全ての法律は、私の都合の良いように捻じ曲げられるべきだ。(3)
懐が温かいだけで、人は誰かに優しくなれる。
それをサクラは初めて自覚した。
クロラス森林の餓鬼族から頂いた金は、サクラの予想を上回るものであった。
これだけの金があれば、当分は美味い飯をたらふく食べ、隙間風の入らない立派な宿を取り、温かい風呂にゆっくりと浸かり、柔らかなベッドで安らかに眠ることができる。
だがそれだけではない。
今のサクラのそばには、そんな大金でさえ、はした金と笑えてしまうほどの、莫大な利益を実らせる枝葉がいるのだ。
魔族から金をくすねて困窮生活を続けてきたサクラにとって、未来の展望は目を焼くほどに明るいものであった。
その心の余裕が、サクラに慈悲の感情を与えた。
サクラに金を運んでくるハルはともかくとして、餓鬼族であるゴードンの食費まで、サクラは気前よく驕ることにしたのだ。
意気揚々とレジに向かったサクラは、小袋に入った金貨をこれ見よがしに店員に差し出す。
そしてそれが運の尽きだった。
「――ちょっと誰か教会か自警団の人を呼んで!
このお金、人から盗んだモノよ!」
店員の言葉を、サクラはすぐに理解することができなかった。
ぽかんと目を丸くしていると、突然に背後から腕を取られ、サクラは床に押し倒された。
「この盗人野郎が!
観念しやがれ!」
サクラの背中を無遠慮に踏みつけた大柄な男性が、彼女にそう罵声を浴びせ掛ける。
彼女は唐突な展開に困惑しながらも、周囲に視線を巡らせて、状況の確認に努めた。
サクラの連れである、ゴードンとハルもまた、すでに食堂の人間により拘束されていた。
とはいえ、それはサクラのように暴力的なやり方ではなく、逃げられないよう周りを人垣で囲うといったものである。
何となく、サクラは不平等感を覚えた。
正直、男の拘束を振りほどこうと思えばできた。
だがもしも、ここで暴れて相手を怪我させようものなら、例えこちらに非がなくとも、正当防衛云々で面倒なことになる。
後に思い返せば、何を呑気なとは思うが、当時のサクラは、そう考えてしまった。
教会員が来てからは、目まぐるしく事態が進んだ。
サクラとゴードン、そしてハルの三人は、教会員に手早く拘束されると、手際よく教会に連行されて、手荒に留置所に放り込まれた。
呆然とするサクラに、牢の鍵を閉めながら、教会員が愛想悪く言う。
「今日はもう遅いから、取り調べは明日だ。
ここで一晩大人しくしていろよな」
「は?
ちょちょちょ……待てよ!
何だってんだいきなり!
私が何をした!?」
牢の鉄格子を掴み、声を荒げるサクラ。
教会員は面倒臭そうに、口を開く。
「あんた、盗んだ金を使おうとしただろ?
だから話を聞かせてもらうってことだ」
「盗んだ金!?
なな……何を馬鹿なことを!
どど……どこにそんな根拠がある!?」
狼狽を顕わにするサクラに、教会員は呆れたように溜息を吐く。
「ここらで商売する商人はな、旅の途中で現れる野盗かなんかの対策として、とある目印を硬貨つけるって慣習があんだよ。
旅を無事に済ませた時は、その硬貨の目印は消しておくからな、目印のある硬貨を使用した野郎は、野盗かその仲間だってことだ」
教会員の説明を聞き、サクラは血の気が引くのを感じた。
食堂で渡した金は、商人から奪ったものではない。
だが商人から金を奪った餓鬼族から、奪ったものだ。
つまりその硬貨には、教会員が話す目印なるものが、ばっちりと付けられていたのだろう。
「当然、硬貨のどこに目印があるかなんて、他所者には教えられないが、ここいらで商売をしている人間なら、一目見ればそれが盗まれたものか分かんだよ。
残念だったな」
「いや待て!
あの金は貰い物なんだ!
あれが盗んだ物なんて私は知らなかった!」
「そのあたりも踏まえて、明日じっくりと話を聞いてやるよ。
それじゃあな」
ハラハラと手を振り、牢から離れていく教会員の背中を、呆然と眺めるサクラ。
教会員の姿が角を曲がり消えた、そのタイミングで、牢にポツリとした声が響く。
「やはり……悪いことはするもんではないな」
「やかましい!」
牢の隅で膝を抱えているゴードンに、サクラは瞳を尖らせて吠えた。
「どういうことだコレは!
