転生しない!
朝は苦手だった。
本を読むのが大好きで、夜更かししてしまうことが多かった。
特にファンタジーものが好きだった。
テレビゲームも大好きで、特に王道のRPGは飽きずに延々やっていた。
世界が滅亡の危機に瀕した頃、自分に神託が降りてきて、魔王を倒すために旅に出る。
世界は滅ぶ予定だから、学校の勉強してもしょうがない。そんなことを考えたりしていた。
ぼんやりした視界がちょっとずつ晴れていく。
それでも見上げた空を覆う鱗雲は、青白くぼんやりとしていた。
鬱蒼と繁った灰色の草むらは、立ち尽くす黒髪の少年の腰辺りまであった。
青みかかった地味な色のトレーナーに、黒のジーパン。
少し離れた場所には葉の落ちた灌木が立ち並び、周囲を覆っていた靄がどんどん遠ざかっていくごとに、見える範囲も広がっていった。
視点はそのまま上空へと移り、少年が立っている場所だけ、少し開けた場所だということが見てとれた。
少年の前方には藁葺き屋根の簡素な作りの木造の家がいくつか点在した。
丸太をいくつも組み合わせて造られた物見やぐらが頭一つ高く出ていて、非常時に鳴らすのであろう鐘が設置されていた。
小さな集落といったところか。
少年はふらり、ふらりと歩き始める。
見上げると鱗雲の一つ一つが、端から徐々に赤みを帯びていく。
遠くで鶏が鳴いたような声が聞こえる。
集落の外れの一軒の近くに来たところで、少年は倒れ込んだ。
藁葺きの屋根は金色に輝き始め、家の一つからは、一人の少女が顔を覗かせた。
耳は尖り、長い金髪を靡かせた、大きな眼鏡をかけた深緑の瞳が印象的な可愛らしい少女だった。
ベージュが基調となった、淡く質素な色味の民族衣装のような、帯で止める丈の長い着物だ。
額には細い帯状の布を巻いていた。
「あら? 大変! 誰か倒れてるわ」
少女は倒れた少年に気づいて駆け寄った。
次に少年が目を覚ましたのは、ベッドの上だった。
緑色の大きな瞳が覗き込んでいる。
眼鏡はどうしたのだろうか。
窓の向こう側からこちらを覗いているような妙な構図だった。
爽やかな干し草の薫り…はしない。
顔に何か冷たくて柔らかいものがのしかかってきた。
頬に一つ。一瞬ずしりと重くなり、次にもう一つ、喉のあたりにも一つ。
「ぐえっ」
思わず変な声が洩れる頃には頬の一つは軽くなり、もう一つ額に乗ってくる。喉の重みも気づけばなくなって、最後に目の辺りにもふっとしたものが被さった。
プッ。
「うっ! くっさ!」
一瞬で目が覚めた。
ガバッと体を起こすと、顔に尻を乗せていたうちの猫カルマがのそっと立ち上がり、椅子にしていた顔の移動による強制転倒を回避する。
長毛のふわふわした茶トラ猫だ。
上から覗き込んでいるように見えたのは、天井に貼ってある推しのアイドルのポスター。
エルブンシスターズのセンターで、溪村瑞希・クリスティーナ。
窓の向こう側から、こちらの視線に気付いて見つめ返しているようなそんな構図だ。
枕元では目覚まし時計がけたたましくコケコッコーと鳴り響いている。
目覚まし時計を叩き消し、黒髪の少年はベッドから降りた。
「……おかしくね? ここまできたら、もうファンタジー世界にいるパターンじゃね? 可愛いエルフの女の子に懐抱されて、チートな活躍が待ち受けるやつじゃね? それが夢落ちって…」
少年は両手で顔を覆い、納得いかず地団駄踏む。
転生ものの漫画の上に乗っていたスマホが急に鳴り始める。
アップテンポな明るい曲調から、短調へと変調し、少年たちの心を鷲掴みにするエルブンシスターズの新曲だ。
「お、出た出た。ユーキ? 起きてるか?」
画面をスワイプすると、陽気な男の声が聞こえた。
「おー、ヨースケか。どうした? 朝っぱらから何の用?」
「朝っぱらからって、もう昼の12時だぞ? 学校こねーから、まだ寝てんのかと思ってさ」
あっけらかんとしつつ、呆れるような声。
「えっ、マジか!」
目覚まし時計を見ようとするが何処かに転がったのか見当たらない。
仕方がないので窓際にかかった掛け時計を見上げる。
太陽の位置は既に中天に差し掛かり、時計の針は12時13分を指していた。
急に秒針の音が気になり始めた。
トレーナーとジーパンで寝てしまっていたことを思い出し、急いで制服に着替えた。
頭を触り、寝癖があることに気付いたユーキは、鏡の前に行ってぼさぼさ頭を軽く直した。
少しもっさりした黒髪に、ごく一般的な肌の色。
冴えない印象の細い目。
笑うともっと細くなって、開いているのかどうかわからなくなる。
その左横には小さなほくろがあって、ユーキにとってはちょっとしたコンプレックスだった。
ネクタイを絞め、ジャケットを纏い、部屋を飛び出す。
階段を下りると母さんのメモと小銭入れがテーブルに置かれていた。
「優樹へ
もう仕事行くからね! 必要なら使いなさい」
弁当代だった。
優樹はママチャリを数分走らせ、駅の駐輪場へ。
駅のロータリーでは、ここのところ不穏な動きをしている隣国への警戒体制に関する政策を批判する団体が、横断幕を張っていた。
「我々社会正潔党は、一日も早い政権交代を目指しております!
