欲しい物は、絶対、手に入れる!
第一章 嫁と家が欲しい
一
広島市内のマンションから北へ車で四十五分。国道沿いから少し離れ、県道に入る。
さらに、普通車が一台、やっと通ることができる農道を三十秒ほど走った場所に、目的地はあった。
坂下寅雄は愛車の紺色のBMWの中から、土地を眺める。両手をハンドルの上部に載せ、さらに手の上に自分の顎を載せた。
「こりゃ、ゴミ広場じゃ」
百二十坪の土地は、無人の廃棄物置き場となっていた。
タイヤ、テレビ、電子レンジ、冷蔵庫、ソファーなどが山積み。タイヤやナンバープレートがない軽自動車が二台。
平地の大部分は、ゴミの山から草が隙間を縫って、やっと顔を出している。
まさに、ゴミがゴミを呼んで形成された、ゴミの山だ。
隣の民家から二百メートルくらい離れているからだろう。こそこそと大きなゴミを捨てるには、絶好の場所に違いない。
「くっさい臭いがするんかのう。嫌じゃけど、ちいと出てみるか」
寅雄は思い切って、BMWの外へ出た。車内では見えなかった風景が、新たに目に入ってくる。
外は寅雄の鼻を一撃する臭いが漂っていた。何かがドロドロと溶けた未確認物体のような物も、ちらほらと見える。
「このゴミの始末も含めて、交渉せんといけんじゃろうのう」
寅雄は周囲をぐるっと眺めた。数メートル下の畑の隅に、鶏糞と生石灰の袋が置かれていた。
「生石灰の袋、破って積み上げときゃ、雨の日に燃え上がるじゃろ。廃棄物の始末に、いちいち金なんか、掛けとられん」
寅雄は、軽く頷きながら、再び車に乗り込んだ。
ゴミ広場の一角に唯一、方向転換のために残されたような砂地があった。その狭い砂地にBMWの頭を突っ込む。三度も切り返して、やっと車が百八十度回転した。
「この道も、家の前を広めに取りゃあ、なんとかなる」
寅雄は再び、来た道を走り始めた。
農道から県道へ入り、さらに北へBMWを走らせる。カーナビのGPSの反応が時折、鈍くなった。
「高い建物はないんじゃけど。山ばっかりで」
文句を愚痴っている間に、第二の目的地に到着した。農道から県道に出て、五分くらいだった。
二
「なんだー、かんだー言っても、カーナビ様様」
第二の目的地の前に、寅雄はBMWを路上駐車させた。
再び、両手をハンドルの上部に載せ、さらに手の上に自分の顎を載せると、寅雄は鼻で笑った。
「お粗末さん。これじゃ、相続税も払えんかもしれんのう」
寅雄の目の前には、三十坪くらいの土地に築五十年は経過していると思われる、二階建ての家があった。
山奥だけあって、隣家が見えない。放火魔に狙われたら、あっという間に燃え上がりそうな木造建築だった。
寅雄はルームミラーを覗く。後ろのシートに置いていたネクタイを着け、四十三歳らしく少し広くなった額に、前髪を作る。
それからおもむろに、助手席に置いた大きな紙袋を手にした。紙袋には、寅雄が勤める大手デパートのマークが、宣伝を兼ねて、大きく描かれていた。
寅雄は紙袋の紐を左右に引っ張り、中を覗いた。
紙袋の中には、広島の地酒『雨後の月』が入っていた。少しでも、相手に好印象を持ってもらうために、化粧箱入りの限定品を選んだ。
「爺さん、酒好きらしいし、これでフランクな話ができるじゃろ」
寅雄は膝の上に紙袋を置き、スーツの襟を両手で掴み、ぴっぴっと二度ほど引っ張った。
「さて、いざ、出陣」
家の主が、どこから見ているかわからない。BMWの扉を颯爽と開け、寅雄はスマートに外に出た。デパートの外商の仕事で身に付けた業の一つだ。
古く、字が消えかかっている木製の表札には、薄っすらと『平田』と書いてある。間違いない。
寅雄は小さな玄関に付いている、古い呼び出しベルを押した。家の中から、「ブーブー」と、寅雄が押した回数だけ、呼び出しベルが鳴っているのが聞こえた。
しばらくの間、家の中から反応がなかった。
もう一度、呼び出しベルを鳴らしてみようと、寅雄は左手を挙げた。
すると、引き戸の向こうから音がした。玄関で、サンダルを履く音だ。
足が悪いのか、サンダルを履くのに時間が掛かっている様子だった。ずるずるとサンダルが細かく移動する音が、微かに聞こえる。
勝手に引き戸に手を掛けることはできない。寅雄は中から住人が出てくるのを、辛抱強く待った。
いつ、玄関の引き戸が開いてもいいように、紙袋の紐を両手で握り、背中に定規を入れたように、寅雄は直立していた。
三
一分くらい経ってからだろうか。引き戸の磨り硝子に人影がぼんやりと浮かんだ。
ゆっくりと引き戸が引かれ、杖の先と老人の顔が中から、ぬーっと現れた。
寅雄の胸に、冷たい空気が流れ込んだ。一瞬、呼吸が止まる。
皺くちゃの年季の入った老人の顔は、まさしく痩せ細った幽霊のようであった。
老人は、口をぱくぱくさせていた。声が出しにくいようだ。
「平田三次様でいらっしゃいますか? 私、先日、お電話を差し上げました、坂下寅雄と申します」
寅雄は得意の営業スマイルを浮かべた。幽霊なんて、全く見ていないかのように。
老人は、うんうんと頷き、大きく口を開けて微笑んだ。歯がほとんど無くなっている。思わず目を逸らしたくなるような醜悪な微笑も、ちょっと珍しい。
「あー、昨日、電話くれた方じゃの。待っとりました。話し相手がおらんもんじゃけ、年甲斐もなく、首を長うしとりましてのう。ちいと待ってつかあさい、開けますけ」
この老人が平田三次のようである。年齢は九十歳くらいのはずだ。歯が少ないせいか、空気が抜けるような話し方をしている。
平田爺さんは、引き戸を引こうとした。だが、引き戸は立て付けが悪い上、老人には重たいらしい。なかなか開かない。
「あっ、開けましょう」
寅雄は引き戸に右手を掛けた。平田爺さんは壁に凭れ掛かった。同時に、ちろっと寅雄が持っている紙袋に目をくれる。
手土産らしき紙袋を見て、平田爺さんの顔の全ての皺が微妙に上に上がった――ように、寅雄には見えた。気のせいじゃないだろう。
寅雄は紙袋の紐を左腕に通した。背中の曲がった平田爺さんの目の高さに紙袋を上げる。こうして、両手で引き戸を引いた。
平田爺さんの垂れた皮膚で覆いかぶさった目が、念力で透視するかのように紙袋を凝視していた。
寅雄の手土産の効果は、あったようだ。自分の策略に簡単に引っかかりそうな爺さんだと、寅雄は直感した。
寅雄は自分が通れるだけ、がたがたと引き戸を開けた。
家の中は、鼻と口を覆いたくなるような、独特な臭いが漂っていた。
寅雄は、外の空気を多めに吸って、意を決して玄関に入った。がたがたと引き戸を閉める。
「すみませんのう、お客さんに、こんとうなことさせてから。玄関じゃ、申し訳ないですけん、中に入ってつかあさい」
平田爺さんは、ゆっくり上がり框に腰を下ろした。立て掛けていた室内用の杖を手にし、サンダルを脱ぐ。
じれったい平田爺さんの行動が、どうにも寅雄をイラつかせた。
寅雄は、しゃがみ込んだ。引っ手繰るように、平田爺さんの足からサンダルを手早く脱がせる。
「平田さん、僕に掴まってください」
平田爺さんに好印象を持たせるためには、多少のことで顔色を変えていてはならない。
寅雄は、いかにも親切そうに、精密機械を扱うように、平田爺さんの両脇に両手を入れた。
「すみませんのう。歳をとると、ろくなことになりませんわ」
吹けば飛んでしまいそうな軽さの平田爺さんを、寅雄は子供を抱き上げるように立たせ、家に上がらせた。
寅雄自身も、病人に付き添うように、靴を脱ぎ、家に上がり込んだ。
「こっちの部屋に、どうぞ」
玄関の右にある部屋を、平田爺さんは指を差した。
寅雄は靴を揃えた。次に、右側の中途半端に開けられた引き戸を、さらに開けた。五月だというのに、まだ炬燵が出ていた。
引き戸の右側には窓があり、県道が見える。右の隅には赤い十四型の古いテレビがあった。いかにも素人が作ったような木製の台の上に、テレビは載せられていた。
炬燵を挟んで、向こう側の壁には古い箪笥が置かれていた。何か絵が描かれているようだった。
だが、何が描かれているのか、全く解らないくらい絵は薄れていた。
