いつものように起床した時かな? 自分が反抗期だと気付いたのは。(3)
「ハンネス。
お前は以前、これが自身の在り方、宿命だと私に話したな」
眼帯に隠れていない左碧眼を、鋭く細めるサクラ。
彼女の右手に握られた、根元から切断された刀。
その切断面を向けられた先に立つ影法師の男。
男の名前はハンネス・アラン。
二百年前に滅んだとされる魔王の同種にして、同等の力を引き継いだ存在――
最強の魔族。
サクラの剥き出しの敵意を受け、だが特に警戒する様子もなく、無造作に立つハンネス。
男の赤い瞳を見据えつつ、サクラはゆっくりと左手を持ち上げ――
自身の右目を隠す眼帯に触れた。
「……確かにそう言ったな」
サクラの問いに対する、ハンネスからの短い返答。
サクラは嘲りの笑みを浮かべる。
「二百年前の真似事をすることが、お前の宿命って奴か?
自分が魔王と同種の魔族だからって、魔王と同じことをすることが宿命だなんて、単純思考過ぎやしないか?」
「知ったような口を利くな。
人間の女」
サクラの言葉に反発したのは、ハンネスではなく、玄関口に控えていた、小人族のヴィレムであった。
丸眼鏡に赤い瞳を隠したヴィレムが、少なくとも表向き崩すことがなかった慇懃な態度を打ち消して、サクラに対して乱暴な口調で言い放つ。
「ハンネス様は魔族の頂点に立つために、存在されているお方だ。
貴様のような人間が、本来は会話することすら憚れる、高貴な存在だぞ。
そのお方にあろうことか、その浅薄な知識で意見を述べるとは、身の程をわきまえろ、人間が!」
「……なるほど。
宿命だ何だというのは、このおっさんの口車に乗せられてのものか?」
「なんだと!」
憤慨するヴィレムを無視して、サクラは無表情のハンネスに向け、言葉を続ける。
「宿命だ何だと言うわりに、お前はそのことに、さほど興味を抱いていない。
だから結果に拘らないんだろう?
お前が重要視しているのは、宿命に従う過程のほうだからだ」
右目を隠していた眼帯を外すサクラ。
外した眼帯を脇に捨て、眼帯に隠れていた右目の瞼を、ゆっくりと開く。
サクラの表情に、魔族と同じ赤い瞳が、禍々しく輝いた。
碧い瞳と赤い瞳。
サクラはその両眼に、鋭利な眼光を同時に瞬かせる。
「つまり――お前は酔っているだけだ。
宿命に従う自分自身にな」
「……お前がどう解釈しようと勝手だが……」
ハンネスが小さく溜息を吐き、ぼそぼそと聞き取りにくい小声で話す。
「流れに逆らったところで面倒だ。
行きつく先が同じなら、流れに身を任せればいい」
「それは、一度でも宿命に逆らった奴の言うことだ。
従うだけの甘ちゃんがほざくな」
「……お前に何が分かる?」
ここで初めて、ハンネスが感情らしきものを、表情に覗かせた。
怒りとも憎しみともつかない曖昧な不満。
彼の見せたその僅かばかりの反応に小気味よさを覚えつつ――
サクラは集中力を高めていく。
「――私はこの場所から、遥か東にある島国で生まれ育った」
突然、関係のない話をするサクラに、ハンネスが感情を映したその表情に、疑問符を浮かべる。
彼の疑問は他所にして、サクラは淡々と言葉を続ける。
「その島国は、他国との交流が皆無に近い、閉鎖された国だった。
ゆえにその島には、独自の文化や風習が数多く存在している。
私の刀や着物も、その独自文化の一つだ」
舌を動かしながらも意識を集中していく。
自身の身体に封じられている強大な力。
それを限界まで引き出すには、並外れた集中力が必要とされる。
未熟な自分では、その集中力に達するまで時間が掛かる。
ゆえに、適当な雑談で間を埋める必要があった。
「その島国では一つの有名な伝説がある。
それは龍神伝説と呼ばれるものだ。