現政権は、周辺国家による領海の不法占拠を容認し、官僚による汚職、当該政党の議員による脱税疑惑も見逃し、やりたい放題を続けており…◯※△✕□…」
政治とかよくわかんねー。めんどくさーとか思いながら、優樹は改札を抜ける。
海辺のこの小さな町では、海を隔てた近隣の国々に対して神経質な部分がある。
電車に乗り込むと、広告スペースにもここ最近のピリピリした外交の状況がゴシップネタのように貼り出されてある。
つい先日も、国有の小さな諸島の付近に隣国の軍艦がうろうろしていることが、
「最近毎日のことなので、だんだん報道されなくなってきましたよね」
といったことをとある番組で解説していた。
すぐチャンネル変えて、バラエティ見たけど。
何個か駅を過ぎると、学校の最寄り駅、城跡学園駅に到着する。
駅から歩いて5分ほど。欅の並木が駅のロータリーから続いている。
学園に通う学生や教員、近隣の店や事務所に通う人以外はあまり通行人がいないので、昼過ぎにはあまり通る人がいない。
いつもの風景。いつもの通学路。
特に急ぐでもなく歩いていると、後ろから焦っているような声と、走っていると思われるバタバタとした騒々しい音が聞こえてきた。
カチャカチャと軽い金属音も混じっている。
間もなく門に差し掛かり、右と左で中等部と高等部の分かれ道となっている。
「遅刻だ~! ヤバい~!」
後ろの方から聞いたことあるよく通る女の子の声が近づいてくる。
振り返るのと、声の主だと思われる女の子が横を通りすぎるのが重なった。
金色が目の前を覆う。
通りすぎる瞬間に振り返ったもんだから、ちょうど動線が被ってしまい、鞄同士がぶつかってしまった。
どっちも派手に転んでもつれ合う。咄嗟に女の子の頭を庇い、右手をしたたかにぶつけてしまった。
防衛本能は役立たずだったようで、ゴロゴロ転がりながら自分の肩や膝、腰はひどく痛めてしまった。かなり派手に転んでしまったようだ。
しかし、咄嗟に閉じていた瞼を開き、抱え込んだ女の子を見て、少年は目を疑った。
金色の流れるような長い髪、恐らく想定外のことが起きてボーッとこちらを見ている瞳はエメラルドのような美しい深緑だった。
「だ、大丈夫?」
何とか絞り出した言葉に反応した少女は、ハッとして目に力がこもる。勝ち気な感じの表情に変わり、すぐに戸惑ったような顔になって急に体を起こした。
うちの学園の中等部の制服だった。
「ご、ご、ごめん! あ、あ~有難う? …あ! 急いでるんだった!」
慌てて立ち上がると、少女は落としていた鞄を拾い上げ、ペコリと一つお辞儀をしてバタバタと走って行こうとして、「あっ」と呟いてまた止まる。
2、3歩分くらい先に落ちていた何かを拾い、そのまま駆けて行ってしまった。
「えっと…」
座り込んだまま、茫然と走り去った先を見送る少年。
『←中等部』と書かれた側へと曲がっていった。
「今の…エルブン…シスターズの?」
見間違うはずもない、天井を見上げるといつもいる、深緑の瞳と同じものが目の前にあった。
教室へと向かう廊下を歩きながら、少年はまだ茫然としていた。
「いや、いくらなんでも妄想力ありすぎでしょ! 大体彼女、東京在住だし、こんな田舎にいないって!」
思わず自分に突っ込みを入れる。それに遅刻って慌ててたし、何だか溪村瑞希クリスティーナと比べてかなりそそっかしい感じだったし。
テレビで見る限り、彼女は几帳面でおっとりした性格なはずだ。
