いつものように起床した時かな? 自分が反抗期だと気付いたのは。(1)
「これを貴方に差し上げます」
早朝六時。
自身の寝室――もっとも布団を敷くだけで、自身の個人部屋というわけではない――で目を覚ました轟桜に、母親である轟凛がそう言った。
桜は、つい先程まで眠っていた布団に正座して、同じく向かい合わせに正座している母親を見つめていた。
彼女は一度両眼を瞬かせて、その視線を母親の手前に下ろす。
母親の前には、花柄模様の着物と帯、母親と同じデザインの眼帯、そして――
黒塗りの鞘に納められた、一振りの刀が置かれていた。
「これは?」
小さく首を傾げて尋ねる桜。
母親が柔らかく微笑み、桜色の唇を開く。
「継承の義を終え、元服を迎えた貴方への、贈り物です」
母親の言葉に、桜はそっと自身の右目元に指先を触れさせる。
自分では鏡がなければ見えないが、今の桜の右目は、左の碧い瞳とは異なり――
赤い輝きが灯されている。
「こちらの着物に着替え、立ち姿を私に見せてください」
桜はこくりと頷くと、寝間着を手早く脱いで、花柄模様の着物に手を掛けた。
その着物はとてもきれいで、生地の滑らかさやその網目から、とても高価なものであるということが、すぐに知れた。
サクラは着物を羽織り、帯を慣れた手付きで腰に巻き付けた。
帯に刀の鞘を吊るし、眼帯を右目につける。
視界の半分が塞がれ、遠近感が狂う。
眼帯に隠れていない左碧眼をパチパチ瞬かせる桜に、母親が自身の眼帯に触れながら言う。
「最初は戸惑うこともあるでしょう。
しかしすぐに慣れますよ」
桜は頷き、着物の裾や折り目などを確認して、背を伸ばして母親に向き直る。
サクラのその立ち姿に、母親が碧い瞳を細めて、ニコリと笑う。
「とてもよく似合っていますよ、桜。
立派になりましたね」
「……ありがとうございます、お母様」
母に褒められ、桜は素直に喜んだ。
母親が淀みない所作で立ち上がり、桜の目の前まで歩いて近づく。
母親が左手を上げ、自身と同じ桜色の、桜の髪をそっと撫でた。
「これから貴方は、これまでの修練に加え、その体の内に収めた、龍神様の力を御する術を会得しなければなりません。
ただしそれは並大抵のことではありません」
桜の髪を撫でていた母親の手が、ゆっくりと下り、桜の眼帯に触れた。
「その力がとても強大であり、危険なものであることはお話ししましたね。
ゆえにその力の制御をひとたび誤れば、その力は貴方の心と体を蝕み、場合によっては――」
母親が言葉を止める。
だがサクラには、母親が止めた言葉の内容など、言わずとも知れていた。
母親の眼帯に隠れていない左碧眼を、自身の眼帯に隠れていない左碧眼で見つめる桜。
母親が、桜の眼帯に触れていた指を静かに下し、桜の肩に手を置いた。
「力とは恐怖が伴います。
貴方がこれより立ち向かうものは、恐怖そのものです。
それはとても辛いものとなるでしょう。
しかし私は、貴方はそれを成し遂げると信じています」
「はい。
必ず龍神様の力を制御し、轟家の宿命を立派に果たして見せます」
力強く宣言する桜。
母親が、一度打ち消していた笑みを、再び浮かべた。
そして――
「もしも、貴方がその力を完全に制御することができたのでしたら――」
母親が断言する。
「貴方はまさしく最強となります」
クレオパスの一画。
周囲の建物と比べ、一際大きな屋敷。
そこは、クレオパス議会議員ハーマン・ルーズヴェルトが住む、自宅兼事務所であった。
その屋敷の奥まった位置にある、ハーマンの寝室に、ダンカン・スコールズは居た。
ベッドに腰掛けたハーマンと、向かい合わせになるよう椅子に座った彼は、こちらからの報告を聞いて、力なく顔を俯けたハーマンの姿を、息を詰めて見つめていた。
報告から三分が経つ。
ハーマンが、顔を俯けたまま、弱々しい声音で呟いた。
「……そうか……私の息子は……ハルは……助けることができなかったか」
「……申し訳ありません」
椅子から立ち上がり、ダンカンは深々と頭を下げた。
「我々教会も力を尽くしたのですが、あと一歩のところでハーマン様のご子息は、卑劣な魔族どもによる銃弾に撃たれ、その尊い命を失ってしまいました」
「……息子の遺体は……あるのか?」
「それが……重ね重ね申し上げにくいのですが、ご子息の遺体は、魔族により持ち去らわれ、以前行方知れずです。
