第二章
第二章 奇妙な平田一族
一
翌日、早朝六時半。寅雄はトイレを独占していた。
「坂下さん、わしもトイレ、行きたいんじゃけど」
新田がトイレのドアを、どんどんと叩く。
「煩い! ここは、わしの家じゃ。何処に、おろうが、勝手じゃろうが!」
平田爺さんが台拭きで磨いていたコップのせいだろうか、真夜中の一時から再々、腹が、きゅーっと絞まるような痛さに、寅雄は襲われ続けていた。
「じゃあ、わし、公園のトイレでも使いますけん、のんびりしてください。ちょっと出かけてきます。夜には帰ってきますけ。坂下さん、今日は仕事にならんでしょ。休んじゃったらええのに」
「爺さんの香典返しの手配をせんと、いけんのんじゃ。ええけ、早う、出えや!」
便座に腰を掛け、歯を食いしばり、寅雄は首を捻りながら口の端を、ぐーっとひん曲げた。
「わかりましたよ」
玄関に新田が移動する足音が数歩、聞こえた。
靴の爪先を、とんとんと床に当てる音と共に鍵が、がちゃりと開いた。ゆっくりとドアが開き、ばたりと閉まる。
「あんの、クソ爺めーーー! 今度、行くときは、腐った酒でも持って行ってやるう! うおっ!」
激痛の波が再来した寅雄は、便座に座ったまま、前屈した。
どうにか治まって小康状態になったところで、寅雄は内臓に時限爆弾を入れたような感じの腹を抱え、職場へ行った。
「坂下さん、大丈夫ですか? 落ち着いて仕事、できんでしょ。お昼から帰っちゃったらええのに」
隣の席に座る後輩の黒田に声を掛けられた。新田と同じことを言う。
「いや、やらんにゃあ、いけん、仕事があるんじゃ」
寅雄は尻を、もじもじさせながら、平田爺さんの香典返しの手配をしていた。
すると、バイブにしていた携帯電話が内ポケットの中で、踊り始めた。
「なんだよ、もう……あっ、美奈子ちゃん」
私用電話なら通常は廊下に出るのだが、今日の寅雄は腹の調子が悪いため、席を立つことができない。そのまま、小声で話すことにした。
「はい、坂下です」
美奈子に『できる男』をアピールするかのごとく、寅雄は腹を抱えながら、渋い声を出す。
「あっ、寅ちゃん? 今日、空いてない?」
いつも、美奈子は当日になって、会おうと言ってくる。
「いやあ、今日は仕事……なんです」
周りの耳を気にして、寅雄は丁寧な言葉遣いにした。
「ええー、寅ちゃんって、いつが休みだか、わかんな〜い。電話を掛ける、うちが馬鹿みた〜い」
休日は不定期なんだから仕方ないだろう、と思いつつ、寅雄には言えない。惚れた者の負けである。
「来週の月曜日でしたら、休みですが」
「月曜日? ちょっと待って。――あっ、私も休みだ。じゃあ十一時に迎えに来て。じゃあね」
幸か不幸か、短い電話で済んだ。
「坂下さん、美奈子ちゃんって、前、コンパした元『ミス・もみじ』?」
隣の黒田が興味津々の顔で、小声で問いかける。
「もう、盗み聞きするなや、人の話」
寅雄は苦痛な顔を、にまにまさせた。恐らく、奇妙な顔だっただろう。
「女子の中では、あの子、悪評ですよ。性格悪いって」
「そりゃあ、ブスの嫉み。女が良いと思う女が、男から見て良いと思うかどうかは別じゃろ? その反対」
寅雄は黒田の助言など無視して、平田爺さんの帳簿の整理を始めた。
だが、平田爺さんの香典返しの手配が終わると、他の仕事は全く手に付かなかった。
夕方から就業時間終了まで、寅雄は体を丸めて事務所で過ごした。
二
「夜には帰る」と言っていたにもかかわらず、新田が寅雄の家を出て三日が経った。
休みとなった月曜日。寅雄は朝から上機嫌であった。三週間ぶりの美奈子とのデートだからだ。
イベント・コンパニオンのアルバイトをしている美奈子も、休日が不定期であるため、なかなか時間が合わない、と寅雄は都合よく思っていた。
毎回のことだが、美奈子はデートの度に、寅雄が勤めるデパートに行きたがった。
今日は八階のペットショップへ行く。
「ねえ、ねえ、寅ちゃん、白いゴールデンレトリバーがおるよ。白なんて超珍し〜い。二ヶ月だって。かっわいいー」
美奈子はしゃがみ、一番下の窓を覗き込む。嫌な予感を抱きつつ、寅雄は腰を曲げた。
「珍しいね。あっ、あっちにハムスターがおるで」
ハムスターのコーナーを指差しながら、寅雄は美奈子の顔を見た。
予想通り、美奈子の目は何かを訴えている。
「寅ちゃん、この子、救ってあげて。だって、誰にも貰われなかったら、この子どうなるか、わかんな〜い」
美奈子は今にも、目に涙を浮かべそうである。
何気なく、寅雄は貼り付けられている値段を見ようとした。
「お願い! 寅ちゃん!」
美奈子は寅雄の目の前に、大きな眼をした自信満々の顔を近づけた。値段が見えなくなる。
そんなことを言っていたら、ここにいる犬ども、全匹を買わんにゃあ、いけんじゃろうが――と、思いながらも、美奈子に嫌われたくない寅雄には、反論できない。
「美奈子ちゃんの、お家に、いきなり連れて帰ったら、ご両親がびっくりするじゃろ?」
「何を言ってんの? うちは、お寺よ〜。この子は、寅ちゃんの家に行くのぉ」
美奈子は口を尖らせた。「ばっかじゃないのぉ」と言わんばかりの口調だ。
「わしのマンションは、ペット不可……」
「この子、大人しそうだから、大丈夫よ。妙なところで、肝が小さいんじゃけ。うちが寅ちゃんと会うときは、必ず、この子を連れて来て。ねっ!」
美奈子は、微笑み、首を左に傾けた。茶色い巻髪が揺れる。
可愛い――。
この犬のおかげで、美奈子と会う回数も増えるかもしれない。もしかしたら、マンションにも来てくれるかもしれない。
マンションのオーナーに犬の存在がバレないうちに、早く家を建てて引っ越せば、問題は全て解決される。
寅雄は自分を納得させるために、都合のいい考えだけを頭に巡らした。都合の悪いことは、撒き散らした。まるで、脱水機のごとく。
「店員さ〜ん。この子、買いますぅ」
レジにいた店員を美奈子は勝手に呼んだ。「この子、この子」と指を指す。
寅雄は仕方なく立ち上がった。
「すみません、外商の坂下まで請求を回してください」
走って来た店員に耳打ちするように、寅雄は、お願いをした。
店員は、にっこりと笑い、頭を下げた。ショーケースの裏の部屋へ向かう。
美奈子が、店員の後ろを従いて行き、犬が中から出てくるのを待っていた。
寅雄はゴールデンレトリバーを、あやす振りをしながら、値段を確かめる。がっくりと、頭が垂れた。
ガラスに鼻を押し付け、クンクンしている垂れ目の白い英国ゴールデンレトリバーの雌は、三十一万円だった。
三
散々、美奈子と犬に振り回され、寅雄がマンションの駐車場に帰り着いたのは、夜九時前だった。
犬用キャリーバッグと二週間分の餌を手に、寅雄は駐車場からマンションの玄関へ歩いて向かった。
キャリーバッグの中から「クゥ〜ン」と切ない泣き声が、絶え間なく続く。
「うっさいなあ、もう。美奈子ちゃんの、お願いとは言っても、犬はのう。お前、大人しゅうしとけよ。バレたら、即効で保健所じゃけえの、ってことしたら、美奈子ちゃんが悲しむじゃろうし」
ふと、今日の美奈子を寅雄は思い出した。平和公園で犬と戯れる美奈子。夢のような時間。
この幸せは永遠に続けてみせる。ついでに邪魔じゃけど、この犬と一緒に――と、改めて寅雄は誓った。
だが、夢の実現のためには、早く断固、家を手に入れなければ、ならない。それにしても新田は一体全体、何処をうろついているのだろうと、寅雄は新田の顔も思い出し、苛立った。
オートロックを解除しようと、寅雄は犬用キャリーバッグを足元に置いた。右手の人差し指を伸ばし、暗証番号の一桁目を押した。
いきなり、背後から寅雄は何者かに抱き付かれた。突然の出来事で、左手に持っていた餌の袋を思わず取り落とす。
寅雄は抱きついている腕を見た。男の腕だ。
「おりゃあ!」
寅雄は、誰の腕とも全くわからない腕を掴み、背負い投げをした。
「いってえーー! それって、DVですよ、DV」
何処かで聞いたことのある台詞が、耳に入った。よく見ると、新田だった。
「どこが、DVじゃ! お前の行動は痴漢で!」
クゥ〜ン……と、二人の争いを止めるかのごとく、キャリーバッグから子犬の声が聞こえた。
「あれ、坂下さん、犬、買うたんですか?」
キャリーバックの上の窓を開け、新田は覗き込んだ。
「あらま、可愛いでちゅね〜。坂下さんには全然、似合わないでちゅね〜」
そそくさとオートロックを解除し、寅雄は、エントランスへ向かった。
「ちょっと、坂下さん、犬! 犬! 忘れてますよ、犬!」
大声で新田が叫ぶ。
犬の存在を、マンションの住人に知られては困る――寅雄は走って、再び外に出た。
四
寅雄は洗い立てのTシャツと、部屋用のナイキのウエストがゴムのパンツに着替えた。
お腹を空かした白いゴールデンレトリバーを、寅雄は犬用キャリーバッグから出してやる。
狭い空間から解放された子犬は、クンクンと寅雄の部屋の匂いを嗅ぎまわり始めた。
シャワーを浴びていた新田が、浴室から出て来た。洗面所に放置された新田のリュックサックの中から、自分のタオルや着替えを取り出す。
寅雄は使用していない、うどん用の丼を出し、犬の餌を入れた。
ペットショップの店員が「これくらい」と見せてくれたドライフードの分量を、入れた。
だが、将来三十キログラムにはなりそうな犬を、急成長させないために、いったん、入れた餌を、寅雄は一摘み、少なくした。
餌の入った丼を、寅雄は子犬の目の前に置いた。