「どうなさった。まあ、何処でもええですけ、腰、下ろしてつかあさい」
唐突に、寅雄の背後から平田爺さんの声がした。部屋を物色している姿を見られたのではないかと、寅雄は少し焦った。
「では、失礼します」
平田爺さんの顔を見ることなく、寅雄は一歩ずいっと前に出て、テレビを隠すように座った。
「まだ、炬燵、出しとるんですよ。外は暑そうに見えるんじゃが、体が冷えてから。片付けるのも、面倒で」
平田爺さんは一つだけ持って来た、茶托もない湯飲みを「どうぞ」と、炬燵の上に置いて、寅雄に勧めた。
寅雄は、紙袋を取り出した。まずは、平田爺さんが興味を示した物を出せば、話は弾む。
「あの、昨日お電話で伺ったとき、お酒がお好きだと……」
「わしの薬は酒ですけん」
平田爺さんは座椅子に腰掛けながら、寅雄が持参した紙袋を、ちろっと見た。
「『雨後の月』というお酒、ご存知ですか?」
平田爺さんの酒の好みを探るべく、寅雄は尋ねた。
「おお、知っとる、知っとる。あの、呉の酒じゃろ?」
平田爺さんの茶褐色の顔は、異様にきらきらと、まるでゴキブリの羽のように輝き始めた。
おもむろに、寅雄は紙袋を平田爺さんの座る座椅子の横に置いた。
「今日は、ご挨拶代わりにと思いまして、『雨後の月』を持って参りました。大吟醸の限定品ですが、お酒通の平田様のお口に合うかどうか……」
「わしは、アルコールが入っとりゃ、それでええ。あ、今から一緒に飲まんですか? ちいと待っとってください。コップ持ってきますけ」
「いや、僕は車ですので」
「ああ、そうですか。わしは若い頃、飲んでそのまま運転して帰りよりましたけど、今は煩そうなっとるようですのう。じゃあ、わしだけ頂こうかのう」
座椅子から、とろりとろりと立ち上がろうとする平田爺さんを見て、寅雄は、すくっと立ち上がった。
このままでは、話が進まない。
「平田さん、僕が取ってきますよ。台所は奥ですか?」
「ああ、そうじゃが、他人様にお見せできるような状況じゃ、ないんですわ。ハエも仰山、飛びよるし。まあ、座っとってつかあさい」
嫌がるものを、敢えて手出しすることは、今後の商談に悪影響を及ぼしかねない。
寅雄は、立ったついでと言わんばかりに、両腕を平田爺さんの両脇に入れ、ひょいと抱き上げて、平田爺さんを立たした。
「若い人は、力があってええのう」
平田爺さんは、お世辞とも嫌味とも取れる、言い方をした。
寅雄は、平田爺さんが部屋から出て行ってから、テレビの前に座った。
「まさか、飲むとは思わんじゃろ。さっさと本題に入らせや。あっ、酒、出しとこ」
いらいらしながら、寅雄は紙袋から酒を取り出した。びりびりと包装紙を手荒に破り、丸めてポケットに入れる。さっさと化粧箱を開け、中から『雨後の月』を出した。ついでに、すぐ注げるようにと蓋も取っておく。
しばらくして、トントンと杖の突く音がした。開けっ放しになっていた引き戸から、平田爺さんが寅雄がいる部屋に入ってきた。
寅雄は、にっこりと笑いかけた。
「今、飲んでいただけるとは、光栄です」
「すぐ飲めるように、箱からだしてくださっとったんか。さすが、気が利きますな」
炬燵の上に置いてある『雨後の月』を見ながら、平田爺さんは座椅子の前にコップを置いた。「よっこらしょ」と座椅子に座る。
寅雄は何も言わずに、コップに酒を注いだ。
コップを震える手で握り、平田爺さんは一気に飲み干した。
「ああ、美味い」
平田爺さんは寒い夜に風呂に入るような声を、腹から出した。
寅雄が、再度、酒をコップに注いだ。
「平田さん、お香典返し、どうなさいます? うちのデパートの商品でお願いしたいのですが。葬儀屋さんへは、僕からお話しますよ。奥様が亡くなられてから、もう半年は経ってますよね。相続税の手続きとか、されているのですか?」
寅雄は一人暮らしの老人を心配する好青年を演じた。とうに、青年は終わっているが。
だが、寅雄が本当に知りたいのは、平田爺さんが物納として相続税を収めるのかどうかだった。
好印象のまま、自分の訊きたいことを訊き出そうと、焦る気持ちを抑えて寅雄は質問をした。
「いや、まだ、なあんにも。ところで、呉いうたら、わし、戦時中に大和に乗ったこと、あるんですわ。今のわしじゃ、想像もできんじゃろうけど。へへへへ」
よっぽど酒が美味いのか、平田爺さんの顔の皺は、全て、重力に引っ張られたかのように、下へ向かって落ちていた。
本当に“なあんにも考えて”ないのか、寅雄の質問は、あっさりとかわされた。
容赦なく、平田爺さんは酒を飲み続ける。
平田爺さんが飲み干す度に、寅雄は絶え間なく酒を注いだ。
「何隻か戦艦には乗ったことがあるんじゃが、大和は、ええ戦艦じゃった」
「海兵さんでしたら、平田さん、優秀で逞しくて、いい男だったんでしょ?」
平田爺さんが、いい男だったとは全く想像していない。にもかかわらず、寅雄は口先だけで平田爺さんを持ち上げた。
「それでの、わしが乗ったときは、アメリカ軍を待ち伏せしたんじゃ」
悪気があるのかないのか知らないが、寅雄の質問を平田爺さんは再び無視をした。
額に青筋が入りそうなイラつきを抑圧していた寅雄は、徐々に落ち着きがなくなってきた。
仕事で慣れているとはいえど、プライベートな用件が目的であれば、相手に対する食らい付きかたが違う。心の余裕も、あっという間になくなる。
寅雄は百二十坪の土地を、どうしても、今日、この場で、自分の物になるように話を進めたくてたまらなかった。
「亡くなった奥様も、当時はお若かったでしょうし、心配されたのではないですか?」
寅雄はコップに酒を注ぎながら、半年前に亡くなった平田爺さんの奥さんの話を何気に出してみた。
「アメ公の野郎、来やあせんで、全く役に立たんかったわ」
また、話を逸らされた。
腿の上に置いていた寅雄の右手の人差し指が、小刻みに上下し始めた。
平田爺さんが、空になったコップをしげしげと眺めながら、語る。ちらっと、平田爺さんの目が寅雄を見た。
酒を注げ、という合図のようだ。寅雄は、何も言わず酒をコップに注いだ。
このままでは、今日の目標地点に達成できない。寅雄は、正直に話をするほうが、手取り早いのではないかと思った。
「あの、不躾で申し訳ございませんが……」
「わしは、運が良かったんじゃ。何度か島にも行ったが、大きな戦闘には巻き込まれんかった」
平田爺さんは、寅雄の声さえ聞きたくないかのように、寅雄の話を遮った。
もしや平田爺さんは、既に寅雄の策略をお見通しなのではないかと、寅雄は感じた。
どうしたら、本題に入れるか。まずは、平田爺さんの心を掴むという作戦から入って、人情で押すか。
それとも、相続税を払うことができないのなら、脅し半分で、あの百二十坪の土地を安価で売れと言うか。
「もう、ほとんど酒がのうなった。七百二十は少ないのう。一升じゃったらえかったのに」
平田爺さんは『雨後の月』のビンの口を持ち、斜めに傾けながら、名残惜しそうに見ていた。
なんて、ずうずうしい爺さんじゃ。また酒を持って来い、ちゅうんか――。
寅雄の頭は爆発寸前になった。左目の下が、ひくひくと痙攣のごとく動く。
最後の一杯の酒を、寅雄は平田爺さんのコップに注いだ。
「今度、酒、一緒に飲もうや。一人じゃ誰も相手にしてくれんし。そうそう、わし、『まぼろし』がええのう」
平田爺さんは率直だった。銘柄指定などして。遠慮という言葉など知らないようだ。
「ああ、『まぼろし』ですね。でも、ここら辺は、交通機関がなさそうですね。車を運転するわけにはいきませんし」
寅雄は平田爺さんの誘いを、遠巻きに断ろうとした。
「タクシーで来りゃあ、ええ。そんときに、香典の帳簿を渡しますけん。今日は、ご足労ありがとうございました」
平田爺さんは手強かった。酒がなくなると、寅雄に帰るよう促した。お前には、もう用はないと断言するかのようだ。
寅雄は思わず、舌打ちをしそうになった。
「かしこまりました。では近々、友人として飲み明かしましょう」
寅雄の心中は、怒りの風船でぱんぱんだった。
