1.シュレディンガーの猫
天井にはいつものポスターはなく、自分の部屋ではないことがわかる。天井から下がったカーテンは、上の部分が網のようになっていて、医療用カーテンということが何となくわかる。
病室だ。
目覚めて既に3日ほど経っていた。
3日ほど昏睡状態を経てからの…なので、搬送されてから既に6日経過している。
目を覚ますと、あのおっかない母さんが、めちゃくちゃ泣いていた。
交通事故にあったのに奇跡的に一切の怪我がなく、意識だけが何故か戻らなかったので念のための検査入院だ。
酔っぱらいのおっさんは飲酒運転と業務上過失致傷の現行犯逮捕され、連れていかれたらしい。
轢かれたのは俺ということになっていた。
抱きかかえたはずの瑞希の温もりは、鞄とともに無かったことになっていた。
テレビを付けると、推しのアイドル、エルブンシスターズの溪村瑞希・クリスティーナがセンターで踊って歌っている。5人グループだが、センターの存在感の大きさに、あとの4人は名前も知らなかった。
妙に頭は澄んでいた。
体を起こしてみると、左手には点滴の管が繋がっていた。
見回すとベッドの横には名前がわからない花が活けられた花瓶が飾られ、小さな換気窓からは気持ちのいい風が入っている。
隣にも使用感のあるベッドがもう一つあった。
二人部屋のようだ。
点滴は可動式の支柱にかけられていたので、用を足したくなって、ベッドを降りた。
病室を出て、すぐにトイレマークがあったので、入って用を足す。
入院用のパジャマは少し緩かった。
鏡を見て、ちゃんと自分の顔を見る。
笑うと細くなる目の下に大きな隈がある。
顔から生気が抜けていた。
真っ黒い髪は癖がなく、長さはあまり気にしていなかったが長くもなくショートというほどでもないが、前髪は少し伸びすぎている感はある。
目の横にほくろなんてあったっけ?
自分の顔の特徴を自分で意識したことすらなかった。
温和な印象の優顔とでもいうのか、でもこんなひどい顔では瑞希ちゃんに会うのもはばかられる。
あの二日間は幻ではなかった。
俺の自転車と鞄は警察で回収してくれていたようで、自転車は家に届けられ、鞄は病室に置かれている。
中からエルブン溪村瑞希クリスティーナ人形が出てきて確信した。
妄想でも何でもない。
あの時確かに彼女はいたのだ。
顔を洗って、頬を叩く。
俺は生きている。
起きていることの意味がわからない。
「理解が出来ないのは、まだ知らないからだ」
「知識が備わり、きちんと学べばさまざまな推測が可能になる」
「そこから世界が広がる」
「シュレディンガーの猫のように、存在するかどうか、箱の蓋を開けてみなければわからない」
「科学なのに、そんな希望的観測も許されるから、私は物理の中でも量子論が好きなのだ」
何かヒントを貰えるかも知れない。
退院したら御条先生のところに行こうと心に決めていた。
◇ ◇ ◇
今日は大学の仕事が午後かららしく、学校に行くのに母さんが途中まで送ってくれた。
退院後初の登校だから、念のためということだった。
「一応早めに迎えに来るからね」
「あいよ」
帰る時メッセージを送ることになっている。
短い言葉を交わし、欅並木を歩く。
後ろからまた、誰か走ってこないだろうか。
振り返ってみるが誰もいない。
何事もなくすぐに校舎にたどり着いた。
今日は遅刻ではない。始業まで何分もないが、俺の中では十分早い登校だった。
教室の扉を開けるとどよめきが起きて、クラスメイトか集まってくる。
「おかえり!」
「怪我はもういいの?」
「生きてて良かったな~!」
男女問わず、普段話さない奴らまで、心底嬉しそうに笑顔で駆け寄ってきてくれた。
俺、こんなに心配されてたのか。
人見知りも多少あるし、幼なじみのヨースケ以外あまり話さないから多分付き合い悪くて、取っつきにくかっただろうに、こんなに気にかけてくれていたのか。
案外こんなのも悪くなかった。
しかし、一つ違和感があった。
「あれ? ヨースケは?」
席にもいないし、見回してもいない。
トイレか?
