魔族から金を強奪して何が悪い?(2)
全力疾走すること一分。
眼帯をした女から逃げ出した元モヒカン餓鬼族は、木の幹に背中を預け、ズルズルと腰を落として座り込んだ。
耳の奥で鳴る心臓の音。
繰り返される荒い呼吸。
餓鬼族は噴き出る汗を適当に拭いつつ、疲労が回復するのを待った。
暫くして、呼吸が落ち着いてくる。
餓鬼族は大きく深呼吸した後、舌打ちをした。
「くそ……何なんだあの人間の女は。
今度会ったらただじゃおかねえからな」
自分でも分かるほどの明確な負け惜しみ。
餓鬼族は若干の虚しさを覚え、大きく溜息を吐いた。
殴られて腫れた目元のこぶを指でさすりながら、陰鬱に呟く。
「……にしても、まずったなあ。
金もそうだが……例のガキを見つけられちまったとなると……このままじゃあの連中に、何をされるかわかったもんじゃねえぞ」
ことが公になる前に、どうにか眼帯女から例のガキを奪い返さなければならない。
だが腹立たしいことだが、自分の実力では眼帯女を倒すことができそうにない。
餓鬼族は冷静にそう分析をして、うんうんと唸りながら打開策を思案した。
「……仕方ねえ。
ここはゴードンの奴の力を借りるか……」
溜息交じりにそう独りごちる。
ゴードンとは、クロラス森林を縄張りとする餓鬼族の、頭を張っている者の名前だ。
とどのつまり、クロラス森林の餓鬼族の中で最も強い。
いかに眼帯女が強かろうと、彼の力をもってすれば、敗北することなどないだろう。
だがしかし――
「……苦手なんだよな……あいつ」
そう呟いて再び溜息を吐く。
餓鬼族とは紛れもない魔族の一種族だ。
そして魔族と人間は、二百年前の戦争以降、常に敵対関係にあり、人間の連中から言わせれば、魔族とは純粋な悪の存在だという。
自身が善であり、敵対する存在は悪とするなど、何とも子供じみた発想だ。
だが人間となれ合う気などないゆえ、人間が魔族をどう評価しようと気にすることもない。
だがどうも、ゴードンはそう考えていないらしい。
餓鬼族の頭であり、仲間への面倒見もよく、その実力も突出したものだが、彼の思想は魔族らしからぬものなのだ。
簡単に言えば、彼は正義の味方だ。
「……俺が人間から金をくすねていたなんて知られれば、ゴードンの奴の怒りを買っちまう……いやそもそも、俺があの連中の内通者だなんて知られれば……」
ぶるぶると体を震わせる。
やはりゴードンをこの件に係わらせることは、あまり気が乗らない。
だが眼帯女と対等に戦えそうな餓鬼族が彼しかいないのも事実だった。
「……あのガキのことは伏せて、上手く口車に乗せるしかねえか」
ゴードンは頭が切れるタイプではない。
口八丁で誤魔化すことは可能だろう。
何より眼帯女から受けた暴行の痕が、まざまざと顔面に刻まれているのだ。
この歪な粘土細工のような顔を見せ、涙ながらにいわれのない暴力を受けたと訴えれば、何とかなるはずだ。
元モヒカン餓鬼族はそう考えて、ニヤリと口元を歪めた。
「待っていろよ眼帯女。
この俺に歯向かったこと、死ぬほど後悔させてやるからな……」
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腕に抱いていたリュックサックを背負い、少年が木箱からぴょんと跳び出した。
無理な態勢で寝ていたため体が凝ったのか、体を伸ばしたり腰を捻じったりと、簡単なストレッチを行う少年。
服についた皺を手のひらで伸ばし、少年が小さな欠伸をする。
そんな少年の姿を、無言で眺めるサクラ。
眼帯に隠れていない左碧眼を困惑に瞬かせている彼女に、少年が金色の瞳をニコリと細めて、小さくお辞儀をした。
「助けてくれてありがとう、お姉ちゃん」
「助けて?」
「あれ……違うの?」
怪訝に眉をひそめるサクラに、少年がきょとんと首を傾げる。
頭上に疑問符を浮かべている少年に、サクラは桜色の髪をカリカリと掻きながら、訝しげに言う。
「よく分からんが……私は偶然この場所に来て、偶然この木箱を開けただけだ」
正確には、餓鬼族から金を強奪するためにこの場を訪れたわけだが、大筋では間違っていないだろう。