「明日、来てつかあさい」
「え! 明日ですか。明日は仕事がありますので、急いでも八時以降になってしまいますが」
平田爺さんは、炬燵の上に置いてあった台拭きで、コップをキュキュと磨いていた。
「ええですよ。寝るなと言われれば、いつまでも起きとりますけん。じゃあ、明日、お待ちしとります」
平田爺さんは、歯がほとんどない口を大きく開けて、微笑んだ。早く帰れと言わんばかりだ。
しかも、見送ろうという気配もない。座椅子に、ぴったりと座ったままだった。
「では、また明日、伺います」
寅雄は立ち上がり、平田爺さんに一礼をした。一人で玄関へ向かい、ぴかぴかに磨いた靴を履いた。
「『まぼろし』頼みますのう」
最後の最後に、念を押すように、平田爺さんが部屋から大きな声を出した。
「なんじゃ、そりゃ」と寅雄は小声で、唸った。
「かしこまりました。明日は楽しみましょう。では、失礼します」
立て付けの悪い引き戸を開け、少し乱暴に閉めた。寅雄は路上駐車したBMWに、さっさと乗り込む。
「なんなんや、あのクソ爺!」
寅雄は思わず、ハンドルを両手で叩いた。大きなクラクションの音が鳴り響く。
「自分の喋りたいことだけ喋りよってから。くっそ、明日は酔わして、一筆、書かしてやる」
エンジンをかけ、二車線しかない県道を、寅雄は急ハンドルを切って、ガードレールに当たる寸前の、ぎりぎりのUターンをした。
平田爺さんに聞こえるように、キッキーというタイヤが擦れる音を、寅雄は当て付けに鳴らした。
どうせ、平田爺さんには聞こえていないだろうと、思いながら……。
四
平田爺さんの自宅を訪問した翌日、寅雄は再び百二十坪の土地を眺めに行った。
営業の途中ではあったが、あの百二十坪の土地が自分のものになるかもしれないと思うと、毎日でも眺めに行きたくなる。
「新交通システムから歩いて十分で、この広さ。日々、思いは募るのう」
寅雄は、空想をした。ゴミがなくなり、どーんと御殿のように大きな注文住宅が建つ。二十五歳の美奈子と自分。数年後には自然の中で走り回る、寅雄と美奈子の子供たち。
幼い頃から、当たり前のように抱いていた『結婚』という夢が、四十三歳にして、やっと手に入る。
しかも、相手は元『ミス・もみじ』の美奈子。地方のイベント・コンパニオンのようなものであるが、それでも、上出来だ。
「あの〜、何か見えるんですかあ? ぼうっとされて」
突然、右の耳元で囁かれた。少し上を向いていた寅雄の顎が、反射的に引かれた。寅雄は、筋を痛めてしまいそうな機敏な動きで、右へ首を回す。
寅雄の右側には、眼鏡を掛け、大きなヘッドフォンを首に巻きつけた背の高い、細身の三十歳前後と見える男が立っていた。首には一眼レフのデジカメと携帯電話が、ぶら下がっている。
「あ、いや、べっ、別に。凄いゴミだなあと思って……」
車に凭れていた寅雄は背筋を伸ばした。
「ほんと、すっごいゴミですよね。地下からタイム・スリップして湧いてきたって感じですよねえ」
男は黒のジーンズのポケットに両手を入れ、まじまじと百二十坪の土地を右から左へと、眺めていた。
この男は何者か。ここを通りかかっただけか。徒歩で来たのか。まさか、この土地を狙う、寅雄の宿敵か。
「この近くに、お住まいなのですか?」
寅雄は、この男の正体を探ろうとした。
「いえ、違います。ちょっと用事があって来たんです。ここって、平田さんの土地ですよね。県道沿いの」
やはり、寅雄の宿敵か。
「さあ、僕は知らないなあ。仕事で通りかかっただけだから」
「昨日も、ここ、いらっしゃいましたよね。そのまま、平田さんの家に向かわれて」
なぜ、昨日の寅雄の行動を、この男は知っているのか。
「人違いじゃないですか」
何食わぬ顔で、寅雄は返答した。この場を離れたほうが賢明だと思った。
寅雄は、BMWの扉を開けようとドアに手を掛けた。
「そのBMWで、昨日も来てましたよね。坂下さん」
寅雄の動きが、背中のスイッチをオフにしたかのように、ぴたりと止まった。背筋に悪寒が走る。
なぜ、名前を知っているのか。この男は何者だ。寅雄の頭の中で、収拾の付かない疑問が、ぐるんぐるんと回った。
「やっぱり、坂下寅雄さんですね。僕も、この土地のこと、調べてましてね。そしたら、もう一人、調べている人がいるって聞いたもんですから」
気の短い寅雄は、考える余裕もなく、男のTシャツの首を両手で掴んだ。BMWに押し付け、顔にある皺を全て、顔面の中心に寄せた。
男の眼鏡が、斜めにずれる。
「おい、小僧、何、考えとんや、ああ? お前もこの土地、狙うとるんか」
男は恐れるどころか、薄ら笑いを浮かべた。
「さっきまで、紳士的な態度じゃったのに、いきなり変貌するんですね。わしは調べていると言うただけで、この土地が欲しいとは、一言も言っとりません」
「何じゃ、何が目的が言うてみい」
「坂下さん、この土地が欲しいんですよね。しかも、でっきるだけ安く。わし、手伝いますよ」
男は眼鏡を直し、瞬き一つせず、寅雄を凝視した。
「じゃけ、何が目的や! 人を馬鹿にしとんか!」
寅雄は、さらに強く男をBMWに押し付ける。
「坂下さん、落ち着いて。悪い話じゃないですけん。わし、知っとるんですよ、平田さんちの二階に、平田さんの息子が引き篭もっているのを」
「はあ?」
寅雄は思わず手を男から離した。男は、首を押さえ、ゲホゲホと咳をしていた。
「もう、Tシャツの首が伸びるでしょうがあ」
苛立つ寅雄を横目で見ながら、男は、むすっとした表情でTシャツの首を手で整えていた。
「昨日、わしが行ったときは、そんな様子は一つもなかったで。それらしい靴もなかった。二階から物音もしよらんかった」
「そりゃあ、近所の目を気にして、他人目に付かないようにしてるんでしょ。息子も五十二歳ですから。結婚もせん、仕事もせんと、十年間、親の年金で食っちょるわけですけん」
近所とは、一体全体、何処までが近所なのか。平田爺さんの家の周りには、民家など、どう見ても全然なかった。
「平田さんは八十八歳ですが、体はひょろひょろでも、頭はしっかりしちょる。直談判は難しいでしょう。息子から攻めてみたらどうですか。息子の話なら、聞くかも、しれんですよ」
息子がいるとは聞いていた。だが、引き篭もっているとまでは、寅雄は知らなかった。
この男は、果たして信用できるのであろうか。今夜の平田爺さんとの酒盛りもある。酒盛りの結果次第で、この男の話を、じっくり聞いてもいいのではないか。
「お前、名刺、持っとるんか」
男の身分を知るのには、名刺が手っ取り早い。
「名刺なんか、持っとりませんよ。それに、名刺なんか必要ないじゃろ、ビジネスじゃないんじゃけ」
一理あると言えば、あるかもしれない。寅雄は黙って男の顔を見た。
「じゃあ、わしの連絡先、教えておきます」
男はジーンズの後ろポケットから、ぐちゃぐちゃになったレシートを出した。
男の手が寅雄の胸に伸びた。寅雄は一歩、後ずさりした。
「なに、びくついてるんですか。ボールペン、貸してください」
「じゃあ、そう言えや」
左胸のポケットから、寅雄はボールペンを取り出した。
「高そうなボールペンですねえ。でも、重たくないですかあ? まあ、外商のお仕事なら、十本で百円のボールペンなんて、使えんですよね」
男はBMWのボンネットの上で、コリコリとレシートに自分の連絡先を書いた。
この男は、寅雄の仕事の内容まで知っていた。寅雄は、男に不気味さを感じた。
「はい、これ。わしが必要になったら連絡してください。わしは、あえて、坂下さんの連絡先は聞かんですけ。まあ、近々、坂下さんから連絡あると思うとりますけど」
背の高い男は、寅雄を見下げながら、寅雄の左腕を持ち上げ、連絡先を書いたレシートを寅雄の掌に載せた。
「じゃ、また、近々」
男は手を軽く挙げ、県道へ向かって歩いて行った。
握らされたレシートを寅雄は見た。『新田』という文字と、携帯電話の番号が明記されていた。
「新田……あいつニッタっていうんか。あいつのこと、調べんといけんかの。ちきしょう、人の愛車を下敷きにしよってから」