「神﨑君、先週から休んでるんだよ。ちょうど鹿川君が事故に遭ったっていうあたりから」
「えっ? 聞いてないぞ。確かに見舞いの一つも来なかったから変だなとは思ったけど」
ガラッと扉が開き、ジャージ姿の御条志織先生が入ってきた。
「席につけー。加治センは腰やったから私が代わりに来たぞ」
加治先生は存在感が薄い担任だ。
体が弱いのに体育を担当している年配の先生。
みんな素直に席に着き、ホームルームが簡単に済まされた。
「おー。鹿川生きて帰ったか。無事で何より」
感情のこもってないようにも聞こえるが、口の端が上がっているのでそんなことはないのがわかる。
「ご心配おかけしました。それから、ちょっと聞きたいことがあるんで、後で職員室行って良いっすか?」
「んー。じゃあ昼休みだな」
午前中の授業が終わると、職員室へ急いだ。
足早に廊下を抜けて、職員室の入り口の前に着いた。
「失礼します」
ガラッと開けると、菓子パンをかじろうとしていた御条先生と目が合った。
パンを置いて、静かに先生が口を開いた。
「ノックをしろ。名乗れ。飯を食わせろ」
ごもっとも。
応接室に案内してくれた。
ソファに向かい合い、先生は座って菓子パンをかじっている。
「で、聞きたいこととは?」
「神隠しについてです」
ほぅ。
声は出ていなかったが、先生の目が細くなった気がした。
「目の前にいたはずの人が、痕跡も残さず消え去ることってあり得ますか?」
先生は窓の外を眺め、黙って何かを考えているようだった。
インスタントのコーヒーをカップに入れて、ポットのお湯を注ぐ。
軽くかき混ぜると一口飲み、静かに口を開いた。
「河西瑞希……先日の転校生のことか」
俺は目を見開き、食いぎみに先生に詰め寄った。
「知ってるんすね! やっぱりいたんですよね?!」
肩を軽く押され、俺はソファに座らされる。
「二日目から登校し、三日目は来なかった。手書きで追加したはずの名簿からも名前が消え、いたことを知る者の記憶からも消え去っている」
「何ですかそれ…。訳わかんねぇ」
よし、こうしよう。
呟いたあと、先生が持ってきたのはテスト問題だった。
20分間時間を与えられ、主要4科目の小テストをやらされた。
それから大量の課題を持たされ、
「これを一週間で全て終わらせてこい。そしたら、溪村瑞希・クリスティーナに会わせてやる」
出し抜けにそう言われた。
元々4限目を受けた後、母さんに迎えに来てもらう予定だったから、持たされた課題を運ぶのに苦労はなかった。
大量の冊子を持っている俺を見た母さんは、一瞬ぎょっとしたが、御条先生から出された課題だと説明すると、「あ~、志織か。ここの学園にいるんだった」と言い出した。
「知り合いかよ?!」
「知り合いっていうか、幼なじみで、今も大学の研究室でたまに討論したり、サークルで一緒に活動してるわ」
興味無さすぎて、全然知らなかった……。
思いがけない意外な繋がりに、しばらく開いた口が塞がらなかった。
「そういや、母さんの仕事って、大学でなにやってんの?」
「あんたに言ってわかる? 量子力学における観測しなかった場合の予測変化の多様性についての研究室」
「わっかんね」
「毒入りの餌と共に閉じ込められた猫は生きているのか死んでいるのか。という実験がある」
「なんだそりゃ? 動物虐待じゃん」
「思考実験と言われるもので、本当にはやってないのよ。
それで、『観測者が箱を開けるまで、生きているか死んでいるか確定しない』というものなんだけど、そもそも観測しなかった場合、可能性はどのようになるか、それがうちの研究室のテーマよ。
誰かと一緒にいて、目を閉じたとき、目の前にいる人は、存在するかどうか、それは閉じた時点でふわふわしたものになる」
御条先生が言っていたシュレディンガーの猫の話とよく似ている。だが、さっぱり意味がわからん。
「だから言ったでしょ。まぁ頑張りなさい」
大量の課題を眺めながら、母さんは笑っていた。
ひとつだけ、俺が経験したあの事故と重なった。
俺は、あの事故で溪村瑞希が目の前で消え去ったことは話していない。
偶然なのか、俺が必然を引き寄せたのか。
それとも母さんは何か知っているのか。
今はそこはどうでもいい。
目の前のものを一つずつこなしていこう。