すぐにでも全力をあげて捜索をしたいのですが……そうするわけにもいかない、火急的問題がありまして」
「……問題?」
ハーマンが俯けた顔を僅かに上げ、ダンカンに視線を向けた。
血の気が失せ、どんよりと目元を曇らせたハーマンに、ダンカンは躊躇いがちに、「ええ」と頷く。
「ハーマン様のご子息を誘拐――いいえ、殺害したその魔族から、人類に対して宣戦布告がありました。
奴らは二百年前の戦争をまた引き起こすつもりです」
「戦争だと?」
ハーマンが眉をひそめる。
唐突に戦争だと言われても、さすがにピンとこないのだろう。
ハーマンの心労を鑑みて、ダンカンは細かい説明は省き、要点だけを話す。
「魔族がご子息のハル様を誘拐、殺害に至らしめた理由が、その戦争を引き起こすためのようです。
先んじて、奴らは今日の正午に、クレオパスを襲撃すると予告しています」
「……どうするつもりだ?」
上の空のようなハーマンの問い。
ダンカンは悩ましく眉をひそめ、ハーマンに告げる。
「本来ならば、中央政府に報告し、上の指示を仰ぎつつ騎士軍を編成するというのが、基本となるのですが、さすがに時間が足りません。
クレオパスに常駐する騎士を可能な限り集め、私が自ら指揮を執り、魔族を撃退する所存であります」
「……そうか」
「ご心配には及びません。
人類の力は魔族を遥かに凌駕しております。
宣戦布告よりまだ日も浅く、魔族とて各種族との統制が不十分のはず。
必ずや魔族を撃退し、その戦果をもって中央政府に報告、魔族を根絶やしにせよとの意向が、示されることでしょう」
「……そうか」
ハーマンが掻き消えそうな声で呟き、おもむろに立ち上がった。
「ハーマン様?」と尋ねるダンカン。
頼りない足取りで彼を横切り、ハーマンが部屋の出口へと向かう。
「……すまない。
少し一人になって考えたいんだ。
後のことは任せるよ」
「……承知しました。
ご期待に沿えるよう、誠心誠意ことに当たらせてもらいます」
言葉を聞いているのかいないのか、ダンカンに振り返ることなく、ハーマンが部屋を出る。
ハーマンが部屋からいなくなった後も、直立不動の姿勢を保っていたダンカンだが、暫くして気が抜けたように、ガクンと膝を崩して椅子に腰を落とした。
正直、殴られることさえ覚悟していたのだが、意外にもハーマンは冷静であった。
息子の訃報に深く落ち込んではいたものの、自棄になった様子はない。
だが――
(生きた心地が……しなかったな)
ダンカンは小さく息を吐くと、奥歯を噛みしめて瞳を尖らせた。
(くそヴィレムの奴め……つくづく余計なことをしてくれたものだ)
ヴィレムの言う通り、完全な自治を目指すという理由で、年々と縮小を余儀なくされていた教会も、戦争を契機としてその力を取り戻すことだろう。
確かにそれは、ハル・ルーズヴェルト誘拐を計画した、ダンカンの目論見に則したものではあった。
しかし――
(結果的に、私が教会長の座に着いていなければ、何の意味もないじゃないか)
中央政府にまで影響力を及ぼす要人、ハーマン・ルーズヴェルト議会議員。
そのご子息をむざむざ魔族に殺された挙句、中央政府への報告も怠っていた。
このような失態を犯して、お咎めがないわけがない。
減給だけで済まされるはずもなく、十中八九、教会長の座を追われることとなるだろう。
(忌々しい魔族め……ただでは済まさんぞ)
とにかく今は、クレオパスを襲撃するという魔族を速やかに殲滅し、さらにハーマンに上手く取り入り、中央政府に減刑の嘆願を申し出るしかない。
こちらの行動が、合理性のあるものだと理解が得られれば、首の皮一枚つながる可能性はある。
(魔族を完膚なきまでに駆逐し、私の有用性をハーマンにも中央にも知らしめてやる)
ダンカンはそう決意して、椅子を跳ね倒して、立ち上がった。
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どうして存在しているのかも分からない。
いつから存在しているのかも分からない。
ただ気付いた時には、彼は独りで宛てもなく旅をしていた。
自身が魔族であることは理解していた。
そこに根拠があるわけではない。
誰かに指摘されたわけでもない。