寅雄はレシートの表を見た。最寄の新交通システムの駅の近くのローソンで、新田は買い物をしたようだ。
レシートには今日の夜中の二時十三分という文字が印字されていた。携帯電話用の充電器を購入している。
「あいつ、一晩、ここら辺で、うろうろしていたのか?」
県道方向へ、寅雄は目を向けた。すでに新田の姿は見えなくなっていた。
五
寅雄は、翌日までにやらなければならない仕事を放ったらかしにして、自宅のマンションへ車を置きに帰った。すでに夜の八時を回りそうな時刻だ。
午前中のうちに、寅雄が勤めるデパートの地下で購入した酒を、寅雄は車の後部座席から取り出す。
もちろん、酒の銘柄は『まぼろし』である。平田爺さんの図々しいリクエストに答えて、一升瓶を用意した。
「つまみも買っときゃ良かったかのう。じゃが、ほとんど歯がない口に、かったい、するめはないじゃろ。あれじゃ、竹輪も食えんわ。ふふっ」
寅雄は、平田爺さんを小馬鹿にした笑いを、鼻から漏らした。
「寿司でも買うて行こうかのう。イクラなら、歯なしの爺さんでも食えそうじゃ。じゃけど、卵じゃ、血管が詰まるけ、食えんとか言うかもしれん。いや、たとえ食えんでも、持って行ったいうことが、肝心なんじゃ。よし!」
寅雄は空車のタクシーを探す。時間がない。
寅雄が勤めるデパートに店舗を構える寿司屋に、携帯電話から電話をした。
「大至急、特上寿司を二人前、準備してください。お願いしますよ」と、低姿勢で。
目の前に停まったタクシーに乗り込み、寅雄は自分の勤め先のデパートへ向かった。
六
寅雄は右手に特上寿司、左手に酒を持って、タクシーから飛び降りた。平田爺さんの家の目の前で仁王立ちになる。
平田爺さんの家の中から漏れる光に当てて、オメガの自動巻き腕時計を見た。夕方の渋滞に巻き込まれ、すでに九時二十五分を微妙に過ぎていた。
真正面にひっそりと建つ平田爺さんの家を、寅雄はまじまじと観察した。
昨日、入った部屋にはカーテンは引かれ、電気が点いていた。
次に顔を上に向け、寅雄は二階を見た。
二階はひっそりとしていた。正面の窓からは光は見えない。
コソ泥のごとく、こそこそと、寅雄は家の左側、右側を覗き込んだ。やはり、二階には電気は点っていなかった。
「ほんまに、引き篭もりの息子が、二階におるんじゃろうか。気配が全くないんじゃが」
寅雄は、新田に対する不信感は抱いていた。だが、息子が引き篭もっていないという確信もない。
「家に入ってから、様子を見るか」
寅雄は、平田爺さんの家の玄関の呼び出しベルを鳴らした。
昨日と同様、家の中から反応がなかった。しばらくすれば、平田爺さんが、とろりとろりと出てくるだろうと、寅雄は、じーっと待っていた。
一分ほど、経過した。だが、家の中から物音一つ聞こえない。
「爺さん、おらんのんかいの……まさか、死んどりゃせんじゃろうのう。そうなると、もっと話が拗れる」
平田爺さんに、今この状況で死なれては困る。また交渉相手を替えるのは面倒だ。
寅雄は古い小さな引き戸に手を掛けた。鍵は開いていた。
「平田さん! いらっしゃるのですか? 大丈夫ですか?」
理性と欲望の狭間で、寅雄は大きな声を出した。慌てて靴を脱ぎ、入ってすぐ右側にある引き戸を開けた。
平田爺さんは炬燵の中に、すっぽり首まで入り込んでいた。ほとんど毛のない平田爺さんの後頭部が、寅雄の目に入った。
寝ているのか、はたまた死んでいるのか。寅雄は、ゆっくりと寿司と酒を畳の上に置いた。
慎重に平田爺さんの肩を、炬燵布団の上から軽く揺すってみる。平田爺さんは全く動かない。
平田爺さんの顔を見ようと、寅雄は平田爺さんの頭を跨いだ。
「人を跨ぐな」
「うわああ、びっくりした!」
寅雄の両手と両足が、同時に上に上がった。
歪な形の、染みのある、うずら豆のような不気味な平田爺さんの顔が、布団の中から出ていた。
痩せた平田爺さんの飛び出た目は、ぎょろっと寅雄を上目遣いで睨んでいる。
大きく、深呼吸をして、寅雄は唾液を飲んだ。『平田爺さんの死』という不安が吹っ飛び、怒りが、にょきにょきと寅雄の胸の中に現れた。
平田爺さんの、寅雄を馬鹿にした態度に、寅雄は苛立った。
だが、寅雄は頬を引きつらせながらも、どうにか笑顔を作った。両眉を上げ、不安で泣き出しそうな作り笑顔になっているはずだ。
「もう、平田さん、びっくりするじゃないですか。起きていらっしゃるのでしたら、声くらい出してくださいよ」
「わしの頭を跨ぐとは。死んどるとでも、思うたんか」
平田爺さんは鋭かった。
醜悪な微笑を、平田爺さんは浮かべた。瞬きをしない、ぎょろっとした目の光が、醜悪さを際立だしている。
寅雄は、泣きそうな笑顔のまま、両膝をがくりと畳に付けた。もちろん、演技だ。
「本当に、びっくりしたあ。奥様を亡くされた旦那様は、寂しさのあまり後を追うように、ぽっくり亡くなるとか、よくある話じゃないですか」
「わしは、後追い自殺なんか絶対せん。病気でも、そうそう簡単には死なん。他人に大迷惑かけてでも、百は軽く超えるまで生きてみせる」
平田爺さんは、ずるずると炬燵から這い出した。
炬燵から押し出された座椅子を、無言で指差す。座らせろということか。
寅雄は左側から平田爺さんの両脇に左腕を突っ込み、平田爺さんの腰を少し浮かした。右手で座椅子を炬燵の中に押し入れ、平田爺さんを座らせる。
「結構、力がありますな。体、鍛えとってんですか?」
炬燵布団を綺麗に膝の上に、平田爺さんは掛けていた。
「ええ、内臓脂肪が気になりますから」
暇さえあれば、寅雄は近所の市営体育館へ行って、体を鍛えている。
寅雄が体を鍛えるのは、内臓脂肪のためだけではない。若い女から「若く見えますねぇ」と言われたいからだ。
「脂肪かあ。わしには憧れじゃったのう。若い頃から、ガリガリじゃったけ。胃腸が弱うて、太れんかった。畑仕事はしよったけ、筋肉は付いとったがのう」
胃腸が弱くて太れなかった平田爺さんは、寅雄が置いた寿司と酒の入った二つの袋を、二つの目で、じーっと見ていた。少し開いた口から、たらーりと涎が出そうだ。ふっと鰐を連想させる。
寅雄は、そそくさと自分が持って来た手土産に近づいた。
「『まぼろし』を持って来ました。もちろん、一升です。それと、うちのデパートに店舗を構える、美味いと評判の寿司屋に、特上の寿司を握らせました」
いかにも、デパートの中では自分は権力者であるかのように、寅雄は「寿司を握らせた」などど、大袈裟に表現した。
「おお、寿司ですか。じゃが、わしは歯が、ほとんど、のうなっとりますけ、食える物があるかどうか。イカとかタコとかは無理ですけん。ウニとかなら大丈夫じゃが」
「ウニとかなら大丈夫」と、いきなり高価なネタを平田爺さんは指定してきた。
血管は、どうやら詰まらないようだ。嬉しいような、そうでないような、複雑な気分に寅雄は陥った。
寅雄は、酒と寿司を袋から取り出し、炬燵の上に、どーんと置いた。
「とりあえず、食べれそうな物を食べて下さい。割り箸と醤油は、多めに入れさせておきましから。あとは、お皿とコップですかね。僕、取って……えー?」
平田爺さんは悠々と、炬燵の中から二つ、コップを出した。
寅雄の上体が、がっくり前のめりになった。
「すぐに飲めるほうがええか思うて、コップ、持って来といたんですわ。そこら辺に置いとったら、危ないけ、炬燵の中に入れといた」
「……あっ、有難うございます。でも、お皿が必要ですよね」
「そんな、洗い物を増やすこたあない。そのまま、醤油をネタにつけりゃ、ええ」
しばらくの間、寅雄は二つのコップを、じーっと凝視した。
昨日、平田爺さんが使用したコップを、台拭きで磨いている場面が、はっきりとカラーで、寅雄の脳裏にプレイバックされた。
昨日、爺さんが使っとったコップは、どっちじゃ。いや、日頃から、台拭きで磨いているとしたら、どっちでも同じこと――。
「どうされましたか、ぼーっとしてから」