子犬は、優雅な毛並みで愛らしい姿とは裏腹に、ガツガツと噛むことなく、食べていた。ダイソンの業務用掃除機のようだ。
着替えた新田は、髪をタオルで拭きながら寅雄の横にしゃがんだ。餌がなくなった丼を、べろべろと舐め、がたがたと押し続ける子犬の頭を撫でた。
「お前、連絡くらいせえや」
「わしは坂下さんの連絡先は知りません。坂下さんは、わしの携帯番号を知ってるんですから、心配なら掛けてくればいいじゃないですか。まあ、いいですけど。家で色々とありましてね。嫁がブーブー言いよったんですわ、子供が熱、出して」
横目で寅雄は、自分の顔の表情がわからないだろうと思われる程度に、ちろっと新田を見た。
子犬の片耳の先を摘み、上げたり下げたりしながら、新田は笑っていた。
こいつ、結婚、しとるんか。子供までおる。ちゃらちゃらした、糞忌々しいガキに見えるが――。
寅雄は自分にないもの、しかも、一番、手に入れたいものを持っている新田に、異様な嫉妬心を抱いた。
だが、口に出して言及はできない。いつ結婚したのか、嫁は何歳だ、子供は何歳だ、と。自分のみっともない妬みを、寅雄は披露したくなかった。
「貧乏性みたいで、みっともない」
新田に向けていた視線を、さっと戻し、子犬が舐める丼を奪い取った。
子犬は垂れた目で丼を追う。
「みっともないって……犬なんじゃけ、底なしに食べたがるのは当然じゃろ」
かりかりしている寅雄を見て、新田は鼻から深い溜息を吐いた。寅雄の、かりかりの根源が、自分に対する嫉妬とは気付いていない様子だ。
寅雄は丼を持って、脱衣所へ向かった。新田は、寅雄の後に従いて来る。
寅雄はしゃがみ込んだ。丼を、洗面台の下の開き戸の中に納める。
「協力するんなら、するで、きちんと連携プレーしようや。わしゃあのう、もう、後戻りできんのんじゃ。どうしても家を建てんと、いけん。このマンションじゃ飼っちゃいけん犬も買うたし。家を建てて結婚をしよう、思うとるけ。とにかく、今すぐにでも一軒家が必要なんじゃ。」
しゃがみ込んだまま、寅雄は、にまっと口元を緩めた。今日の美奈子の笑顔が脳裏に鮮明に蘇る。
「坂下さん、付きあっとる人がおるんですか?」
寅雄の横に新田もしゃがみ込んだ。周りには誰もいないのに、内緒話をしているようだ。まるで、中学生の恋愛暴露話の光景である。
「まあ、の……」
寅雄は、どうとでも解釈できそうな返答をした。
本当は、寅雄と美奈子の関係は、付き合っているとは、まるで言えないような超浅い関係である。
「じゃあ、結婚をするのをきっかけに、家を建てようと。そのためには、爺さんの土地が必要ということなんじゃ。ふーん、そりゃ、力が入るわあ」
横目で寅雄は新田を見た。楽しそうに、うんうんと頷いている。
細い針で、ちくちくと連続で刺されるかのように、寅雄の胸が痛んだ。
「男は三十五歳までに家を持ってるのが普通じゃないの〜? それくらいの物を持ってる人でないと、うちの親は結婚は認めてくれな〜い」と、寅雄は美奈子に一撃されていたのだ。
もちろん「寅ちゃんが」という話ではない。美奈子の中の一般常識のような話だ。
だが、物は考えようである。家を建てれば「寅ちゃんにもチャンスがあるのよ〜」と、いうことを美奈子は遠巻きに言っていたのだ、と寅雄は解釈していた。一筋の明るい光を掴むような気持ちで。
気が付くと、寅雄は俯いていた。
「坂下さん! 犬が、しっこしましたよ、しっこ。雑巾は! しっこシーツ、ないんですか? まず躾せんと」
新田の声がリビングから聞こえた。いつの間にか、新田は脱衣所から出ていた。
寅雄は、我に返ったように顔を上げた。
「ペットシーツ、買うの忘れとった……新田! 早う、爺さんの土地、なんとかせえや!」
犬が、しっこをしたことと、寅雄が家を建てることは、全く関係ない。
洗面所に設置されている洗濯機の上に、ぽいっと置かれた雑巾を寅雄は鷲掴みした。しばらく、使用していなかったせいか、雑巾は歪な形のまま、ぱりぱりに乾燥していた。
「もう、どうすりゃあ、ええんじゃ……ああ!」
どたどたと足音を鳴らしながら、寅雄は、しっこの前に、しゃがみ込む新田に近づいた。
しっこをした当の本人の子犬は、クンクンと匂いを嗅ぎながら、寅雄の部屋を探検していた。
寅雄は大量のしっこの上に乾いた雑巾を放り投げた。
新田の隣に寅雄も、しゃがみ込んだ。雑巾は、みるみるうちに黄色くなり、へたっていく。
「あっ、今、思い出した」
寅雄と一緒に雑巾を眺めていた新田が寝言のように呟いた。
「ペットシーツの他に、何が要るんや?」
犬を飼った経験が全くない寅雄は、戸惑うあまりに、偏頭痛が起こりそうだった。
「シーツ用のトレーと水入れ、ですけどね。そうじゃなくて、平田の爺さんのことですよ。どうやら、二人兄弟だったようで、爺さんには弟が一人おるらしいんですわ」
ずっしりと重くなった雑巾を親指と人差し指で摘み上げ、寅雄は新田の顔を見た。
「あの爺さん、弟がおるんか」
平田婆さんが残した財産の相続者は、平田爺さんと引き篭もりの一人息子である。土地に興味があった寅雄は、相続者は調査したが、爺さんの親族まで頭が回っていなかった。
「調べるか……」
視線を天井に向け、寅雄は何かに操られたかのように、ぼそっと独り言を漏らした。
すると、ブーブーという携帯電話のバイブの音が、何処からか聞こえてきた。
美奈子ちゃんかも――。今日のお礼かと思い、寅雄は自分の携帯電話を出そうと立ち上がった。今まで、お礼の電話など掛かったことはないが。
立ち上がった瞬間、無残にも、手に持った雑巾から滴り落ちていた犬のしっこが、寅雄の足の甲に複数の斑点を作った。
「うわっ!」
寅雄は真っ赤に熱された鉄板の上に乗せられたように、爪先立ちをして、両足を交互に上下に動かした。
寅雄の激しい動きのおかげで、さらに、犬のしっこは速度を増して、ぼたぼた落下する。
「もしもし……うん……」
寅雄は振り返った。新田が洗面所で携帯電話を耳にあて、話をしていた。洗面所に置きっ放しにしていたリュックサックの中から、携帯電話を取り出したようだ。
「なんじゃ、あいつのか……」
自分の携帯電話の音ではないと気付いた寅雄は、落胆とともに、冷静を取り戻した。
少し上半身を前に傾け、寅雄は雑巾を持った手を前に突き出す。
新田の電話が気になり、寅雄は後に耳を裏返すかのごとく、新田の声に集中した。
だが、新田は「うん……ああ……」と返答するだけで、内容が、皆目わからない。
カチャという、携帯電話を折る音がした。新田の話は終わったようだ。
「坂下さん、平田の爺さんの弟の居場所が、だいたい、わかりましたよ。でも、だいたいですがね」
雑巾を持ったまま首だけ回して、寅雄は新田を見た。
新田は携帯電話をリュックサックの中に入れている最中だった。
「今の電話、爺さんの弟の居場所のことじゃったんか? 探偵でも雇ったんか?」
「探偵なんか雇っとったら、金がもたん。それに、探偵が『だいたい』なんて、みっともない調査報告を出しゃしませんよ」
新田が持っている情報網とは一体全体、どんなものなのか――。新田を疑うべきか信用するべきか、寅雄は一瞬、困惑した。
リュックサックを持って、新田はリビングに戻って来た。フローリングの上に胡坐をかいて座る。
「どうやら、大野のほうに住んどるっちゅう話です。こっからじゃったら、車で一時間くらいじゃろう。以前は牡蠣の養殖業をしよったらしいんですがね、子供がおらんかったけ、十年くらい前に他人に譲ったそうですわ」
リュックサックの中から折り畳まれた地図を出した。畳半畳くらいはありそうな広島県の地図を広げる。
頻繁に開くのか、地図の折り目は、ちょっと引っ張ると簡単に裂けてしまいそうなくらい、ぼろぼろだった。
「弟の住所は?」
「だから、『だいたい』って言うたでしょ。これから調べるんです。坂下さん、明日は仕事、休んでください。車の運転、お願いしますね〜」
地図の左下の辺りを指差しながら、一方的に新田は寅雄に命令のような要求をした。
「なんで、仕事、休まんといけんのんや! 今日も休みじゃったんで!」
「坂下さん、そんな悠長なこと言いよって、ええんですか?」
眼鏡の上から黒目を出し、新田は寅雄を睨んだ。
寅雄は、すっと雑巾に目を向けた。新田は、いつも、ふざけた態度をするわけではないようだ。寅雄を睨む目は、殺気を感じさせた。
「誰かが穴埋めするのが組織っちゅうもんでしょ。朝、鼻を摘んで『風邪、引きました〜』って、上司に電話すりゃあ、同情されるだけですよ。坂下さんが一日、仕事を休んだくらいで、大きな影響はないじゃろ」
眼鏡の上から覗く新田の黒目が、黒い邪悪な三日月になった。
寅雄の頭の回路が、ぶつりと鈍い音を立てて切れた。
「これでも、わしは係長代理じゃ!」
寅雄は、年齢のわりには自慢にならない肩書きを大声で吐いた。手に持った、犬のしっこを滴り落とし続けている雑巾を、べちゃりと新田の頭に載せた。
「ちょっ、ちょっと!」
雑巾を払いのけようとする新田の手を掴み、寅雄は新田の頭に雑巾を、ぐいぐいと押し付けた。
五
翌日の早朝、リビングから機械的なメロディーが流れた。
隣の寝室で眠っていた寅雄は、薄っすらと目を開けた。ベッドの上に置かれた目覚まし時計を見ようと、首を後ろへ直角に曲げる。まだ六時であった。
「新田! 煩い! 携帯の音、切れや」
だが、携帯電話の音楽は軽快に流れ続ける。新田の声も、動く気配も感じられない。