遥か昔、世界を混乱に陥れた龍神が存在した。
その龍神は、世界の因果をも書き換えるほどの、強大な力を持ち、この世を白紙に戻すことを使命としていた。
だがしかし、その島国いる一人の巫女が、龍神の力を己の身に封じ込めることに成功し、世界を救ったのだという」
ハンネスの表情に浮かんでいた疑問が、徐々に無関心なものに変わっていく。
眉唾に過ぎないだろう伝承を聞かされ、うんざりしているのかも知れない。
だがサクラは、ハンネスの態度など気にすることなく、流暢に話を続けた。
「――だが封印には欠陥があった。
巫女の老化とともに封印が弱まり、龍神の力がこぼれ出てきたんだ。
龍神の封印を継続するためには、新たな巫女を用意し、その身体に龍神の力を封じ込めなおす必要があった。
龍神を封じた巫女は、自身の娘を新たな巫女として選び、自身に封じた龍神の力を娘に継承した」
極限まで高められた集中力。
サクラの内に眠る強大な力の源泉に、意識が辿り着く。
「それ以降、巫女は自身の娘に龍神を継承することが習わしとなった。
龍神の力を受け継いだ巫女は、龍神の力を決して外に出さないために、その一生を島で生きることを義務付けられる。
島国の民はそんな巫女と、神である龍神を崇め、現在まで生きてきた」
「――さっきから何の話をしている!?」
ヴィレムが声を荒げる。
要領の得ないサクラの話に、いい加減に忍耐も尽きたのだろう。
顔をどす黒くするヴィレムを一瞥し、サクラは口元をニヤリと曲げる。
「その巫女の姓は轟。
私は龍神を封じ込めるために生まれた巫女だ」
ハンネスの赤い瞳が、僅かばかり見開かれる。
その瞳を見据えながら――
サクラは――
「私も巫女の宿命を背負った人間なんだよ」
力の源泉を限界まで解放した。
その瞬間――
大気に鳴動が轟いた。
「――何!?」
「――ッ!」
ヴィレムとハンネスが、驚愕に表情を強張らせる。
サクラを中心にして、周囲の空気が巨大な渦を巻き、まるで龍が駆け上がるように、頭上へと立ち上る。
狂ったように吹き荒れる強風。
振動しながら細かくひび割れる大地。
まるで世界そのものを直接つかみ、上下左右に振り回しているかの如き、あまりにも不規則で乱暴な力の奔流が、サクラを起点にして周囲に広がっていく。
暴れる大気と大地にバランスを取られ、ヴィレムが強かに転倒する。
対して、力の起点となるサクラのすぐ近くにいながらも、微動だにすることもないハンネス。
だが彼のその表情が、強大な力を身にまとうサクラの姿に、強張りを見せていた。
「……お前は……何者だ?」
ハンネスの呟き。
それは周囲に荒れ狂う強風に吹き千切られ、すぐに霧散した。
ゆえに本来は、サクラへと届くはずがない。
しかしサクラは確かにその呟きを聞き――
真っ赤に染まった両目を見開いた。
「話しただろ。
龍神の力を持つ巫女だと」
桜色の髪の毛が真紅に染まる。
鋭く伸びた牙が口元から覗き、全身の皮膚に鱗のような痣が浮かんでくる。
サクラは、体の変異に伴う激痛を堪えつつ、荒々しく笑った。
「悪いがあまり時間を掛けられない……早々に決着をつけさせてもらうぞ」
「……勝手なことを」
ハンネスのその苦言は、益体のない故郷の話で時間稼ぎをしたサクラに対して、向けたものなのだろう。
的を射たクレームだが、こればかりは仕方がない。
龍神の力を限界まで引き出したこの状態は、サクラにとってあまりにも危険であり、長時間も保てない。
「第一、その折れた武器で何を――」
ハンネスの言葉が途中で止まる。
サクラの右手に握られた、根元から切断された刀。
ペーパーナイフほどの長さもない、武器として用を為さない刀身が――
まるで急速に成長する植物のように、その長さを伸ばしていく。
「――な!?」
「行くぞ!
