女帝蜂の献上蜜 7
黒黄の森を目指して数日。わが物顔でそこらを飛び回る蜜蜂が増えてきた。
チェリコは御者台の隣に座るリリアへ向けて声をかける。
「リリアちゃん。泥馬を走らせるときは、蜂を踏んづけたり、体当たりで潰してしまわないように気を付けてね」
「うん。わかった」
素直に頷いたリリアが、ちらりと視線を巡らせた。気を付けたところで当たるときは当たるのだけれど、やらないよりはマシだ。
「蜜蜂を攻撃すると、槍兵蜂が報復にやってくる……でしたっけ。この辺りはもう女帝蜂の縄張りなんですか?」
泥馬の背にまたがったミルルの問いかけは、前半は正しく、後半はやや間違いだ。
「この辺り、というのは少し違うね。この大陸の蜂は全て、女帝蜂の臣下なんだよ」
「全て、ですか」
チェリコは頷く。
魔物ですらない蜜蜂や足長蜂も、魔物として討伐依頼が出ることのある槍兵蜂や毒鏃蜂も、全てがだ。
「ミルルさんは、森で迷ったら夕刻に飛ぶ荷運び蜂を探せって教わったことはないかい?」
ジェンケルが遊び盛りの子供へと伝える知恵を問いかける。
「すみません、遠乗りは平地ばかりで。父は狩りも趣味にしていたようなのですが」
「私もわかんない」
ミルルとリリアは揃って首を振る。その仕草があまりにもそっくりで、チェリコは少し笑ってしまった。
「荷運び蜂は巣に集めた蜜の中で、一等出来がいいやつを黒黄の森へと運ぶのさ。いくつかの中継点になっている巣を経由してね。だから、黒黄の森が自分の住んでるところからどっちにあるのかさえ分かっていれば、荷運び蜂を見れば方角が分かるんだよ」
「そういうことなんですね」
「たまにそこの蜜を取ってきてほしいって依頼が出るんだが……まあ、あまり割のいい仕事じゃないよ」
中継点は必ず槍兵蜂や毒鏃蜂が護衛についている。数匹程度なら駆け出しの冒険者でもなんとかなるが、集団で来られると中堅どころでも準備がなければ逃げの一手だ。
最初にミルルが女帝蜂の巣までの護衛を依頼したときに自殺志願などと言われたのもそれが理由だ。中継点どころか本拠地へ、足手まといを二人もつれていけというのは正直なところ無理がある。
実際、チェリコとジェンケルも、無理だと判断したら即座に帰還することを条件にこの依頼を受けている。
「この大陸だとだいたいどの地域でも、蜂の巣は壊さないように言われているね。近くに荷運び蜂の中継点があれば、そこから槍兵蜂なんかが報復にやってくるから」
そうやって巣を守る代わりに集められた大陸中の蜂蜜。その中で最も上質な部分だけが女帝蜂の巣へと届けられ、次代の女帝を育てるための餌となる。
これを女帝蜂の献上蜜と呼ぶ。
ミルルたちが欲しいと言ったのは、それだ。
「……お話を聞いていると、とても手に入らないような気がしてきますね」
眉を寄せてミルルが悲しそうに零す。
「蜂蜜、食べられないの?」
「情けない声を出すな。我がいるのだから、女帝蜂など恐るるに足りぬわ」
リリアが声をかけたわけでもないのに、昼間から悪魔が起きてくるとは珍しい。あるいは、悪魔もまた言葉にするよりは女帝蜂を警戒しているのかもしれない。少なくとも起きていなければ襲撃に気づくこともできない。
「そうだよね。侯爵は強いもんね」
「おうとも。蜂の千匹や万匹、指一本で地に落としてみせようではないか」
そして悪魔が敵を認識してさえいるのなら、その言葉通りになるのだろう。毎晩の料理で使われている魔法を、ただ戦闘用に行使するだけでも一軍に匹敵するはずだ。
無詠唱で複数を同時に展開可能な風の刃や炎の壁とは、それほどの脅威である。しかも、それをできる人材がリリアと悪魔で二人もいるのだ。
チェリコの正直な感想としては、ここより先、自分こそが護衛される側と言っていい。
だから、悪魔からの提案はあまりにも真っ当だった。
「ときに、槍戦士と魔導士よ。今日は早めに野営地を設営するがよい。ここから先は、夜に進み、昼に寝る」
「……分かりました」
頷いたジェンケルもまた、提案の意味を分かっている。少しだけ悔しそうな表情を見せたのは、戦士としての矜持だろう。
もちろん、チェリコにもそれはある。あるが、命に代えられるほどではない。
「俺たちが昼夜逆転生活で調子を崩したとしても、侯爵様が十全に力を行使できる方がいい……自明のことです」
自分たちの力を過信しない。できないものはできないと見切りをつけられる。チェリコとジェンケルはそれができるからこそ今日までを冒険者として生き延びてきた。
けれど、悪魔の要求はそれよりももう少しだけ高かった。
「未熟者。護衛が体調を崩すことを前提に考えるな。リリアの泥馬が使えたおかげで日程には余裕がある。必要ならば一日を睡眠時間の調整に使え。リリアと姉御殿を守るのは貴様らの役目。蜂を退けるのが我の役目よ」
その言葉に、ジェンケルは力強く頷いた。
チェリコもまた、手綱を握る手に力をこめる。
必ずや護衛を全うし、この姉妹を街まで連れて帰るのだ。