女帝蜂の献上蜜 4
野営の準備はつつがなく完了した。
冒険者が旅先で行う設営など簡単なものだ。木陰と馬車を利用して天幕を張り、余裕があればテントも立てる。雨が降りそうであれば水の逃げ道をあらかじめ掘っておく。ジェンケルたちの場合であれば、木陰がなければチェリコが土壁を作ることもある。
前に通った隊商が残していったらしい半ば崩れた石積みの竈を積みなおして、そこで煮炊きをする。そんなものだ。
中央街道のように人の通りが多ければ、このような中継点にだんだんと人が居ついて、商人たちが商売を始め、最終的には代官に届け出が行われて宿場町へと発展することもあるのだが、もちろん今回の旅でそのような野営地は通らない。
「少し時間を食ったな、日が落ちてきた」
「泥馬の操作がリリア任せだったのは盲点でした」
「馬の形をしているだけでゴーレムだからね。馬車と並走させる分には問題ないだろうけど……ジェンケル、会敵したらさっさと降りるんだよ」
チェリコの言葉に、ジェンケルはもちろんだと頷いた。
最初こそ自分で操ることができない馬に不安もあったが、リリアは視界の外にある泥馬を難なく馬車に並走させた。チェリコが言うには、自分の籠めた魔力の状態はある程度把握できるらしい。言われてみれば、チェリコも馬車の前方を警戒しながら泥馬を走らせているわけで、そこは魔法使い独特の感覚のようだ。
その泥馬を操っていたリリアはと言えば、テントが珍しいのだろう。テントの中へ入ったり出たりして楽しそうにしていた。
ああしていると、本当にただの子供のように見えてくる。
「あっ、侯爵。そろそろご飯だよ」
しかし、リリアが左肩のあたりへと声をかけた瞬間に、平穏な風景は破られることになった。『夢見る蜥蜴亭』で一度見た光景。闇、としか形容のない黒が、リリアの左肩から立ち上がる。
「む、もう夜か」
「おはよう、侯爵」
「しゃ、しゃべるのか」
ミルルから危険はないと説明を受けていたものの、思わずジェンケルは後ずさる。
馬車の荷台から保存食を下ろしてきたチェリコも干し肉と堅パンを抱えたまま立ち尽くしていた。
「貴様らは……」
見られた。
形すら曖昧な闇の中から、その悪魔がジェンケルたちを確かに視界に入れたことが分かった。背筋に氷柱を突っ込まれたかのような絶望感。存在の格があまりにも違う。
「リリアと姉御殿の供か。二人とも未熟者だ。よく面倒を見てやってくれ」
予想外の言葉に、ジェンケルもチェリコもまともな反応を返せない。くちを半開きにした間抜け顔で、頷くだけだ。悪魔とは、契約を交わした悪魔というのは、こういうものなのだろうか。
「未熟じゃないもの。すぐに侯爵よりもうまくなるから」
「そういうところが未熟だと言うのだ、リリア」
頬を膨らませて主張するリリアをいなす口調は思慮深く、とても悪魔という言葉から想像できる雰囲気ではない。
「侯爵、こんばんは。ジェンケルさん、チェリコさん。夕飯はリリアと侯爵が作りますから、どうぞ休んでいてください」
ジェンケルたちよりも遅れて悪魔の出現に気づいたらしいミルルが、訳の分からないことを言ってきた。
「夕飯を……作る?」
「あく……侯爵様が?」
ジェンケルにもチェリコにも、言葉をうまく飲み込むことができない。悪魔が料理をするというのも不思議な気がしたし、貴族が料理をするというのも理解が及ばなかった。
「ええと、その、リリアが契約した願いに関わることなんです」
「世界で一番おいしいプリンを食べるの」
グッ、と拳を握って気合を入れるリリア。
「献上蜜を取りに行くのは、あれだろう。その材料集めって聞いてるけれど」
「そこまで聞いているならば分かるだろう。一流の食材を揃えたからといって世界一の味となるわけではない。一流の料理人がいなければ食べられもしない炭ができて終わりだ」
理屈の上ではジェンケルにも理解できる。同じ食材を使っても、ジェンケルが作るのとチェリコが作るのでは出来上がる料理に天と地ほど味の差が出るものだ。
「はい。ですから、リリアは侯爵からお料理を習っているんです。味については安心してください。侯爵にはまだまだ敵いませんけれど、すごく上達したんですよ」
「ミル姉さままで私のほうが侯爵より下手だと思ってる」
「ほう、それでは今の腕のままプリンを作ってみるか?」
「ごめんなさい」
即座の謝罪だった。
やり取りを見る限り、本当に料理を教えてもらっていて、しかも悪魔の料理の腕前も本物なのだろう。ジェンケルにはいよいよ、侯爵級の悪魔というものが分からなくなってきた。
「今日は冷える。貴様らは交代で不寝番もするのだろう。小腹がすいたときに温め直せばすぐ食べられるものがよかろうな。ふむ……」
リリアの肩から伸びる闇の中から、見えない腕で運ばれるようにして何種類かの根菜が現れた。
「次元門……!」
チェリコが絶句している。
「そこまで大それたものではない。ただの圧縮空間だ。よし、今宵はシチューとする。ああ、その肉とパンも使う故、こちらへ貰うぞ」
絶句したままのチェリコの腕から、やはり見えない腕に掴まれたように干し肉と堅パンが浮き上がる。もちろん、ジェンケルにもチェリコにも、否やを唱えられるはずがない。
どんな料理が出てくるのか想像もつかないが、侯爵級悪魔のすることに文句をつける勇気は持ち合わせていなかった。
「それでは、調理を開始する!」
「おー!」