サクラのこの言葉に、少年が「そうなんだ」と目を瞬く。
「でも、まあいいや。
とにかくありがと」
「知らないよ……礼なんか言われても」
少年の言葉を適当にあしらい、サクラは溜息を吐く。
状況から判断して、この少年は先程いた元モヒカン餓鬼族により、この場に連れてこられたのだろう。
そして少年が眠っていた――恐らく薬か何かで眠らされていた――木箱が、厳重に密閉されていたことから、その目的が森の散歩でないことは明らかだ。
「……お前、餓鬼族に誘拐されたのか?」
「うーん……多分そうだよ。
お店でお菓子を買ってたらバアッと連れていかれたんだ」
何とも大雑把な説明だが、ともかくこの少年が誘拐されたことは間違いないらしい。
(魔族が人間の子供を誘拐か……大方、身代金が目的なんだろうが……)
曲がりなりにも、魔族は二百年前に人類を窮地に追い込んだ種族だ。
その魔族が金品を目的として、人間の子供を誘拐するなど、情けなくも思える。
だが魔族が人類の脅威だとされていた時代は、とうに過ぎさっている。
現人類の魔族に対する認識は、詰まらない犯罪をたびたび起こす、厄介者というのが精々だろう。
だが人間と同様に魔族にも個性があり、餓鬼族という一種を例にしても、その力と性格は千差万別だ。
恐喝や誘拐などで小銭を稼ぐ小物もいれば、決して表沙汰にできない、人間社会の権力者と深いつながりを持つ魔族もいると聞く。
何にせよ、魔族がこのような詰まらない犯罪を目論むことは、さして珍しいことではない。
その点について、サクラに疑問はない。
彼女にとって残る問題は――
(この子供をどうするか……てことか)
微笑みを浮かべている少年を見やり、サクラは仏頂面で思案する。
善良な人間ならば、当然、少年を親元まで返すのだろう。
だが非常に残念なことだが、サクラは善良な人間ではなかった。
別に悪ぶるつもりもないが、見ず知らずの子供のために、無償であれこれと手を焼いてやるほど、お人好しでもない。
サクラは一つ頷くと、少年の瞳に向けて、淡々と告げる。
「……お前の事情は分かった。
だが私も何かと忙しい身でね。
お前に構ってやる余裕なんてないんだ。
ここにはもう用がないから、私は行かせてもらうぞ」
「ええ、そんなあ。
こんなところに残されても、ボクどうすればいいか分かんないよ」
不満げに頬を膨らませる少年に、サクラは肩をすくめて投げやりに言う。
「知るか。
私には関係のないことだ」
「困っている人がいたら助けてあげなさいって、いつもお父さんは言ってるよ?」
「お前の父親がどうか知らんが、私は人を助けるのも人に助けられるのも嫌いでね」
サクラはそう話すと、膨れる少年を無視して、一人で歩き出した。
「あっ」と驚きの声を上げる少年。
だがサクラは、その少年の声に振り返ることすらしない。
「心配しなくても、この湖のある場所はそれなりに有名なところだ。
いずれ旅人か商人かが立ち寄ってくれるさ。
そいつにお願いして近くの街にでも連れてってもらうんだな」
最低限の助言だけして歩を進めるサクラ。
すでに彼女の頭の中からは、誘拐された少年の存在が、過去のものとして処理されていた。
サクラは歩きながら、餓鬼族から頂いた小袋の重量に、思わず頬を綻ばせる。
(今日は久しぶりにご馳走にありつけそうだな……そして、いつもより少し高価な宿にでも泊まろう。
固いスプリングのベッドじゃない、柔らかいベッドで、ゆっくりと体を休めるんだ。
ああ……それに風呂にも入りたいな。
足を思いっきり伸ばせる浴槽で――)
そんな明るい未来に思いに馳せていると、唐突に背中にガクンと重みが掛かる。
咄嗟に足に力を入れ、転倒を防ぐサクラ。
彼女は眼帯に隠れていない左碧眼をぱちくりと瞬かせると、ゆっくりと背後を振り返り、自身の背中を見やった。
するとそこには――
まるでセミのように背中にへばりつく、金髪少年の姿があった。
「……何をしているんだ、お前は?」
声に棘を含ませて、少年に尋ねるサクラ。
少年が金色の瞳を細めて、ニパリと笑う。
「一人は寂しいからさ、やっぱりボクもお姉ちゃんと一緒にいるよ」
「……誰がそれを了承した?