ハンネス!」
刀身を伸ばした刀を振るい、驚愕するハンネスに駆けていく。
瞬く間にハンネスとの距離を詰めるサクラ。
ハンネスが軽い舌打ちをして、右手に漆黒の闇をまとう。
刀を横なぎに全力で振るう。
ハンネスの右手に出現した闇の刀が、サクラの刀を受け止めた。
ハンネスが操る黒魔導。
あらゆる物質を触れただけで消滅させる『万物消滅』。
その能力により生成された闇の刃は、鍛えられた鋼でさえ抵抗なく切断せしめる。
だが――
サクラの振るった刀は、ハンネスの生成した闇の刀に、がっちりと受け止められた。
刀を振り抜こうと力を込めるサクラ。
そのサクラの力を、縦に構えた闇の刀で抑え込むハンネス。
拮抗する両者の力。
だが爛々と赤い瞳を輝かせるサクラとは異なり、ハンネスの赤い瞳には明らかな、動揺が浮かんでいた。
「――なぜ……消滅しない!?」
「特別に教えてやるよ。
それは――」
ここでサクラは突然に刀を引く。
拮抗した力の片側が突如失われ、ハンネスの体が僅かではあるが前方に揺らいだ。
刀を引いた力と連動させ、サクラは左拳を強く突きだす。
ハンネスが咄嗟に半身になり、右肩でサクラの拳を受け止める。
表情を苦悶に歪め、数歩後退するハンネス。
サクラは素早く地を蹴り、ハンネスへと追いすがった。
だが――
突如、目の前に闇の障壁が現れる。
騎士軍を退けるために使用されたハンネスの能力。
恐らくこの闇の障壁もまた、触れただけで無条件に対象を消滅させる、黒魔導の術なのだろう。
どのような刃も、銃弾すら通さないだろう鉄壁の防御。
サクラはその障壁を――
「しゃらくさい!」
愚直に蹴りつけた。
闇の障壁をぶち破り、サクラの鉄板が仕込まれたブーツの底が、ハンネスの鳩尾に突き刺さる。
大きく口を開け、大量の空気を吐き出すハンネス。
後方へと吹き飛ばされた彼の体が、地面を激しくバウンドし、屋敷の塀に衝突して停止した。
「――ぐ……はあ……」
四つん這いの姿勢で、口から血の滲んだ涎を吐き出すハンネス。
荒い呼吸を繰り返しながら、彼が脂汗の滲んだ顔を上げ、サクラに赤い瞳を向けた。
揺らめきを見せる彼の視線。
それをサクラは、鋭くした赤い瞳で泰然と見返した。
ふらふらと立ち上がるハンネス。
その彼に刀の先端を向け、サクラは牙を剥いて笑う。
「話の続きだ。
龍神の力を限界まで引き出した私は、魔道属性が変化する」
「属性が……変化するだと?」
ハンネスが赤い瞳を訝しげに細める。
浮かべた笑みを深くして、サクラは告げる。
「今の私は――白魔導属性だ」
ハンネスの赤い瞳が見開かれた。
サクラはその瞳に語るように話を続ける。
「白魔導は創造を司る力。
今の私が操る能力は――『輪廻創造』。
失われた物質を元の形へ繰り返し創造する、修復でも再生でもない創りなおす能力だ」
「創造の力……では、俺の消滅の力が通用しなかったのは……」
すでに察しがついているであろうハンネスに、サクラは笑みを濃くする。
「お前の消滅の力が通用しないんじゃない。
消滅した物質が創造しなおされていたから、消滅していないように見えただけだ。
私の能力の影響下にある物質は、どれだけの破壊や消滅を受けようと、創造しなおされる。
この状態の私を殺すことは不可能だ」
「ば――馬鹿な!」
サクラの解説に反発したのは、ハンネスではなくヴィレムであった。
玄関口で二人のやり取りを聞いていた小人族の男が、唾を飛ばしながら声を荒げる。
「白魔導だと!?