再度、眠りにつきやすいように、寅雄は目を細めたまま、ベッドから出た。
新田が携帯電話で目覚ましの設定をしていたのだろうと思った寅雄は、リビングに続くドアを、やや乱暴に開ける。
テーブルの上で携帯電話は、ぴかぴかと光を点滅させながら鳴り続けていた。だが、ソファで寝ているはずの新田の姿がない。
「あれ? あいつ、何処へ行ったんじゃ? ほんま、煩いのう」
まずは耳障りな携帯電話の音を、寅雄は止めようとした。テーブルの上に置かれていた新田の二つ折りの携帯電話に手を伸ばし、ぱかっと開く。
よく見ると、目覚ましのための音楽ではなく、着信音だった。
携帯電話の小さな画面には、携帯電話の番号が出ていた。携帯電話本体には登録されていない番号のようだ。
寅雄は、携帯電話に出ようかどうしようか、迷った。だが、新田の正体を掴むには、絶好のチャンスかもしれない。
受話器が中途半端に上がった絵のボタンを押して、寅雄は携帯電話を耳にあてた。
「もしもし、先輩? 朝早くからすみません」
若い男の声だ。雑音も聞こえる。外から掛けているのだろう。
寅雄は無言のまま、携帯電話を耳に押しあてた。
「先輩が調べている平田三次さんの弟さんの件ですが……先輩? 寝てるんですか? おーーい!」
反応のない電話を奇怪に思ったのか、声の主は大きな声で叫んだ。
「起きとる」
声色を変え、寝ぼけた新田風の声を寅雄は出した。
「平田さんが入っとった組合のもんから聞いたんですが、大野の大きな工場がある近辺に住んどる、ちゅう話ですわ。詳細はわからんですけど。とりあえず、その辺、当たってみたらどうです? それじゃ、わし、仕事がありますけん」
ピッという音と共に、電話は切れた。
声の主は、かなり急いでいたようだった。寅雄の新田の物真似を不信に思わないくらいだ。
「組合? 何の?」
寅雄は新田の携帯電話を眺めながら、頭を傾げた。
今の男の電話番号をメモしておこうと寅雄が思った瞬間、玄関が開く音がした。
開けっ放しにしていたリビングのドアから、リードを付けた白い四本足の物体が飛び込んできた。
「ああ、忘れとったああああ」
悲鳴か独り言か判別できない声を、寅雄は出した。
昨日、買ったばかりの白いゴールデンレトリバーの子犬であった。耳をゆっさゆっさと揺らしながら、後ろの二本足で立って寅雄に飛びついて来る。
「おい、土もごれじゃないかあ!」
黒いパジャマに犬の足跡が付く。
後を追うように新田がリビングに入って来た。耳にはヘッドフォンを被せている。
「おいおい、足、洗わんと。ご主人様は綺麗好きなんじゃけ」
前足を寅雄の足に掛けて立っている子犬を、新田は背後から抱き上げた。
興奮気味の子犬は、舌を出して「ヘーヘー」と言っている。正面から見ると、なんとなく笑っているように見えた。憎たらしいとは、言い難い。
「お前、むやみやたらに、犬を連れ出すなや。飼うとることを密告されたら、どうするんや」
右手を子犬の腹に入れて抱えたまま、新田はヘッドフォンをテーブルの上に置いた。
「考え事でも、しよったんか」
ヘッドフォンに寅雄は視線を向けた。新田の目的は、何だ――。
「坂下さん、わしの携帯電話、鳴りよりました?」
寅雄の質問など聞こえなかったかのように、新田が寅雄に質問をする。
寅雄の呼吸が止まった。寅雄の左手には、新田の携帯電話が握られたままだったのだ。
「あっ、ああ、鳴りよったけど、すぐ切れたで」
新田の携帯電話を寅雄はヘッドフォンの横に並べるように、さっと置いた。
咄嗟に寅雄は嘘を吐いた。携帯電話の通話記録の画面を出せば、すぐにわかるような見え透いた嘘を。
「そうですか。じゃあっと、出かけましょうか。どうします? この子も連れて行きます?」
寅雄の目の前に、新田は子犬の顔を近づけた。子犬の生暖かい息が寅雄の鼻にかかる。
「もう行くんか? まだ六時で」
「爺さんの弟を探し出すのに、何日もかけとられん。坂下さんだって、仕事があるわけじゃし。今日中には弟を見付けますよ」
「お前には仕事はないんか?」
寅雄は新田の個人情報を、ちびちびと聞き出そうとした。
「大丈夫。とにかく、早く着替えてください」
また、新田は寅雄の質問を無視した。
寅雄は目の前の子犬の顔に、さらに自分の顔を近づけた。
「犬は置いて行く。足手まといじゃ」
「そうですか? わし、どうなっても知らんですけえね。ねえ、シロ」
子犬は新田に、くるっと回され、新田の大きな胸に抱かれた。
「シロ? 違う! この犬は……」
子犬には、既に美奈子が付けた名前があった。だが、寅雄は口を、もごもごさせた。
「名前がないと、犬も困るでしょ」
「もう! ベンザイ。弁財天のベンザイじゃ!」
便秘薬を連想してしまいそうな名前を、子犬は付けられてしまっていた。
六
寅雄と新田はマンションの前にあるローソンに寄って、朝飯を調達した。
駐車場へ行き、寅雄のBMWに乗り込む。西方面へBMWを走らせた。
「ベンザイ、大丈夫ですか? あのままで」
助手席でサンドウィッチを新田は頬張っていた。
「どうせ、躾なんかしとらんのんじゃけ、ペットシーツがあっても仕方ないじゃろう。新聞をリビングに、びっしり張り詰めとくしか、方法はなかろう」
運転中の寅雄は、自分が買ったお握りを開封するように、新田の膝の上に置いた。
「まあ、わしの部屋じゃないけ、ええですけど」
意味ありげに、投げやりに、新田が反応した。
新田は寅雄のお握りを膝の上に載せたまま、パックの牛乳を飲む。
「で、どうすんの、爺さんの弟を探し当てて」
寅雄は、新田の膝の上にあるお握りを、左手で新田の目の前にかざした。
「ビニールを剥げ、言うんですか? パックの牛乳を置くホルダーなんか、ないじゃないですか。もう、殿様なんじゃけ」
「うっさいのう、誰の車に乗っとんじゃ!」
きりっと寅雄は横目で新田を睨んだ。
「へいへい」
新田は両足の腿に牛乳を挟み、お握りを手に取った。自分のサンドウィッチを膝に置く。
「とりあえず、会って、平田の爺さんに説得してもらうように頼んだほうが、ええと思いますよ。どうせ、自分の兄貴の経済状況くらいは、わかっとろうけ」
「兄弟じゃろ? 平田の爺さんにクリソツの爺さんかもしれんで。話を、のらりくらりと躱す厄介者じゃったら、どうするんや。まあ、お前も、似たようなもんじゃがの」
目の前に差し出されたお握りを、寅雄は手にする。ぱりぱりの海苔が、はらはらと寅雄の腿に落下する。
「おい! 海苔がボロボロじゃんか! もっと上手に剥げんのんか!」
「わし、こういうの苦手なんですわ。平田兄弟が、必ず似とるとは限らんですよ。もしかしたら、険悪な仲の兄弟かもしれんし」
「それって、どうなん?」
赤信号で、寅雄は車を停めた。緑茶のペットボトルの蓋を開ける。
「最悪かもしれんし、そうでないかもしれん。利用できるかどうか見定めるのも、ええんじゃないんですか」
サンドウィッチを食べ終えた新田は、膝の上に落ちたパンのかすを手で、ぱっぱと足元に払い落とした。
美奈子も乗る助手席が汚れた。寅雄の頭に怒りが沸々と湧いてきた。頭蓋骨が湯沸器になりかける。
だが、寅雄はどうにか気持ちを落ち着かせようと、緑茶を口の中いっぱいに含んで、蓋を閉めた。
「お前の返答も行動も全て、ええかげんじゃの。計画っちゅうもんは立てんのか」
新田が、前方を指差す。
「信号、青」
後ろにいる車にクラクションを鳴らされる前に、寅雄は急発進した。今、クラクションなど鳴らされたら、普段以上に瞬間湯沸器のごとく憤慨しそうだった。
「ところで、坂下さん。坂下さんは、爺さんのゴミ広場のこと、自分の顧客の弁護士から聞いたんですよね。不思議じゃないですか。旦那も息子もおるのに、大金はたいて財産管理を弁護士に、させとったらしいですよ」
寅雄の心臓が口から飛び出しそうになった。
なぜか新田は、寅雄が弁護士に平田爺さんの土地について訊いたと、知っていた。
どういうことじゃ――。正面を向いたまま、寅雄は大きく深呼吸をした。
「お前、どこまで知っとんや」
新田に対する不気味さと不信感が、短い言葉となった。
「そりゃあ、調べりゃ、一発です」
たんたんとした新田の話し方が、遂に寅雄の怒りのマグマを噴火させた。
「どうやって調べたんか! 爺さんの土地だけならまだしも、何で、わしの行動も調べる必要があるんか!」
狭い車の中で、寅雄は声を荒立てた。前のめりになり、ハンドルを両手で叩く。
「ちょっと、危ないじゃろ! そんな運転したら。爺さんの土地を調べよったら、坂下さんの名前が出てきたんですよ。あの弁護士、弁護士のくせにお喋りなんですよ!」
確かに、あの弁護士は、口が軽い。どうでも良いと判断すると、すぐ口から滝のごとく、いや、スプリンクラーのごとく言葉が出るような奴だ。
助手席の新田の右手が、寅雄のハンドルを握っていた。
「ついでというか、警告ですけど、坂下さん、ここ数ヶ月、消費者金融に手を出していますよね。それじゃ、住宅ローンも組めないかもしれないですよ。金の掛かる女は……」
寅雄はウィンカーも出さずに、急ハンドルを切った。のろのろ運転の車が長く続く反対車線を、強引に入って右折する。
「うわ! 危ない!」
ハンドルを握った新田の手が振り解かれた。新田は、そのまま寅雄の肩に凭れ掛かる。
今や営業されていないガラスの割れた店の前の駐車スペースに、寅雄はBMWを突っ込んだ。
「なんなんですか、もう、また……」
ずれた眼鏡を直しながら、新田が起き上がった。
「降りい。今、すぐ、降りろ!」