私はお前を連れていく気はない。
さっさと離れろ」
「やだ」
何とシンプルな拒絶の言葉か。
サクラは少年を見据える瞳を、鋭く尖らせる。
「お前の意見など聞いてない。
私が本気で怒る前に、離れたほうが身のためだぞ」
「こんな幼い子供を森の中に置いていくなんて、お姉ちゃんの良心が許さないよ」
「勝手に人の良心を善人にするな。
見ず知らずの子供がどうなろうと、知ったことか」
「既知と不知。
その境界はひどく曖昧で、それを前提にした論証に意味なんかないよ」
「すっごく頭よさげなこと言ってるけど駄目だ。
私はお前を助ける気なんてない」
「口ではそう言いつつも、お姉ちゃんは胸を突き刺すような痛みに、困惑していた。
自身ではそうではないと否定するも、この痛みは確かに、ボクに向けられた優しい心――」
「勝手にナレーションをつけるな!」
堪らず声を荒げる。
サクラの怒声に対し、相変わらずニコニコとした微笑みを崩さない少年。
まるで邪気のない少年の笑みに、サクラは大きな疲労感を覚える。
「……お前、結構わがままな奴だな。
是が非でも自分の主張を曲げないタイプか?」
「自分の命に係わるようなことなら、これぐらいゴネるのは普通じゃないかな?」
意外にも鋭い反論をしてくる。
確かに森に置き去りにされるとあれば、子供といえどもその危険性を理解し、多少の抵抗を試みるものかも知れない。
だがやはり、サクラには子供を助けてやろうという慈悲の心などない。
教会に匿名で連絡ぐらいは入れてやってもいいが、それ以上の面倒事は御免であった。
何より、サクラは餓鬼族から金を強奪している。
下手に事件に係わり、その事実を教会に知られるようなことがあれば、餓鬼族から奪った金を没収させられる可能性もある。
多少可哀想だとは思うが、この子供はこの場に放置する。
それはサクラの中で決定事項であった。
どういう握力をしているのか、まるで危うげもなく、彼女の背中にへばりつく少年。
サクラは一度大きく息を吸い込むと、腰を落として、背後の少年に口を開く。
「もういい。
だったらお前の好きにすればいいさ。
だが……後悔しても知らないぞ?」
「ん?」
少年が怪訝に首を傾げたことが、背後から気配で伝わった。
サクラは、慎重に足先に力を込めると、全身の筋肉をバネのように絞り込み、瞬間にそれを――
弾けさせた。
地面を大きく蹴り、全力疾走する。
背中にいる少年が「わっ」と驚いたように、声を上げた。
サクラの突然の行動に、背中を掴む少年の手が、より固く結ばれる。
樹々の隙間を縫うようにして走るサクラ。
太い根が地面から露出していれば、それを跳び越えて、突き出した枝が頭を掠めそうになれば、腰を屈めて擦り抜ける。
上下左右と体を激しく動かしながら、だがそれでも、決して駆ける速度を落とすことなく、全身の筋肉を爆発させて、サクラは森の中を走り続けた。
「わっわっわわわ……」
サクラの動きに合わせて、彼女の背中に貼り付いている少年が、激しく揺すられる。
サクラの背中から振り落とされまいと、少年がさらに、サクラの背中を掴む手を強めた。
サクラの背中の上で、少年の体がピンボールのように弾ける。
普通の子供ならばとうに手を離していそうなものの、少年が背中から剥がれる気配は、未だにない。
その信じがたい事実に、駆ける足を止めることなく、サクラは焦燥を募らせた。
(――っ……何なんだコイツ!?
手のひらに接着剤でも塗っていたのか!?)
そんなことはあり得ない。
だがそう考えてしまうほどに、少年は執拗であった。
(くそ……こうなれば、意地でも振りほどいてやるからな!)
サクラはギリギリと瞳を尖らせると、駆ける足に、さらなる力を込めた。
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クロラス森林。
そのとある獣道を、二体の餓鬼族が歩いていた。
二体の餓鬼族のうち、髪を刈り上げにした個体が、鋭い牙を剥きだしにして、大きく欠伸をした。
「あーあ……退屈だ……ここんとこ、人間とのいざこざもなく……平和なもんだよな」
「……まあな」
刈り上げ餓鬼族の呟きに応えたのは、眼鏡を掛けた餓鬼族であった。
眼鏡の餓鬼族が、クイッと指先で眼鏡の位置を直し、刈り上げ餓鬼族を一瞥する。
「昔とは違い、無闇に人間に突っかかる連中も少なくなったしね……野盗紛いのことをして騎士の連中に討伐されている奴もいるけど、以前に比べれば争いは確かに減ったよ」
「おいおい、何を他人事みたいに言ってんだよ。
お前はそれでいいのか?」
「何が?」
怪訝な顔をする眼鏡の餓鬼族に、刈り上げ餓鬼族が興奮気味に言う。
「俺達は魔族だぜ?