初めて人間を見た時には、初めて魔族を見た時には、おのずとそれを理解していた。
そしてそれと同じ理由で、彼は理解していた。
自分が独りきりの種族なのだと。
魔族の生態は各種族によって異なる。
そもそも魔族自体が、生来に魔力を持つというだけで、生物学的につながりのある種の集まりではない。
だが往々にして、魔族は同一種により、群れを形成して暮らしている。
つまり仲間がいるものだ。
だが彼にはそれがない。
世界に唯一つの種である彼は、生まれながらに孤立していた。
それを悲しいと思ったことはない。
辛いと思ったこともない。
彼は物事を深く考えない。
事実を淡々と受け入れ、現実に逆らうようなことはせず、結果を認めてきた。
彼がその男と出会ったのは最近だ。
丁度、カッサンドラ地方のクレオパス近辺を旅していた頃、どうやってか彼の噂を聞きつけたその男が、彼に声を掛けてきた。
「初めまして。
私の名前はヴィレム。
ご覧の通り魔族でして――種族名は小人族です」
丸眼鏡から赤い瞳を覗かせて、男がそう話した。
彼は少々困惑した。
ヴィレムという名前はもちろん、小人族なる種族と係わり合いになったこともない。
一体自分に何の用事があるのか。
率直にそう尋ねる彼に、ヴィレムと名乗った男が、恭しく言う。
「貴方様の宿命。
そのお力になりたいと、馳せ参じた次第でございます」
「宿命?」
「貴方様はご自身が、二百年前に魔族を統率した魔王族であることを、ご存知ですか?」
自身の種族名どころか、魔王族という言葉自体、彼は初耳だった。
訝しく眉をひそめる彼に、ヴィレムが「致し方ありません」と微笑みを浮かべる。
「所詮は言葉など記号であり、それは都合の良いようにカテゴライズされた、本質とはほど遠い曖昧なものに過ぎません。
しかし貴方様は、感覚として理解されていたのではないですか?
自身が魔族であり、唯一の種であり、そして魔族を従える存在であると」
「何が言いたい?」
「光ある場所に、魔族を導いて頂きたい」
魔族が光を望むとは滑稽な。
彼はそう感じた。
だがすぐに彼は、その自身の考えを否定した。
闇より生まれし魔族。
その認識を広めたのは人間であり、本来生物に光も闇もない。
二百年前の戦争の勝者である人間が、自らを光と称し、敗者を闇と分類しただけだ。
ヴィレムが先程話したように、言葉とは曖昧で、定まりがない。
人間が光であり魔族が闇という時もあれば、それが逆転することもある。
つまりヴィレムは――
魔族が勝者になることを望んでいる。
「小人族は二百年前の時代において、魔王アラン様の参謀を務めた種族であります。
残念ながら二百年前に、我ら魔族の大義を果たすことは叶いませんでしたが、貴方様を新たな魔族の頭――魔王として迎え入れ、今一度その大義のために戦う所存であります」
淀みなくそう話すヴィレムに、彼は率直な意見を口にした。
「興味ない」
ショックを受けるか、或いは憤怒するか。
そのどちらかの反応を予想していたが、ヴィレムの見せた反応は、そのどちらでもなかった。
彼はただ――
にこやかに微笑むだけだ。
「恐れながら申し上げます。
これは貴方様の宿命であり、貴方様の意志は関係がございません。
宿命とはその在り方であり、存在の意義そのものでございます。
貴方様がなぜ強大な力を持つのか。
それは闘争を本能とする魔族を力で従えるため。
貴方様がなぜ孤立した種族なのか。
それは魔族の頭は常に一つでなければならないため」
サングラス越しに見える、ヴィレムの赤い瞳が、怪しげに瞬く。
「貴方様の力や境遇、その全てが、貴方様を魔王とすべく存在します。
貴方様が否定しようと拒絶しようと、貴方様の在り方が、貴方様をそこに向かわせます。
ならば宿命という潮流に逆らわず、気ままに流されることが宜しいでしょう。
貴方様はただそれをするだけで、貴方様の在り方を満たし、存在の意義を得ることができるのですから」
ヴィレムの言葉が真実なら、確かに宿命とやらに逆らうことは面倒なことだ。
物事に興味がないのなら、それこそ気楽な道を辿りたい。
そう思う。
そして何よりも――
(俺の孤立が宿命に向かわせるためにものなら、それに逆らう限り俺は――独りだ)
くどいようだが、それが悲しいとは思わない。
辛いとも思わない。
ただ――
