィーン!」というベンザイの悲痛な叫びが聞こえた。

 寅雄が振り返ると、明るい引き篭もりの平田爺さんの息子が、扉を開けて、どーんと立っていた。

 白いTシャツに、二十年近く前に流行ったカールおじさんのトランクス姿だ。寅雄も持っていた。

 視線を左下に落とすと、ベンザイの顎の白い毛が血で赤く染まっていた。勢いよく扉を開けられ、壁と扉に挟まれたようだ。

 ベンザイは、ふらふらと寅雄に近寄る。

「ベンザイ!」

 ふらふらのベンザイを寅雄は、急いで抱きかかえた。引き篭もりの息子を睨み付ける。

「なんや、お前、犬がおることわかっとって、力任せに戸を開けたんか。怪我することくらい、わかろうが! 引き篭もりなら、引き篭もりらしゅう、台所に閉じ篭もっとけや!」

「あれが、引き篭もりの息子、ですか? 爽やかなスポーツマンタイプ、じゃないじゃないですか」

 寅雄の左の耳元で、新田が質問と疑問をぶつける。

 会話で察しろと言わんばかりに、寅雄は新田を無視した。

「この戸はの、古うて力ずくで開けんといけんのんじゃ。家全体が斜めになっとるけえのう。だいたい、人が気持ちよう寝とる時間に来たうえに、犬まで家に入れて、どういう神経しとんじゃ」

