魔族から金を強奪して何が悪い?(3)
一体どれほどの時間、森の中を走り回っただろうか。
いい加減体力の限界を感じて、サクラは徐々に足の速度を緩めていった。
樹々が密集した茂みを抜けて、少し広めの街道へと出る。
サクラは足をよろめかせて、街道の真ん中でへたりと座り込んだ。
肩を大きく上下して荒い呼吸を繰り返す。
だが幾ら酸素を肺に供給しようと、狂ったように暴れる心臓の鼓動が、収まる気配はない。
全身から噴き出す大粒の汗に、体を鈍重にする極度の疲労。
サクラはがっくりと項垂れると、力なく溜息を吐いた。
数分間もの全力運動。
さすがにそれは過酷なものであった。
普段ならば、一分経たずして力尽きていただろう。
だが今回ばかりは、途中で立ち止まることのできない理由があった。
それは彼女の意地でもあり、彼女の誇りを守るためでもあった。
だが結局、彼女の意地も誇りも、粉々に打ち砕けてしまった。
なぜならば、彼女が決して立ち止まることができない理由が、まだ彼女の背中に貼り付いているのだから。
サクラは再び溜息を吐いて、背後を振り返る。
サクラのすぐ目の前に――
少年の朗らかな笑顔があった。
「すごい速さだったね。
ボクってば興奮しちゃって、すっごく楽しかったよ」
「……それは……何よりだったな」
サクラの背中に貼り付いた少年が、嬉しそうに頬を紅潮させている。
少年のその姿に、サクラは苦々しく唇を歪めた。
少年を振りほどくために全力疾走するも、少年が背中から剥がれ落ちることはなく、それどころか、その状況を楽しむ余裕まで見せている。
辛うじて口にした皮肉は、そんな少年に向けた、サクラなりのささやかな反発であった。
少年が掴んでいる着物を脱ぐことも考えたが、帯をほどく手間や着物の値段を考えると、踏み切ることができなかった。
詰まるところサクラは、この十代前後と思しき少年に――
完全敗北を喫したのだ。
サクラは、背後の少年に向けて手をプラプラと振り、観念して呟く。
「ああ、もう……分かったよ。
近くの街に連れていくぐらいはしてやる。
街に行けば教会があるから、そこで保護してもらえるように自分で事情を説明すればいい」
「ええ……お姉ちゃんは一緒に説明してくれないの?」
「私は教会と係わり合いになりたくないんだよ。
それぐらいは自分でやってくれ」
不満げにぷうと頬を膨らませる少年。
だが街に連れていくということで安心したのか、サクラの背中からは離れてくれた。
軽くなった背中を伸ばし、サクラは立ち上がる。
「ところでお姉ちゃん。
名前は何ていうの?」
「どうせすぐに別れるんだから、名前なんて何だっていいだろ?」
サクラの素っ気ない返事に、少年が金色の瞳をパチパチと瞬かせる。
「うーん……じゃあヘドロギネスって呼ぶね」
「どこぞのモンスターだ!?」
思わず声を荒げるサクラ。
彼女の否定的な反応に、少年が首を傾げる。
「じゃあ変な服で尖り目の人」
「それはただの悪口だ!
あとこの服は着物ってんだよ!
綺麗だろうが!」
「じゃあ痴女」
「どこでそんな言葉を覚えた!?
親連れてこい、親を!」
一通り叫び、サクラは疲労から肩を落とす。
「……サクラ……サクラ・トドロキ。
それが私の名前だよ」
「じゃあ、サクラお姉ちゃんって呼ぶね」
「好きにしろよ」
眼帯に隠れていない左碧眼を細めて、微笑んでいる少年に、サクラは口を尖らせる。
「お前って、能天気なようで我が強いよな。
自分の言うことは絶対に曲げないあたり」
「ねえ、サクラお姉ちゃん。
ボクの名前も訊いてよ」
「人の話を聞けよ。
あとお前の名前なんかに興味ない」
「ねえ訊いてよ。
アスペクトリーゼンホットマトックリリガルお姉ち――」
「君の名前を教えてくれるかな!?」
少年の声を遮り、名を尋ねるサクラ。
少年が気持ち胸を反り、元気よく答える。
「ハル・ルーズヴェルト。
それがボクの名前だよ。
よろしくねサクラお姉ちゃん」
「はいはい……よろしくよろしく」
適当に返事をして、サクラは桜色の髪をポリポリと掻く。
どうせこの少年――ハルとは近くの街で別れるのだ。
別段、名前を覚えておくつもりなどない彼女だが――
(……ルーズヴェルト?
