全ての法律は、私の都合の良いように捻じ曲げられるべきだ。(2)
自治都市クレオパス。
その一画にある、周囲の建物と比較して、一際大きな屋敷。
その門扉の前に、一台の車が停車する。
一点の曇りすら見えない、よく磨かれた黒塗りの高級車。
その後部座席から、白髪交じりで背の低い、四十代後半の男が姿を現す。
「一時間で戻ってくる。
ここで待っていろ」
男の言葉に、運転席にいる女性がこくりと頷く。
男は、長時間の車移動によりスーツについた皺を、手のひらで簡単に整えた後、屋敷の門扉に向かった。
開け放たれている門扉を抜けて、広い庭園を進んでいく。
丁寧に刈り込まれた芝生に、色鮮やかな花が咲く花壇。
美しく枝葉の切り揃えられた樹々に、潤沢に水を使用した巨大な噴水。
それら富の主張なるものを眺めつつ、男は屋敷の玄関扉へと近づいた。
玄関で呼び鈴を鳴らす。
すぐに玄関扉が開き、使用人の女性が姿を現した。
使用人と一言二言の会話をした後、屋敷の中に足を踏み入れる。
使用人の案内のもと、男は屋敷の奥に位置する部屋の前につく。
両開きの扉の前に立ち、二回ノックをする。
部屋の奥から返事が聞こえ、男は一呼吸の間を挟んで扉を開いた。
広いわりに、最低限の家具だけが置かれたその部屋は、ともすれば殺風景なようにも見えた。
だがよく見れば、その少ない家具一つ一つが、庶民では決して手が出ないであろう、最高品質のもので統一されていることが分かる。
その部屋はある意味で、この家主の性格を端的に表していると言えるだろう。
彼は無駄なものを嫌う。
本当に必要なものだけを見極め、そこに手間とお金を注ぎ込む。
彼が必要とした最たるもの。
それは議会議員としての仕事であり、そして――
(息子……なのだろうな)
男は部屋の隅に置かれた、シングルベッドに目を向ける。
一見して寝心地が良いと知れるそのベッドに、一人の男性が腰を掛けていた。
年齢は男より少し若い三十代後半。
金色の髪を短く切り揃え、印象的な金色の瞳をしている。
女性受けするだろう整った顔立ち。
だが決して軟弱ということはなく、固く引き締められた眉や目尻が、彼の意志の強さを物語っていた。
しかし今の彼の表情には、その意志の強ささえも掻き消してしまう、濃厚な影が浮かんでいた。
男は扉の前で一度頭を下げると、部屋に足を踏み入れ、ベッドまで近づく。
ベッドに腰掛けていた男が、僅かに俯けていた顔を上げ、力のない笑みを浮かべた。
「やあ、よく来てくれたね」
彼の挨拶に男は、自身の左の胸に右手を当てる、敬礼の姿勢を取る。
「お目にかかれて光栄です。
ハーマン・ルーズヴェルト議員」
ベッドに腰掛けた男性――ハーマンが軽く頷く。
一回りも歳が離れているだろうハーマンに対し、失礼がないよう敬礼の姿勢を崩さず、男は自身の所属を口にする。
「キシリア教クレオパス支部教会所属、支部教会長ダンカン・スコールズです。
先月着任したばかりでして、ご挨拶が遅れてしまい申しわけありません」
「いや、私のほうこそ挨拶に伺えなくて済まない。
なかなか時間が取れなくてね……」
ハーマンはそう言うと、近くにある椅子を男――ダンカンに手で指し示す。
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。
まずは君も椅子に座ってくれ」
「失礼します」
ハーマンに促され、席に座るダンカン。
気を利かせたハーマンが、すぐに飲み物を用意すると使用人に呼び掛けるも、ダンカンはそれを丁重に辞退した。
「私のことは気になさらず結構です。
それよりも話をすぐにでも始めましょう」
「……そうか。
いや助かるよ」
小さく頭を下げて礼をするハーマン。
ダンカンは咳払い一つして、改めて口を開く。
「まずは事実確認をさせてください。
昨日の午後三時すぎ、商業都市ヨディスの三番通りにて、使用人のベッキー・ブラックと買い物をしていたハーマン様のご子息、ハル・ルーズヴェルト様が姿を消してしまったとのことですが、間違いありませんか?」