寅雄はコップから視線を外し、平田爺さんの顔を見た。平田爺さんは寅雄と目が合うと、すーっと酒と寿司に目を向けた。
早く寿司の蓋を開け、酒を注げと、平田爺さんの目が訴えている。
寅雄は、ずうずうしい平田爺さんに、そう簡単には、良い思いをさせたくなくなった。
「あの、今のうちに、お香典の帳簿を貸していただけないですか? 僕が酔って忘れてしまっては、困りますので」
寿司にも酒にも、故意に手を着けず、寅雄は平田爺さんに、懇願した。
ちろっと恨めしそうに、平田爺さんは寅雄を見た。角度を少し変えたら、睨んだように見えただろう。
「そうじゃのう。わしも惚けとるしのう。ちょっと待ってつかあさい」
平田爺さんは立ち上がろうとした。
「何処にあるのですか? 僕が取りに行きますよ」
寅雄は、がばっと勢いよく立ち上がった。
家の中の様子を探るには、絶好のチャンスである。
「ああ、そうですか。あの古い箪笥の一番下から二番目の左端の引き出しに入っとります」
家の中を探索するどころでは、なかった。帳簿は目の前の箪笥の中だそうだ。
「下から二番目ですね。かしこまりました」
さっさっさと、箪笥に近づき、寅雄は左膝を畳に付けた。寅雄は、古い箪笥の下から二番目の金具の取っ手を引っ張った。
引き出しの中は、ごちゃごちゃだった。鉛筆にボールペン、消しゴムに広告。古い文庫本。カチカチに固まって貼り付いた輪ゴム。取れたであろう、ボタン。
まるで、寅雄が狙っている百二十坪のゴミ広場を連想させる。触れるのも躊躇させるくらい、気持ちが悪い。
右手の人差し指と親指であさっていると、中から帳簿が三冊も出てきた。よく見ると、二冊は極端に古い。虫に食われた跡もあった。
「すみません、三冊も帳簿があるのですが……」
「見りゃあ、わかろうが。新しいのが婆さん分」
「そうですよね。見れば当然、わかりますよね。それにしても、古いですねえ。平田トメさんと良子さんの帳簿ですか。平田さんの、お母様とか?」
寅雄は、深く考慮もせず、話のついでに帳簿の表紙の名前を読んだ。
寅雄の声が聞こえなかったのか、平田爺さんの反応がなかった。寅雄は平田爺さんの顔を、何気に見た。
なぜか、平田爺さんの口は一文字になっていた。目は上目遣いになり、ぎょろ目が大きくなっている。嫌な雲行きだ。
あまり触れられたくないことでも訊いたのだろうかと、寅雄は思った。
寅雄は、すっとさりげなく、ごった返した抽斗の中に視線を戻した。
「新しい帳簿、預からせていただきます。商品は僕のほうで適当に選ばせていただきますね。金額は、お香典の半分で宜しいですか?」
一番新しい帳簿を寅雄は手に取り、ぱらぱらと捲った。
「三分の一」
空気が抜けるような声が、はっきりと聞こえた。
「三分の一……ですか。通常、半分ですが」
寅雄は、ゆっくり顔を左側に向けた。平田爺さんの顔を再び見る。
平田爺さんは、何食わぬ顔で下を向き、コップの一つを、きゅっきゅと台拭きで磨いていた。
寅雄はコップを磨く平田爺さんの手元を、注視した。
「うちには、そんとうな大金は、ない。そもそも、香典は助け合いのために出されるもんじゃろ? 葬式代が掛かるけ」
「そうですよね。じゃあ、仰るとおりに」
平田爺さんの話は、ほどほどに聞き流し、寅雄は適当な返答をした。
寅雄は、平田爺さんに磨かれているコップの行方に、全神経を集中させていた。
帳簿を持ち、寅雄は立ち上がった。ちらちらと平田爺さんの手元のコップを見ながら、テレビの前に移動した。
寅雄は寿司と酒の蓋を開けた。割り箸を一膳分と、魚の形をした醤油入れを三個ほど、平田爺さんの目の前に置く。
「おお、美味そうじゃのう。久しぶりじゃ、寿司なんて。うちの婆さん、ばら寿司しか、よう作らんかったし」
握り寿司は、板前が握ってこそ握り寿司になるんじゃと、寅雄は心の中で叫んだ。
平田爺さんは、コップを握ったまま歯のない口を大きく開けていた。心底から嬉しそうだ。
すーっと平田爺さんの手が伸びた。
「ほれ、コップ」
寅雄の上半身が、反射的に反った。
寅雄の目の前に置かれたコップは、平田爺さんが、数秒前まで台拭きで磨いていたコップだった。
舐めとんか、クソ爺――と思っても、下心がある今の寅雄には、怒りを露にできない。
奥歯をぐっと噛み締める。今にも、ギリギリと歯軋りが起こりそうだ。
寅雄は我先にと、一升瓶を掴んだ。
「さっさ、平田さん、どんどん食べて、どんどん飲んでください」
「すまんのう。この歳になると一升瓶も、よう持たんようになってから。年寄りの一人暮らしは、こんな、つまらんことでも大変なんですわ」
なみなみに注いだ酒を、平田爺さんは、ぐいーっと飲み干した。
「ああ、美味いのう。あれ、どうされた? 酒は飲まんのんですか?」
平田爺さんのコップに酒を注いで、寅雄は一升瓶を炬燵の上に置いていた。
もちろん、寅雄の目の前に置かれたコップには、酒は注いでいない。
台拭きで磨かれたコップなど口にしたら、どんな雑菌が体に入り込むか。食中毒が怖い。寅雄は想像しただけで、身震いがした。
「じゃあ、わしが注いで差し上げますわい」
「一升瓶も、よう持たんようになった」と言っていた、ひょろひょろの平田爺さんが、骨と皮の手を一升瓶に伸ばした。
慌てて寅雄は一升瓶を奪い、抱えた。
「あっ、重たいですから。それに、僕は、酒が、あまり強くありませんので。僕のペースで、飲みたいときに自分で注ぎますから」
平田爺さんは、しぼしぼの大きな梅干のような口を尖らせた。さらに、しぼしぼになる。
平田爺さんの細い手が伸びた。寿司は掴み取られ、平田爺さんの口の中に押し込まれた。
くちゃくちゃ、くちゃくちゃ……と口を鳴らしながら、平田爺さんは寿司を食べている。噛むというより、押しつぶしているようだ。
「人付き合いは、ええほうがええで。仕事に差し障る」
平田爺さんの口の中で押しつぶされた米粒の破片が、炬燵の上に数箇所、不時着した。
寅雄は下唇を噛んだ。平田爺さんは、酒を飲めと言っている。
百二十坪の夢のマイホーム、美奈子との結婚。人生を賭けた大きな夢を叶えるために、寅雄は明日一日、腹を下す覚悟を決めた。
こんとうなことなら、整腸剤を持ってくるんじゃった。コンビニに整腸剤は売っとったかいな?――。
不安を抱きながら、抱いていた一升瓶を傾け、目の前のコップに素早く、なみなみに酒を注ぐ。
どーんっと一升瓶を炬燵の上に置いて、手荒くコップを掴み、寅雄は一気に酒を飲み干した。
「あーあ、そんとうに焦って飲むけえ、酒が零れた。もったいないのう」
ごくっと寿司を飲み込み、平田爺さんは次の寿司を素手で摘んだ。くちゃくちゃと寿司を食べる。
寅雄は酒が滴る顎を、スーツの袖で拭いた。こうなったら、やけくそ、自棄酒である。
平田爺さんのコップに、寅雄は酒を注いだ。ついでに自分のコップにも酒を注ぐ。
ふと、平田爺さんの背後に目を向けた。観音開きの開き戸があった。
「平田さんの後ろの開き戸の中、お仏壇ですか? もし宜しければ、奥様にお線香でも……」
「せんでええ。線香臭うなる」
口の中に残った米粒を探すように、平田爺さんは舌を、ぐるぐると回していた。
「……そうですね」
酒を口の中に含み、寅雄は次に出す言葉を探した。
「奥様が天国に召されてから、平田さん、寂しいんじゃないですか?」
「ふっ、あいつは天国へ召されたんかのう。そうじゃったら、今頃、神さんは婆さんに振り回されとるわ」
コップを炬燵の上に置く。平田爺さんは目を細め、鼻でせせら笑った。悪意を含んだ笑いに、寅雄には見えた。
夫婦仲は、かなり悪かったようだ。
平田爺さんのコップに酒を注ぎながら、寅雄は、これから話をどう広げていこうかと考えた。
寅雄にとっては、平田家の夫婦仲が悪かった過去など、全く興味がない。とにかく百二十坪の土地だ。
展開からすると、良い傾向ではないか。憎い妻の遺産など、早く現金にしてしまいたいと平田爺さんは思っているかもしれない、と寅雄は勝手な想像をした。
「ところで、平田さん、お困りのことはございませんか?」
寅雄は平田爺さんの顔を盗み見しながら、酒を飲んだ。