どこかで聞いたことがあるような……)
サクラはそう感じて、少し思案してみる。
だが思い浮かぶものはなかった。
ただの気のせいだろうか。
サクラは頭を振ると、左右に伸びる街道の、左手奥を指差した。
「……とりあえず、街道に出たのは都合が良い。
この道に沿って進めば、商業都市ヨディスに到着するはずだ。
四時間ほど掛かるからな、日が暮れる前にさっさと行くぞ」
「はーい」
軽やかな返事と同時に、ハルがサクラの背中に再びピョンと貼り付く。
こめかみに痛みを覚えつつ、背後を振り返るサクラ。
無邪気な笑みを浮かべた少年に、ぼそりと言う。
「……あんまり調子に乗るっていると……ぶった切るぞ」
「冗談だよ」
睨むサクラを特に怖がる様子もなく、少年が濁りのない笑顔を浮かべたまま、サクラの背中から離れる。
サクラは怒りよりも強い疲労を感じ、大きく嘆息する。
「……馬鹿なことに体力を使うな。
言っておくが、街に着くまで休憩なんかないからな」
「大丈夫だよ。
ボクってば体力には結構自信があるんだよ」
確かに、数分間も人様の背中に貼り付けるだけの体力と根気があれば、四時間とはいえ歩くことに問題はないだろう。
サクラはそう判断して、一歩足を踏み出し――
すぐにその歩く足を止めた。
「サクラお姉ちゃん?」
サクラと同時に足を踏み出した少年が、つんのめるように停止した。
疑問符を浮かべた少年には応えず、サクラは街道の奥に向けて、視線を尖らせる。
無言で睨むこと約五秒。
サクラの見据える街道の、その脇にある茂みがガサリと揺れて、そこから無数の影が現れる。
それは緑色の肌を持ち、身丈が二メートルほどある――
餓鬼族の集団であった。
十数体の武装した餓鬼族が、街道を塞ぐようにサクラの眼前に立ちふさがる。
そしてその直後、背後からも茂みの揺れる音と、地面を叩く無数の足音が鳴る。
首だけを回して背後を振り返ると、やはりそこにも、街道を塞ぐように立つ、十数体の餓鬼族がいた。
「わっわっわ……サクラお姉ちゃん」
ハルがサクラに近づき、彼女の着物の裾をきゅっと握る。
サクラは、敵意を顕わにしてこちらを睨む餓鬼族に、軽く舌打ちをすると、素早く左右に視線を巡らせる。
起立する樹々に隠れて確認できないが、恐らく街道脇にも、大勢の餓鬼族が潜んでいるのだろう。
(囲まれたか……走り回った疲労からか……集中力を欠いて気配に気付けなかったな)
果たして餓鬼族の目的は何なのか。
目尻を吊り上げる餓鬼族からは、少なくとも友好的な気配は感じられない。
だが問答無用に襲い掛かるつもりも、ないようだった。
十数体の餓鬼族と、無言で睨み合うこと暫く。
眼前に立つ餓鬼族の群れの中から、一体の餓鬼族が前に進み出た。
サクラは瞳を細めて、群れから出た餓鬼族を確認する。
その餓鬼族は、他の餓鬼族よりも頭一つ高い、巨大な個体だった。
逆立った灰色の髪の毛に、濃厚な赤い瞳。
餓鬼族の特徴でもある細長い手足には、分厚い筋肉がまとわれており、革鎧から覗いている緑色の皮膚には、歴戦を物語る無数の傷跡がついている。
他の餓鬼族とは雰囲気が異なる、髪を逆立てた餓鬼族。
サクラは、走り回ったことで乱れていた呼吸を慎重に整えながら、その餓鬼族を睨みつけた。
髪を逆立てた餓鬼族が、分厚い牙の並んだ口を開き、野太い声を出す。
「貴様が……俺の仲間である餓鬼族に暴行を働いたという、人間の女か?」
その言葉の内容よりも、餓鬼族の思いがけない丁寧な口調に、驚きを覚えるサクラ。
きょとんと目を丸くして沈黙していると、髪を逆立てた餓鬼族とは、また別の個体が、群れの中から飛び出してきた。
その餓鬼族が、サクラを指差して声を荒げる。
「間違いないっすよゴードンさん!