創造の力だと!?
白魔導はあくまで黒魔導と対をなす、理論上の魔導属性だ!
白魔導が実在するなどという話は聞いたこともないわ!」
「……って、外野がほざいているが、ハンネス。
お前はどう思う?」
ヴィレムに溜息を吐きつつ、ハンネスに尋ねるサクラ。
ハンネスが大きく見開いた瞼を閉め、しばし沈黙する。
時間にして五秒。
ハンネスが閉じた瞼をゆっくりと開く。
「……できれば今の話、腹を蹴られる前に聞いておきたかったな」
「お前だって私の刀を折った後に、能力の解説をしただろ。
これでおあいこのはずだ」
「お前に訊きたい」
ハンネスの口調が変化する。
その微妙な変化を感じ取り、サクラは口を閉ざして、ハンネスの言葉を待った。
一拍の間を空けて、ハンネスが口を開く。
「お前が……龍神の力を封じた巫女であるならば、どうして島から離れている?
龍神の力を外に出さないため、巫女は一生を島で生きることを義務付けられたと、お前は話していた。
それが巫女の宿命だというのなら、なぜ宿命に反して、お前がここにいる?」
「……いいだろう。
知りたいのなら、教えてやるよ」
サクラは静かに息を吸い込むと、固唾を呑んでこちらの回答を待つハンネスに――
「ただの反抗期だ」
そうきっぱりと告げた。
「……………………ん?」
長い、ことさら長い沈黙を挟み、ハンネスが目を瞬かせる。
ぽかんと呆けた顔をするハンネスに、サクラは何の後ろめたいこともないと言わんばかりに、堂々と言い放つ。
「お母様に対する反抗期だ。
何かもう十六歳を過ぎたあたりで、アレ?
これっておかしくね?
何で私がこんな狭い島で、一生過ごすことを、勝手に決められなきゃならねえの?
と思ってな。
夜中のうちに荷造りして、置手紙だけ残して、島を出てきた」
サクラの回答がよほど意外だったのか、感情を映さないハンネスのその顔に、非常に分かりやすい動揺が浮かんでいた。
何かを考え込むように首を傾げ、ハンネスが呟く。
「……反抗期……だと?」
「そうだ。
誰でもあるだろう、親に反発したい年頃って奴だ」
「……巫女の宿命はどうした?」
「そんなもの知るか」
断言するサクラ。
赤い瞳を困惑に瞬かせるハンネスに、サクラは肩をすくめる。
「私の周りが勝手に決めたことだ。
私がそれに従ういわれはない。
私の体に龍神が封じられている都合上、私は巫女にならざるを得ないが、まあ深くは考えていない」
「考えていない……だが龍神の封印は年齢とともに弱まると話したな?」
「どうにでもなるだろ。
多分」
「自分の娘に龍神を継承するとも」
「何とかなるだろ。
きっと」
「……適当過ぎやしないか?」
魔族からの呆れられた一言。
サクラは「適当で何が悪い」と吐き捨てる。
「私の人生、私の思うように生きているだけだ。
言っておくが、私はお前のように、流れるままに流されて、それで納得できるような物分かりのいい奴じゃないんだ。
誰に迷惑が掛かろうと、全力で流れに逆らって、自分の意志で生き方を選択してやる」
「……だがどれだけ流れに逆らおうと、結局行きつく先は同じかも知れんぞ?」
「だとしても、私は流れに逆らい続ける」
サクラは、動揺を滲ませたハンネスの赤い瞳を見据えて、口調を強める。