「……ああ」
ハーマンががっくりと肩を落とし、手のひらに顔を埋める。
「昨日、私は公務でヨディスに行くことになっていてな……前々からその街で買い物をしたいと話していた息子を、学校が休日ということもあり、連れていくことにしたんだ。
私が仕事で息子から離れたのは、午前十二時過ぎあたりだと記憶している」
「それから三時間後、午後三時過ぎに、息子さんの姿がないと連絡を受けた?」
「ああ……使用人と教会の者が護衛に付いていたからな……安心しきっていたんだが……こんなことなら、人混みに息子を連れていくのではなかったよ」
「申し訳ありません。
我々教会の者がそばにいながら。
担当の者は相応の処分を――」
「いや、言いかたが悪かったね。
教会を責めているわけではないんだ。
どれだけ注意を払おうと、防げないことはある。
私もそういった仕事をしているから、よく分かるよ」
手のひらに埋めていた顔を上げ、ハーマンが気丈にも笑う。
「息子の捜索は、ヨディスの教会が今も続けてくれている。
仮にこれが誘拐である場合、犯人から連絡があるかも知れないからと、私は自宅に戻っているよう指示を受けたんだ」
「……ありがとうございます。
私が事前に伺っていた話と相違ありませんでした」
ダンカンは一呼吸の間を空け、躊躇いがちにハーマンに尋ねる。
「失礼ですが……奥様はどちらに?」
「ん?
ああ家内か。
さて……どこにいるのか私にも皆目見当がつかないな。
自由奔放な人でね。
旅に出ると一年以上も家に帰らないことはザラなんだ」
「旅ですか……?」
「先日、人魚族を釣り上げたと、写真付きの手紙が来たんだが見てみるかい?」
人魚族といえば、カッサンドラ地方では見掛けない魔族だ。
しかも話によるとその魔族は、神話にあるその愛らしい印象とは異なり、魔族でもかなり凶暴な部類であるらしい。
そんな魔族を釣り上げ、記念写真まで撮影するとは、何とも豪胆な女性といえる。
だが何にせよ、その女性がカッサンドラ地方から離れていることは分かった。
そうなると、その女性とすぐに連絡を取ることは、難しいだろう。
「お話は分かりました……ああ、写真は結構です。
できれば身内のかた全員に、事件のご報告をと考えていたのですが……ではハーマン様にだけご報告させて頂くかたちで……」
「ああ、それで構わない」
「では現在の捜査状況について、まずはご報告させていただきます」
ダンカンは頭の中で書類を開き、そこに書かれた文字を読み上げていく。
「ご子息のハル・ルーズヴェルト様の行方は、ヨディス支部教会及び、我々クレオパス支部教会からも人員を派遣して、引き続き捜索を行ってまいります。
それを前提として上で、経過をお話ししますと、ご子息と思しき少年を連れ去る人物の目撃証言がありました」
「――やはり息子は誘拐されたのか?」
金色の瞳を大きく広げるハーマンに、ダンカンは間を空けずに首肯する。
「証言の裏付けはこれからですが、ほぼほぼ間違いないとみていいでしょう」
「犯人の目的は……金か?」
「犯人からの連絡がない以上、それはまだ分かりかねます。
ハーマン様はクレオパスを代表する議会議員です。
政治的な要求もまた、可能性として考えられますので」
「そう……だな」
「……ただ、そのご子息を連れ去った犯人というのが、ちょっと厄介でしてね」
「……どういう意味だ?」
眉をひそめるハーマン。
ダンカンは長めの沈黙を挟み、その事実を告げた。
「マントで顔や体型を隠していたようですが、その目撃証言から得られた犯人の特徴を総合しますと、その犯人は人間ではなく……魔族ではないかとの疑いが出ています」
「魔族だって?」
体を前のめりにするハーマン。
ダンカンは一つ頷き、顎を指先で撫でながら話す。
「恐らくヨディスに隣接する、クロラス森林の餓鬼族と思われます。
それを裏付けるように、犯人と同様の恰好をした者が、森に向かっていったとの別証言も得ています」
