PERVERT
奈意斗は気づくと湖に浮かんでいた。体がやけにベタつくような気がして周りを見ると、そこには血の湖が広がっていた。夢を見ていることにはすぐ気が付いた。彼はだんだん体が血の湖に沈むのがわかった。しかし抵抗する気にもならない。そのまま顔まで沈んで底に落ちていく。
しかし苦しくはなかった。体が液体と一体化するような感覚の中でふと懐かしいような感覚が体を巡った。目を開けて見るとそこにはあの女がいた。
「奈意斗」
女は奈意斗の名前を呼んだ。夢はそこで終わった。
目覚めると、そこには白い壁があった。底が病院の天井と気がつくまで、そう時間はかからなかった。
看護師らしい人たちが彼の目をライトで照らしたり、モニターを確認して、医者らしい人に報告していた。
奈意斗は何があったか思い出そうとした。思い出したのは、女の唇の柔らかさ、そしてその快楽だった。
奈意斗はその場でまた叫んだ。叫んだ瞬間周りの機材がオーバーヒートしたり、宙をまったりした。サイコキネシスが発動したのだ。叫び声を聞いて駆けつけたのはアメリアだった。アメリアが病室に駆けつけると同時に病院の窓ガラスが割れた。その破片が看護師たちに刺さり、看護師たちの悲鳴が舞った。医者の男は逃げようとしたがモニターが飛んできて、それを避けようとして倒れ込んだ。さらに上から注射針付の注射器が向かってきた。医者の男は叫びながら目を閉じた。しかし落ちてきたのは、一滴の血だった。
アメリアはとっさに手で注射器を受け止めた。針は彼女の手に刺さっていた。彼女は奈意斗の元に走って彼を抱きしめた。
「もう平気よ、もう平気」
奈意斗はアメリアの、強い力と温もりに気づくと正気を取り戻すことができた。
舞っていた機材やガラス片は床に落ちた。アメリアはしばらく彼を抱きしめたまま、針の刺さった手の痛みに耐えていた。
アメリアは心理学者である。彼女は奈意斗が気を失った状況などを聞いて、ある程度彼の心理状態を考察していた。
奈意斗が運び込まれた時、彼は泡を吹き、謝精をしていた。その状態から異常なまでの快楽に晒されたことがわかった。
異常な快楽は体内の内分泌機能を狂わせ、ホルモンバランスを崩して様々な悪影響を生み出すが、特に理性を消し去ることが、周りには危険だった。理性が無くなり、本能のままに力を放出する。奈意斗のようなエスパーの場合は特にその力が際限なく発揮され周りを傷つける可能性があった。意識を取り戻した時、その快楽を思い出し暴走する可能性をアメリアは考えていたのだ。
また、早く止めないと、奈意斗自身の体も異常なホルモン分泌による副作用かエネルギーの使いすぎで死に至る可能性があった。
彼女は物理的にストレスを与えることで、なんとか理性を発動させる方法を取り、成功した。
問題はそれ程の快楽を感じる理由であった。
最初はそれこそエスパーの能力かと思ったのだが、ドーベルマンの話を聞く限り違うらしかった。
「死に至る快楽か」
アメリアの話を聞いて、総士は冗談まじりに言った。
「普通はありえない話よ、特殊な状況下でないと。例えば麻薬とか身体のホルモンバランスを著しく変える薬を大量に摂取するとか、そういう状況じゃないと。もしくはよっぽど素敵な相手と夜を過ごすとかだけど、少なくとも私は出会ったことないわ」
アメリアは下品な内容も上品な表現で喋れる。ドーベルマンは二人の会話を聴きながら、自分の考察を話した。
「おそらく、総士が見た女というのはMと思われる。能力はテレポーテーション。これでその女の異常なスピードや消える云々の話も説明がつく。」
テレポーテーションの科学的説明は未だできないのである。
物体がどのように空間から姿を消し、空間に登場できるのかについて説明できる科学者はいなかった。
M、ミホ・ミカミと呼ばれる女性。彼女の能力が発揮された時、中国は彼女の能力を強く恐れ、ずっと眠らせていたという説明が以前の会議であった。
サイコキネシスよりもある意味で危険な能力である。そしてそれを扱う人間が傭兵並みの強さを持つなら尚更危険であった。