私本来の予定では、今頃は高級宿にチェックインして、温かい風呂に入って、のんびりと浴槽で疲労を癒していたはずだ!
気色悪い泥や汗で汚れた体を隅々まで洗い、パサついた髪を丁寧にトリートメントして、泡風呂なんか作っちゃったりして、手のひらに泡をのせて、ふうっと息を吹き掛けていたはずなんだ!」
「俺に言われてもな、姐さん」
「バスローブなんか着て、ワイングラスを片手に窓辺から外を眺めて、ゴミのように地面を這う低取得者を蔑み、高笑いをしながらワインを部屋中にまき散らしていたんだ!」
「それは止めた方がいいぞ、姐さん」
「その計画がパアだ!
何だこれは!
呪いか!
厄災か!
盆栽か!
アジサイか!」
頭を抱えてひとしきり絶叫し、サクラはガクンと肩を落として、項垂れた。
今日の稼ぎを全て没収された。
それだけでも大きな痛手だ。
だが本当に不幸なことは、それではない。
真に恐ろしいことは、いま彼女が最も近づいてはいけない――
教会の只中にいるということだ。
ゴードンの隣で、彼と同じく膝を抱えて床に座っている金髪の少年。
ハル・ルーズヴェルト。
自治都市クレオパスの議会議員にして、財界でも名を馳せるハーマン・ルーズヴェルトの一人息子であり、先日、餓鬼族により誘拐された男の子。
当然ながら、ハーマンは息子の捜索願を教会に出しているはずだ。
もしも、この牢で膝を抱えている少年が、そのハーマンの息子だと教会に知られるようなことになれば、少年は教会に即刻保護され、サクラは少年から引き離されることだろう。
これでは、ハルを親元に連れて帰り、多額の謝礼金をふんだくるというサクラの計画が破綻してしまう。
だからこそサクラは、教会に目を付けられないよう、慎重に行動していた。
大勢の人が集まる街の中心部には寄り付かず、食事をする時は、狭い路地にある大衆食堂を選び、泊まる予定だった宿も、教会から離れた位置にあるものを、選択していた。
だというのに――
(よりにもよって……その教会の留置所で一晩過ごすのか……)
夜遅いということもあり、本格的な取り調べは明日に回された。
そのため、ハルの正体も、ゴードンが餓鬼族であることも――変装しているとはいえ、この点はもう少し注意深く見ろよとは思うが――、まだ教会にバレていないようだった。
しかし取り調べが始まれば、サクラとハルの関係性を必ず尋ねられるだろう。
仮にその質問を言い逃れたとしても、ハルの顔を知る教会員が近くにいれば、一発アウトだ。
つまりサクラは、すでにチェックメイトされたも同然であった。
どんよりと顔を曇らせるサクラに、ハルが何とも呑気な調子で、尋ねてくる。
「教会の人はボクを埋めるって、サクラお姉ちゃんは話したけど……埋めてこないね」
「……スコップが近くになかったんだろ」
ハルの疑問を適当に返し、サクラは大きく溜息を吐いた。
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留置所の硬い床はひんやりと冷えて、気持ちの良いものであった。
あれこれと文句を言いつつも、床に寝転んですぐ眠れてしまうあたり、自分の神経は図太いのだろう。
深夜十二時を過ぎた頃。
サクラはパチリと目を覚ました。
静かに深呼吸して、音を立てないよう上体を起こす。
そして、牢の出入り口となる鉄格子に視線を向けた。
「……姐さん」
ギリギリ声になる程度の小さな呼び掛け。
眼帯に隠れていない左碧眼を、ちらりと牢の隅に向けるサクラ。
壁に背を向けて座るゴードンが、こちらを見ていた。
碧眼を音もなく細める。
ゴードンの組まれた足を枕にして、金髪の少年が安らかな寝息を立てていた。
ゴードンとハルとに視線を順番に移し、サクラは再び、鉄格子に視線を向ける。
息を殺して三十秒ほど待つ。
鉄格子を挟んだ向かいに――
人影が現れた。
「……起きていらしたのですね」
鉄格子の奥に現れた人影が、声を潜めてそう言った。
天井から吊るされている電球。
ぼんやりとした灯りの中で、柔らかく微笑むその人影を、サクラは鋭く見据える。
それは女性であった。
年齢は二十代前半。
ブラウンの髪に、それと同じ色の瞳。
高い鼻に赤いルージュの引かれた唇。
青を基調とした教会員の制服を着用している。
見覚えのない女性だ。
瞳を鋭くさせるサクラに、女性がクスリと笑う。
「警戒していますね。
無理もありませんが……今はのんびりと話している時間もありません。
単刀直入に申し上げます。
貴方達をこの牢から出して差し上げます」
女性からの思いがけない言葉。
サクラはゆっくりと立ち上がり、女性を睨みつける。
「……教会の人間……というわけでもなさそうだな。
お前……何者だ?」
「それは後々……ここを脱出した時に、お話しさせていただきます」
そう話し、鉄格子に一歩近づく女性。
サクラは僅かに膝を曲げて、腰を落とす。
「何のつもりか知らないが、余計な真似はするな。
とっとと失せろ」
「あら?