「例え行きつく先が同じだろうと、流れに逆らった分、横道に逸れることはできる。
その無駄に思える経験の積み重ねこそが、私が自分の意志で選んだ人生だ。
誰にもそれは否定などさせない。
結果が同じだというのなら、その道中を楽しまないでどうする?」
「――……」
ハンネスが息を呑んだのが分かった。
赤い瞳を力なく細めて、サクラから視線を逸らすハンネス。
二呼吸ほどの間を空けた後に、彼が独りごちるように言う。
「楽しむ……か。
俺はそんなこと考えたこともないな。
俺は世界で唯一の魔王族だ。
誰一人として仲間もいない。
今までずっと独りで旅を続け、戦いを続けてきた」
自身の手のひらに視線を落とし、ハンネスが「だが……」とその手のひらを握る。
「戦いすらも……俺を楽しませてくれたことはない。
俺はどの魔族よりも強く生まれた。
誰と戦おうと苦戦することすらなく、俺は退屈していた」
落としていた視線を上げて、ハンネスがサクラを見据えた。
彼のその赤い瞳には、先程まで湛えられていた動揺がいつの間にか消え失せ、その代わりに――
強い興奮を湛えた眼光が輝いていた。
「初めてだ。
俺と対等に戦える存在は」
ハンネスが無邪気に笑う。
彼の笑みにつられ、サクラもまた口元に笑みを浮かべた。
「ようやく私に興味を持ったか。
それでいいんだよ。
闘争こそが魔族の本能だ。
宿命だ何だなんて小難しいことを持ち出して、場をしらけさせるようなことするなよな」
「無粋な真似をしてすまなかった」
ハンネスが闇の刀を構える。
そして半身の姿勢を取り、腰を落とした。
彼がサクラに対して、初めて見せる臨戦態勢。
魔王族たる男から放たれる、その剥き出しの敵意に――
サクラは頬を紅潮させて胸を高鳴らせた。
「人間も魔族も戦争も宿命も、今は全てがどうでもいい。
お前もそうだろ」
「ああ。
ただお前がいればいい。
俺と対等のお前さえいてくれれば、それでいい」
「私も同じ気持ちだ。
お互いに、立場もしがらみも何もかも忘れて――」
「この喧嘩を楽しもう」
ハンネスが駆け出した。
サクラもまた同時に駆け出す。
瞬く間に距離が詰まり、二人が刀を振るう。
サクラの白刃と、ハンネスの闇の刃が激突し――
甲高い音を立てて弾けた。
「くたばれ!
ハンネス・アラン!」
「殺してやる!
サクラ・トドロキ!」
互いが相手を口汚く罵り、最強同士のただの喧嘩が開幕する。
サクラは素早く刀を引くと、それを全力で突き出した。
迫る切っ先を闇の刀で弾き、ハンネスが体を捻じり、闇の刀を横なぎに振るう。
半歩後退するサクラ。
闇色の刃が彼女の鼻先を掠めて通り過ぎる。
一瞬で凍える背筋に、サクラは興奮を高めた。
創造を繰り返すサクラには、消滅の力は有効に働かない。
だが物理的な硬度をもった闇の刀で体を打たれれば、当然ダメージは免れない。
痛みは判断力を鈍らせ、ひいては戦況を悪くする。
ただでさえ、龍神の力を引き出していることで、全身が激しい痛みに悲鳴を上げているのだ。
体にこれ以上の負担を掛けないためにも、ハンネスの攻撃は極力、刀で受けるか、躱しきらなければならない。
(とどのつまり、普通の戦い方と同じだ。
シンプルで分かりやすい!)