三人は昼飯の最中だったが、まったく食が進んでいなかった。今更ながら敵の強力さがよくわかる。なぜ彼女がここに現れ、この殺戮に及んだかわからない。しかし、彼女はその気になれば簡単に自分たちは殺されるようだ。
総士は昨日の惨劇を思い出していた。
凱が麻由香に振り返って手を振った。その時、奥の席の方で叫び声が聞こえてきたのだ。三人はすぐにそこに向かうと、惨殺されている何人かがいたが、犯人はいなかった。次に、入口の方で声がした。振り返ると首が無い人が倒れるのが見えた。
その場にいる人たちは1人ずつ殺された。女が急に姿を現した。
総士はいつも身近に日本刀を持っているが、今日もそれを持っていた。剣を抜き立ち向かおうと心に決めたその瞬間、5メートルは先にいたはずのその女がいきなり目の前に現れた。間一髪受太刀できた。それは奇跡と言っていい、たまたま受太刀出来たことは彼自身が気がついていた。
しかし、ミホがまたすぐに消えた時、彼の本能が悟った。今自分は死の危険の中にいる。その冴えた感覚で辛うじてミホの動きを読み二度受太刀ができた。急に現れる気配に一瞬で反応した。混乱が彼を恐怖に陥れた。
そんな中、麻由香が無思慮に銃を振り回す。しかしミホの姿を捉えることすらできなかった。
凱は麻由香と総士と違い交渉班だったから、その場でどうすることもできなかった。きっと、ミホは思ったに違いない、獲物を見つけたと。
彼はいきなり背中を切りつけられた。血が滲む、彼が倒れた時、麻由香が凱の名前を叫んで彼を抱き起こした。
凱は絵に描いたようないい奴だ。人のことをいつも考え、相手を喜ばせることに必死で、凶悪犯ですら同じ人間なのだと、話せばわかるのだと、いつも溢れる程の愛情で人に接していた。
だから、その時、総士は凱の行動に驚いた。そんなことがあっていいのかと一瞬にして絶望を感じた。
麻由香はあの時理解できていたのだろうか。いや、目の前の凱を救おうと夢中で気付いていないだろう。
凱は恐怖の表情を浮かべていた。彼を支える麻由香の背後にはミホが立っていたのだ。
一瞬のことで総士は反応が間に合わなかった。
凱はその時、確かに麻由香を盾にしようとした。麻由香をミホの方へ押しのけたのだ。
痛みと混乱と恐怖が彼にそうさせたのだ。あの凱が、自分が生き残る為に他人を犠牲にしようとした。
今思い出しても恐ろしい、恐怖は人をこうも蔑める。
ミホはきっと凱がそうすることがわかっていたのだろう。麻由香に触れる前に消え凱の目の前に立った。後ろではなく敢えて目の前に立ったのだ。
凱はこの時恐怖でいっぱいだったのだろう。痛みを忘れて立ち上がって逃げようとした。しかし目の前にミホが現れた。凱は何か言ったようだ、しかし聞こえなかった。凱の最後の言葉は聞こえなかった。しかし、彼はそのまま二つに割れて床に落ちた。彼はしばらく生きていた。生きて助けを求めていた。
そして死んだ。
麻由香は駆け寄って、泣き叫んだ凱の上半身を出しめて泣き叫んでいた。
ミホは笑って見ていた、ただ笑って見ていた。殺すでもなく、哀れまでもなく、笑って見ていた。
そして、奈意斗が来た。
彼女は奈意斗が気絶した後も、生き残った総士達に目もくれずさっていった。
ただ麻由香にはちょっとだけ笑顔を向けていた。
彼女はきっと楽しんでいたのだ。思い人を失い、裏切られたことにも気がつかない麻由香の哀れさも、その事実を知って、麻由香と共にいなくてはならない総士の苦しみを。
凱は最後なんて言ったのだろう。
総士はそんなことを考えている。
ドーベルマンの携帯がなった。
リンザーからの連絡だった。奈意斗の精密検査が終わった連絡だった。概ね身体に異常はなく、明日にも退院できると言う連絡だった。
三人は彼の病室に向かった。
病室は一般の病棟に移されたようで、そこには憔悴した麻由香もいた。
先に来ていたのはユナだった。彼女が最初に気絶した奈意斗を見つけたのである。
後からエフゲニーやヴァンも来た。
「本当に良かったな奈意斗くん」
リンザーが奈意斗の肩に手を置いて言った。奈意斗は少し笑って見せた。アメリアの方を向いた。