しかし、年は自分より1つ下だから、中等部なのも矛盾はない。
開けようとした教室の扉が自動で開いて、その向こうには仁王立ちの厳つい男性数学教師、松澤秀吉がいた。
「鹿川優樹、重役出勤ご苦労! 重役に相応しい、是非ともやってもらいたい仕事があるから、後で職員室に来るように!」
「はひぃ!」
思わず返事が変な声になってしまい、それまで考えていたことも吹き飛んでしまっていた。
「ゆうき! 何やってんだ? 寝坊し過ぎだろ。夕べ何やってたんだ?」
席に着くひと席前で、ヨースケが声をかけてくる。
深夜帯のアイドル番組見たあと漫画読みふけって、目覚ましの設定ミスったとか、言えるわけがない。
エルブンシスターズの瑞希クリスティーナ推しってのはヨースケにも話したことはないのだ。
「数学の予習してたら寝落ちてた」
席に着いて、鞄を机の横にかける。
「ぜってー嘘だ」
即バレた。
鞄の蓋を開け、筆箱を出そうとしたところで、見覚えのない人形のストラップが目の端に映った。
思わずかけた鞄を机の上に上げ、見えたストラップをよく見る。
フェルトっぽい生地で出来た、耳の尖った金髪の女の子の人形だ。
欲しくても手に入らなかった限定品。
他には、中等部の教科書や男子高校生が絶対に持ちそうにない、可愛い色味のペンケースやノートが入っていた。
鞄の内側に縫い付けられた、名前を記入してある金属のプレートを確認する。
『溪村クリスティーナ』
「間違いない! いや、やべっ! 間違えた!」
「はぁ? 何言ってんだ?」
ヨースケが振り返って怪訝な顔をしていた。
「いや、何でもない」
今はそれよりも、そのアイドルの写真つきのパスケースのことが気がかりだった。
彼女はグラビアとかはやらないから、露出とかでヒヤヒヤするわけではないが、ドキリとするような表情の決めポーズのお気に入りで、いつも使うものだから、鞄に無造作に突っ込んであるのだ。
スマホも入っている。
ホーム画面もモロに、エルフコスをした瑞希の顔のアップだ。
本人に見られるなど、恥ずかしくて死んでしまいそうだ。
絶対に見られないことを祈るばかりだ。
状況から考えて、何か事情があって、うちの中等部に転校してきたと考えるのが妥当だろう。
しかし、どうやってこの鞄を交換すればいい?
急に高等部の男子生徒が、中等部に転校してきたアイドルに会わせてくれとか言って訪ねて行ったら、何を言われるかわかったものではない。
前の席のヨースケの背中をつつき、聞いてみる。
「な、なぁ。 中等部の子に用事ある場合、どうしたらいいと思う?」
「あ? 何年に?」
「あぁ、そっか。ちょっと待って」
鞄に学年やクラスの情報が無いか確認してみる。
学年もクラスも空白になっていた。
そうか、転校してきたばかりなら、記入無いか。
妙に納得した。
不意に後ろから、肩に手が乗せられた。
心臓が跳ね上がる。
「鹿川優樹君」
「ひぃ!」
「授業中なんだけどねぇ。教科書もノートも筆箱も出てないとは、どういうことだろうねぇ」
淡々とした松澤先生の声に、背筋が凍りそうになる。
なぜ後ろにいる。さっきまで、黒板に数学の問題を板書していたはず。
遅刻に関する呼び出しでお説教に加え、追加の課題をたっぷり出されてしまった。
今夜寝れるのだろうかと不安になってきた。
この後大災害が起きて、何処かに飛ばされるとかないかと考えてしまう。
そうすれば勉強なんてやらなくて済むのに…と。