女帝蜂の献上蜜 8
黒黄の森は、一見すれば緑豊かなだけの森林だ。一年を通して温暖な地域であるため、雪に閉ざされることがなく、季節ごとに様々な草花が咲く。薬効のあるものも多いが、人が踏み入ることは滅多にない。
この森の動植物はすべて、その生殺与奪を蜂に握られている。
木々の若芽を食む鹿も、それらを捕食する狼も、ただ森を維持するために都合がいいから存在を許されているだけだ。
ひとたび蜂の怒りを買えば、森の至る所から彼らが飛んできて襲い掛かる。緑豊かな景色は、蜂の腹の模様である黒と黄のまだらに変わり、その羽音で埋め尽くされる。
ゆえに、黒黄の森。
触れてはならぬ警戒色の名を冠するが、歴史的には逆だ。この森の存在こそが、黒と黄を警戒色とする文化をこの大陸に浸透させた。
「なかなかに気骨がある」
ジェンケルの眼前にある黒と黄で埋め尽くされた景色こそが、それだった。
そして、そんなものを前にして、気骨があるなどと上から評価することができる存在が、リリアに憑いた悪魔である。
悲鳴を上げて逃げ出したい気持ちを押さえつけて、ジェンケルが短槍を構えミルル達の前に立ち続けていられるのは、この悪魔の側こそが最も安全だからだ。
事前に暗視の魔法をかけられたジェンケルの視界は、悪魔とリリアが引き起こす一方的な蹂躙を、漏らさず捉えていた。
「だが馬鹿の一つ覚えでは勝てぬぞ」
悪魔の言葉と同時に、こちらへ襲い掛かろうとしていた数百匹の槍兵蜂の翅が、根本から風の刃で断ち切られる。蜂が地面へと落ちる前に、さらに六本の脚全てと尻から生える長大な針が目に見えぬ刃で切り落とされた。
全長がジェンケルの腰辺りまでもある巨大な蜂は、一秒にも満たぬ間に芋虫以下の存在となり果てた。地に落ちた蜂が、石礫によって弾き飛ばされる。
蜂が吹き飛んだ先で、ばしゃりと水音がした。リリアが半球状に維持している分厚い水の膜で覆われたこの戦場を追い出された証だ。
最も数が多く、そして数こそが脅威となるサイズの蜂は、リリアの作った水の天蓋を超えることはできない。そこを超えられるサイズの魔物と分類される蜂は、そのことごとくが悪魔によって地へ落とされた。
「こ、こんなことが……」
槍兵蜂も、毒鏃蜂も、一切合切が悪魔の前には関係なかった。彼らの持つ岩より硬い甲殻を、悪魔の魔法は容易く切り裂いた。軍隊ですら対処不能に陥りかねない膨大な数も、底の見えない魔力による多重発動ですべてを押し返した。
双方に一切の死者を出さずにだ。
「どうした。もう終わりか」
都合六度目となる波状攻撃を危なげなく撃退した悪魔は、水の天蓋の外へと弾き出した蜂に、あろうことか回復魔法をかけてやっている。再び生えそろった翅や脚に戸惑う様子を見せながらも、槍兵蜂たちが空へと戻る。
こちらを遠巻きにして対空する蜂の数は時間の経過と共に増えていくばかりだ。
「こんなこと、酒場に戻って報告しても誰も信じちゃくれないよ」
チェリコの言葉はもっともだ。
黒黄の森の最奥にある禿山。苔むして、場所によっては草花こそ生えているが、樹木が茂ることは一切ない。それこそが女帝蜂の居城。山と見まごう巨大な穴蜂の巣。
その眼前までたどり着いた上で、堂々と巣の護衛につく槍兵蜂を攻撃した。その凶行は、きっと誰から見ても自殺行為でしかないのだろう。
しかしその自殺行為は悪魔の圧倒的な武力によって敵対行為として成立している。
「そう、馬鹿の一つ覚えこそが陽動であるな。よく練られている」
「……下!」
悪魔の言葉でジェンケルは違和感に気づくことができた。まったく有効な打撃を与えられない空からの襲撃が繰り返されたのはなんのためか。
ジェンケル達の足元にボコリと音を立てて地面に穴が空く。即応して槍を繰り出す。
がきり、と鈍い音。
地裂蜂の顔面をとらえた槍は、ほんの一瞬だけ彼らを押しとどめる衝撃を与えただけで終わった。
そしてその一瞬があれば悪魔には十分だった。あるいは、その一瞬すら必要がなかった。
「よいぞ、槍戦士。その調子で気を抜くな」
言葉と共に地面が掘り返された。六度の波状攻撃の間に地裂蜂が掘り進めていたトンネルが根こそぎ露わとなる。それは女帝蜂の巣から伸びる幾本もの迂回路となっていたが、その中にいた地裂蜂と土砂ごと空中へと放り出された。
数十匹もいた地裂蜂は、槍兵蜂たちと同じ運命を辿った。翅と脚をもがれ、水の天蓋の外へと弾き出される。
掘り返されたトンネルは、一瞬で埋め戻された。ジェンケルが蜂の側であれば心が折れているだろう。
「リリア、地下にまで天蓋を広げられるか。半球でなく、全球にして覆うのだ」
「ん……と……ごめん、侯爵。上手くできないかも」
「どこが足りぬ」
リリアは首をかしげて少し考えるようにして答えた。
「土が邪魔なの。どかしながら広げられない」
「見えぬものはまだ無理か。明日の調理は目隠ししてするか」
「ミルルさん、覚えておいて欲しいんだけど、こんな会話を王都魔法学院の教師が聞いたら白目を剥くからね」
「あ、はい。ここ数日のチェリコさんを見ていてなんとなく分かってました。私が思っていたよりも、もっと常識がないって」
チェリコとミルルが互いに顔を寄せ合って話している。
護衛対象であるミルルたちが正気を失わないように極力平常を装うようには言い含めてあったが、別の意味で正気ではない会話だった。
「では地下については我が対処してやろう」
リリアの足元からパキパキと霜が広がり始める。白い音の連なりはリリアが維持する水の天蓋の端まで広がり続けて、ようやく止まった。
「蜂どもが掘れぬように凍らせておいた。さて、次は何をしてくるか……。あるいは、そろそろかな」
悪魔の言葉が呼び水となったわけでもないだろうが、女帝蜂の巣からこれまでの蜂とは比べ物にならない巨体が複数飛び立ったのが見えた。
――近衛蜂だ。