少し申し訳なさそうにしている奈意斗に気付いてアメリアは言った。
「良かったね、美女にハグできて」
笑顔で冗談を言って見せた。アメリアの優しい言葉で少し奈意斗は安心した。
少し朗らかな雰囲気が周りに満ちているにも関わらず、総士だけが麻由香を見つめ、苦い気持ちになっていた。
自分が見てしまったものを彼女に言えない苦しみから逃げたかった。彼女は今も死んだ凱のことを考えているのだろう。
「ところで、」
エフゲニーが喋り出した。日本語が喋ることがここで初めてわかった。
「ここで俺たちが考えることは2つだ。1つ、俺たちがこれからやろうとすることはバレているのか、いないのか、2つ、その女が次襲ってきたときの対策だ。」
まずは奈意斗が答えた。
「多分、彼女の目的は僕だ。」
その意見には、現場にいた総士も賛成だった。
「多分正しいだろう。奈意斗くんは日本でやつらと接触がある。おそらく追いかけてきたんだろう。どうやって居場所を突き止められたか分からないが。」
次に喋るヴァルも日本語を喋れた。
「居場所は内通者によって知らされたのかも、そうでないとこの環境下で難しいだろう」
それについて、ドーベルマンが反論した。
「いや、そうだとするなら奈意斗くんはじめ皆が生きてる理由もわからん。内通者がいるなら少なくとも我々が奈意斗くんを仲間に引き入れ何かを画策していることは分かっているだろうからな」
アメリアが続いた。
「あの死体の山を見たでしょ、何をしようと無駄って言ってるだけかもよ」
総士がもう一度話し出した。
「いや違う、そういうつもりじゃないだろう。目の前のゴミを捨てるよう、人を切って奈意斗くんのもとに来た、そんな感じった。」
「そんなんじゃないわよ」
総士が話している途中に麻由香が突然割って入った。静かな声で、しかし迫力のある低音で彼女は話した。その雰囲気に皆が圧倒された。彼女の周りはまるで黒いようなオーラで包まれていた。
「むかし、小さい頃に、意味もなくアリを殺したわ。別に何かにムカついたとか、そういうことじゃない、命の大事さとか、アリだって生きてるんだとか、そんなことちっとも考えなかったし、後悔も何もしなかった。ただ楽しかったの。殺すことが楽しかったんじゃない、命を踏みにじることに楽しかったんじゃない。ただ強い自分が弱い何かを潰していくことが楽しかったんじゃない。ただ、それが意味もなく楽しかった。あの女もそう。あの女もそうなのよ。私たちに命があるとか、命を奪うことに後悔とかないの、ただ楽しいから殺したの。楽しんで殺しただけ。意味なんてないの」
その鬼気迫る彼女の訴えに一同は動くことすらできなかった。かける言葉もない。それは理不尽を究極にした恐怖だった。
麻由香は奈意斗の方を見た。
「あなたのせいよ。」
麻由香は眼前に写った奈意斗に激しい怒りを覚えていた。理不尽に対する気持ちなのか、もともと思っていた奈意斗に対する嫌悪かわからないが、彼女は奈意斗にぶつけた。
「あんたがこんなとこにいるから悪いの。あんたが私たちをこんな目に合わせたの、凱を殺したの。
あんたみたいなサイコ野郎が、サイコの変態女を連れてきて、あんなに人を殺したの。サイコ同士お似合いじゃない、勃起する程タイプだったんでしょ、キスされて興奮したんでしょ、この変態。死ね、お前が死ねば良かったんだ、お前が死ねばみんな死ななかったんだ。みんな幸せだったんだ、死ねよ変態。気持ち悪ぃんだよ。渋谷で殺した時も勃起したたんでしょ、汚い汁出して感じてたんでしょ。死ねよ変態、キモい、死ね、キモいんだよ死ね、キモいから死ね、死ね、死ね、死ねぇー。」
彼女は段々とエスカレートしてきた。叫び声はだんだん大きくなり、ついには看護師が来た。宥めても宥めても、彼女は罵倒を繰り返した。
奈意斗自身は別になんとも思ったなかった。普通は傷つくのかもしれないが、全く傷つかなかった。
彼にとっては、目の前の麻由香がどうしてそんなに意味のわからないことを言っているか不思議だったのだ。理屈に合わない。
麻由香は遂に鎮静剤を打たれた。そのままゆっくりと静かになり、床についた。