「ちょっと、待ってくださいよ。ここ、何処だと思っとんですか。電車も通ってないじゃないですか」
寅雄は運転席のドアを開け、外に出た。ぐるっとBMWの前を回り、助手席のドアを開ける。
新田の腕を掴み、寅雄は引きづり出そうとした。
シートベルトが新田の顎に引っかかり、寅雄の邪魔をする。
このまま首に巻きつけてしまおうかと、寅雄は思った。
だが、複数の車が目の前を通る。警察沙汰には、なりたくない。
寅雄は新田の上に覆い被さった。新田の体に巻きついたシートベルトを、素早く解除する。
大きく溜息を吐いて、新田はBMWから降りた。即座に寅雄は、助手席のドアを閉める。
寅雄は新田に詰め寄った。二人の間は、お互いの靴の先が触れるくらいまで、接近している。
寅雄の目の少し上に、新田の顎があった。寅雄は背伸びをして、新田の顎に噛み付いた。
「痛いじゃないですか! DVですよ、DV!」
寅雄を突き放し、新田は顎を摩っていた。
「二度と、わしの前に現れるな。ええな。警告で」
静かに捨て台詞を吐いて、寅雄は運転席へ向かった。
「坂下さん、また、ついでですけど、結婚する気があるんなら、消費者金融なんかに手を出しちゃ駄目ですよ。車のローンとかならまだしも、現金を借りると、不信感を招きますけ。女が興信所に依頼すれば、すぐリストを出してきますよ」
走る複数の車のエンジン音の隙間から、零れるように新田の声が聞こえた。
だが、寅雄は新田の顔を見ることなく、BMWに乗る。いつもの倍の力でドアを勢いよく、ばんっと締めた。
「わしゃあ、優良顧客じゃ。全部、きっちり期日までに返済しとる」
自慢にならない言い訳を、寅雄は自分にした。
左側のサイドミラーに映る新田を横目で見ながら、寅雄はBMWのアクセルを踏んだ。
再び、渋滞した車道に、強引にBMWを捻じ込ませ、西へ向けて走り始めた。
「女が欲しいというものを、買ってやらんわけには、いかんじゃろうが! のう、宮島の神さんよ!」
寅雄は、宮島の神様に返事を求めるかのように、大きな声を出した。
悔しさと不安から、寅雄は年甲斐もなく、薄っすらと目に涙が浮かんでくる。
「新田の野郎、一言、いや、五言も十言も多いんじゃ! 嫌味か! ちきしょーーー!」
涙と鼻水、更にはヨダレまでも、口の両端から、だらだら流しながら、寅雄は西へ西へと、ひたすらBMWを走らせた。
七
新田をBMWから強引に降ろして、十分くらい経過した。カーステレオの時計は、八時三十四分という光を放っていた。
寅雄は、ひたすら海沿いを西へ走る。寅雄の気持ちも、かなり落ち着いてきた。
涙と鼻水、ついでにヨダレは寅雄の顔の上で、ぱりぱりに干乾びていた。
途中、降ろした新田の顔が、ポンポンと浮かんだ。
あれだけの情報を入手できる奴を捨てたのは失敗じゃったか――。
だが、すぐ頭を切り替える。
新田は、最低じゃ。美奈子ちゃんを見たこともないくせに。見れば、あいつも羨ましがる――。
若くて元『ミス・もみじ』の美奈子と結婚をすれば、皆が羨ましがる。寅雄の劣等感は全て美奈子で帳消しになると、寅雄は思い込んでいた。
自分の全ての知人の奥さんに負けない嫁を得る。寅雄の人生を成功させる、一番の条件だった。
しばらく走ると、目的の工場がある地域が見え始めた。
「そろそろ、牡蠣の養殖屋を探さんと」
寅雄は広めの路肩にBMWを停めた。
「一軒、一軒、片っ端から訊いて回るか」
颯爽と寅雄はBMWを降りた。きょろきょろと周りを見渡す。
だが、牡蠣の養殖屋など全然ない。
「あっれー、牡蠣の養殖の看板なんか、全くない。もしかして、住んどる所が大野っちゅうだけで、養殖は別の所でしよったんか?」
顎に手を当て、寅雄は首を傾けた。
とりあえず、道沿いにある民家で訊ねてみることにした。
寅雄は目の前にあった民家の呼び出しブザーを鳴らした。
「は〜い」
家の中から、どすの利いた低い声が聞こえた。もしや、日に焼けたパンチパーマの、外見が超怖い海の男が出てくるのではと、寅雄はヒヤッとした。
戸がガチャリと開いた。予想以上に色黒の、チリチリのパンチパーマが出てきた。六十歳くらいだろう。髪は真っ黒に染めているに違いない。
深く、横に長い二本の額の皺が、恐ろしさを倍増させている。
「どなたさん……」
パンチパーマ男は低い声で、ゆっくりと寅雄の名を訊く。語尾は消えてなくなりそうなくらい掠れる。マイクを握らせたら、泣きながら演歌を歌いだしそうだ。
「坂下と申します。朝早くから申し訳ございません。平田さんのお宅を探してまして。ご存じないですか?」
デパートの外商で鍛えただけのことはある。寅雄は恐怖心を押さえ込んで、笑顔を作った。
パンチパーマ男の目が細くなった。怖さ、さらに倍だ。
「平田? おたくさん、平田さんと、どういう関係……」
どうやらパンチパーマ男は、平田爺さんの弟を知っているようだ。
「十年くらい前、仕事を通じて知り合いまして。で、平田さんのご自宅は……」
パンチパーマの細い目が、目の前の道を見る。
「その表の通りを左へ少し歩くと……」
いきなり、寅雄の綿パンのポケットの中で、携帯電話が激しく踊りだした。
もしかすると、職場からか――。
寅雄は焦った。パンチパーマ男に平田爺さんの弟の自宅への道順を、もっと詳しく聞きたい。
だが、携帯電話が激怒している課長のごとく、ブーブー鳴っている。
「ちょっと、待って頂けますか?」
携帯電話を寅雄が取り出した瞬間、戸はバタンと閉められた。ついでにガチャっと鍵まで掛ける音がする。
「ええ……ああ……もう……」
携帯電話のディスプレイを寅雄は覗いた。やはり、職場からだった。
咄嗟に寅雄は鼻を摘んだ。
「もしもし……」
「坂下、今日は何しよんじゃ。九時、過ぎとるで」
やはり課長だった。
「申し訳ございません。ちょっと風邪を引いたようで。連絡しようと思ったのですが、携帯電話をリビングに置いてまして。ベッドから出れなくて、取りに行けなかったんです」
パホォーンと大型トラックが大きなクラクションを鳴らす。
「ほう、車の音が、よう聞こえるが」
完璧な嘘を吐くのは困難だった。
「すみません、今から病院へ行こうと思いまして。今日はお休みしても宜しいですか? 他の方々に風邪を移しても、いけませんし」
しばらく、課長は沈黙を保っていた。重い重い沈黙だ。
電話の向こうの課長を、寅雄は思い浮かべる。
課長はゴミ箱の上に右足を載せ、前後に揺らしながら、ゴミ箱を凝視しているに違いない。
「わかった。じゃが、連絡がある。さっき電話があったんじゃ、平田さんから。今日中に集金に来て欲しい言うて。金額を聞かれたけ、調べて教えといた。それとの、『まぼろし』を一升、頼むと言いよっちゃったで。じゃ、お大事に」
課長は一方的に電話を切った。
鼻を摘んだまま、寅雄は呆然としていた。耳から携帯電話を離すことも、忘れていた。
「ええー、領収書を取りに、結局、事務所に行かんといけんわけじゃろ。わし、無断欠勤なんかせんと、直行直帰して誤魔化しとるじゃろうがあ」
寅雄は誤魔化していたつもりでも、職場にはバレていたのかもしれない。
「直行直帰しま〜す」と職場に連絡を入れて、三時間くらいお客さんを回って帰っているのは、再々である。たまに新台の入ったパチンコ店へ朝一で、撃ちに行っている。
「とりあえず、やることやってから」
くるっと寅雄は周り、パンチパーマ男の家の呼び出しブザーを再び鳴らした。
だが、何度も呼び出しブザーを鳴らしても、中にいるはずのパンチパーマ男は出てくる気配が全然ない。
寅雄は、「ちっ」と舌打ちをした。
「ちきしょう、鍵まで掛けよってから……」
再度、くるっと回り、寅雄は車が行きかう道を眺めた。
「確か通りを左へ行く、って言いよったのう」
パンチパーマ男の最後の言葉どおり、寅雄は左方向へ歩き出した。
立ち止まらず、寅雄は横目で一軒目の家の表札を見る。『島田』だった。
『島田』家は角地にあった。小さなスクランブル交差点で寅雄は立ち止まる。
寅雄の左目の視界に人影が入ってきた。
よく見ると、六十歳は過ぎている二人の、小母さんが怪訝そうな顔をして話し込んでいた。小母さんたちは、二人が立っている目の前の家を、ちろちろと見ている。
「なんか、話しかけにくそうな雰囲気じゃなあ。でも、ここで引っ込んどったら、進まんしのう。訊いてみるか」
寅雄は排気ガスが、もんもんとしている空気を鼻から少し吸って吐き出した。小母さんたちに近寄る。
何気に、おばさんたちの目の前にある家の表札を見た。『平田』だった。
「あっ!」
寅雄は、立ち止まった。
なんて、わしはラッキー男なんじゃ――。寅雄は何もかも上手くいくような気がしてきた。
「あら、おたく、平田さんのご親戚の方?」
シミだらけの顔の、小母さんが目を大きく開けて寅雄に話しかけてきた。数秒前まで深刻そうな顔をしていた小母さんの顔が、心なしか明るい顔になっていた。
「いえ、親戚ではありませんが……」
「ああ、違うの」
シミだらけの小母さんは肩を落とし、むすっとした顔をした。
なんじゃ、このババア、失敬な――。寅雄はムッときた。
だが、目の前の『平田』が、平田爺さんの弟の家かどうか、何が何でも確かめなければならない。
「あの〜、こちらの平田さん、以前、牡蠣の養殖をされていた平田さんのお宅ですか?」
「ええ、そうじゃけど、お知り合い?」
平田爺さんの弟の家に、間違いないようだ。