「ない」
平田爺さんは、イクラの載った軍艦巻きを口に放り込んだ。
「年金生活も長いんでしょ? 足も悪いようですし、医療費も大変なんじゃないんですか? 一人暮らしも不安でしょう。不躾かもしれませんが、数年後、老人ホームに入ろうとしても、金銭面で大変になるんじゃないですか?」
空になったコップを寅雄は炬燵の上に置いた。平田爺さんの顔を覗き込む。
寅雄は、平田爺さんを不安に陥らせる、という作戦に変更した。
強がりを言っても、所詮、ひょろひょろの爺さんである。
うまくいけば、若くて逞しい寅雄に、残った財産の全てを任せる、と平田爺さんが自ら言う可能性もある。財産の管理を委託されれば、思いのままだ。
「わしは、人に大迷惑を掛けてでも、長生きしてやる。金だって、どっかから湧いてくる」
イクラの軍艦巻きを、平田爺さんは再び口に放り込んだ。寅雄の、イクラの軍艦巻きは、なくなった。
「そんな簡単には行きませんよ。今のうちに考えておくべきことでは、ないですか?」
「軍艦巻きは美味いですのう。海苔が口の中に残るけんど。軍艦、言うたらあ、わし、戦時中は長門に乗ったことがあるんですわ。あれは、ええ軍艦じゃったあ」
平田爺さんは、いきなり軍艦の話を始めた。昨日、寅雄が聞いた話は、戦艦大和であったが。
「わしが長門に乗ったときは、アメリカ軍を待ち伏せしたんじゃ」
大和に乗ったときの話と同じじゃろうが――。
寅雄は思わず平田爺さんの後頭部を本気で叩いて、突っ込みそうになった。
寅雄は、ひくっと動いた左手にコップを握らせた。怒りの感情を、理性で押し潰す。
平田爺さんは天井を、ぼんやりと見上げていた。若き日の自分を思い浮かべていたのだろう。
「アメ公の野郎、来やあせんで、全く役に立たんかったわ」
じゃけ、それは大和に乗ったときではなかったんか!――。
寅雄は心中ではゴジラとなって、東京タワーを踏み潰していた。
「それは、残念でしたね」
何が残念なのか。アメ公が来なかったことか、それとも、平田爺さんが若い時分に、あの世に逝かなかったことか。今の寅雄の気持ちは、後者に決まっている。
思惑通りに事が進まない、じれったさを、なんとか寅雄は押さえ込んでいた。平田爺さんとの戦いは、自分との戦いでもある。
寅雄は平田爺さんのコップに酒を注ぐ。ついでに自分のコップにも酒を注いだ。
「寿司、食いんさいや。遠慮せんと」
手を小刻みに震えさせながら、平田爺さんはコップを握った。
寿司は、すでに、いかと、たこと、なぜか、ボイルされた海老だけが残っていた。
「はい! 遠慮なく、頂きます!」
なんで、わしが遠慮せんといけんのんか――。
不満を思いつつ、寅雄は明るい声を出した。目の前に置いてあった割り箸を割る。
「二人で一升は少ないのう」
一升瓶を寂しげな目で見詰めながら、平田爺さんは口を、「へ」の字にしていた。
もう数センチで、いかの握りを箸で掴みそうになっていた寅雄の手が止まった。右側に置いてあった一升瓶を肩越しに見る。
確かに、一升瓶の中の酒は残り少なかった。コップ三杯分くらいしか残っていない。ピッチが早すぎたようだ。
「平田さん、飲んでくださいよ」
「おお、悪いのう」
空になっていた平田爺さんのコップに、寅雄は酒を注いだ。
平田爺さんが、ぐいーっと一気に酒を飲む。
寅雄が平田爺さんのコップに酒を注ぐ。
平田爺さんが、ぐいーっと一気に酒を飲む。
寅雄が平田爺さんのコップに残りの酒を全て注ぐ。
平田爺さんが、ぐいーっと一気に酒を飲む。
とうとう、酒はなくなった。
平田爺さんは、酒が好きなだけでなく、かなり強いようだ。全く酔っていない。平然としている。
「いやあ、他人様と飲むのは楽しいのう。眠うなった」
炬燵の布団を上に上げ、平田爺さんは、寅雄に背を向けて、もそもそと炬燵に潜り込んだ。座椅子を炬燵から押し出す。
「部屋、出るとき、電気、消しといてつかあさい」
寅雄は焦った。今日の目標達成率、ゼロパーセント。こんな状況で帰れるものか。
寅雄はオメガの腕時計を見た。平田爺さんの家に来て、たった一時間しか経っていない。
「平田さん、ここから帰るのも大変ですので、僕、泊まってもいいですか? もう十時半になりそうですし」
「タクシー、呼びゃあええ」
「僕が帰ると、平田さんが玄関の鍵を掛けないと、いけないんですよ」
「こんな田舎のボロ家に盗みに入る泥棒なんか、おりゃあせん」
「平田さん、せめてタクシーが来るまで、平田さん!」
平田爺さんの声は聞こえなくなった。死んでしまったかのように、微動だにしない。
酒がなくなると、寅雄は用無しになるらしい。
大きく溜息を吐いて、寅雄は立ち上がった。古めかしい鶴の絵が描かれた照明の紐を、パチパチと引っ張る。部屋は真っ暗になった。
足を少しずらした。紙の束が寅雄の足に、当たった。
足元に置いた香典の帳簿を寅雄は忘れて帰りそうになった。腰を屈め、手を伸ばす。
いや、ちょっと待て。このまま、帳簿を忘れて帰ったことにして、明日、また来るか――。寅雄は、ゆっくり上体を起こし、一歩前に進んだ。
「香典返し、お願いしますけんの」
寅雄の呼吸が止まった。
平田爺さんは、寅雄の考えていることは全て、お見通しのようだった。頭の中を覗きこむ、特別な能力でもあるのではないかと疑ってしまう。いや、ありそうだ。
「かしこまりました。明日にでも手配いたしますので」
平田爺さんに気付かれないよう、寅雄は、さっと帳簿を掴み取った。
寅雄は平田爺さんの部屋から出た。真っ暗な玄関に、呆然と阿呆のように佇んでしまった。
どうしたら手に入るか。百二十坪の土地。
すると、暗闇の中から、薄っすらと階段が見えた。
「二階に引き篭もりの息子がいる」という新田の言葉が、頭を過ぎった。
寅雄は泥棒猫のごとく、そっと階段に近づき、二階を覗き込んだ。二階は真っ暗で、人の気配は感じられない。
だが、息を潜めているだけかもしれない。寅雄は、そっと左足を階段に載せた。
「集金に来てつかあさい。わしゃあ、銀行振り込みなんぞ、できんですけえのう」
二階に目と気持ちが向いていた寅雄は、現世に呼び戻されたように、平田爺さんがいる部屋の引き戸を、はっと見た。ごくりと生唾を飲む。
寅雄は平田爺さんに、性質の悪い思惑を、全て見透かされているように思えた。
暗がりの中、寅雄は焦って後ろ向きで玄関に向かった。
「かしこまりました。来週には伺うように致します、わあー!」
寅雄は玄関から落ち、尻餅をついてしまった。
だが、寅雄が大きな声を出してしまったにもかかわらず、平田爺さんの寅雄の身を案ずる一言は、一切、聞こえなかった。
暗闇に慣れてきた目で、寅雄は靴を履き、平田家を出た。
七
右手に香典の帳簿を持って、寅雄は左手で腰を摩った。
「いってーなあ、もう。たったの二歩、下がっただけで、玄関に落ちるんか」
寅雄は、友人が一人で経営する個人タクシーを、携帯電話で呼んだ。
平田爺さんの家から少しでも離れたかった寅雄は、真っ暗な県道を、とぼとぼと歩いた。
「それにしても、あの寿司屋、いくら無理を言うたけいうても、特上の握り寿司に、ボイルされた海老は入れんじゃろ。明日、嫌味の一発でも言うとかんと」
十分ほど歩いたころ、ようやく正面から『迎車』という文字を照らしたタクシーが見えた。
手を挙げ、寅雄は自分の存在を、タクシーの運転手に訴えた。
寅雄の目の前でタクシーが停まり、ドアが開いた。
「すまん。こんな遠くまで……わあーー!」
いきなり寅雄は、どーんと押され、奥のシートに押し込まれた。左側を見る。なぜか寅雄に続いて、新田が図々しく乗り込んでいた。
「なんなんだよ、お前、どっから出て来た!」
「運転手さん、すみません、この人の家まで」
新田は、深々とシートに腰掛け、寅雄を指差した。
ルームミラーに映る運転手の目は、うようよと動き、困惑を露にしている。
「ちょい、待て。新田、お前、何、人の周りを、うろちょろしよんや」
寅雄の突っ込みにも、新田の横顔は平然としている。
「何か、収穫はありました?」
