女帝蜂の献上蜜 9
近衛蜂は高く高く高度をとって編隊を組んだ。先頭に一匹。その後ろに三匹ずつを従えた、渡り鳥と同じ隊列。
「【二の相。四の素。夜の土、昼の水にて転変せよ】」
蜂は天頂方向から真っ逆さまに落ちてくる。
「【馬を壁へ。泥を石へ。硬くあれ。強くあれ】」
突撃と呼ぶのも生ぬるい、決死の墜落。たとえ翅を落とされようとも勢いを殺さぬまま自らの体を矢弾に変えて悪魔とリリアを押し潰す。
「【瞬く刻のひと呼吸。其は守るもの。飛翔せよ!】」
そういう攻撃だと、チェリコは近衛蜂が高度を取ったときに予測した。
だから間に合う。
「【ストーンウォール!】」
詠唱が完成する。
荷車の前に立ち止まっていた泥馬がずるりと溶け、姿を変える。
ただの石壁。
それは近衛蜂とリリアたちの間へ差し込まれるように飛び込み、一撃で粉砕された。
「は……!」
言葉にならない。
砕け散った石壁。
リリアと悪魔を守るものはもはや存在しなかった。
激突音。盛大に巻き上がる土煙。
「リリア!」
ミルルの悲鳴じみた声。
「命を捨てた攻撃をされると守りにくいではないか」
そして土煙の中から聞こえてきたのは落ち着き払った悪魔の声だった。
「砂が口の中に……」
眉を下げて情けない声を漏らしながら、リリアが滑るような動きで土煙の中から現れる。
調理のとき、悪魔もリリアも目に見えぬ腕を操ったかのようにして食材を宙で自在に動かした。それはリリア自身の体も自在に宙で動かせるということでもあった。
「その状態で水の天蓋を維持しておるのだから及第点だ。よく集中を切らさなかったな」
「うん。数が多いと大変だもんね」
「……よかった」
安堵の息を吐くミルル。
チェリコも胸をなでおろした。そしてリリアの言葉から、土煙だと思ったものが砂煙であったことに気づく。
時間の経過と共に砂煙がおさまると、先ほどまでリリアたちが立っていた場所がすり鉢状に砂の敷き詰まった大穴となっていることが分かる。
「世話の焼ける」
悪魔の言葉と共に、砂の中から七匹の近衛蜂が見えない腕によって掬い上げられる。そしてやはり空中で翅と脚、針を切り落とされて水の天蓋の外へと投げ出される。
決死であったろう突撃すら、悪魔は近衛蜂の命ごといなしてみせた。
何をしても無駄であると、悪魔が圧倒的な強者であると徹底的に知らしめるその行い。
回復魔法によって再び生えそろった翅や脚を試すように動かした近衛蜂たちが、怯えているのがチェリコにも分かった。
「さて……」
悪魔が呟いて、その凝った影のような闇の中から、一抱えもある壺を三つ取り出した。
それは見えない腕で運ばれて、近衛蜂の前に並べられる。
並べた壺の隣に、今度は片手で掴める大きさの小瓶が置かれた。その中に満たされているのが何かを、チェリコはしっている。蜂蜜だ
「貴様らが持つ最上の蜜でその壺を満たせ」
言葉は、おそらく理解していないだろう。だが、悪魔が提示したものが降伏勧告であることは理解したに違いない。
悪魔はここまで、ただの一匹すら蜂を殺していない。
いまだ本気で蜂を害そうとしてすらいない。
もしも悪魔がその気であれば、とっくに壊滅していてもおかしくない彼我の実力差。
女帝蜂によって産み育まれた彼らは、そういった相手をどう遇すればよいのかを本能で知っている。
最後に襲い掛かってきた七匹の蜂のうち三匹が、壺を抱えて巣へと戻っていく。
「まだ気を抜くでないぞ」
「はい、侯爵様」
ジェンケルが短槍を構えたままで答える。チェリコもまた、呼吸を整えた。水袋から一口あおって喉と唇を湿らせる。
このような時こそ、決して隙を見せてはいけない。
「リリア。天蓋を維持したまま、落ちているものを拾えるか」
「うん。見えてるから大丈夫」
「よろしい。全て荷車へ積め」
「はーい」
リリアの魔法によって、地面へと切り落とされていた蜂の部位が、荷車へと運ばれていく。鉄の槍すら跳ね返す甲殻をまとった脚、分厚い石壁を容易く貫き粉砕する針、高速での飛翔を可能とする軽く強靭な翅。どれも一級の素材だ。
この姉妹の実家がいかに裕福であったとしても、四千枚ものタウル銀貨をそうそう用意できるはずがない。その路銀がどこから調達されていたのか、その理由の一端をチェリコは知った。
「入りきらないよ」
「では我が持とう」
悪魔の宿る闇が荷車の方へと伸び、蜂の体の部位を根こそぎその中へと吸い込んだ。
「ふむ、ちょうど良い暇つぶしになったか」
チェリコが女帝蜂の巣の方へ視線を向けると、三匹の近衛蜂が壺に蜂蜜を満たして戻ってくるのが見えた。
「我は貴族ゆえな」
小国の王と大国の貴族。国力の差があまりに大きければどうなるか。
悪魔の侯爵は蜂の女帝から、その蜜を恭しく献上された。