「餓鬼族……しかしその魔族は、最近は比較的おとなしくしていると聞いているが……」
「魔族も人間同様、個体差があります。
人間に友好的な者もいれば、そうでない者もいます。
もとより、魔族全般が闘争を本能とする種族ですので、根本的に危険な存在です」
その程度のことは、ハーマンも把握しているはずだ。
だがそれを考慮しても、彼は納得しかねているのだろう。
確かにクロラス森林を縄張りとする餓鬼族は、詰まらない軽犯罪こそ起こすものの、人の命を脅かすような重犯罪は、近年では報告されていない。
むろんそれだけで、餓鬼族が安全な魔族だということにはならないが、ハーマンが訝しく思うのも無理はない。
ダンカンは顎に当てていた指を下し、眉尻を落とす。
「……これはお話ししようか悩んだのですが、あくまで私の推測としてお聞きください。
実は私もハーマン様と同様、今回の事件が餓鬼族だけによるものとは思えないのです。
確証はありませんが、恐らくこの事件、裏で餓鬼族に指示した者がいると睨んでいます」
「……餓鬼族の他に黒幕がいると?」
「ええ……私が目を付けているのは小人族と呼ばれている魔族です」
ハーマンの瞳が、悩ましげにダンカンから逸れ、再びダンカンに戻される。
「聞いたことはあるが……あまり報告などで耳にしない名前だ……凶暴な魔族なのか?」
「凶暴ではありませんが非常に狡猾です。
理知的な魔族でしてね、その姿形が人間と酷似していることから、人間社会に潜り込み、裏社会で勢力を拡大している魔族です。
彼らが表立って行動することは稀なので、ハーマン様が名前を聞かないのも無理ないでしょう」
「……その魔族がこの事件に関与していると?
なぜそう考えているんだ?」
「今回の事件、犯行の手口は大雑把なものですが、事前にハーマン様のスケジュールを把握していなければ、実現は不可能だったでしょう。
議会議員のハーマン様のスケジュールを事前に調べることが可能な魔族。
それは私の知る限り、小人族だけです」
ここまで話をして、ダンカンは「先程も申し上げましたが……」と声を潜める。
「これはあくまで私の推測です。
ことが確定するまでは、この話を中央政府にご連絡することは控えて頂きたい。
仮に推測が誤りである場合、中央を混乱させることにもなりかねませんし、仮に事実であろうと、報告のタイミングは慎重に見定めなければなりません」
「……ああ、分かっている」
魔族が人間の子供を誘拐した。
それだけでも大変な事件だが、その被害者が中央政府にすら発言権を持つハーマン・ルーズヴェルト議員の息子なのだ。
場合によっては、人類と魔族との戦争を引き起こしかねない。
それほどデリケートな問題だ。
もっとも――
(ご子息にもし何かあれば、ハーマン様も戦争を躊躇うようなことはないだろうが……)
ダンカンは小さく息を吐き、今後の教会の対応について説明を始める。
「教会はご子息が誘拐されたものとして、捜索を続けます。
ですがそれと並行して、誘拐犯が魔族であり、その黒幕が小人族であるとの仮定した策も、見当していきます」
「具体的には、どういう策なんだ?」
「恐らく近日中に、誘拐されたご子息の受け渡しが、魔族間でなされるはずです。
クロラス森林では、人間の子を長く匿うことはできませんからね。
森の出入り口を監視し、大きな荷物を抱えた者がいれば、例えそれが人間であろうと徹底的に調べる手筈です」
「なるほど。
誘拐された息子が森から運ばれるところを、阻止するということか」
「ええ、そういうことです。
誘拐されたご子息が、自分の足で森を歩いて出るようなことがない限り、このやり方で確実に発見することができるはずですよ」
ダンカンはそう断定すると、瞳を鋭く尖らせて、言葉を締める。
「私の推測が正しければ、小人族から遣われた魔族が、ご子息に接触しようとする時が、必ず来ます。
その時が、我々にとってご子息を救出する、千載一遇のチャンスなのです」