「あろうが、なかろうが、お前には関係なかろうが!」
寅雄の顔を、ちろっと横目で新田が見た。まるで、寅雄を哀れんでいるようだ。
「もう、昨日、言ったじゃないですか。あの爺さんは、坂下さんの手には負えないって。わし、三日間、風呂に入っとらんのんですよ。服も、ずーっとこのまんま。臭いっしょ」
新田は右腕を上げ、脇の臭いを寅雄に嗅がせようとした。
「やめえや!」
寅雄は新田の肋骨を押した。
「坂下さん、小学生の虐められっ子みたい」
新田の顔は、まさしく、虐めっ子の顔つきだ。口は、にやにやしているが、目が笑っていない。
「今後の作戦、じっくり話しましょうや。絶対、悪いようにはしませんけ」
今日の平田爺さんの態度を見て、寅雄が「どうしたものやら」と考えてしまっていた事実は、否めない。
新田の話を、とりあえず、聞いてみるのも、一つの手かもと寅雄は考え始めた。
かと言って、得体の知れない奴を、家には上げるわけにはいかない。
「ホテルに泊まれりゃあ、ええじゃろ」
「金がないんですよ。それに、じっくり作戦を練らんといけんけ、一時間やそこらじゃ、話は終わりゃあしませんよ」
「お話中、すみません。坂下さん、結局、何処へ……」
タクシーの運転手が、細々と声を出した。タクシーは県道に停まったままだ。
「とりあえず、市内の……」
「坂下の家まで。はい! 運転手さん、よろしく!」
寅雄の言葉を中断させ、新田が寅雄の家を指定した。
「今晩、話を聞いてから、お前の話に乗るかどうか、わしが結論を出す。内容によっては、そのまま、家から追い出すけえのう」
「そうですかあ。いいですよお」
新田の口調は、自信満々だった。
寅雄と新田を乗せたタクシーは、寅雄のマンションへ向けて走り始めた。
八
寅雄と新田を乗せたタクシーは、広島市内の中心地にある寅雄のマンションに着いた。
新田はマンションを見上げて感嘆の声を上げた。
「うわあ、ええ所に住んどるんですねえ。広島市内の、ど真ん中じゃ。しかも、このマンションですか。何階建てなんですか?」
まるで、マンションを見たことがないような大袈裟な物言いである。
「八階建て。お前、何処のド田舎から来たんじゃ。家は何処じゃ」
マンションの玄関でオートロックを解除しながら、寅雄は故意に、不機嫌な声を出した。
「広島県内」
寅雄の背後で、新田は、あいまいな返答をした。
「あっそ。何処でもええわ」
自動ドアが開き、寅雄は、さっさとマンションのエントランスへ入った。寅雄を追って、新田は小走りに従いて来る。
エレベーターに乗り、八階のボタンを寅雄は押した。
「へえ、最上階ですか、眺めが、ええんでしょうねえ」
「ほんまに、お前、臭いのう。すいい臭いがするで」
エレベーターの中は、酸っぱい臭いの新田の体臭で、窒息しそうに息苦しくなった。
こいつ、硫化水素なんぞ発生させとらんじゃろうの――。
「上の、今、何階を通過しよるかわかる数字、あれ、デジタルなんですか? このテレビモニターは防犯のため? へー」
寅雄の話など聞いてないかのように、新田はエレベーターの中を、隅々まで観察していた。
八階に着いた。寅雄がエレベーターを降り、ポケットから鍵を出しながら歩く。新田も寅雄に続いた。
寅雄は自分の部屋のドアの前で立ち止まった。くるっと半回転して、背後にいた新田と向かい合う。
寅雄と新田の身長差は十五センチはありそうだ。寅雄は「ちっ」と舌打ちをした。
「何ですか」
寅雄を見下ろしながら、新田は目を細め、眉毛を上げた。
寅雄は握っていた平田爺さんから預かった香典の帳簿を、廊下に叩き付けた。
「人を馬鹿にしよってから!」
深夜ということもあり、やや小声で寅雄は叫んだ。汚い新田のTシャツの襟を両手で掴み、ドアに押し付けた。
「おい、話の内容によっては、八階から突き落とすけえのう。ふざけたこと、言うなよ」
寅雄から目を逸らし、新田は大きく深呼吸した。
「だから、協力するって言っとるでしょうがあ。あの土地、安う手に入れとうないんですか? それとも、そんなに、わしを家に入れるのが、怖いんですか?」
新田の目は挑戦的だった。強気の新田の表情を目の前にして、寅雄は、もう少しで怯んでしまいそうになった。
新田は一体全体、どんな話を持ちかけるつもりなのか。新田を信用しても、いいのか。いきなり刃物を出して、強盗をするつもりではないのか。
様々な憶測が、寅雄の頭の中を、壊れかけのジェット・コースターのように軋んだ音を立てて駆け巡った。
だが、新田と組むことで、本当に百二十坪の土地が手に入るのならば、多少のリスクはあっても――。
寅雄は新田のTシャツの襟を、ぐいっと引っ張った。新田の体を力ずくで、左側に移動させる。
ドアノブに鍵を突っ込みながら、寅雄は新田に念を押した。
「つまらんこと、考えるなよ」
新田は腰を曲げた。寅雄が叩き付けた帳簿を左手で拾い上げ、右手で、ぱっぱと払った。
「何も、しゃあしませんよ。はい、帳簿。わしの靴跡が付きましたけど」
寅雄は無言で、帳簿を新田から乱暴に奪い取った。
結局、海の者とも山の者とも、皆目わからない、新田という男を、寅雄は部屋に入れる羽目になった。
もしかしたら、殺されるかも――。
寅雄の心の中では、臆病風が、木枯らしのごとく、ひゅーひゅーと吹いていた。
九
寅雄の部屋に入って早々、新田は部屋を、じろじろと観察していた。
新田は、ずうずうしくも無言で脱衣所のドアを開けた。脱衣所の中の左側にあるトイレのドアも開ける。次に、右側にある浴室のドアも開けた。
「早う、風呂に入れ。臭い!」
上着を脱ぎながら、寅雄は新田を浴室に蹴り入れ、ばたんっとドアを閉めた。
「お先、いただいちゃいま〜す」
新田の陽気な声が浴室で、もわんもわんと木霊していた。
「何やっても、こたえん奴じゃ」
ごとんごとんと、脱衣所の床に物が置かれる音がした。どうやら新田が、デジタルカメラやヘッドフォンなどを、脱衣所に置いているようだった。
上着をハンガーに掛け、クローゼットに入れながら、寅雄はふと思った。あの、デジタルカメラには、そもそも何が写っているのか。百二十坪の土地に関する何かか――。
ドアを開けっ放しにしていた脱衣所を部屋から覗いた。案の定、汚い新田の服の下から、デジタルカメラが見える。
浴室からシャワーを出す音がした。
寅雄は、そーっと脱衣所に近づく。浴室の擦りガラスに、自分が映らないように、脱衣所の入り口の右側の壁に背を付けた。
両足の膝を曲げ、すーっと、しゃがみ込む。右手の親指と人差し指で汚い新田の服をずらし、デジタルカメラを手に取った。
「見た目より、軽いんじゃのう」
一眼レフのデジタルカメラなど持ったことのない寅雄は、どこを、どう弄ったらいいのか全くわからない。
「くそ、これ、どうやったら電源が入るんかいの。なんで、こんなマニアックなもん、持ち歩くんや」
あれこれと弄っているうちに、デジタルカメラの本体よりも重たいレンズが、ごとっと大きな音を立てて、床に落ちた。フローリングの床が凹む。
「フッ、フローリングが……余計な修繕費が……」
唐突に、がちゃりと浴室のドアが開いた。
「坂下さん、何、しよるんですか」
眼鏡を外した新田が、ドアから顔を出した。目を細め、寅雄の手元に顔を近づける。
「あーあ、レンズ、落としちゃったんですか」
髪から水を滴り落とし、真っ裸で新田は体を乗り出していた。
「お前が、こんなカメラ持ち歩くけ……どうしてくれる……フローリングが……」
「へっこんだわけですか。坂下さんが、わしを疑うからですよ。それよりも、パンツと何か着るもん、貸してくださいよ」
新田は、水が出しっぱなしになっていたシャワーを止めた。
デジタルカメラを勝手に触った寅雄を、新田は深く追及することはしなかった。とりあえず、衣類が欲しいようだ。
「Tシャツなら貸しちゃる。じゃが、パンツは貸さん! 気持ち悪い!」
「じゃあ、コンビニに行って買って来てくださいよ」
「何で、さっき行かんかったんじゃ! マンションの目の前にあったろうが」
「教えてくれんと、気付かんですよ」