シミだらけの小母さんばかりが、喋る。もう一方の割烹着姿の小母さんは眉間に皺を寄せ、黙り込んでいた。
「知り合いといっても、随分前にお世話に……」
「じゃあ、ご親戚の方とか知らん? 奥さんのお姉さんが広島のほうに住んどる、とは言いよっちゃったけど、そのお姉さんも、つい最近、亡くなっとってみたいじゃし。こっちに引っ越して来ちゃってから十年は経つんじゃけど、それ以上は聞いたことがないんよ」
なぜ、ババアどもは親戚に拘っとるんか――。
「いや、僕は旦那様と仕事上の付き合いがあっただけですから、身内の方の話などはしていません。何か、あったのですか?」
小母さんたちは、顔を見合わせた。
シミだらけの小母さんが、シミだらけの顔を寅雄に近づけた。耳打ちするように、小声で話す。
「いやあね、昨日、こちらの奥さんが亡くなったんよ。心筋梗塞。そこにあるホームセンターで、いきなり倒れて。まあ、家じゃったら発見が遅れとったじゃろうけ、お店で良かったんじゃけど」
「え? 家じゃったら発見が遅れとったとは……旦那様がいらっしゃるのでは?」
「旦那ねえ。いつからかは知らんけど、失踪しとるようなんよ。もう三年は姿を見たことないわ。奥さんも、みっともないけ、旦那のことは黙っとったんじゃろうけど。毎朝、玄関の掃除しよったのに、見かけんようになったんじゃけ、ここらのもんは、皆、不審に思っとるよ。ねえ」
小母さん二人は顔を見合わせ、うんうんと頷いた。
再び、シミだらけの小母さんが寅雄を見る。
「まあ、隣の金田さんが役所には連絡しちゃったみたいじゃけど、旦那は死んどるわけじゃないしね、無縁仏っちゅうわけじゃないじゃろ。どうするんかね、これから。昨日、診てもろうた医者の支払いのこともあるし。ねえ」
再び、小母さん二人は顔を見合わせ、うんうんと頷く。
「旦那は、失踪……」
ゆっくり寅雄は下を向いた。
すると、沈黙を保っていた割烹着姿の小母さんが口を開いた。
「じゃけど、旦那さん、可哀想な人じゃったよ。奥さん、気が変になっとるんじゃないかって思うくらい、旦那さんに対しては煩うて。カカア天下どころじゃ、なかったよ。よう、夜中でも、旦那さんを怒鳴り散らしよった」
「ちょっと、そこまで言わんでも、ええじゃろ」
シミだらけの小母さんに制止され、割烹着姿の小母さんは口を閉じた。
寅雄の標的の平田爺さんの弟が、高齢にもかかわらず行方不明――。
「そうですか、旦那様、いらっしゃらないのですね。じゃあ、僕はこれで」
来た道を、俯いたまま寅雄は再び歩き始めた。
どうなって、いるのか――。寅雄の背中に悪寒が走った。両手で自分の体を抱く。
寅雄は、不気味な妖怪が平田爺さんの体に、べっとりと巻きついているような気がした。
八
大野から寅雄は広島市内のマンションへ、帰って来た。オメガの腕時計を見ると、午後二時を回っていた。
「あーあ、行って損したのう。また、別の手を考えんといけん」
エレベーターの中で、大きな寅雄の溜息から漏れる声が木霊する。
八階に着き、寅雄はいつも通りドアの鍵を差し込んだ。いつも通り、ドアを開ける。
すると、ドアが閉められたリビングから、ガシャン、ガシャンと音が聞こえた。
「また、忘れとったああああ」
リビングに閉じ込められていた子犬のベンザイは、憂さを晴らすように暴れ回っている最中だった。
急いで寅雄は靴を脱いだ。そーっとドアに近づき、数センチ、ドアを開ける。恐る恐る中を覗いた。
「うっそ……」
敷き詰めていた新聞はぐちゃぐちゃになり、皮のソファからはスポンジが出ていた。
ベンザイは、カーテンに噛み付き、カーテンレールと力いっぱい引っ張り合いをしている。
とにかく、止めねばと寅雄はリビングに入った。
「ベンザイ! 何しよんじゃ、あああ、しっこ踏んだ」
慌てていたため、寅雄はスリッパを履いていなかった。足に被された靴下が、みるみるうちにベンザイのしっこを吸い込む。
「ちょい、待て、ベンザイ、カーテンを……」
時は、すでに遅すぎた。カーテンレールが大きな金属音を立てて、無残にもフローリングの上に落ちる。
寅雄以上にベンザイは、カーテンレールが落下した音に驚いたようだった。
一メートルくらいカーテンから離れ、ベンザイは前足を突き出した。落ちたカーテンレールに向けて「ワンワン!」と吠える。
「修繕費が……」
寅雄は俯き、額に手を当てた。寅雄の脳ミソは、ぎゅーっと鉢巻を締め付けられるような激痛に襲われた。
寅雄は自分の寝室で、スーツに着替えた。勿論、職場へ行くためだ。
だが、さすがに、ベンザイをマンションに放置しておくわけには、いかない。
ベンザイをキャリーバッグに入れ、BMWの後部座席に置いて寅雄は職場へ向かった。
「あんの爺さんも、今日でなくても良かろうが。課長も、事務所に来んかったら容赦せん、みとうな言い方するし。爺さんの弟は失踪しとるし。新田は……あいつは、いっか」
BMWのサイドミラーに映っていた新田の残像が、寅雄の頭の隅に、こびり付いていた。
十分後に職場に着いた寅雄は、気合いを入れて「せーの」で事務所のドアを開けた。軽く、咳き込む。
「遅れて、すみませ……ん?」
事務所の中を、ぐるっと寅雄は見回した。
課長の姿はない。隣の席の後輩の黒田の姿もない。
事務所の中は、事務担当の派遣社員が一人しかいなかった。皆、営業に出ているようだ。
内心、ほっとしながらも、寅雄は明日まで課長の顔を見ない恐怖を抱いた。
「課長、どの程度、怒っとんかのう。他にも色々あるし。今晩は、眠れんわ」
椅子に深々と腰を掛け、寅雄は天井を見た。寅雄はこのまま、放心状態でいたかった。
だが、平田爺さんから呼び出されている。今現在、一番大切な、寅雄の顧客だ。
寅雄は経理に領収書発行の手配をした。
次に『まぼろし』を地下の酒売り場に注文し、包装しておくよう頼む。
ついでに、ペットショップにも連絡をする。ペットシーツとシーツ用トレーを準備しておいてもらった。
「えっと、それから帳簿を爺さんに返さんと……そう言えば、帳簿の中に平田爺さんの弟の名前はあったかいの?」
寅雄は、ぺらぺらと帳簿を捲った。
「やっぱり、ないの。『平田』っちゅう名前は一つもない。親戚は、おらんのんかいの。あれ、あの大野の婆さんも、葬式には参列せんかった、いうことになるの」
右肘を机に載せ、寅雄は右手の親指の爪を噛んだ。
点と点が結びつかん。何がどうなっているのか――。
寅雄の頭の中は、複雑に絡み合って硬い団子状態になった細い糸のような有様になっていた。
九
BMWの後部座席で、子犬のベンザイが「クゥ〜ン」と鳴いている。と思うと、がりがりとキャリーバッグを引っ掻く音がする。
「おい、どうやっても出れんで。車まで汚されたら、たまらんわ」
ベンザイと共に、寅雄はBMWで平田爺さんの家へ向かった。
どうにか無事に平田爺さんの家に着いた。カーステレオの時計は、十七時十二分を表示していた。
いつも通り、寅雄は颯爽とBMWから降りた。平田爺さんに要求された『まぼろし』と領収書の入ったバッグを持って、寅雄は玄関へ向かう。
狭いキャリーバッグに閉じ込められたベンザイの様子が、寅雄は気になった。
だが、今日の寅雄は平田爺さんの家に長居をするつもりは、さらさらない。
平田爺さんが、というより、平田爺さんを取り巻く人間関係が、薄気味悪く感じられてきたからだ。
「すぐ、戻るけえの」
ぼそっと一言、寅雄は固い決意を口にする。ベンザイに言ったつもりでも、本当は、自分自身に言い聞かせていた。
今日は十分で帰ってやる――。
寅雄は呼び出しブザーを押した。前回と同様、家の中から反応がない。
「また、炬燵の中に潜っとんかいの」
躊躇することもなく、寅雄は玄関の引き戸に手を掛けた。やはり、鍵は掛かっていない。
寅雄は玄関を十センチほど、開けた。十センチの隙間から、いつもの異様な臭いが、もごっと、外に飛び出してきた。
「こんにちは〜。平田さん、いらっしゃいますか〜? 坂下で〜す。集金に参りました〜」
努めて寅雄は明るい声を出した。だが、やはり反応は全然ない。
「また、人を試すように返事せんのんじゃろ」
小声で、もごもごと寅雄は嫌味を吐いた。
「中、入りますよ〜」
玄関の引き戸を、ゆっくりと寅雄は開けた。玄関を上がって、すぐ右側にある引き戸を、そろそろと引く。
「あれ? おらん……」
炬燵から、表面の皮がかさかさになったような、らっきょ頭が出ていない。
寅雄は顔だけ部屋の中に入れて、ぐるっと見渡した。
「出かけとんかいの。人を呼ぶだけ呼んどいて」
頭を部屋から引っ込め、寅雄は奥の台所のドアを眺めた。
台所からは何の気配も感じられない。杖を付く音も聞こえない。それどころか、鼠が走る足音もしない。
ふと、寅雄は左側にある二階へ続く階段に、目をやった。
「まさか、二階にはおらんじゃろ。足が悪いんじゃけ」
だが、寅雄の頭に新田の言葉が過ぎった。
二階には引き篭もりの息子がいる――。
寅雄は、覗きに行ってみたい衝動に駆られた。まるで、お化け屋敷やホラー映画を観るように。
荷物を床に置き、寅雄は、そーっと階段を上った。
本当に息子がいたら、どうする。「あれ、部屋を間違えちゃったあ」と言って帰るわけにはいくまい――と、思いながらも寅雄の足は、どんどん階段を上り続ける。
二階の廊下が見える段まで上った。どうやら、縦に二間あるようだ。
さらに、寅雄は進む。とうとう二階に到着した。
手前の部屋の襖に、寅雄は手を掛ける。そっと五センチばかり引いてみた。