コイツが俺に喧嘩ふっかけてきた人間です!」
「……あれ?
お前は……」
声を荒げる餓鬼族の、そのボコボコに腫れ上がった顔と、毟り取られたようにボサボサになった髪の毛を見て、サクラはポンと手を打った。
「さっき道端で会った、奇声を上げながら木の幹に自分の顔をぶつけつつ、さらに髪をブチブチと自ら毟り取っていた、なんかやばめで近づきたくない餓鬼族じゃないか」
「違うわ!
よくもそんなトリッキーな嘘を吐きやがるな!」
地団太を踏んで憤慨する、毟られ髪の餓鬼族に、サクラは気楽な調子で肩をすくめる。
「騒ぐなよ。
それで……この大層なおもてなしは、さっきの報復ってところか?」
「よく分かってんじゃねえか、このクソ人間が!
ぶち殺してやるから覚悟しやがれ!」
サクラは余裕の姿勢は崩さずに、だが僅かに腰を落として、意識を集中させていく。
チンピラ餓鬼族を痛めつけて、金を巻き上げたことは、これまでも何度かあったが、報復を受けたことは初めてだった。
だがまさか、人間に殴られたと仲間に泣きつくような魔族や、下っ端の報復に動くような律儀な魔族がいるなど、思っていなかった。
(……軽口を叩いてはみたが、さすがにこの数は……面倒だな)
本来ならば逃げ出すのが得策だろう。
だがサクラ一人ならばともかく、今はハルがそばにいる。
むろん、優先すべきことは自身の命であるし、出会って間もない少年の安否を気遣う義理もない。
だがさすがに、森に一人放置することと、人間に対して怒りを燃やしている魔族の只中に置き去りにすることでは、その危険性は大きく異なる。
(確かどこかの国の兵法で、一人の敵を惨たらしく殺して、敵の戦意を挫くって話があったよな。
あれ……この場で使えないかな)
そんな物騒なことを考えるサクラ。
すると、しかめ面で思案する彼女の様子が、怯えているようにでも写ったのか、髪を逆立てた餓鬼族が「心配するな」と口を開いた。
「大勢で袋叩きにする気はない。
貴様と戦うのは俺ひとり……タイマンということだ」
「ちょ、何言ってんすか!?
ゴードンさん!」
髪を逆立てた餓鬼族の言葉に、訝しく眉をひそめるサクラ。
毟られ髪の餓鬼族が狼狽を顕わにして、髪を逆立てた餓鬼族に両手を振りながら抗議する。
「こいつは餓鬼族をナメた野郎ですよ!?
みんなでシメちまいましょうよ!」
「馬鹿を言うな。
取り逃がさぬよう人数は集めたが、大勢で襲い掛かりなどしない」
「何を甘いこと言ってんすか!?」
「俺は曲がったことが嫌いだ。
多対一など道理に反することはできん」
「仲間がやられてるんすよ!?