ふてぶてしい新田の態度に、寅雄は我慢の限界が来た。
「お前は、そのまんま、フルチンでおれ!」
「せめて、タオルくらい貸してくださいよ。部屋が濡れますけ」
フルチン姿の新田を、寅雄は正視た。
新田は分身サイズに自信があるのか、フルチンを隠すことなく堂々と立っている。筋肉質の良い体つきだ。
「もう、洗い終わったんか?」
寅雄は新田から目を逸らし、ぼそっと訊いた。
「わし、早風呂じゃけ」
「部屋が濡れる」と言われれば、致し方ない。寅雄は部屋に備え付けてあるチェストから、バスタオルを出した。
凹んだフローリングを、寅雄は足の指で触りながら、新田にバスタオルを渡す。
ごしごしとタオルの上から引っ掻くように髪を拭きながら、新田は上目遣いで寅雄を見た。
「なっ、なんじゃ……」
タオルを腰に巻きつけ、新田は脱衣所に出て来た。寅雄を目の前にして立つ。
濡れた髪を後ろに流した新田の顔は、なかなかの男前だった。
寅雄は、下唇を噛んだ。上も下も自分以上のものを持っている男が、寅雄は大っ嫌いだった。
寅雄の心情を読み取ったのか、新田は微笑を浮かべた。
「坂下さん、ちっちゃいですね。身長、百六十センチ、ないんじゃないですか?」
「わあああ!」
寅雄は怒りが爆発した苛められっ子のごとく、大きな声を出した。手を振り上げ、新田に殴り掛かる。
寅雄の一方的な攻撃は、五分くらい続いた。
十
浴室で手洗いしたTシャツとトランクス、靴下を、新田はリビングにあった小さめのテーブルを挟んでいる二脚の椅子の背凭れに勝手に掛けた。
「この間取りって、1LDKってやつですか。ふーん」
バスタオル一枚の姿で、寅雄の部屋を新田は見回していた。
一方の寅雄は、スーツのパンツとYシャツ姿で、リビングのソファに寝っ転がっていた。下唇を出し、新田を一瞥して、天井に視線を移した。
新田は椅子に腰掛けた。
「坂下さん、子供みとうに拗ねるのは止めましょうや。身長が低いけえ言うても、人の価値は低うは、ならんですけん。それにしても、ミゾオチ、グーパンチはいけん。わしじゃけ、この程度で済んだんですよ。平田の爺さんじゃったら、死んどるわ」
新田は寅雄を宥めた。だが、寅雄に対して悪びれる様子は全然ない。
新田の声は聞こえていたが、故意に寅雄は反応をしなかった。じーっと天井を眺め続ける。
「まっ、身長が低かろうと、下半身の息子の身長も低かろうと、今の、わしらには関係ありませんけ」
寅雄は首を少し持ち上げ、足元の椅子に座る新田を睨んだ。
寅雄の視線など、お構いなしに、新田は左指の、さかむげを口で毟りながら平然としていた。
「平田の爺さんの土地なんですけどねえ」
指を見ながら、新田は本題を切り出した。
「あの爺さん、他にも色々と土地を相続するようですわ。わしが調べたところ、貯蓄は、ほとんど残っとりゃせん。息子にも。物納、もしくは売るという手段は、逃れられんじゃろ。分割して納税するっちゅう方法もありますが、あの息子が働くとは思えんし。それに、相続する土地が、ええ土地ばっかりじゃあない。どうでもええような山やら、あってから」
寝っ転がっていた寅雄が、上半身を起こした。
「じゃとしたら、どうでもええ山とかを手放して、どうでもよくない土地を手元に残す、いう選択は、あるんか?」
「山にどれだけの価値があるかは、わしも知らんですよ。松茸でも採れりゃあ、ええかもしれんが。じゃが、引き篭もりの息子のために、ええ土地を残してやりたいと思うても、不思議じゃない」
新田の目が動いた。眼鏡と顔の隙間から覗く黒目は、鋭い鷹の目のようだ。
「わしが見た限りでは、坂下さんが狙うとる土地が、一番ええ。あれは手元に残すつもりでおるじゃろう。それか、高う売るか。あそこら辺は新交通のおかげで、ええ値が付くようになった。あの土地だけで三千万が相場ですわ」
「え! 三千万!」
つい、うっかり、寅雄は声を出した。
寅雄の計算だと百二十坪の土地は、二千三百万円が相場だった。さらにケチを付けて、千五百万円で手に入れようと企んでいた。
「この金額は不動産会社の概算ですけんど。まあ、このマンションの土地の相場と比べたら、大したことないでしょう」
「ここは、賃貸じゃ」
低い声を出し、寅雄は、どかっと再びソファに寝っ転がった。
だが、ふっと閃き、がばっと寅雄は起き上がった。
「引き篭もりの息子を口説き落として、あの土地を安う買ういう話をしに来たんじゃろ?」
「じゃが、よう考えたら、引き篭もりですよ。引き篭もり歴十年の、おっさん。簡単に、いらっっしゃ〜い、って出向いてくれると思います? 出て来ん可能性のほうが高い」
ソファから寅雄は立ち上がり、ベランダに出る窓を開けた。
「新田、飛び降りろ」
腕を組み、新田は深く溜息を吐いた。
「ほら、また、もう。裸でダイブは変質者でしょ。残された身内に恥をかかせとうないですよ」
寅雄は開けっ放しの窓の横に突っ立っていた。
再度、新田が、間抜けなことを言ったら、本気で八階から突き落としてやろうと、寅雄は思っていた。
唐突に新田は立ち上がった。脱衣所へ向かう。置きっ放しになっていたヘッドフォンと携帯電話、デジタルカメラを持ってリビングに戻って来た。
テーブルの上に携帯電話とデジタルカメラを置く。なぜか、ヘッドフォンを耳に被せ、新田は椅子に座った。
新田は目を瞑って上を向いている。瞑想中のポーズのようだ。宗教法人『ヘッドフォンで音楽を聴いて、あなたは救われる』でもあるのか。
寅雄は新田に近づいた。新田のヘッドフォンを頭から強引に外す。勢いのあまり、ヘッドフォンは新田の膝の上に落ちた。
「おい、何、しよんや。音楽、聴いとる場合じゃあ、なかろう」
新田は訝しげな顔をした。
「音楽なんか聴いとらんですよ、ほれ」
寅雄の目の前に、新田はヘッドフォンを突き出した。
よく見たら、新田の大きなヘッドフォンにはケーブルは付いていなかった。さらに、よく見ると、ケーブルは根元から、ぶっさり切られていた。
「考え事をするときは、これを耳に被せるんです。一休さんが座禅を組むのと、おんなじ。坂下さん、騙されたと思って、これ、耳に被せてみてくださいよ」
新田は立ち上がり、すぽっと寅雄の耳にヘッドフォンを被せた。
「おい、勝手に!」
一気に頭に血が上った寅雄は、ヘッドフォンを右手で外し、床に叩きつけようとした。
寅雄は手を挙げたまま、ぴたっと動きを止めた。また、フローリングが凹んだら、修繕費が、さらに上がる。
代わりに、テーブルの上にヘッドフォンを投げた。
ヘッドフォンはデジタルカメラに当たり、結局、フローリングに落下した。当たり所が悪く、もう一つ、フローリングに傷ができた。
「ああああああ」と寅雄は叫び、しゃがみ込んだ。手で、凹んだ深さを確かめる。
「百二十坪の土地が手に入るまで、わし、頑張りますけ。その間、ここに居候させてくださいね。ギブ・アンド・テイクですわ」
しゃがんでいた新田は両掌を両膝に置き、ぐいっと立ち上がった。黙ってクローゼットに近づく。
「おい、お前、何しよるんじゃ!」
ソファから飛び出した。新田を押しのけ、寅雄はクローゼットの前に立ちはだかる。
「わし、寒いんじゃけど、服」
新田は、大袈裟に両手を自分の体に巻きつけ、足をくねくねさせる。
「だったら、そう言えや。言っとくがな、わしは、身長が百五十八センチしかないけ、お前が、わしの服を着ると、陽気な南米の人の服みとうに、ピッチピチになるけえの!」
肩を上げ、寅雄は一気に自分の弱点を口にした。
ピッチピチになって臍が出ても着たいと言うのなら、着ればいい。滑稽な新田の姿を、指を差して笑ってやろうと、寅雄は思っていた。
頭に血が上っている寅雄を見ながら、予想通り、新田の顔が緩んだ。
「百五十八センチ、しかないんじゃ。見合いの釣書には百六十三センチって書いとんじゃろ?」
「わあああ!」
寅雄は再び、新田に襲いかかった。新田の指摘が鋭かったばっかりに、寅雄の怒りは収まらなかった。
結局、百二十坪の土地獲得の作戦など、立てるような余裕はなかった。