ここから出たくはないのですか?」
「こんな薄っぺらな壁なんて、いつでも壊して脱出できるさ。
だがまだ、お尋ね者にはなりたくないんでね。
正規の手順を踏んで、ここから出させてもらうつもりだ」
「何を悠長なことを……」
浮かべていた微笑みを深くして、女性がゴードンの膝の上で眠る少年を一瞥する。
「その少年の立場が複雑であることは、貴方も理解しているでしょ?」
「お前……ハルのことを知っているのか?」
「もちろん……というよりも、私はその少年を迎えに来たのですよ」
ゴードンの膝で眠る少年から視線を離し、女性が再びサクラを見つめる。
「その少年の存在を教会に知られれば、教会は貴方を厳しく罰することでしょう。
貴方が何を話そうと、彼らは貴方を誘拐犯の一味であると考えるはずです」
女性の断定した口調に、サクラは顔を歪め、小さく舌打ちをする。
それは、サクラも懸念していた最悪の可能性の一つだ。
誘拐された少年を連れ歩いているのだから、誘拐犯の一味と思われても仕方がない。
これから親元に届けるつもりだったなどと話したところで、ならばなぜ教会に届け出なかったのかと、糾弾されるだろう。
ハルを親元に直接送り届け、かつハルの証言があって初めて、サクラは誘拐犯から少年を救った英雄となり、多額の謝礼金を請求できる立場となるのだ、
サクラの表情の変化に、女性が満足そうに小さく頷く。
「納得して頂けましたか?
貴方の罪を重くしないためには、その少年があのハル・ルーズヴェルトだと教会に知られる前に、この牢を脱出するのが得策なのですよ」
「……ハルを迎えに来たと言ったな……こいつに何の用だ?」
「先程も申し上げましたが、それは後程ご説明します……とはいえ、何だかんだと長話をしてしまいましたね。
では最後に一つだけ、貴方の質問に答えて差し上げましょう」
そう話すと、女性がおもむろに腕を上げ、鉄格子の鍵穴に手を触れた。
女性の奇妙な行動に、怪訝に眉をひそめるサクラ。
すると彼女の目の前で――
鍵穴に触れた女性の手が、パシャンと液状に弾けた。
「――な!?」
驚きに目を見開くサクラ。
背後にいるゴードンからも、息を呑む気配を感じた。
液体に変じた女性の手が、まるで別個の生物のようにグニャリとうねり、鍵穴をまさぐる。
そして暫くすると、鍵穴からカシャンと小さな音が鳴った。
女性が手を鍵穴から離す。
液体に変じた手が、輪郭を形成して元の形に収束する。
女性が固体に戻した手で、牢の扉を軽く押す。
牢の扉は抵抗なく、内側に開いた。
「驚きました?
この程度の簡単な仕組みであれば、開錠するのは難しくないんですよ」
そう朗らかな笑顔を浮かべる女性。
サクラは警戒をさらに強くして、女性に尋ねる。
「……お前……魔族か?」
女性の笑顔が――横に裂けていく。
「私の名前はミリィ。
貴方を私達――液状族の頭であるリーザのもとへ、ご案内します」