道理もくそもないでしょうが!」
「どのような時であれ道理は通す。
それに心配せずとも俺が負けることはない」
髪を逆立てた餓鬼族が、腰に下げていた鞘から、肉厚の剣を引き抜いた。
他の餓鬼族が所持している武器と一見して同じだが、刃の輝きは一際強いように思える。
「さあ人間の女、貴様も構えろ。
正々堂々と勝負を始めようじゃないか」
「……正々堂々……ね」
髪を逆立てた餓鬼族の言葉に、サクラは「それなら……」と、皮肉に唇を曲げる。
「お前の背後で武器を構えているお仲間に、武器を収めるよう言ってくれないか?」
「――何だと?」
髪を逆立てた餓鬼族が驚きに目を見開き、素早く背後を振り返る。
街道を塞ぐように立つ十数体の餓鬼族。
だがその餓鬼族の誰一人として――
武器を構えている者などいない。
髪を逆立てた餓鬼族の視線が、自身から逸れた瞬間、サクラは全力で駆け出した。
走りながら刀を抜刀し、背後に振り返っている餓鬼族に向けて刃を奔らせる。
サクラの奇襲に気付いた餓鬼族が、慌てて肉厚の剣を振るった。
ガキンと硬質な金属がぶつかり合う音が鳴り、サクラの刀と餓鬼族の剣が、互いの刃を重ね合わせる。
刀をギリギリと押しつけ、不敵に笑うサクラ。
彼女の姑息なやり口に憤怒したのか、髪を逆立てた餓鬼族の瞳が、焼けるように赤く燃え上がる。
「貴様……真剣勝負の場にて、こんな卑怯な手段を使うとは……」
「体格の差を考慮すれば、このぐらいのことは許して貰いたいね――ゴードンさん!」
髪を逆立てた餓鬼族――ゴードンにそう言うと、サクラは体を捻じりながら、小さく体を跳ね上げ、ゴードンの側頭部をブーツの先で蹴りつけた。
巨体を揺らして膝を崩すゴードン。
サクラは着地と同時にまた体を捻り、高度を落としたゴードンの顔面に、ブーツの底を叩きつけた。
鉄板で補強された靴底をもろに受け、ゴードンの鼻から鮮血が散る。
(――とどめ!)
刀を振り上げて、隙だらけのゴードンの体に、刃を叩きつけようとするサクラ。
だが彼女は咄嗟に、振り下そうとした刀を縦に構えて、自身の右側面を防御した。
直後、まるで馬車が激突したと思えるほどの衝撃が、刀身に叩きこまれる。
ザリザリと靴底を地面に滑らせ、刀に受けた衝撃を抑え込むサクラ。
刀に叩きこまれた衝撃の正体は、ゴードンが振るう肉厚の剣であった。
顔を苦悶に歪めて、両手で刀を支えるサクラに対し、ゴードンは右腕一本で、肉厚の剣を支えている。
「……なるほど。
聞いていた通り、ただの人間ではないようだな」
「お前も……随分とタフな餓鬼族じゃない――か!」
刀を倒すと同時に体を屈める。
ゴードンの肉厚の剣が、サクラの髪を掠めて頭上を通過する。
剣を振り抜いたことで、ゴードンの鳩尾が無防備に露出する。
サクラは大きく脚を踏み込むと、左拳を最短距離でゴードンの鳩尾に叩きこんだ。
ゴードンの革鎧が陥没し、ゴードンの口から空気の漏れる音が鳴る。
すぐさま右手の刀を振るい、その刀身を横なぎにゴードンの脇腹へと奔らせる。
だが直後――
ゴードンの巨大な左拳が、サクラの胴体に叩きこまれた。
「――ぐっ!」
咄嗟に背後に跳んで衝撃を吸収する。
だがそれでも、痺れるような鈍痛が、サクラの脳内を駆け巡った。
ギリギリのところで、ゴードンの拳を左腕で防御したのだが、もしそれが間に合わなければ、今の一撃で勝負は決していたかも知れない。
三メートルほど後退したサクラに、ゴードンが追いすがる。
ゴードンの力任せに振り下された肉厚の剣を、半身になり躱すサクラ。
間を置かずに回し蹴りを放ち、彼女は革鎧の上からゴードンの脇腹を叩いた。
そして――
蹴り足をゴードンに掴まれる。
「しまっ――」
サクラの声がぶつ切りに途絶える。
ゴードンが大きく腕を振るい、サクラの体を茂みの中に投げ飛ばした。
勢いよく茂みに体を叩きつけられ、息を詰まらせるサクラ。
鋭利な枝に皮膚が裂かれ、彼女の頬に赤い血が滲む。
「わああ!
ちょっと……大丈夫!?