(仲間がいるというのを――体験するのも悪くないかもな)
彼はそう思い直し――
ヴィレムの話を詳しく聞くことにした。
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「ハンネス様。
そろそろ屋敷を出ましょう。
ゆっくりと歩いていけば、現場に着くころには丁度、魔族と騎士軍とが衝突している時間帯のはずですからね」
ヴィレムの言葉に、彼――ハンネスは一つ欠伸をして、ベッドで上体を起こした。
ヴィレムの広い邸宅。
その地下にある殺風景な部屋が、ハンネスに割り当てられた個室だった。
一応クレオパスに、ハンネス個人が所有する屋敷――ヴィレムが用意した――もあるが、作戦の決行も近いということもあり、昨晩はこの部屋で眠ることにしたのだ。
ボサボサの黒髪を掻きながら、ハンネスは眠気眼でヴィレムを見据えた。
「……面倒だ。
準備もろくに整っていない段階で、人間に襲撃を掛ける意味があるか?」
「お話ししたでしょう。
戦争の開戦を意味するものですよ」
ヴィレムが口髭を指先で撫でつつ、「それと……」とさらに言葉を加える。
「ハンネス様の存在を世間に知らしめるための、一種のパフォーマンスでもあります。
魔王族であるハンネス様の存在は、人間の行動を抑止する意味においても、魔族の士気を高める意味においても、重要なものですからね」
「それこそ……俺には意味がないように思えるがな」
だがヴィレムがそう言うのなら、そうなのだろう。
まだ短い付き合いではあるが、この男が、情勢を見抜き、それを操作する術に長けていることは、彼も理解していた。
「念のため、騎士軍の存在には注意しておいてください。
魔族の襲撃を迎え打つため、クレオパスの全兵力を正門に注ぎ込んでいるため、杞憂とは思いますが」
ヴィレムの言葉に頷き、ベッドから立ち上がるハンネス。
いつものように、パーカーのフードを被ろうとし、その手を止めた。
もう魔族であることを隠す必要はない。
ハンネスは黒い角と赤い瞳をそのままにして、ヴィレムに従い部屋を出た。
屋敷の玄関を抜けて庭園に出る。
そこは庭園とは名ばかりの、背の低い雑草すら生えていない、茶けた土がむき出しの場所だった。
手入れの手間を省くため、除草剤を撒いているのだと、以前にヴィレムが語っていた。
庭園の周囲は高い塀に囲まれており、塀の上には有刺鉄線が張り巡らされていた。
門扉もまた内側から固く閉ざされ、望まない来訪者を無言に威圧している。
もっとも、それだけの設備を施しても、その効果が望めるのは人間に対してだけであろう。
程度にもよるが、強力な魔族であれば、その塀を跳び越えて敷地に侵入することも、門扉を破壊して敷地に侵入することも、容易いことだ。
だからこそ――
ハンネスは、庭園にその女がいることに、驚くことはなかった。
「残念。
出てきてしまったか。
屋敷に放火して炙り出してやろうと思ったんだがな」
女が唇をニヤリと曲げてそう言った。
ヴィレムの眉間に深い皺が寄る。
「……どうして貴方がここに?」
「当ててみろよ。
今度こそ飴ちゃんを獲得できるチャンスだぞ」
女の軽口に、ヴィレムが表情を険しくする。
小さく溜息を吐くハンネス。
庭園の中心に立つ女を視界に映しながら、彼はゆっくりと足を踏み出した。
「……忘れ物を取りにきた……というわけでもないだろうな」
「借りたものを返しにきたんだ」
「律儀で結構だが……覚えがない」
「そっちになくても、こっちにはあるんだ」
庭園に風が抜けた。
女の腰まで伸びた薄紅色の髪と、ローブに似た花柄模様の奇妙な衣服が、風に揺れて大きくはためく。
その揺れが丁度収まった時――
女が腰に下げた剣の柄に手を触れた。
歩く足を止めるハンネス。
女との距離は五メートル。
一息には踏み込めないギリギリの距離。
剣の柄に掛けられた女の手に意識を向けつつ、ハンネスは口を開いた。
「……お前は無関係だ。
なのに、なぜ戦う」
「決まっている……プライドのためだ」
女が、その眼帯に隠れていない左碧眼を鋭くし、黒塗りの鞘から剣を引き抜いた。
根元から切断された片刃の剣。
ハンネスに切断面を突きつけるように剣を構え、女が――
サクラ・トドロキが言い放つ。
「私を舐めた奴は――誰であろうと叩き潰す」