「てめえのオヤジが、十時に来い、言うたんじゃ! K-1が観たい、言うて。あの百二十坪の土地を巡って戦えいうて!」

「K-1?」

 引き篭もりの息子は、Tシャツの裾から手を突っ込み、背中を掻きながら無理矢理バン! という大きな音を立てて、扉を閉めた。平田爺さんの部屋へ向かう。

 平田爺さんの部屋の引き戸の下に、ぐちゃぐちゃの製作中の鳥の巣頭がコロンと出ていた。まるで、さらし首が道に転がっているようだ。

 さらし首が目を丸くして、引き篭もりの息子を下から眺めていた。不気味すぎる。

 引き篭もりの息子が、倉田社長を一瞥した。

「ひーぃ」という、情けない、きんきん声と共に、倉田社長の生首は引っ込んだ。

 平田爺さんの部屋の引き戸を全開させ、引き篭もりの息子は鴨居に両手を掛けた。

「父さん、K-1には、猪木はおらんで」

「猪木?」

 寅雄と新田がハモッた。

「今日は、猪木が来る思うとったんじゃが」

 叱られた子供のように、もごもごと言い訳をする平田爺さんの声が聞こえた。

「猪木が……来る?」

 ベンザイを抱えたまま、寅雄は引き篭もりの息子の、脇の下から、ねじねじと顔を出した。

「平田さん、K-1? プロレス? 猪木? どれが観たかったんですか? その前に、百二十坪の土地を巡る戦いではなかったのですか?」

 ぎょろっと目を動かし、平田爺さんは寅雄を、さっと見て、コップを口に付けた。

「父さんは、猪木のファン。プロレスなんか最近、テレビじゃやらんじゃろ。じゃけえ、プロレスがK-1っちゅう名前に変わったとでも、思うとるんじゃないんか」

 平田爺さんは、ちろっと引き篭もりの息子を見て、再びコップに視線を向けた。

「わしは、百二十坪の土地のことは、なあんにも言うとらん。勝手に、そっちが勘違いしただけじゃ」

 寅雄の頭は呆然となった。

 引き篭もりの息子は、大きな鼻の穴から空気を出した。

「父さん、猪木には一生、会えんで」

 投げやりな言葉を吐いて、引き篭もりの息子は台所へ戻った。

 平田爺さんの下唇は、滑稽なくらい前に突き出ていた。

 ふと、ベンザイを寅雄は見た。顎から血を出しながらもベンザイはまだ、台所の扉に視線を向けて「ウーウー」と威嚇していた。

          六

 寅雄は、新交通の近くにある動物病院へ駆け込んだ。

 駐車場が五台分もあるにもかかわらず、動物病院には客は一人もいなかった。

「ベンザイ、大丈夫か? もう、美奈子ちゃんに、何て言うたらええんや」

 五十歳くらいの、ぽっちゃりした院長自らが受付に座っていた。どうやら、看護師さんなど雇っていないようだった。

「どうされました? あーあ、打っちゃいましたか。中にどうぞ」

 中に入り、診察台にベンザイを載せる。獣医の姿を観察して、ベンザイは伏せをした。寅雄には見せない、従順な姿だった。

 くっそ、人を選んで態度を変えるのか。犬社会はわかりやすいが、腹が立つのう――。

「はい、ちょっと押さえていていただけますか? あらら、切れてるね〜。でも、これなら消毒だけで大丈夫ですよ」

 普通、看護師がやるだろう、犬を押さえておくなんて。人件費削減ケチ獣医――。

「で、海で怪我したんですか?」

 獣医は、目を、左右に動かした。

 きりっと寅雄は左に目を動かした。

「お前が、そんとうな格好して従いて来るけ、疑われるじゃろうが、っつう前に、なんで、わしの車にお前まで、当たり前のように乗り込んで、ここまで来たんじゃ!」

 隣には、なぜか、新田がいた。急いで動物病院へ向かおうと、車に乗り込んだ寅雄を追って、後部座席に新田が勝手に滑り込んで来たのだ。

「坂下さんだって、上半身、裸ですよ」

「そんとうなこと、問題にしとらんわ!」

「消毒しておきましたんで、家に帰ったら、赤チンでいいんで、毎日、消毒してあげてください」

 寅雄と新田の口論を遮るように、のんびりした口調で獣医が口を挟む。

 新田を睨みつけながら、寅雄は獣医に質問した。

「すみません、先生、マキロンで、いいですか? うちには赤チンは置いてないんですよ」

「かまいませんよ、マキロンで」

 人差し指で、寅雄は新田の胸を押した。

「お前、こっから歩いて帰れよ。わしゃ、お前とは知り合いじゃないわ! あんの、平田の爺さんも、人を、こけにしやがって。何が、猪木が来るよ。ふざけんな、っつううんだよ。土地を売るつもりがあるんかどうか、さっぱりわからん」

「平田さんって、前の坂を上がった、寂しい所にお住まいの?」

 寂しい所は余計な発言である。が、当たっている。

 獣医の目が少し輝いていた。だが、他人様の噂をしては、獣医師としての威厳が保てないという心の格闘が、見え隠れする。

「まあ、ちょっと、色々と、ありまして」

 寅雄は瞬きを繰り返しながら、視線を泳がせた。寅雄は獣医に曖昧な返答をしたが、この獣医は何か知っていそうな気がした。

「平田さんの奥さんが亡くなられてから、相続の件で、たいそう悩まれとるとは聞いておりましたが。そうですか、土地を手放すんですか。ここら辺は、まだ田舎ですけ、そういう話も、何処からともなく、耳に入るんですよ。ちなみに、あの上にある土地を売るんですかの?」