サクラお姉ちゃん!?」
若干の緊張感を孕んだハルの声と、周囲に群れた餓鬼族の歓声が聞こえた。
着物に引っかかる枝に苦心しながら、サクラはゆっくりと上体を起こし、大きく溜息を吐く。
(……ったく、何が悲しくてこんな痛い思いをしなきゃいけないんだ……)
だがそう思いながらも――
サクラの表情には自然と笑みが浮かぶ。
「……何がおかしい?
貴様の立場からすれば、この状況は絶体絶命だろ?」
ゴードンからの問い。
サクラは血の滲んだ唾をペッと吐くと、着物に引っかかる枝を無理やり引き千切り、立ち上がった。
多少は見栄えがするよう着付けした着物も、グズグズに崩れてしまい、固く結んでいた帯も緩んでいる。
多少激しく動けば、帯も着物も脱げ落ちてしまいそうなほどに、ひどいありさまだ。
後頭部で結んでいる眼帯も、茂みに投げ飛ばされた衝撃で、その結び目が緩んでいた。
だがサクラは、敢えてそれを結びなおすことはせず、唇に浮かべた笑みを強くする。
「……お前も笑いたいのを必死に堪えているんじゃないのか?」
「……何のことだ?」
眉間に皺を寄せるゴードンに、サクラは「しらばっくれるな」と肩をすくめる。
「魔族にとって戦闘は、自慰行為に似た感覚をもたらす。
体の中で高められる魔力を、適度に発散することができる戦闘に、快楽を覚えない魔族はいない」
「……知ったようなことを言うじゃないか。
人間の女」
ゴードンがふんと鼻息を吐き、肉厚の剣を横なぎに振るう。
「確かに俺達魔族は、闘争により一定の快楽を得る。
だが意志の力で、その快楽を抑え込むことは可能だ。
二百年前とは違う。
俺達はもう、快楽に溺れるだけの動物ではない」
「抑えることはできても無くすことはできない。
あまり無理していると体に毒だぞ」
「……まさか俺に勝てないと悟り、口先で誤魔化そうとしているわけではないか?」
ゴードンが呆れたように溜息を吐く。
「素直に謝罪するというのなら見逃す。
何も貴様を痛めつけるのが目的ではないからな」
「謝罪……見逃す?
冗談だろ」
サクラは独りごちるようにそう呟くと――
眼帯に隠れた右の瞳を怪しく輝かせた。
「ここまで昂らせて、最後までやらないだなんて――萎えること言うなよな」
そして――サクラは一直線に駆け出した。
真正面からゴードンに接近するサクラ。
ゴードンが腕を振り上げ、刀を頭上に構える。
互いが攻撃を仕掛けることができる領域。
その距離まであと一歩というところで――
サクラは左手に掴んでいた土を、ゴードンの目元に向けて投げつけた。
「――!?」
ゴードンに投げつけた土は、先程茂みに投げ飛ばされた時に、掴んでおいたものだ。
サクラの目潰しに、赤い瞳を瞼に隠すゴードン。
その魔族の姿を確認して、サクラはすでにはだけていた着物を力づくに剥ぎ取り、ゴードンの眼前に投げつけた。
目を閉じたゴードンが、着物の気配をサクラのものと勘違いし、左拳を突きだす。
サクラは大きく脚を踏み込むと、拳を突き出したことで隙が生まれたゴードンの左脇に、体を滑り込ませた。
そして態勢をギリギリまで低く保ちつつ、刀を素早く振るう。
ゴードンの両足首から赤い血が噴き出した。
「――があ!?」
巨体を前のめりに倒し、ゴードンが両手を地面に付く。
四つん這いの姿勢で体を震わせる魔族を見下ろし、サクラは刃に付着した血を払った。
「勝負ありだな。
当分は歩けないだろうが、お前ほどの魔族なら数時間で回復するはずだ。
望み通りタイマンに応えてやったんだから、これでこの喧嘩は終いでいいな」
着物を脱ぎ、薄手のシャツとスパッツという、何とも様にならない恰好で、ゴードンにそう話すサクラ。
顔に脂汗を滲ませたゴードンが、顔を俯けたまま呟く。
「……なぜ止めを刺さない。
まさか……人間の貴様が、魔族に情けを掛けるのか?」
「お前だって私を殺す気なんてなかっただろ?