サクラは瞬時に状況判断をすると、後退した体をすぐに前進させ、ハンネスに接近した。
刀の切っ先を地面に掠めるように走らせ、体を跳ね上げるようにして、下から上に刃を振り上げる。
半身になりサクラの白刃を躱すハンネス。
サクラは跳ね上げた体を捻じり、ハンネスの脇腹をめがけて、回し蹴りを見舞った。
タイミングは完璧。
だが――
「――!」
サクラの蹴りがハンネスに届く前に、一歩踏み込んだハンネスの拳が、サクラの鳩尾に突き刺さった。
横隔膜を押され、サクラの口から大量の空気が漏れる。
咄嗟に地面を蹴り、後方に退いて衝撃を逃がす。
軽く咳き込むサクラに、ハンネスが挑発的に笑う。
「剣術だけだと思うなよ」
ハンネスが駆ける。
サクラに肉薄し、ハンネスが闇の刀を横なぎに振るう、と見せかけて左拳でサクラの顔面を殴りつけてきた。
強かに頬を打たれ、体をよろめかせるサクラ。
隙を生んだサクラに、ハンネスが今度こそ闇の刀を頭上に構え、高速で叩きつけてくる。
態勢を立て直す暇はない。
ならば――
(態勢をあえて崩す!)
サクラはよろめいた体をそのまま倒し、地面に手を付いて足を振り上げた。
闇の刃がサクラの頭部を掠めると同時に、サクラの振り上げた靴底が、ハンネスの顎を叩いた。
「――ぐっ!」
今度はハンネスが数歩後退する。
サクラは態勢を整え、ハンネスへと駆け出す。
闇の刀を構えるハンネスに向け、サクラは刀を投擲した。
ハンネスの目が驚愕に見開かれる。
サクラの刀が、ハンネスの足元に突き刺さる。
彼女の奇抜な行動に、ハンネスが判断を迷わせる。
その一瞬の隙を突き、サクラは全速力の勢いそのままに、ハンネスに中段蹴りを見舞う。
サクラの蹴りを咄嗟に肘で受け止めるハンネス。
だが衝撃を吸収しきれず、ハンネスが地面に靴底を擦りながら、大きく後退した。
地面に突き刺さった刀を引き抜き、サクラは後退したハンネスに駆ける。
体を左に振り、すぐに右にずらす。
簡単なフェイント。
ハンネスの赤い瞳が、瞬きする時間だけ、サクラを見失う。
その僅かな時間に、サクラはハンネスの死角に回り込み、ハンネスの足を素早く払った。
転倒こそ防ぐも、ハンネスの体が大きく傾く。
ハンネスの無防備な首筋めがけ、刀を振り下すサクラ。
瞬間、振り下された刀とハンネスとの間に、闇の障壁が生まれる。
闇の障壁に刀が弾かれる。
だがその程度のこと予想済みであるサクラは、戸惑うことなく、すぐさまハンネスの腹部を蹴り上げた。
「――かはっ!」
腹部を手で押さえて後退するハンネス。
サクラは戦況が自身に傾いていることを悟る。
ハンネスは状況判断能力が優れており、またその判断に応えるだけの、高い身体能力をもほこる。
だが格下の相手ばかりしていたからか、搦め手を用いた戦闘には不慣れだ。
直線的な攻撃を避け、フェイントを織り交ぜて戦いを進めれば――
(負けることはない。
勝てる――)
だが――サクラのその考えは甘かった。
後退したハンネスに追いすがろうと、駆け出すサクラ。
あと一歩でハンネスを射程に置けるというその距離で、サクラは突然、がくんとバランスを崩した。
素早く足元を確認するサクラ。
地面の一部がぽっかりと窪んでおり、その窪みにサクラの右足がはまっていた。
脳裏に走る疑問。
だがすぐに、サクラは理解する。
(消滅の力か――)
後退すると同時に、消滅の力で地面に穴を掘っていたのだろう。
ただの落とし穴に過ぎないが、それは単純なだけに、あまりにも効果的な戦略だった。
態勢を崩したサクラに向けて、ハンネスが闇の刀を振り下す。
サクラは闇の刀を受け止めようと、刀を横に構えて頭上に掲げた。
互いの刀がぶつかる、その直前――
ハンネスの闇の刀が消失する。
刀を受け止めるようと、衝撃に備えていたサクラの体が、肩透かしを食らい強張る。
その隙を突き、ハンネスが刀を打ち消した右手を素早く伸ばし――
サクラの喉をがっしりと掴んだ。
「終わりだ――」
直後――サクラの足元から濃厚な闇が出現する。
まるで天に落ちる滝のように、膨大な闇がサクラの体を呑み込み、頭上へと流れた。
サクラの視界が、一瞬にして闇に染まる。
「――ぐ!」
闇の濁流にのまれ身動きができない。
さらにこれまでよりも濃厚な闇が、サクラの能力を僅かに上回り、彼女の体を徐々に侵食して消失させていく。
衣服が崩れ、皮膚が剥がれ、肉が削られていく。
その激痛に、思わず悲鳴を上げそうになるサクラ。
だが彼女は、その激痛を意志の力だけで内に封じ込めると――
自身の喉を掴む、ハンネスの右腕を、左手で力強く掴んだ。
闇に染まった視界に、ハンネスの表情は映らない。
だが掴んだ腕越しに、ハンネスの動揺が伝わってきた。
サクラは、体の自由を奪う闇の濁流に、力任せに抗い――
「があああああああああああああ!」
刀を振り下した。
パンッ!