寅雄は瞬時に鼻を摘み、顔を反らした。凄まじい異臭が、凶器のように寅雄を襲う。
「なんじゃ、この、臭いは」
平田爺さんの息子が、この部屋にいるかもしれない。息子は引き篭もりだ。掃除などしていない可能性だってある。
恐る恐る、寅雄は薄暗い部屋の中を覗き込んだ。
人らしき姿はない。
だが、ベランダに続く窓ガラスが半分隠れるくらいまで、袋が積み上げてあった。十キロの米袋より一回り大きいビニールの袋だ。ざっと数えただけでも三十袋はある。
部屋には入らず鼻を摘んだまま、寅雄は、じーっと中にあるビニールの袋を凝視した。
ビニールの袋に「鶏」や「牛」という文字が印字されているのが見えた。
「これ、肥料じゃないか!」
他にも苦土石灰やヨウリン、生石灰もある。
「なんで、こんなところに積み上げとんかいの。この家に初めて入ったときに、臭いって思うたのは、この臭いじゃったんか。ジジイ臭じゃ、なかったんか」
平田爺さんが農業をしていたという話は、寅雄が初めて平田爺さんを訪ねた日に本人の口から聞いた。
だが、今は、足の不自由な平田爺さんが、農業などしているはずはない。
斜め右下から、ずるずるとサンダルを引きずる音が、微かに寅雄の耳に入ってきた。どうやら平田爺さんが帰ってきたようだ。
寅雄は、さっと襖を閉め、猫のような足取りで、音を立てず素早く階段を下りた。
がたがたと玄関の引き戸が開けられた。平田爺さんの、不気味な、ぎょろ目が引き戸の隙間から覗く。
「お帰りなさいませ」
なぜか反射的に、寅雄は上がり框に正座をして、平田爺さんを迎え入れていた。
「やっぱり、来とっちゃったんですか。前に車が停まったけ、そうじゃないかとは思うとりましたが」
平田爺さんの声は、あいかわらず聞き取りにくい空気の抜けるような声であった。
「車が停まった」と、平田爺さんは言った。平田爺さんは寅雄が来ていたことを知っていたようだ。
寅雄は、ごくりと唾を飲んだ。
寅雄は、勝手に平田爺さんの家の中に入っている。平田爺さんに責められて当然の状況だ。
さらに、寅雄は二階に忍び込んでしまった。寅雄が二階に上がって、何かを探っていたと感づかれていないかと、寅雄は不安に陥った。
緊張のあまり寅雄の胸部が大きく膨らむ。胃が胸にある左右二つの肺の間まで上がってきたようだ。
立て付けの悪い引き戸を、平田爺さんは、がたがたと引く。だが、引き戸は、ほとんど動かない。
慌てて寅雄は靴を、つっかけた。引き戸を力いっぱい、勢いよく開ける。
「すみません、勝手に上がりこんでしまって。平田さんが、いつもの部屋におられるかと思いまして」
恐怖と不安から寅雄は必然的に腰が低くなる。
「ああ、ちょっと裏で草抜きをしよったんですわ。この足じゃろ、なかなか家に戻れんで」
すでに家に入り込んでいる寅雄を見て、平田爺さんは不審に思っている様子はなかった。
寅雄の心中に安堵感が、広がった。だが、油断は禁物だ。
平田爺さんが、「よっこらしょ」と上がり框に腰を下ろし、サンダルを脱ごうとした。
慌てて寅雄は平田爺さんのサンダルを脱がせた。平田爺さんの両脇に自分の両腕を入れて、家に上がらせる。
素早く、寅雄は玄関の引き戸を閉めた。
「すみませんのう。あっ、そうそう、犬がおるんですか? 車の中からワンワン吠える声が聞こえとりましたが」
車の中のベンザイの声が聞こえたのか――。平田爺さんの耳は地獄耳だ。年齢の割には、よく聞こえる。
「ああ、そうなんですよ。昨日から飼ってるのですが。あれ? あいつ、何かないと、そう簡単には吠えないんですがね」
「猫でも横切ったんじゃろ」
キャリーバッグに入っとるベンザイに、猫の姿なんか見えるはずがなかろうが――。
視線のドリルで二つの穴が開くのではないかと思われるくらい、平田爺さんの後頭部を寅雄は睨む。
だが、平田爺さんの後姿を見ながら、寅雄の腰から首筋まで悪寒が爆走した。両肩が、トンボの羽のように前後に敏速に動く。
爺さんには、不気味な謎が多すぎる――。
室内用の杖を持って、平田爺さんは、いつもの部屋の引き戸を開けた。触れた引き戸に、指先の形をした土が付く。
平田爺さんは足元にあった寅雄の手土産を、抜かりなく、ちろっと見た。ぎょろ目が、さらに大きくなる。
足を引きずりながら、平田爺さんは古い箪笥に向かって歩いた。
杖をしっかりと握り、手を、ぶるぶると震わせる。両足の膝を軽く曲げ、引き出しの取っ手を引っ張った。以前、寅雄が帳簿を出した引き出した。
寅雄は手土産の『まぼろし』を部屋に入れ、テレビの目の前に正座をした。
請求の明細書と領収書が入っている封筒と、預かっていた帳簿をバッグの中から寅雄は取り出した。
「きっちりは準備できんかったんですが、お釣りはありますかいのう」
古い箪笥の引き出しから、剥き出しの数枚の一万円札を平田爺さんは取り出した。相変わらず置かれてある炬燵の上に一万円札を、ぱさっと載せる。
「大丈夫ですよ。お釣りは準備していますので。では、失礼して」
寅雄は土が付着した一万円札を数えた。三万円あった。
三万円の現金を受け取った場合用の釣りの封筒を、寅雄はバッグの中から取り出した。
「準備が、ええんですのう」
何の準備がいいのだか、平田爺さんの目は、すでに『まぼろし』から離れなくなっていた。
「はい、では、五百四十八円の、お釣りのです。有難うございました」
たった二万九千四百五十二円の売り上げで、三本も日本酒を自前で買って持ってこさせられるとは。寅雄にしてみれば納得のいかない話である。
大きな企みがある以上、致し方ない。だが、大きな企みが寅雄の心の中で、危険信号を発している。
寅雄は、とにかく、こんがらがった自分の頭を落ち着かせたかった。
さっさと酒を渡して、さっさと帰ってやる――。
平田爺さんに釣りを渡し、釣りが入っていた封筒に土が付着した三万円を入れた。寅雄は紙袋に入れたままの『まぼろし』を炬燵の上に置く。
寅雄は迷った。
最後の挨拶はどうしたらよいか。今後も会わなければならないか、それとも平田爺さんとは、これっきりにしたほうが身のためか。だが、今、すっぱりと切り落としてしまうのは、どうも勿体ない。
曖昧な別れの言葉を吐くのが無難だと、寅雄は思った。
「じゃあ、私は今日はこれで失礼させていただきます。また何かありましたら、何なりと申し付けてください」
にこりと笑いたくもないのに、寅雄は無理矢理どうにか作り笑顔を浮かべた。
「じゃあ、ついでで申し訳ないんじゃが、酒の包み、開けてくれんかのう。手が震えますけ」
なあん、にー。甘えとんか――。寅雄は、ぎりぎり歯を食い縛った。
だが、今後、百二十坪の土地が、どうなるか全然わからない。この場は、いい人を装おうのが得策だ。
寅雄は『まぼろし』を紙袋から出し、紙袋を綺麗に折りたたんだ。包装も綺麗に開く。箱の中から酒を取り出し、蓋も抜いてみせた。
「すみませんのう。ついでに量が半分になるまで、付き合ってもらえんですか。わしの手じゃ、一升は重とうて、よう持てませんわ」
ぱくぱくと口を動かしながら、平田爺さんは前回と同様に、コップを炬燵の中から出した。
寅雄は両掌を平田爺さんの前に、どーんと突き出した。
「あのっ、僕は飲めませんから。車がありますし、犬もいますので」
また、腹が激痛に襲われては、たまったもんじゃない。寅雄は、酒を勧められる前に、慌てて断った。ただ、犬は関係ない。
「コップは一個しか出しとらんよ。もう一個、炬燵の中に入っとるが」
わし用のコップが炬燵の中に……冗談じゃねえ。車で来て、よかったあ。それにしても重たいんなら、一升ビンを持って来させるな、っつうんだよ――。
寅雄の額に、青く太い血管が浮き出てきそうだった。
「七百二十を二本じゃったら、一人で何とかなるんですがの」
なんじゃ、そりゃ――。寅雄の額の上に、さらに毛細血管までもが浮き出てきそうになった。
「あの、僕、今日は残念なことに仕事を残して出て来たんですよ。すぐに戻らないと、いけないんです。なんなら、別の入れ物に半分ほど入れましょうか? 麦茶を入れる容器とかあれば……」
「ない」
平田爺さんは、あっさりと返答した。手に持ったコップを、ずるずると一升瓶に近づける。
まるで駄々っ子のような、痩せ細った老人の平田爺さんを見て、寅雄は、なんとなく可哀想な気もした。
だが、今の寅雄には、平田爺さんの家で暢気に酒を注ぐほど、心の余裕などない。
次に出てくる平田爺さんの軽い一言で「可哀想」などという気持ちは、さっと裏返り「ふざけんな!」という気持ちに変わるに決まっている。
そんな寅雄の気持ちなど、まるで気付かないのか、平田爺さんはコップを一升瓶にカチッと当てた。
寅雄の右眉が、ぴくりと動いた。寅雄の頭もカチッと鳴る。ついに、寅雄が喉から低い声を出した。
「爺さん……」
「二階には、肥料が仰山、あったじゃろ」
平田爺さんの言葉が、あっさり寅雄の言葉を押し潰した。
押し潰された言葉は、火の点いたアルコールのように、さーっと何処かへ消えていった。
二階に上がっていた寅雄の行動に平田爺さんは気付いていた。なぜだ――。
頭がパニックになっている寅雄を平田爺さんは、ぎょろ目で一瞥した。何もなかったかのように平田爺さんは視線を、すっと一升瓶に戻す。
「入れとった納屋を壊したけ、遊んどる部屋に移したんじゃ。捨てるのも惜しゅうてのう。この足じゃ、もう畑仕事もできんのに」
カチッと再び、平田爺さんが一升瓶にコップを当てた。