 ベンザイを抱こうとしていた寅雄の動きが止まった。

 軽快に話をする獣医に寅雄は不信感を抱いた。だが、今の獣医の言葉は無視できない。

「何で、あそこの土地と思われたんですか?」

「これはー、あの土地を買おうと思っている人に話してはいけないような気がする」

 獣医は寅雄を、意味ありげに一瞥した。消毒剤を元あった薬品が入っている引き出しに入れる。

 なぜ、そんなに、もったいぶるのか。どいつも、こいつも、むかつく奴ばかりじゃ――。

こんな獣医を相手にしても、意味がない。

「先生、お金の清算してください」

「あれ? あの土地が欲しいんなら、予備知識として知っておいたほうが、いいと思いますよ」

 どうやら、獣医は土地について話をしたくて、居ても立ってもいられない、ご様子だ。

「何か、あるんですか?」

 寅雄が「な」の口の形を作ったとき、寅雄が出そうとした言葉を新田が発した。

 そろそろと獣医が寅雄と新田の側に寄ってきた。三人と一匹以外、誰もいないのに、獣医は小声を出す。

「あっこの土地は、平田さんは、どうにかして早いとこ手放したいはずなんじゃ」

「それって、ゴミ広場だから、ですか?」

 なぜか、新田も小声を出す。

「それだけじゃない、というか、あのゴミのおかげで、見えんようになっとる物がある」

 左腕にベンザイを抱え、寅雄は獣医の白衣の襟を右手で握った。

「おい、獣医さんよ、そんとうに、小出しにして楽しいんか? わしゃ、全く、楽しゅうない。肝試しみとうに、わくわくもせん! 早う言えや、おい!」

「わかった、わかった、わかりましたよ! あそこには、墓があるんですよ。随分昔の墓が」

「墓?」

 寅雄の声が裏返った。

「やっぱり……」

 寅雄の横で、新田が、ぼそりと落ち着いた声で呟いた。

          七

 動物病院を出て、寅雄はベンザイを後部座席のキャリーバッグに入れた。

 新田は、くるっと向きを変え、なぜか寅雄の背後を従いて来る。そんな新田を、寅雄は凝視した。

 黄色い海パン姿の新田が、懲りもせず、寅雄に頼む。

「何ですか、坂下さん。せめてバス停まで送ってくださいよ」

「新田、お前、百二十坪の土地に墓があること、知っとったんか?」

「墓? ああ、見当は付けとりましたけど、何か?」

「『何か?』じゃねえよ。墓があるって知っとったら、他の土地を探しとったわ。今までの、わしの苦労は、なんじゃったんかいの」

 ぶつくさと寅雄は不満を漏らす。がっくりと頭を垂らし、新田を責める気力も薄れていた。

「倉田不動産は、墓があること、知っとるような雰囲気でしたよ。はっきりとは聞いちゃあおらんが。墓があるいうことをネタにして、安く手に入れようとしとったみたいですわ。造成のときに綺麗にゴミと一緒に始末してしまえば、わからんようになりますけえね。近所の人の噂を客が聞く前に、さっさと売ってしまおうとしとったんでしょ」

 寅雄は口を歪めた。

「その、騙される客の第一号が、わしじゃったわけか、倉田不動産の思惑では」

 寅雄と新田の間に、重たい空気が流れた。騙そうとした相手と、寅雄は向かい合っている。滑稽な状況である。

「とにかく、墓が見える家も嫌じゃが、墓があった場所にある家も、嫌じゃ。別の場所、探すか……で、新田は、あの土地に拘とったよの。まさか、墓が目的か?」

「墓、墓……そうと言えば、そう。違うと言えば、違う」

「もう、ええわ。さいなら」

 運転席のドアを開け、BMWに乗り込んだ。エンジンをかける。

「ちょっと待って、ちょっと待って!」

 大きな掌で、ばんばんと新田が運転席のガラスを叩く。

 大きく溜息を吐きながら、寅雄はスイッチを押して窓を開けた。

「もう、お互い、用事ないじゃろ。帰りたかったら、タクシーでも拾うて、帰れ」

「坂下さん、物事は考えようですよ。ここに立っている、わしらの真下にも、色んなものが埋まっとるはずです。マンモスやら、色んなもの。市内の中心地なんか、まさにそう。被爆者の亡骸が、何処に埋まっとるかわからん。でも、必ず、自然に戻るようになっとるんですよ。幽霊なんか、わしは信じん。ほら、歌でもあるでしょ。『私の〜お墓の〜前で〜泣かないで下さい〜』」

「『そこに〜私は居ません〜』か? 墓があったら、人魂が出る。これ、日本の夏の常識。掘り返して、赤の他人の幽霊に恨まれたら、どうするんじゃ!」

 寅雄はサイドブレーキを解除した。

「ちょっと、待って! じゃあ、坂下さんは幽霊を見たことが、あるんですか?」

「ねえよ、そんなもん。ねえからこそ、余計に怖いんじゃ」

「じゃあ、この案件はいかがでしょう」

「何、プレゼン、しよん?」

「墓があるということは、墓石があるということですね。その墓石と真下の土を爺さんの山の一角に移すっちゅう手は、どうです? そうすれば、墓の守は平田一族に任せて、土地は綺麗さっぱり」

 目を細め、新田を寅雄は見た。

「そういうの、ありなわけ?」

「ありです」

 目を瞑って、新田は、うんうんと頷く。

「その前に、倉田不動産はどうするんじゃ。お前、いつのまにやら倉田不動産の社員になっとったじゃろうが」

「あの土地を手に入れる手伝いを、無償でするって言ったんですよ。だから、単なるお手伝いさん」

「わしのときと、同じ手を使ったんか。わしの弱みを知っとるとか、調子のええこと言うて。もう、どうするんじゃ、これから」

「わし、あの社長と弁護士、どうも好かん。爺さんも嫌いみとうなけ、あいつらには売らんじゃろ。それに、坂下さんのほうが、なんか、面白いわ」

 にんまりと新田が寅雄に微笑んだ。

 なぜか、寅雄の顔も緩んだ。「面白い」という言葉が、「寅雄はいい人」という言葉に聞こえた。

「乗れや」

「ありがとうございま〜す」

 新田は軽やかに大きく腕を振り、BMWの前を走った。後部座席に乗る。

 寅雄はルームミラーを覗き込んだ。

「おい、何で、後部座席なんじゃ」

「ベンザイの看病です。では、坂下さんの家までレッツゴー!」

「え! バス停じゃないんか! お前と珍道中なんか、嫌じゃ!」

「ベンザイに異変が起こったら、どうするんです? 元『ミス・かえで』に何て言い訳するんですか?」

「『ミス・もみじ』じゃ!」

 結局、新田は、再び寅雄のマンションに居候する事態になってしまった。


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