と、足元から立ち上っていた闇の濁流が消え失せる。
視界を塗りつぶしていた闇が失せ、そこにハンネスの姿が映し出される。
全身黒ずくめの、影法師のようなハンネスの姿。
その起立した影に――
袈裟懸けに走る裂傷が刻まれていた。
「……っ」
膝を崩して、サクラの前に座り込むハンネス。
おびただしい出血に呼吸を荒げる彼を見下ろしつつ、サクラは、自身の喉を掴んでいた彼の右腕から、左手を離した。
小さく息を吐くサクラ。
ハンネス同様、彼女の全身もまた無残な有様だった。
闇の濁流に呑まれ、八割ほど崩れ落ちた着物は、すでに衣服の用途を満たしておらず、彼女の大部分の肌を露出させている。
そして、その露出した彼女の肌もまた、闇の濁流により削り取られ、血の滲んだ赤黒い筋肉が、痛々しく覗いていた。
だが白魔導の能力により、その削れた傷跡も崩れた衣服も、五秒ほどで創造される。
少なくとも、見た目だけは戦う以前と変わらない姿に戻ると、サクラは意識を鎮め――
龍神の力を体の内に封じ込めた。
サクラの口元から覗いていた牙が消え、髪の色が赤から桜色に戻る。
皮膚に浮かんでいた鱗のような痣もなくなり、血に濡れたように赤く染まっていた左眼が――
碧い輝きを取り戻した。
帯に吊るしていた鞘に刀を収めるサクラ。
その彼女に、足元から声が掛けられる。
「……どうして、殺さない?」
視線を足元に下すサクラ。
目の前に座り込んだハンネスが、こちらを見ていた。
出血からか、顔を蒼白にするハンネスに、サクラは気楽な調子で手首を振る。
「殺るつもりだったさ。
だがお前の能力で刀の先端が削られていたようでな、致命傷となる傷にまで刃が達しなかったんだ。
運が良かったんだよ、お前は」
「今、とどめを差せばいい」
「どうでもいいさ」
サクラは投げやりな口調でそう言うと、ニヤリと口元を曲げた。
「悪いな。
もうお前には興味ないんだ」
「……」
ささやかな仕返し。
サクラの言葉に、暫くハンネスが呆然と目を丸くし、そして――
柔らかく微笑んだ。
「それは……悔しいな」
「ざまあみろ、バーカ」
子供のような程度の低い悪口で、大いに留飲を下げたサクラは、屋敷の玄関口に立つヴィレムへと視線を向けた。
ハンネスの敗北が信じられないのか、表情を硬直させているヴィレム。
ハル誘拐に始まる一連の事件の首謀者である、小人族の男に向けて――
サクラは意地の悪い笑みを浮かべた。
「いいものを見せてやるよ。
お前の心血注いだ計画が、ぐちゃみそに崩れる瞬間だ」