カチッという音は、かちこちに固まっている寅雄の首を鋭利なナイフの先で、チクチクと刺している音のようだった。
「あ、そうなんですか? 二階には肥料があるんですか? 嫌だなあ、もう。僕は玄関で平田さんを、お待ちしてましたよ」
寅雄の声は、自分でもわかるくらい、引っ繰り返っていた。
「そう言うてんなら、そうじゃろ。白黒はっきりさせる必要もないわ」
明らかに平田爺さんは、寅雄の行動を見抜いている。
だが、寅雄は疑問を抱いた。足が悪くなって畑仕事ができなくなったから、納屋を壊したような口振りで平田爺さんは話した。
となると、平田爺さんは足が不自由にもかかわらず、大量の肥料を二階に運んだというのか。肥料は、どう見ても一袋十五キロの重さはある。
「その肥料は、どなたか運んでくださったのですか?」
あくまでも肥料など見ていない、という振りをしながら、寅雄は平田爺さんに、けろっとした声で質問した。本心は平田爺さんの答えに、寅雄は興味津々だった。
「『まぼろし』いう名前は、ええですのう。何十年も前の戦争は、幻のようですわ。わしの青春時代は悲惨じゃった。わしは戦時中は陸奥に乗ったことがあるんじゃ」
いつも通り寅雄を嘲笑うかのように、平田爺さんは肝心なところで、話を逸らした。
平田爺さんから視線を離し、寅雄は下を向いた。寅雄の膝の上にある両手は、ぎっしり指を絡めていた。指が全て折れるのではないかと思われるくらい、指に力が入る。
耐え切れなくなった寅雄は「どうとでも、なってしまえ!」と心の中で叫んだ。きりっと平田爺さんの顔を睨む。
平田爺さんは、コップを一升瓶に当て、カチカチと小刻みに鳴らし続けていた。
カチカチ、カチカチ――平田爺さんは苛立つ寅雄の心を弄んでいるとしか思えない。
ゆっくりと寅雄の口が開いた。
「やかましい。爺さんが海軍におったなんて昔の話、わしの知ったことじゃないわ」
寅雄は、とうとう平田爺さんに牙を向けた。とことん暴れてやると、意識して決めたわけではない。突発的に、寅雄の本能が出ただけだった。
両肘と腰を曲げ、平田爺さんの顔を寅雄は覗き込んだ。というより、眼を飛ばした。
だが、平田爺さんはコップを一升瓶に当て続ける。寅雄の声など聞こえなかったかのように、じーっと一升瓶を見ている。カチカチ、カチカチ――。
「爺さん、たった三万の香典返しで、わしは三本も高級な酒を持って来たんで。高級な寿司まで持って来た。三万じゃ納まっとらんわ」
コップをカチカチと鳴らす平田爺さんの手が、止まった。
「普通、断るわ。こんな儲けにならん香典返しなんか。他に目的があるんじゃろ? でないと、ただの阿呆じゃ」
ぎょろ目を軽く瞑り、平田爺さんは再び瞼を、かっと開けた。はっと寅雄の顔を見る。
平田爺さんの小皺だらけの瞼は、ゆっくり下りる。丸い眼球を上半分ほど覆った。下瞼も上がれば爬虫類そのものだ。
しかしながら、平田爺さんの、ぎょろ目は寅雄を責めているようには見えない。どこか寅雄を哀れんでいるような目であった。
両眉を中央に寄せ、寅雄は平田爺さんを睨んだ。
爺さんは、わしを恐れとらん。それどころか――。拍子抜けと同時に、強い怒りが一気に湧いてきた。
「なんや、その目は。わしが可哀想じゃとか思うとんか! 営業成績を上げるために必死になっとるとでも思うとんか! そんなに成績が悪いように、見えるんか!」
さすがに「土地を狙うとる!」とは言えない。無難な攻撃を寅雄はした。
ぎょろ目の視線を一升瓶に戻した平田爺さんは、皺だらけの下唇で上唇を押し上げた。
「土地じゃろ? あんたの目的は。はは、顔に出とる。正直者じゃ」
一升瓶に映っている自分の顔に笑っているのか、平田爺さんは余裕だった。
「わしが今、本気になったら、あんたの骨、全部折ることだってできるんで。まあ、殺しゃあせんよ。殺人犯になるけ」
「ほほ、わしが死ぬる、思うとんか? 骨も折れる、思うとんか?」
すると、いきなり寅雄の真後ろにある引き戸が、がらっと開いた。
寅雄の両肩が上がる。首を縮めたまま、寅雄は振り返った。
大男が立っていた。大男は、まさしく、寅雄を見下している。身長は、少なく見積もっても百八十センチはありそうだ。
唇は太く、薄っすらと開いている。頭は綺麗なツル禿。ぴちぴちのTシャツは上半身の筋肉の形を浮き上がらせていた。だが、顔だけ見ると、五十歳は過ぎていそうだ。
正座をしていた寅雄の尻が、載っていた足から左側の畳の上に、すとんと落ちた。左掌を畳に付け、グラビア・アイドルの色っぽい写真のポーズのようにになっている。
爺さんの用心棒か――。寅雄は、平田爺さんの骨を折る前に、自分が殺されると思った。
だが、ここで怯んでいてはならない。寅雄は大男を下から睨みつけた。
「お前は……誰じゃ。わしの体が、こまいいうて、舐めんなよ。こまいなりに有利なことも、えっとあるんじゃ。わし、スーツを脱いだら凄いんじゃけ」
女の子座りのまま、寅雄は両腕を構え、腰抜けのファイティング・ポーズをとる。
ところが、明らかに大男は寅雄を舐めきっていた。
「懐かしい『なめ猫』みとうなの。ちいそうて。背中に棒入れて立つんじゃないんか?」
わしはトラじゃ。鉢巻を巻いた学ラン姿の子猫じゃねえ――。
大男は頭はツル禿のくせに、無精髭は、ちゃっかり生やしている。
じーっと寅雄は大男を睨み続けた。
寅雄の頭の中に、コンピューターのモンタージュ写真が浮かぶ。
大男から髭を取り、痩せさせ、皺くちゃの華奢な小柄の爺さんにしたら――。
「まさか、爺さんの引き篭もりの息子か? はっはっ」
気の抜けた笑いが、寅雄の口から零れた。引き篭もりの人生の負け組。世間の評価が自分よりも下の人間。体ばかり大きい役立たず男。
寅雄の挑発に、大男の胸の筋肉が、ぴくりと反応した。軽く呼吸をしたのかもしれない。
緩んだ寅雄の口元が、ぴしゃりと閉まる。どう見ても、力では寅雄のほうが負け組だ。
「わしのこと、引き篭もりと近所では言いよるんか。他人の陰口は想像はできても、噂は本人の耳には、なかなか入ってで。よっぽど、お節介か阿呆でないと、口に出さんわ」
意外にも、大男は軽快に話す。太い唇が微笑み、無精髭も上に上がる。やはり、平田爺さんの引き篭もりの息子に間違いない。
「わしは、お節介か、それとも阿呆か?」
「白黒はっきりさせるような問題じゃないわ」
さすが親子だ。平田爺さんの口調が、そのまま大男に乗り移っている。
「どっちが白で、どっちが黒か!」
「ちまい男じゃのう。そんとうに他人目が気になるんか?」
「お前、どっから出て来た。でかい体で足音も立てんと。二階に、おったんか? 糞だらけの肥料がある部屋に、おったんか?」
「二階には、もう一つ部屋はある。じゃが、残念でしたあ。わしは台所に、いつもおる。引き篭もりが皆、二階の自分の部屋をシーツで戸が開かんようにして親に反抗しながら過ごしよる、ちゅう常識にとらわれちゃあ、いけんのう。わしは冷蔵庫も風呂場もある台所で、合理的にゴロゴロしよるわ。わしは明るい引き篭もりじゃ」
引き篭もりらしい大男の饒舌ぶりに、寅雄は唖然となった。
目の玉を、最大限に左側に寄せて、平田爺さんの姿を寅雄は、やっと視界に入れた。両目の左側が圧迫される。
にまにまと悪魔の微笑を浮かべながら、まだ、平田爺さんはコップと一升瓶をカチカチ、カチカチと鳴らし続けていた。
平田爺さんの目は一升瓶を眺めていた。だが、平田爺さんの悪魔の視線の、もっと先に、酒ではない別の何かがあるようだった。なんとなく、悲しい何かが。
「父さんは、わしを守っとるつもりらしい。母さんも死んだんじゃけ、世間を気にする必要は、のうなったんじゃがのう。母さんに『みっともない』って言われて、十年も隠され続けた、わしを、いきなり外に出せれんじゃろ。まあ、ええわ、そんとうな、つまらん話。ところで、土地が欲しいんか? 何処の土地か? 小癪な真似せんと、正面から話をしようや」
平田爺さんの妻も、平田爺さんの弟の妻も、どうやら、かなりの恐妻だったようだ。平田兄弟の女の好みは似ていたのかもしれない。
引き篭もりの息子は、どっしりと大きな尻を畳の上に載せ、胡坐を掻いた。膝までのジャージが少し上に上がる。袋脛と腿が異様に太い。ラグビーか競輪の選手のようだ。
引き篭もりの息子の体格は十年も引き篭もっていたとは、全く思えない。夜中の妙な外人が出てくる通販番組で、多種多様な健康器具を大量に購入しているのではないかと、疑ってしまう。
引き篭もりの息子の首が伸びる。寅雄の顔に、引き篭もりの息子の顔が、ぬーっと近づいてきた。
両掌を両腿に載せ、右肩を前に突き出した引き篭もりの息子の姿は、賭場にいる人相も性質も悪い男のようだ。
「百二十坪の……」
寅雄の心の中の恐怖が、胸を締め付け始めた。声が、やや小さくなる。
引き篭もりの息子は顎を引いた。小指で右耳を穿る。
「よう、聞こえんのう。男なら、しゃきっと言えや。欲しいもんは欲しい言うとかんと、後悔するで」
「ひゃ、百二十坪の土地が欲しいんじゃ! あのゴミ広場の! 相続税が払えんのんじゃろ? 手伝っちゃる言いよるんよ。わしは、お前らの救世主になっちゃる」
声を裏返しながらも、寅雄は強気に出た。
平田爺さんが鳴らすカチカチの四倍くらいの速さで、寅雄の心臓がバクバクと耳の鼓膜を打つ。
「ほう、救世主ねえ。えっと、百二十坪……細かい数字までは知らんわ。あっ、あれかの、新交通の上の。父さん、あの土地じゃろ、百二十坪のゴミ広場いうたら。山田さんとこの畑の上の、例の」
例の――?