おあいこだよ。
それに――」
サクラは一呼吸の間を挟み、それを言う。
「人間だと言っても、私は人間としては少々変わり種だからな」
「……どういう意味だ?」
サクラに振り返ると同時、ゴードンが魔族の証でもある赤い瞳を、驚愕に見開いた。
勝敗を決した一連の攻防。
その激しい動きにより、もともと緩んでいた眼帯の結び目が解け、サクラの顔から眼帯が外れていた。
そうして顕わとなった、眼帯に隠されていたサクラの右の瞳。
ゴードンが一心に見つめる、その彼女の右の瞳は――
魔族と同じ赤い輝きを放っていた。
「その赤い瞳は……魔族を示すもの……貴様は……人間ではないのか?」
ゴードンの言葉に、サクラは碧い瞳と赤い瞳を同時に細めて、応える。
「もちろん人間だ。
ただし諸々の事情でね、私は魔力を持っているんだよ。
そう言った意味では、魔族であるお前達と根本的に変わらない存在でもあるわけだ」
サクラの説明に、ゴードンが唖然とした様子で目を丸くする。
だが暫くして、ゴードンが丸くしていた目をゆっくりと閉じ、クツクツと肩を揺らして笑った。
「事情は分からんが……なるほど。
魔族でもあるなら、その強さも納得できるな」
「納得したのなら、もうこれ以上は、報復なんて馬鹿な真似してくれるなよ」
「そんなことをする気はないな」
ゴードンが体を捻り、地面に尻を付く。
そして一度大きく嘆息し、ニヤリと笑った。
「これでも俺は、餓鬼族の頭をやらせてもらっている。
その頭がタイマンで負けたんだ。
クロラス森林の餓鬼族はもう、アンタに逆らうようなことはしない」
「あっそ。
それじゃあお互い落ち着いたところで、一つお前に訊いてもいいか?」
「……何だ?」
きょとんと目を丸くするゴードン。
サクラは、キャッキャッと喜んでいるハル――サクラの勝利に興奮しているのだろう――を指差して、首を傾げて尋ねる。
「お前……あの子供のことを知っているか?」
「子供……?
いや知らないな……俺もさっきから気にはなっていたんだが」
「そうか……まあお前の性格上、そんなことをやりそうもないとは思っていたが……やはりあのチンピラ餓鬼族の独断のようだな」
「……どういうことだ?」
前のめりに尋ねてくるゴードンに、サクラはハルを発見した経緯――自分が餓鬼族から金を強奪したことは一応伏せておく――を説明した。
サクラの話が進むにつれて、ゴードンの表情が徐々に歪み、どす黒く変色していく。
一通りの説明を聞いたゴードンが、凶悪に赤い瞳を尖らせて、一体の餓鬼族を睨んだ。
ゴードンに睨まれた餓鬼族とは、サクラに報復しようとゴードンをけし掛けた――
毟られ髪の餓鬼族であった。
「……どういうことだ……貴様」
ゴードンが静かに問う。
だがその声には、隠し切れない凶暴な怒りが滲み出ていた。
毟られ髪の餓鬼族も、そのゴードンの気配を察したのだろう。
すでに原型をとどめていないボコボコの顔を、さらに恐怖に歪めて、ガタガタと全身を震わせた。
ゴードンがゆっくりと立ち上がる。
まだ足の傷が癒えていないはずだが、許容量を超える怒りが、痛みを麻痺させているのかも知れない。
ゴードンが赤い血を地面に滴らせつつ、毟られ髪の餓鬼族に一歩、また一歩と、近づいていく。
「人間の子供を……誘拐だと?
貴様……そんな卑劣な真似を……してくれたのか?」
「いや……えっと……違うんすよ。
ゴードンさん。
これには深いわけが……」
「ほう……深いわけか……」
ギラギラと赤い瞳を輝かせたゴードンが、毟られ髪の餓鬼族の眼前に立つ。
「ならばその深いわけとやらを、詳しく聞かせてもらおうか」
「は……はひぃ……」
ゴードンの気迫に押され、毟られ髪の餓鬼族が、ヘナヘナと地面に座り込んだ。