こんな森にこそこそと隠れて、人間の顔色を窺っていることが、健全な生き方か?
もっとこう、魔族らしい生き方ってのがあるだろ?」
「それって二百年前の戦争の話をしているの?
やめてよ、そんな古臭い考え方」
「何が古臭いんだよ?」
「時代が違うだろ。
今の人間と争ったところで、勝敗は火を見るより明らかだよ」
「情けないことを言うな!
お前はそれでも魔族か!」
「そこまでいうなら、ゴードンさんに掛け合ってみたら?」
「……いや……それは……なあ?」
刈り上げ餓鬼族が途端に興奮を冷まし、曖昧な返事をする。
魔族らしい健全な生きかた云々と声高に叫んだところで、それを本当に実現しようとは、刈り上げ餓鬼族も考えていないのだろう。
つまるところこの会話は、退屈しのぎの雑談に過ぎない。
意気をくじかれた刈り上げ餓鬼族が、コホンと咳払いをして、ぼそぼそと呟く。
「と……とにかく、魔族は戦いの中で生きる種族だ。
こんな生ぬるい――」
するとここで、刈り上げ餓鬼族のすぐ横の茂みから、何かが猛スピードで飛び出してきた。
咄嗟にその茂みから出てきた影に、視線を向ける眼鏡の餓鬼族。
茂みから現れたのは、薄紅色の髪をした人間の女性であった。
「へ?」
突然現れた人間の女性に、きょとんと目を丸くする刈り上げ餓鬼族。
その直後、女性が高くジャンプして、刈り上げ餓鬼族の顔面を、ブーツの底で躊躇なく踏みつけた。
刈り上げ餓鬼族の顔面から、盛大な鼻血が噴き出す。
後方に倒れる刈り上げ餓鬼族を無視して、人間の女性が茂みから出てきた勢いそのままに、また茂みの中へ姿を消した。
僅か一秒ほどの出来事に、呆然とする眼鏡の餓鬼族。
そしてふと気付いたように、顔面を赤く染めて倒れている友人に、彼がポツリと尋ねる。
「……やっぱり人間と争いたい?」
「……いや……平和が一番……」
そう呟いて、刈り上げ餓鬼族が気を失った。
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クロラス森林。
そのとある樹々が開けた場所。
そこに二体の餓鬼族が立っていた。
「君のことを――愛している」
髪をオールバックにした餓鬼族の言葉に、三つ編みの餓鬼族が、はっと息を詰まらせる。
ほんのりと頬を赤くして、三つ編み餓鬼族がオールバック餓鬼族から、視線をさっと逸らす。
そして暫くの間、熱を湛えた沈黙が、二人を包み込んだ。
三つ編み餓鬼族の瞳から、大粒の涙が静かにこぼれる。
「……嬉しい……でも本当に私でいいの?
私なんかで……構わないの?」
「君だからこそ良いんだ。
僕は君と一生涯をともにしたい」
三つ編み餓鬼族が、こぼれた涙を指先で拭い、小さく頷いた。
そして瞼を閉じると、そっと唇をすぼめる。
オールバック餓鬼族がゴクリと唾を呑み込み、三つ編み餓鬼族の肩に優しく手を置く。
そして彼もまた、唇をすぼめた。
二体の餓鬼族の唇が接近していく。
お互いの想いを量るように、ゆっくりと、だが確実に、距離を近づけていく唇。
そして唇の接触まで、あと数センチとなる、その時――
周囲に起立する樹々の隙間から、薄紅色の髪をした人間の女性が現れた。
「は――ぐべぇ!」
女性の姿を確認する間もなく、オールバック餓鬼族の脇腹に、女性の膝が突き刺さる。
脇腹の筋肉を破り、骨を粉々に砕き、内臓をシェイクするほどの、強烈な女性の一撃に、オールバック餓鬼族の口から鮮血が飛び散った。
樹々の隙間へと入り込み、人間の女性がその姿を消した。
その直後、白目を剥いたオールバック餓鬼族が、ばたりと仰向けに倒れる。
オールバック餓鬼族の口から溢れ出る血液。
地面に広がっていく血だまりを見て、三つ編み餓鬼族が悲鳴を上げる。
「いや……いやあああああああああああああああああああああああ!」
三つ編み餓鬼族のその悲痛な声は、クロラス森林によく響いた。