カチカチという音が止まった。
「ほうほう、あっこの土地ね。道が狭もうて車が入りにくい、ゴミ捨て場か。わしゃあ、てっきり松茸山かあ思うとったわ。あれが、のうなったら、商売にならんけえのう。あの山しか、稼げれんけ」
平田爺さんは、寅雄を見て、気持ちの悪い笑顔を見せた。いつも通り、歯は、ほとんどない。
百二十坪の土地を平田爺さんは貶した。だが、その程度の欠点など、なんとかなる。
案外、容易に狙っている土地が手に入るかもしれないと、寅雄は察した。眩しい光が寅雄の心に差し込む。
「道が狭い、言うても、車は通る。ゴミは処分すりゃあええ。あの土地を売る気は、ないか?」
気持ちの悪い平田爺さんの笑顔に、寅雄は真剣な眼差しを送った。
「うん」と言ってくれ、「うん」と――。
「別に、ええで。あんな土地」
あんな土地――。
手放しても惜しくも、なんともない、という返答を平田爺さんは、あっさりとした。
何か問題がある土地なのかと、寅雄の心は、くらっと揺れた。
地滑りが起こりそうな危険地域、住宅を建てる条件が厳しい、熊が出る、農業には向いていない不毛の土地……家庭菜園をするつもりはないから、不毛でも構わない。
想像できるだけの問題が、寅雄の頭の中で浮いたり沈んだりした。
「父さん、そんとうな言い方は失礼じゃ。わしらを助けてくれる、っちゅう人に対して、不安にさせるような言い方を、しちゃあいけん」
目を瞑り、引き篭もりの息子は頭を左右に振っていた。太い唇の両端が上がっている。ふざけているようにしか見えない。
寅雄は、ますます不安になってきた。つい数秒前に心に差し込んでいた光は消え、暗黙になった。
「わしは、あんな土地、どうでもええ。じゃが、土地は要らんが、金は欲しいのう」
カチカチと平田爺さんは、再び、コップを一升瓶に当てる。
「どうでもええって、何か問題がある土地なん……ですか」
きょろきょろと目だけ、寅雄は機敏に動かした。平田爺さんと引き篭もりの息子を交互に見る。
攻撃的だった態度を、どうしたらよいものかと、寅雄は、ばつが悪い状況になった。
だが、平田爺さんが百二十坪の土地を手放したくなる理由を、寅雄は、何が何でも知りたい。
「いや、特にはないなあ。松茸山を売るよりはマシ、というこっちゃ。松茸山以外は処分してもええと、思うとったとこよ」
引き篭もりとは思えない、態度も体格もでかい引き篭もりの息子が、躊躇する様子もなく答えた。
じーろ、じーろと、ゆっくり目を動かし、平田爺さんと引き篭もりの息子を交互に寅雄は見た。
「なんじゃ、疑うとんか? あの土地は結構、大人気なんで。三日くらい前かのう、母さんに依頼されて土地の管理をしよる弁護士が不動産会社を連れて来てから、土地を売ってくれって言いよったわ。あそこの土地なら綺麗に造成すりゃあ、ぎゅうぎゅうで四軒は家が建つ」
欲しがる奴が、他にもいると聞けば、寅雄は、なおさら百二十坪の土地が欲しくなってきた。
不動産会社が直談判をしに来るくらいの土地である。掘り出し物件に違いない。
土地の怪しい疑惑など、寅雄の頭から吹っ飛んだ。
「その土地、幾らで買う、って言いよったん……ですか。その不動産会社は」
「そりゃあ、言えんのう。フェアじゃない商談はせん。まあ、不動産会社は造成とか道とか、そういう、ややこしいことは自分らでやる、言いよったわ。役所が絡むけえのう。ついでに、ゴミの始末も。今ある土地を、そのまま売ってくれりゃあええんと、向こうさんは」
目を細くしながらも、大男は両眉を上に上げた。「不動産会社と同等の条件で、幾ら払えるかね、なめ猫ちゃん」と言われているようだった。
女の子座りをしていた寅雄は、尻を足の上に載せ、正座をした。
「返事は、もう、したん……ですか? 売る、いう返事」
引き篭もりの息子は鼻を膨らませ、空気を吸った。鼻から息を、ふぅぅぅっと吐き出す。
「お前、頭が足りんのう。買いたいって言うて来ただけじゃ。とりあえず、考えときます、とは返事したがの、父さんが。わしは台所から聞いとっただけじゃけ」
寅雄が態度を控えめにしたにもかかわらず、大男は相変わらず上から物を言う。
「わし、あの弁護士、好かん。婆さんと組んどったんじゃろ? ぺらぺら、ぺらぺら、調子よう喋る。ありゃあ、何か企んどんじゃないんか」
いじけた子供のような声が、寅雄の左側から聞こえた。
くいっと寅雄は平田爺さんに顔を向けた。コップと一升瓶をカチカチと当てながら、平田爺さんは顎を炬燵の上に載せていた。
平田爺さんの、しわしわの下唇が、滑稽なほど前に突き出されている。下唇に穴を開け、その穴に大きな皿を入れている、遠い国の部族のようである。
「父さん、そんとうなこと言うて、どうするん。企みがあったとしても、わしらが得すりゃ、ええじゃろ。企みを全て否定する必要はない。利用すりゃあええんよ、利用すりゃあ」
寅雄も企んでいたつもりだった。だが、法律を熟知している弁護士の企みと比較すると、寅雄の企みなど、単細胞の小さなゾウリムシのような企みだったのかもしれない。
寅雄は上体を少し、前屈みにした。
「僕も、その弁護士、知ってます。僕の顧客ですから。確かに信用はできないですよ」
ご近所の噂話をするように、寅雄は家の中にもかかわらず、小声を出す。
「どうして、こそこそ話、なんじゃ」
引き篭もりの息子の太い唇の先だけが、動く。
「いや、そんなに性質の悪い弁護士なら、盗聴器を仕掛けている可能性もある」
盗聴器なんか仕掛けるわけ絶対ないが。
「ああ、それなら婆さんが仕掛けとったわ。婆さんが死んでから、探偵に取ってもらったがの。お前に肥料を取りに行ってもらっとる間に」
えっ、なぜ――。咄嗟に寅雄は平田爺さんの、不貞腐れた顔を見た。
「父さん、そうじゃったん? 母さん、そこまでして……考えられんこともないが」
寅雄には、さっぱり平田親子の会話が飲み込めない。平田家の謎が増える一方だ。
「今日は、すみませんでしたのう。一緒に酒が飲めんで残念ですわ。三日後に来てつかあさい。三日もありゃ、おたくさんも答が出ましょう」
「へっ! 三日後ですか?」
相変わらず平田爺さんは自分の都合で物事を決める。しかも、追い出すように。
だが、今日は追い出されたほうがいい。薄気味悪い平田家から、寅雄は早いとこ離れたかった。
「わかりました。出直してきます」
「おお、『まぼろし』もお願いしますわ」
いつもの寅雄なら、平田爺さんの度重なる酒の要求に、どうにも止まらない向かっ腹を、立てるところだ。
しかしながら、今の寅雄は向っ腹は立たない。酒で開放されるなら、安いものだ。
他人に聞かれたくない身内の話を、これからすると言わんばかりの表情をしながら、平田親子が寅雄を見ていた。
誰からも見送られることなく、寅雄は平田爺さんの家を出た。ベンザイの待つ車へ向かう。
「なんじゃ、この家は。あまり係わらんほうが、ええんじゃろうか」
後部座席に置いてあるベンザイのキャリーバッグを寅雄は開けた。舌を出したベンザイの愛らしい顔がキャリーバッグから覗く。
寅雄はベンザイを引きずり出した。助手席にベンザイを乗せ、寅雄は運転席に乗り込む。
ベンザイが寅雄の膝に乗って来た。
「おい、運転し辛いじゃろうが……まあ、いっか」
無邪気にベンザイが尻尾を振る。頭の中は、空っぽそうだった。
ベンザイの空っぽの頭の中に、寅雄の心労が、すーっと吸い込まれていくような感覚に寅雄は陥った。